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「ノート:ヨーロッパにおける政教分離の歴史」の版間の差分

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ぽてから (会話 | 投稿記録)
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*{{コメント}} 2次3次の文献から確認できたのは、やはり、現状、この記事は独自研究の状態でしかないってことですよね。中立的な観点を守って書かれればそれなりになる可能性はあるのに、これは絶対だ、と100%信じ込まれて、学説を学説として書かないなど書き方の問題も大きいんですよ。内容整理についてですが、まず、合意形成できそうな近現代の移動と、古代を中心とした無出典箇所の除去等、できるところから始めるほうが手っ取り早そうですね。現時点では完全に独自研究なんですけど、余計なところをそぎ取らないと議論がしにくいです。冒頭部からして、「政教分離の歴史(せいきょうぶんりのれきし)では、歴史学的知見に基づき、政治社会と宗教の関係性の歴史、とりわけヨーロッパの国家とキリスト教の関係史を中心に概観する」ってどう考えてもおかしいですよね。「ヨーロッパの国家とキリスト教の関係史を中心に」っていうか、キリスト教の教会と国家の関係性以外のことは不要じゃないんですか。だいたい、政教分離を論じる際に、教会成立以前のイエスやパウロの思想から記述する必要も全くないですし。まず、政教分離原則関連は移動、出典なしは除去、という内容整理を優先させて、残ったところをどうするかって議論にしませんか。そうすれば、[[政教分離の歴史#近代社会とキリスト教(1500年~1800年)]]は[[宗教改革]]との重複でしかないことがわかりやすくなるでしょう。--[[利用者:ぽてから|ぽてから]]([[利用者‐会話:ぽてから|会話]]) 2017年3月5日 (日) 08:45 (UTC)
*{{コメント}} 2次3次の文献から確認できたのは、やはり、現状、この記事は独自研究の状態でしかないってことですよね。中立的な観点を守って書かれればそれなりになる可能性はあるのに、これは絶対だ、と100%信じ込まれて、学説を学説として書かないなど書き方の問題も大きいんですよ。内容整理についてですが、まず、合意形成できそうな近現代の移動と、古代を中心とした無出典箇所の除去等、できるところから始めるほうが手っ取り早そうですね。現時点では完全に独自研究なんですけど、余計なところをそぎ取らないと議論がしにくいです。冒頭部からして、「政教分離の歴史(せいきょうぶんりのれきし)では、歴史学的知見に基づき、政治社会と宗教の関係性の歴史、とりわけヨーロッパの国家とキリスト教の関係史を中心に概観する」ってどう考えてもおかしいですよね。「ヨーロッパの国家とキリスト教の関係史を中心に」っていうか、キリスト教の教会と国家の関係性以外のことは不要じゃないんですか。だいたい、政教分離を論じる際に、教会成立以前のイエスやパウロの思想から記述する必要も全くないですし。まず、政教分離原則関連は移動、出典なしは除去、という内容整理を優先させて、残ったところをどうするかって議論にしませんか。そうすれば、[[政教分離の歴史#近代社会とキリスト教(1500年~1800年)]]は[[宗教改革]]との重複でしかないことがわかりやすくなるでしょう。--[[利用者:ぽてから|ぽてから]]([[利用者‐会話:ぽてから|会話]]) 2017年3月5日 (日) 08:45 (UTC)
::なんていうか全然わかってないですよね。まず独自研究の方針文書は信頼すべき文献からの記載を独自研究から明確に除外しており、認めております。そのうえで学説として書かない云々については、「政教分離の歴史(せいきょうぶんりのれきし)では、歴史学的知見に基づき、政治社会と宗教の関係性の歴史、とりわけヨーロッパの国家とキリスト教の関係史を中心に概観する」という記述が、要はここに書かれている内容は歴史学的な学説に基づいて歴史を述べるんですよという意味です(この日本語難しいでしょうか)。「政教分離を論じる際に、教会成立以前のイエスやパウロの思想から記述する必要も全くないですし。」についてはすでに[[利用者:ぽてから|ぽてから]]さんの個人的感想でしかありません。要はぽてからさんの意見は一言で言うと「根拠はないけど、なんか独自研究だと思う」という個人的感想でしかなく、記事の発展に何ら資するものではないと思われます。さすがにここまで方針文書を恣意的に解釈されてしまうと、私としては呆れるしかないというところではあります。ほかでも類似の議論を展開していらっしゃるようですが、ご自覚なさっていらっしゃいますでしょうか。[[宗教改革]]との重複うんぬんとかについては文献的な裏付けも全く示されておらず、もはや何を言ってるのかわからないというのが私の述懐です(宗教改革が1800年まで続いていたと言いたい?以前はグレゴリウス改革を宗教改革に含めるというような別の奇抜な主張をしていらっしゃったと思いましたが、変わりました?)。--[[特別:投稿記録/2001:268:C068:D7DE:30BD:B412:7D0D:9527|2001:268:C068:D7DE:30BD:B412:7D0D:9527]] 2017年3月5日 (日) 09:07 (UTC)
::なんていうか全然わかってないですよね。まず独自研究の方針文書は信頼すべき文献からの記載を独自研究から明確に除外しており、認めております。そのうえで学説として書かない云々については、「政教分離の歴史(せいきょうぶんりのれきし)では、歴史学的知見に基づき、政治社会と宗教の関係性の歴史、とりわけヨーロッパの国家とキリスト教の関係史を中心に概観する」という記述が、要はここに書かれている内容は歴史学的な学説に基づいて歴史を述べるんですよという意味です(この日本語難しいでしょうか)。「政教分離を論じる際に、教会成立以前のイエスやパウロの思想から記述する必要も全くないですし。」についてはすでに[[利用者:ぽてから|ぽてから]]さんの個人的感想でしかありません。要はぽてからさんの意見は一言で言うと「根拠はないけど、なんか独自研究だと思う」という個人的感想でしかなく、記事の発展に何ら資するものではないと思われます。さすがにここまで方針文書を恣意的に解釈されてしまうと、私としては呆れるしかないというところではあります。ほかでも類似の議論を展開していらっしゃるようですが、ご自覚なさっていらっしゃいますでしょうか。[[宗教改革]]との重複うんぬんとかについては文献的な裏付けも全く示されておらず、もはや何を言ってるのかわからないというのが私の述懐です(宗教改革が1800年まで続いていたと言いたい?以前はグレゴリウス改革を宗教改革に含めるというような別の奇抜な主張をしていらっしゃったと思いましたが、変わりました?)。--[[特別:投稿記録/2001:268:C068:D7DE:30BD:B412:7D0D:9527|2001:268:C068:D7DE:30BD:B412:7D0D:9527]] 2017年3月5日 (日) 09:07 (UTC)
{{コ}} 宗教改革が1800年まで続いていたとかいつ言いましたか? [[グレゴリウス改革]]を[[宗教改革]]に含めるなど言った覚えはありませんね。そのあたりは基本的に、[[グレゴリウス改革]]と重複記事になってるだけで出典もあまりないので除去で良いだろうと思って言及してなかっただけです。まあ、出典なしは除去してから、内容の話をしましょう。今の状況ですと、この記事は独自研究で削除したほうがいいくらいなんですよね。「政教分離における歴史学的視座」なんて節名で加筆された時点で、内容もあわせて完全に独自研究なわけなんですよ。
{{Quotation|
[[WP:NOTTEXTBOOK|ウィキペディアはマニュアル、ガイドブック、教科書、学術雑誌ではありません]]

ウィキペディアは百科事典的な参照資料であって、教科書ではありません。ウィキペディアの目的は事実の提示であって、主題について教えることではありません。}}
「政教分離における歴史学的視座」をいきなり持ってこられたことで、完全に「歴史学的視座」について教えるぞという内容になってしまってますよね。そうではなくて、このような学説がある、と学説を紹介(事実の提示)するのが、Wikipediaなんですよ。独自研究という概念を独自に解釈されているためだと思いますが、百科事典ではなく、教科書か学術レポートの一種になってしまってますよね。歴史学の課題レポートとして、この内容を提出されたら及第点を取られるくらいに良く書けているとは思うんですけど、百科事典的とは到底言えないという、この違い、わかっていただけませんかね? 「政教分離における歴史学的視座」などについては、編集対応によって百科事典的にできればいいんでしょうが、2001:268:C068:D7DE:30BD:B412:7D0D:9527さんが、独自研究ではなく中立的な観点に書き直すことができるかどうかにかかってますね。このままであれば、ケースEで削除依頼提出とするしかないでしょう。[[Wikipedia:ウィキペディアは何ではないか]]も読まれてください。内容整理に関するコメントからズレてきてるみたいですが、まず、「政教分離原則関連は移動、出典なしは除去」をするだけで、わりとスリムになるんじゃないですかね。まずはじめに集中的に「政教分離原則関連は移動、出典なしは除去」を行うべき、ということについてコメントされてませんが、反対する理由はありませんでしょう?--[[利用者:ぽてから|ぽてから]]([[利用者‐会話:ぽてから|会話]]) 2017年3月5日 (日) 14:12 (UTC)

2017年3月5日 (日) 14:13時点における版

分割を差し戻しました

IP氏による恣意的な分割を差し戻しました。--2001:268:C033:3FA3:95E9:36C2:3E32:571A 2016年12月23日 (金) 05:36 (UTC)[返信]

  1. 分割にあたって議論や合意形成がなされた痕跡がありません。
  2. 記事としては一貫性があり、分割する理由がないように思われます。
  3. 政教分離は「Separation of church and state」の訳語であり、その意味には制度と思想が含まれます。分割前の記述は教会と国家の分離の歴史記述としては思想・制度両面に及んでおり、網羅的ではないものの、いまのところ妥当なように思われます。
  4. 分割後の記事で新規作成のものに単純な事実誤認が確認しただけでも相当数あるように思います。記事内容が適切に分割されていないようです。分割の議論も分割先記事との整合性も含めて丁寧に検討された形跡がありません。
  5. 技術的な問題として、明らかにおかしな出典箇所があったので確認したところ出典情報が正しく継承されていないようです。修正する必要がありそうです。
  6. IP氏はかなりの記述を出典不明やエッセイ的であるとして削除しているようですが、その選択は恣意的なように思われます。「要出典」タグの利用やノートでの議論などが行われていないようです。正教会の記述を削除するのは政教分離の本来の意味からも明らかに問題があるように思われます。
  7. 言語間リンクは英語版「中世の国家と教会」とのリンクになっており、分割前の記述の方が内容的にも妥当に思われます。記述に一貫性があると思われることから、むしろ分割より改名がよさそうな気がします。

以上の理由から分割を不適当とし、差し戻しを行いました。--2001:268:C033:3FA3:95E9:36C2:3E32:571A 2016年12月23日 (金) 10:24 (UTC)[返信]

  • #項目一部転記提案にてWikipedia:ページの分割と統合に準じて転記をしました。反対意見が表明されなかったので実行しました。よって、痕跡がないとは偽りです。
  • Wikipedia:過剰な内容の整理Wikipedia:独自研究は載せないWikipedia:出典を明記するに準じて推敲し、整理しました。2001:268:c03a:1d57:d5eb:838f:d3fa:ab42氏の差し戻しでは出典のない独自研究が復帰され、私が出典を明記した箇所を削除しています(例えば、世界大百科事典「政教分離」を出典にした冒頭箇所)。出典を示す責任は掲載を希望する側にあります。そこには「信頼できる情報源を欠く編集は、除去されるのもやむを得ません」とあり、ノートへの移動も提案されています。参考文献も実際に使用されたのか、関連文献ではないでしょうか。脚注を用いて出典として利用してください。なんでもかんでも「関連があるから」と掲載するのは不適切です。Wikipedia:ウィキペディアは何ではないかの「学術雑誌ではありません」では、「ウィキペディアの記事を、読者がその主題の分野に精通しているという前提で書いてはなりません。」とあり、これにも準じましたし、「政教分離の歴史」という題の記事で、西欧キリスト教の概説や宗教改革の変遷を書きすぎです。全文にわたって、「政教分離の歴史」との関連を示す根拠となる出典を提示してください。他の記事への執筆も検討してください。
  • 「単純な事実誤認」「おかしな出典箇所」などはどの箇所のことか明示してください。
  • IP:110.132.106.234 氏の2016年12月18日 (日) 04:48および 2016年12月20日 (火) 18:02‎ の差し戻し、2001:268:c03a:1d57:d5eb:838f:d3fa:ab42氏の 2016年12月23日 (金) 05:32‎の差し戻しも、ノートで提案されたうえで実行されていません。ノートでの提案は差し戻し後の2016年12月23日 (金) 10:24 (UTC)に書かれています。
  • 英語版のen:Church and state in medieval Europeは13,441バイト程度の記事で、日本版の48万バイトの分量に対応していません。一つの記事として内容が過剰で、整理すべきです。
  • 正教会の事情は、政教分離の歴史と関係があるとする出典がありません。出典がないので、独自研究とみなすほかありません。復帰するならば、出典を提示してください。また、完全に削除したのでもありません。

以上のように問題点が何一つ改善されていないので、差し戻します。--121.107.209.16 2017年2月21日 (火) 05:01 (UTC)[返信]

本記事の内容は膨大ですので、まず121.107.209.16さんが問題点を一つずつ整理して提示してください。節ごとに内容を吟味して添削・加筆修正を行うのが適切と思われます。それぞれの箇所で121.107.209.16さんの分割の問題点、分割後の記述の不適切さ、出典の誤記問題などについて逐一確認するのがよいでしょう。とりあえず記事内容を差し戻しました。本記事は良質な記事に選定されていますし、出典も明記されております。独断で記事を編集するのではなく、記事内容の充実のため、協力が必要です。まずは節ごとに適宜議論して推敲していきましょう。--2001:268:C068:DEE0:C121:6510:9BAF:29CE 2017年2月21日 (火) 06:55 (UTC)[返信]
それと議論をスムーズに進めるために、本記事のテーマにおいて121.107.209.16さんが全体の見通しとして真っ先に参照すべき、中心をなすと思われる文献がありましたら、提示してください。それを踏まえて記事内容を吟味できればスムーズになると思います。--2001:268:C068:C53C:F98A:607:E89D:DD9F 2017年2月21日 (火) 07:15 (UTC)[返信]

私の指摘に回答してください。出典のない文章は独自研究です。ウィキペディアは独自研究を掲載する場所ではありません。冒頭の「政教分離の歴史では、政治社会と宗教の関係性の歴史、とりわけヨーロッパの国家とキリスト教の関係史を中心に概観する、このように限定することの根拠は「基本的な視野」で詳しく記述する。なぜヨーロッパの国家としてビザンツ帝国が除外されうるかについても同様。基本的には森安達也の『近代国家とキリスト教』の理論枠組と観点に基づく。」でさえも、森安達也の『近代国家とキリスト教』を用いて「政教分離の歴史」を書くこと自体が独自研究であり、情報の合成です。自分でも認めているように、「キリスト教と国家」の記事を作るか、キリスト教史関連の別の記事で書くべき内容です。「基本的な視野」以下、出典のないものは削除対象です。信頼できる記述なのか、検証ができません。出典を示す責任は掲載を希望する側にあります。--121.107.209.16 2017年2月21日 (火) 08:17 (UTC)[返信]

世界大百科事典「政教分離」項目によれば、「政教分離の画期としては叙任権闘争宗教戦争フランス革命がある」。そして、この説明は一般的にも理解されているものです。森安達也の『近代国家とキリスト教』を用いて古代から中世の関連国について書こうとすること、そしてそれを「政教分離の歴史」記事で書くこと自体が独自研究であり、不適切です。「政教分離の歴史」では、政教分離の歴史について書くべきです。文中で使用される語句について、古代からの歴史的変遷をすべて述べていくような態度は不適切です。「政教分離の歴史」について知りたい読者・閲覧者のことを配慮してください。自分の歴史認識を演説しないでください。--121.107.209.16 2017年2月21日 (火) 08:26 (UTC)[返信]

まず基本的なこととして、この記事のメインテーマは森安達也さんの『近代国家とキリスト教』に依拠している(と書かれていますので、その)ように思われます。また政教分離は「(Separation of)Church and state」の訳語ですから、森安さんの著作が「国家とキリスト教」についてのものであるならば、一応その見通しは正しいかもしれないと推測できます。そして記事は出典を明記しているように思われます。出典のある記述を削除したり分割したりすることはどのようにして正当化されるのか私にはわかりません。また121.107.209.16さんの言い分を読みますと、記事を「国家とキリスト教」に改名すれば問題ないと思うのですが。なぜ分割されたのかわかりませんし、元の記事の出典情報が移動先にすべて移されていないのも問題ではないでしょうか。121.107.209.16さんは記事の記述を移動するときに出典を確認していらっしゃったのでしょうか。そして出典は世界大百科事典というような辞典類の簡単な記述ではなく、お手数ですが、議論の進展のため、まずは121.107.209.16さんの編集に際して依拠した文献を示してくださいますよう。--2001:268:C068:FEA9:E162:C800:96C2:63B8
よりよい「政教分離の歴史」記事にするために、まずは全体の見通しについて121.107.209.16さんが依拠すべきと考える文献を提示してくださいませ。いまのままでは121.107.209.16さんの編集行為はそれこそ独自研究で行っているように思われますから、まずは文献を確認するところから始めませんか。--2001:268:C068:FEA9:E162:C800:96C2:63B8 2017年2月21日 (火) 08:37 (UTC)[返信]

まったく正しくないです。森安本はキリスト教と国家との関係について書かれた本であり、政教分離の歴史として書かれたものではありません。記事を「国家とキリスト教」に改名すればいいといいますが、それも不適切です。「政教分離」について、叙任権闘争宗教戦争フランス革命以降の世俗化までを概観していている記事は必要です。世界大百科事典は出典として有効です。出典を示す責任は掲載を希望する側にあります。出典を提示できないなら削除された版を復帰することに明確に反対します。また、過去ログ1を見ると、問題となっている版を書いたとおもわれるKanbun氏による版(2001:268:C068:C53C:F98A:607:E89D:DD氏が差し戻している版もこの版なので、以下、Kanbun版と称します)についての議論でも、分割提案や長過ぎるという意見について差し戻しが繰り返されています。しかし、私は単に長過ぎるだけでなく、そもそも、この記事内容を書く場所としてこの記事は不適切であると指摘しています。したがって、Kanbun版は膨大な独自研究といえます。出典を明記するとは、自分の知っている参考文献のタイトルを並べることではありません。--121.107.209.16 2017年2月21日 (火) 08:45 (UTC)[返信]

