「大陸軍 (フランス)」の版間の差分
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:[[アイラウの戦い|アイラウ]] |
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:[[フリートラントの戦い|フリートラント]] |
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:[[バイレンの戦い|バイレン]] |
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:[[ビトリアの戦い|ビトリア]] |
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[[1812年ロシア戦役|ロシア遠征]] |
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:[[スモレンスクの戦い (1812年)|スモレンスク]] |
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:[[ボロジノの戦い|ボロジノ]] |
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:[[ベレジナの戦い|ベレジナ]] |
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:[[リニーの戦い|リニー]] |
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:[[ワーテルローの戦い|ワーテルロー]] |
:[[ワーテルローの戦い|ワーテルロー]] |
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|commander1=[[ファイル:Imperial Standard of Napoléon I.svg|20px]] [[ナポレオン・ボナパルト|ナポレオン]]<BR />[[ファイル:Flag of the Kingdom of Naples (1811).svg|20px]] [[ジョアシャン・ミュラ|ミュラ]]<BR />[[ファイル:Flag of France.svg|20px]] [[ジャン・ランヌ|ランヌ]]<BR />[[ファイル:Flag of France.svg|20px]] [[ルイ=アレクサンドル・ベルティエ|ベルティエ]]<BR />[[ファイル:Flag of France.svg|20px]] [[ミシェル・ネイ|ネイ]]<BR />[[ファイル:Flag of France.svg|20px]] [[ルイ=ニコラ・ダヴー|ダヴー]]<BR />[[ファイル:Flag of Sweden.svg|20px]] [[ジャン=バティスト・ベルナドット|ベルナドット]]<BR />[[ファイル:Flag of France.svg|20px]] [[ニコラ=ジャン・ド・デュ・スールト|スールト]]<BR />[[ファイル:Flag of France.svg|20px]] [[アンドレ・マッセナ|マッセナ]]<BR />[[ファイル:Flag of France.svg|20px]] [[ルイ=ガブリエル・スーシェ|スーシェ]]<BR />[[ファイル:Flag of France.svg|20px]] [[クロード・ヴィクトル=ペラン|ヴィクトル]]<BR />[[ファイル:Flag of France.svg|20px]] [[ピエール・オージュロー|オージュロー]]<BR />[[ファイル:Flag of France.svg|20px]] [[フランソワ・ジョゼフ・ルフェーヴル|ルフェーヴル]]<BR />[[ファイル:Flag of France.svg|20px]] [[エドゥアール・モルティエ|モルティエ |
|commander1=[[ファイル:Imperial Standard of Napoléon I.svg|20px]] [[ナポレオン・ボナパルト|ナポレオン]]<BR />[[ファイル:Flag of the Kingdom of Naples (1811).svg|20px]] [[ジョアシャン・ミュラ|ミュラ]]<BR />[[ファイル:Flag of France.svg|20px]] [[ジャン・ランヌ|ランヌ]]<BR />[[ファイル:Flag of France.svg|20px]] [[ルイ=アレクサンドル・ベルティエ|ベルティエ]]<BR />[[ファイル:Flag of France.svg|20px]] [[ミシェル・ネイ|ネイ]]<BR />[[ファイル:Flag of France.svg|20px]] [[ルイ=ニコラ・ダヴー|ダヴー]]<BR />[[ファイル:Flag of Sweden.svg|20px]] [[ジャン=バティスト・ベルナドット|ベルナドット]]<BR />[[ファイル:Flag of France.svg|20px]] [[ニコラ=ジャン・ド・デュ・スールト|スールト]]<BR />[[ファイル:Flag of France.svg|20px]] [[アンドレ・マッセナ|マッセナ]]<BR />[[ファイル:Flag of France.svg|20px]] [[ルイ=ガブリエル・スーシェ|スーシェ]]<BR />[[ファイル:Flag of France.svg|20px]] [[クロード・ヴィクトル=ペラン|ヴィクトル]]<BR />[[ファイル:Flag of France.svg|20px]] [[ピエール・オージュロー|オージュロー]]<BR />[[ファイル:Flag of France.svg|20px]] [[フランソワ・ジョゼフ・ルフェーヴル|ルフェーヴル]]<BR />[[ファイル:Flag of France.svg|20px]] [[エドゥアール・モルティエ|モルティエ]]<BR />[[ファイル:Flag of France.svg|20px]] [[オーギュスト・マルモン|マルモン]] |
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'''大陸軍'''(だいりくぐん |
'''大陸軍'''(仮名:だい・りくぐん|仏語:''Grande Armée'')は、[[フランス第一帝政]]下の陸軍組織であり、[[ナポレオン・ボナパルト|ナポレオン1世]]が命名したフランス兵を中核とする軍隊の名称である。偉大な陸軍という意味が込められていた。 |
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[[ファイル:Premiere-legion-dhonneur.jpg|境界|左|フレームなし]] |
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最初の記録に現れるのは1805年、イギリス本土侵攻に向けて[[ドーバー海峡]]に面した[[ブローニュ=シュル=メール|ブローニュ]]に総勢18万の大軍を集結させた時であった。大陸軍の名称は兵士達を鼓舞したが結局イギリス上陸作戦は中止となり内陸部でオーストリア、ロシアと交戦した。その後も1806年から1807年のプロイセン、ロシアとの戦い、1808年から1814年までの[[半島戦争|スペイン半島戦争]]、1809年のオーストリアとの決戦、1812年の[[1812年ロシア戦役|ロシア遠征]]の各戦役においても大陸軍の名称が使われていた。ナポレオンの勢力拡大と共にその規模は膨れ上がり、1812年夏にピークを迎えた兵員数は685,000名を数えて、大陸軍はフランスとその勢力圏諸国から動員された多国籍軍隊の総称となった<ref>Elting, John R.:"Swords Around A Throne.", pages 60-65. Da Capo Press, 1997</ref>。ロシア遠征の敗北で莫大な兵力を喪失した後もナポレオンは新たな兵員を徴集して大陸軍を立て直し、1813年のドイツ戦役、1814年のフランス防衛戦、そして1815年の[[百日天下]]まで死闘を繰り広げた。 |
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最初の大陸軍は6個[[軍団]]で構成されたものから始まり、その規模はナポレオンの覇権がヨーロッパ中に広がるにつれ拡大していった。1812年夏に[[1812年ロシア戦役|ロシア遠征]]を始めた時がそのピークで兵力は685,000名を数えた。 |
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ロシア遠征の敗北で莫大な兵力を喪失した後もナポレオンは新たな兵員を徴集して軍隊を立て直し1813年の[[ライプツィヒの戦い|諸国民の戦い]]、1814年のフランス防衛戦、そして1815年の[[ワーテルローの戦い]]で大陸軍の指揮を取った。しかし大陸軍は1812年6月当時の規模まで戻る事はなかった。 |
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== 組織 == |
== 組織 == |
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=== 軍団と師団 === |
=== 軍団と師団 === |
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[[ファイル:Grande-armee en.svg|サムネイル|200x200ピクセル|大陸軍の組織階層]] |
[[ファイル:Grande-armee en.svg|サムネイル|200x200ピクセル|大陸軍の組織階層]] |
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大陸軍が成功した |
大陸軍(グランダルメ)が成功した要因の一つは組織の優れた柔軟性と機動性にあり、それは[[軍団]](''corps d'armée'')と[[師団]](''division'')の編制単位を常設しそれぞれに管理部門と補給部門を持たせる事で実現されていた。編制を均一化し独自の兵站機能を備えた軍団と師団は個々に独立して活動出来たので軍隊の多元的な運用が可能となった。他のヨーロッパ諸国の軍隊は、封建領地ごとに組織されていた[[連隊]](''régiment'')を複数集めて結成した[[旅団]](''brigade'')が戦争時の最大編制単位であり、管理部門と補給部門を持つ軍司令官がそれらの雑多な旅団を動かすという一元的な運用しか出来なかったのでこの違いは大きかった。戦争が進むにつれて旧態依然だった各国も師団以上の編制を取り入れるようになった。 |
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大陸軍は複数の軍団に分割されて運用された。軍団の兵員数は10,000万名から50,000万名 |
大陸軍は複数の軍団に分割されて運用された。軍団の兵員数は10,000万名から50,000万名であり、歩兵騎兵砲兵の三兵科を持ち更に兵站部門を備えていた。三兵科の標準構成は3個歩兵師団と1個騎兵師団と軍団砲兵というものであった。軍団は単独でも作戦行動が可能であり、更に他の軍団とも互いに連携した行動を取れた。ナポレオンは軍団指揮官に対して彼の作戦の範囲内における幅広い行動の自由権を与えていた。 |
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師団は、軍団の担当地域内で実際に敵軍勢と衝突する場面に対応した編 |
師団は、軍団の担当地域内で実際に敵軍勢と衝突する場面に対応した編制単位であり、歩兵師団と騎兵師団があった。師団も独自の輜重部隊を備えていた。歩兵師団の兵員数は4,000名から10,000名であり、2ないし3個旅団または3ないし5個連隊で構成され、それに徒歩砲兵が付いた。騎兵師団の兵員数は2,000名から4,000名であり、2個騎兵旅団または2ないし3個騎兵連隊で構成され、それに騎馬砲兵が付いた。師団の発案者は[[フランス革命戦争]]時の陸軍大臣[[ラザール・カルノー]]であり、ナポレオンはこの智慧を受け継いで大軍隊構築の土台とした事になる。 |
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=== 皇帝軍事宮廷 === |
=== 皇帝軍事宮廷 === |
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[[ファイル:Napoleon bivouac Wagram.jpg|サムネイル|ナポレオンと幕僚たち]] |
[[ファイル:Napoleon bivouac Wagram.jpg|サムネイル|ナポレオンと幕僚たち]] |
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皇帝軍事宮廷(''Maison |
皇帝軍事宮廷(''Maison militaire de l'Empereur'')は、皇帝直属の侍従武官(''aide-de-camp'')とその秘書達および常任士官(''officier d'ordonnance'')で構成されたナポレオンの戦争指導を支える為の統帥機関であった。他に帝国内閣閣僚などの重臣連もそれに加わっていた。侍従武官たちはヨーロッパ全土の様々な情報を収集し、遠征区域の地理地形を調べ上げてナポレオンの作戦立案を助けていた。侍従武官になったのはナポレオンに忠実で特にイタリアとエジプトで共に戦った経験を持つ歴戦の将軍と将校たちだった。密偵を駆使するなどして緻密で広大な情報網を張り巡らしていた彼らは文字通りナポレオンの目となり耳となってその戦略構想に多大な影響を及ぼしており、将軍のみならず元帥でさえも侍従武官には敬意を払って彼らの助言に耳を傾けていた。皇帝直属の侍従武官は全期間を通して合計37人が任命されたが一度の在任者は12名までに限られていた。侍従武官はそれぞれが秘書を持ち自身の業務を助けさせた。彼らが長期間在任し続ける事は少なく一定期間が過ぎると前線司令官や総督に転任され、ナポレオンの指示があればまた復任するのが普通だった。常任士官は偵察や伝令など主に遠隔地への往来を担当したが、1809年に廃止されてその職務は各侍従武官の秘書、補佐官に引き継がれた。 |
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=== 参謀総監 === |
=== 参謀総監 === |
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[[ファイル:Louisberthier1.jpg|サムネイル|214x214px|参謀総監ベルティエ]] |
[[ファイル:Louisberthier1.jpg|サムネイル|214x214px|参謀総監ベルティエ]] |
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参謀総監(''Major-Général'')は皇帝軍事宮廷とはまた独立した権限と機能を持ち、ナポレオンから発せられた戦争指導を具体的に実現する為の事務統括者であった。[[百日天下]]を除く帝国の全期間を通して[[ルイ=アレクサンドル・ベルティエ|ルイ=アレクサンドル・ベルティエ]]が在任し続けており参謀総監とベルティエはほとんど同義の言葉となっ |
参謀総監(''Major-Général'')は皇帝軍事宮廷とはまた独立した権限と機能を持ち、ナポレオンから発せられた戦争指導を具体的に実現する為の事務統括者であった。[[百日天下]]を除く帝国の全期間を通して[[ルイ=アレクサンドル・ベルティエ|ルイ=アレクサンドル・ベルティエ]]が在任し続けており参謀総監とベルティエはほとんど同義の言葉となった。参謀総監の役目は、皇帝から発せられた戦争指導を具体的な内容に書き表して、それが記された命令書を各司令官に届ける事であった。その司令官が部隊を率いて移動するルートを策定し、それに伴う軍需品の用意と物資運送の手配をする事もまた重要な役割であった。早期からナポレオンと共に二人三脚で軍隊を動かしてきたベルティエは深く信頼され、ナポレオンは彼の職分を尊重し、皇帝でさえ参謀総監とその部下の業務には介入しない事になった。各地の司令官からの皇帝宛の報告書は全てベルティエが目を通しており、必要とあらば彼が代わりに返信し、また必要と思われるレポートだけを取捨選択して皇帝に伝える事もあったので、軍隊運営における彼はほとんどナポレオンの化身であった。しかしロシア遠征時の[[ボロジノの戦い|ボロディノの戦い]]以降はそれまでの様な全面的委託は避けられたという。なお、参謀長(''chef d'état-major'')は各軍(armée / corps d'armée / division)司令官(''commandant'')の秘書業務統括者であり、皇帝直率の方面軍ではベルティエがその参謀長を兼任した。 |
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== 大陸軍の戦力 == |
== 大陸軍の戦力 == |
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=== 皇帝近衛隊 === |
=== 皇帝近衛隊 === |
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[[ファイル:Grenadier Pied 1 1812 Revers.png|サムネイル|200x200ピクセル|近衛歩兵隊のマーク]] |
[[ファイル:Grenadier Pied 1 1812 Revers.png|サムネイル|200x200ピクセル|近衛歩兵隊のマーク]] |
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皇帝近衛隊 |
1804年5月に発足した皇帝近衛隊(''Garde impériale'')はフランスの最精鋭軍隊であり、前身の執政親衛隊(''Garde des consuls'')から発展した組織だった。皇帝近衛隊はそれ自体が一つの軍団(corps d'armée)であり、歩兵騎兵砲兵の三兵科と支援部門を備えていた。ナポレオンは皇帝近衛隊が全軍隊の模範となる事を望み、常に皇帝と共に従軍して絶対の忠誠を示す事を求めた。 |
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皇帝近衛隊に存在する様々な兵種は連隊単位で管理された。一般の連隊長の職名が大佐階級と同名の「''Colonel''」だったのに対し、近衛連隊指揮官には複数の等級別職名が存在した。一等名は「''Major-colonel''」二等名は「''Colonel-major''」三等名は「''Major''」であった。最上級連隊のみ上位三者が揃い、他の連隊は下位二者ないし一者だけだった。一等二等には旅団将軍の者が、三等には大佐の者が任じられた。各連隊は旅団、師団、集団(corps)などの編制単位にまとめられたが、その指揮官の職名は「''Colonel commandant''」で師団将軍の者が任じられた。役職名(fonction)と階級名(grade)に同じ単語が使われてるので紛らわしかった。 |
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皇帝近衛隊内の各兵種を分類すると'''戦列歩兵科'''は近衛擲弾兵、近衛小銃擲弾兵、近衛狙撃歩兵。'''軽歩兵科'''は近衛猟歩兵、近衛小銃猟歩兵、近衛選抜歩兵。'''重騎兵科'''は近衛騎馬擲弾兵、皇后竜騎兵。'''軽騎兵科'''は近衛猟騎兵、近衛軽槍騎兵となった。 |
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最終的に皇帝近衛隊は経験と能力によって三階層に分けられる構造となっていた。1809年からの組織拡張の中で新規近衛隊が創設され新しい採用者はそこに編入された。同時に従来の近衛隊は古参近衛隊と呼ばれるようになった。1810年頃に新規と古参の渡り橋となる中堅近衛隊が新設されたが、これは1814年のナポレオン退位時に消滅したままとなった。各近衛部隊の格式とそこに所属する近衛兵の格式はまた別であり、中堅ないし新規近衛隊の士官は古参近衛隊からの編入者(古参近衛兵)である事が多く、新規近衛隊の下士官は中堅近衛隊からの編入者である事が多かった。 |
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==== 古参近衛隊 ==== |
==== 古参、中堅、新規近衛隊 ==== |
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最終的に皇帝近衛隊は経験と能力によって三階層に分けられる構造となっていた。1806年から本格的な増員が始まり、1809年の組織拡張の中で新規近衛隊が創設され新しい採用者はそこに編入された。同時に従来の近衛隊は古参近衛隊と呼ばれるようになった。1810年に新規と古参の渡り橋となる中堅近衛隊が新設され、1806年からの増員組がその主な構成員となった。各近衛部隊の格式とそこに所属する近衛兵の格式はまた別であり、中堅ないし新規近衛隊の士官は古参近衛隊からの編入者(古参近衛兵)である事が多く、新規近衛隊の下士官は中堅近衛隊からの編入者(中堅近衛兵)である事が多かった。 |
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[[ファイル:Montfort - Adieux de Napoleon a la Garde imperiale.jpg|サムネイル|240x240ピクセル|古参近衛隊との別れ]] |
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[[古参近衛隊]]({{lang|fr|Vieille Garde}})は皇帝近衛隊の最高格であり、構成員は全て3~5回以上の方面作戦(campagne)従軍経験を持ち、戦闘能力と勇敢さを表彰された者たちだった。1814年の最大規模時の構成内容は以下の通りだった。 |
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'''古参近衛隊(''Vieille Garde'')'''[[ファイル:Montfort - Adieux de Napoleon a la Garde imperiale.jpg|サムネイル|240x240ピクセル|古参近衛隊との別れ]] |
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[[古参近衛隊]]は皇帝近衛隊の最高格であり、構成員は全て3~5回以上の方面作戦(campagne)従軍経験を持ち、戦闘能力と勇敢さを表彰された者たちだった。1813年の最大規模時の構成内容は以下の通りだった。 |
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: 近衛擲弾兵第1連隊+第2連隊 |
: 近衛擲弾兵第1連隊+第2連隊 |
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: 近衛猟歩兵第1連隊+第2連隊 |
: 近衛猟歩兵第1連隊+第2連隊 |
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: 近衛偵察騎兵第1連隊の第1大隊 |
: 近衛偵察騎兵第1連隊の第1大隊 |
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: 近衛徒歩砲兵第1連隊 |
: 近衛徒歩砲兵第1連隊 |
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: 近衛騎 |
: 近衛騎馬砲兵連隊の第1大隊+第2大隊 |
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'''中堅近衛隊(''Moyenne Garde'')''' |
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中堅近衛隊<ref>[http://web2.airmail.net/napoleon/IMPERIAL_GUARD_infantry_1.htm#frenchthemiddleguard Napoleon's Guard Infantry - Moyenne Garde], Accessed March 16, 2006</ref>は皇帝近衛隊の次席格であった。新規近衛隊で経験を積んだ者を引き上げて精鋭歩兵団を構成させつつ、古参近衛候補生とするか、又は新規近衛隊の士官ないし下士官の補充要員としていた。1814年のナポレオン退位時に解散し1815年の[[百日天下]]でも再建されなかった。1813年の最大規模時の構成内容は以下の通りだった。 |
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==== 中堅近衛隊 ==== |
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中堅近衛隊({{lang|fr|Moyenne Garde}})<ref>[http://web2.airmail.net/napoleon/IMPERIAL_GUARD_infantry_1.htm#frenchthemiddleguard Napoleon's Guard Infantry - Moyenne Garde], Accessed March 16, 2006</ref>は皇帝近衛隊の次席格であった。規模的には小さく、新規近衛隊で経験を積んだ者を引き上げてストックし精鋭歩兵団を構成させ、又は古参近衛候補生とし、又は新規近衛隊の士官ないし下士官の補充要員としていた。1814年の最大規模時の構成内容は以下の通りだった。 |
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: 近衛小銃猟歩兵連隊 |
: 近衛小銃猟歩兵連隊 |
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: 近衛小銃擲弾兵連隊 |
: 近衛小銃擲弾兵連隊 |
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: 近衛軽槍騎兵第1連隊の第5大隊~第8大隊 |
: 近衛軽槍騎兵第1連隊の第5大隊~第8大隊 |
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'''新規近衛隊(''Jeune Garde'')'''[[ファイル:Napoleon-imperial-guard.png|サムネイル|273x273px|近衛隊の閲兵]] |
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新規近衛隊<ref>[http://www.napoleon-series.org/military/organization/frenchguard/c_tirailleurs.html Tirailleurs de la Garde Imperiale: 1809-1815], Accessed March 16, 2006</ref>は皇帝近衛隊の末席格であった。元々は最低1回の従軍経験を持つ推薦された若年士官と年間表彰兵が入隊していたが、後には新兵からの選抜者が大半を占めるようになった。1813年の最大規模時の構成内容は以下の通りだった。 |
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==== 新規近衛隊 ==== |
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: 近衛狙撃歩兵第1連隊~第12連隊 |
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[[ファイル:Napoleon-imperial-guard.png|サムネイル|273x273px|近衛隊の閲兵]] |
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: 近衛選抜歩兵第1連隊~第12連隊 |
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新規近衛隊({{lang|fr|Jeune Garde}})<ref>[http://www.napoleon-series.org/military/organization/frenchguard/c_tirailleurs.html Tirailleurs de la Garde Imperiale: 1809-1815], Accessed March 16, 2006</ref>は皇帝近衛隊の末席格であった。元々は最低1回の従軍経験を持つ推薦された若年士官と年間表彰兵が入隊していたが、後には大半が経験の浅い召集兵と志願兵からの選抜者になった。1814年の最大規模時の構成内容は以下の通りだった。 |
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: 近衛狙撃歩兵第1連隊~第16連隊 |
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: 近衛選抜歩兵第1連隊~第16連隊 |
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: 近衛海兵大隊 |
: 近衛海兵大隊 |
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: 近衛哨戒擲弾兵連隊 |
: 近衛哨戒擲弾兵連隊 |
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: 近衛軽槍騎兵第1連隊の第9大隊+第10大隊 |
: 近衛軽槍騎兵第1連隊の第9大隊+第10大隊 |
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: 近衛軽槍騎兵第2連隊の第5大隊~第10大隊 |
: 近衛軽槍騎兵第2連隊の第5大隊~第10大隊 |
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: 近衛偵察騎兵第1連隊の第2大隊~第4大隊 |
: 近衛偵察騎兵第1連隊の第2大隊~第4大隊、第2連隊+第3連隊 |
