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2017年8月29日 (火) 11:31時点における版

ミロスラフ・クローゼ
SSラツィオでのクローゼ
名前
本名 ミロスラフ・ヨーゼフ・クローゼ
Miroslav Josef Klose
愛称 ミロ、ミレク
ラテン文字 Miroslav Klose
ポーランド語 Mirosław Josef Kloze
基本情報
国籍 ドイツの旗 ドイツ
ポーランドの旗 ポーランド
生年月日 (1978-06-09) 1978年6月9日(46歳)
出身地 ポーランドの旗 ポーランド オポーレ
身長 182cm[1]
体重 83kg[1]
選手情報
ポジション FW
利き足 右足
クラブ1
クラブ 出場 (得点)
1999-2004 ドイツの旗 カイザースラウテルン 120 (44)
2004-2007 ドイツの旗 ブレーメン 89 (53)
2007-2011 ドイツの旗 バイエルン 98 (24)
2011-2016 イタリアの旗 ラツィオ 139 (55)
代表歴
2001-2014 ドイツの旗 ドイツ 136 (71)
1. 国内リーグ戦に限る。2014年7月1日現在。
■テンプレート■ノート ■解説■サッカー選手pj

ミロスラフ・クローゼ(Miroslav Klose, 1978年6月9日 - )は、ポーランドオポーレ出身の元サッカー選手。ポジションはFWポーランド語の表記法ではミロスワフ・クローゼ (Mirosław Kloze) 。

ドイツ代表での出場は歴代2位、得点数は歴代最多。FIFAワールドカップでの通算得点数16は歴代最多の記録である。

人物

父はAJオセールなどでプレーし、ポーランド代表経験も持つ元サッカー選手ユゼフ・クローゼ (Józef Kloze) 、母はポーランド代表で82試合出場した元ハンドボール選手バルバラ・イェジュ (Barbara Jeż) 。妻はポーランド出身のポーランド人[2]。 祖父のエルヴィン・クローゼ(Erwin Klose)はシレジア(ドイツ語シュレージェン、ポーランド語シロンスク)地方出身のドイツ人で、第二次大戦後にシレジアがドイツ領からポーランド領となってから(旧ドイツ東部領土参照)もそのまま定住した。家庭ではドイツ語でなくポーランド語で話している[3][4]。若い頃に大工の資格を取得している。

経歴

9歳でドイツに移住し、7部リーグに所属する小さなクラブ、ブラウバッハ=ディーデルコップフFCホンブルクでアマチュア時代を過ごす。1999年にはブンデスリーガ・1.FCカイザースラウテルンのサテライトチームに移籍し、2000年にプロデビュー。翌シーズンにはUEFAカップ準決勝まで進出し、ポーランドとドイツ両代表から招集を受けるが、クローゼはドイツ代表を選択。2001年3月24日アルバニア戦で代表デビューを果たした。

2002年FIFAワールドカップ日韓大会を控えた親善試合でハットトリックを2度達成して好調を維持。大会本番でも7試合5得点(全ての得点がヘッド)で得点ランク2位になり、ユルゲン・クリンスマンオリバー・ビアホフを継ぐドイツ代表のエースストライカーとしてドイツの準優勝に貢献した。

ブレーメン時代(2006年)

W杯後はクラブ、代表ともに良い活躍を見せられず低迷していたが、2004年7月1日ヴェルダー・ブレーメンへ移籍するとこれが転機となり完全復活。クロアチア代表イヴァン・クラスニッチと2トップを組み、2005-06シーズンはブンデスリーガ得点王となった。さらに2006年のFIFAワールドカップドイツ大会でも7試合で5得点を決めて得点王となった。また得点以外の面でもスウェーデン戦でルーカス・ポドルスキの得点をアシストするなどの活躍を見せた。