私には121.107.209.16さんの論理は成り立たないように思われます。分割提案や長すぎるという点にはやはりどうしてそれが長すぎるのか、適切な形にすればどうすればよいかという議論が発生しますし、そこで個人の独自な視点の押し付け合いになってしまうのは問題があります。そのためウィキペディアでは中立的な観点と出典の明記という規則があり、それに則って折り合いをつけるべきではないでしょうか。方針文書はそのように推奨していると思われます。したがって、まずは文献情報を交換し、個々の節単位でその内容の妥当性を吟味すべきではないでしょうか。また政教分離というのは国家とキリスト教を代表とする宗教団体の分離をまずいい、121.107.209.16さんのおっしゃっているのは「世俗化」とか「世俗主義」と言われるもののように思われます。そして周知の通り、ヨーロッパでは政教分離の歴史はまずキリスト教と世俗権力の関係性の問題とその分離という方向で決着したのであり、政教分離の歴史は国家とキリスト教の関係史であることは自明だと思われるのですが(この点について文献をあげろと言われればいくらでもあります、たとえば欧州中世史では山田欣吾『教会から国家へ』)、121.107.209.16さんはどんな文献に依拠して議論をなさっているのでしょうか。--2001:268:C068:FEA9:E162:C800:96C2:63B8 2017年2月21日 (火) 08:55 (UTC)[返信]


そもそも、政教分離の歴史で、米国における展開も非常に重要なのです。古代、中世の制度と諸国家の詳細な説明よりも、政教分離の歴史について、一般の読者に理解できるように書く努力をしてください。たとえば、

などを参照して書くべきで、森安達也『近代国家とキリスト教』も該当箇所について参照することに反対しませんが、古代〜中世〜近代国家とキリスト教の通史をこの記事で書くことには明確に反対します。「政教分離」の歴史であって、キリスト教と国家の関係史は別の記事で書くべきです。--121.107.209.16 2017年2月21日 (火) 09:00 (UTC)[返信]

根本的な問題として以上の論考は近代以後のものであり、近代以前を対象としていませんよね。しかしながら、一般にヨーロッパの政教分離の歴史は古代キリスト教思想と絡めつつ、中世以来の国家とキリスト教の合体と分離、その結果として国家が世俗化されて近代国家は生じてくるという国制史的視点に長い伝統があります。その点についてなぜ政教分離の歴史で扱うべきでないかという点について、全く文献的なフォローがされていないのは問題です。これは歴史学的には常識ではないかと思われるのですが、どうでしょうか。そしてそもそも121.107.209.16さんは分割時には必ず必要となると思いますが、この記事の挙げる文献を確認していらっしゃるのですか。--2001:268:C068:FEA9:E162:C800:96C2:63B8 2017年2月21日 (火) 09:06 (UTC)[返信]

詭弁ですね。政教分離原則は近代社会の世俗化のなかで展開したもので、3論文の通りです。古代や中世の話は、直接は関係ありません。ご自身でも認めるように「キリスト教と国家」記事を新たに立項されて、そちらに移動転記されてはいかがでしょうか?この記事では、私は近代以降、宗教改革以降で十分と思っています。現状の説明は程度の低いものでありますが、むやみに読者を混乱させるKanbun版よりはましです。--121.107.209.16 2017年2月21日 (火) 09:12 (UTC)[返信]

そうではありません。近代国家は国家の世俗化によって生じたものであり、その過程こそが政教分離であるというのは国制史の常識です。山田欣吾『教会から国家へ』の冒頭だけでも立ち読みしてください。そこに答えが書いてあります。ほかにも文献はいくらでもありますが、大学図書館であれば必ずあるのでそれを確認するのが一番簡単です。詭弁とののしられても121.107.209.16さんの主張は文献的な裏付けがない以上、ウィキペディアでは独自研究です。--2001:268:C068:FEA9:E162:C800:96C2:63B8 2017年2月21日 (火) 09:16 (UTC)[返信]

「近代国家は国家の世俗化によって生じたものであり、その過程こそが政教分離である」と書いてあるなら、何頁に書いてありますか?引用して説明してください。しかし、そうした見解があるとしても、それは政教分離の記事で定義の一説として書くべきでしょうね。文献的な裏付けがないのはKanbun版です。中世国家論争ヨーロッパ中世国家などを立項するのも検討してみてください。--121.107.209.16 2017年2月21日 (火) 09:24 (UTC)[返信]

1ページ目に書いてあります。そもそも議論の出発点ですので、ぜひ確認してください。私はこの記事の著者でないので文献はすべて確認しておりませんが、おおむね過去に読んだことのあるものがほとんどです。その観点から言うと、少なくとも国制史的な視点はよく盛り込まれていると思われます。歴史記事の議論なのに、どうも議論が歴史学的な話になっていません。政教分離の歴史を編集したり分割したりしようと思うのでしたら、まず文献の確認はすべきだと思います。そして中世国家論争やヨーロッパ中世国家という記事を書くとなればより社会史的視点も必要になると思われますから、現状の内容にそぐわないと思われます。とにかく文献を確認していないのならば、確認するところから始めませんか。--2001:268:C068:FEA9:E162:C800:96C2:63B8 2017年2月21日 (火) 09:27 (UTC)[返信]
引用もできないのですか。困ったものです。そういう見解があったとしても中世西欧諸国家の変遷について細部にわたって書きすぎて、全体が見えなくなっており、その結果、「政教分離の歴史」について有益な情報が提供されていません。どのような歴史の説明がいいか。たとえば、前掲井上修一論文の冒頭では「オットー一世がローマ教皇ヨハネス 2世により神聖ローマ帝国皇帝に戴冠されて以来ヨーロッパはキリスト教に統一された世界国家の様相を呈した。神聖ローマ帝 国の最盛期には、キリスト教会は全欧州の三分の一の土地を領有し、ときには教皇が皇帝や 君主叙任権をもつほど世俗的権力が強大であった。中世末になると宗教改革や初期資本主義 の進展によってローマ教会の権威は失墜し、教会権力と国王権力が対立抗争することになっ た。近世に入り国王権力は教会権力を封じ込めて絶対君主制を樹立したが18 〜 19世紀の革命によって決定的に崩壊し、次々と近代自由主義国家が誕生したのである。このような教会 権力と国王権力の激しい対立・抗争の歴史を経て自由主義思想が生まれ、教会の世俗的支配を徹底的に排除する政教分離の原則や市民の信教の自由・思想の自由が人権宣言や憲法で保 障された」と解説されています。この概説に異論はありますか?ここの記事もこれくらい簡潔に説明されるべきです。「神聖ローマ帝国」が文中で登場したからといって、神聖ローマ帝国の歴史全てを説明しようとするKanbun版は間違っているし、不親切であり、読者のことを一切配慮しないし、政教分離の歴史についての理解をむしろ妨げるものでしょう。--121.107.209.16 2017年2月21日 (火) 09:42 (UTC)[返信]
まず神聖ローマ帝国の国制史には長い伝統があり、神聖ローマ帝国は当初から近代的な国制を整えていたわけではありません。ハインリヒ2世によって一応の制度的成立を見る選挙王制・帝国教会政策から叙任権闘争、シュタウフェン朝による進展があり、神聖ローマ帝国の長い歴史を一言で説明するのが政教分離の「歴史」記事とはとても思えません。神聖ローマ帝国の歴史そのものが一つの政教分離史といってもよいくらいですよね。なんていうか121.107.209.16さんは政教分離をただ単に近代に限定したいように思われます。それならばいっそ近代以後の「国家による宗教政策」みたいな記事を作った方が早くありませんか?細かい内容についてはこれから精査するとして、この記事の分割にこだわる理由が見えてこないのですが。提示された論文も政教分離の伝統が中世にさかのぼることは自明に論じてますし、政教分離の歴史を近代に限るべきという文献的な裏付けもないですよね?--2001:268:C068:FEA9:E162:C800:96C2:63B8 2017年2月21日 (火) 09:48 (UTC)[返信]
コメント 双方落ち着いてください。今3RR違反で1日ブロックにしていますので明日のこの時間まで編集しないでください。IPアドレスが切り替わったからといってノートを含めて編集してはいけません。
あと、分割についての合意ですが多数のページに影響与える提案になるため告知が不十分とも考えられます。コメント依頼を活用するなりして一度「分割前の状態」を出発点としてコメントを募ってください。--アルトクール会話2017年2月21日 (火) 10:00 (UTC)[返信]

まず政教分離の歴史の枠組みについて合意しましょう

まずお互いの誤解や不一致を克服するために、政教分離原則の成立に関する通説的理解を確認しましょう。おそらく以下の点については双方全く問題なく合意できると思います。政教分離原則の成立についての論点は多岐にわたりますが、大きく整理して3つに集約されるというのはおそらく異論は無いもののと思います。政教分離が以下の通説的理解に基づくべきことは合意できると思います。 一つ目は、アウグスティヌス/ゲラシウス→ルターという二国家論の政治思想とテオクラシーの発展という思想史的背景に、 現実社会ではカロリング朝期の統治構造・財政における政教一致から中世を通じてそれぞれの領域と財政・統治機構の独立と棲み分けがおこなわれ、叙任権闘争を通じて神聖王権としてのあり方を否定され、ローマ法的君主権に自らを位置づけた皇帝権、一方で同時代周辺国家に形成された教皇権とも皇帝権とも異なる固有の王権理念などを見ながら、近世には宗教改革の進展に伴って領邦の宗派国家化の進展、アウクスブルクの宗教平和に至っての信教の属地主義の採用、ヴェストファーレン条約の結果としての信仰の内面化と政治秩序の世俗化(つまり国制上の政教分離)というような国家の世俗化過程を見ていくものがあります。現況の日本のドイツ国制史においては山田欣吾『教会から国家へ』の枠組みが基本的にはつねに参照されており、五十嵐修さんの『王国・教会・帝国―カール大帝期の王権と国家』や千葉敏之さんの一連の神聖王権に関する研究もこの流れに沿っています。一方で関連して神の平和運動に関する膨大な研究とそれを権力構造と結びつける研究があります。同時に教皇庁の側についてはどちらかといえば叙任権闘争や両剣論を中心としたテオクラシーに関する論考が膨大にあり、理念史に傾いていた感がありましたが、実体としての教皇庁については個別に統治機構を詳しく論じた藤崎衛さんの『中世教皇庁の成立と展開』が最近現れました。 二つ目は、中世におけるユダヤ人問題やロマ、周辺異教徒への伝道、イスラム教との関係からロックの近代的寛容論にいたるまでの寛容というキーワードで読み解く宗教社会史の立場があります。後期中世から近世に関しては宗教改革とそれに伴う、宗教戦争とナントの勅令などが画期と見なされており、ドイツ国制史とは別個にフランス国制史やガリカニスムなどと結びつけられ、ロック寛容論の流れを組む英米政教分離、フランス式ライシテまで射程が広がってきます。関連して、まず古代のキリスト教迫害問題とローマ帝国の対応を緻密かつ体系的に論じた保阪高殿さんの論考群が原点として重要で、つぎにキリスト教社会をこえた対象であるために周辺的ながら新井政美さんによる『イスラムと近代化 共和国トルコの苦闘』という示唆に富む優れた著作があります。 三つ目は、政治的正当性をキリスト教的な政治神学の流れに位置づけ、ホッブズによる主権論の世俗化を画期とする政治秩序の正当性論にキリスト教神学の根強い伝統を論じるとともに、一方で統治思想における世俗化を論じて、ナチズムまで射程に引き入れる政治哲学に関する研究です。エルンスト・カントローヴィッチの『王の二つの身体』、カール・シュミットの政治神学的論考群、レオ・シュトラウスなどが論じられます。最近この分野ではジョルジョ・アガンベンが『王国と栄光』で既存の政治神学的枠組み自体を問い直すような、注目すべき留保をつけていることが知られています。 以上の三点の他に、実際には無神論という思想潮流が潜在的にありますが、これは政教分離の歴史としては共産主義的無神論が現れる近現代までは主流とはならないので、基本的には無神論の歴史として別個に扱われるのが普通と思われます。これについては邦語ではG・ミノアの浩瀚な通史が便利です。 以上の細かい論点はほとんどすっ飛ばした、ざっくりとした概略については最近の細かな地域研究の広がりなどをとりあえず無視したうえで、通説に属するものとして、19世紀以来の長い歴史学研究の伝統にも則り、政教分離の歴史というものを書くならば、骨子としてまず第一に採用されるべきであるという点に関してはとくに問題が無いように思われますが、どうでしょうか。--2001:268:C068:D55F:9592:9341:968:C0AC 2017年2月22日 (水) 10:05 (UTC)[返信]

問題ありすぎです。ヨーロッパ国制史(Verfassungsgeschichte)という記事ならいいですかれど、「政教分離の歴史」からフランス革命やアメリカ合衆国の記述を削除する理由にはなりません。--121.107.209.16 2017年2月22日 (水) 14:47 (UTC)[返信]

政教分離について、文献を挙げて批判してください。121.107.209.16さんは歴史学とは直接関係のない法学の論文の、それも国制史が論じてきた政教分離の伝統的な本論とは異なる各論しか挙げていません。いまだに歴史学的文献を挙げていません。繰り返します。まずは歴史学的文献を挙げてください。現状では全く理由が示されておりません。--2001:268:C068:E925:7DF7:B60F:B2F7:8CF8 2017年2月22日 (水) 14:53 (UTC)[返信]
文献をいくつも挙げて批判しています。文献は以下の分割提案で上げています。貴殿は他者の発言を理解しようとしないだけです。偽りはやめてください。2001IP氏自身が、なぜこのような構成になっているのか、その関連の出典を示さず、「これは常識だ」「本を読んだのか」などと聞きますが、出典がきちんと表示されている箇所を私は削除していません。出典を明示して執筆したり、フランス憲法や米憲法などを削除する貴殿と一緒にしないでほしい。--121.107.209.16 2017年2月22日 (水) 15:30 (UTC)[返信]
これ、議論になってないですよね。通説的理解に基づいて本論をまず確認しようという話なのですけれども、各論の、それも分野の違う法学・法解釈の文献を挙げて、そのうえで一般に受け入れられていると思われる通史的な枠組みを提示しても、それに対して真っ正面から反論することもなく、一部の記述を削除したとかしないとか議論の推移と直接関係のないことを持ち出して、本論とは関係のない理由で相手の論理を全否定する。正直この調子では議論が成り立たないですよね。基本的な事柄についても普通に共通認識を形成することは出来ないのですか?--2001:268:C068:CA0A:3CC3:E4AE:9EA7:71A8 2017年2月22日 (水) 16:44 (UTC)[返信]

「世俗化」「宗教改革史」への分割提案と出典の明記のお願い

アルトクール氏より以前の分割提案も不十分という指摘もあるので分割を再提案します。

政教分離原則は近代において法制化されたものです。2001:268:C068:D55F:9592:9341:968:C0AC(以下、2001IP氏)が不当に削除した、1789年のフランス人権宣言第10条、1905年「教会と国家の分離に関する法律」(Loi de séparation des Eglises et de l'Etat) が代表的な例です。「近代に限定せよ」といっているのではなく、「近代以降の歴史を説明すべき」です。

また、世界大百科事典「政教分離」項目によれば、政教分離の画期は叙任権闘争宗教戦争フランス革命。また、井上修 一「フランスにおける政教分離の法の展開」によれば、

  • オットー世がローマ教皇ヨハネス 2世により神聖ローマ帝国皇帝に戴冠されて以来ヨーロッパはキリスト教に統一された世界国家の様相を呈した。神聖ローマ帝国の最盛期には、教会は全欧州の三分の一の土地を領有し、教皇が皇帝や君主叙任権をもつほど世俗的権力が強大であった。
  • 宗教改革や初期資本主義の進展によって教会の権威は失墜し、教会権力と国王権力が対立抗争した。
  • 近世に国王権力は教会権力を封じ込めて絶対君主制を樹立したが、18 〜 19世紀の革命によって崩壊し、近代自由主義国家が誕生。教会の世俗的支配を徹底的に排除する政教分離の原則や信教の自由・思想の自由が人権宣言や憲法で保障された。

この三点を骨格にするといいでしょう。趣旨はこの程度にしておくべきで、近代以前の歴史も「前史」として説明があってもいいですが、中世諸国家における変遷を逐一ここで説明するのは本末転倒で、過剰な内容となっており、バランスも含めてよくない状態です。2001IP氏が固執するKanbun版での、たとえばカロリング・ルネサンスについての記載は「政教分離の歴史」と全く無関係で、不要な箇所です。これも出典なしです。

2001IP氏のヨーロッパ国家形成史への興味はわかりますが、それは「政教分離の歴史」でなく、他の記事にしたらいかがですか、といっているのですし、自分でもそう言っていたではないですか。山田欣吾「教会から国家へ―古相のヨーロッパ」についてですが、これは「西洋中世国制史の研究」であって、いわゆる「政教分離の歴史」についての通史ではありません。ベッケンフェルデの世俗化理論を展開して、カール大帝のフランク帝国などを、「教会としての国家」として論じたものです。そのベッケンフェルデについて新保弼彬「世俗化理論の歴史的展開とその諸相(1)」言語文化論究 (通号 5) 1994では以下のように紹介されています。「領土とその支配権をめ ぐる政治体制史の視点からではなく、先ず既定の政治的・宗教的統一世界から離脱し,次いで世俗性を帯びた(いわゆる政治的な)目的設定の普遍化へと向かい,やがては政教の分離にまで発展していく歴史的世俗化の過程を視野に入れながら近代国家の成立を論じた」と。そしてまた、世俗化の原理は、政教の分離を可能にするもので、叙任権闘争にも見出される、と。また、山田欣吾の研究は論文「Verfassungsgeschichteについて : W・シュレジンガーと O・ブルンナーの場合」にあるように、Verfassungsgeschichte、つまり国制史の研究であると明記されています。『教会から国家へ』も、西洋中世国制史の研究シリーズと明記され、「初期中世の政治秩序を比較国制史の視点から考察し、国家形成史を宗教的秩序の世俗化過程として構想する」研究とされています。もしこうした紹介文で「政教分離史の視点から考察された研究」と明記されていれば、私は貴殿の主張を認めます。しかし、貴殿は何一つ提示していません。ご自身の解釈のみで、非常に恣意的な解釈にすぎません。kanbun版では「基本的視野」では、山田欣吾やベッケンフェルデらの世俗化理論を説明することなく、また、西洋中世国制史における世俗化理論と、法制史的な意味での政教分離原則との研究史上の関連を説明されていない。また、新保弼彬論文では、ベッケンフェルデの研究は「領土とその支配権をめ ぐる政治体制史の視点」ではない、とされているが、kanbun版は「領土とその支配権をめ ぐる政治体制史」にとどまっています。それは、きちんと世俗化理論が説明がされずに、関連諸国家を悪い意味で「網羅」し、その結果、膨大な量がまとめているものの、果たしてこの記事が何についての記事なのかが不明瞭になっている。