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: 近衛偵察騎兵第2連隊+第3連隊 |
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: 近衛名誉国防騎兵第1連隊~第4連隊 |
: 近衛名誉国防騎兵第1連隊~第4連隊 |
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: 近衛徒歩砲兵第2連隊 |
: 近衛徒歩砲兵第2連隊 |
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: 近衛騎 |
: 近衛騎馬砲兵連隊の第3大隊 |
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'''戦闘時の編制''' |
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皇帝近衛隊の各連隊は以下のような戦闘序列の編制単位にまとめられて運用された。1813年の最大規模時の編制内容は以下の通りだった。 |
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:'''古参近衛擲弾兵集団'''(''Corps des grenadiers à pied de la Vieille Garde'') |
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::近衛擲弾兵第1連隊+第2連隊 |
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::近衛小銃擲弾兵連隊 |
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::近衛徒歩砲兵第1連隊の第5中隊 |
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:'''古参近衛猟歩兵集団'''(''Corps des chasseurs à pied de la Vieille Garde'') |
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::近衛猟歩兵第1連隊+第2連隊 |
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::近衛小銃猟歩兵連隊 |
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::近衛徒歩砲兵第1連隊の第6中隊 |
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:'''近衛重騎兵師団'''(''Division de cavalerie lourde de la Garde'') |
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::近衛騎馬擲弾兵連隊 |
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::皇后竜騎兵連隊 |
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::近衛騎馬砲兵連隊の第1大隊 |
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:'''近衛軽騎兵師団'''(''Division de cavalerie légère de la Garde'') |
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::近衛猟騎兵連隊 |
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::近衛軽槍騎兵第1連隊+第2連隊 |
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::近衛騎馬砲兵連隊の第2大隊 |
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:'''予備砲兵'''(''Artillerie de réserve'') |
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::近衛徒歩砲兵第1連隊の第1中隊~第4中隊 |
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:'''新規近衛師団'''(''Division de la Jeune Garde'') ※1813年には6個存在した。 |
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::歩兵旅団(近衛狙撃歩兵の1個連隊+近衛選抜歩兵の1個連隊) |
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::歩兵旅団(近衛狙撃歩兵の1個連隊+近衛選抜歩兵の1個連隊) |
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::近衛徒歩砲兵第2連隊の2個中隊 |
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==== 近衛歩兵 ==== |
==== 近衛歩兵 ==== |
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; 近衛擲弾兵( |
; 近衛擲弾兵(''Grenadiers-à-Pied de la Garde impériale'')<ref>[http://www.napoleon-series.org/military/organization/frenchguard/c_impgren.html Uniform of the Grenadiers-a-Pied de la Garde], Accessed March 16, 2006</ref><ref>[http://www.napoleon-series.org/military/organization/c_grenadiers.html Foot Grenadiers in the Imperial Guard], Accessed March 16, 2006</ref> |
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[[ファイル:Grenadier-a-pied-de-la-Vieille-Garde.png|thumb|354x354px|近衛擲弾兵]] |
[[ファイル:Grenadier-a-pied-de-la-Vieille-Garde.png|thumb|354x354px|近衛擲弾兵]] |
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: 執政親衛隊内の2個大隊を起源とするフランス軍の最上級歩兵団であり、1804年の皇帝近衛隊発足時に連隊となった。1807年のポーランド遠征の中でナポレオンから「不平屋」という渾名を付けられたが、これは皇帝の前でも愚痴をこぼす事を許された彼らの特権を示すものでもあった。 |
: 執政親衛隊内の2個大隊を起源とするフランス軍の最上級歩兵団であり、1804年の皇帝近衛隊発足時に連隊となった。密集隊形を組む戦列歩兵科だった。1807年のポーランド遠征の中でナポレオンから「不平屋」という渾名を付けられたが、これは皇帝の前でも愚痴をこぼす事を許された彼らの特権を示すものでもあった。フランス軍内で最も経験を積んだ最優秀の古参歩兵である近衛擲弾兵は、ナポレオンの最後の切り札とされ他の近衛兵ほど戦闘に投入される機会もなく言わば殿堂入りの存在だった。この連隊への採用には厳しい基準が定められており、10年以上の軍隊勤務歴と勇敢さでの表彰歴を持ち、品行方正かつ読み書きが出来て178cm以上の身長である必要があった。1806年に新編成された第2連隊は1810年に中堅近衛隊所属となり1813年に古参近衛隊に昇格した。1810年にオランダ近衛隊を元にした第3連隊が発足したが、これは1813年に解散している。1815年の[[百日天下]]の時に第3連隊と第4連隊が追加編制され古参近衛隊に所属した。 |
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: 装備品は[[シャルルヴィル・マスケット|シャルルヴィル1777年型マスケット銃]]とその銃剣と歩兵用小剣であり、これは他の近衛歩兵にも共通していた。 |
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: 制服は白いチョッキの上に、襟口は青く袖口は赤色で白い襟返しのダークブルーのコートを着た。コートには赤色肩章が付いていた。白いズボンと黒い長靴を履いた。前面に金の彫刻板を留め金の飾り紐を巻き赤い羽飾りを立てた背高の熊毛帽をかぶった。 |
: 制服は白いチョッキの上に、襟口は青く袖口は赤色で白い襟返しのダークブルーのコートを着た。コートには赤色肩章が付いていた。白いズボンと黒い長靴を履いた。前面に金の彫刻板を留め金の飾り紐を巻き赤い羽飾りを立てた背高の熊毛帽をかぶった。 |
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; 近衛猟歩兵( |
; 近衛猟歩兵(''Chasseurs-à-Pied de la Garde impériale'') |
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:執政親衛隊内の1個大隊を起源とするエリート歩兵団であり、近衛擲弾兵と双璧をなして戦場では共に連携して戦う位置付けだった。1804年の皇帝近衛隊発足時に連隊となった。採用基準も近衛擲弾兵と概ね同じで身長のみ172cm以上だった。1806年に |
: 執政親衛隊内の1個大隊を起源とするエリート歩兵団であり、散開して戦う軽歩兵科の彼らは、近衛擲弾兵と双璧をなして戦場では共に連携して戦う位置付けだった。1804年の皇帝近衛隊発足時に連隊となった。採用基準も近衛擲弾兵と概ね同じで身長のみ172cm以上だった。1806年に第2連隊が新編制された。1815年の百日天下の時に第3連隊と第4連隊が追加編制され、彼らはワーテルローの戦いで最終突撃を敢行した。 |
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: 制服は白いチョッキの上に、襟口は青く袖口は赤色で白い襟返しのダークブルーのコートを着た。コートには緑色肩章(房紐は赤)が付いていた。白いズボンと黒い長靴を履いた。銀の飾り紐を巻き赤+緑の羽飾りを立てた中高の熊毛帽をかぶった<ref>[http://www.napoleon-series.org/military/organization/frenchguard/chasseurs/c_chasseursapied.html Uniforms of the Chasseurs-a-Pied de la Garde], Accessed March 16, 2006</ref>。 |
: 制服は白いチョッキの上に、襟口は青く袖口は赤色で白い襟返しのダークブルーのコートを着た。コートには緑色肩章(房紐は赤)が付いていた。白いズボンと黒い長靴を履いた。銀の飾り紐を巻き赤+緑の羽飾りを立てた中高の熊毛帽をかぶった<ref>[http://www.napoleon-series.org/military/organization/frenchguard/chasseurs/c_chasseursapied.html Uniforms of the Chasseurs-a-Pied de la Garde], Accessed March 16, 2006</ref>。 |
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; 近衛海兵 |
; 近衛海兵(''Marins''' de la Garde impériale''''') |
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:[[ファイル:Napoleon Guard Marine by Bellange.jpg|サムネイル|236x236ピクセル|近衛海兵]]1803年にイギリス上陸作戦に向けて皇帝座乗船の乗組員となる近衛海兵大隊が組織された。この大隊の構造は海軍式であり5個集団(一つの艦船の乗組員集団)で構成された。イギリス侵攻作戦が中止された後は近衛歩兵の一員となり、ナポレオンが乗り込む船舶、ボートや[[艀|バージ]]などの操舵と管理を担当した。船舶作業の時は邪魔にならない拳銃を主武器とした。 |
:[[ファイル:Napoleon Guard Marine by Bellange.jpg|サムネイル|236x236ピクセル|近衛海兵]]1803年にイギリス上陸作戦に向けて皇帝座乗船の乗組員となる近衛海兵大隊が組織された。この大隊の構造は海軍式であり5個集団(一つの艦船の乗組員集団)で構成された。イギリス侵攻作戦が中止された後は近衛歩兵の一員となり、ナポレオンが乗り込む船舶、ボートや[[艀|バージ]]などの操舵と管理を担当した。船舶作業の時は邪魔にならない拳銃を主武器とした。 |
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: 制服は金のモールを肋骨状に並べた青いジャケットと、金のストライプの入った青いズボンだった。赤い羽飾りが立てられ上辺に金色の縁取りがされた青い円筒帽をかぶった<ref>[http://www.fusiliers.com/item_gdemarinv8.html Grand Tenue - Marins de la Garde], Accessed March 16, 2006</ref>。 |
: 制服は金のモールを肋骨状に並べた青いジャケットと、金のストライプの入った青いズボンだった。赤い羽飾りが立てられ上辺に金色の縁取りがされた青い円筒帽をかぶった<ref>[http://www.fusiliers.com/item_gdemarinv8.html Grand Tenue - Marins de la Garde], Accessed March 16, 2006</ref>。 |
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; 近衛小銃 |
; 近衛小銃擲弾兵(''Fusiliers-Grenadiers''' de la Garde impériale''''')<ref>[http://grenadier1812.narod.ru/uniforme/fusiliers_grenadiers.html FUSILIERS DE LA GARDE 1806 - 1814 ARMEE FRANCAISE PLANCHE N" 101], Accessed March 16, 2006</ref> |
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:[[ファイル:Napoleon Fusilier grenadier by Bellange.jpg|サムネイル|281x281px|近衛小銃擲弾兵]]1806年に近衛 |
:[[ファイル:Napoleon Fusilier grenadier by Bellange.jpg|サムネイル|281x281px|近衛小銃擲弾兵]]1806年に近衛軽装擲弾兵(''Velites-Grenadiers de la Garde impériale'')連隊として組織されたが、すぐに近衛小銃兵(''Fusiliers de la Garde impériale'')第2連隊と改称され近衛擲弾兵連隊の弟分的な部隊となった。1809年の新規近衛隊の創設と共にそこに所属し、今度は近衛小銃擲弾兵連隊と改称された。続いて1810年に中堅近衛隊が新設されるとそこに昇格した。密集隊形を組む戦列歩兵科である彼らは姉妹部隊である近衛小銃猟歩兵と連携して戦った。1814年のナポレオン退位と共に解散し、1815年の百日天下では近衛擲弾兵に鞍替えされて、その第3、第4連隊の中核構成員となり古参近衛隊に所属した。彼らはワーテルローの戦いで最終突撃を敢行した。 |
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:制服は白のチョッキの上に白い襟返しのダークブルーのコートを着た。コートには赤色肩章(房紐は白)が付いていた。白いズボンと黒い長靴を履いた。白の飾り紐を巻き赤い羽飾りを立てた黒い円筒帽をかぶった。 |
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; 近衛小銃猟歩兵(''Fusiliers-Chasseurs''' de la Garde impériale''''') |
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: 1806年に近衛小銃兵(''Fusiliers de la Garde impériale'')連隊として組織された後に、近衛小銃兵第1連隊と番号付きの呼称となり近衛猟歩兵連隊の弟分的な部隊となった。1809年の新規近衛隊創設時にそこに所属し、近衛小銃猟歩兵連隊に改称された。1810年の中堅近衛隊新設時にそこに昇格した。散開して戦う軽歩兵科の彼らは姉妹部隊である近衛小銃擲弾兵と連携して戦った。1814年に解散し、1815年の百日天下では近衛猟歩兵第3、第4連隊の中核構成員に改組されて古参近衛隊に所属した。彼らもワーテルローの戦いに参加した。 |
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: 制服は白のチョッキの上に白い襟返しのダークブルーのコートを着た。コートには緑色肩章(房紐は赤)が付いていた。白いズボンと黒い長靴を履いた。白の飾り紐を巻き赤+緑の羽飾りを立てた黒い円筒帽をかぶった。 |
: 制服は白のチョッキの上に白い襟返しのダークブルーのコートを着た。コートには緑色肩章(房紐は赤)が付いていた。白いズボンと黒い長靴を履いた。白の飾り紐を巻き赤+緑の羽飾りを立てた黒い円筒帽をかぶった。 |
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; 近衛狙撃歩兵(''Tirailleurs''' de la Garde impériale''''') |
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; 近衛小銃擲弾兵({{lang|fr|Fusiliers-Grenadiers}}''''' ''de la Garde Impériale''')<ref>[http://grenadier1812.narod.ru/uniforme/fusiliers_grenadiers.html FUSILIERS DE LA GARDE 1806 - 1814 ARMEE FRANCAISE PLANCHE N" 101], Accessed March 16, 2006</ref> |
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:[[ファイル:French attack in 1812 in Russia.jpg|サムネイル|260x260ピクセル|近衛狙撃歩兵]]1809年に近衛狙撃擲弾兵(''Tirailleurs-Grenadiers de la Garde impériale'')として組織され、翌年に近衛狙撃歩兵と改称された。密集隊形を組む戦列歩兵科だった。まず2個連隊が編制され姉妹部隊である近衛選抜歩兵2個連隊と共に、同年に創設された新規近衛隊を構成した。新規近衛兵の中で背の高い者が優先的に入隊した。次々と連隊が新設され1814年には16個連隊が存在した。古参近衛兵が士官となり中堅近衛兵が下士官となって編入され、新規近衛兵たちを鍛えて戦場に導く形となった。 |
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: 制服は白のチョッキの上に白い襟返しのダークブルーのコートを着た。コートには赤色肩章(房紐は白)が付いていた。白いズボンと黒い長靴を履いた。白の飾り紐を巻き赤い羽飾りを立てた黒い円筒帽をかぶった。 |
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; 近衛狙撃歩兵(Tirailleurs''''' ''de la Garde Impériale''') |
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:[[ファイル:French attack in 1812 in Russia.jpg|サムネイル|260x260ピクセル|近衛狙撃歩兵]]1809年に狙撃擲弾兵(Tirailleurs-Grenadiers)として組織され、翌年に狙撃歩兵と改称された。まず2個連隊が編成され姉妹部隊である近衛選抜歩兵2個連隊と共に、同年に創設された新規近衛隊を構成した。新規近衛兵の中で背の高い者が優先的に入隊した。次々と連隊が新設され1814年には16個連隊が存在した。古参近衛兵が士官となり中堅近衛兵が下士官となって編入され、新規近衛兵たちを鍛えて戦場に導く形となった。 |
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: 制服は白のチョッキの上に青い襟返しのダークブルーのコートを着た。コートには赤色肩章が付いていた。白いズボンと黒い長靴を履いた。白の飾り紐を巻き赤+白の羽飾りを立てた黒い円筒帽をかぶった。 |
: 制服は白のチョッキの上に青い襟返しのダークブルーのコートを着た。コートには赤色肩章が付いていた。白いズボンと黒い長靴を履いた。白の飾り紐を巻き赤+白の羽飾りを立てた黒い円筒帽をかぶった。 |
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; 近衛選抜歩兵 |
; 近衛選抜歩兵(''Voltigeurs''' de la Garde impériale''''') |
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: 1809年に狙撃猟歩兵 |
: 1809年に近衛狙撃猟歩兵(''Tirailleurs-Chasseurs de la Garde impériale'')として組織され、翌年に近衛選抜歩兵と改称された。散開して戦う軽歩兵科だった。まず2個連隊が編制され、姉妹部隊である近衛狙撃歩兵と対をなして新規近衛隊を構成した。1814年には16個連隊が存在した。密集隊形を組む近衛狙撃歩兵の周辺で近衛選抜歩兵は散兵線を敷き共に連携して戦った。散開する軽歩兵の比率が高い近衛歩兵隊はその散兵線の広さが特徴だった。 |
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: 制服は白のチョッキの上に青い襟返しのダークブルーのコートを着た。コートには黄色肩章(房紐は緑)が付いていた。白いズボンと黒い長靴を履いた。白の飾り紐を巻き赤+緑の羽飾りを立てた黒い円筒帽をかぶった。 |
: 制服は白のチョッキの上に青い襟返しのダークブルーのコートを着た。コートには黄色肩章(房紐は緑)が付いていた。白いズボンと黒い長靴を履いた。白の飾り紐を巻き赤+緑の羽飾りを立てた黒い円筒帽をかぶった。 |
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'''近衛哨戒擲弾兵 |
'''近衛哨戒擲弾兵(''Flanqueurs-grenadiers de la Garde impériale'')''' |
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:[[ファイル:Flanqueur-grenadier et officier subalterne de flanqueurs-chasseurs 1813.jpg|サムネイル|294x294ピクセル|近衛哨戒擲弾兵と近衛哨戒猟歩兵]]ロシア遠征に備えて1811年に1個連隊が創設された。その役割は露払いのようなものであり、皇帝近衛隊の各部隊が行軍する周辺に配置されて敵の奇襲や待ち伏せを警戒し本隊の長蛇の移動を支援した。彼らは近衛兵と言っても名ばかりの存在でありそれに準じた待遇は無かった。1814年に解散した。 |
:[[ファイル:Flanqueur-grenadier et officier subalterne de flanqueurs-chasseurs 1813.jpg|サムネイル|294x294ピクセル|近衛哨戒擲弾兵と近衛哨戒猟歩兵]]ロシア遠征に備えて1811年に1個連隊が創設された。その役割は露払いのようなものであり、皇帝近衛隊の各部隊が行軍する周辺に配置されて敵の奇襲や待ち伏せを警戒し本隊の長蛇の移動を支援した。彼らは近衛兵と言っても名ばかりの存在でありそれに準じた待遇は無かった。1814年に解散した。 |
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: 制服は襟返しが金色に縁取られたグリーンのコートと白色のズボンだった。短めの赤い羽飾りを立てて赤い飾り紐を巻いた黒い円筒帽をかぶった。 |
: 制服は襟返しが金色に縁取られたグリーンのコートと白色のズボンだった。短めの赤い羽飾りを立てて赤い飾り紐を巻いた黒い円筒帽をかぶった。 |
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'''近衛哨戒猟歩兵 |
'''近衛哨戒猟歩兵(''Flanqueurs-chasseurs de la Garde impériale'')''' |
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: ロシア遠征に備えて1811年に1個連隊が創設された。姉妹部隊である近衛哨戒擲弾兵と同じ役割で、近衛兵たちの前方および側面に配置されて敵の奇襲と待ち伏せを警戒し本隊の長大な行軍を支援した。彼らはより外側の範囲に展開されていた。彼らもまた名前だけの近衛兵で特別な待遇は無かった。1814年に廃止された。 |
: ロシア遠征に備えて1811年に1個連隊が創設された。姉妹部隊である近衛哨戒擲弾兵と同じ役割で、近衛兵たちの前方および側面に配置されて敵の奇襲と待ち伏せを警戒し本隊の長大な行軍を支援した。彼らはより外側の範囲に展開されていた。彼らもまた名前だけの近衛兵で特別な待遇は無かった。1814年に廃止された。 |
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: 制服は襟返しが金色に縁取られたグリーンのコートと白色のズボンだった。短めの黄+緑色の羽飾りを立てて黄色の飾り紐を巻いた黒い円筒帽をかぶった。 |
: 制服は襟返しが金色に縁取られたグリーンのコートと白色のズボンだった。短めの黄+緑色の羽飾りを立てて黄色の飾り紐を巻いた黒い円筒帽をかぶった。 |
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==== 近衛騎兵 ==== |
==== 近衛騎兵 ==== |
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; 近衛騎馬擲弾兵( |
; 近衛騎馬擲弾兵(''Grenadiers-à-Cheval de la Garde impériale'') |
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:[[ファイル:Guard Grenadier at Eylau.jpg|サムネイル|253x253ピクセル|近衛騎馬擲弾兵]]執政親衛隊内の1個大隊を起源とするフランス軍の最上級騎兵団であり、1804年の皇帝近衛隊発足時に連隊となった。背高の熊毛帽をかぶり巨大な黒馬に騎乗する近衛騎馬擲弾兵の行進はさながら黒い森林が迫ってくるように見え周囲を圧倒した。「神」とも「巨人」ともあだ名されるこの偉大な連隊への採用には厳しい審査が課せられており、身長176cm以上の屈強な体格を持ち、4回以上の方面作戦に参加して10年以上の軍隊勤務歴があり、勇敢さで表彰されている必要があった。カービン騎兵連隊と胸甲騎兵連隊から採用されるのが常だったが、その他の騎兵科からの選抜者もいた。 |
:[[ファイル:Guard Grenadier at Eylau.jpg|サムネイル|253x253ピクセル|近衛騎馬擲弾兵]]執政親衛隊内の1個大隊を起源とするフランス軍の最上級騎兵団であり、1804年の皇帝近衛隊発足時に連隊となった。背高の熊毛帽をかぶり巨大な黒馬に騎乗する近衛騎馬擲弾兵の行進はさながら黒い森林が迫ってくるように見え周囲を圧倒した。「神」とも「巨人」ともあだ名されるこの偉大な連隊への採用には厳しい審査が課せられており、身長176cm以上の屈強な体格を持ち、4回以上の方面作戦に参加して10年以上の軍隊勤務歴があり、勇敢さで表彰されている必要があった。カービン騎兵連隊と胸甲騎兵連隊から採用されるのが常だったが、その他の騎兵科からの選抜者もいた。 |
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:近衛騎馬擲弾兵連隊の歴史は数々の武勲で飾られていた。1805年のアウステルリッツの戦いではロシア皇帝の騎兵隊を撃破し、1807年のアイラウの戦いでは大砲60門による苛烈な集中砲火に晒されるが、指揮官の「諸君!あれは糞ではない!ただの砲弾だ!」の一言でロシア軍の陣地に雪崩れ込んだ。1812年のロシア遠征ではフランス兵を散々に苦しめたコサック騎兵でさえも高い熊毛帽の陣列を見ると逃げ去ったという。近衛騎馬擲弾兵 |
:近衛騎馬擲弾兵連隊の歴史は数々の武勲で飾られていた。1805年のアウステルリッツの戦いではロシア皇帝の騎兵隊を撃破し、1807年のアイラウの戦いでは大砲60門による苛烈な集中砲火に晒されるが、指揮官の「諸君!あれは糞ではない!ただの砲弾だ!」の一言でロシア軍の陣地に雪崩れ込んだ。1812年のロシア遠征ではフランス兵を散々に苦しめたコサック騎兵でさえも高い熊毛帽の陣列を見ると逃げ去ったという。近衛騎馬擲弾兵は白兵戦で無敗を誇り、ナポレオンが最も頼りにした重騎兵だった。 |