2007年6月26日、移籍金1200万ユーロ(約19億8千万円)でバイエルン・ミュンヘンへ移籍した。

2009年になるとチームでの出場機会及び得点数が減少していたが、代表では不動のエースとして活躍。自身3度目となる2010 FIFAワールドカップにも出場した。若返ったチームの中でも活躍し、グループリーグ初戦のオーストラリア戦で得点を挙げ、3大会連続得点を記録した。第2戦のセルビア戦では2枚のイエローカードを受けて前半で退場し、ドイツも敗れた。出場停止明けの決勝トーナメント1回戦イングランド戦ではマヌエル・ノイアーからのゴールキックをDFに競り勝って直接決め、先制点を挙げた。代表通算100試合目の出場となった準々決勝のアルゼンチン戦では2得点を挙げ、この時点でゲルト・ミュラーに並び、W杯通算得点を歴代2位の14得点とした。その後、準決勝のスペイン戦は無得点、3位決定戦のウルグアイ戦は欠場したため大会通算4得点、W杯歴代通算14得点で大会を終えた。

クローゼは「この大会で代表を引退する」と宣言したが、その後UEFA EURO 2012への正式招集が決定。会見で「自分はまだ若いし、2014年まで十分やっていける」と2014 FIFAワールドカップへの参加を示唆する発言をした。2011年2月10日イタリアとの親善試合に出場し代表出場試合数が106となり、ユルゲン・コーラーを抜き歴代単独3位となった。この試合では通算59得点目となる先制点も挙げた。

6月9日、契約期間満了でバイエルンを退団[5]ラツィオへ移籍した[6]。初の海外挑戦に対し不安の声も聞かれたがすんなりとチームにフィットし、怪我での離脱がありながらもチームトップのリーグ戦13得点を記録した。2013年5月5日ボローニャFC戦でセリエAでは27年ぶりとなる1試合5ゴールを記録した[7]

2014 FIFAワールドカップ準決勝ブラジル戦でワールドカップ通算得点を更新し喜ぶクローゼ

2013年9月6日の2014 FIFAワールドカップ予選オーストリア戦で代表通算68得点目を挙げ、ゲルト・ミュラーのドイツ代表歴代最多得点記録に並んだ[8]。そして2014年6月6日、マインツで行われたアルメニアとの試合で途中出場からゴールを決めて、ゲルト・ミュラーの記録を40年ぶりに塗り替えた。本大会では2014年6月22日に行われたグループリーグ第2戦のガーナ戦で元ブラジル代表ロナウドと並ぶFIFAワールドカップ歴代通算最多タイのゴールを決めた。さらに7月9日準決勝では、ブラジル戦で前半23分に右足でシュートを決め、以降6分間でドイツ代表が立て続けに3ゴールを奪うというドイツ圧勝への道筋をつけた。またこのゴールにより、ワールドカップ通算得点を16点とし、記録を更新した[9]。この記録はギネスに認定された。

しかし7月22日に突然、地元ドイツの「ビルト紙」のインタビューに「来年の夏が引退の時」と自ら引退を示唆する発言をしている。

2016年5月10日にラツィオはクローゼとの契約を延長しないことを発表し[10]、2015-2016シーズン終了後に契約満了に伴い退団した。またラツィオでの最後の試合となった5月15日のフィオレンティーナ戦ではPKからゴールを挙げ、ラツィオで通算64得点とし、クラブの外国人選手最多得点記録保持者となった[11]。その後、現役続行の意思を示し、古巣カイザースラウテルン復帰なども報じられたが無所属となっており、同年11月1日にドイツ・サッカー連盟を通じて現役引退を発表した。今後は指導者の道を歩むとのことで、ドイツ代表のスタッフ入りも同時に発表されている[12]