森安達也の『近代国家とキリスト教』を出典に、ともいうが、これも「政教分離の歴史」について書かれたものであると限定されているわけではない。「政教分離の歴史」よりも広い意味での「近代における国家と教会」について書かれたもの。

それだけでなく、歴史的世俗化の過程の結果に、近代の政教分離原則があるとは、すでに挙げた論文でも明らかである。しかし、貴殿は、そうした近代の政教分離については加筆を拒絶し、「近代以後の国家による宗教政策」などの記事に別に書けという。これでは話になりません。現在のkanbun版は、西欧史に詳しくないひとにとっては色々の情報が掲載されており秀逸な記事にも錯覚されますが、近代以降についての説明をしていない点からも、「政教分離の歴史」記事としては劣悪なものです。ただし、「世俗化」「ヨーロッパの中世国家」「中世の国家と教会」(これは貴殿が自ら提案したもの)などの記事としてはいいでしょう。もっと理論的な説明が冒頭であるべきですが。要するに、執筆内容の場所を間違えている。

以上の理由で、kanbun版の世俗化世俗国家などへの分割を提案します。分割箇所は、「2.歴史的展開」の2.2から2.3。2.4まで含めてもいいでしょう。しかし、2.4は宗教改革史宗教改革の歴史として分割する方が適切。

個々の節について、「政教分離の歴史」との関係について出典明記をお願いしても、一向に出す気配もないので、一括で分割提案します。

出典がないことについてすでに何度も指摘しているのに、一向に話を聞きませんが、出典のない構成は、独自研究です。また、不当に削除された記載は復帰します。

「歴史的展開」の「概要」は概要になっていないし、目次です。しかし目次はすでに表示されており、二重に表示することは不要で余計。よって削除を提案します。しかも、出典もない。また[ 目次へ移動する | 概要へ移動する | 先頭へ移動する ]の必要性がないので、表示に反対します。

--121.107.209.16 2017年2月22日 (水) 14:45 (UTC)[返信]

まず政教分離原則と国制史的な政教分離の議論や政治思想史における政教分離論は異なるということを理解してください。正直議論が全くかみ合ってません。そもそも『教会から国家へ』は読まれたのですか?--2001:268:C068:E925:7DF7:B60F:B2F7:8CF8 2017年2月22日 (水) 14:55 (UTC)[返信]
それと気になってしようがないのですが、やたら権威付けされている、この井上修一さんという方はどういう方なのですか?専門は民事法学などとなっていますが。この論文にはどんな研究史的意義があるんです?--2001:268:C068:E925:7DF7:B60F:B2F7:8CF8 2017年2月22日 (水) 15:01 (UTC)[返信]
議論もなにも、なにひとつ他人の見解を聞こうとしていませんよね。「政教分離原則と国制史的な政教分離の議論や政治思想史における政教分離論は異なる」なんて独自研究または演説はしないでください。カロリングルネサンスは書いてもいいが、近代における政教分離原則について書いてはならないとする理由はない。誰の論文であっても、査読体制のある大学紀要論文であれば、出典として使用できます。あなたが好む学者だけが「信頼できる情報源」なのではない。もうこれ以上は無理ですので、コメント依頼します。--121.107.209.16 2017年2月22日 (水) 15:25 (UTC)[返信]
正直山田欣吾『教会から国家へ』はドイツ中世史プロパーや政教分離論について歴史的な関心がある人なら外せない一冊であり、同書でも指摘されているとおり国制史的には国家の世俗化が近代国家形成であるというのは国制史的には定説で、そのうえさらにこの研究は伝統的な初期中世国制史の議論においての空白を埋めた画期的研究です。そもそも山田欣吾を知らないという時点で政教分離の歴史というかなり壮大な問題を論じられるのか?という疑問があります。そうした歴史学的な背景もなしで突然政教分離においては各論に近いライシテを教科書的に論じているように思える論文を出されて議論されても、そもそもの土台が違いすぎます。はっきり言ってしまえば121.107.209.16さんが繰り返し決定版のように引用している箇所は井上論文の確信でも何でもなく、それこそ辞書的な流れを確認しただけの論文の序詞で、それほど重要な意味のあるものとは思えません。それに対し、『教会から国家へ』は少なくとも後進研究者にとって参照対象である国制史の理論的核を提供している画期的なもので、それは121.107.209.16さんがネット上で見つけてきたと思われる『教会から国家へ』について言及する各種論文にも明らかです。はっきり言ってしまえば、121.107.209.16さん自身が自ら『教会から国家へ』が重要著作であるとはしなくも証明しているにもかかわらず、自分に都合のよい論文や記述を集めて独自に研究をなさっているように思われます。そして今更ながらに気づきましたが、近代以後の記述がないのはおかしいという点については、単に現状の記事に記述されていないだけで近代については加筆すればよいだけではという当たり前の疑問がわいてきます。なんで加筆しないのでしょうか。近代以前に議論を限るという話には今までなっていない気がしますが。正直近代以後を加筆すべきという議論は分割とは関係ないですよね。自らを正当化するために私が発言していないことも私が言ったことにしてませんか?--2001:268:C068:D8C2:51B3:5DC3:D122:8CFE 2017年2月22日 (水) 15:50 (UTC)[返信]
2001IP氏は「近代以降は別の記事に書いた方がよい」といってます。近代以降の加筆は必要です。しかし、加筆したくても、それまでの叙述があまりに長く、長いだけでなく、無意味といっていいほど恣意的で、歴史の説明になっていません。Kanbun版は「山田欣吾にあこがれているファンによるメモ」レベルにすぎませんが、 しかしそれもヨーロッパ国制史、国家と教会史としてのメモであって、「政教分離の歴史」として不適切です。ウィキペディアは山田欣吾ファンでなくても執筆は可能です。これ以上、中世史研究の「常識」などと演説されても、何の関係もないので、無駄です。あくまで、「政教分離の歴史」を書くことに、この記事の改善を考えてみてください。Wikipedia:ウィキペディアは何ではないかをもう一度読んでみましょう。ウィキペディアは情報を無差別に収集する場ではありません。井上論文はインターネットで確認できるから利用しています。2001IP氏は中世の国家と教会と自ら改名提案していましたが、撤回されたのですか?その改名提案が生きているなら、その方向で合意形成に務める方がいいかもしれません。私はそれならば合意できそうです。--121.107.209.16 2017年2月22日 (水) 16:30 (UTC)[返信]
近代以降は別の記事に書いた方がよい」の部分、前後の文脈切り離してますよね?これこそ詭弁というものです。文意を正確にくみ取れば、「近代以後だけに記事を限定したいのであれば、近代以後限定の記事を作って近代以後は別の記事にして書けば良い」という意味であることは明白ですよね?少なくとも私はそういう意味で言っています。そして改名提案もまた一定の文脈での話であり、撤回したとかいう話ではなく、この節ではまず分割するかどうかと出典が正当であるかどうかを問う議論をしているのであって、それに即した議論とは別の話をもってきて論点をはぐらかすのはやめてください。ここではまず井上論文をもし121.107.209.16さんが権威として持ち出すのであれば、それが山田欣吾『教会から国家へ』と比べて出典として適切なのかという点について第一に話し合われるべきであり、さらにその妥当性を吟味した上で分割の是非について問うというのがありうべき議論の形ではないのですか?--2001:268:C068:CA0A:3CC3:E4AE:9EA7:71A8 2017年2月22日 (水) 16:52 (UTC)[返信]
つまり、ここではまず、政教分離の歴史の本論を措定するに当たって、民事法関係の専門家井上論文の冒頭部分に基づいて本論を書くのか、日本のドイツ国制史における画期的業績であり、少なくとも2000年代を通じて国制史の基本文献として参照されてきた山田欣吾『教会から国家へ』のどちらをまず基本文献として採用すべきかという話であり、そこから話を進めないと議論が始まりません。--106.161.160.131 2017年2月22日 (水) 17:00 (UTC)(←追記:なぜか突然回線を変えたわけでもないのにIPが振られたので右の発言は2001:268:C068:CA0A:3CC3:E4AE:9EA7:71A8と同一人物の物であることを補足します。IP戻りました--2001:268:C068:CA0A:3CC3:E4AE:9EA7:71A8 2017年2月22日 (水) 17:04 (UTC)[返信]
どちらも出典として有効です。どちら一つなんてどこのルールですか。出典があれば、明記する。第一に、まずはそれだけです。出典が一ヶ月ほど待って提示されない箇所は削除します。また、分割に反対か賛成かは表明してください。霊性や、イエス、カロリングルネッサンスなどの箇所を出典なしに、政教分離の歴史として執筆するのは強引すぎるでしょう。--121.107.209.16 2017年2月22日 (水) 17:10 (UTC)[返信]

中世だけが歴史ではありません。現代史も歴史です。1989年のフランスのヒジャブ問題なども、歴史的経緯も説明すべきです。しかしその場合、ヒジャブの説明で何万バイトもあったらどうしますか?--121.107.209.16 2017年2月22日 (水) 17:15 (UTC)[返信]

あと根本的なことなのですが、まず現状の版は別に『教会から国家へ』に基づいてませんよね?私はあくまで現状の版は『教会から国家へ』と同じ国制史的視点から構成されているということを指摘しているだけで、現状の版を『教会から国家へ』に基づく形で調整していくのはこれからの話ですよね?つまり、この記事は別に山田欣吾ファンが書いたという話はどこにもなく、ただ単に『教会から国家へ』を読んでも明らかなように、ここで展開されている論理は少なくとも大枠は別に歴史学的知見から非常識なものではないということを言っています。それから論点のすりかえが著しいのですが、まず井上論文の出典としての妥当性を考慮しなければ、それに基づいて現状を間違いだ、分割すべきとする121.107.209.16さんの議論があるので、現状の枠組みは『教会から国家へ』に代表される国制史的見解やその他のすでに挙げた文献に基づけば、分割する必要はとりあえずないという私の議論と決着がつきません。両立可能という話ではなかったはずです。さらに現状の記述が強引かどうかがまさに論点となっているわけで、『教会から国家へ』が出典として有効であるならば、子細の検討はともかくとして、少なくとも記載内容については妥当であるということになり、分割自体問題とならなくなりますよね?ヒジャブの件についてはバイト数を問題にする詭弁ですので、わかっていると思いますが無視します。--2001:268:C068:CA0A:3CC3:E4AE:9EA7:71A8 2017年2月22日 (水) 17:21 (UTC)[返信]
気になったので、「霊性や、イエス、カロリングルネッサンスなどの箇所を出典なしに、政教分離の歴史として執筆するのは強引すぎる」という点については擁護する必要があります。記事の冒頭記述はちょっと説明不足ですが、現在の歴史学研究では霊性と国家の関係というのは国制史的な国家の世俗化や近代国家成立論、信仰の自由成立史などにわたって大きなテーマです。ざっくり今日の歴史学的研究における共通理解のようなものを素描しますと、まず古代世界では国家による殉教とか迫害とかを霊性の問題として教父たちがさかんに論じているんですけど、国家の側から見ると霊性を理由に迫害などしてなくて、治安維持を目的とした政策やまた迫害と考えられている事象の一部は教父が霊性をキーワードに誤解していたキリスト教保護政策などであり、国家は霊性とか信仰なんてもんはそもそも問題にしてないよねっていう保坂先生の画期的研究が出ちゃってて、次にカロリング朝が西ゴートの神政政治(これを神政政治と定義してよいかという問題がありますけど、とりあえず無視します)をモデルにして教会として自らを位置づけて霊性を国家が独占して強力な権威を獲得した(理念の上でも教会と「王国」(regnum この用語は要注意)が一致していたかについては五十嵐氏による議論あり)っていうところからドイツ国制史の議論が始まります。これが中世の始まりで、中世ではキリスト教徒じゃなきゃ基本的に人間として扱われていない社会だったけど実際はどうなの?その場合は近代的寛容論とのつながりはどうなの?って主にイベリアとシチリアなんかの周辺地域を対象にいろいろな研究があり、それが各国の政教関係を中心に読み解かれたりもしています。カロリング朝没落後に一度国家=教会的枠組みが崩れてしまったけど、オットー朝がそれを神聖王権という形で立て直します。でもなんか王権が改革にのめりこみすぎたあと、ハインリヒ3世死後4世が成人するまでの間にある皇帝権力の空白期みたいな時期に、教会改革が進んだこととシチリア王国ができてイタリア情勢が変わったことから叙任権闘争がはじまっちゃって、王権は神聖王権としてのあり方を否定されます。この時点で理論的には霊性と俗性は分離しようって言うのはほとんど常識になったんですけど、実際のヨーロッパの権力構造は教会組織が国家に組み入れられていたので、叙任権だけを解決しても財政や統治機構的な分離はあとまわしになっていたけど、それが教皇庁の機構的整備によって進んでいきます。でもこの時期イギリスとかフランスではキリスト教的な霊性とは別種の、教皇に依存しない血統霊威っていう霊的権威を王権が主張するようになって、これをもとに中世後期から近世になって王権神授説っていうのが主張されるようになります。一方で霊性の国家からの分離が進んでいたドイツでは王権神授説なんてのは王権の権威付けにはとてもならなくて、当時の皇帝権論者はそれを時代遅れで迷信だと罵りつつ、うらやましがっていたりする。この血統霊威の観念はだんだん王個人と引き離されて法学的に修飾されて国体みたいなものになるんですけど、これが王権への反逆と王個人への抵抗を区別する根拠になって民主主義的な抵抗を正当化するものにつながっていく。ドイツでは宗教改革を契機に国制が本格的に世俗化していく。で、議論の中心は中世のキリスト教社会では政治権力の正統性は霊性につねに根拠があったんですけど、世俗国家はそうではない。どうしてそうなるかといえば国制における政教分離と政治思想的な理念における政教分離がこうして同時並行的にからみあいながら進んだからで、そもそも世俗的な国家からの霊性の剥奪という過程がないと、霊性を現世の出来事から区別するという論点は成り立たないというか発想されないのであって、信教の自由とか近代的な寛容論とかも出てこないし、社会的にマジョリティになることはない。だから政教分離原則ができるには先行する政治思想での政教分離と国家機構の政教分離が不可欠であったという議論が基本線。でも実際は各国の歴史的進展には差があって、それが近代社会での各国の政教分離原則の立ち位置の違いにつながっている・・・・・・という歴史学研究の通史のなかでは霊性とカロリング朝と、イエスの思想の政治思想史上の解釈の変遷史というのは中心テーマですし、そこに現状研究が集中しているのは事実ですから分量が多いのは自然だと思います。--2001:268:C068:DACE:4539:3251:E40B:1CF7 2017年2月23日 (木) 07:31 (UTC)[返信]

井上論文の出典としての妥当性を疑うとはどんな意味なのでしょうか。学術論文や百科事典なども出典として有効です。Wikipedia:信頼できる情報源を読んでください。その上で、井上論文が情報源として無効であることを証明してください。「政教分離の歴史」は中世史学者の文献しか使えないわけではない。ウィキペディアは演説台ではありませんので、編集に関係のない現在の研究の動向などの話はしないでください。あなたの個人的かつ主観的な評価をいくら演説しても説得力はゼロです。政教分離原則の前史について、演説は結構ですので、出典を明記してください。分量が多いのは「自然」ではないです。近代以降の記載が同量の分量あれば、バランスはとれるかもしれない。しかし、各国の事情を異常な分量で一つの記事でまとめるのは不適切です。それでしたら、ヨーロッパの政教分離史の概説をここにして、各国の情況は別の記事にしたらどうですか。ウィキペディアはせっかく各記事がリンクされているのですから、それを利用してください。そして、記事を私物化しないでください。自分でサイトを運営なさったらこんな議論(ともいえませんが)しなくて済みます。--121.107.209.16 2017年2月24日 (金) 13:13 (UTC)[返信]

まず井上修一論文は政教分離の歴史についての論文ではないし、そもそも歴史学の文献ですらないでしょう?121.107.209.16さん自身が記事内容に対して出典の有効性の是非などを論じているように見えるのに、ご自身の出典は歴史学分野でもない論文の、それも論文の本論でもない前文部分でよくて、なぜか宗教史の森安達也さんの文献や国制史上の政教分離を論じている山田欣吾さんの文献を信用できないものと断じているのはどういうことなんですか?これを独自研究といわないとすれば何を独自研究というのか私にはわからないほどむちゃくちゃな言い分だし、ここまでの議論ずっとこんな調子で、まともな文献を提示してないじゃないですか。記事を私物化しようとしているのはどちらか明白だと思うんですけど。民事法関係、それも具体的には労働法においてたくさんの業績がある井上修一さんは結局この分野でどういう位置づけにあるのですか。井上さんの論文はライシテについてのもので、政教分離の歴史全体について、何か枠組みを提供しているものではないですよね?これ以上、常識外れの議論を続けるのならば、さすがにコメント依頼など考えざるを得ないですよ?--2001:268:C068:FC51:A409:298D:91E7:14F3 2017年2月24日 (金) 13:30 (UTC)[返信]

山田本などを使用してはならないとはいってません。しかし、それらの本が「政教分離の歴史」として古代中世から中世諸国家の細部に渡って説明する全体の構成の出典としてなっていないということです。たとえば、

政教分離とは、信仰生活と政治活動は分離されるべきであるという考え方である。歴史的にはジョン・ロックによって、信教の自由は人間の自然権であるという考えが提唱され、多くの近代国家の憲法に原理として取り入れられて制度化された。ただし国により制度的な実現方法には相違がある。

これも出典が明記されていません。独自研究といわれても仕方ないです。反論するよりも、出典を脚注でつけたらどうですか?記事を私物化して、他の編集者による執筆を許可しない態度は、2001:268:C068:FC51:A409:298D:91E7:14F3氏のほうです。そもそも、私はkanbun版の復帰を一度受け入れて、再提案してるのです。他者の発言に一切耳を貸そうとしないのは、貴殿です。--121.107.209.16 2017年2月24日 (金) 13:38 (UTC)[返信]

井上論文は「フランスにおける政教分離の法の展開」で、れっきとした政教分離関係文献です。歴史学ではないですが、法学の文献も使用していいですし、そもそも「歴史学文献以外は出典として使用できない」なんてウィキペディアの方針にありますか?--121.107.209.16 2017年2月24日 (金) 13:44 (UTC)[返信]