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:制服は白いチョッキの上に中央の襟返しが白いダークブルーのコートを着て、白色のズボンと黒い膝上長靴を履いた。金の飾り紐を巻き赤い羽飾りを立てた背高の熊毛帽をかぶった。装備品は直刀サーベルとカービン銃と拳銃であった。 |
:制服は白いチョッキの上に中央の襟返しが白いダークブルーのコートを着て、白色のズボンと黒い膝上長靴を履いた。金の飾り紐を巻き赤い羽飾りを立てた背高の熊毛帽をかぶった。装備品は直刀サーベルとカービン銃と拳銃であった。 |
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; 近衛猟騎兵( |
; 近衛猟騎兵(''Chasseurs-à-cheval de la Garde impériale'') |
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[[ファイル:GericaultHorseman.jpg|thumb|235x235px|近衛猟騎兵]] |
[[ファイル:GericaultHorseman.jpg|thumb|235x235px|近衛猟騎兵]] |
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:1796年のイタリア遠征中に敵騎兵の奇襲から命拾いしたナポレオンは護衛用の軽騎兵中隊を編 |
:1796年のイタリア遠征中に敵騎兵の奇襲から命拾いしたナポレオンは護衛用の軽騎兵中隊を編制しこの200名が起源となった。最古参の騎兵団とも言える彼らは後に執政親衛隊に組み込まれ、そこから皇帝近衛隊の1個連隊に発展した。この連隊に採用されるには3回以上の方面作戦従軍経験と10年以上の軍歴、身長170cm以上が必要であった。1815年の[[百日天下]]の時に2個目の連隊も作られていた。 |
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:近衛猟騎兵 |
:近衛猟騎兵は最優秀の斥侯であり戦場におけるナポレオンの目となり耳となった。高度に融通が利きナポレオンと密接な関係にあった彼らは「皇帝の寵児」と呼ばれていた。それ故かやや規律に欠ける面もあり皇帝の前での無作法を指揮官から注意される事が度々あったという。アウステルリッツの戦いで武勲を挙げたが、スペインの戦場ではイギリス騎兵の奇襲で大きな被害を出した。だが概ね活躍してその戦歴を飾りワーテルローの戦いでも勇敢な戦いぶりを見せた。 |
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:彼らは特に豪華に飾り立てたユサール様式の制服を着用していた。白い羊毛で裏打ちされ金の装飾が施された赤い外套を |
:彼らは特に豪華に飾り立てたユサール様式の制服を着用していた。白い羊毛で裏打ちされ金の装飾が施された赤い短丈外套を羽織り、金色モールを肋骨状に並べた緑色のジャケットを着て、白金色のハンガリー風ズボンと黒い膝下長靴を履いた。古参近衛兵は赤いスカーフをかけ赤+緑の羽飾りを立てた黒い毛皮高帽(''colpack'')をかぶり、新規近衛兵は赤+緑の羽飾りを立てた赤い円筒帽をかぶった。装備品は曲刀サーベルとカービン銃と拳銃であった。 |
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; 近衛精鋭憲兵 |
; 近衛精鋭憲兵(''Gendarmes d'élite de la Garde impériale'') |
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:[[ファイル:Gendarme d'élite au quartier général de l'Empereur.jpg|サムネイル|251x251ピクセル|近衛精鋭憲兵]]執政親衛隊時代から2個大隊(escadron)が存在した。更に徒歩精鋭憲兵の1個大隊(bataillon)もあった。皇帝近衛隊を引き締める最高峰の監視員である彼らは鉄の規律を持ち、その高潔さと無慈悲さによって近衛兵達から畏怖される存在であった。皇帝の本営を警備して周囲の秩序を保つと共に、捕虜の尋問や賓客の護衛も担当した。1807年以降は戦闘に参加する機会も増え、1809年の[[アスペルン・エスリンクの戦い|アスペルン=エスリンクの戦い]]におけるドナウ橋の防衛戦で名を馳せた。採用には厳重な審査が課せられ従軍経験4回と勇敢さの表彰歴、品行方正で教養を備え身長176cm以上が必須とされた。後年はドイツ語能力も求められた。採用者は主に一般の憲兵隊からで、また重騎兵隊からの者もいた。 |
:[[ファイル:Gendarme d'élite au quartier général de l'Empereur.jpg|サムネイル|251x251ピクセル|近衛精鋭憲兵]]執政親衛隊時代から2個大隊(escadron)が存在した。更に近衛徒歩精鋭憲兵の1個大隊(bataillon)もあった。皇帝近衛隊を引き締める最高峰の監視員である彼らは鉄の規律を持ち、その高潔さと無慈悲さによって近衛兵達から畏怖される存在であった。皇帝の本営を警備して周囲の秩序を保つと共に、捕虜の尋問や賓客の護衛も担当した。1807年以降は戦闘に参加する機会も増え、1809年の[[アスペルン・エスリンクの戦い|アスペルン=エスリンクの戦い]]におけるドナウ橋の防衛戦で名を馳せた。採用には厳重な審査が課せられ従軍経験4回と勇敢さの表彰歴、品行方正で教養を備え身長176cm以上が必須とされた。後年はドイツ語能力も求められた。採用者は主に一般の憲兵隊からで、また重騎兵隊からの者もいた。 |
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: 制服は黄色のチョッキに赤い襟返しのダークブルーのコートを着て肩から白い飾緒を下げていた。そして黄色のズボンと黒い膝上長靴を履いた。赤い羽飾りを立てた中高の熊毛帽をかぶった。 |
: 制服は黄色のチョッキに赤い襟返しのダークブルーのコートを着て肩から白い飾緒を下げていた。そして黄色のズボンと黒い膝上長靴を履いた。赤い羽飾りを立てた中高の熊毛帽をかぶった。 |
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; 近衛マムルーク騎兵 |
; 近衛マムルーク騎兵(''Mamelouks de la Garde impériale'') |
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:[[ファイル:Mamelouks au défilé.JPG|サムネイル|246x246ピクセル|近衛マムルーク騎兵]]ナポレオンは[[エジプト・シリア戦役|エジプト遠征]]の中でこの砂漠の戦士達を見出しフランスに連れ帰った。狂信的な勇気を持ち中東の馬術と剣技を見せる彼らはフランス軍内にその名を轟かせ、近衛猟騎兵連隊に所属する異質な軽騎兵中隊となった。1805年のアウステルリッツの戦いで頭角を現し独自の軍旗を獲得して古参近衛隊所属の独立大隊に昇格した。1813年には第二のマムルーク中隊が新規近衛隊に新編 |
:[[ファイル:Mamelouks au défilé.JPG|サムネイル|246x246ピクセル|近衛マムルーク騎兵]]ナポレオンは[[エジプト・シリア戦役|エジプト遠征]]の中でこの砂漠の戦士達を見出しフランスに連れ帰った。狂信的な勇気を持ち中東の馬術と剣技を見せる彼らはフランス軍内にその名を轟かせ、近衛猟騎兵連隊に所属する異質な軽騎兵中隊となった。1805年のアウステルリッツの戦いで頭角を現し独自の軍旗を獲得して古参近衛隊所属の独立大隊に昇格した。1813年には第二のマムルーク中隊が新規近衛隊に新編制された。この両部隊は近衛猟騎兵と連携して1815年の百日天下を戦った。 |
||
: 彼らの制服は異国情緒に溢れていた。白いターバンを巻いた赤い帽子をかぶり、紺、緑、黄、橙、紫など銘々の色鮮やかなシャツとチョッキを着て、赤いズボンと茶色の長靴を履いた。武器もまた異国的であり、反りの深い[[シャムシール|三日月刀]]と二丁の拳銃を中心にして短刀や槌矛を使い、はたまた戦斧を持つ者もいたという。 |
: 彼らの制服は異国情緒に溢れていた。白いターバンを巻いた赤い帽子をかぶり、紺、緑、黄、橙、紫など銘々の色鮮やかなシャツとチョッキを着て、赤いズボンと茶色の長靴を履いた。武器もまた異国的であり、反りの深い[[シャムシール|三日月刀]]と二丁の拳銃を中心にして短刀や槌矛を使い、はたまた戦斧を持つ者もいたという。 |
||
; 皇后竜騎兵( |
; 皇后竜騎兵(''Dragons de l’Impératice'') |
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:[[ファイル:Officier des dragons de la Garde impériale.jpg|サムネイル|265x265ピクセル|皇后竜騎兵]]1806年に近衛竜騎兵 |
:[[ファイル:Officier des dragons de la Garde impériale.jpg|サムネイル|265x265ピクセル|皇后竜騎兵]]1806年に近衛竜騎兵(''Dragons de la Garde impériale'')連隊として創設されたが翌年に改称された。儀仗兵となる機会が多かった。3番目の近衛騎兵隊である彼らは、その装備品から見ても中騎兵的位置付けだった。この連隊も最後までナポレオンと共に戦った。採用資格は軍歴6年、従軍経験2回、勇敢さの表彰歴、読み書きの教養と身長173 cm以上だった。各竜騎兵連隊から一度に10名ずつが採用され、後には他からの門戸も開かれた。 |
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: 制服は白のチョッキに白い襟返しのダークグリーンのコートを着て肩から金の飾緒を下げていた。白いズボンと黒い膝下長靴を履き、黒い房飾りを後ろに下げ赤い羽飾りを立てた真鍮製ギリシャ風ヘルメットをかぶっていた。曲刀サーベルと拳銃と竜騎兵用マスケット銃で武装していた。 |
: 制服は白のチョッキに白い襟返しのダークグリーンのコートを着て肩から金の飾緒を下げていた。白いズボンと黒い膝下長靴を履き、黒い房飾りを後ろに下げ赤い羽飾りを立てた真鍮製ギリシャ風ヘルメットをかぶっていた。曲刀サーベルと拳銃と竜騎兵用マスケット銃で武装していた。 |
||
; 近衛軽槍騎兵( |
; 近衛軽槍騎兵(''Chevau-Légers-Lanciers de la Garde impériale'')<ref>[http://www.napoleonseries.org/military/organization/frenchguard/c_polishlancers1.html Napoleon's Polish Lancers], Accessed March 16, 2006</ref> |
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:4番目の近衛騎兵隊であり、元々の構想は優れた外国人騎兵隊を組織する事にあったが、ポーランド人騎兵の活躍を高く評価したナポレオンの考えで、ポーランド式槍騎兵([[ウーラン]])の部隊が編制される事になった。装備品はその名が示す通り槍であったが実際に槍を構えるのは前列だけで、後列は銃剣付きカービン銃を用いておりそれがポーランド式であった。補助武器として曲刀サーベルと拳銃も携行していた。 |
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:; 第1連隊(ポーランド) |
:; 第1連隊(ポーランド) |
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:[[ファイル:WKossak023.jpg|サムネイル|247x247ピクセル|近衛ポーランド槍騎兵]]皇帝近衛隊に所属するポーランド人騎兵たちは、ナポレオンに自分達の独立部隊の創設を認めさせたいと日々望んでいた。1806年の遠征中の活躍によってその努力は報われ、1807年にナポレオンは近衛ポーランド軽騎兵 |
:[[ファイル:WKossak023.jpg|サムネイル|247x247ピクセル|近衛ポーランド槍騎兵]]皇帝近衛隊に所属するポーランド人騎兵たちは、ナポレオンに自分達の独立部隊の創設を認めさせたいと日々望んでいた。1806年の遠征中の活躍によってその努力は報われ、1807年にナポレオンは近衛ポーランド軽騎兵(''Chevaux-légers polonais de la Garde impériale'')連隊の創設を承認した。ただし担当教官はフランス人でありフランス式の騎兵隊として編制された。最初の閲兵時にナポレオンは彼らを意味深な言葉で皮肉ったが、戦場では自身の側に置いた。翌年のスペイン[[半島戦争]]中、ソモシエラの戦いでナポレオンは彼らに防御の厚いスペイン軍砲兵陣地への攻撃を命じた。ポーランド騎兵達はサーベルと拳銃だけを頼りに伝説的な突撃を敢行して無数の砲弾を浴びながらもついに敵陣を打ち破り、20門以上の大砲を鹵獲して偉大な勝利に結び付けた。ナポレオンはこのポーランド人たちの人間離れした勇気を絶賛し、槍を主武器とする本来のポーランド形式で戦う事を認めて近衛軽槍騎兵と改称した。彼らは教えられる側から教える側になり後年、フランス軍内に槍騎兵連隊が新編制される時にその手腕を振るった。近衛軽槍騎兵第1連隊は近衛騎馬擲弾兵連隊と共に騎兵戦闘において一度も敗れた事がない部隊だった。ワーテルローの戦いでイギリス軍のロイヤル・スコッツ・グレイズ騎兵連隊を撃破した事も彼らの偉大な武勇伝の一つとなった。 |
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: 制服は白く縁取られた赤い襟返しの濃青のコートと緋色のストライプの入った濃青のズボンだった。ポーランド風の特徴的な四角筒帽をかぶった。四角筒帽は赤く塗装され黒い牛皮を巻き白の飾り紐を付け前面に金のプレートを留めて中央から白い羽飾りを立てていた。 |
: 制服は白く縁取られた赤い襟返しの濃青のコートと緋色のストライプの入った濃青のズボンだった。ポーランド風の特徴的な四角筒帽をかぶった。四角筒帽は赤く塗装され黒い牛皮を巻き白の飾り紐を付け前面に金のプレートを留めて中央から白い羽飾りを立てていた。 |
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:; 第2連隊(オランダ、後にフランス) |
:; 第2連隊(オランダ、後にフランス) |
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:[[ファイル:Lanciers rouges de la Garde impériale.JPG|サムネイル|222x222ピクセル|赤い槍騎兵]]1810年にオランダの3個部隊を元にして編 |
:[[ファイル:Lanciers rouges de la Garde impériale.JPG|サムネイル|222x222ピクセル|赤い槍騎兵]]1810年にオランダの3個部隊を元にして編制された。彼らオランダ人槍騎兵はその特徴的な赤一色の軍装で知られており赤い槍騎兵(''les lanciers rouges'')と呼ばれていた。ロシア遠征の中で壊滅状態となり、1813年に再編制された後の構成員はほぼフランス人となった。フランス人槍騎兵もまた赤い軍装を受け継いだ。正面戦闘の白兵戦もこなせる万能型の軽騎兵である彼らをナポレオンは気に入っており、最後までこの槍騎兵連隊の規模拡張を計画していた。幾多の戦いを経てワーテルローの戦いにも参加した。 |
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:制服は青い襟返しの赤色のコートと赤色のズボンだった。赤いポーランド風四角筒帽をかぶった。四角筒帽は金色の飾り紐を巻き白い羽飾りを立てて前面に金のプレートが留められていた。 |
:制服は青い襟返しの赤色のコートと赤色のズボンだった。赤いポーランド風四角筒帽をかぶった。四角筒帽は金色の飾り紐を巻き白い羽飾りを立てて前面に金のプレートが留められていた。 |
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:; 第3連隊(リトアニア) |
:; 第3連隊(リトアニア) |
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: 1812年に編 |
: 1812年に編制され新規近衛隊に所属した。構成員となったのはリトアニアとポーランドの学生または地主の子弟であり、熱意はあるが経験の足りない者達だった。訓練が不足したままロシア遠征に投入され、1812年後半の戦いでロシア・コサック騎兵とウクライナ・ユサール騎兵に包囲され[[スロニム]]で滅ぼされた。 |
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: 制服は青い襟返しの紺色のコートと紺色のズボンだった。紺色のポーランド風四角筒帽をかぶった。 |
: 制服は青い襟返しの紺色のコートと紺色のズボンだった。紺色のポーランド風四角筒帽をかぶった。 |
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; 近衛名誉国防騎兵 |
; 近衛名誉国防騎兵(''Gardes d'honneur de la Garde impériale'') |
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: 第六次対仏大同盟の結成で予期される諸外国の大規模な侵攻に備える為に、ナポレオンの指示で1813年に新設された。主に上流家庭と富裕家庭出身の20歳から26歳の子弟、約15,000名を半ば強制採用して4個連隊が編 |
: 第六次対仏大同盟の結成で予期される諸外国の大規模な侵攻に備える為に、ナポレオンの指示で1813年に新設された。主に上流家庭と富裕家庭出身の20歳から26歳の子弟、約15,000名を半ば強制採用して4個連隊が編制された。彼らは「人質」と暗に呼ばれており国内資産家の逃亡を抑止する狙いもあったという。彼らの家庭が持つ財産は帝国の権威の下で保証されていたので、その理由もあって駆り出されていた。馬と装備品の費用も自腹だった。彼らの戦闘技術は明らかに近衛騎兵の水準ではなかったが、その身分と立場上の理由から皇帝近衛隊に加えられた。彼らは軽騎兵科であり、他の近衛部隊に随伴して支援任務を担当した。1814年のフランス防衛戦の中で消滅した。 |
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: 制服は、白いモールを肋骨状に飾り付けた緑色のジャケットを着用し、肩から白の飾り帯をかけ、グリーンの外套を |
: 制服は、白いモールを肋骨状に飾り付けた緑色のジャケットを着用し、肩から白の飾り帯をかけ、グリーンの短丈外套を羽織った。赤いズボンに黒い膝下長靴を履いた。緑の羽飾りを付けた赤い円筒帽をかぶった。 |
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; 近衛偵察騎兵(''Eclaireurs de la Garde impériale'') |
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:[[ファイル:Sous-officier des éclaireurs-grenadiers, 1814.jpg|サムネイル|287x287ピクセル|近衛偵察騎兵]]ロシア遠征の退却中、コサック騎兵の戦闘技術に強い印象を受けていたナポレオンは、フランス本土決戦前夜の1813年12月にコサック騎兵を参考にした新しい騎兵団を創設し近衛偵察騎兵と名付けた。軽騎兵科である近衛偵察騎兵は純粋な支援部隊であり、編制された3個の連隊は近衛重騎兵の各隊に随伴する位置付けだった。第1連隊は近衛騎馬擲弾兵連隊に、第2連隊は皇后竜騎兵連隊に、第3連隊は近衛軽槍騎兵第1連隊にそれぞれ付属して、専ら偵察と戦闘支援を担当するものとされた。装備品はポーランド槍騎兵と似て、前列は槍と曲刀サーベル、後列は銃剣付きカービン銃と曲刀サーベルだった。訓練期間も短く、彼らがどれだけコサック騎兵の技術を身に付ける事が出来たのか疑問が残った。1814年のフランス防衛戦に投入されたが、敗戦によるナポレオン退位と共に解散した。 |
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; 近衛偵察騎兵({{lang|fr|Eclaireurs de la Garde Impériale}}) |
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:[[ファイル:Sous-officier des éclaireurs-grenadiers, 1814.jpg|サムネイル|287x287ピクセル|近衛偵察騎兵]]ロシア遠征の退却中、コサック騎兵の戦闘技術に強い印象を受けていたナポレオンは、1813年12月にコサック騎兵を参考にした新しい騎兵団を創設し近衛偵察騎兵と名付けた。近衛偵察騎兵は純粋な支援部隊であり、編成された3個の連隊は近衛重騎兵の各隊に随伴する位置付けだった。第1連隊は近衛騎馬擲弾兵連隊に、第2連隊は皇后竜騎兵連隊に、第3連隊は近衛軽槍騎兵第1連隊にそれぞれ付属して、専ら偵察と戦闘支援を担当するものとされた。装備品はポーランド槍騎兵と似て、前列は槍と曲刀サーベル、後列は銃剣付きカービン銃と曲刀サーベルだった。訓練期間も短く、彼らがどれだけコサック騎兵の技術を身に付ける事が出来たのか疑問が残った。彼らは1814年のフランス防衛戦に参加したが、敗戦によるナポレオン退位と共に解散した。 |
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: 第1連隊第1大隊の制服は黒い毛皮高帽と白いモールで飾った緑色のジャケットと緑色のズボンだった。その他大隊は猟騎兵風で黒い円筒帽と緑のコートと緑のズボンだった。第2連隊も猟騎兵風だが赤い円筒帽をかぶった。第3連隊は赤い襟返しの濃青色コートと白いズボンと赤いポーランド風四角筒帽だった。 |
: 第1連隊第1大隊の制服は黒い毛皮高帽と白いモールで飾った緑色のジャケットと緑色のズボンだった。その他大隊は猟騎兵風で黒い円筒帽と緑のコートと緑のズボンだった。第2連隊も猟騎兵風だが赤い円筒帽をかぶった。第3連隊は赤い襟返しの濃青色コートと白いズボンと赤いポーランド風四角筒帽だった。 |
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==== 近衛砲兵 ==== |
==== 近衛砲兵 ==== |
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; 近衛徒歩砲兵 |
; 近衛徒歩砲兵(''Artillerie a Pied de la Garde impériale'') |
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:[[ファイル:Guard Foot Artillery 1808.jpeg|サムネイル|244x244px|近衛徒歩砲兵]]前身の執政親衛隊では1個中隊のみの規模だった。 |
:[[ファイル:Guard Foot Artillery 1808.jpeg|サムネイル|244x244px|近衛徒歩砲兵]]前身の執政親衛隊では1個中隊のみの規模だった。この皇帝直属の砲兵連隊の入隊資格は、背が高く勇敢さの表彰歴を持ち教養を備えた3回以上の従軍経験者であり、各砲兵連隊より2名が採用された。1806年には35歳以下で10年以上の軍隊勤務者という条件が加わり各連隊から15名が採用されるようになった。フランス徒歩砲兵の最精鋭であるこの連隊は3個大隊で構成され第1、第2大隊は古参近衛隊に所属して3個中隊を擁した。第3大隊は新規近衛隊に所属して同じく3個中隊を擁した。1809年に第3大隊はスペインに遠征して連隊から分離し、やがてこの第3大隊を中核とした近衛徒歩砲兵第2連隊が新編制されて新規近衛隊の支援砲兵となり、1813年には16個中隊まで増やされた。同時に第1、第2大隊は近衛徒歩砲兵第1連隊を構成し古参近衛隊の支援砲兵となる他、皇帝直率の予備砲兵ともなった。 |
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:制服は袖口が赤く襟口と襟返しを赤く縁取ったダークブルーのコートにダークブルーのズボンだった。コートには赤色肩章が付いていた。古参近衛砲兵は赤い飾り紐を巻き赤い羽飾りを立てた熊毛帽を、新規近衛砲兵は赤い羽飾りを立てた赤い円筒帽をかぶった。装備品は銃剣付き竜騎兵用マスケット銃と歩兵用小剣だった。 |
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; 近衛騎 |
; 近衛騎馬砲兵(''Artillerie a Cheval de la Garde impériale'') |
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:[[ファイル:Artillerie a cheval garde tanconville.jpg|サムネイル|264x264ピクセル|近衛騎 |
:[[ファイル:Artillerie a cheval garde tanconville.jpg|サムネイル|264x264ピクセル|近衛騎馬砲兵]][[ファイル:Napoleon Guard Artillery train and Foot artillerist by Bellange.jpg|サムネイル|295x295ピクセル|近衛砲車牽引兵と近衛砲兵]]前身の執政親衛隊にも1個中隊が存在していた。ナポレオンは1802年から騎馬砲兵の増設に力を注ぎ3個大隊構成の連隊にまで拡張した。各大隊は2個中隊を擁していた。近衛騎馬砲兵の採用には更に厳しい基準が定められて帝国全土から最優秀の人材が探し出されていた。比類なき砲兵である彼らは戦場を神出鬼没に駆け巡り、全速力で駆けつけて来て馬車から大砲を降ろして最初の砲弾を放つのに1分と掛からなかったという。その動きを目の当たりにした[[アーサー・ウェルズリー (初代ウェリントン公爵)|ウェリントン]]公は「彼らはまるで拳銃を撃つように大砲をぶっ放している!」と記している。近衛騎馬砲兵連隊は徒歩と騎馬双方を含めたフランス全砲兵中の最上級部隊であった。用いられる軍馬も超一流のものが選ばれており巨大で怪力の黒い馬が必須条件とされた。もしこの連隊の馬が不足した場合は皇帝の命令で、全騎兵中の最上級部隊である近衛騎馬擲弾兵連隊から軍馬を融通して貰えるよう定められていたので、近衛騎馬砲兵は全軍隊の頂点に立つ戦力と見なされていた事が分かる。第1大隊と第2大隊は古参近衛隊に所属し、第3大隊は新規近衛隊に所属していた。 |
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: 制服はユサール様式の洗練されたもので、金色モールで肋骨状に装飾したダークブルーのジャケットを着て、黒い羊毛で裏打ちされ金の組み紐で飾られたダークブルーの外套を |
: 制服はユサール様式の洗練されたもので、金色モールで肋骨状に装飾したダークブルーのジャケットを着て、黒い羊毛で裏打ちされ金の組み紐で飾られたダークブルーの短丈外套を羽織った。きつめの濃青ハンガリー風スボンと黒い膝下長靴を履いた。金の飾り紐を巻き赤い羽飾りを立てた黒い毛皮高帽をかぶった。装備品は軽騎兵用サーベルと二丁の拳銃で、拳銃は馬鞍に取り付けられていた。 |
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; 近衛砲車牽引兵 |
; 近衛砲車牽引兵(''Train d’artillerie de la Garde impériale'') |
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:近衛砲車牽引兵中隊(compagnie)は近衛砲兵中隊(batterie)の大砲運搬を一対一で担当して作戦中の行軍を支援した<ref name=":0">Elting, John R.:"Swords Around A Throne.", page 186, 194. Da Capo Press, 1997</ref>。当初は大隊組織で全中隊を管理したが、中隊数の増加に伴い1812年からは連隊組織で管理されるようになった。制服は青みのある灰色基調で赤い肩章が付いていた。 |
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:皇帝近衛隊は独自の砲車牽引兵を持っており、近衛砲兵中隊が増設されるにつれて近衛砲車牽引兵中隊も増やされ、大隊(bataillon)から最終的には連隊(régiment)で管理されるようになった。増員のピークは1813年から1814年にかけてで第1連隊は12個中隊を一括管理し古参近衛隊に所属した。第2連隊は15個中隊を一括管理し新規近衛隊に付いて大砲運搬を支援した。割り当ては一つの砲兵中隊(batterie)に一つの砲車牽引兵中隊(compagnie)が付くというものだった<ref>Elting, John R.:"Swords Around A Throne.", page 186, 194. Da Capo Press, 1997</ref>。 |
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=== 歩兵 === |
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”Une bonne infanterie est sans doute le nerf de l'armée, mais si elle avait longtemps à combattre contre une artillerie très supérieure, elle se démoraliserait et serait détruite. ”(優れた歩兵は疑いなく軍隊の要である。しかしより優れた砲兵の前ではその士気を挫かれやがて壊走するだろう)。ナポレオンの歩兵観はこの様なものであった。歩兵は最も数の多い大陸軍(グランダルメ)の主要構成員であり、密集隊形で戦う'''[[戦列歩兵]]'''(''infanterie de ligne'')と、散開して戦う'''[[軽歩兵]]'''(''infanterie légère'')の二つの兵科に分けられていた。 |
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==== [[戦列歩兵]] ==== |