エピソード

  • カイザースラウテルン時代は、プロになるまで大工アルバイトをしていた。これは父の「何か手に職を持っておけ」という言いつけによって大工の職業訓練を受けていたためである[13][14]
  • フランツ・ベッケンバウアーはクローゼを「クロージーニョ」とあだ名している[15][16]
  • ゴールを奪うと、前方宙返りでその喜びを表現することから、「サルト・クローゼ」と呼ばれている[17][18]
  • 2005年4月30日、ブレーメン対ビーレフェルト戦では0-0の時点で自らが得たPKに対して、「自分が倒れただけで、PKではない」と審判に申告し、PKと相手選手への警告を取り消させた。その後、試合はクローゼ自身のゴールもあって3-0でブレーメンが勝利した。このプレーによってクローゼはドイツオリンピック委員会選定の「フェアプレー賞」を受賞している[19][20][21]
  • 2012年9月26日のラツィオ対ナポリ戦では、0-0の前半3分にCKからネットを揺らしたが、ナポリの選手がハンドをアピールして猛抗議すると自らハンドを認め、主審はゴールを取り消した[22]。試合後、ナポリの主将であるパオロ・カンナヴァーロは、「クローゼの行動は、賞が与えられるべきものだ」とそのフェアプレー精神を称賛した。
  • 2014 FIFAワールドカップ・決勝では先発出場した。
    • 同戦はW杯史上最多7回目の対戦組み合わせであるアルゼンチン戦であり、決勝での同カードはこれもW杯史上最多の3回目[23][24]86年メキシコ大会90年イタリア大会)、決勝での戦績は1勝1敗、加えて両者とも当時2大会の直接対決以後優勝から遠ざかっており、因縁の対決ともなった。
    • 更に同戦は直近2大会の準々決勝(2006年大会準々決勝および2010年大会準々決勝)で実現しているカードであり、クローゼは両大会ともアルゼンチンからゴールを奪っている。直近2対戦は何れもドイツが勝利しており、クローゼはアルゼンチンキラーとしての活躍も期待された[25]
    • 結局クローゼはこの決勝では自らゴールネットを揺らすことは出来ず、スコアレスのまま延長に突入する直前の後半43分にマリオ・ゲッツェと交代。この際ゲッツェに「おまえならできる」と話している[26]。過去3大会の好成績を支えながらもあと一歩で母国の優勝の栄光を逃してきたクローゼからバトンを受け継ぐような形で、22歳のゲッツェは延長後半8分にゴールを決めた。これがこの決勝戦唯一のゴールとなり、試合は1-0でドイツが勝利。4回目24年(6大会)ぶり・南米開催大会では欧州勢史上初の優勝を果たした。

個人成績

クラブ個人成績

クラブ シーズン 国内リーグ 国内カップ戦 欧州カップ戦 合計
出場 得点 出場 得点 出場  得点 出場 得点
カイザースラウテルン 1999-00 2 0 2 0
2000-01 29 9 2 0 12 2 43 11
2001-02 31 16 4 0 35 16
2002-03 32 9 4 4 36 13
2003-04 26 10 1 1 2 1 29 12
合計 120 44 11 5 14 3 145 52
ブレーメン 2004-05 32 15 5 0 8 2 44 17
2005-06 26 25 5 2 9 4 40 31
2006-07 31 13 3 1 13 2 47 16
合計 89 53 13 3 30 8 132 64
バイエルン 2007-08 27 10 8 6 12 5 47 21
2008-09 26 10 4 3 8 7 38 20
2009-10 25 3 5 2 8 1 38 6
2010-11 20 1 4 3 2 1 26 5
合計 98 24 21 14 30 14 146 52
ラツィオ 2011-12 27 13 2 0 6 3 35 16
2012-13 29 15 2 0 5 1 36 16
2013-14 24 7 1 0 3 1 28 8
2014-15 34 13 6 3 40 16
合計 116 48 11 3 14 5 139 56
通算(ドイツ) 307 121 45 21 74 25 423 168
通算(イタリア) 116 48 11 3 14 5 139 56

代表個人成績


ドイツ代表国際Aマッチ
出場得点
2001 7 2
2002 17 12
2003 10 1
2004 11 5
2005 5 0
2006 17 13
2007 5 3
2008 15 8
2009 6 4
2010 12 10
2011 8 5
2012 13 4
2013 4 1
2014 6 3
通算 136 71