いや、これはそもそもフランスの、それも現代のライシテについて論じているものでしょう。ライシテの箇所での出典ならまだわかりますけど、歴史学的な研究とは論じている対象も地域も時代もその構想の範囲も異なるのに、一緒くたにして議論に持ち込むことは出来ないでしょうっていう当たり前の話なんですけど、これでわかりますか?歴史学的成果の話をしているのに、歴史学の文献ですらないってどういうこと?って話です。これ、単純な話ですよね?それになぜか私が削除したっていうような話になってますけど、私がしたのは分割の差し戻しであって、その後121.107.209.16さんが分割後の記事に加筆するという話ならわかるんですが、そうではなくてもう一度分割を強行しようとして編集合戦になり、保護依頼されたのに121.107.209.16さんが加筆をしているというふうに私は認識しています。そして編集をしたしないみたいな話を議論に紛れ込ませるのは本筋を外れるのでこれからはやめましょう。--2001:268:C068:FC51:A409:298D:91E7:14F3 2017年2月24日 (金) 13:54 (UTC)[返信]
発言が意味不明ですよ。タイトルにあるようにライシテを含む政教分離についての論文です。法学の文献は使えない?山田欣吾に影響を与えたエルンスト=ヴォルフガング・ベッケンフェルデも法学者ですし、フランス革命が政教分離の画期であったといっています。フランスについて書いてならないと?冗談はやめましょう。とにかく、政教分離と世俗化については、新 保 弼 彬「世俗化理論の歴史的展開とその諸相(1)」を用いて、冒頭の基本的視野に少しだけ加筆しておきます。足りないようでしたら、山田欣吾の著書をもとに書いてください。--121.107.209.16 2017年2月24日 (金) 14:19 (UTC)[返信]
今争点になっている箇所について加筆しようとするなど、編集合戦につながる行為はおやめください。そして議論を無視しないでください。フランス革命うんぬんを加筆してはならないとか、ライシテを加えてはならないなどと言う話はそもそも出てきてませんし、ご自分の論理を強引に通そうとしないでください。そもそもここで話し合われていたのはまず井上論文を根拠とする分割提案は妥当かという議論であって、ご自身の提案でもあることですし、それに集中してくださいませんか。現状の記事に加筆をなさりたいというのであれば、つまりもう分割提案は撤回と言うことでよろしいんですよね?そこのところをまずはっきりさせましょう。--2001:268:C068:FC51:A409:298D:91E7:14F3 2017年2月24日 (金) 14:31 (UTC)[返信]
加筆するのは、山田欣吾の論へと仲介するものとして、ベッケンフェルデの世俗化過程についてですよ。分割提案は、全体のバランス、分量についてのものです。その根拠は井上論文だけでなく、
  • 新保弼彬「世俗化理論の歴史的展開とその諸相(1)」九州大学言語文化論究 (通号 5) 1994でも、「10世紀から20世紀にかけて」の世俗化、また「中世の叙任権闘争に始まり,16, 17世紀における宗教の分裂と内戦を通じて, ヨーロッパの宗教的・政治的統合体が徐々に 世俗化され,やがては政治的・社会的秩序へ と再編されていく幾世紀にも亙る歴史上の過程を見てきたわけであるが,この発展の流れ を近代的な意味における政治国家の成立に向 けて一挙に転換し,その極に到らしめたもの は言うまでもなくフランス革命であった。」とフランス革命を重視しています。
  • 山野一美「政教分離」日本大百科全書(ニッポニカ)小学館 
  • 世界大百科事典第2版「政教分離」

でも、ベッケンフェルデの論文での中世叙任権闘争以降として論じています。もう一度いいます。中世叙任権闘争、宗教戦争、近代の革命の3つが政教分離の画期であると上記情報源に書いてありますが、それに賛同しないのですか?ベッケンフェルデを採用せず、山田欣吾は採用するというならば、山田欣吾はどこを政教分離の画期と見ているのですか。というか、ベッケンフェルデと山田欣吾が違う歴史認識であるとしても、両方の学説を紹介すればいいだけです。--121.107.209.16 2017年2月24日 (金) 14:49 (UTC)[返信]

そもそもベッケンフェルデを読んでいるのですか?私のもとには今『法の理論22』があり、桜井訳のベッケンフェルデ当該論文もあるわけですが、あなたはそれをしっかり見てベッケンフェルデの話をしているのですか?ベッケンフェルデと山田欣吾『教会から国家へ』も手元にあり、確認できる状態なのですか?そうであるならば具体的なページ数を指摘しながら議論しますが、前にページ数を言っても読みもしなかったうえに真っ向から否定したじゃないですか。ネットで手に入るレポジトリ論文ではないのでコピペできないのですから、引用しきれないので要点をかいつまんで議論せざるを得ないのですが、そこのところはまず可能かお答えください。--2001:268:C068:FC51:A409:298D:91E7:14F3 2017年2月24日 (金) 14:59 (UTC)[返信]
私が読んだのはすでに挙げたように新保論文に紹介されたものです。山田欣吾の本は高価ですし、図書館にも所蔵されていないので、入手できません。しかし、「要点」といわれてまた演説をされても、どうにもなりませんね。山田欣吾が「イエス、アウグスティヌス」または「霊性史」として、その本で論じているのか、論じているならば、ページ番号を書いてくれということです。そして、いつまでも回答しませんが、「叙任権闘争、宗教戦争、近代の革命」の3つが政教分離の画期であると上記情報源に書いてありますが、それに賛同しないのですか?--121.107.209.16 2017年2月24日 (金) 15:13 (UTC)[返信]
それについてはもとより反対などしておりませんし現状の記事も否定しているようには思えませんが、それは単に画期に過ぎません。日本史が「大化の改新、建武の新政、明治維新」といっているようなものです。画期だけを抽出して書いても意味がありません。文献がないならば、ページ数と要点だけ言っても演説したとか断じなさるのでしょう?それでは議論になりません。とりあえず基本原則として「ヨーロッパでは政治ないし国家の『脱宗教化』、『世俗化』がなされ、宗教と政治の分離という原則が確立されるに至った」という点は共通理解でよろしいですよね?--2001:268:C068:FC51:A409:298D:91E7:14F3 2017年2月24日 (金) 15:22 (UTC)[返信]
原則としては当然賛同しますし、私の文章でもそれと矛盾せずに書いています(世俗化についての加筆は貴殿に反対されているため加筆していませんが)。本文に書く場合は、きちんと出典を脚注にして具体的なページ数を明記してほしいといっているのです。その上で、あまりに古代中世のデティルを説明し、関連性もよく分からない本筋から離れたものまでも詳細に書いてあるのは、バランスが悪い。また、しばしば、本当に出典に書いてあるのか分からない「エッセイ」とも疑われるものが混在していることを問題としているのです。「演説」といったのは、ノートでこんこんと述べられても検証できませんし、そうしたことは本文にきちんとした形式で書いていただければいいのです。カロリングルネッサンスにしても政教分離の歴史として重要な画期であるとどこかに書かれてあれば、記載に反対しません。しかし、その上でも、なお分量の問題があり、いくつかのサブ記事を作ること、あるいは、世俗化などの別の概念の記事にしたらいいのではないかということです。基本的に、この記事は、近代でいう狭義の政教分離原則の歴史の詳細についての記事であるべきで、その前史としての古代中世からの世俗化については別記事で書くといいのではないかということです。世俗化>政教分離>ライシテetc.という記事関係上の構造にすべきでしょう。フランス革命が画期であるとしても革命の細かな過程をここで膨大な分量で書くよりも、それはフランス革命記事に委ね、ここでは政教分離原則の発生について最小限必要なものにとどめるべきでしょうし、現在の版でも実際に最小限にとどめています。--121.107.209.16 2017年2月24日 (金) 16:44 (UTC)[返信]
論点がかみ合ってませんので、まずは下で提案した議論の仕切り直しに同意をお願いします。121.107.209.16さんは論点を小出しにしたり、議論の途中で別の問題を提起したりされており、さらに名前空間側の編集を同時に行うなどされています。そういうことをされると私の側で議論の論点整理に困難が生じることから、仕切り直しましょう。ご同意を頂ければと思います。--2001:268:C068:FC51:A409:298D:91E7:14F3 2017年2月24日 (金) 17:01 (UTC)[返信]

本論の議論を経ずに貼られた独自研究タグについて

本論の議論や分割などの重要な議論の最中にもかかわらず、本論が確定せねば議論にならない各論の項目について、みだりに独自研究タグをはりつける行為は明白に議論妨害で議論を攪乱させます。まずは本論の出典、分割議論を確定させた上で、骨組みを組み立ててから各論の文献情報などについて確認すべきです。議論の焦点をぼかし、攪乱する原因となります。よって独自研究タグをはがします。本論の議論が終わってから各論について検討しましょう。--2001:268:C068:C252:EC34:AF2A:EBB7:F6F8 2017年2月22日 (水) 18:09 (UTC)[返信]

記述を差し戻そうとしましたら、議論中にもかかわらず、121.107.209.16さんがタグ貼り付けだけでなく、勝手に編集行為を行い加筆しているのを発見しました。これは明確な議論進行の無視と思われますし、編集合戦になりかねない重大な危険行為です。よって記事を議論開始時の状態に戻します。以後121.107.209.16さんはこのようなことを絶対になさらないでください。--2001:268:C068:C252:EC34:AF2A:EBB7:F6F8 2017年2月22日 (水) 18:15 (UTC)[返信]


Wikipedia:ウィキペディアでやってはいけないこと#独断でメンテナンス用テンプレートを剥がそうとすることを読んでください。出典が明記されていないのですし、議論中だからテンプレートをつける必要があります。問題を解決してから、はがしてください。--121.107.209.16 2017年2月24日 (金) 12:49 (UTC)[返信]

出典をつけた加筆について理由なく、しかも削除を提案することなく、削除するのは、白紙化といわれるもので、Wikipedia:荒らしの典型です。荒らし行為はやめてください。 荒らし行為はやめてください。これ以上続ければ、ウィキペディアの編集ができなくなる投稿ブロックの対象となります。ご注意ください。--121.107.209.16 2017年2月24日 (金) 13:17 (UTC)[返信]

2001IP氏が削除した文章ですが、

962年にオットー1世がローマ教皇ヨハネス12世により「ローマ皇帝」に戴冠され、この神聖ローマ帝国以来ヨーロッパはキリスト教に統一された世界国家となり、最盛期に教会は莫大な土地を領有し、教皇の世俗的権力が強大となった[1]。中世では国家と教会が密接に結合しており、公認の宗教以外は異端とされた[2]。しかし、その後の叙任権闘争、宗教戦争、フランス革命の3つがヨーロッパにおける政教分離の展開における重要な画期となった[3]。宗教改革や初期資本主義の進展によって、教会権力と国王権力が対立し、近世に国王権力は絶対君主制を樹立した[1]。しかし、それも18世紀のフランス革命以降崩壊し、宗教的寛容と国家の宗教的中立の制度が広まった[2]。アメリカ合衆国でも宗教的理由で迫害された人々が移住してきた歴史があるため、建国以来政教分離の原則が確立しており[4][5]、アメリカ合衆国憲法修正1条では国教の設置が禁止された[6]。(ただし、公定宗教は認められており、英国国教会、アメリカ合衆国大統領の就任式宣誓などは政教分離の原則違反にはならない)[6]。

現在、多くの国で、信教の自由を保障するための政教分離原則が人権宣言や憲法で保障されるようになっている[1][2]。

これのどこがなにを理由に削除されるべきなのですか。山田本を利用していないからですか?

そして、フランス革命以降のフランスにおける法制の動向、そして米国の動向について削除するのも、滅茶苦茶すぎて話になりません。--121.107.209.16 2017年2月24日 (金) 13:29 (UTC)[返信]

また、年表を削除した理由も不明ですし、いずれにしても、不当な白紙化に該当します。--121.107.209.16 2017年2月24日 (金) 13:40 (UTC)[返信]

そもそも内容の妥当性とかの前に、まず議論中は編集合戦になるような行動を慎みましょうよ、という当たり前の話だと思うんですけど、そういう最低限の礼節みたいなものも期待しちゃいけないんですか?まず議論中はとりあえず記事内容を現状維持しましょう。議論も現状の記事内容について何ですから、議論当事者同士が議論途中で好き勝手に加筆し始めたら議論も錯綜しますし、無用な対立になりますし、議論も混乱するでしょう?--2001:268:C068:FC51:A409:298D:91E7:14F3 2017年2月24日 (金) 13:43 (UTC)[返信]
礼節をいうなら、出典くらいつけましょう。しばらく待ちますので。--121.107.209.16 2017年2月24日 (金) 13:46 (UTC)[返信]
根本的な問題として、この記事ちゃんと参考文献挙げてますよね?はっきり言えば、121.107.209.16さんが現状の記述の参考文献や出典も確認せずに、ただ単にごねているようにしか私には思えない。私はすでに関係論文も挙げて、現在の記述はとくに問題ないということはちゃんと提示したはずですが。--2001:268:C068:FC51:A409:298D:91E7:14F3 2017年2月24日 (金) 13:58 (UTC)[返信]
私が出典の明記といっているのは、本文中に注釈を挿入するという意味です。参考文献があるといっても、どの記述がどの文献を出典としているかは、明示しなくてはなりません。これは学術論文でも基本でしょう。--121.107.209.16 2017年2月24日 (金) 14:05 (UTC)[返信]
具体的に争点のある箇所について出典の明記はなされるべきです。しかし、一般的に常識と考えられていたり、一般常識でなくてもその分野で前提とされているものなどについていちいちの注記を要求するというルールではないと思われます。そういった事柄については参考文献、あるいはノートなどの議論において他の文献で相応の記述が確認されれば普通は妥当と見なすのがウィキペディア的には正しいあり方ではないでしょうか。しかるに、121.107.209.16さんはしかるべき争点を提示せずにいたずらに出典の明記を求めているようにも思え、さらに争点に対して回答が得られても文献と一字一句も同じでなければいけないというような極端な論理を展開しているように思われますが、これは大変問題があることのように思われます。--2001:268:C068:FC51:A409:298D:91E7:14F3 2017年2月24日 (金) 14:12 (UTC)[返信]


歪曲しますね。コメント依頼すればいいでしょう。「一般的に常識」というのが怪しいのです。挙げた箇所だけでなく、脚注でつけられていない箇所は、私的なエッセイが多いです。

近代的な市民社会とそれに立脚した近代的な国民国家は、近代の西ヨーロッパに成立したものであるが、中世の西ヨーロッパ世界においては国民を単位とした政治社会は希薄であった。そこでは、古代ローマ帝国の帝権の延長線上に自身を位置づけ、世俗世界での至上権を主張するドイツの皇帝と、キリスト教信仰と教会組織を持ち不可謬権と聖書解釈を独占しようとするローマ教皇が、それぞれローマ法とカノン法という独自の法を持ち、権力と権威を二分していた。したがって国民を単位とする政治社会である近代国家が生起するためには、帝権と教皇権を超克していかねばならず、特に「国家の中の国家」と言われた教会組織の取り込みあるいは克服がなされねばならなかった。

「国家の中の国家」と言われた教会って、誰がいっているのか、明記すべきです。

そして、霊性史としては、

今日の欧米では、国教制をとるにせよ(イギリス)、公法上の法人格を与えるにせよ(ドイツ)、私法上の組織として扱うにせよ(アメリカ・フランス)、国家と霊性を分離し、信教の自由を認めるのが一般的であり、むしろこのような自由が認められない諸国に対して批判的である。しかし、今日の保守主義思想はしばしばこのような宗教(的な倫理規範)と政治との乖離状態を批判し、宗教の持つ公共性への見直しも進められている[* 7]。たとえば2005年10月28日に出された「自民党新憲法草案」が事実上の政教分離の緩和を目指しており、教育現場での神道教育の導入につながるのではないかという懸念がカトリック教会などから提示されている。[18][19][独自研究?]。そのため宗教と政治の関係を単純な公私の関係で割り切ることはできなくなりつつあるといえる。[独自研究?]

と、唐突に自民党批判。とくに、「今日の保守主義思想はしばしばこのような宗教(的な倫理規範)と政治との乖離状態を批判し、宗教の持つ公共性への見直しも進められている。これはいわゆる愛国心教育に関わる問題である」はエッセイでしょう。

正教会の箇所は、「政教分離の歴史」との関連がまったく不明です。山田を読め、といいますが、それのどこのページに書いてあるのかさえも書けないという、本当に読んだのか?という疑念もわいてきます。他人は検証できるように、ちゃんと脚注をつけてください。--121.107.209.16 2017年2月24日 (金) 14:30 (UTC)[返信]

まずそこは今まで議論に出てきていませんし、そうした個別事例の問題であれば、そこから論じればよいのに、分割提案という形で話をしたのは121.107.209.16さんのほうです。121.107.209.16さんはそもそもそういった個別議論を展開していたのではなくて、まず古代中世に政教分離がさかのぼることの出典を求めていましたよね?分割提案をしながら個別に記事内容を検討するなんてことは正直不可能ですから、まずはいっぺんに論点を出したりしないで、個別に争点を解決していきませんか?まずご自身の出された分割提案の議論に集中しましょう。--2001:268:C068:FC51:A409:298D:91E7:14F3 2017年2月24日 (金) 14:38 (UTC)[返信]
厳密にいえば、これらは分割提案とは別件です。分割するにしても、出典のない「個人的なエッセイ」は、削除を検討されるべきものです。分割するにしても、分割前に情報源が確認できなければ削除すべきものです。個別に争点を解決していくためにも、こちらはこちらで回答してください。何度も言いますが、出典のない記述は、独自研究といわれても仕方ないです。--121.107.209.16 2017年2月24日 (金) 15:06 (UTC)[返信]
現在の記事内容の分割議論の途中で別件についても議論をするというのはとても無理です。まず分割議論に集中しましょう。お願いします。--2001:268:C068:FC51:A409:298D:91E7:14F3 2017年2月24日 (金) 15:11 (UTC)[返信]

質問 本記事をざっと読んだ限りですが、本記事の記載内容は「政教分離の歴史」というよりも「西欧におけるカトリック教会と国家の関係史」といったほうが良いのではないでしょうか。私は、まず記事名を前者から後者に変更したほうが話がスムーズに進むように思います。すると、世界中における宗教と国家の関係に応じて、例えば正教会については「東欧における正教会と国家の関係史」、日本においては「日本における宗教と政治の関係史」などとそれぞれ記事を立項することができます。これらをまとめた上位記事として、「宗教と国家」とか、それこそまさに「政教分離の歴史」などという記事を立てることができると思うのですが。--Susuka会話2017年2月24日 (金) 15:27 (UTC)[返信]