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[[ファイル:Waterloo - Juin 2012 (17).JPG|サムネイル|戦列歩兵]] |
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戦列歩兵(''infanterie de ligne'')はフランス軍の基本構成員であり最も人数の多い兵科だった。戦場の彼らは密集した隊形を組み、何があっても隊列から離れない事を求められ、常に隊形の一部となって戦った。これは近世ヨーロッパ歩兵の標準的な戦い方だった。 |
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ナポレオンが半旅団(demi-brigade)を連隊(régiment)に改称した1803年当時は、89個の戦列歩兵連隊が存在した。これはフランス国内の県とほぼ同じ数であり、革命戦争時代にそれぞれの県が一つの半旅団を組織していた事になる。その後も新しい連隊が作られ最終的には156個となった。 |
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戦列歩兵連隊は3ないし4個大隊で構成された。大隊は複数の中隊で構成されたが、その構成内容は革命戦争時代から三回変更されている。1800年から1804年にかけての戦列歩兵大隊は8個小銃兵中隊+1個擲弾兵中隊であり各中隊の人数は約120名だった。1805年から1807年にかけては7個小銃兵中隊+1個擲弾兵中隊+1個選抜歩兵中隊となった。1808年から1815年にかけては4個小銃兵中隊+1個擲弾兵中隊+1個選抜歩兵中隊で中隊の人数は約140名となった。戦列歩兵大隊の兵員数は1800年からは約1,000名、1808年からは約800名であり、即ち戦列歩兵連隊の兵員数は大雑把に見て2,400名から3,200名という事になる。 |
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; 小銃兵(''Fusiliers'') |
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:[[ファイル:199 - Austerlitz 2015 (23705957414).jpg|サムネイル|小銃兵]]小銃兵は最も人数の多い標準的な歩兵だった。彼らには行軍訓練が最優先に課せられて歩行速度と持久力を伸ばす事に最大の注意が払われた。”La première vertu d'un soldat est l' endurance de fatigue courage est seulement la deuxième vertu.”(兵士の第一の美徳は疲労に耐える事であり、勇気はその次でよい)とはナポレオンの言葉であり、この戦略眼による訓練で養われた長い距離を短い時間で踏破出来る歩兵達の移動能力はフランス軍の勝利を支え続けた。また戦場においては敵への接近中、個々に狙いを定めて射撃する事が奨励されており、加えて半ば自由行動となる銃剣突撃が積極的に用いられた。この様な兵士達の自主性にまかせる戦い方が出来たのはひとえにフランスが国民軍であるが故であり、他のヨーロッパ諸国ではこうは行かず、戦場では常に隊列を維持させ個々の発砲は許されず指揮官の号令下での一斉射撃を順守させる事が普通であった。 |
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: 小銃兵の武器は、前装式火打石発火型滑腔砲である[[シャルルヴィル・マスケット|シャルルヴィル1777年型マスケット銃]]とその銃剣であった。制服は白いチョッキと白いズボンの上に、襟口と袖口は赤く中央の襟返しは白い濃青色のコートを着た。濃青色コートは1812年までは尾の長いハビットロングで1813年からは尾の短いハビットベストとなった。始めは[[二角帽子]]をかぶり1807年に円筒帽に変わった。円筒帽には中隊毎に色の異なる[[ポンポン]]を付けていた。1808年の再編制では第1中隊は緑色、第2中隊は水色、第3中隊は橙色、第4中隊は紫色のポンポンと決められた。 |
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; [[擲弾兵]](''Grenadiers'') |
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:[[ファイル:Napoleon Grenadier of 1808 by Bellange.jpg|サムネイル|284x284px|擲弾兵と選抜歩兵]]擲弾兵とは18世紀以前に大柄で精強な者が選ばれて敵戦列に擲弾(手榴弾)を投げ付ける役目を担った伝統に由来する名称であり、即ち精鋭兵を意味する兵種だった。二回以上の方面作戦(campagne)従軍経験を持ち、背が高く勇敢で精強な者が選抜されて擲弾兵となった。彼らが加入する擲弾兵中隊は各大隊に1個ずつ組織された。擲弾兵中隊の位置は大隊戦列の右端と定められており、これは伝統的に最も名誉ある位置だった。戦況に応じて各擲弾兵中隊を合わせた擲弾兵大隊や擲弾兵連隊が編制される事もあり、この強力な部隊はたいてい大規模戦闘隊形の中枢に配置されて決戦力となった。 |
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: 擲弾兵は威圧感を持つように全員が口ひげを蓄えるよう求められた。彼らは赤い羽飾りを立てた熊毛帽をかぶったが、1807年に赤い羽飾りの赤紐円筒帽に変わった。制服は小銃兵と同じだがコートに赤色肩章が付いた。標準装備のマスケット銃と銃剣の他、擲弾兵は歩兵用小剣を腰に帯びた。歩兵用小剣はエリート歩兵の証であると同時に白兵戦用の武器でもあったが肝心の戦闘では滅多に使われず、ただの薪割りの道具になったという。 |
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; 選抜歩兵(''Voltigeurs''、意味的には曲芸的に飛んだり跳ねたりする者) |
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: 1803年に軽歩兵連隊の中に選抜歩兵中隊が組織されたのに続いて、ナポレオンは1805年から戦列歩兵連隊にも選抜歩兵中隊を組織させた。選抜歩兵は複雑な地形および障害物環境下でのアクロバットな戦いを専門とする者達であり、城壁の乗り越えや市街戦、山岳戦の時に活躍し、他に奇襲や斥侯も担当した。連隊の中から特に敏捷で身のこなしに優れた者が選ばれて入隊し、素早い装填と正確な射撃技術を持つ彼らは擲弾兵に次ぐ精鋭と見なされた。1808年から選抜歩兵の待遇は上げられ、彼らの位置は伝統的に二番目の名誉ある位置である大隊戦列の左端と定められた。軽歩兵連隊との連携が出来ない時はこの選抜歩兵が散兵の役目を担った。各選抜歩兵中隊はまとめられて選抜歩兵大隊や選抜歩兵連隊を編制する事があり、司令官の中には擲弾兵よりも選抜歩兵部隊を好んで用いる者もいた。 |
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: 彼らは黄+緑色の羽飾りを立てた二角帽をかぶったが、1807年に黄+緑色の羽飾りの黄紐円筒帽に変わった。制服は小銃兵と同じだがコートに黄色の襟口と黄色肩章(房紐は緑)が付いた。装備品は竜騎兵用マスケット銃(銃身がやや短い)とされたが、実際には歩兵用マスケット銃が使われてる事が多くそれに銃剣が付いた。歩兵用小剣も腰に帯びた。 |
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==== [[軽歩兵]] ==== |
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[[ファイル:Une compagnie d'infanterie légère française dans les bois.jpg|サムネイル|軽歩兵]] |
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近世の歩兵の大半は隊列を組み隊形の一部となって戦ったが、それとは別に隊列を組まず散開し、各自の判断で動き戦う者達もいて彼らは軽歩兵(''infanterie légère'')と呼ばれた。軽歩兵は、密集した戦列歩兵隊形の前面と側面に配置されて散兵線を築き、強固だが正面以外への融通が利かない歩兵陣形を臨機応変に援護した。戦列歩兵と異なり軽歩兵は選抜扱いで人数はずっと少なく、156個連隊が存在した戦列歩兵とは対照的に軽歩兵連隊は35個を越える事はなかった。しかし他のヨーロッパ諸国と比べるとかなりの大人数ではあった。軽歩兵の役割は敵前逃亡しない強い責任感を持つ者だけにまかせる事が出来たので強制徴募と傭兵中心の封建軍隊では編制が難しく、国民国家の軍隊に限り大量編制が可能だった。 |
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軽歩兵連隊は3個大隊で構成された。軽歩兵大隊の構成内容は1807年までは7個猟歩兵中隊+1個カービン兵中隊+1個選抜歩兵中隊で中隊の人数は約120名、1808年からは4個猟歩兵中隊+1個カービン兵中隊+1個選抜歩兵中隊の構成で中隊の人数は約140名だった。 |
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軽歩兵は正確で素早い射撃と機敏な動作を身に付ける為の専門的な訓練を受けていた。選抜扱いの誇りから高い団結心を持ち、哨戒や伏兵などの様々な任務をまかされるのが常だった。大柄が美徳とされる軍隊世界において軽歩兵の価値観は一線を画す事が許されており、小柄さの長所と利点が強調されていた。これは実際に森林を駆け抜ける時の敏捷性や物陰に隠れる動作に活かされていた。 |
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; [[猟歩兵]](''Chasseurs'') |
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:[[ファイル:1er régiment d'infanterie légère napolitain, 1812.jpg|サムネイル|277x277px|猟歩兵]]猟歩兵は軽歩兵科で最も人数の多い標準的な存在だった。武器は[[シャルルヴィル・マスケット|シャルルヴィル1777年型マスケット銃]]と銃剣だった。1806年までは選抜扱いだったが、軽歩兵連隊の増加と選抜歩兵中隊の設立に伴い1807年からは待遇が下げられ、歩兵用小剣と円筒帽の羽飾りも取り外される事になった。 |
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: 猟歩兵の制服は全体的にダークブルーで統一されており、濃青のチョッキと濃青のスボンの上に濃青のコートを着て、コートには緑色肩章(房紐は赤)が付いた。緑の羽飾りを立てた白紐円筒帽をかぶり、1807年から羽飾りは無くなり白い紐飾りだけの円筒帽に変わった。円筒帽には中隊毎に色の異なる[[ポンポン]]が付いた。 |
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; カービン歩兵(''Carabiniers'') |
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:[[ファイル:Napoleon Voltigeur and Carabinier by Bellange.jpg|サムネイル|225x225px|選抜歩兵とカービン歩兵]]この名称は近世初期にカービン銃で武装した騎兵が精鋭とされた伝統に由来しており、即ちカービン兵は擲弾兵と対をなす精鋭の意味だった。彼らは戦列歩兵大隊の擲弾兵と同じ位置付けだった。二回以上の方面作戦(campagne)を経験し、勇敢かつ精強で背の高い猟歩兵が選ばれてカービン歩兵中隊に入った。彼らは擲弾兵と同様に口ひげを蓄える事を求められた。 |
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: 制服は猟歩兵と同じだがコートに赤色肩章が付いた。赤い羽飾りを立てた熊毛帽をかぶり、1807年からは赤い羽飾りの赤紐円筒帽に変わった。標準装備のマスケット銃と銃剣の他、カービン歩兵は歩兵用小剣を腰に帯びた。 |
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; 選抜歩兵(''Voltigeurs''、意味的には曲芸的に飛んだり跳ねたりする者) |
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: 1803年にナポレオンの指示で、軽歩兵連隊の中から背の低い者を集めて選抜歩兵中隊が組織されるようになった。彼らの身長は160cmを越える事は無かった。軽歩兵はすでに選抜要員であり身のこなしに優れた者だったので、小柄さの利点を存分に発揮出来る特別な部隊が誕生した事になる。選抜歩兵は複雑な地形および障害物環境下でのアクロバットな戦いを専門とする者達であり、城壁の乗り越えや市街戦、山岳戦の時に活躍し、他に奇襲や斥侯も担当した。ナポレオンの命名であるVoltigeurには敵騎兵の背後から「飛び上がって」攻撃する対騎兵用の歩兵という意味が込められていたが、この斬新な構想は上手くいかなかった。しかし特殊任務担当要員としての必要性を確立し後年には戦列歩兵連隊の方にも選抜歩兵中隊が編制されるようになった。 |
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: 制服は猟歩兵と同じだがコートに黄色の襟口と黄色肩章(房紐は緑)が付いた。黄+緑色の羽飾りを立てた黒い毛皮高帽(''colpack'')をかぶり、1807年からは黄+緑色の羽飾りの黄紐円筒帽に変わった。竜騎兵用マスケット銃が標準装備とされたが、実際は歩兵用マスケット銃が使われてる事が多くそれに銃剣が付き、歩兵用小剣も腰に帯びた。 |
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=== 騎兵 === |
=== 騎兵 === |
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”La cavalerie est utile avant, pendant et après une bataille.”(騎兵は戦闘前、戦闘中、そして戦闘後に役に立つ)とはナポレオンが残した言葉である。この言葉の解釈は様々だが、戦闘前の騎兵偵察はナポレオンが特に重視した分野であり、作戦中の司令官は軽騎兵からのレポートを逐一受け取り幅広い現状把握に努めるべきだと考えていた。また重騎兵による肉弾突撃を今まで以上に多用したのもナポレオン戦術の特徴であり、結果として敵のみならず味方騎兵の被害をも拡大する事になった。ナポレオンは騎兵との連携を必須とし、なるべく二割以上の騎兵比率を維持するよう各軍に指示していた。 |
”La cavalerie est utile avant, pendant et après une bataille.”(騎兵は戦闘前、戦闘中、そして戦闘後に役に立つ)とはナポレオンが残した言葉である。この言葉の解釈は様々だが、戦闘前の騎兵偵察はナポレオンが特に重視した分野であり、作戦中の司令官は軽騎兵からのレポートを逐一受け取り幅広い現状把握に努めるべきだと考えていた。また重騎兵による肉弾突撃を今まで以上に多用したのもナポレオン戦術の特徴であり、結果として敵のみならず味方騎兵の被害をも拡大する事になった。ナポレオンは騎兵との連携を必須とし、なるべく二割以上の騎兵比率を維持するよう各軍に指示していた。 |
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騎兵連隊の兵員数は800名から |
騎兵連隊の兵員数は800名から1000名であり、各連隊は3ないし4個大隊で構成され、各大隊は2個中隊構成であった。騎兵中隊の人数は約100名だった。更に補欠用の予備大隊が付く事もあった。各連隊の第1大隊の第1中隊は精鋭中隊とされ成績優秀な者が入隊した。フランス革命の中で、騎兵の中枢であった貴族階層の士官と下士官の大半が国外に脱出して失われておりフランス騎兵はその質をひどく落としていたが、ナポレオンはこの部門の再建に成功した。重騎兵の重量胸甲着用の義務付け、ハンガリー式軽騎兵([[ユサール]])の育成強化、後年のポーランド式槍騎兵([[ウーラン]])の導入などがナポレオンのアイディアであった。 |
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騎兵は直線的な白兵戦を専門とする'''重騎兵''' |
騎兵は直線的な白兵戦を専門とする'''重騎兵'''(''cavalerie lourde'')と柔軟な機動任務を専門とする'''軽騎兵'''(''cavalerie légère'')の二つの兵科があった。これらは二つのランクに分ける事ができた。カービン騎兵と胸甲騎兵は重騎兵の一線級であり竜騎兵は二線級だった。ユサール騎兵は軽騎兵の一線級であり猟騎兵は二線級だった。槍騎兵はポーランド式騎兵を高く評価したナポレオンが後年に導入したもので、正面戦闘の白兵戦もこなせる万能型の軽騎兵だった。 |
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==== 重騎兵 ==== |
==== 重騎兵 ==== |
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; [[胸甲騎兵]](''{{lang|fr|Cuirassiers}}'') |
; [[胸甲騎兵]](''{{lang|fr|Cuirassiers}}'') |
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:[[ファイル:GericaultWoundedCavalry.jpg|サムネイル|221x221ピクセル|胸甲騎兵]]彼らは中世の騎士を彷彿とさせる騎兵であり、重量の胸甲を身に着け、鉄と真鍮製の兜をかぶり、直刀サーベルと拳銃で武装した。1812年にはカービン銃も装備品となったが多くの者が持つのを嫌ったという。胸甲騎兵は当初25個連隊が編 |
:[[ファイル:GericaultWoundedCavalry.jpg|サムネイル|221x221ピクセル|胸甲騎兵]]彼らは中世の騎士を彷彿とさせる騎兵であり、重量の胸甲を身に着け、鉄と真鍮製の兜をかぶり、直刀サーベルと拳銃で武装した。1812年にはカービン銃も装備品となったが多くの者が持つのを嫌ったという。胸甲騎兵は当初25個連隊が編制されたが、適格とされた上位12個連隊に選別され残りは竜騎兵に転向させられた。最終的には16個連隊となった。力の強い大きな軍馬にまたがる胸甲騎兵は正面から突撃して敵の隊列を突き崩し、しばしば戦いの流れを変える決定打となった。何があっても突撃する事を義務付けられた胸甲騎兵には大きな勇気が必要であり、代わりに高い名誉が与えられた。彼らの胸甲はマスケット銃には無力だったが、遠くからの拳銃と流れ弾ならばはね返す事は出来た。何より胸甲は白兵戦の中で大きな防護効果を発揮し、刀剣と槍の打撃から身を守り続けた。なお18世紀のヨーロッパ諸国の重騎兵は軽装甲ないし非装甲が主流となっており、前面と背面を覆う重い胸甲の採用はナポレオンのアイディアだった。重量胸甲の着用は短期の訓練では身に付かない白兵戦技術を補い、個人の技量に頼らず騎兵の練度を底上げさせる為の手段だった。この事は胸甲騎兵の大量編制と補充を可能にし、ナポレオンは犠牲を顧みない騎兵の肉弾突撃を多用して、それがナポレオン軍の強さにつながった。 |
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: 制服は白のズボンに濃青のコートだった。コートの襟口と袖口と折返しは連隊別に6色で色分けされた。その上に銀色の胸甲を着けた。兜は黒い牛皮を前面に巻き黒い房飾りを後ろに下げて金のとさかが付き赤い羽飾りが立てられていた。 |
: 制服は白のズボンに濃青のコートだった。コートの襟口と袖口と折返しは連隊別に6色で色分けされた。その上に銀色の胸甲を着けた。兜は黒い牛皮を前面に巻き黒い房飾りを後ろに下げて金のとさかが付き赤い羽飾りが立てられていた。 |
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; カービン騎兵 |
; カービン騎兵(''Carabiniers-à-Cheval'') |
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:[[ファイル:Carabiniers à cheval.jpg|サムネイル|213x213px|カービン騎兵]]この名称は近世初期にカービン銃 |
:[[ファイル:Carabiniers à cheval.jpg|サムネイル|213x213px|カービン騎兵]]この名称は近世初期にカービン銃で武装した騎兵が精鋭とされた伝統に由来していた。彼らはフランス重騎兵の中から剣の達人を選抜したエリート部隊の位置付けで、2個連隊が編制された。当初は赤い羽飾り付きの熊毛帽をかぶり白のチョッキと赤い襟返しの濃青色コートを着て白いズボンを履いていた。胸甲騎兵と同じく突撃と白兵戦を主な任務とし、直刀サーベルとカービン銃で武装したが、カービン騎兵は胸甲を着用しなかった。彼らは胸甲に頼らず純粋に剣の技術のみで敵と格闘する事を許されたエリートだった。なお18世紀のヨーロッパ諸国の重騎兵は軽装甲ないし非装甲が主流となっており、重量胸甲は銃撃には無力な上に行軍時の疲労が増し夏は暑く冬は冷たく、更に落馬時の受け身と離脱行動が難しくなる厄介な代物でもあった。しかし突撃を多用するナポレオン戦術の下で白兵戦の機会が急増するともはや技量だけでは対応出来ない現実が明らかとなり、彼らの勇気に見合った戦果を挙げれる機会は減っていった。1809年にはオーストリア軍の[[ウーラン|ウーラン騎兵]](ポーランド式槍騎兵)との戦いで大損害を被り、ついにナポレオンはカービン騎兵たちに胸甲の着用を命じる事になった。彼らは口惜しがったが以後の軍装は一新され、熊毛帽の代わりに赤いとさかで飾られた鉄と真鍮製の金色兜をかぶり、白いコートの上に黄金色に輝く胸甲を着用するようになった。カービン騎兵は近衛騎馬擲弾兵に次ぐ地位の重騎兵であったが、その戦歴は振るわなかった。 |
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; [[ドラグーン|竜騎兵]]( |
; [[ドラグーン|竜騎兵]](''Dragons'') |
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:[[ファイル:Battle of Jena.jpg|サムネイル|258x258ピクセル|竜騎兵]]彼らは重騎兵に区分されるが用途的には中騎兵として認識されており、正面戦闘の構成員となって白兵戦を挑む他、前哨戦や遭遇戦の小競り合い、哨戒と偵察の任務にも当たった。彼らは二線級の重騎兵として扱われたが多芸で汎用な存在でもあった。騎兵用の直刀サーベルと歩兵用の銃剣付きマスケット銃で武装しており、マスケット銃は通常馬鞍に取り付けられ馬上戦闘中はベルトで背負っていた。竜騎兵は歩兵戦闘の訓練も受けており必要に応じて下馬して戦った。故に軍馬が不足した際は徒歩竜騎兵となって柔軟に存在価値を示す事が出来た。徒歩竜騎兵は標準以上の歩兵戦力と見なされており、取り分け騎兵支援用の歩兵となる事が多かった。なお、竜騎兵の為の軍馬調達の努力が怠られていた訳ではなく、必要ならば軍の指示で歩兵将校達の乗用馬を提供させる事もあった。これは竜騎兵の格式を示すのと同時に、歩兵将校達に竜騎兵への反感を持たせる事にもなった。竜騎兵は二線級重騎兵であったが、同じく二線級軽騎兵である猟騎兵よりも練度的に上の位置付けだった。1804年に竜騎兵連隊は30個存在した。1811年にナポレオンがポーランド式槍騎兵の価値を認めると、6個の竜騎兵連隊が槍騎兵連隊に改組されたが、これは槍武装に対応出来ると見込まれた故での指示でもあった。そして1815年には軍馬の欠乏から15個連隊まで規模縮小されていた。 |
:[[ファイル:Battle of Jena.jpg|サムネイル|258x258ピクセル|竜騎兵]]彼らは重騎兵に区分されるが用途的には中騎兵として認識されており、正面戦闘の構成員となって白兵戦を挑む他、前哨戦や遭遇戦の小競り合い、哨戒と偵察の任務にも当たった。彼らは二線級の重騎兵として扱われたが多芸で汎用な存在でもあった。騎兵用の直刀サーベルと歩兵用の銃剣付きマスケット銃で武装しており、マスケット銃は通常馬鞍に取り付けられ馬上戦闘中はベルトで背負っていた。竜騎兵は歩兵戦闘の訓練も受けており必要に応じて下馬して戦った。故に軍馬が不足した際は徒歩竜騎兵となって柔軟に存在価値を示す事が出来た。徒歩竜騎兵は標準以上の歩兵戦力と見なされており、取り分け騎兵支援用の歩兵となる事が多かった。なお、竜騎兵の為の軍馬調達の努力が怠られていた訳ではなく、必要ならば軍の指示で歩兵将校達の乗用馬を提供させる事もあった。これは竜騎兵の格式を示すのと同時に、歩兵将校達に竜騎兵への反感を持たせる事にもなった。竜騎兵は二線級重騎兵であったが、同じく二線級軽騎兵である猟騎兵よりも練度的に上の位置付けだった。1804年に竜騎兵連隊は30個存在した。1811年にナポレオンがポーランド式槍騎兵の価値を認めると、6個の竜騎兵連隊が槍騎兵連隊に改組されたが、これは槍武装に対応出来ると見込まれた故での指示でもあった。そして1815年には軍馬の欠乏から15個連隊まで規模縮小されていた。 |
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: 制服は白のチョッキと白のズボンに赤い襟返しの緑色のコートだった。コートの襟口と袖口と折返しは連隊別に6色で色分けされた。前面に豹皮を巻き後ろに黒い房飾りを下げた真鍮製ギリシャ風ヘルメットをかぶった。 |
: 制服は白のチョッキと白のズボンに赤い襟返しの緑色のコートだった。コートの襟口と袖口と折返しは連隊別に6色で色分けされた。前面に豹皮を巻き後ろに黒い房飾りを下げた真鍮製ギリシャ風ヘルメットをかぶった。 |
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==== 軽騎兵 ==== |
==== 軽騎兵 ==== |
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; [[ユサール]] |
; [[ユサール|ユサール騎兵]](''Hussards'') |
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:[[ファイル:9e Hussards, par Victor Huen.jpg|サムネイル|ユサール騎兵]]この高速度の精鋭騎兵は各司令官の目となり耳となって軍隊の針路を決定した。ユサール騎兵の軍装はきらびやかで華麗な事で有名だった。彼らの中にはカービン銃を持つ者もいたが、大抵は特に敏捷さを重視して曲刀サーベルと拳銃のみで武装した。ユサール騎兵の主な任務は偵察であったが、本隊が交戦するまでの前哨戦の中で様々な任務をこなした。作戦地域を駆け巡って敵部隊の動きをくまなく司令官に知らせるのと同時に、敵の斥侯兵を見つけた際にはこれを撃退して味方の情報を与えないようにした。ナポレオン軍の高度な戦略機動と分進合撃を可能にしたのは、軽騎兵の組織的な情報収集力に拠る所が大きく、その中で特に目覚しい働きを見せていたのがユサール騎兵だった。また戦闘終了後に敵軍隊を再捕捉する追撃戦も彼らの重要な役目であった。敵地への危険な強行偵察を敢行する彼らはほとんど自殺行為と言えるほどの無謀な勇敢さで有名であった。30歳まで生き延びたユサール騎兵は真の古参兵であり幸運の持ち主であると言われた。1804年に10個連隊が編 |
:[[ファイル:9e Hussards, par Victor Huen.jpg|サムネイル|ユサール騎兵]]この高速度の精鋭騎兵は各司令官の目となり耳となって軍隊の針路を決定した。ユサール騎兵の軍装はきらびやかで華麗な事で有名だった。彼らの中にはカービン銃を持つ者もいたが、大抵は特に敏捷さを重視して曲刀サーベルと拳銃のみで武装した。ユサール騎兵の主な任務は偵察であったが、本隊が交戦するまでの前哨戦の中で様々な任務をこなした。作戦地域を駆け巡って敵部隊の動きをくまなく司令官に知らせるのと同時に、敵の斥侯兵を見つけた際にはこれを撃退して味方の情報を与えないようにした。ナポレオン軍の高度な戦略機動と分進合撃を可能にしたのは、軽騎兵の組織的な情報収集力に拠る所が大きく、その中で特に目覚しい働きを見せていたのがユサール騎兵だった。また戦闘終了後に敵軍隊を再捕捉する追撃戦も彼らの重要な役目であった。敵地への危険な強行偵察を敢行する彼らはほとんど自殺行為と言えるほどの無謀な勇敢さで有名であった。30歳まで生き延びたユサール騎兵は真の古参兵であり幸運の持ち主であると言われた。1804年に10個連隊が編制され、1810年に11個連隊、1813年には13個連隊となった。 |
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: ユサール騎兵の制服はジャケット、モール、襟口、袖口、スボン、外套、羽飾りの各パーツの色の組み合わせが連隊毎に異なり色彩の変化に富んでいた。配色は濃青、赤、緑、黄、茶、白、水色だった。前面にモールが肋骨状に並んだジャケットを着て、黒い羊毛で裏打ちされた外套を羽織り、きつめのハンガリー風ズボンと膝下長靴を履いた。頭には羽飾りを立てた円筒帽をかぶった。士官と精鋭中隊は黒い毛皮高帽だった。 |
: ユサール騎兵の制服はジャケット、モール、襟口、袖口、スボン、短丈外套、羽飾りの各パーツの色の組み合わせが連隊毎に異なり色彩の変化に富んでいた。配色は濃青、赤、緑、黄、茶、白、水色だった。前面にモールが肋骨状に並んだジャケットを着て、黒い羊毛で裏打ちされた短丈外套を羽織り、きつめのハンガリー風ズボンと膝下長靴を履いた。頭には羽飾りを立てた円筒帽をかぶった。士官と精鋭中隊は黒い毛皮高帽だった。 |
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; [[猟騎兵]] |
; [[猟騎兵]](''Chasseurs-à-Cheval'') |