代表での得点

  FIFAワールドカップでの得点

タイトル

クラブ
ブレーメン
バイエルン・ミュンヘン
SSラツィオ
代表
ドイツ代表
個人

文献

  1. ^ a b Miroslav Klose (英語) ESPN
  2. ^ http://www.em-08.info/spielerfrauen/sylwia_klose_/
  3. ^ http://www.123football.com/players/k/miroslav-klose/index.htm
  4. ^ http://www.spiegel.de/spiegel/print/d-54683212.html?name=Ein+dickk%26ouml%3Bpfiges+Bambi
  5. ^ [1]
  6. ^ ラツィオ、クローゼ獲得を発表Goal.com 2011年6月9日
  7. ^ クローゼ、1試合5得点も「チームのおかげ」Goal.com 2013年5月6日
  8. ^ G・ミュラーに並んだクローゼ 「並んだとは思ってない」goal.com 2013年9月7日
  9. ^ クローゼ、W杯通算得点記録を更新”. Goal.com (2004年7月9日). 2004年7月9日閲覧。
  10. ^ 元ドイツ代表クローゼがラツィオ退団へ 現役は続行日刊スポーツ 2016年5月11日
  11. ^ 37歳伝説クローゼ、感動的なグランド・フィナーレ「この5年間は決して忘れはしない」フットボールチャンネル 2016年5月17日
  12. ^ W杯歴代通算最多ゴールのクローゼが現役引退…今後は監督業の道へ」goal.com 2016年11月1日
  13. ^ 増島みどり. “ミロスラフ・クローゼ「静かなる成功者」”. MASUJIMA STADIUM. 2011年12月28日閲覧。
  14. ^ Sven Becker (2007年6月27日). “From carpenter to goalgrabber” (英語). Bundesliga. 2011年12月28日閲覧。
  15. ^ 12 des Tages: Samba mit "Klosinho"” (ドイツ語). SPIEGEL ONLINE (2006年12月4日). 2011年12月28日閲覧。
  16. ^ Barça vai encarar "Klosinho" alemão” (ポルトガル語). Globoesporte.com (2006年12月3日). 2011年12月28日閲覧。
  17. ^ Wer jubelt am schönsten?” (ドイツ語). FIFA.com (2010年10月9日). 2011年12月28日閲覧。
  18. ^ Shreshta Trivedi (2006年7月12日). “Up Klose and personal with Miroslav” (英語). ZEENEWS.com. 2011年12月28日閲覧。
  19. ^ Miroslav Klose Picks Up Fair Play Award” (英語). Werder Bremen (2005年5月11日). 2011年12月28日閲覧。
  20. ^ FAIR PLAY TO YOU, MIROSLAV” (英語). sportinglife.com. 2011年12月28日閲覧。
  21. ^ National team player Miroslav Klose” (英語). DFB - Deutscher Fußball-Bund e.V. (2006年5月15日). 2011年12月28日閲覧。
  22. ^ クローゼがハンドを認めてゴール取り消しGoal.com 2012年9月27日
  23. ^ “ドイツ対アルゼンチン、決勝カードは過去1勝1敗”. 朝日新聞デジタル. (2014年7月10日). http://www.asahi.com/articles/ASG7B2V95G7BUTQP00N.html 2014年7月10日閲覧。 
  24. ^ “過去に2大会連続決勝で対戦=ドイツとアルゼンチン”. 時事ドットコム. (2014年7月10日). http://www.jiji.com/jc/wcup2014?s=news_30&k=2014071000770 2014年7月10日閲覧。 
  25. ^ 実はアルゼンチンキラー…クローゼ 代表引退は「決勝後に決断」スポーツニッポン 2014年7月12日
  26. ^ クローゼ、ゲッツェに「おまえならできる」Goal.com 2014年07月14日

外部リンク