私はそもそも政教分離の歴史という記事名がまずいと思っております。これは政教分離がもともと国家と教会の機構的分離をいうという点では正しいのですが、政教分離というとどうしても近代的な政教分離原則を意識してしまいます。だから古代から話されたり特殊専門的な「霊性」という言葉が出てくると「?」となりますよね。意味は変わらないのですが、「聖俗分離の歴史」とすればだいぶ違和感はなくなる気はします。「西欧におけるカトリック教会と国家」というのに似た意味として「中世の国家と教会」というのも私は考えたのですが、こうした関係の意味を必ずしも明確にしない記事名は、これはこれでなんとなく別の方面から問題点を提起されそうな気もします。--2001:268:C068:FC51:A409:298D:91E7:14F3 2017年2月24日 (金) 15:38 (UTC)[返信]
私が「分離」という言葉を外したのは、政教「分離」の前段階として政教「一体化」といってもいい歴史的進展に結構な分量が割かれており、必ずしも「分離」のみを書いているわけではないためです。ならば、「国家と教会の関係」というテーマ史として(その関係の近疎・上下を問わず)語れるようなタイトルにしたらよいのではないか、と思った次第です。ちなみに、テーマ史が時代別に分割された前例としては『世界の一体化』が挙げられます。--Susuka会話2017年2月24日 (金) 15:52 (UTC)[返信]
わかります。その点私も迷ったのですが、一方で結合から分離方向へ向かうという方向性においては逆はないので、その点を明確にしないと何かしら問題が出そうかなと。世界の一体化も一体化していくという方向付けがついていることで歴史記事としてうまく収斂していると思いまして。聖俗分離の歴史のいいところは、率直に言って「聖俗」という言葉が特殊学問的響きに近いので、歴史学的意味における記述内容であるこということにおそらく誤解が生じないということかなぁと。実は神学の側はこういう歴史学的見方に対して否定的です。国家とカトリック教会ってやるといずれ神学側から「いやちょっとそこは。」的なものがかなり出てくると思います。--2001:268:C068:FC51:A409:298D:91E7:14F3 2017年2月24日 (金) 16:03 (UTC)[返信]
世界の一体化の先例は非常にいい例ですね。私もそうしたことを言いたかったのです。中世の国家と教会として分割に同意されるならば、私もそれに同意できます。私は「ヨーロッパにおける世俗化」の方がいいと思いますが。また、宗教改革については提案している通り、さらにまた別の記事にしたらいいでしょう。神学側の批判についてですが、それは批判があると紹介すればいいだけではないでしょうか。あるいは、個々の歴史認識で評価が全面にわたって異なるのであれば、それもそれぞれ個別の箇所で併記すればいいでしょう。--121.107.209.16 2017年2月24日 (金) 16:58 (UTC)[返信]

しきりなおし

議論が錯綜してますので、一度仕切り直しを提案いたします。利用者‐会話:アルトクール#解決の参考を教えて頂ければと思います。で頂いた助言から私なりに以下の流れでの議論を提案いたします。

  1. 既存の分割提案、出典要求、改名提案などすべての議論を中止、無効とする。
  2. まず記事が歴史記事であるということから、とりあえず「国家と教会の分離の歴史」に対する歴史学的成果を中心に記述されることを確認する。
  3. 次に現状の「政教分離の歴史」というタイトルの妥当性を考慮し、必要であれば歴史学的記事としてふさわしい記事名に変更する。
  4. 記事の内容を精査し、節ごとに参考文献・出典を確認しながら歴史学的記事としてブラッシュアップする。
  5. 必要であれば分割する。

以上、ご同意頂けますでしょうか。議論が拡散し、保護依頼中にもかかわらず、標準名前空間側の編集行為も行われており、編集合戦につながりかねませんのでこの記事の議論について、この流れで了解を取りたく思いますが、議論の提起者である121.107.209.16さんの合意をいただきたく思います。--2001:268:C068:FC51:A409:298D:91E7:14F3 2017年2月24日 (金) 16:53 (UTC)[返信]

1の「無効」は反対します。しかし、議論の流れ次第ではもちろん取り下げもありえます。また、4のブラッシュアップのための期間を要求するということであれば、中止は合意します。2は、歴史の記事であるからといって、歴史学以外の、例えば法学や、あるいは現代史を書くための新聞記事などを利用することを不可とするのであれば、反対。記事名の件は、具体的な記事名をいってください。4、5は同意します。(しかし、5と1が矛盾していませんか?)--121.107.209.16 2017年2月24日 (金) 17:05 (UTC)[返信]

議論の流れの話です。1→5の流れで議論を進めることをご了承くださいませんか?歴史学以外の内容についてはこの記事では盛り込まず、とりあえず別にするという形にしないと議論になりませんので、そこをまず了承してください。--2001:268:C068:FC51:A409:298D:91E7:14F3 2017年2月24日 (金) 17:09 (UTC)[返信]
この記事では近代以降を扱うべきではないといっているのですか?--121.107.209.16 2017年2月24日 (金) 17:13 (UTC)[返信]
違います。歴史学的見地から大枠を構成すること、古代・中世・近世・近代においてだいたい何が記述されるべきかの基本的な部分は歴史学的文献によることを合意しようという話です。具体的には大枠のフレームとしては『教会から国家へ』で提示されている国制史的理解が現状もっとも歴史学的には受け入れられている(この点については異論はなかったはずです)と思われますので、それを用いることを想定しています。--2001:268:C068:FC51:A409:298D:91E7:14F3 2017年2月24日 (金) 17:17 (UTC)[返信]
『教会から国家へ』が「政教分離の歴史」として書かれているというのであれば、脚注を用いて明記してください。アルトクール氏の助言にあるように、分割提案と出典要求とでは、出典の明記の方が先に解決すべきなのは確かです。もし出典を明記するブラッシュアップをこれよりなさるのであれば、一ヶ月(あるいはどれくらい必要か目安をいってください)ほど議論や分割提案を停止するのは賛同します。しかし、待ってもブラッシュアップされない場合、また出典が明記されない「エッセイ」にとどまる場合は、その時にまた対処します。近代以降に関して、歴史学以外の情報源を使用してはならない、というのは同意できません。Wikipedia:信頼できる情報源には複数の出典を使用することが好ましいとありますし、法学者だからエルンスト=ヴォルフガング・ベッケンフェルデの「世俗化過程としての国家の成立」は使えない、となるのですか?井上論文が使えないというのであれば、それについてもまた議論しなくてはなりませんし、明確に反対します。また、百科事典を利用してはならない、というのは、ウィキペディアが百科事典であることを理解されていないのではないでしょうか。ウィキペディアは学術論文でも名鑑でもありません。--121.107.209.16 2017年2月24日 (金) 17:40 (UTC)[返信]
勘違いがあるのですが、『教会から国家へ』はベッケンフェルデの理論を引き継ぎ、発展させたもので、しかも両者ともに「国家と教会の分離が近代国家の成立」であるということでは共通しているだけでなく、じつは他の国制史家もこの点はすべて基本的に一致しているのです。そのうえで日本ではその国制史モデルの典型として『教会から国家へ』はスタンダードとしていつも言及されています。要は学界で最も受け入れられているのです。ベッケンフェルデの議論の足りないところを補って完成させたのが『教会から国家へ』だという了解で、両者を切り離す必要はありません。井上論文うんぬんについては競合しないよう、法学的な憲政史的意味の政教分離原則の歴史と法制史的な各国の政教分離関連法についてはそれこそ政教分離原則の歴史という記事を作って別個にすることで収容可能と考えております。こちらは当面政教分離の歴史としますが、歴史学的見地の「国家と教会の分離」という意味での政教分離の歴史とし、おいおい必要であれば改名していくという流れを想定しています。百科事典的にも二つの領域について混線することなく記述でき、大変整理されると思われます。どうでしょうか?--2001:268:C068:FC51:A409:298D:91E7:14F3 2017年2月24日 (金) 17:50 (UTC)[返信]
要は民事法の専門家の井上修一さんとドイツ国制史家山田欣吾さんの論文を重ねても扱っている時代もテーマも学問領域すら全く違うので、論点は重ならないので議論は平行線になります。どっちも盛り込んで喧嘩させたような記事を作るという無理をするのでなく、どちらも独立した別個の記事で汲み取るという共存をするほうが百科事典的には適切であると私は提案します。どちらも大切であるということは双方変わらないということはここまで合意できていると思うからです。--2001:268:C068:FC51:A409:298D:91E7:14F3 2017年2月24日 (金) 17:58 (UTC)[返信]
それでは振り出しに戻るだけではないですか。ベッケンフェルデを『教会から国家へ』が継承発展させたのだろうとは周辺情報からも推定可能ですが、しかし、そもそも、『教会から国家へ』を聖典にして、それ以外を異端とするような言い方はWikipedia:中立的な観点#偏った記述は帰属化・明確化するに違反します。山田欣吾以外を出典として用いると論旨が崩れるようなものを書こうとしているのでしょうか?そうであれば、それは特殊な解釈であり、特殊な証拠が必要です。歴史学以外の文献を使用不可とする提案には断固反対しますし、「しきりなおし」提案にも反対します。--121.107.209.16 2017年2月24日 (金) 18:02 (UTC)[返信]

聖典化してありがたがろうということを言ってるのではなく、国制史的理解の「信頼すべき情報源」として扱おうという話です。法制史的理解や憲政史的理解についてまでいっておりません。しかし文献の話はとりあえずおきたいと思います。肝心なところはそこにないからです。まず歴史学的な政教分離の歴史と法制史・憲政史的な政教分離原則の歴史を分け、こちらには歴史学的な意味での国家と教会の分離史だけを書くことにしようということだけ合意しましょう。そこから整理しましょう。--2001:268:C068:FC51:A409:298D:91E7:14F3 2017年2月24日 (金) 18:08 (UTC) ちなみに具体的に歴史学的にこの記事が書かれていることを記事内で明記し、憲政史的意味については別項にあることなどを配慮して記せば、中立的な観点的にも問題ないと思われます。観点記述の帰属化・明確化という点は問題ないからです。名称的に重複すると思われる事柄でも必要であれば分野別に記事を立て共存させることができるということはウィキペディアは基本的に認められています。--2001:268:C068:FC51:A409:298D:91E7:14F3 2017年2月24日 (金) 18:14 (UTC)[返信]

ですから、それだと振り出しですので、反対します。「歴史学的な政教分離の歴史と法制史・憲政史的な政教分離原則の歴史を分ける」根拠がありません。「歴史学的な意味での政教分離の歴史」が果たして、2001IP氏のような意味が「学会の定説」なのか、歴史学事典などではどのように記載されているのか、明示すればいいだけです。明示しないで演説ばかりされてもお互い無駄な浪費です。素直にまず出典を明記すればいいだけです。改めてKanbun版を読んでも、実に出典が書かれていないし、なんとなく思想史に興味がある人が関連性を明確に説明しない(できない)ままに、趣味的に恣意的に書いているようにしか見えません。しかし、ベッケンフェルデについての紹介論文(新保)を読むと、10世紀以降の世俗化から政教分離原則の法制化までの流れを納得できるわけです。私はインターネットでも確認できる情報源を提示して相互に確認できるよう努力してきました。しかし、あなたは本を持っていると主張するわりに(確認できないことです)、脚注で明記できないのは、やはり「政教分離の歴史」として書かれていないからではないかと疑わざるをえない。--121.107.209.16 2017年2月24日 (金) 18:27 (UTC)[返信]
だいいち、「しきりなおし」と称して、議論が拡散しているだけです。#本論の議論を経ずに貼られた独自研究タグについてでは合意案を提示しているのに、それには答えようとしないのはなぜですか。--121.107.209.16 2017年2月24日 (金) 18:31 (UTC)[返信]
では121.107.209.16さんは「歴史学的な政教分離の歴史」と「法制史・憲政史的な政教分離原則の歴史」を分けることに反対ということですね。とりあえずここは一度平行線と言うことにしましょう。まずはこの点について今後一致点を見つけるためにじっくり話していきましょう。それまでは他の議論はとりあえず中断でお願いします。この論点が解消されないと次の議論がそもそも成り立たないと思われますから。--2001:268:C068:FC51:A409:298D:91E7:14F3 2017年2月24日 (金) 18:33 (UTC)[返信]

まず記事内容については一致点がないので、議論は長引きそうなことが予想されます。そこでスムーズな議論進行のために以下の2点を最初に合意するのがよいと思われます。

  1. 記事内容にどのような学問の成果が反映されるべきか議論で合意されるまでは一連の編集合戦前の「2017年1月18日 (水) 12:03‎」の版を保存し、タグの貼り付けや加筆などはしない。
  2. ただし、記事の出典がわかった場合は既存の記述の脚注の付記だけは認める。

1点目につきましては議論途中で記述が増加したりタグ貼り付けが行われると議論が攪乱されるため、名前空間をなるべく議論に即した状態に保つとともに、編集合戦を防ぐと言うことを意図しております。 2点目につきましては付近の記述の脚注に明記されているものを含め一応いくつか参考文献を手元に集め、確認したところ記事の記述の出典がほとんどわかったので、長引く議論の間に記事に脚注を追加していくことで、あらかじめ議論の絞り込みが可能と思われるためです。いくつか入手困難なものについては取り寄せなどしておりますが、今時点の判断で言えば、かなりの記述の出典は特定できる手応えがあります。 そういうわけで、以上二点について遵守頂くということをまず合意して議論に戻りたいと思いますが、いかがでしょうか。--2001:268:C068:F634:65A8:E026:8D64:8652 2017年2月25日 (土) 04:53 (UTC)[返信]

1は反対。問題があるからタグ付けを行うのですし、ノートでの議論に参加者を募る意味でもタグ付けや分割告知は必要です。また、私が加筆した部分について、何の問題があって削除しようとするのですか。「編集合戦」になるのは、議論も告知もなしに貴殿が削除するからです。自分だけがこの記事の編集権があると主張するようなことは、ウィキペディアでは不可能です。新保論文についても加筆を控えるようにいわれたままですが、いつまでも自分の「編集権」を主張するのはやめてください。私も今後必要あれば加筆もするし、タグ付けはしていきます。現在、合意不可能で平行してすすめるしかないといわれていますが、私の編集も、貴殿の編集も、他の方の編集も、制限されるべきではありません。ただし、これよりいままで出典がついていなかった箇所を修正していくということであれば、それまで私の方からは編集を控えることは考慮してもよいですが、2001IP氏の言い分に完全に同意したのではないし、編集はオープンであるべきでしょう。工事中テンプレートを貼ることに反対はしませんが、どれくらいの時間が必要なのかを明言してほしいです。半年間待ってくれといわれても困りますので。通常は工事中テンプレートは3日ほどです。しかし、すでにいったように私は一月ほど作業に時間がいるというのであれば、待ちます、といっています。これは相当の譲歩であるということはご理解ください。--121.107.209.16 2017年2月25日 (土) 15:25 (UTC)[返信]
疑問なのですが、独自研究タグなどは、出典が脚注などで明示された時点で削除していけるものです。それだけのことなのに、他人にのみ編集を遠慮してくれと要求するのは真意が分からないです。自分の論文とみなしているのか、勘ぐらざるをえませんが、それは記事の私物化といっていいですよ。--121.107.209.16 2017年2月25日 (土) 15:34 (UTC)[返信]
「政教分離原則の歴史」と「政教分離の歴史」とを分けるという提案についてですが、政教分離原則#歴史を確認しますと、ここの記事の要約のような内容になっていました。出典もほとんどなく、独自研究としか思われない内容の記載もあります。これを2001IP氏が書いたのでしょうか。もしそうであれば、政教分離原則政教分離の歴史という構造になっているのであり、それをさらに政教分離原則の歴史を設置してしまうと記事の関係がまったくわからなくなります。やはり、「中世ヨーロッパの国家と教会」という記事に移動し、ここは叙任権闘争、宗教改革、近代の革命という画期について書くということが一番効率がいいですが、この件について反対なのか、賛成なのかを全く答えようとしないから、会話になっていないのです。それと、アルトクール氏の所でのコメントで私が「ネットで確認できないものは信頼できる情報源ではない」などと主張しているみたいな歪曲をされていますが、これは完全な誤解、というより意図的としか思えない、つまり悪意ある歪曲です。私は山田本も他の大学紀要論文もいずれも有効といっています。他人の発言を歪曲して第三者に伝えるあなたの行動に、私は不信感を抱かざるをえません。歴史学の文献だけを採用し、法学文献は使用できないという提案に反対ということで、歴史学であっても、法学であっても、あるいは新聞でも、きちんと内容との関連性があれば、記載可能です。--121.107.209.16 2017年2月25日 (土) 16:09 (UTC)[返信]
「政教分離原則の歴史」についてまとめるのが方向性として良さそうに思います。現状では宗教史のうちwikipedia編集者が政教分離に関係しそうだと独断で判断した事例を列挙しているだけであり、それが政教分離に係累する事例にあたるのかどうか2次史料、3次史料から裏付けが取れない状況にあります。なにより困るのは政教分離原則に関して記述している信頼できるほぼすべての論文が古代キリスト教だの中世キリスト教普遍世界だのに言及しておらず、wikipediaに加筆された膨大な情報についてはたして一読者として「こんなもの読む意味あるのか」と不安になってしまうことです。政教分離原則にも加筆したのですが[1]【一般的な理解としては政教分離と信仰の自由の保障は、西欧においては16世紀の宗教戦争に端を発し、フランス革命で一応形が整う国家の世俗化の産物とされる】ものだと思います。その周辺からの加筆が常識的であり、せいぜいそれ以前について加筆するについても信頼できる2次情報、3次情報に基づくべきでしょう。--大和屋敷会話2017年2月25日 (土) 20:13 (UTC)[返信]
「一般的な理解としては政教分離と信仰の自由の保障は、西欧においては16世紀の宗教戦争に端を発し、フランス革命で一応形が整う国家の世俗化の産物とされる」については、この中でいう政教分離が厳密には政教分離原則を指しているということを念頭に置けば、一般的理解として歴史学でも共通しております。多くの政教分離原則に関わる学問は近代以降のことを扱うので、こういう共通理解は伝統的であり、その点についてはおっしゃるとおりです。しかしながら歴史学ではそうした政教分離原則そのものを近世における特殊事象としてだけでなく、先行する古代中世ヨーロッパの政治社会そのものに広く存在した社会構造の進展の産物として把握しています。そのために国家と教会の分離という意味での政教分離という視点で国家の世俗化過程を問題にします。ベッケンフェルデ論文のように叙任権闘争を世俗化第一期、一般的な意味での政教分離原則の成立を世俗化第二期という形で理解するのはいまのところ学界では共通理解であり、それは山田欣吾『教会から国家へ』でより明確な形で言及され、基本的にはその問題関心と枠組みは学界共通のものとして共有されております。山田欣吾はベッテンフェルデが指摘した世俗化の過程の前段階としてカロリング朝の政教一致体制が重要であることを指摘し、カロリング朝国家を「教会」であると位置づけました(教会国家論)。そしてヨーロッパの長い政教分離過程の出発点にカロリング朝的教会国家体制をおき、9-11世紀におけるその展開と12世紀以降の世俗化過程という形で整理した枠組みを提供しました。個別論点について細かい相違はありますが、国家の世俗化過程、政教分離過程の大枠そのものに有力な異論が存在するということはありません。その点については121.107.209.16さんが間接的に証明してくださったものと私は思っております。文献上の言及は多数ありますが、直接的に山田欣吾『教会から国家へ』のこの分野での影響力を伺わせるものとしては、現在のところ包括的なカール大帝期のカロリング朝研究の決定版ともなっている五十嵐修『王国・教会・帝国』での言及と修正(キリスト教帝国論)を見てもわかりますし、ビザンツ帝国での政教関係において重要な示唆を与えている大月康弘『帝国と慈善 ビザンツ』も山田の教会国家論をスタンダードに山田が立論に当たって参照したベックの議論を発展させる形で議論しております。そのうえで近代的な政教分離原則に関わる信教の自由という点では、かねてより古代のコンスタンティヌス帝とリキニウス帝によるミラノ勅令が知られており、これに関してはキリスト教成立から勅令による古代における信教の自由の確立までを精緻かつ浩瀚に描き出した保坂高殿さんの研究があり、信教の自由の問題は歴史学的には近代国家におけるそれの成立にとどまっておりません。この研究は現状独立している感があり、カロリング朝以降へのつながりには空白があり、明確でないのですが、歴史学的な政教分離の問題関心はすでに近代国家成立という一事態を越えて、ヨーロッパ史上の社会全体における国家と宗教の関係を問うという広がりを見せております。こうした歴史研究の蓄積と2000年以降近年における展開を考えますと、狭い意味での政教分離原則の成立史とは別個に、この国家の世俗化過程全体についてはとくに政教分離原則そのものの成立史とは独立して書かれる必要性があると思われます。そもそも「【一般的な理解としては政教分離と信仰の自由の保障は、西欧においては16世紀の宗教戦争に端を発し、フランス革命で一応形が整う国家の世俗化の産物とされる】もの」という点に関しては別して憲政史や法制史など直接的に近現代に関わる研究はあるものの、むしろその研究分野を考えれば、政教分離原則の歴史節に収めることは十分な可能なように思われますし、そのような記述に対して、分量的な問題があっての分割の必要性を除き独立させる必要性を感じません。それに対し、この記事で述べられている歴史学的な内容については政教分離原則の歴史の一般的理解とは位相を異にする歴史学的な研究展開と動向が記述されており、別個の記事として十分成り立つ物と思われます。したがって、記事名としての「政教分離の歴史」は適切かという問題点はありますが、記述そのものについて一般的理解を理由に限定することは困難なように思われます。政教分離の文献を調べれば紛れもなく一般的理解についての記述が大半を占めることは以上の点からも十分予想されますが、だから国家と教会の分離の意味での政教分離の歴史として歴史学的な国制史理解などが中心になることはありえないというのは成り立ちがたいように思われます。--2001:268:C068:F634:616F:F309:54A6:F018 2017年2月26日 (日) 01:01 (UTC)[返信]