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:[[ファイル:Grande Armée - 1st Regiment of Chasseurs à Cheval.jpg|サムネイル|201x201ピクセル|猟騎兵]][[ファイル:Napoleon French Lancer by Bellange.jpg|サムネイル|259x259ピクセル|槍騎兵]]彼らの役割と任務はユサール騎兵と同じで |
:[[ファイル:Grande Armée - 1st Regiment of Chasseurs à Cheval.jpg|サムネイル|201x201ピクセル|猟騎兵]][[ファイル:Napoleon French Lancer by Bellange.jpg|サムネイル|259x259ピクセル|槍騎兵]]彼らの役割と任務はユサール騎兵と同じで偵察、哨戒、奇襲、遊撃、追撃などであったが精鋭扱いされない二線級の軽騎兵だった。1804年には24個連隊が存在し、1811年には31個連隊を数えた。その内の6個連隊はドイツ人、イタリア人などの外国人部隊であった。猟騎兵の馬と装備品の費用は安く、訓練も簡素で短い事がその規模拡張を容易にしていた。1805年には数ヶ月の乗馬射撃訓練だけの事もあった。装備品はカービン銃と曲刀サーベルで、カービン銃用の銃剣も渡されていたが多くの者はこれを用いなかった。この銃剣は下馬戦闘の為でもあり、猟騎兵もまた竜騎兵と同様に下馬戦闘の実技を課せられていたが、訓練が簡素過ぎたせいか徒歩騎兵として用いられる事はなく、軍馬欠乏の際はそのまま待機させられる事が多かった。同様の理由で1815年には15個連隊まで規模縮小されていた。 |
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:猟騎兵の軍装は全体的にダークグリーンで統一されていた。制服は黒い円筒帽をかぶり、緑色のコートを着て、緑色のズボンと黒い膝下長靴を履いた。コートの襟口と袖口と折返しは連隊毎に12色で色分けされていた。 |
:猟騎兵の軍装は全体的にダークグリーンで統一されていた。制服は黒い円筒帽をかぶり、緑色のコートを着て、緑色のズボンと黒い膝下長靴を履いた。コートの襟口と袖口と折返しは連隊毎に12色で色分けされていた。 |
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; [[槍騎兵]]( |
; [[槍騎兵]](''Lancers'') |
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:[[ファイル:Lancer.jpg|サムネイル|237x237ピクセル|ポーランド槍騎兵]] |
:[[ファイル:Lancer.jpg|サムネイル|237x237ピクセル|ポーランド槍騎兵]]ポーランド式槍騎兵([[ウーラン]])を高く評価したナポレオンは、ロシア遠征に備えて1811年から6個の竜騎兵連隊を槍騎兵連隊に改組させ、皇帝近衛隊のポーランド人騎兵たちにその教練をまかせた。彼らは名前が示す通り槍で武装しており、他に曲刀サーベルと拳銃も携行した。編制当初は全隊列に槍を構えさせていたが、実戦の中でポーランド流戦術の正しさが証明されると、後列の槍騎兵には槍の代わりに銃剣付きカービン銃を装備させた。彼らの槍は銃剣より長かったので歩兵陣形を攻めるのに効果があり、同様に長い槍のリーチで騎兵との白兵戦にも有利だった。ただし槍騎兵の本領を満足に発揮出来たのはもっぱらポーランド人と近衛騎兵に限られており、一般のフランス人槍騎兵の方は急造による不慣れと訓練の不足からロシア遠征では苦戦を強いられる事が多かった。てこ入れとして本場である同盟国ポーランドから2個の槍騎兵連隊が追加された。更にドイツ人猟騎兵連隊から改組された槍騎兵連隊も加えられた。 |
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: 制服は黒いとさかで飾られた真鍮製ヘルメットとグリーンのコートとグリーンのズボンだった。コートの前面の襟返しは連隊別に6色で色分けされた。なお、ポーランド人の第7、第8連隊の方は黄色の襟返しのブルーのコートとブルーのズボンで頭には青いポーランド風四角筒帽をかぶった。 |
: 制服は黒いとさかで飾られた真鍮製ヘルメットとグリーンのコートとグリーンのズボンだった。コートの前面の襟返しは連隊別に6色で色分けされた。なお、ポーランド人の第7、第8連隊の方は黄色の襟返しのブルーのコートとブルーのズボンで頭には青いポーランド風四角筒帽をかぶった。 |
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=== 歩兵 === |
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”Une bonne infanterie est sans doute le nerf de l'armée, mais si elle avait longtemps à combattre contre une artillerie très supérieure, elle se démoraliserait et serait détruite. ”(優れた歩兵は疑いなく軍隊の要である。しかしより優れた砲兵の前ではその士気を挫かれやがて壊走するだろう)。 |
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ナポレオンの歩兵観はこの様なものであった。歩兵は大陸軍の主要構成員として戦いの帰趨を決定する存在ではあるが、地味で工夫の無い存在でもあり彼らに劇的な戦闘展開を期待する事は難しかった。歩兵は密集隊形で戦う'''[[戦列歩兵]]'''(''{{lang|fr|Infanterie de Ligne}}'')と、散開して戦う'''軽歩兵'''(''{{lang|fr|Infanterie Légère}}'')の二つの兵科に分けられていた。 |
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==== 戦列歩兵 ==== |
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[[ファイル:Waterloo - Juin 2012 (17).JPG|サムネイル|戦列歩兵]] |
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戦列歩兵(''{{lang|fr|Infanterie de Ligne}}'')は大陸軍の基本構成員であり最も人数の多い兵科であった。戦場の彼らは密集した隊形を組み、何があっても隊列から離れない事を求められ、常に隊形の一部となって戦った。これは近世ヨーロッパ歩兵の標準的な戦い方だった。 |
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ナポレオンが半旅団(demi-brigade)を連隊(régiment)に改称した1803年当時は、89個の戦列歩兵連隊(''{{lang|fr|Régiments de Ligne}}'')が存在した。これはフランス国内の県とほぼ同じ数であり、革命戦争時代にそれぞれの県が一つの半旅団を組織していた事になる。その後も新しい連隊が作られ最終的には156個となった。 |
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戦列歩兵連隊は3ないし4個大隊で構成された。大隊は複数の中隊で構成されたが、その構成内容は革命戦争時代から三回変更されている。1800年から1804年にかけての戦列歩兵大隊は8個小銃兵中隊+1個擲弾兵中隊であり各中隊の人数は約120名だった。1805年から1807年にかけては7個小銃兵中隊+1個擲弾兵中隊+1個選抜歩兵中隊となった。1808年から1815年にかけては4個小銃兵中隊+1個擲弾兵中隊+1個選抜歩兵中隊で中隊の人数は約140名となった。戦列歩兵大隊の兵員数は1800年からは約1,000名、1808年からは約800名であり、即ち戦列歩兵連隊の兵員数は大雑把に見て2,400名から3,200名という事になる。 |
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; 小銃兵(Fusilier) |
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:[[ファイル:199 - Austerlitz 2015 (23705957414).jpg|サムネイル|小銃兵]]小銃兵は最も人数の多い標準的な歩兵だった。彼らには行軍訓練が最優先に課せられて歩行速度と持久力を伸ばす事に最大の注意が払われた。”La première vertu d'un soldat est l' endurance de fatigue courage est seulement la deuxième vertu.”(兵士の第一の美徳は疲労に耐える事であり、勇気はその次でよい)とはナポレオンの言葉であり、この戦略眼による訓練で養われた長い距離を短い時間で踏破出来る歩兵達の移動能力は大陸軍の勝利を支え続けた。また戦場においては敵への接近中、個々に狙いを定めて射撃する事が奨励されており、加えて半ば自由行動となる銃剣突撃が積極的に用いられた。この様な兵士達の自主性にまかせる戦い方が出来たのはひとえにフランスが国民軍であるが故であり、他のヨーロッパ諸国ではこうは行かず、戦場では常に隊列を維持させ個々の発砲は許されず指揮官の号令下での一斉射撃を順守させる事が普通であった。 |
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: 小銃兵の武器は、前装式火打石発火型滑腔砲である[[シャルルヴィル・マスケット|シャルルヴィル1777年型マスケット銃]]とその銃剣であった。制服は白いチョッキと白いズボンの上に、襟口と袖口は赤く中央の襟返しは白い濃青色のコートを着た。濃青色コートは1812年までは尾の長いハビットロングで1813年からは尾の短いハビットベストとなった。始めは[[二角帽子]]をかぶり1807年に円筒帽に変わった。円筒帽には中隊毎に色の異なる[[ポンポン]]を付けていた。1808年の再編成では第1中隊は緑色、第2中隊は水色、第3中隊は橙色、第4中隊は紫色のポンポンと決められた。 |
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; 擲弾兵(Grenadier) |
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:[[ファイル:Napoleon Grenadier of 1808 by Bellange.jpg|サムネイル|284x284px|擲弾兵と選抜歩兵]]擲弾兵とは18世紀以前に大柄で精強な者が選ばれて敵戦列に擲弾(手榴弾)を投げ付ける役目を担った伝統に由来する名称であり、即ち精鋭兵を意味する兵種だった。擲弾兵になれるのは大柄で背の高い歴戦の勇士に限られていた。新設大隊には擲弾兵中隊は存在せず、その大隊が二回以上の方面作戦(campagne)に参加した後に始めて一つの擲弾兵中隊の創設を許される事となり、勇敢かつ精強で背の高い兵士が選ばれて入隊し晴れて擲弾兵となった。擲弾兵中隊の位置は大隊戦列の右端と定められており、これは伝統的に最も名誉ある位置だった。戦況に応じて各擲弾兵中隊を合わせた擲弾兵大隊が編成される事があり、時には擲弾兵連隊や擲弾兵旅団が編成される事もあった。この強力な部隊はたいてい大規模戦闘隊形の前衛に配置された。 |
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: 擲弾兵は威圧感を持つように全員が口ひげを蓄えるよう求められた。彼らは赤い羽飾りを立てた熊毛帽をかぶったが、1807年に赤い羽飾りの赤紐円筒帽に変わった。制服は小銃兵と同じだがコートに赤色肩章が付いた。標準装備のマスケット銃と銃剣の他、擲弾兵は歩兵用小剣を腰に帯びた。これは白兵戦の為であったが肝心の戦闘では滅多に使われず、ただの薪割りの道具になったという。 |
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; 選抜歩兵(Voltigeurs、意味的には曲芸的に飛んだり跳ねたりする者) |
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: 1803年に軽歩兵連隊の中に選抜歩兵中隊が組織されたのに続いて、ナポレオンは1805年から戦列歩兵連隊にも選抜歩兵中隊を組織させた。選抜歩兵は複雑な地形および障害物環境下でのアクロバットな戦いを専門とする者達であり、城壁の乗り越えや市街戦、山岳戦の時に活躍し、他に奇襲や斥侯も担当した。連隊の中から特に敏捷で身のこなしに優れた者が選ばれて入隊し、素早い装填と正確な射撃技術を持つ彼らは擲弾兵に次ぐ精鋭と見なされた。1808年から選抜歩兵の待遇は上げられ、彼らの位置は伝統的に二番目の名誉ある位置である大隊戦列の左端と定められた。各選抜歩兵中隊はまとめられて選抜歩兵大隊や選抜歩兵連隊を編成する事があり、司令官の中には擲弾兵よりも選抜歩兵部隊を好んで用いる者もいた。 |
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: 彼らは黄+緑色の羽飾りを立てた二角帽をかぶったが、1807年に黄+緑色の羽飾りの黄紐円筒帽に変わった。制服は小銃兵と同じだがコートに黄色の襟口と黄色肩章(房紐は緑)が付いた。装備品は銃身の短い竜騎兵用マスケット銃とされたが、実際には歩兵用マスケット銃が使われてる事が多くそれに銃剣が付いた。歩兵用小剣を腰に帯びたがもっぱら薪割りの道具となった。 |
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==== 軽歩兵 ==== |
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[[ファイル:Une compagnie d'infanterie légère française dans les bois.jpg|サムネイル|軽歩兵]] |
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近世の歩兵の大半は隊列を組み隊形の一部となって戦ったが、それとは別に隊列を組まず散開し、各自の判断で動き戦う者達もいて彼らは軽歩兵(''{{lang|fr|Infanterie Légère}}'')と呼ばれた。軽歩兵は、密集した戦列歩兵隊形の前面と側面に配置されて散兵線を築き、強固だが正面以外への融通が利かない歩兵陣形を臨機応変に援護した。戦列歩兵と異なり軽歩兵は選抜扱いで人数はずっと少なく、156個連隊が存在した戦列歩兵とは対照的に軽歩兵連隊は35個を越える事はなかった。しかし他のヨーロッパ諸国と比べるとかなりの大人数ではあった。軽歩兵の役割は敵前逃亡しない強い責任感を持つ者だけにまかせる事が出来たので強制徴募と傭兵中心の封建軍隊では編成が難しく、国民国家の軍隊に限り大量編成が可能だった。 |
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軽歩兵連隊は3個大隊で構成された。軽歩兵大隊の構成内容は1807年までは7個猟歩兵中隊+1個カービン兵中隊+1個選抜歩兵中隊で中隊の人数は約120名、1808年からは4個猟歩兵中隊+1個カービン兵中隊+1個選抜歩兵中隊の構成で中隊の人数は約140名だった。 |
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軽歩兵は正確で素早い射撃と機敏な動作を身に付ける為の専門的な訓練を受けていた。装飾的な制服と凛とした態度で知られており、選抜扱いの誇りから高い団結心を持っていた。高い技量の持ち主である彼らは指揮官に信頼されて哨戒などの様々な任務をまかされるのが常だった。大柄が美徳とされる軍隊世界において軽歩兵の価値観は一線を画す事が許されており、小柄さの長所と利点が強調されていた。これは実際に森林を駆け抜ける時の敏捷性や物陰に隠れる動作に活かされていた。 |
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; 猟歩兵({{lang|fr|Chasseurs}}) |
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:[[ファイル:1er régiment d'infanterie légère napolitain, 1812.jpg|サムネイル|277x277px|猟歩兵]]猟歩兵は軽歩兵科で最も人数の多い標準的な存在だった。武器はシャルルヴィル1777年型マスケット銃と銃剣であり、歩兵用小剣も携行した。猟歩兵の制服は全体的にダークブルーで統一されており暗めの色彩だが小銃兵より装飾的だった。この暗い色調は遭遇戦時の迷彩色代わりになったという。 |
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: 彼らは濃青のチョッキと濃青のスボンの上に濃青のコートを着て、コートには緑色肩章(房紐は赤)が付いた。緑の羽飾りを立てた白紐円筒帽をかぶり、1807年から羽飾りは無くなり白い紐飾りだけの円筒帽に変わった。円筒帽には中隊毎に色の異なる[[ポンポン]]が付いた。 |
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; カービン歩兵({{lang|fr|Carabiniers}}) |
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:[[ファイル:Napoleon Voltigeur and Carabinier by Bellange.jpg|サムネイル|225x225px|選抜歩兵とカービン歩兵]]この名称は近世初期にカービン銃を授けられた騎士が精鋭とされた伝統に由来しており、即ちカービン兵は擲弾兵と対をなす精鋭の意味だった。彼らは戦列歩兵大隊の擲弾兵と同じ位置付けだった。二回以上の方面作戦(campagne)を経験し、勇敢かつ精強で背の高い猟歩兵が選ばれてカービン歩兵中隊に入った。彼らは擲弾兵と同様に口ひげを蓄える事を求められた。 |
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: 制服は猟歩兵と同じだがコートに赤色肩章が付いた。赤い羽飾りを立てた熊毛帽をかぶり、1807年からは赤い羽飾りの赤紐円筒帽に変わった。標準装備のマスケット銃と銃剣の他、カービン歩兵は歩兵用小剣を腰に帯びた。 |
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; 選抜歩兵({{lang|fr|Voltigeurs}}、意味的には曲芸的に飛んだり跳ねたりする者) |
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: 1803年にナポレオンの指示で、軽歩兵連隊の中から背の低い者を集めて選抜歩兵中隊が組織されるようになった。彼らの身長は160cmを越える事は無かった。軽歩兵はすでに選抜要員であり身のこなしに優れた者だったので、小柄さの利点を存分に発揮出来る特別な部隊が誕生した事になる。選抜歩兵は複雑な地形および障害物環境下でのアクロバットな戦いを専門とする者達であり、城壁の乗り越えや市街戦、山岳戦の時に活躍し、他に奇襲や斥侯も担当した。ナポレオンの命名であるVoltigeurには敵騎兵の背後から「飛び上がって」攻撃する対騎兵用の歩兵という意味が込められていたが、この斬新な構想は上手くいかなかった。しかし特殊任務担当要員としての必要性を確立し後年には戦列歩兵連隊の方にも選抜歩兵中隊が編成されるようになった。 |
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: 制服は猟歩兵と同じだがコートに黄色の襟口と黄色肩章(房紐は緑)が付いた。黄+緑色の羽飾りを立てた黒い毛皮高帽(''colpack'')をかぶり、1807年からは黄+緑色の羽飾りの黄紐円筒帽に変わった。銃身がやや短い竜騎兵用マスケット銃が標準装備とされたが、実際は歩兵用マスケット銃が使われてる事が多くそれに銃剣が付き、歩兵用小剣も腰に帯びた。 |
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=== 砲兵 === |
=== 砲兵 === |
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”Dieu se bat sur le côté avec la meilleure artillerie.”(神は優れた砲兵を持つ側に味方する)<ref name="artillery">Mas, M.A. M., p.81.</ref> 。砲兵士官の出身であるナポレオンはしばしばこの様に語っていたとされる。大砲はナポレオン軍の柱石であり、歩兵と騎兵が突入する前の敵隊列を乱す攻撃の要であった。 |
”Dieu se bat sur le côté avec la meilleure artillerie.”(神は優れた砲兵を持つ側に味方する)<ref name="artillery">Mas, M.A. M., p.81.</ref> 。砲兵士官の出身であるナポレオンはしばしばこの様に語っていたとされる。大砲はナポレオン軍の柱石であり、歩兵と騎兵が突入する前の敵隊列を乱す攻撃の要であった。'''徒歩砲兵'''(''Artillerie a pied'')と'''[[騎馬砲兵]]'''(''Artillerie a cheval'')の二つの兵種があり、更に大砲運搬を専門に行う'''砲車牽引兵'''(''Train d’artillerie'')と、大砲を載せる台車や荷車の修理修繕を行う'''工匠兵'''(''Ouvriers'')と、大砲の修理修繕を行う'''大砲鍛冶兵'''(''Armuriers'')の三つの支援兵種があった。 |
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大 |
大陸軍(グランダルメ)が発足した1805年には8個の徒歩砲兵連隊と6個の騎馬砲兵連隊が存在した。徒歩砲兵連隊は22個の徒歩砲兵中隊を一括管理した。騎馬砲兵連隊は3個大隊を擁し各大隊は2個中隊構成だったので合計6個の騎馬砲兵中隊を管理していた。なお1814年に4個大隊に増え合計8個中隊となった。徒歩砲兵中隊は[[カノン砲]]6門と[[榴弾砲]]2門の計8門を持ち、騎馬砲兵中隊は[[カノン砲]]6門を保有した。砲兵連隊は戦場で一体的に行動する訳ではなく単に軍政面の管理上の組織だったので、各砲兵中隊は個別に師団司令部か軍団司令部に配属されていた。師団には1個砲兵中隊が配属されて'''師団砲兵'''と呼ばれた。歩兵師団には徒歩砲兵が、騎兵師団には騎馬砲兵が割り当てられた。軍団には徒歩と騎馬の2個砲兵中隊を配属するのが標準とされ'''軍団砲兵'''となった。軍団砲兵とその配下師団の師団砲兵は合併して軍団指揮下の大砲列となる事もあった。1809年からは革命戦争末期に廃れた連隊砲兵の編制が再び始まり、[[カノン砲]]2門を持つ砲兵分隊(escouade)が配属された歩兵連隊も存在するようになった。 |
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砲車牽引兵中隊(compagnie)は砲兵中隊(batterie)の大砲運搬に一対一で対応した。砲兵中隊には工匠兵と大砲鍛冶兵が随伴して大砲と砲車の修理修繕を担当した。工匠兵は1812年に19個中隊あり、木工職人である彼らは軍隊内の様々な工作作業も担当した。大砲鍛冶兵は1813年に6個中隊あり、鍛冶職人である彼らは軍隊内の銃器全般の修理も担当した。<gallery widths="180" heights="150" mode="packed"> |
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徒歩砲兵連隊(régiment)は当初22個砲兵中隊(batterie)で構成された。騎乗砲兵連隊の構成は当初6個砲兵中隊、後に8個砲兵中隊だった。なお砲兵連隊は、歩兵連隊ないし騎兵連隊とは性格が異なり、単に軍政面の管理上の組織だったので、各砲兵中隊は個別に師団司令部か軍団司令部に配属されていた。師団に配属された砲兵中隊は'''師団砲兵'''と呼ばれた。歩兵師団には徒歩砲兵が、騎兵師団には騎乗砲兵が割り当てられた。軍団には1個ないし2個の砲兵中隊が配属され'''軍団砲兵'''となった。軍団砲兵とその配下師団の師団砲兵はたいてい合併して運用された。師団、軍団による大砲の一括管理は効果的な集中砲火を可能にした。 |
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砲車牽引兵の各中隊(compagnie)は各砲兵中隊(batterie)の大砲運搬に一対一で対応した。砲車牽引兵大隊は5個程度の中隊を擁し、砲兵連隊と同様に軍政面の管理上の組織でもあったが、それだけでなく軍団砲兵と共に行動して配下師団の集結地点における各砲兵中隊の交通整理と円滑な配置展開を指揮する役割も持っていた。<gallery widths="180" heights="150" mode="packed"> |
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ファイル:Gribeauval cannon de 12 An 2 de la Republique.jpg|[[12ポンドグリボーバル野砲|グリボーバル12ポンドカノン砲]] |
ファイル:Gribeauval cannon de 12 An 2 de la Republique.jpg|[[12ポンドグリボーバル野砲|グリボーバル12ポンドカノン砲]] |
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ファイル:Obusier de 6 pouces Gribeauval.jpg|[[6インチグリボーバル榴弾砲|グリボーバル6インチ榴弾砲]] |
ファイル:Obusier de 6 pouces Gribeauval.jpg|[[6インチグリボーバル榴弾砲|グリボーバル6インチ榴弾砲]] |
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ファイル:Systeme An XI cannon de 6 Douay 1813.jpg|[[:en:Canon de 6 système An XI|共和暦11年式6ポンドカノン砲]] |
ファイル:Systeme An XI cannon de 6 Douay 1813.jpg|[[:en:Canon de 6 système An XI|共和暦11年式6ポンドカノン砲]] |
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</gallery>'''大砲''' |
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: 旧体制時代の1765年にフランスの大砲製造技術は大幅な革新が為されており、ナポレオンはその優れた遺産を受け継ぐ幸運に恵まれた。[[ジャン=バティスト・ヴァケット・ド・グリボーバル]]が考案した[[グリボーバル・システム]]の下で製造された大砲は軽量化されて運搬が容易となり、砲身口径も標準化されて照準も合わせやすくなった。また台車も強化されて安定性も増した。標準型式は4ポンド、[[8ポンドグリボーバル野砲|8ポンド]]、[[12ポンドグリボーバル野砲|12ポンド]]の[[野砲|カノン砲]]と[[6インチグリボーバル榴弾砲|6インチ]]の[[榴弾砲]]に定められた。1803年にナポレオンはこれを改定した[[共和暦11年システム|共和暦11年式システム]]を発案し、4ポンド砲と8ポンド砲は6ポンド砲に置き換えられた。12ポンド砲は牽引に馬6頭を必要とする重砲で専ら軍団砲兵で用いられた。6ポンド砲は馬4頭で牽引された。砲身は[[真鍮|真鍮(黄銅)]]製であった。[[青銅砲]]ともされるがこれは慣例上、[[真鍮]]製の物も含めて[[青銅]]砲と呼ばれたからである。[[砲架]]、車輪、[[前車]]はオリーブグリーン(薄緑色)のペンキで塗られていた。 |
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==== 大砲 ==== |
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: 旧体制時代の1765年にフランスの大砲製造技術は大幅な革新が為されており、ナポレオンはその優れた遺産を受け継ぐ幸運に恵まれた。[[ジャン=バティスト・ヴァケット・ド・グリボーバル]]が考案した[[グリボーバル・システム]]の下で製造された大砲は軽量かつ運搬が容易で照準を合わせやすく、また台車を強化し砲身口径の大きさも標準化されていた。通常の[[野戦砲]]は4ポンド、[[8ポンドグリボーバル野砲|8ポンド]]、[[12ポンドグリボーバル野砲|12ポンド]]の[[野砲|カノン砲]]と[[6インチグリボーバル榴弾砲|6インチ]]の[[榴弾砲]]があった。1803年にナポレオンはこのシステムを更に改定し、4ポンド砲と8ポンド砲は[[オーギュスト・マルモン]]が設計した[[共和暦11年システム|共和暦11年式]]6ポンド砲に置き換えられた。 |
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: 砲身は[[真鍮|真鍮(黄銅)]]製であった。[[青銅砲]]ともされるがこれは慣例上、[[真鍮]]製の物も含めて[[青銅砲]]と呼ばれたからである。砲架、車輪、および[[前車]]はオリーブグリーン(薄緑色)のペンキで塗られていた。 |
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==== 徒歩砲兵 ==== |
==== 徒歩砲兵 ==== |
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:[[ファイル:French foot artillery 1809.jpeg|サムネイル|277x277px|徒歩砲兵]] |
:[[ファイル:French foot artillery 1809.jpeg|サムネイル|277x277px|徒歩砲兵]]徒歩砲兵(''Artillerie a pied'')は標準的な砲兵だった。1805年に徒歩砲兵連隊は8個存在し1810年に9個目の連隊が追加された。軍政面の管理上組織である徒歩砲兵連隊は22個中隊を一括管理していた。徒歩砲兵中隊の兵員数は約120名で[[カノン砲]]6門と[[榴弾砲]]2門の計8門を保有した。 |