コメント とはいえ、一般的に「政教分離」といえば第二期の「政教分離原則」がメインですよね?そういう読者が「政教分離の歴史を知りたい」という動機で『政教分離の歴史』の記事を閲覧したら、「何故、古代から延々とこのような議論をしているんだ?」と思ってしまうでしょう。ですので例えば、歴史学的に「政教分離」はいわゆる近代の「政教分離原則」と中世ヨーロッパにおける国家と教会の対立と分離(叙任権闘争など)の二つを扱う考え方が主流になっている、という上述の説明を記事の冒頭で説明するべきでしょう。その点について了解したうえで記事割りですが、

一例として提示します。--Susuka会話2017年2月26日 (日) 02:54 (UTC)[返信]

Susukaさんへの返信。他の関連記事との関係性はほかでの議論もありそうですから、とりあえずおいておいて、私は基本的には『古代から中世にかけての政教分離』に近い形(ほかにも改名の候補はありますが)で本記事を改名するのが適切であると思っています。「政教分離の歴史」という現在の名称自体にまず混乱の原因があるという点では一致しているように思えます。--2001:268:C068:F634:616F:F309:54A6:F018 2017年2月26日 (日) 03:07 (UTC)[返信]
わかりました。記事の体系的な整理の議論については、しかるべき場所とタイミングにて行うとしましょう。まず本記事の改名を行うのには賛成ですが、そうなると近代の箇所や日本の政教分離の箇所の転記も同時に行う必要がありますね。--Susuka会話2017年2月26日 (日) 03:11 (UTC)[返信]
はい。その点は全く賛成です。私の「しきりなおし」節冒頭の議論の流れもそのようにすることを前提に提案しております。改名してからまず冒頭に「〈政教分離の歴史〉への史学的視座」のような概説説明をつけ、日本の政教分離うんぬんのあまり関係ないところはばっさり転記していくことを念頭に置いています。--2001:268:C068:C81F:1129:92DF:4EC4:A375 2017年2月26日 (日) 03:29 (UTC)[返信]
  • 「日本の政教分離うんぬんのあまり関係ないところ」の意味が分かりません。日本には政教分離の歴史がないという判断に根拠はあるんでしょうか?このあたりの独善的な「仕分け」が信用できない一番の理由なのですが。本記事の場合、「基本的視野」「歴史的展開>概要」の項目がすべて独自研究の公表になっており、「wikipedia編集のさいの基本的視野」がおかしいのだと考えます。ここでは投稿者の独自の哲学を開陳しているだけであり信頼できる二次情報・三次情報の裏付けがない、ここからしておかしいのだと思いますよ。--大和屋敷会話2017年2月26日 (日) 18:33 (UTC)[返信]
歴史学的な文献に基づいて、『古代から中世にかけての政教分離』に改名したら「日本の政教分離うんぬんのあまり関係ないところはばっさり転記していく」という話です。それとも寡聞にして知らないのですが、古代中世日本史でヨーロッパのような国家と宗教組織の分離というような議論がおこなわれていたのでしょうか。また歴史学の言う政教分離は「国家と教会の分離」の意味なのですが、日本にキリスト教が伝来したのは一般に1549年とされておりますから、古代中世という時代区分においては、日本が外されることは一般通俗的にもとくに問題がないように思われます。次に歴史学的な政教分離論についてはすでに文献を示しているので裏付けがないというのはただ単に大和屋敷さんがそういう文献を確認していない、そういう議論を知らないだけというように思えます。大和屋敷さんの挙げた文献がとくに歴史学的な政教分離議論をフォローしているものでないことはすでに説明いたしました。歴史学的理解そのものについても文献が挙げられていますし、そういう議論が歴史学的に十分認知・共有されていることについてもすでに十分な量の文献が示されています。--2001:268:C068:C81F:9C83:7E94:5D68:8492 2017年2月26日 (日) 22:15 (UTC)[返信]
  • 日本の政教分離の歴史について記述場所をなくすのはおかしいです。むしろアメリカの記述がそもそも無いのも違和感があります。中国やインド、イスラム(トルコ等)についての記述が可能な余地も残しておくべきです。キリスト教に焦点をおくにせよ政教分離の歴史について記述するばあい、一般的な視座としては叙任権闘争、宗教戦争、フランス革命(世界大百科事典「政教分離」)まででしょう。ついで各国法制史における政教分離の経緯が記述されるのが通常だと考えます。上にも書きましたがwikipediaの当記事のばあい「基本的視野」がそもそも独自研究でありおかしいのだと考えます。とくに「霊性史」を視座においてしまっているからこの部分で膨大な(そして関係があるのか無関係なのかwikipedianには判定しようのない)記述のコレクションが出来てしまっているのだと考えます。--大和屋敷会話) 2017年2月27日 (月) 04:14 (UTC)「古代から中世にかけての政教分離」というカテゴリについても、すくなくともそのような視座に立つ底本があって、それをもとに執筆するような態度でなければ独自研究を展開するだけになるので不安です。日本の場合でも奈良仏教・平安仏教から国家論がすでに展開されており(たとえば[2])それの要約を記述することは可能でしょう。また江戸期からの国学および神道における国家観は明治以降の政教分離に重大な影響を与えたわけですから、wikipedia読者(とりわけ日本の読者)の期待に沿う記事内容のはずです。かように考量すれば聖霊史をもとにしたキリスト教における国家観の歴史にのみ膨大な執筆スペースを用意できないことはご理解頂けるのではないかと考えます。--大和屋敷会話2017年2月27日 (月) 04:32 (UTC)[返信]
  • コメント 私が先に提案した『古代から中世にかけての政教分離』が念頭に置いているのは、本記事の記述の多くを占めるカトリックと西欧国家との叙任権闘争などについての話なので、一意に定まる記事名にするなら『古代から中世にかけてのカトリックと西欧国家との関係』といったところになろうかと思われます。さきに大和屋敷さんが挙げられた奈良仏教・平安仏教の例は『古代から中世にかけての日本における宗教と政治との関係』といったところでしょうか(これを「同時代だから同一記事」とするのは、さすがに無理があると思います)。米国については『アメリカ合衆国における政教分離原則』などという記事名でしょう。やはり、他の場所に議論を移すなどして体系的な議論を行うべきでしょうか。--Susuka会話2017年2月27日 (月) 05:37 (UTC)[返信]
Susukaさんと同様の意見ですが、少し違う点から指摘いたします。大和屋敷さんのいう政教分離が政教分離原則のことであり、現状ここで述べられている政教分離が歴史学的意味の国家と教会の分離のことであり、そもそも同じ政教分離といいながら概念としては違うということがあります。『古代から中世にかけての政教分離』という記事名に改名するという議論はそういう流れで出てきており、しかもこの点について現状の記述がその観点と異なる独自の研究であるという出典はありません。むしろ現状の記述が大枠において歴史学的理解に基づいた記述であることを裏付ける文献が提示されております。そのうえでそこに日本の記述が含まれないのは誤解を招くという議論であれば、日本の記述がなくても誤解しないような記事名を考えればよいのではないでしょうか。提示された文献についても直接的に歴史学的なものでないと思われますし、歴史学上の通説的理解と無理して並べるならば、むしろその研究がどれだけ一般的な影響力があるかという点について歴史学的見解に即した形で、大和屋敷さんが求められたように、ご自身で2次資料、3次資料での裏付けを考慮し、提示する必要があるように思われます。議論の場所としてもそれを行うのは政教分離原則のノートで、たとえば歴史節の内容の加筆候補として提示しておこなうほうが適切なように思われます。--2001:268:C068:E8C9:F0F4:5FE:2BE3:CD41 2017年2月27日 (月) 05:51 (UTC)[返信]
出典がない独自研究と疑われる記述を行っているのは2001IP氏です。以下の資料がWikipedia:信頼できる情報源に違反するということを証明しないと、あなたの主張は成立しません。
  • 新保弼彬「世俗化理論の歴史的展開とその諸相(1)」九州大学言語文化論究 (通号 5) 1994
  • 山野一美「政教分離」日本大百科全書(ニッポニカ)小学館 
  • 世界大百科事典第2版「政教分離」
  • 新 田 浩 司「政教分離と市民宗教についての法学的考察」『地域政策研究』(高崎経済大学地域政策学会) 第 14 巻 第2・3合併号 2012年1月 21頁〜 35頁
  • 井 上 修 一「フランスにおける政教分離の法の展開」佛教大学教育学部論集 第2 号(20 0年3月)
  • 佐々木弘道「合衆国憲法の政教分離条項」成城法学(64) , pp.79 - 98 , 2001-01 --121.107.209.16 2017年2月27日 (月) 14:24 (UTC)[返信]
  • コメント 今回の論争は、IP氏お二人がそれぞれ出典を提示して、「『政教分離の歴史』とはこういうものだ」と対立されているわけですよね?ならば、「『政教分離の歴史』については大きく見て二つの見方がある」と記載するのが、読者に対して誠実な対応であると思うのですが。--Susuka会話2017年2月27日 (月) 14:29 (UTC)[返信]

私も基本的に2つの観点を一つの記事で共存させるかはともかく、それぞれを個別のものとして読者にしかるべき形で提示するのが誠実な対応であるという点については全く同意見です。私から見ますと、121.107.209.16さんが現状の記述を執拗に否定し、そしてなぜか私が121.107.209.16さん自身の提示した文献を否定したように考えてらっしゃるように121.107.209.16さんが思われて、論争がどちらを取るかという方向で進んでいるようにおっしゃっているように思いますが、私はそういうことを言っているのではありません。私はそもそもこの記事の現状の内容に基づけば『政教分離の歴史』というタイトル自体が誤解を招いており、そのせいでしなくてもよい不毛な論争が発生しているように思いますので、この記事を歴史学的内容に純化し、しかるべき改名をすれば別して全体像としての政教分離の歴史なるものも新規作成可能であると思われますし、別に政教分離原則記事の歴史節という場所もあります。そうしたウィキペディアで用意されたいくつかの方法を用いれば、現在提示されている2つの観点は安定した形で両立共存可能であると思っています。1つの政教分離の歴史にこだわる必要はない、という立場です。--2001:268:C068:E8C9:10C1:D707:1DC2:ED6A 2017年2月27日 (月) 16:07 (UTC)[返信]

提案 例えば、お二人が『古代から中世にかけての政教分離』と『近代の政教分離原則』とを分担して作成することは出来ないのでしょうか。ここで論争を続けるよりは、余程Wikipediaの発展につながると思います。--Susuka会話2017年2月27日 (月) 16:32 (UTC)[返信]

ここで展開されているような無意味な循環論争を防ぐためにも一つの記事での二つの観点の共存は無理に望まず、現状の記事をより主題を明確化した『古代から中世にかけての政教分離』というようなものに改名して、別して『近代の政教分離原則』を設けるというような形での決着はよいと思われます。政教分離原則は近代的な寛容精神に基づくものですから、この議論の決着もウィキペディアの方針的に問題なければ検証可能な二つの観点に等しく寛容なものであるといいと個人的には思います。--2001:268:C068:CCA2:5913:8007:BF97:9301 2017年2月28日 (火) 11:59 (UTC)[返信]

差し戻し

別して編集合戦を理由として保護依頼された記事に関しては基本的にその編集合戦の始まる前の版が保存されることが適切であるように思われます。また直接的には121.107.209.16さんは分割とその後の差し戻しを問題として編集を行っており、編集合戦の主因はそこにあるものと思われます。しかるに、その後の分割提案についての議論最中に独自研究などの新たな観点を追加し、タグ添付を行いました。しかし分割議論と独自研究の議論を同時に進めることは率直に言って不可能です。まずは切り離して議論をする必要があり、そのため今回についてはそもそもの分割議論の始まりである「2017年1月18日 (水) 12:03‎」に差し戻し、その後の論点についてはまず必要とされる他の議論を片付けた上で行われるべきと思われます。さしあたってウィキペディアの慣例に則り「2017年1月18日 (水) 12:03‎」版に差し戻します。--2001:268:C068:F634:616F:F309:54A6:F018 2017年2月26日 (日) 02:51 (UTC)[返信]