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:1人の下士官が砲1門を管理しその下士官2人(伍長と軍曹)を1人の士官が管理して分隊(砲2門)を構成した。その士官2人(中尉と大尉)で小隊(砲4門)を構成し大尉が管理者となった。砲兵中隊には大尉が2人いたので2個小隊のセット品と言えた。この構造ゆえに大砲は2門単位で柔軟に分割運用が出来た。 |
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:制服は襟返しを赤く縁取ったダークブルーのコートとダークブルーのズボンで、赤い飾り紐を巻き上辺を赤く縁取った黒い円筒帽をかぶった。装備品は銃剣付き竜騎兵用マスケット銃と歩兵用小剣だった。 |
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==== 騎 |
==== [[騎馬砲兵]] ==== |
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:[[ファイル:Detaille - Artillerie à cheval de la Garde Imperiale.jpg|サムネイル|268x268ピクセル|騎 |
:[[ファイル:Detaille - Artillerie à cheval de la Garde Imperiale.jpg|サムネイル|268x268ピクセル|騎馬砲兵]]騎馬砲兵(''Artillerie a cheval'')は騎兵と砲兵の高度な融合であり、大砲を荷馬車に乗せて戦闘に参加した。後方で砲列を敷く徒歩砲兵とは対照的に、ほぼ最前線で大砲の移動を繰り返す騎馬砲兵は近接戦闘の訓練も施されていた。彼らは指定位置に着くと素早く下馬して大砲を設置し敵を砲撃した。そして再び大砲を荷車に載せて乗馬し新しい場所へ素早く移動した。この一連の動作を成し遂げる為に相当の訓練を積んでいた彼らは精鋭と見なされており兵員数は徒歩砲兵の五分の一程度だった。騎馬砲兵中隊の兵員数は約100名で[[カノン砲]]6門を保有した。 |
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: 1807年に |
: 1807年に騎馬砲兵連隊は6個存在し1810年に7個目の連隊が追加された。各連隊は3個の大隊(escadron)を擁し1814年に4個となった。各大隊は2個の中隊で構成された。騎馬砲兵連隊も軍政面の管理上組織であり合計6個の中隊を管理していた事になる。1814年からは合計8個となった。騎馬砲兵中隊は騎兵師団の支援砲兵となり、軍団にも1個が配属される事があって貴重な戦力となった。標準構成の軍団は軍団砲兵のそれと配下騎兵師団砲兵のそれの計2個を擁する事になったので大隊組織はこの指揮時に活かされた。騎馬砲兵はナポレオン軍の虎の子部隊であり極めて優秀な戦力となったが、その編制と維持に掛かる費用もかなりのものであった。 |
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: 制服は赤色モールを肋骨状に飾り付けた濃青のジャケットを着て、濃青のズボンと黒い膝下長靴を履いた。赤い羽飾りを立てた黒い毛皮高帽をかぶった。装備品は軽騎兵用サーベルと二丁の拳銃で、拳銃は馬鞍に取り付けられていた。 |
: 制服は赤色モールを肋骨状に飾り付けた濃青のジャケットを着て、濃青のズボンと黒い膝下長靴を履いた。赤い羽飾りを立てた黒い毛皮高帽をかぶった。装備品は軽騎兵用サーベルと二丁の拳銃で、拳銃は馬鞍に取り付けられていた。 |
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'''砲車牽引兵''' |
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:[[ファイル:Napoleon Artillery train and Foot artillerist by Bellange.jpg|サムネイル|238x238ピクセル|砲車牽引兵と砲兵]]砲車牽引兵(''Train d’artillerie'')は大砲運搬を専門に担当して砲兵部隊の行軍を支援した<ref>Elting, John R.:"Swords Around A Throne.", page 250. Da Capo Press, 1997</ref> 。革命戦争期間は民間の人夫を雇っていたが、彼らは敵に襲撃されるとすぐに大砲を放棄する事が多かったので<ref name="Elting2">Elting, John R.:"Swords Around A Throne.", page 254-5. Da Capo Press, 1997</ref>、これを作戦上の重大な懸案と見なしたナポレオンは1800年1月に専門の兵員を用意させる事にした。砲車牽引兵は黄色のズボンとチョッキの上に襟返しが青い灰色のコートを着て黒い円筒帽をかぶった。下士官は軽騎兵用サーベルを腰に下げ、一般兵は短いサーベルを携行した。カービン銃ないし拳銃で武装する者もいて運搬中の大砲を守った。 |
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==== 砲車牽引兵 ==== |
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:砲車牽引兵中隊は砲兵中隊の大砲運搬に一対一で対応し<ref name=":0" />、軍政面の管理上の組織である砲車牽引兵大隊にまとめられていた。1805年には10個の大隊があり各大隊は5個中隊を管理した。1808年に8個の大隊に再編制され各大隊は6個中隊を管理した。1810年には14個大隊となり、その後も更に増設された。1809年からは歩兵連隊の大砲配備にも対応するべく、その運搬を担当する分遣隊を柔軟に編制して連隊砲兵(砲2門)に随伴させるようになった<ref name="Elting2" />。 |
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:[[ファイル:Gribeauval artillery train.jpg|サムネイル|180x180px|大砲運搬の砲車]][[ファイル:Napoleon Artillery train and Foot artillerist by Bellange.jpg|サムネイル|238x238ピクセル|砲車牽引兵と砲兵]]1800年1月に創設された彼らの役割は、大砲を乗せた荷車(砲車)を輓馬(牽引する馬)と共に運搬して砲兵部隊の円滑な行軍を支援する事だった<ref>Elting, John R.:"Swords Around A Throne.", page 250. Da Capo Press, 1997</ref> 。それまでのフランス軍は民間の人夫を雇っていたが、彼らは敵に襲撃されるとすぐに大砲を捨てて我が身と自分の馬を守ろうとした<ref name="Elting2">Elting, John R.:"Swords Around A Throne.", page 254-5. Da Capo Press, 1997</ref>。砲車牽引兵は以前の民間人とは異なり、一定の訓練を施されて規律を持ち兵士と同様に制服を与えられた。彼らの制服は灰色基調でその頑丈そうな外観を引き立てていた。砲車牽引兵はカービン銃と拳銃と歩兵用小剣で武装して運搬中の大砲を守り、後年の遠征中に頻発したコサック騎兵、スペイン人ゲリラ、[[チロル]]人ゲリラの襲撃にもよく対抗出来た。 |
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: 1805年には10個の砲車牽引兵大隊があり、各大隊は5個中隊で構成された。彼らは大砲運搬だけでなく弾薬箱の修繕、荷車の補修、鍛冶作業なども担当した。1808年に8個の大隊に再編成され、各大隊は6個中隊構成となった。その後も増員され1810年に14個大隊、1813年には27個大隊となった。1809年以降、砲兵中隊から分遣隊(大砲2門)を歩兵連隊に配属させるケースが出始めると、砲車牽引兵大隊も自身の分遣隊をその都度柔軟に編成して歩兵連隊の大砲運搬を支援する様になった<ref name="Elting2" />。 |
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== 支援部隊 == |
== 支援部隊 == |
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=== 工兵 === |
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[[ファイル:Sapeur-23RIL.jpg|サムネイル|303x303px|戦闘工兵]] |
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騎兵、歩兵、砲兵に戦闘の脚光が及ぶ影で、軍隊にはさまざまなタイプの軍事技師がいた。 |
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'''戦闘工兵'''(S''apeurs grenadiers'')は、厳密に言えば'''工兵'''(''Génie'')ではなく擲弾兵中隊の中から選抜された者達であり各歩兵大隊に5名が置かれていた。彼らはトレードマークである大斧を持ち、部隊の先頭に立って敵施設の解体作業を行った。敵の城門、防御柵、橋梁、防塞などを破壊して回り、また壁に穴を開けて味方の為の銃眼を作る事もあった。敵前での危険な解体作業に当たる事が多かったので名誉ある地位とされた。彼らは擲弾兵の制服の上に胸から足元までを覆う厚地のエプロンをつけて作業中に飛び散る破片から身を守った。また、ユサール騎兵連隊と竜騎兵連隊にも10名の戦闘工兵が置かれており、精鋭中隊から選抜された彼らは先発隊として連隊野営地の確保を担当した。 |
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[[ファイル:Sapeurs du génie de la Garde impériale, 1810.jpg|サムネイル|232x232ピクセル|近衛土木工兵]] |
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'''土木工兵'''(S''apeurs'')は、軍内の土木作業を担当する者達でその任務は多岐に渡った。堡塁を築き、塹壕を掘り、簡易兵舎を建て、城塞都市攻略の際には土木技術を活かして味方を支援した。都市攻略戦が多発した革命戦争中は12個大隊を数えたが、1805年には5個大隊に選別されてそれぞれが8個中隊を擁した。土木工兵中隊の兵員数は200名だった。土木工兵大隊は軍政面の管理上組織であり戦場では中隊ごとに活動していた。だいたい1個師団に1個中隊が付けられて大規模作業では軍団内の全中隊がまとめて運用された。1812年には8個大隊まで増やされた。制服は徒歩砲兵に似たもので上下共に濃青色だった。必要な工具、資材などは'''工具牽引兵'''(''Train du génie'')が専門の荷車で運搬していた。工具牽引兵は1806年に創設され1810年には6個中隊が存在した。皇帝近衛隊には'''近衛土木工兵'''(''Sapeurs de la Garde impériale'')の1個大隊が存在し4個中隊を擁していた。 |
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'''坑道工兵'''(''Mineurs'')は、城塞都市を攻略する攻城戦の際に城外から地下にトンネルを掘って城内に侵入する作業に従事した。この坑道作戦は18世紀ヨーロッパの攻城戦の中でよく用いられていたが、ナポレオンは城塞の正面攻略をさほど重視せず、可能な限りそれを迂回するか、また孤立させて戦略的に無力化した後に開城させる方針を取っていたので、当時のフランス軍ではそれほど活躍する機会を与えられなかったという。1805年の時点で9個の坑道工兵中隊が存在し、1808年には12個中隊にまで増やされ、2個大隊がそれぞれ6個の中隊を管理した。坑道工兵大隊も軍政面の管理上組織だった。制服は徒歩砲兵に似たもので上下共に濃青色だった。 |
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大陸軍の橋梁技師(''{{lang|fr|pontonniers}}'')はナポレオンの軍隊維持機構の重要な役目を果たした。特に[[艀]](はしけ)をつなぎ合わせた簡易橋梁を構築して水の障害物を越える際の貢献が大きい。橋梁技師の技術によって敵が居そうにない川を渡り敵の虚を突いたり、あるいはモスクワからの撤退時のベレジナでは全滅の危機から自軍を救うことができた。 |
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'''架橋工兵'''(''Pontonniers'')は、工兵科(''Génie'')ではなく砲兵科(''Artillerie'')に属する兵種であり、制服も徒歩砲兵と同じものを着用していた。遠征中の河川の問題に対処する彼らは「[[艀|はしけ]]」をつなぎ合わせてその上に橋梁を渡した浮き橋を構築するか、又は橋台橋脚が支える橋梁を組み立てて味方の渡河を助けた。フランス軍架橋工兵部門の責任者であった[[ジャン=バティスト・エブレ|ジャン・バプティスト・エーブレ]]による技術革新は名高く、彼が考案した工具と工作機械を用いる特別な訓練を施された工兵たちは、様々な橋梁部品を素早く作ると同時にそれらを組み立てて橋を完成させ、また分解した後は各部品の再利用も出来るようにした。必要な資材、工具、特殊部品は'''工具牽引兵'''(''Train du génie'')が運搬する専門の荷車で運ばれた。特殊部品が破損した時も専門の荷車に備えている鍛造機などの工作機械で製造し補充出来た。一つの架橋工兵中隊で全長120mから150m程の[[艀|はしけ]](艀)約80艘からなる浮き橋を7時間以内に組み立てる事が出来た。1805年の時点で5個中隊を管理する2個の架橋工兵大隊が存在し、最終的には8個中隊構成の3個大隊となり合計24個中隊まで増やされた。架橋工兵大隊も軍政面の管理上組織であり戦場では中隊毎に活動したが、大きな川の架橋作業で合同する機会が多かった。皇帝近衛隊には'''近衛架橋工兵'''(''Pontonniers de la Garde impériale'')の1個中隊が存在した。 |
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=== 補給部門 === |
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橋梁に加えて、敵の防御施設に対応するための土木[[工兵]]の中隊もあった。橋梁技師よりは意図した役割に添って使われる頻度は少なかった。皇帝が[[エーカーの包囲戦]]など初期の方面作戦の経験をもとに、固定された防御施設に正面攻撃するよりも可能な限り回避し孤立化させた方がよいことを覚え、土木工兵中隊は通常他の任務に回された。 |
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有名な”une armée marche sur son estomac.”(軍隊は胃で行進する)の言葉を残したナポレオンは、[[兵站]]の重要性を明確に認識していた。従軍開始時にフランス兵は食料4日分を各自所持した。また部隊に続く荷車には全員に行き渡る食糧8日分が積まれていたが、これは緊急時にのみ消費された。ナポレオンも安定した補給が困難である事を悟っており、兵士達になるべく狩猟採集と現地調達で日々を賄うように勧めていた。現地調達とは金品で平和裏に購入する事もあったが、地元住民から徴発する機会も多くまた略奪も頻発した。 |
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国家から各軍に提供される軍需品は'''戦争委員'''(''Commiissares des guerres'')が手配した。戦争委員は政府から各方面軍司令部に派遣されていた役人だった。軍需品は各方面軍の倉庫に蓄えられ、その進軍に合わせて補給物資として逐次移動された。まず各師団の補給部門に補給物資が輸送され、師団から各連隊の輜重部隊に必要物資が支給され、更に連隊から各中隊に糧秣が届けられた。師団が集結する時は、その所属先軍団の補給部門が各師団の荷車の交通整理を行いまとめて補給物資を管理した。なお、旅団と大隊は戦術戦闘面の組織だったので物資の管理には携わらなかった。 |
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ジニーと呼ばれる異なったタイプの技師中隊が大隊や連隊内に作られた。ジニーとは大陸軍内部の通り言葉で技師を指していたが、元々の意味は今日でも使われる「言葉遊び」(''{{lang|fr|jeu de mot}}'')と願いことを受け入れて魔法の力で現実にしてくれる[[ジン (アラブ)|精霊]](''Genie'')にも掛けていた。現在のフランス語で工兵が [[:fr:Génie militaire|'''Génie''' militaire]] と呼ばれるのはこの名残と思われる。 |
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[[ファイル:Jean Louis Théodore Géricault 008.jpg|サムネイル|民間の馬借]] |
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1806年までは民間の人夫を雇い軍隊に随伴させて物資全般の運搬をまかせていたが、戦利品を勝手に放棄する無責任さと運送能力に不満を募らせたナポレオンは、1807年に'''輜重牽引兵'''(''Train des équipages'')を創設して物資運搬の専門要員とした。彼らは砲車牽引兵と似た制服を着て同等の武装をし、糧秣武器弾薬などの軍需品および戦利品と更には負傷兵の運搬も担当した。各輜重牽引兵中隊は4頭立ての荷馬車32台を持ち、軍政面の管理上組織である輜重牽引兵大隊にまとめられていた。中隊は更に4個の分隊(escouade)に分割されて運用される事が多かった。各分隊は荷馬車8台を持ち軍曹に指揮された。1807年には8個の大隊があり各大隊は4個中隊を管理した。1812年には16個大隊に増え6個中隊を管理するようになった。だがロシア遠征でほとんどの荷馬車が失われて壊滅状態となり、1813年には4個大隊が再建されたのみとなった。皇帝近衛隊には'''近衛輜重牽引兵'''(''Train des équipages'' ''de la Garde impériale'')の1個大隊が1811年に編制されて6個中隊を擁していた。 |
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遠征ないし作戦開始前の兵舎生活を送る兵士に支給された食糧1日分はパン750g、ビスケット550g、肉250g、豆類60g、米穀30g、ワイン250ccだった。他によく語られるものとして、1804年にナポレオンが懸賞を掛けた食糧保存技術の公募に応えて[[ニコラ・アペール]]が発明した「[[瓶詰]]」の実用的製法があった。しかし肝心の製造ラインと特に輸送手段の確立がなかなか進まず軍隊全体への普及は遅れ気味で、1814年にようやくその目処が立った時はすでに敗戦間近だった。 |
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=== 輜重兵 === |
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ナポレオンの語録の中でもよく引用される言葉は「軍隊は胃で行進する生き物」である。このことは軍隊の[[兵站]]の重要性を明確に表したものである。大陸軍の部隊は各人に4日分の食料を与えられていた。これに従う荷車には8日分が積まれていたが、これは緊急時にのみ消費されるものだった。ナポレオンは兵士達が狩猟採集と食糧の徴発(略奪、''La Maraude'')で日々を暮らしていくことを勧めていた。 |
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=== 医療部門 === |
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補給物資は作戦開始前に建設しておいた前進基地や倉庫に蓄えられた。これらの物資は軍隊が前進するにつれ前方に移動された。大陸軍の補給基地から軍団や師団の補給庫に物資が配られ、そこから旅団や連隊の輜重部隊に配られ、各部隊には狩猟採集の量を補うだけの食料が配られた。狩猟採集に対する依存度は政治的な圧力で決まることがあった。友好的な国の領土を通過するときは、「その国が供給するもので食っていけ」といわれたが、中立の立場をとる国を通過するときは、補給の問題が生じた。大陸軍が5週間に渡って1日15マイル(24km)の速さで行軍することを可能にしたのは、上記のような計画によるもの半分、行き当たりばったり半分の兵站であった。 |
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兵站のしくみを助けたのがこれも技術的な革新であり、例えば[[ニコラ・アペール]]が発明した今日の[[缶詰]]につながる保存食の技術であった。 |
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=== 医療関係者 === |
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[[ファイル:Ambulance of the French Army.jpg|サムネイル|救急馬車]] |
[[ファイル:Ambulance of the French Army.jpg|サムネイル|救急馬車]] |
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近世の医療は正しい知識が確立される以前の不完全なものであり、それはナポレオン戦争でも同様であった。当時の医療の過酷な現状については他の文献を参考されたい。不完全と言っても全くの未開だった訳ではなく、包帯での止血と傷口の縫合および手法は不明だが挫傷の為の治療も存在し、また体内から破片を摘出する真っ当な外科手術と傷口を洗浄して清潔に保つ事も行われていた<ref>Campagne 1793-1837 de François Vigo-Roussillon, Grenadier de l'Empire(Broché – 1981)</ref>。それらは担当軍医の経験と知識に依存していたようだった。苦痛とショックをやわらげる目的でアヘンもよく使われていた。アヘンは丸薬か液体瓶として携行され、負傷者に摂取させて麻酔同様の働きをした。 |
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医療関係者ほど栄光とも権威とも関係の薄い部門は無かったが、彼らは戦闘後の恐ろしい光景に対処する必要があった。あらゆる旅団、師団、軍団にはそれぞれの医療関係者がおり、衛生兵は負傷者を見つけて運び、看護兵は介護や看護を行い、他に薬剤師や医師、外科医がいた。これらの医療関係者には、しばしば訓練の足りない者や不適切な者がいて他の仕事を担当する部隊もあった。大陸軍の医療の状態は、当時のあらゆる軍隊と同じく原始的なものであった。戦闘よりも負傷や病気で死ぬ者の方が多かった。[[衛生]]や[[抗生物質]]に関する知識も無かった。外科施療といえばそれは切断であった。[[麻酔]]とは、強いアルコールを飲ませること、あるいは時によって患者を殴って意識を失わせることであった。大体手術を受けた患者の3分の1しか生き残れなかった。 |
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ナポレオン戦争の間、軍隊の医療技術や施療技術は大きな進歩を生まなかったが、大陸軍では医療関係者の組織化では改善の恩恵を受けた。外科将軍の{{仮リンク|ドミニック・ジャン・ラリー|fr|Dominique-Jean Larrey|en|Dominique Jean Larrey}}男爵の提唱になるいわゆる''空飛ぶ救急''システムである。戦場でフランス軍''空飛ぶ砲兵隊''が行っているその移動速度を観察したラリー将軍は、これを負傷者を迅速に運び、訓練された御者と衛生兵と担架運搬要員のいる馬車に乗せる仕組みに置き換えた。これは現代の軍事救急システムの先駆けであり、続く数十年間に世界中の軍隊によって採用されることになった。ラリーは移動力を上げ、[[野戦病院]]の組織を改善することにより、現代の[[移動陸軍外科病院]]の原型を作った。 |
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負傷者の苦難についての証言を読むと恐ろしいものがある。ナポレオン自身も「死ぬよりも苦痛に耐える方が勇気がいる」と言ったことがあった。彼は生き残った者達にフランス中でも最善の病院で静養できるような保証を与えた。さらに[[傷痍軍人]]は英雄として扱われ、勲章を授与され、恩給と必要ならば[[義肢]]も与えられた。負傷者が迅速に世話され、栄誉が与えられ、帰郷後の面倒を見られることが知れ渡ると、大陸軍の中の士気も高揚し、戦闘能力を上げることにもなった。 |
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各連隊には'''軍医長'''(''Chirurgien-major'')1名、'''軍医助手'''(''Aides-chirurgiens'')約5名、その他スタッフ達が在籍していた。また師団ごとに野戦病院が設置され負傷兵はここに運ばれたが満員で溢れ返るようになると近くの町や村に可能な限り搬送された。皇帝近衛隊の医療部門(''service de santé'')は正規の医療関係者で占められていたが、その他の部隊では事情が異なった。当時の欧州諸国の中でフランス軍の医療事情は比較的ましな方とされており、特に負傷兵の救命救護に大きく貢献した二人の名高い人物がいた。{{仮リンク|ドミニク・ジャン・ラリー|fr|Dominique-Jean Larrey|en|Dominique Jean Larrey}}が発明した'''''救急馬車'''(Ambulances volantes)''は、前線の負傷兵を迅速かつ効率的に後方の野戦病院に搬送する事を可能にした。ラリーはまた[[野戦病院]]の改善にも取り組んだ。{{仮リンク|ピエール・フランシス・パーシー|fr|Pierre-François Percy|en|Pierre-François Percy}}は逆のアプローチを取り、前線の負傷兵の下に素早く駆け付けて担架に乗せ安全な所に運ぶと、その場で応急処置ないし治療を施す'''移動外科'''(''Chirurgie mobile'')を組織した。これは衛生兵の元祖でもあった。この両者の業績は他の欧米諸国を啓発し各国の軍隊でも取り入れられる事になった。 |
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=== 情報通信 === |
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以下に述べる情報通信は、確かに少なからぬ基本的支援業務であった。ほとんどの命令は、それまでの数世紀と同様に馬に乗った伝令によって運ばれた。騎兵はその勇敢さと騎馬技術によってこの任務を課されることが多かった。短距離の戦術的な信号は視覚的には旗で、聴覚的にはドラムや軍隊ラッパ、トランペット、など楽器で伝えられた。これらの旗手や楽器奏者は象徴的、儀式的、また士気を上げる機能に加えて重要な情報通信の役割を果たした。 |
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ナポレオンは負傷兵たちに最良の病院で静養出来る保証を与えた。[[傷痍軍人]]は英雄として扱われ、勲章を授与され、恩給が支払われ必要ならば義肢も与えられた。傷痍者となっても帰郷後の保証がある事が知れ渡ると、軍人全体の士気も盛んになり戦力の向上につながった。 |
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[[ファイル:Tour du telegraphe Chappe Saverne 02.JPG|thumb|250px|シャップの腕木通信塔]] |
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大陸軍はフランス革命の間には長距離の情報通信手段に革新的なものを得られなかった。フランス軍は大規模かつ組織的な形で[[伝書鳩]]を伝令に採用し、また観測用[[熱気球]]を偵察と通信に用いた最初の軍隊である。しかし[[クロード・シャップ]]によって発明された巧妙な光学的テレグラフ信号装置([[腕木通信]])という形で長距離通信の本当の進歩が得られた。 |
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=== 情報通信部門 === |
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シャップの装置は、互いに目視できる距離に置いた小さな塔の入り組んだネットワークであった。塔は9mの高さがあり、その最頂部に3本の大きな木製の稼動棒(腕木)が取り付けられた。この棒はレギュレター(''regulateur'')と呼ばれ、プーリーと梃子を使って訓練された操作員によって操作された。腕木の位置によって4つの意味があり、その組み合わせで196通りの信号になった。習熟した操作員がおり、悪くない視界が保たれておれば、パリ=リール間193km(123マイル)にある15の塔を経由して、わずか9分間で1つの信号を送ることができ、36の信号から成る電文は約32分間で送れた。パリからベニスの間でも、電文をわずか6時間で送ることができた。 |
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[[ファイル:Sapeurs du Génie de la Garde impériale.jpg|サムネイル|205x205ピクセル|近衛隊の鼓手]] |