何をしているんですか?分割提案も撤回していないし、出典が明記されるべきところを明記されていません。何一つ問題が解決していませんし、議論中だからこそ、議論の告知が必要なのです。それを削除するのは、このノートでの議論を隠蔽しようとすることに他なりません。私だけでなく、Susukaさん、大和屋敷さん、そしてアルトクールさんも助言やコメントをされているではないですか。ウィキペディアは皆で編集するものです。自分の書いたものを他人にいじられたくないならば、他のサイトでやる方が賢明ですよ。それから、学会に所属しているといっていますが、それはもはや何の関係もありません。実名で編集されているならまだしも、お互いに匿名です。学会に所属しているかどうか確認できない以上、いくら学会での「常識」を主張しても、その出典はありますか?という話でしかありません。あなたが本当に日本のヨーロッパ中世史学会の人であるとしたら、その学会での議論レベルはこの程度なのかと思いますよ。ウィキペディアは色んな専門分野を持ったひと、プロアマ含めて色んな人が編集できるシステムです。そのことだけはご理解ください。--121.107.209.16 2017年2月27日 (月) 14:12 (UTC)[返信]
121.107.209.16さんは何か高度なことを論じておられると思うのですが、私には少し論理の飛躍があってよく理解できかねます。隠蔽工作したかのような話はどういう証拠や状況に基づいているのかという点についての説明が私にはよくわかりません。隠蔽するような意図でないことは上で慎重に説明したつもりですし、もし私が後ろめたいことがあり、議論の隠蔽を仮に望むならば、アルトクールさんに相談をして議論自体の妥当性や方針的な問題点について伺い、わざわざ議論に注目を集めることは普通しないと思います。私の行動はアルトクールさんにアドバイス頂いた内容を自分で判断してあくまで議論進行の上のことであり、攻撃意図のないこと、通例のウィキペディアの慣行上も適切であろうことを考慮した上での判断であることを表明しております。またアルトクールさんの応答自体に根拠づけをおこなっているわけではなく、個人的な判断により、個人的な責任において行ったことであり、アルトクールさん自身は親身に話を聞いてくださっただけで中立的な立場です。私が「自分の書いたものを他人にいじられたくない」というような話もしきりに出てくるのですが、事実誤認であるということをまず主張するとともに、その点についてはどうしてそう思われるのかという点についての十分な説明がなく、この突飛な主張は悪意によるものとは直接的には思いたくありませんが、やはりどことなく印象操作のように思えてしまいます。もちろん私の主張そのものが分割提案に対して現状の記述自体を保護する意図を持っていることは否めませんが、それは「自分が書いたもの」だからというのは121.107.209.16さんの個人的感想にすぎません。私が歴史学界の話を出したのは私が歴史学界の権威を持ち出したり、個人的な歴史学界での立場などをひけらかしたりしたわけではなく、あくまで代表的な歴史学的著作に基づいて歴史学界での動向を一定の検証可能なものとして提示するためにおこなったのであります。直接的にどちらかの立場に優劣をつけようという意図があったわけではなく、121.107.209.16さんの行われる無作為的な文献の提示に対して、あくまで説明の必要上複数の歴史学文献を示して歴史学界の共通理解というものを素描いたしました。さらにそうした歴史学的政教分離については私の示したものだけでなく、121.107.209.16さん自身がお示しになった文献にも明確に言及しているものがありましたからその存在について検証可能性は満たされていることは議論参加者の共通理解であったはずです。その点について瑕疵があるという121.107.209.16さんの論点は私の知る限り、ウィキペディアの方針文書から導き出すのは困難であるように思われます。分割による記述の移動も、独自研究による記述の削除も基本的には現状の記述を減らす結果となります。121.107.209.16さんは分割を提案したと思ったら独自研究を突然持ち出したりとしていらっしゃいます。そうした今までの議論の推移で強い削除的方向性で意見を主張なさっていることから、あまりこういうことは言いたくなかったのですが、私はむしろ現状の記述の大部分を認めたくない121.107.209.16さんの強い意図を感じざるをえません。121.107.209.16さんの意味での政教分離の歴史は現状の記述を改名移動したあとに別して新規記事を作成するなり、政教分離原則記事の歴史節を利用すればすむ話のようにも思われます。現状の記述に対する検証可能な2次的な文献と、さらにその文献の認知度などについても具体的に検証できる3次的な文献もあるのに、現状の記述自体を直接的に独自研究だとするおおざっぱな主張はいささか乱暴に思え、理解しかねます。--2001:268:C068:E8C9:10C1:D707:1DC2:ED6A 2017年2月27日 (月) 15:50 (UTC)[返信]
「ノートでの議論があるときは、タグ添付や加筆をしてはならない」というのはウィキペディアの方針文書でありますか?むしろ、独断でメンテナンス用テンプレートを剥がそうとすることはやってはいけないとされており、あなたの行動がそれに該当します。「現状の記述に対する検証可能な2次的な文献」があるといいますが、山田欣吾『教会から国家へ』は「基本的視野」の出典として明記されていません。他にも五十嵐修『王国・教会・帝国―カール大帝期の王権と国家』、藤崎衛『中世教皇庁の成立と展開』などを提示しましたが、「政教分離の歴史」としては十分に関連性が証明されていません。国家の世俗化神権政治(テオクラシー)記事ならそれらも適切でしょうが、それらをすべてこの記事で一括して説明しようとするのが、Wikipedia:独自研究は載せないでの「特定の観点を推進するような、発表済みの情報の合成」に該当する疑いがあるのです。「参考文献」と「関連書籍」は違います。きちんと脚注を用いて、出典を明記してください。独自研究ではないかと疑われたくなければ、出典を明記すればいいだけです。分割提案と独自研究の指摘に対応するのは「不可能」といいますが、他人の指摘を理解しようとしないで、独自研究のまま放置して改善の努力をしないからでしょう。「無作為」とは意味不明ですが、私の提示した文献は「政教分離の歴史」に関連があります。Kanbun版はWikipedia:検証可能性に違反し、Wikipedia:中立的な観点での「意見を事実として記さない」に違反し、Wikipedia:過剰な内容の整理に該当しているのではないかと指摘しているのです。--121.107.209.16 2017年2月28日 (火) 15:16 (UTC)[返信]
  • 質問 では、話を整理するために2001:268:C068:E8C9:10C1:D707:1DC2:ED6Aさんに伺いたいのですが、2001:268:C068:E8C9:10C1:D707:1DC2:ED6Aさんが提示されている文章には、政教分離と古代から中世にかけてのカトリック教会と西欧国家との関係性(叙任権闘争など)とのつながり(この関係性を「政教分離」と表現しているか、など)についてはどのように言及されているのでしょうか。簡単に要約していただくと議論の役に立つのですが。--Susuka会話2017年2月28日 (火) 15:42 (UTC)[返信]
コメント割り込み失礼します。参考に「政教分離」について各種事典での説明は以下の通りです。
  • ブリタニカ国際大百科事典:政治と宗教は分離されるべきであるという考え方。 アメリカ合衆国では憲法上の原則。
  • 知恵蔵:国家と宗教とを分離させる憲法上の原則。国家と宗教とが未分化で明確に区別されていなかったり、両者が密接に結合している場合、個人の信教の自由は認められない。その意味で、政教分離と信教の自由は表裏一体の関係にある。政教分離の思想は欧米で生まれたもので、近代化と共に非キリスト教国にも浸透していった。
  • 百科事典マイペディア:国家権力と宗教を分離すること。信教の自由の必要条件をなす。未開社会,古代・中世社会では政治と宗教が一体となり宗教的権威によって支配が行われた。
  • 世界大百科事典:「国家の非宗教性,宗教的中立性の要請,ないしその制度的現実化」。[歴史]として「ヨーロッパにおいて政教分離は一回的できごとではなく,歴史過程のなかで徐々に進行したが,巨視的に見れば三つの画期を指摘することができる。聖職叙任権闘争,宗教戦争,およびフランス革命である。 中世世界においては,国家と宗教(キリスト教)の区別は未知の事柄であった。」
  • 日本大百科全書(ニッポニカ):「国家と宗教とを分離させる憲法上の原則をいう。中世および近世ヨーロッパにおいては、国家と教会、国権と教権が密接に結合していたため信教の自由が認められず、国教または公認の宗教以外は異端として刑罰を含む迫害を受けた。17、18世紀ごろから宗教的寛容と国家の宗教的中立の制度がしだいにヨーロッパ社会に広まり、現代国家においては、政教分離は信教の自由の保障のための憲法原則として広く採用されることになった。」

このように、マイペディアでは未開社会,古代・中世社会の「祭政一致」(神権政治)を、世界大百科事典では聖職叙任権闘争,宗教戦争,フランス革命を、日本大百科全書では17世紀以降宗教的寛容と国家の宗教的中立の制度と説明しており、既存百科事典ではほとんどが近代以降に焦点をあてています。--121.107.209.16 2017年2月28日 (火) 15:57 (UTC)[返信]

121.107.209.16さんについての返信。Wikipedia:独自研究は載せないでの「特定の観点を推進するような、発表済みの情報の合成」は2つの事実を合成して新たな事実を提示することで、ここに述べられている内容は直接的に文献から確認できるものでありますから、そういうものに当たるとするのはかなり難しいように思われます。少なくともこの記事は現状歴史学的な政教分離論をメインに論じており、それ以外の新しい事実を記載しているものではないと思われます。そしてそもそもそうした情報の合成は文献を確認せずに論じることは不可能なように思われますが、121.107.209.16さんはこれまでの議論でこの記事の文献や私が提示した文献を考証した形跡がなく、はっきり言ってしまえば単純な誤解により議論をこじらせております。だから「国家の世俗化神権政治(テオクラシー)記事ならそれらも適切でしょう」というような率直にこれらの語義を十分に理解していないゆえと思われる突飛な主張が出てきたり、私が「自分の書いたものを他人にいじられたくない」と思っているというような印象操作に当たる主張を繰り返され、ご自身の論点の弱点を無理に取り繕うことをしてらっしゃるように思われます。現状の内容がWikipedia:検証可能性に違反し、Wikipedia:中立的な観点での「意見を事実として記さない」に違反するという点についても、検証可能な文献を挙げてここに展開されている論理の存在は意見としてではなく、事実的に問題はないということを再三再四確認しておりますが、それについても関連する歴史学的な学説の存在やその学説の影響性まで示しても全く受け入れず、ご自身が提示した直接的には政教分離の歴史とは関わらない文献をその影響性や中立性、妥当性も考慮せずに提示し、土俵が違う議論を展開して煙に巻くという行動をとっていますね。それに山田欣吾『教会から国家へ』は現状の記述が独自研究でないという参考文献として提示されたもので、記事に直接的に利用されていないことで逆に本記事の記述の信頼性を保証しているものですが、そうした点についても言を左右にして、次々と方針を持ち出しては議論を拡散するという方法をとっています。はっきり言ってしまえばこのような議論の仕方は議論参加者にも無用の負担を強い、記事の改善も後回しにするもので、まさにWikipedia:腕ずくで解決しようとしないが問題視している行動そのものであるように思われます。--2001:268:C068:CCA2:488C:5F6D:F281:D940 2017年2月28日 (火) 15:59 (UTC)[返信]

Susukaさんへの返信。歴史学文献では説明は一般に数ページ単位で長くなるので、中略を入れると合成と思われかねないゆえ、一言で表現するものを探すと「西ヨーロッパにおいては国家教会というプロセスをとおって政教分離に達し」(森安達也『近代国家とキリスト教』pp.271-272)たという記述や「ヨーロッパでは政治ないし国家の『脱宗教化』、『世俗化』がなされ、宗教と政治の分離という原則が確立されるに至った」(山田欣吾『教会から国家へ』p.1)などがそれに当たると思われます。--2001:268:C068:CCA2:488C:5F6D:F281:D940 2017年2月28日 (火) 16:13 (UTC)[返信]

2001IP氏は「腕ずくで解決しようとしない」の「いつまでも納得しない」に当たるでしょう。さて、ようやく引用してもらいましたが、それだけで古代や中世からの総覧を行うのはやはり無理です。政教分離は近代の意味での使われ方ですし、到達点としての政教分離という意味です。古代から中世までの記載は、それぞれの記事に移動するなり、「教会と国家」のような記事として新規に作成すべきです。--121.107.209.16 2017年2月28日 (火) 16:22 (UTC)[返信]
ということは、古代・中世と近代以降の二つに記事を分割するということで、お二人は合意できるということでしょうか。--Susuka会話2017年2月28日 (火) 16:25 (UTC)[返信]
121.107.209.16さんへの返信。文献を読んでいらっしゃらないのに早合点しないでくださいませ。山田欣吾は以上の記述に続けて、p.2~p.15にかけて、その前段階としてのカロリング朝の意義を論じる教会国家論を展開しております。以上の部分はSusukaさんの質問に答えて、政教分離と関連する文献であることを明確にするために提示した部分に過ぎません。
Susukaさんへの返信。私は合意可能と思っております。訂正。「歴史学における政教分離」への改名を提案します。--2001:268:C068:CCA2:488C:5F6D:F281:D940 2017年2月28日 (火) 16:31 (UTC)[返信]
「改名」だとリダイレクトになってしまうので、反対します。「政教分離の歴史」は記事として残したうえで、「古代・中世」と「近現代」を分割すると、記載がなくなります。分割するとして、なにをこの記事に残すのかを話した方がいいです。また、宗教戦争は宗教改革の歴史として分割する方がやはり適切でしょう。「近世における政教分離」というより、「宗教改革」の方が一般的です。--121.107.209.16 2017年2月28日 (火) 16:42 (UTC)[返信]
あるいは、「政教分離の歴史」は記事として残さない場合。「政教分離の歴史」に私が「基本的視野」に加筆した部分、および近現代部分を政教分離原則#歴史に移動するのもいいでしょう。その場合は、「政教分離の歴史」のリダイレクト先は政教分離原則です。そして、「政教分離原則#歴史」において「古代から中世にかけての教会と国家」「宗教改革の歴史」へのリンクをつける、というのはいかがでしょうか。--121.107.209.16 2017年2月28日 (火) 16:49 (UTC)[返信]
訂正。歴史学的政教分離論ではドイツ国制における政教分離(1803年)に終点をおくので、むしろ「歴史学における政教分離」という記事にしてしまうほうがわかりやすいかもしれません。宗教改革を独立させるという議論は普通に論外。「政教分離の歴史」がどこのリダイレクトかなどというのは正直私はどうでもいいです。--2001:268:C068:CCA2:488C:5F6D:F281:D940 2017年2月28日 (火) 16:59 (UTC)[返信]
1.「古代から中世にかけての教会と国家」に同意できないのはなぜですか。
2.また、「宗教改革を独立させるという議論は普通に論外」というのはこれまた論外ですね。わかりやすさ、一般の読者のことを考えてください。宗教改革が中世と近世のいずれの時期にあるとお考えなのですか。
3.リダイレクトがどうでもいいというのならば、「政教分離の歴史」に私が「基本的視野」に加筆した部分、および近現代部分を政教分離原則#歴史に移動し、「政教分離の歴史」を政教分離原則へのリダイレクトとすることで同意されますね。--121.107.209.16 2017年2月28日 (火) 17:09 (UTC)[返信]
  1. 基本的に現状の記述が歴史学的政教分離論であるから分割には反対というのが私の立場ですから、それに反する宗教改革だけの独立は全く論外です。
  2. 同上。読者のアクセシビリティを考えても歴史学的政教分離論が一体として記述されるのが望ましいことはいうまでもありません。
  3. 歴史学的政教分離論の記述が残されるならば、それ以外の歴史学的政教分離論に関わらない部分はどうでもよいですが、そのかわり本記事を基本的にそのままの状態で「歴史学における政教分離」に改名するという点を了承してくだされば同意いたします。そうでなければ歴史学的政教分離論についてのページがなくなりますから、同意は出来ません。--2001:268:C068:CCA2:488C:5F6D:F281:D940 2017年2月28日 (火) 17:19 (UTC)[返信]
回答を書いていますが、加筆されましたね。加筆は歓迎しますが、私が出典を明記したものを削除するのはいただけません。しかし、議論も長くなりそうですし、政教分離原則への転記は合意されているので、まずは転記しておきます。ただし、議論の結果次第ではまたこの記事に復旧する可能性もあります。--121.107.209.16 2017年3月1日 (水) 16:36 (UTC)[返信]
コメント 「議論も長くなりそうですから」じゃなくて、きっちり「合意でいいですか?」「いいですよ」のキャッチボールをしてからやってください。編集の強行と変わりありません。--アルトクール会話2017年3月1日 (水) 16:58 (UTC)[返信]
  • コメント 近現代の政教分離については政教分離原則に主に加筆されたらどうですかね(アメリカの独立宣言以降、フランス革命以降など、国ごとに政教分離が明確化した時代以降でもかまいません)。政教分離原則#歴史も独自研究の状態なんですけど、重複になってます。これぜんぶ、「政教分離」という視点でまとめるより、17世紀以前の、宗教と政治が深く結びつき合ってた時代のことは宗教改革にまとめたほうがいいと思うんですが。その時代に、政教分離という概念はないですよね? どうも、「政教分離の歴史」と言い切ってるのは全体的に独自研究だなという印象を払拭できませんよね。--ぽてから会話2017年3月1日 (水) 17:06 (UTC)[返信]
  • いや、当記事の基本的な問題点は「執筆方針の視座が独自研究になっていること」なんですよ。霊性史(唯物的史観ではなく心のありようのつながりに焦点を当てた史観とでもいうもの、当記事の場合ですと教会にとっての国家論とでもいった視線)を基礎においており、こういう視点での研究は外部の信頼できる場所でおこなう分にはかまわないのですが、wikipediaは研究機関ではなく、あくまで「すでに現存する・信頼できる情報源をもとに執筆された・百科事典」ですので、霊性史史観からの執筆にはそもそも無理があるんです。というより底本がない。霊性史史観で執筆を始めると関係のありそうな事例をぜんぶ集めてくることになりますので、結果として当記事のような状態になっているのだと考えます。そうではなく「信教の自由のための制度的保障」「あらゆる宗教の信教の自由を目的にしているか否かが、政教分離が存在しているかどうかの判断基準」(中山勉)を基本軸に、信頼できる3次情報から執筆してきて、2次情報で肉付けしていく方針をとれば視座が定まると思うのです。最初にどのような方向性で執筆してゆくかは、どういう情報源をコレクションしていくかに関わってくるので重要です。当記事と「政教分離>歴史」での役割分担については、あくまで「政教分離>歴史」は概要、こちらが本体という関係であって共通部分があってしかるべきです。--大和屋敷会話2017年3月1日 (水) 17:59 (UTC)[返信]
  • 政教分離原則とその制度的実現の歴史と国家機構と宗教組織の分離としての政教分離の歴史は関連がありますが、基本的に後者が長い過程を経てヨーロッパで実現され、前者はその成果にすぎないという点について本論でも明確に示されておりますし、この点については繰り返し3次情報まで示して歴史学界内の共通理解であるという点はすでに示しました。両者を混同している議論がここまで延々と繰り返されているのですが、はっきり言って無意味です。霊性史史観という言葉は寡聞にして聞きませんが、良心の自由・信仰の自由という問題も西ヨーロッパで独自に発展し、歴史学的には国家機構と宗教組織の分離とお互い影響を与え合い、一体とした形で進行したという点についても共通理解が成立しております。その際議論の核心となるキリスト教的な良心のことを一般的な良心とは異なるために特に霊性という神学的な言葉で言い表すのは慣行に過ぎません。霊性という言葉が気に入らないということであれば、それを「キリスト教的な良心」で置き換えて差し支えないものです。中山勉さんの論の引用箇所は直接的に現代の制度的政教分離を問題にしていることが明らかですから、果たして政教分離の歴史全体を見渡すものとして基礎に置くのにふさわしいのか、そもそもこれまでの議論で中山勉さんの文献は提示されてもおらず、突然もってこられてもそれをどう評価して良いのかは判断できかねます。それと政教分離という記事は現在なく政教分離原則へのリダイレクトになっており、あるのは政教分離原則の記事です。国家機構と宗教組織の分離という意味の政教分離と近代国家の一装置としての政教分離原則とその制度は概念として異なるものですから、政教分離原則の歴史節と政教分離の歴史記事が直接的にどちらがどちらを包摂する関係にあるということはないはずです。--2001:268:C068:F624:42D:8F80:D852:D29D 2017年3月2日 (木) 02:15 (UTC)[返信]

分割提案その2

2017年3月1日 (水) 07:27 (UTC) に「政教分離における歴史学的視座」節が加筆されました。例えば、この節を本記事の核にして、本記事をあくまで政教分離史の概略にとどめる、というのはどうでしょう。上述のふたつの政教分離のそれぞれについては本記事においては概略にとどめ、二つの記事に分割するというものです。--Susuka会話2017年3月2日 (木) 07:39 (UTC)[返信]