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近世を通して軍内の命令は馬に乗った伝令によって運ばれていた。戦場での視覚面では'''旗手'''(''Porte-drapeaux'')が軍旗を掲げて部隊の存在と位置を示し、聴覚面では'''鼓手'''(''Tambours'')がドラムを鳴らして歩行ペースの調整と一斉射撃の合図をし、また'''横笛手'''(''Fifres'')が響かせる小フルートの高い音色は戦いの渦中にある兵士達に隊列の維持を促した。軍旗と楽器は兵士達の士気を維持する為にも重要で、また精神的儀礼的においてもそうであった。 |
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シャップの腕木通信はナポレオンのお気に入りのひとつになり、最も重要な秘密兵器となった。特別の携帯版腕木通信装置を彼の作戦本部とともに移動させた。これを使ってナポレオンは長距離でも敵よりもはるかに短い時間で兵站と軍隊の戦略的調整を図ることができた。1812年には、荷車に載せた装置による通信の研究が始められたが、戦争そのものには間に合わなかった。 |
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フランス軍は[[伝書鳩]]を大規模かつ組織的に用いて遠距離通信に役立てていた。また観測用[[熱気球]]を空に上げて偵察のみならず通信手段としても用いていた。他に革新的な通信技術としては[[腕木通信]](セマフォ)があった。ナポレオンも[[腕木通信]]を活用したが、天候状態で通信時間が左右される不安定さがあったせいか、専ら政治的メッセージや軍政面の指示伝達用だった。 |
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== 外国人部隊 == |
== 外国人部隊 == |
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[[ファイル:Napoleon Polish troops by Bellange.jpg|thumb| |
[[ファイル:Napoleon Polish troops by Bellange.jpg|thumb|229x229px|ポーランド兵]] |
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従来のヨーロッパ諸国と同じくナポレオンも外国人部隊を採用して自国の戦力とした。当時のヨーロッパに存在した国々の多くがナポレオン戦争中の様々な局面でフランス軍の一部となった。彼らはフランス人だけでは手が回らない戦闘支援の任務に付けられる他、正規の外国人連隊を構成して主要戦力的に活躍する事もあった。取り分けポーランド人連隊はナポレオン軍の頼れる戦力となった。 |
従来のヨーロッパ諸国と同じくナポレオンも外国人部隊を採用して自国の戦力とした。当時のヨーロッパに存在した国々の多くがナポレオン戦争中の様々な局面でフランス軍の一部となった。彼らはフランス人だけでは手が回らない戦闘支援の任務に付けられる他、正規の外国人連隊を構成して主要戦力的に活躍する事もあった。取り分けポーランド人連隊はナポレオン軍の頼れる戦力となった。 |
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1805年の対オーストリア、ロシア戦役では、[[ライン同盟]]から動員された35,000名の兵士がフランス軍の情報連絡線と本隊の側面を守る為に使われた。 |
1805年の対オーストリア、ロシア戦役では、[[ライン同盟]]から動員された35,000名の兵士がフランス軍の情報連絡線と本隊の側面を守る為に使われた。 |
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1806年の対プロイセン、ロシア戦役でも同様の目的でライン同盟から27,000名が動員された。更に[[ザクセン王国|ザクセン]]から20、000名の兵員が召集され、彼らはプロイセン軍に対する掃討作戦に使われた。1806年から1807年にかけての冬季作戦ではドイツ諸国、ポーランド人、スペイン人の部隊がフランス軍の左翼を担い、[[バルト海]]に面した[[シュトラールズント]]と[[グダニスク|ダンツィヒ]]の港の占領を助けた。1807年にロシア軍と決戦した[[フリートラントの戦い]]では、外国人部隊が初めて会戦における主要な役割を演じる事になった。 |
1806年の対プロイセン、ロシア戦役でも同様の目的でライン同盟から27,000名が動員された。更に[[ザクセン王国|ザクセン]]から20、000名の兵員が召集され、彼らはプロイセン軍に対する掃討作戦に使われた。1806年から1807年にかけての冬季作戦ではドイツ諸国、ポーランド人、スペイン人の部隊がフランス軍の左翼を担い、[[バルト海]]に面した[[シュトラールズント]]と[[グダニスク|ダンツィヒ]]の港の占領を助けた。1807年にロシア軍と決戦した[[フリートラントの戦い]]では、外国人部隊が初めて会戦における主要な役割を演じる事になった。ポーランド人、ザクセン人、オランダ人が主力部隊の構成員となり、彼らは目立った働きを見せてフランス軍の勝利に貢献した。 |
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1809年の対オーストリア戦役ではフランス軍の約3分の1 |
1809年の対オーストリア戦役ではドイツ方面で戦うフランス軍の約3分の1はライン同盟の兵士だった<ref name="Elting01b">Elting, John R. ''Swords Around A Throne''. Da Capo Press, 1997. Pg.387.</ref>。またイタリア方面に展開したフランス軍の4分の1はイタリア人で構成されていた。 |
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1812年、最大規模に膨れ上がったナポレオン軍はロシア遠征を開始するが、その総勢60万を数える侵攻軍のおよそ4割はドイツ圏を中心とする外国人兵士たちであり、彼らの出身国は20ヶ国に渡っていた。 |
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== 大陸軍の階級 == |
== 大陸軍の階級 == |
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封建制度の軍隊とは異なり、大陸軍(グランダルメ)での昇進は生来の身分や富でなく個人の能力と勇気で審査された。ナポレオンは ”Tout soldat français porte dans sa giberne le bâton de maréchal de France."(全てのフランス兵の背嚢には未来の[[元帥杖]]が入っている)と声明して、どの兵士も成した功績によって最高位まで昇進出来る事を示した。フランス革命前は庶民は将校になれず、名門貴族出身でないと大佐以上になれなかったのでこの違いは大きかった。 |
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[[ファイル:Premiere-legion-dhonneur.jpg|サムネイル|勲章を授けるナポレオン]] |
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封建制度の軍隊とは異なり、大陸軍での昇進は生来の身分や富でなく個人の能力と勇気で審査された。”Tout soldat français porte dans sa giberne le bâton de maréchal de France."(全てのフランス兵の背嚢には未来の[[元帥杖]]が入っている)とはナポレオンの言葉であり、どの兵士も成した功績によって最高位まで昇進出来る可能性がある事を示した。フランス革命前は庶民は将校になれず、名門貴族出身でないと大佐以上になれなかったのでこの違いは大きかった。 |
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大陸軍の最高階級は師団将軍 |
大陸軍の最高階級は師団将軍(''Général de division'')であった<ref>John R. Elting "Swords Around A Throne", p124, Da Capo Press, 1997</ref>。その中で特に功績を認められた者には帝国元帥 (''Maréchal d’Empire'')、大将(''Colonel-Général'')、軍団将軍(''Général en chef commandant une armée'')の栄典、役職が授与された。階級ではない名誉称号である為、これらを重複して授けられた者もいた。帝国元帥の栄典は軍功卓抜な者への表彰と、帝政樹立時に著名な古将への懐柔策として使われた。高い給与と大きな指揮権限が付与され合計26名が叙任された。大将は旧体制の称号をナポレオンが引っ張り出してきたもので、元々は各兵科最先任の将官を意味する役職であったが<ref>「華麗なるナポレオン軍の軍服」134頁 リシュアン・ルスロ著 辻元よしふみ、辻元玲子翻訳 マール社 2014年</ref>大陸軍ではただの名誉称号となり、もっぱらナポレオンの取り巻きが叙任されて彼らの箔付けに使われた。軍団将軍は複数の師団長を指揮する権限を与えられた役職だった。師団数の増加により設置されたが、ロシア遠征で兵力を失った1812年に廃止された。 |
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師団将軍(''Général de division'')は旧体制の中将(''Lieutenant-Général'')に、旅団将軍(''Général de brigade'')は旧体制の少将(''Maréchal de camp'')に相当し、革命時の改称をナポレオンもそのまま使用した。ただし、1814年に両階級とも旧体制の階級呼称に戻され、これは1848年2月18日まで続いた。蛇足ながら、少将の呼称をMajor-Généralとしていなかったのは、当時は参謀長を意味していたことによる<ref>「華麗なるナポレオン軍の軍服」7頁</ref>。旧体制の准将(''Brigadier des armées du roi'')は革命時に廃止されたままとなった。将軍副官(''Adjudant-commandant'')は階級ではなく軍団、師団司令部スタッフとしての役職名であり大佐(''Colonel'')と中佐(''Major'')の中から任命された。序列は旅団将軍と大佐の間とされる事が多かったという。 |
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ナポレオンは1803年の命令書で、革命時に改称された半旅団(demi-brigade)を連隊(régiment)に、半旅団長 |
ナポレオンは1803年の命令書で、革命時に改称された半旅団(demi-brigade)を連隊(régiment)に、半旅団長(''Chef de brigade'')を大佐(''Colonel'')に戻させ、更に革命時に廃止された中佐(''Major''/又は''Gros-major''とも呼ばれた)を再設して各連隊に置くよう指示した<ref>Tome huitieme "Correspondance de Napoleon I", p452, "ttp://books.google.com/books?id=KXAPAAAAQAAJ"</ref>。中佐は専ら連隊の運営事務を担当した。大佐には一等、二等の等級が存在した。二等大佐(''Colonel en second'')は各連隊に一名置かれ副連隊長の役目を果たし、1809年の間のみ正式に階級化して特設連隊を率いる事になった。少佐=大隊長(''Chef de bataillon'')の補佐に任命された大尉は副官勤務大尉(''Capitain adjudant-major'')と呼ばれ一つ上のランクに扱われたが、これは階級でなく役職としての地位だった。大佐=連隊長の副官大尉は(''Capitain adjudant-chef'')と呼ばれた。准尉(''Adjudant sous-oficier'')は連隊内全下士官の監査役となり中佐の業務を補佐した。 |
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大尉 |
大尉(''Capitaine'')は中隊長であり、中尉(''Lieutenant'')は副中隊長だった。大尉と中尉には一等、二等の等級があり砲兵科のみ三等まであった。少尉(''Sous-lieutenant'')は副中隊長の次席だった。軍曹(''Sergent'')は兵士達の現場監督であり、伍長(''Caporal'')はその補佐役となった。第一帝政下の伍長は旧体制の上等兵扱いから引き上げられ下士官待遇とされた。曹長(''Sergent-major'')は中隊の物資全般を管理し、給養係伍長(''Caporal-fourrier'')は中隊の食糧を管理した。歩兵中隊を例に取ると、各中隊には四名の軍曹がいてそれぞれが二人の伍長を管理し伍長は約10名の兵士をまとめていた。 |
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なお、下記表内で※が付いたものは階級ではなく役職的地位、名誉称号である。「AまたはB」のBは騎乗部隊(騎兵、騎 |
なお、下記表内で※が付いたものは階級ではなく役職的地位、名誉称号である。「AまたはB」のBは騎乗部隊(騎兵、騎馬砲兵、憲兵、各種牽引兵)での呼称である。 |
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! 大陸軍の階級 !! 現代の米陸軍で相当する階級 |
! 大陸軍の階級 !! 現代の米陸軍で相当する階級 |
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|帝国元帥 {{lang|fr-FR|('''Maréchal d’Empire''')}}※|| |
|帝国元帥 {{lang|fr-FR|('''Maréchal d’Empire''')}}※<br/>大将 {{lang|fr-Fr|('''Colonel-Général''')}}※<br/>軍団将軍 {{lang|fr-Fr|('''Général en chef commandant une armée''')}}※<br/>師団将軍 {{lang|fr-FR|('''Général de division''')}} |
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| [[大将]] {{lang|en-US|(General)}}<br />[[中将]] {{lang|en-US|(Lieutenant general)}}<br />[[少将]] {{lang|en-US|(Major general)}} |
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*上将{{lang|fr-Fr|('''Général en chef''')}}※ |
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| [[少将]]<ref>アメリカ軍では少将が公式の最高位の階級であり、中将および大将は役職に付随する地位とされる。</ref> |
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|将軍副官 {{lang|fr-FR|('''Adjudant-commandant''')}}※|| [[大佐]] {{lang|en-US|(Staff Colonel)}} |
|将軍副官 {{lang|fr-FR|('''Adjudant-commandant''')}}※|| [[大佐]] {{lang|en-US|(Staff Colonel)}} |
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|軍曹 {{lang|fr-FR|('''Sergent'''}} または {{lang|fr-FR|'''Maréchal des logis''')}} || [[軍曹]] {{lang|en-US|(Sergeant)}} |
|軍曹 {{lang|fr-FR|('''Sergent'''}} または {{lang|fr-FR|'''Maréchal des logis''')}} || [[軍曹]] {{lang|en-US|(Sergeant)}} |
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|給養係伍長 {{lang|fr-FR|('''Caporal-fourrier'''}} または {{lang|fr-FR|'''Brigadier-fourrier''')}} || 中隊書記/補給係軍曹 {{lang|en-US|(Company clerk / supply Sergeant)}} |
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18世紀のヨーロッパの戦いは概して横長の長方形隊列を組んだ歩兵が互いに小銃を撃ち合い、頃合を見て銃剣突撃を仕掛けるという定形的なものだった。大砲は戦いの始めに放たれて敵を脅かし、騎兵は戦いが佳境に差し掛かった時に突入した。封建時代の軍隊の構成員は強制徴募兵と傭兵で占められていたので、モラルと責任感に欠ける彼らを複雑に操作するのは難しく、必然的に戦いはシンプルな作法で行われていた。歩兵、騎兵、砲兵の各隊が戦場に配置された後は、それぞれが前進して正面からぶつかり合うのが当時の戦いの通例だった。 |
18世紀のヨーロッパの戦いは概して横長の長方形隊列を組んだ歩兵が互いに小銃を撃ち合い、頃合を見て銃剣突撃を仕掛けるという定形的なものだった。大砲は戦いの始めに放たれて敵を脅かし、騎兵は戦いが佳境に差し掛かった時に突入した。封建時代の軍隊の構成員は強制徴募兵と傭兵で占められていたので、モラルと責任感に欠ける彼らを複雑に操作するのは難しく、必然的に戦いはシンプルな作法で行われていた。歩兵、騎兵、砲兵の各隊が戦場に配置された後は、それぞれが前進して正面からぶつかり合うのが当時の戦いの通例だった。 |
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[[フランス革命]]で誕生した[[国民皆兵| |
[[フランス革命]]で誕生した[[国民皆兵|国民皆兵軍隊]](''Levée en masse'')は素人の集まりゆえに練度面は劣っていたものの圧倒的人数を誇り、また愛国心を持つ彼らのモラルと責任感は高かった。その特徴を生かした大量の兵士が一斉突入する群衆戦術は革命戦争の中で確立されて大きな威力を発揮し、ナポレオンもまたそれを踏襲した。彼らが実戦経験を積んだ後はモラルの高さゆえに複雑な隊列運動をまかせる事も可能となった為、ナポレオンはこの長所を存分に活かして高度に柔軟な陣形戦術を駆使し、固定的な戦術しか使えない封建軍隊を圧倒していった。その代表例は敵陣形の端に陽動攻撃を仕掛けるか、又は自軍の一部を囮にして敵部隊を釣り出し、敵の予備兵が出払った隙に一気に中央突破を図るというものだった。これは[[アウステルリッツの戦い]]などで用いられており戦争の芸術と称えられた。 |
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[[ファイル: |
[[ファイル:Inspecting the Troops at Boulogne, 15 August 1804.png|サムネイル|戦闘隊形]] |
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戦場の基本行動単位は[[大隊]](bataillon)であり、その人数は800名から1,000名であった。戦闘隊形はこの大隊ごとに組まれていた。戦場は戦闘隊形の幾何学模様で埋め尽くされ、それぞれの隊形が移動し衝突して疎と密の混在状態を作り出し、ある隊形は突破されて崩壊し、またある隊形は包囲されて消耗し、最終的により多くの戦闘隊形の秩序を保ち続けた側が勝利した。優れた戦術とは状況に応じた適切な戦闘隊形の選択と巧みな機動および連携行動の組成物であった。当時の代表的な戦闘隊形は以下の通りだった。 |
戦場の基本行動単位は[[大隊]](bataillon)であり、その人数は800名から1,000名であった。戦闘隊形はこの大隊ごとに組まれていた。戦場は戦闘隊形の幾何学模様で埋め尽くされ、それぞれの隊形が移動し衝突して疎と密の混在状態を作り出し、ある隊形は突破されて崩壊し、またある隊形は包囲されて消耗し、最終的により多くの戦闘隊形の秩序を保ち続けた側が勝利した。優れた戦術とは状況に応じた適切な戦闘隊形の選択と巧みな機動および連携行動の組成物であった。当時の代表的な戦闘隊形は以下の通りだった。 |
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; [[横隊]]({{lang|fr|Ligne}}) |
; [[横隊]]({{lang|fr|Ligne}}) |
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:[[ファイル:Hohenfriedeberg - Attack of Prussian Infantry - 1745.jpg|サムネイル|横隊]]横長の隊列であり通常は横三列で並んだ。正面への火力が最大となるので一斉射撃に適していた。移動方向はほぼ正面に限られており、また両翼端の側面が弱点となった。 |
:[[ファイル:Hohenfriedeberg - Attack of Prussian Infantry - 1745.jpg|サムネイル|横隊]]横長の隊列であり通常は横三列で並んだ。正面への火力が最大となるので一斉射撃に適していた。移動方向はほぼ正面に限られており、また両翼端の側面が弱点となった。 |
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; 行軍[[縦隊]]({{lang|fr|Colonne de Marche}}) |
; 行軍[[縦隊]]({{lang|fr|Colonne de Marche}}) |
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: 街道を行進する時と戦場での素早い移動に使われた。大抵は縦三列ほどで先導者を後続の者達が追った。 |
: 街道を行進する時と戦場での素早い移動に使われた。大抵は縦三列ほどで先導者を後続の者達が追った。銃撃戦には向かず、大砲被弾時の被害も大きくなった。縦隊で敵に接近して横隊に展開するのが定石とされたが、これを成し遂げるには一定の訓練が必要だった。 |
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; 突撃[[縦隊]]({{lang|fr|Colonne de Charge}}) |
; 突撃[[縦隊]]({{lang|fr|Colonne de Charge}}) |
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: いわゆる逆V字形の楔形隊形。中央の先導者がやや突出して |
: いわゆる逆V字形の楔形隊形。中央の先導者がやや突出し両翼外側に向けて広がる各員が段々と後ろに下がった。各員が隣接する内側の者の動きに次々と連動する事で隊列を広げたままの柔軟な高速移動が可能となった。ただし一定の訓練は必要だった。騎兵の移動と突入に用いられた。 |
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; 攻撃[[縦隊]]({{lang|fr|Colonne d'Attaque}}) |
; 攻撃[[縦隊]]({{lang|fr|Colonne d'Attaque}}) |
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: やや広めの縦隊を組む |
: やや広めの縦隊を組む歩兵の前方に散開した軽歩兵が配置された。集団突入の隊形であり、まず軽歩兵が銘々進みながら射撃して敵を牽制しつつその隊列を乱し、敵にある程度迫った後は左右に散って道を開け、後続の歩兵が縦隊のまま突撃した。左右に分かれた軽歩兵はその縦隊の側面を守った。革命戦争時代の群衆戦術の代表例で、玄人の散開歩兵が素人の縦隊歩兵をエスコートして敵にぶつけるような隊形だった。 |
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; 混成配置({{lang|fr|Ordre Mixte}}) |
; 混成配置({{lang|fr|Ordre Mixte}}) |
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: 一斉射撃を行う横隊と銃剣突撃する縦隊を組み合わせた隊形。横隊は複数の大隊をつないだ長大なものとなった。縦隊はその後方か、横隊の節々の切れ目に配置された。横隊が一斉射撃した後に縦隊が突入した。大規模な戦闘隊形ゆえに移動は鈍重で、騎兵と砲兵の支援が必要だったが、横隊の正面火力の高さと縦隊の衝撃力の高さを兼ね備えており、ナポレオンも好んで用いていた。 |
: 一斉射撃を行う横隊と銃剣突撃する縦隊を組み合わせた隊形。横隊は複数の大隊をつないだ長大なものとなった。縦隊はその後方か、横隊の節々の切れ目に配置された。横隊が一斉射撃した後に縦隊が突入した。大規模な戦闘隊形ゆえに移動は鈍重で、騎兵と砲兵の支援が必要だったが、横隊の正面火力の高さと縦隊の衝撃力の高さを兼ね備えており、ナポレオンも好んで用いていた。 |
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; [[方陣]]({{lang|fr|Carre}}) |
; [[方陣]]({{lang|fr|Carre}}) |
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:[[ファイル:Butler Lady Quatre Bras 1815.jpg|サムネイル|方陣]]歩兵が敵騎兵に対して用いる防御隊形。歩兵達が中空の四角形の隊列を組み一辺は三層ないし四層だった。士官が中に入り、四辺の歩兵が銃を構えて射撃し、接近した敵は銃剣で撃退した。こうする事で全方位からの騎兵突入に対抗出来た。また四隅に大砲が置かれる事もあった。移動は極めて緩慢であり、大砲で狙われた時はひとたまりも無く、また敵歩兵の一斉射撃にも弱かった。この隊形は一度崩れると全くの烏合の衆と化してしまう危うさがあった。 |
:[[ファイル:Butler Lady Quatre Bras 1815.jpg|サムネイル|方陣]]歩兵が敵騎兵に対して用いる防御隊形。歩兵達が中空の四角形の隊列を組み一辺は三層ないし四層だった。士官が中に入り、四辺の歩兵が銃を構えて射撃し、接近した敵は銃剣で撃退した。こうする事で全方位からの騎兵突入に対抗出来た。また四隅に大砲が置かれる事もあった。移動は極めて緩慢であり、大砲で狙われた時はひとたまりも無く、また敵歩兵の一斉射撃にも弱かった。この隊形は一度崩れると全くの烏合の衆と化してしまう危うさがあった。 |
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; 機動砲列({{lang|fr|Batterie Volante}}) |
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: 戦闘隊形ではないが砲兵の運用法の一つ。砲兵部隊が移動を繰り返して場所を変えながら砲撃した。騎乗砲兵はこれを専門とする兵種だった。徒歩砲兵も移動速度は大幅に遅かったが実践した。 |
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; 大型砲列({{lang|fr|Grande Batterie}}) |
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: 戦闘隊形ではないが砲兵の運用法の一つ。いわゆる大砲の集中運用であり、一箇所に多くの大砲を並べた砲列を敷いて集中砲火を実現したが、同時に敵砲兵の反撃にも弱く敵騎兵への対策も必要だった。戦闘開始時に用いられ、しばらくすると分割されて複数の機動砲列と化し銘々の場所に移動する事が多かった。しかし砲兵の練度が低い場合は大型砲列のまま運用が続けられた。 |
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== 戦歴 == |
== 戦歴 == |
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{{main|ナポレオン戦争}} |
{{main|ナポレオン戦争}} |
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[[ファイル:Jacques-Louis David, The Coronation of Napoleon edit.jpg|サムネイル|皇帝ナポレオン]] |
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=== 1804年 - 1806年 === |
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1803年、ヨーロッパ大陸内における英仏間の貿易上の対立などの要因からイギリスは[[アミアンの和約]]を破棄してフランスに宣戦布告した。革命の波及を警戒する他のヨーロッパ諸国もまたフランスを公然と敵視しており、1804年5月の膨張主義を伴う[[フランス第一帝政]]の発足と、同年12月のナポレオンの戴冠式によって国際間の緊張は再び高まり始めていた。 |
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[[ファイル:Premiere-legion-dhonneur.jpg|thumb|250px|レジオンドヌール勲章を渡すナポレオン]] |