仲介の労をとってくださっているSusukaさんにまず感謝を。さて、基本的には分割という形での解決は望みません。というよりすでにしてその必要はなくなったように思われます。こちらの記事は歴史学的な政教分離の歴史を扱っており、政教分離原則の歴史ではないという立場を明確にし、「政教分離における歴史学的視座」節の信頼できる文献からの加筆によってそれを明確化しました。政教分離原則自体に関わる歴史については政教分離原則記事の歴史節があり、すでにそれぞれの概念はウィキペディア上で併存両立可能となっております。こちらを歴史学的内容でブラッシュアップした以上、内容の一貫性と独自研究の疑惑についても問題が解決されたと思われます。むしろ分割するならば、歴史学的政教分離論の立場での問題提起が求められますが、現状で歴史学的政教分離論の出典や文献を挙げての議論は一切なされていません。現状の政教分離原則視点の分割提案自体はそもそもの根拠がなくなっているように思われます。そして政教分離原則との混淆著しい議論がさらなるブラッシュアップを不可能にしていることがありますが、その原因は「政教分離の歴史」という記事名の「政教分離」の部分にあることは明らかなので、「聖俗分離の歴史」あるいは「歴史学における政教分離」、「政教関係の歴史」に変えるなど現状内容に即した適切な改名処理などは必要とは思われます。政教分離の考え方とその制度には多くの学問分野が関わっているために、政教分離という言葉に引きずられて本来の国家と宗教の機構的分離という歴史動態的意味に集中することが困難だからです。現在において政教分離というワードに言及する文献の大多数は政教分離原則をその直接の対象としているという当然の事実からも今後もそうした議論の混乱が起こることは予想されます。さて、分割という点に関しては以前詳しく述べたように歴史学的な関心の広がりを考えますと、詳しい各論の記述は読者の便にも必要と思われます。それは歴史学が個別研究の総体として全体的な概説を構成するという学問的な性質によっても細部にこだわるものだからです。またこの政教分離の過程は10世紀近くにわたる動態像として提示されているもので、さらに先行する政教一致的事象動態も含めるとキリスト教成立以来現代までの2000年史を包含することになります。法思想史、政治思想史、政治神学的研究と歴史学のこの分野の交流は広くかつ濃密で、用語上の統一性など分かちがたく、そうした各論的広がりをおぼろげながらでも提示するのがこの記事の趣旨のように思われます。もちろん分量的な問題などは観点としてまた別ですが。--2001:268:C068:E414:42D:8F80:D852:D29D 2017年3月2日 (木) 10:05 (UTC)[返信]
  • コメント では分割ではなく、『政教分離原則』および『政教分離の歴史』の両記事の更に上位記事として『政教分離』(仮称)などという記事が必要ですね。「【政教分離】という言葉には、歴史学的なものと、現在のいわゆる【政教分離原則】の二つの意味がある。現在【政教分離】が意味するのは後者であるが、本項では【政教分離】が二つの意味を持つことを概説する」などという記事はいかがでしょう。--Susuka会話2017年3月2日 (木) 10:32 (UTC)[返信]
ここでの議論の混乱ぶりを踏まえますと、新たに『政教分離』という記事を作るのはまた大変そうで、また混乱が生じそうなので、現在ある『政教分離原則』の「歴史」節付近に「国家とキリスト教会の歴史的な機構分離については『政教分離の歴史』を参照とのこと」という形での案内を加えるのがよいかなと思っております。で、『政教分離の歴史』は政教分離原則そのものを意識させない記事名にして混乱を防ぐのが読者の益になるという観点です。--2001:268:C068:E414:42D:8F80:D852:D29D 2017年3月2日 (木) 10:42 (UTC)[返信]
  • コメント では、最初に記事の解明を行うのがよろしいですね。記事名については、2001:268:C068:E414:42D:8F80:D852:D29Dさんに提示していただきたいです。--Susuka会話2017年3月4日 (土) 11:02 (UTC)[返信]
  • コメント 「政教分離における歴史学的視座」節は、ますます独自研究の分量が増えただけのことですよね。初めのほうは、エルンスト=ヴォルフガング・ベッケンフェルデの主張をもって、定説であるかのように記述されてますが、不適切でしょう。「政教分離」誕生以前は宗教改革の概念の一部に過ぎず、これを政教分離の歴史、と勝手に位置づけて自分の主張に合う学説だけを出典にされるなどは、Wikipediaで行うべきことではないでしょう。妥当な対処としては、大まかな分類でいうと、前半を宗教改革へ統合、後半を政教分離原則へ統合、関連する各学者の主張は主張として記述、となるでしょう。現状、重複記事になってるだけですね。--ぽてから会話2017年3月4日 (土) 16:08 (UTC)[返信]
政教分離の歴史を語る際に、494年まで遡る必要あるんですかね? 「政教分離の歴史」に関する文献で、494年から遡って述べてるものってあるんですか? ないなら、単なる独自研究であることが明らかになったと言えるでしょう。--ぽてから会話2017年3月4日 (土) 16:11 (UTC)[返信]
  • 【ぽてからさんへ】ぽてからさんのおっしゃっていることは近代的な政教分離原則と機構上および思想史上の国家と教会の分離過程としての政教分離を混同した議論で、そもそも前提が成り立っていません。ここの議論で延々と繰り返されてきた単なる誤解か常識論です。この記事が「政教分離の歴史」という記事名でなければそもそも成り立たない、そんな言葉遊びのような議論です。ですから今の議論の改名していくという流れであれば、もはや問題にならないと思われます。そして、ご批判の記事内容についてですが、ベッケンフェルデとそれを継承した山田欣吾の議論はいまや歴史学の概説書(たとえば『ヨーロッパの歴史と文化('09)』)においても言及される基本的な考え方で、すでに本議論の間に歴史学上の主要研究文献での言及とその継承が確認されているので、一学者の整理ではありますが、単なる一学者の説で無視され共有されていないとか評価未定で特筆するに当たらない、というものではありません。そもそもこうした議論はマックス・ヴェーバー以来の近代化論の系譜にもあり、ベッケンフェルデも彼自身が従来の常識を塗り替える新説を形成したわけでなく、ヘルマン・リュッペらの先行学説を整理して提示したというのが一般的な理解です。その点についてはすでに121.107.209.16さんが示した文献においても確認されています。そのうえで思想史上の問題にもなりますから、494年に遡る云々については実際上その種の議論は意味がないと思われます。いくつかの画期を設定することに反対するわけではなく、実際画期はありますが、こうした議論はいつから明確に国家と教会の分離は始まったということは事件としては示せても、その背景思想や社会状況を含めると、いつという部分は明確には定まりません(とはいえ、自然法論など一部分野を除いていまのところキリスト教誕生以前に遡らないことは確かです)。少なくとも歴史学的議論は政教分離に関連してすでにキリスト教迫害史(政教分離なしで信仰の自由に至った)や初期ビザンツ帝国の教会政策との比較国制史にまで踏み込んでいます。それは近代政治史における有名ななぜ国家的枠組みにおいては国民性が先行していたように思われる東欧ではなく、西欧で近代化が典型的に進展したのかという議論(飯田芳弘さん)に関わりますし、最近上梓された阿部俊大さんのスペインにおける国家形成を問う研究(『レコンキスタと国家形成 アラゴン連合王国における王権と教会』)などもあり、歴史学的には関係学問分野も巻き込んだメジャーな議論で一学者が独立して展開しているというものではありません。そもそもが政教分離という言葉が本来は国家(的な政治秩序)と教会(的な宗教道徳的秩序)の分離をいうのですが、近代国家の政治的装置として国家とあらゆる宗教組織を原則的に分けるべきとする政教分離原則のイメージが強く、現代社会においては両者の議論は一体なので区別されません。しかし歴史的には今日のような制度的政教分離が行われている社会は稀なので、その歴史過程は特殊ヨーロッパ史的に政治秩序と教会倫理の分離過程、国家機構と教会組織の分離過程として理解されています。あくまでベッケンフェルデ=山田欣吾的「教会国家論」は学界で現在最も定着しているのでそれを挙げているだけで(とはいってもほかの説を第一に挙げることは不適当と思われますが)、個別各論ではそれに修正を加えた五十嵐修さんの「キリスト教帝国」論や千葉敏之さんの伝道王権論などを取り上げていくというのがよいと思われます。個人的にはぽてからさんの「独自研究」に関する方針理解には些か問題があるように思われます。独自研究とはまだ信頼できる文献に発表されておらず検証可能性を満たしていないか、検証可能でも一般的に受け入れられてはいないと思われる一次研究のことで、文献的に十分な2次的3次的裏付けのある本記事の冒頭部分を指して使う物とはとても思えません。
  • 【Susukaさんへ】ぽてからさんのような誤解が絶えないと思われますので、政教分離ではなく、「聖俗分離の歴史」への改名が適切と思われます。理由として聖俗という言葉は特殊キリスト教会的な用語であり、そのため西ヨーロッパ史に特殊に関わる歴史記事であることが明確になること、政教分離原則との混同が起きにくいこと、聖俗分離とすることで政教分離原則や制度的政教分離に纏わる世俗的イメージが薄らぎ、思想史上の政教分離と親和的になることが挙げられます。同時に聖俗分離という形で地域的限定を直接的に設けなければ、時代を超えて広がりつつ研究の現状を踏まえて当然衝突することが予想される時空的限界を緩和できると思われるからです。--2001:268:C068:C188:9C30:F6C1:69A6:9A26 2017年3月4日 (土) 17:35 (UTC)[返信]
  • コメント 上述の議論を見た限りでは、2001:268:C068:C188:9C30:F6C1:69A6:9A26さんとぽてからさんは、「現在の本記事の記事名と内容が一致していないので、現状を変更することが望ましい」という点では一致していますね。2001:268:C068:C188:9C30:F6C1:69A6:9A26さんは『聖俗分離の歴史』への変更、ぽてからさんは『宗教改革』との統合が望ましいと主張されています。--Susuka会話2017年3月4日 (土) 17:51 (UTC)[返信]
率直に言って、私にはぽてからさんの「『政教分離』誕生以前は宗教改革の概念の一部に過ぎず」というところは全く理解できません。そして本記事の内容は宗教改革については後半部で扱うだけですし、宗教改革がグレゴリウス改革まで遡る、あるいはそれと同質であるという理解はちょっとなじみがありません。むしろ従来その意義を強調されすぎた宗教改革に対して、グレゴリウス改革を含めた12世紀革命がむしろ強調されて提示されているというのが現在の学界の共通理解に近い(たとえば千葉敏之ら『ドイツ史研究入門』)ですし、はっきり言って文献的にしっかりとした根拠があるのか非常に怪しいです。気分で論じているような雰囲気を感じます。たとえば古典的な研究である野口洋二『グレゴリウス改革の研究』はまさに宗教改革に目がいきがちな歴史論を批判し、グレゴリウス改革にこそ独立した大きな意義を認めるべきという研究の流れを振り返っていますし、この視点は同じく邦文におけるグレゴリウス改革の中心的研究である井上雅夫『西洋中世盛期の皇帝権と法王権』ではすでにもはや当然のこととして、宗教改革など話にも出てきません。--2001:268:C068:C188:9C30:F6C1:69A6:9A26 2017年3月4日 (土) 18:09 (UTC)[返信]
  • 質問 12世紀革命が強調されつつあるというのは、「宗教改革」の重要度が相対的に弱くなった、ということですか?たとえば、「"宗教改革"の定義が(扱われる時代的に)変化(あるいは前倒し)されつつある」という側面はないのでしょうか。--Susuka会話2017年3月4日 (土) 18:37 (UTC)[返信]
宗教改革は宗教改革で別個の歴史事象です。はっきり言ってしまえば、宗教改革は活版印刷術の発明が前提とされており、歴史学的理解において、活版印刷術の発明なしで宗教改革に触れることは出来ません(アンドルー・ペティグリー『印刷という革命』)。この一点をもってしても基本的にグレゴリウス改革とは本質的に異なるものですし、その他の相違点はベッケンフェルデが論じているとおりです。--2001:268:C068:C188:9C30:F6C1:69A6:9A26 2017年3月4日 (土) 18:45 (UTC)[返信]
(補足)思想史においても、たとえば自然法と神法の区別などは宗教改革ではかなり常識となっていますが、グレゴリウス改革期のグラティアヌス教令集では自然法=神法と捉えられています。この相違には理由があり、間にスコラ哲学による自然法論の進展が挟まっております。宗教改革とグレゴリウス改革ではその思想的状況も社会状況も全く異なっており、どちらも教会の改革を目指しているというかなりおおざっぱな外面は似ていても、実際に争われた論点や目標、問題関心、歴史的進展は全く異なっていますから、これを同質あるいは一連のものとしてひとくくりにする議論には率直に言って相当の無理があります。宗教改革はすでに政治秩序と宗教倫理の分離が相当程度進んだ思想・社会状況と活版印刷術の発明という決定的な変革を前提にした歴史事象で、国家と教会の未分化という問題と直面していたグレゴリウス改革とは全く異質です。--110.132.106.234 2017年3月4日 (土) 19:34 (UTC)(IPが変わりました。以上の発言は2001:268:C068:C188:9C30:F6C1:69A6:9A26のものです--2001:268:C068:C188:7467:B2EF:201B:67F7 2017年3月4日 (土) 19:57 (UTC)[返信]

記事の内容整理の提案

(新たにセクションを作成--Susuka会話2017年3月4日 (土) 19:52 (UTC)[返信]

  • コメント わかりました。では、現在の記事の記述のうちどこを残し、どこを転記させるか(その転記先はどこか)を、2001:268:C068:C188:9C30:F6C1:69A6:9A26さんに具体的に提案していただけないでしょうか。--Susuka会話2017年3月4日 (土) 19:13 (UTC)[返信]
基本的に日本は関わりないので削除します(すでに政教分離原則記事にほぼ同内容がありますので、転記の必要なし)。それと政教分離原則成立後の近現代については、政教分離原則それ自体に関わる現在の記述はすべて転記か削除。残りはブラッシュアップしてなんとかドイツ国制史上の政教分離が定まったと一般に理解される1803年まで記述をつなげるのが目標と思われます。--110.132.106.234 2017年3月4日 (土) 19:34 (UTC)(IPが変わりました。以上の発言は2001:268:C068:C188:9C30:F6C1:69A6:9A26のものです--2001:268:C068:C188:7467:B2EF:201B:67F7 2017年3月4日 (土) 19:57 (UTC)[返信]
ここまでの議論でご指摘の部分が2次3次の文献から確認でき、独自研究でないということはかなり明らかになっていますが、そうした議論を無視して独自研究であるとするぽてからさんの意見にはいまのところ全く文献的な根拠がありません。方針文書を適切に解釈されているとは思えませんが、ご自身の主張についてしっかりと文献で示すことが出来ますか?はっきり言うとぽてからさんの主張は以前詳しく申しましたように根拠がないことをいつも思いつきでおっしゃってごねていらっしゃるようにしか思えません。--2001:268:C068:C188:BDD6:6713:7688:2CE0 2017年3月5日 (日) 01:57 (UTC)[返信]
  • コメント 2次3次の文献から確認できたのは、やはり、現状、この記事は独自研究の状態でしかないってことですよね。中立的な観点を守って書かれればそれなりになる可能性はあるのに、これは絶対だ、と100%信じ込まれて、学説を学説として書かないなど書き方の問題も大きいんですよ。内容整理についてですが、まず、合意形成できそうな近現代の移動と、古代を中心とした無出典箇所の除去等、できるところから始めるほうが手っ取り早そうですね。現時点では完全に独自研究なんですけど、余計なところをそぎ取らないと議論がしにくいです。冒頭部からして、「政教分離の歴史(せいきょうぶんりのれきし)では、歴史学的知見に基づき、政治社会と宗教の関係性の歴史、とりわけヨーロッパの国家とキリスト教の関係史を中心に概観する」ってどう考えてもおかしいですよね。「ヨーロッパの国家とキリスト教の関係史を中心に」っていうか、キリスト教の教会と国家の関係性以外のことは不要じゃないんですか。だいたい、政教分離を論じる際に、教会成立以前のイエスやパウロの思想から記述する必要も全くないですし。まず、政教分離原則関連は移動、出典なしは除去、という内容整理を優先させて、残ったところをどうするかって議論にしませんか。そうすれば、政教分離の歴史#近代社会とキリスト教(1500年~1800年)宗教改革との重複でしかないことがわかりやすくなるでしょう。--ぽてから会話2017年3月5日 (日) 08:45 (UTC)[返信]
なんていうか全然わかってないですよね。まず独自研究の方針文書は信頼すべき文献からの記載を独自研究から明確に除外しており、認めております。そのうえで学説として書かない云々については、「政教分離の歴史(せいきょうぶんりのれきし)では、歴史学的知見に基づき、政治社会と宗教の関係性の歴史、とりわけヨーロッパの国家とキリスト教の関係史を中心に概観する」という記述が、要はここに書かれている内容は歴史学的な学説に基づいて歴史を述べるんですよという意味です(この日本語難しいでしょうか)。「政教分離を論じる際に、教会成立以前のイエスやパウロの思想から記述する必要も全くないですし。」についてはすでにぽてからさんの個人的感想でしかありません。要はぽてからさんの意見は一言で言うと「根拠はないけど、なんか独自研究だと思う」という個人的感想でしかなく、記事の発展に何ら資するものではないと思われます。さすがにここまで方針文書を恣意的に解釈されてしまうと、私としては呆れるしかないというところではあります。ほかでも類似の議論を展開していらっしゃるようですが、ご自覚なさっていらっしゃいますでしょうか。宗教改革との重複うんぬんとかについては文献的な裏付けも全く示されておらず、もはや何を言ってるのかわからないというのが私の述懐です(宗教改革が1800年まで続いていたと言いたい?以前はグレゴリウス改革を宗教改革に含めるというような別の奇抜な主張をしていらっしゃったと思いましたが、変わりました?)。--2001:268:C068:D7DE:30BD:B412:7D0D:9527 2017年3月5日 (日) 09:07 (UTC)[返信]

コメント 宗教改革が1800年まで続いていたとかいつ言いましたか? グレゴリウス改革宗教改革に含めるなど言った覚えはありませんね。そのあたりは基本的に、グレゴリウス改革と重複記事になってるだけで出典もあまりないので除去で良いだろうと思って言及してなかっただけです。まあ、出典なしは除去してから、内容の話をしましょう。今の状況ですと、この記事は独自研究で削除したほうがいいくらいなんですよね。「政教分離における歴史学的視座」なんて節名で加筆された時点で、内容もあわせて完全に独自研究なわけなんですよ。

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「政教分離における歴史学的視座」をいきなり持ってこられたことで、完全に「歴史学的視座」について教えるぞという内容になってしまってますよね。そうではなくて、このような学説がある、と学説を紹介(事実の提示)するのが、Wikipediaなんですよ。独自研究という概念を独自に解釈されているためだと思いますが、百科事典ではなく、教科書か学術レポートの一種になってしまってますよね。歴史学の課題レポートとして、この内容を提出されたら及第点を取られるくらいに良く書けているとは思うんですけど、百科事典的とは到底言えないという、この違い、わかっていただけませんかね? 「政教分離における歴史学的視座」などについては、編集対応によって百科事典的にできればいいんでしょうが、2001:268:C068:D7DE:30BD:B412:7D0D:9527さんが、独自研究ではなく中立的な観点に書き直すことができるかどうかにかかってますね。このままであれば、ケースEで削除依頼提出とするしかないでしょう。Wikipedia:ウィキペディアは何ではないかも読まれてください。内容整理に関するコメントからズレてきてるみたいですが、まず、「政教分離原則関連は移動、出典なしは除去」をするだけで、わりとスリムになるんじゃないですかね。まずはじめに集中的に「政教分離原則関連は移動、出典なしは除去」を行うべき、ということについてコメントされてませんが、反対する理由はありませんでしょう?--ぽてから会話2017年3月5日 (日) 14:12 (UTC)[返信]