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大陸軍は当初、大西洋岸軍(''{{lang|fr|L'Armee des cotes de l'Ocean}}'')として組まれた。イギリスへの侵攻を目ざし、[[1803年]]に[[ブローニュ=シュル=メール|ブローニュ]]の港に集結した。しかし[[1804年]]のナポレオンのフランス皇帝戴冠式に対して[[第三次対仏大同盟]]が結成され、1805年にナポレオンはロシアとオーストリアがフランスを侵略する準備をしていることを知ると急遽その視線を東に向けた。彼は大陸軍にすぐさま[[ライン川]]を渡り南[[ドイツ]]に入ることを命じた。大陸軍は8月遅くにブローニュを出発し、急速に行軍して[[ウルム]]の要塞で[[カール・マック]]将軍の孤立したオーストリア軍を包囲した。そこでおこなわれた[[ウルム戦役]]では、フランス軍の損害2,000名に対し、60,000名のオーストリア兵士が捕虜となった。11月には[[ウィーン]]が占領されたが、オーストリアは抵抗を止めず、野戦での軍隊を維持していた。また同盟国のロシアはまだ戦闘に加わっていなかった。[[1805年]]12月2日、[[アウステルリッツの戦い]]で数的には劣勢であった大陸軍が[[アレクサンドル1世]]の率いるロシア=オーストリア連合軍を打ち破った。この見事な勝利によって、12月26日の[[プレスブルクの和約]]が結ばれ、翌年、[[神聖ローマ帝国]]は解体された。<ref name="year">Todd Fisher & Gregory Fremont-Barnes, ''The Napoleonic Wars: The Rise and Fall of an Empire.'' p. 36-54</ref> |
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'''第三次対仏大同盟(1805)''' |
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中部ヨーロッパにおけるフランスの勢力の増大は、前年の戦争で中立の立場を取ったプロイセンを不安にさせた。政治的な駆け引きの後に、プロイセンはロシアに軍事的な援助をすることを約束し、[[1806年]]の[[第四次対仏大同盟]]が結成された。大陸軍はプロイセン領に侵入したが、このとき取った陣形が方陣である。この時軍団同士が互いに支援し合う距離を保って行軍し、時には前衛にも、後衛にも、また側面を守る部隊にもなり、1806年10月14日、[[イエナ・アウエルシュタットの戦い|イェナの戦いとアウエルシュタットの戦い]]でプロイセン軍を徹底的に叩き潰した。伝説にも残る追撃戦でプロイセン軍捕虜140,000名を掴まえ、死傷者は25,00名に上った。[[ルイ=ニコラ・ダヴー]]将軍の第三軍団がアウエルシュタットの戦勲で[[ベルリン]]に最初に入場する栄誉に浴した。しかしフランス軍は再び同盟軍が到着する前に敵を叩いたので、敵はその後も抵抗を続け、平和は訪れなかった。<ref name="enemy">Fisher & Fremont-Barnes p. 54-74</ref> |
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1805年初頭、イギリス征服を企図したナポレオンは[[ドーバー海峡]]に面した[[ブローニュ=シュル=メール|ブローニュ]]に軍勢を集結させ、ここから大陸軍(グランダルメ)が発足した。それに対抗してイギリスは4月にオーストリア、ロシアと共に[[第三次対仏大同盟]]を結成した。イギリス上陸作戦が実は困難な事を悟ったナポレオンは、9月から矛先をオーストリアに変えてドイツ南部に進軍し10月の[[ウルムの戦い]]を経て11月に首都ウィーンを占領した。翌12月にナポレオンは[[アウステルリッツの戦い|アウステルリッツ]]の地でオーストリア=ロシア連合軍を打ち破り、オーストリアに[[プレスブルクの和約]]を調印させて戦争に勝利した。翌1806年にオーストリアを宗主とする[[神聖ローマ帝国]]は解体され、代わりにフランスを盟主とする[[ライン同盟]]がドイツ圏に誕生した。更にナポレオンは同年11月にイギリスとの貿易を禁止し、フランス国内業者に取引を独占させる事になる[[大陸封鎖令]]を発令しヨーロッパ諸国に参加を強制した。 |
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=== 1807年 - 1809年 === |
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ナポレオンはポーランドにその視線を向けた。そこでは残存するプロイセン軍が友邦ロシアと手を結んでいた。難しい冬季の方面作戦が展開されたが手詰まりとなり、[[1807年]]2月7日から8日にかけての[[アイラウの戦い]]では事態が悪化した。この時のロシアとフランスの損害は大きく、得るものはほとんど無かった。この方面作戦は春に再開され、[[ベニグセン]]のロシア部隊は6月14日の[[フリートラントの戦い]]で完敗した。ロシアもついに屈服し、7月にフランスとロシアの間で[[ティルジット条約]]が結ばれ、大陸にはナポレオンの敵が居なくなった。<ref name="continent">Fisher & Fremont-Barnes p. 76-92</ref> |
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[[ポルトガル]]が[[大陸封鎖令]]に組み込まれることを拒否し、フランスは1807年遅くに懲罰的な遠征を行った。この作戦が後に6年間続く[[半島戦争]]の始まりとなり、[[フランス第一帝政]]の資源と人を浪費させることになった。フランスは[[1808年]]に[[スペイン]]を占領しようとしたが、一連の悲惨な戦いによって後年ナポレオンが自ら介入せざるを得なくなった。125,000名の強力な大陸軍が容赦なく侵攻し、[[ブルゴス]]の要塞を占領し、[[ソモシエラの戦い]]で[[マドリッド]]への道が開け、スペイン軍を撤退させた。続いてイギリスの[[ムーア]]軍に鉾先を向け、[[1809年]]1月16日の[[コルナの戦い]]で英雄的な勝利をつかみ、イギリス軍を[[イベリア半島]]から追い出した。この方面作戦は成功であったが、南スペインの占領までまだ暫しの時間を要した。<ref name="Spain">Fisher & Fremont-Barnes p. 200-209</ref> |
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一方で、東方ではオーストリアが息を吹き返して反攻の準備をしていた。[[フランツ2世|オーストリア皇帝フランツ1世]]の宮廷におけるタカ派の人間が、フランスがスペインに関わっている間に機会を掴まえようと王を説得した。1809年4月、オーストリアは公式の宣戦布告なしに方面作戦を開始し、フランスを驚かせた。しかし、オーストリア軍の歩みが鈍くあまり進まないうちにナポレオンが[[パリ]]から到着し、事態が沈静化された。オーストリア軍は[[エックミュールの戦い]]に敗れ、[[ドナウ川]]を越えて逃亡し、[[レーゲンスブルク|ラティスボン]]の要塞を失った。しかしオーストリア軍はまだ粘り強く軍隊を維持していたので、新たな方面作戦が必要となった。フランス軍は進軍を続けウィーンを占領し、オーストリアの首都の南西にあるローバウ島を経てドナウ川を渡ろうとした。しかし、続く[[アスペルン・エスリンクの戦い]]に敗れた。これは大陸軍の初めての敗北であった。しかし7月に再度ドナウ渡河を試み、2日間にわたる[[ヴァグラムの戦い]]で勝利を得てオーストリア軍に40,000名の損害を与えた。オーストリアはこの敗北で意気消沈し、その後すぐに停戦に同意した。この結果大陸軍は[[第五次対仏大同盟]]を終わらせ、10月に[[シェーンブルンの和約]]が結ばれた。オーストリア帝国は領土割譲の結果3百万人の領民を失い<ref name="changes">Fisher & Fremont-Barnes p. 113-144</ref>、ようやくナポレオンに屈服した。 |
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'''第四次対仏大同盟(1806 - 1807)''' |
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=== 1810年 - 1812年 === |
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スペインを除いてヨーロッパでは一時的な平和が続いた。しかし、ロシアとの外交的な緊張関係が高まり、[[1812年]]の戦争につながった。ナポレオンはこの脅威に対処するために、これまでにない最大規模の軍隊を結成した。新しい大陸軍はそれまでと変わっていて、士官の半分以上はフランスと同盟する衛星諸国と地方から徴兵した非フランス人で占められた。[[ポーランド]]とオーストリアの部隊を除いてすべての部隊はフランスの将軍の指揮下に入った。 |
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ナポレオンを危険視したプロイセンは1806年10月、ロシアと共に[[第四次対仏大同盟]]を結成した。直ちに出征したナポレオンは[[イエナ・アウエルシュタットの戦い]]でプロイセン軍を撃破した。続くポーランド方面の冬季遠征では苦戦するが、翌1807年5月にプロイセン軍を降服させ、6月の[[フリートラントの戦い]]でもロシア軍を撃破した。その後の[[ティルジットの和約|ティルジット条約]]でロシア、プロイセン両国と講和し、先の[[大陸封鎖令]]にも参加させた。 |
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巨大な多国籍軍は1812年6月23日に[[ネマン川]]を越え東方に進軍し、ロシアはその前に後退していった。ナポレオンは迅速に行軍すればロシアの2つの主力部隊、[[ミハイル・バルクライ・ド・トーリ]]軍と[[ピョートル・バグラチオン]]軍の間に割って入れることを期待していた。しかしロシア軍が3回以上もナポレオンの鉾先を避ける事態になり、大陸軍には苛立ちが溜まっていった。[[スモレンスク]]を占領し、モスクワを守るための最後の防衛戦として9月7日に[[ボロジノの戦い]]が行われた。その結果は、大陸軍が勝ったものの犠牲が多く引き合わない勝利だった。ボロジノの戦いでの勝利の7日後の9月14日、ナポレオンと大陸軍の大部分はついに[[モスクワ]]に到着した。だが、そこはすでにもぬけの殻で炎上する町があるだけだった。兵士達は消火活動の一方で放火犯狩りをやり、モスクワの守りも強いられた。しかも、これまでのロシア軍との死闘と病気(主に[[チフス]])で夏の間にすでに兵士の半分を失っていたうえに、ロシアの[[焦土作戦]]によって大陸軍が確保できる食糧は無かった。フランス皇帝が無為にロシア皇帝に和平の探りを入れている間、ナポレオンと大陸軍はモスクワで1ヶ月以上を無駄に過ごした。この試みが失敗に終わると、10月19日、遂に西方への退却を開始した。退却は侵攻以上に悲惨を極め、寒さと飢えと病気に悩まされ、集まってくる[[コサック]]やロシア軍に繰り返し襲撃された。[[ミシェル・ネイ]]が殿軍を引き受けロシア軍との間の分離を図ったが、大陸軍は事実上壊滅し、およそ400,000名が死に、[[ベレジナ川]]に到着したのはわずか数万名のやつれきった兵士達だった。<ref>[http://scarab.msu.montana.edu/historybug/napoleon/typhus_russia.htm Insects, Disease, and Military History: Destruction of the Grand Armee]</ref>それでも[[ベレジナの戦い]]の結果と[[ジャン=バティスト・エブレ]]の技師達によるベレジナ川に橋を架ける必死の作業で、ナポレオン軍の残兵が救われた。ナポレオンは新しい軍を起こすことと政治的な用向きを果たすために兵を残してパリに帰った。 |
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'''スペイン半島戦争(1808 - 1814)''' |
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軍を起こした時の690,000名の兵士のうち、93,000名のみが生還した。<ref name="survived">Fisher & Fremont-Barnes p. 145-171</ref>この大遠征は、今まで大陸軍が積み上げてきた数々の勝利を突き崩すに十分たる大敗北という結果に終わった。 |
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1807年10月、ナポレオンは親仏派であるスペインの[[マヌエル・デ・ゴドイ|ゴドイ]]政権と[[フォンテーヌブロー条約 (1807年)|フォンテーヌブロー条約]]を結び、[[大陸封鎖令]]を拒否するポルトガル占領の同意と、スペイン領内のフランス軍通過の合意を得た後に遠征を開始し、12月にポルトガルを制圧した。だがその後も様々な口実でスペイン各地に軍を進駐させた事から反仏感情が高まり、1808年3月の政変でナポレオンに忠実な[[マヌエル・デ・ゴドイ|ゴドイ]]政権が倒されるに到った。するとナポレオンはスペイン王家を追放して5月に自身の兄[[ジョゼフ・ボナパルト|ジョゼフ]]を王位に据えた。フランスの占領に反対するスペイン民衆は全土で蜂起して[[ゲリラ]]の語源となると共に、凄惨な[[半島戦争]]が始まった。7月に起きたフランス軍の衝撃的な敗北で新王ジョゼフは逃亡を余儀なくされた。ポルトガルでも反乱が起きており、これを契機と見たイギリスは8月に[[イベリア半島]]へ軍勢を上陸させた。英葡西の三軍は各地でフランス軍の撃退に成功し、戦況が悪化した事から11月にナポレオンはスペインへの親征に踏み切った。12月に首都マドリードを占領して兄[[ジョゼフ・ボナパルト|ジョゼフ]]をスペイン王に復帰させ、翌1809年1月にナポレオン自身はフランスに帰国した。しかしイギリス軍に支援されたスペイン人は頑強に抵抗して戦いは泥沼化し、半島戦争はそのまま長期化して1814年夏にスペインから追い出されるまでフランスを消耗させ続ける事になった。 |
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=== 1813年 - 1815年 === |
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ロシアにおける壊滅的損害はドイツやオーストリアの反仏感情を高めることになった。[[第六次対仏大同盟]]が結成され、ドイツが次の方面作戦の中心となった。培われた才能によってナポレオンはすぐさま新しい軍隊を立ち上げ戦端を開き、[[リュッツェンの戦い (1813年)|リュッツェンの戦い]]と[[バウツェンの戦い]]で連勝した。しかしロシア遠征のためにフランス軍の騎兵の質が落ちていたこと、また部下の将軍の計算違いにより、これらの勝利は決定的に戦争を終わらせるだけのものにならず、休戦になっただけだった。ナポレオンはこの休戦期間を利用して彼の軍隊の質と量を高めようとしたが、オーストリアが同盟に参加したとき、彼の戦略的立場は苦しいものになった。8月に再び戦争が始まり、2日間の[[ドレスデンの戦い]]でフランスは意味のある勝利を収めた。しかし、ナポレオンとの直接対決を避け、彼の部下に矛先を向けるという同盟側の{{仮リンク|トラチェンブルク計画|en|Trachenburg Plan}}の採用により、フランスは[[カッツバッハの戦い]]、[[クルムの戦い]]、[[グロスベーレンの戦い]]、{{仮リンク|デネヴィッツの戦い|en|Battle of Dennewitz}}と負け続けた。 |
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'''第五次対仏大同盟(1809)''' |
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同盟軍は数を増し、フランス軍を[[ライプツィヒ]]で包囲した。有名な3日間の[[ライプツィヒの戦い|諸国民の戦い]]が行われ、橋が時期尚早に壊されたために、[[白エルスター川|エルスター川]]の対岸に30,000名のフランス兵を置き去りにするというナポレオンにとって大きな損失を被った。しかしこの作戦は、{{仮リンク|ハナウの戦い|en|Battle of Hanau}}でフランス軍の撤退を阻止しようとして孤立した[[バイエルン王国|バイエルン]]軍をフランス軍が破ったとき、勝利の意味合いで終りを告げた。<ref name="hanau">Fisher & Fremont-Barnes p. 271-287</ref> |
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[[半島戦争]]でのフランスのつまづきを見たオーストリアは再度の挑戦を決意して1809年4月にイギリスと[[第五次対仏大同盟]]を結成した。オーストリア軍はドイツとイタリアで急速な軍事作戦を展開し、それに応じてナポレオンも反撃を開始するが、5月に発生した[[アスペルン・エスリンクの戦い]]で始めて一敗地に塗れる事になった。だが7月の[[ヴァグラムの戦い|ワグラムの戦い]]で勝利した事から、オーストリアは意気消沈して停戦への運びとなり、10月の[[シェーンブルンの和約]]でオーストリアは巨額の賠償金と領土割譲を課せられ[[大陸封鎖令]]の遵守も確約させられた。この頃がナポレオン帝国の絶頂期であり、その後二年間のヨーロッパ大陸はスペインを除いて平穏な状態が続いた。 |
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「大帝国はもはやない。守らねばならないのはフランス自体だ。」とナポレオンは[[1813年]]の暮れに議会に向かって語った。ナポレオンはなんとか新しい軍隊を結成したが、戦略的には事実上希望のない位置にまで来ていた。同盟軍は[[ピレネー山脈]]から、北[[イタリア]]平原を横切り、さらにフランスの東部国境を越えて侵略してきた。この作戦はナポレオンが{{仮リンク|ラ・ロシエールの戦い|en|Battle of La Rothière}}で敗北を喫したときに始まったが、彼は以前の精神をすぐに取り戻した。[[1814年]]の{{仮リンク|六日間の戦役|en|Six Days' Campaign}}で30,000名のフランス軍が[[ゲプハルト・レベレヒト・フォン・ブリュッヘル]]の散会した軍団に20,000名の損害を与えた。この時のフランス軍の被害は2,000名であった。フランス軍は南に向かい、{{仮リンク|カール・フィリップ・ツー・シュヴァルツェンベルク|en|Karl Philipp, Prince of Schwarzenberg}}を{{仮リンク|モントローの戦い|en|Battle of Montereau}}で破った。しかし、これらの勝利は事態を改善するまでには至らず、[[ランの戦い|ラン(Laon)の戦い]]と{{仮リンク|アルシス=シュル=アウベの戦い|en|Battle of Arcis-sur-Aube}}でのフランス軍の敗北が士気を落としてしまった。3月の末、{{仮リンク|パリの戦い (1814年)|en|Battle of Paris (1814)|label=パリの戦い}}で同盟軍に破れた。ナポレオンは戦い続けることを望んだが、彼の部下達はそれを拒み、[[1814年]]4月6日、皇帝に退位を迫り認めさせた。<ref name="abdicate">Fisher & Fremont-Barnes p. 287-297</ref> |
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'''ロシア遠征(1812)''' |
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[[1815年]]2月[[エルバ島]]から帰還するとナポレオンは、彼の帝国を守るための新たな活動に忙殺された。1812年以来初めて来るべき戦いで彼が指揮を執る北部軍(''L'Armee du Nord'')は職業軍人の集団であり能力が高かった。ナポレオンはロシアやオーストリアが来る前に、[[ベルギー]]にいる[[アーサー・ウェルズリー (初代ウェリントン公爵)|ウェリントン]]やブリュッヘルの同盟軍に会し打ち破ることを試みた。1815年6月15日に始まった作戦は当初は成功だった。6月16日には[[リニーの戦い]]でプロイセン軍を破った。しかし、慣れない部下の作業やまずい指揮により全作戦を通じてフランス軍に多くの問題を引き起こした。[[エマニュエル・ド・グルーシー]]が対プロイセン戦で遅れて進軍したことで、リニーで敗れたブリュッヘルの部隊が回復し、[[ワーテルローの戦い]]でウェリントンの援軍に駆けつけることを許した。この戦いはナポレオンと彼の愛した軍隊にとって最後で決定的な敗北となった。<ref name="army">Fisher & Fremont-Barnes p. 306-312</ref> |
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[[大陸封鎖令]]による貿易の不自由と経済の悪化でヨーロッパ諸国の不満は高まり、1810年にロシアが離脱を表明してイギリスとの貿易を再開した。これを認めないナポレオンは主にドイツ圏の外国人が4割を占める総勢60万の巨大な多国籍軍を編制し、1812年6月からロシア遠征を開始した。ロシアはナポレオンをひたすら自国の荒野に引きずり込んで疲弊させていく[[焦土作戦]]を展開して侵攻するフランス軍を大きく消耗させた。9月の[[ボロジノの戦い|ボロディノの戦い]]の後に首都モスクワに到着したが、そこももぬけの殻で食糧と物資の欠乏に更に苦しむ事になった。ナポレオンはロシアとの講和を探ったが無駄に終わり10月から退却を開始した。この退却行は苦心惨憺を極め、過酷な極寒と執拗な追撃で多数の兵士が失われて総勢60万のうち生還出来たのは2万名ほどだった。フランスは壊滅的な大敗北を喫した。 |
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'''第六次対仏大同盟(1813 - 1814)''' |
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ナポレオンのロシア遠征惨敗とスペインでの敗色を好機と見たプロイセンは、1813年3月にロシアと[[第六次対仏大同盟]]を結成しフランスへ宣戦するが、素早く軍隊を再建したナポレオンの反撃に手を焼いて6月に一時休戦した。同じく6月にスペインでは英葡西の三軍がフランス軍を敗走させ、7月には仏西国境の[[ピレネー山脈]]を越える勢いだった。同時にスウェーデンもフランスに宣戦した。ナポレオンは対仏同盟諸国との講和を求めるが決裂し、他の国々も次々とフランスから離反して[[大陸封鎖令]]も有名無実化された。8月にはオーストリアも宣戦して総勢45万を数える対仏同盟軍が一斉にドイツ方面から攻撃を開始した。同盟軍はナポレオンとの対決を避けて周囲の軍を叩く作戦を取った為に、ナポレオン自身は敗北しないままフランス軍は次第に消耗し追い詰められていった。10月、[[ライプツィヒの戦い|ライプツィヒ]]で史上最大規模の決戦が行われてフランス軍は大敗しドイツから完全撤退した。 |
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1814年はフランス本土の防衛戦となり、南から英葡西連合軍が、東から普露奥瑞の四軍がフランス国内に殺到し、3月には首都パリが包囲された。ナポレオンは徹底抗戦を望んだが部下達に退位を迫られて4月に降服した。[[フォンテーヌブロー条約 (1814年)|フォンテーヌブロー条約]]に従いナポレオンは[[エルバ島]]に追放され、ルイ18世が帰還して王政復古となり5月の[[パリ条約 (1814年)|パリ条約]]で諸外国と講和した。9月からヨーロッパ諸国の間で[[ウィーン会議]]が開かれ戦後の領土分割が協議されたが、各国の利害が対立してまとまる気配を見せなかった。 |
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'''第七次対仏大同盟(1815)''' |
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1815年2月、ルイ18世に対する国民の不満と[[ウィーン会議]]の混迷を好機と見たナポレオンは[[エルバ島]]を脱出して3月にパリへ到着し、特に軍人達に迎えられて皇帝の座に返り咲いた。ルイ18世は国外に逃亡した。驚いたウィーン会議中の諸国は急いで妥協案を成立させると[[第七次対仏大同盟|第七次対大同盟]]を結成し、ナポレオンを法の外に置く旨を宣言した。戦争は不可避となり、兵力で劣るナポレオンは対仏同盟諸国の合流前に各個撃破する作戦を立て、まずベルギー方面にいるイギリス軍とプロイセン軍の攻撃に向かった。しかし6月の[[ワーテルローの戦い]]で敗北した事で再び退位に追い込まれ、ナポレオン帝国と大陸軍(グランダルメ)はここで終焉を迎える事になり、11月の[[第二次パリ条約]]の締結でナポレオン戦争は幕を閉じた。 |
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== 脚注 == |
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<references /> |
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== 関連項目 == |
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* [[ナポレオン戦争]] |
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== 参考文献 == |
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2018年3月9日 (金) 01:32時点における版
La Grande Armée 大陸軍 | |
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活動期間 | 1805–1815 |
国籍 | フランス帝国 |
兵力 |
685,000名 (1812年6月) |
主な戦歴 | |
指揮 | |
現司令官 |
ナポレオン ミュラ ランヌ ベルティエ ネイ ダヴー ベルナドット スールト マッセナ スーシェ ヴィクトル オージュロー ルフェーヴル モルティエ マルモン |
大陸軍(仮名:だい・りくぐん|仏語:Grande Armée)は、フランス第一帝政下の陸軍組織であり、ナポレオン1世が命名したフランス兵を中核とする軍隊の名称である。偉大な陸軍という意味が込められていた。
最初の記録に現れるのは1805年、イギリス本土侵攻に向けてドーバー海峡に面したブローニュに総勢18万の大軍を集結させた時であった。大陸軍の名称は兵士達を鼓舞したが結局イギリス上陸作戦は中止となり内陸部でオーストリア、ロシアと交戦した。その後も1806年から1807年のプロイセン、ロシアとの戦い、1808年から1814年までのスペイン半島戦争、1809年のオーストリアとの決戦、1812年のロシア遠征の各戦役においても大陸軍の名称が使われていた。ナポレオンの勢力拡大と共にその規模は膨れ上がり、1812年夏にピークを迎えた兵員数は685,000名を数えて、大陸軍はフランスとその勢力圏諸国から動員された多国籍軍隊の総称となった[1]。ロシア遠征の敗北で莫大な兵力を喪失した後もナポレオンは新たな兵員を徴集して大陸軍を立て直し、1813年のドイツ戦役、1814年のフランス防衛戦、そして1815年の百日天下まで死闘を繰り広げた。
組織
軍団と師団
大陸軍(グランダルメ)が成功した要因の一つは組織の優れた柔軟性と機動性にあり、それは軍団(corps d'armée)と師団(division)の編制単位を常設しそれぞれに管理部門と補給部門を持たせる事で実現されていた。編制を均一化し独自の兵站機能を備えた軍団と師団は個々に独立して活動出来たので軍隊の多元的な運用が可能となった。他のヨーロッパ諸国の軍隊は、封建領地ごとに組織されていた連隊(régiment)を複数集めて結成した旅団(brigade)が戦争時の最大編制単位であり、管理部門と補給部門を持つ軍司令官がそれらの雑多な旅団を動かすという一元的な運用しか出来なかったのでこの違いは大きかった。戦争が進むにつれて旧態依然だった各国も師団以上の編制を取り入れるようになった。
大陸軍は複数の軍団に分割されて運用された。軍団の兵員数は10,000万名から50,000万名であり、歩兵騎兵砲兵の三兵科を持ち更に兵站部門を備えていた。三兵科の標準構成は3個歩兵師団と1個騎兵師団と軍団砲兵というものであった。軍団は単独でも作戦行動が可能であり、更に他の軍団とも互いに連携した行動を取れた。ナポレオンは軍団指揮官に対して彼の作戦の範囲内における幅広い行動の自由権を与えていた。
師団は、軍団の担当地域内で実際に敵軍勢と衝突する場面に対応した編制単位であり、歩兵師団と騎兵師団があった。師団も独自の輜重部隊を備えていた。歩兵師団の兵員数は4,000名から10,000名であり、2ないし3個旅団または3ないし5個連隊で構成され、それに徒歩砲兵が付いた。騎兵師団の兵員数は2,000名から4,000名であり、2個騎兵旅団または2ないし3個騎兵連隊で構成され、それに騎馬砲兵が付いた。師団の発案者はフランス革命戦争時の陸軍大臣ラザール・カルノーであり、ナポレオンはこの智慧を受け継いで大軍隊構築の土台とした事になる。
皇帝軍事宮廷
皇帝軍事宮廷(Maison militaire de l'Empereur)は、皇帝直属の侍従武官(aide-de-camp)とその秘書達および常任士官(officier d'ordonnance)で構成されたナポレオンの戦争指導を支える為の統帥機関であった。他に帝国内閣閣僚などの重臣連もそれに加わっていた。侍従武官たちはヨーロッパ全土の様々な情報を収集し、遠征区域の地理地形を調べ上げてナポレオンの作戦立案を助けていた。侍従武官になったのはナポレオンに忠実で特にイタリアとエジプトで共に戦った経験を持つ歴戦の将軍と将校たちだった。密偵を駆使するなどして緻密で広大な情報網を張り巡らしていた彼らは文字通りナポレオンの目となり耳となってその戦略構想に多大な影響を及ぼしており、将軍のみならず元帥でさえも侍従武官には敬意を払って彼らの助言に耳を傾けていた。皇帝直属の侍従武官は全期間を通して合計37人が任命されたが一度の在任者は12名までに限られていた。侍従武官はそれぞれが秘書を持ち自身の業務を助けさせた。彼らが長期間在任し続ける事は少なく一定期間が過ぎると前線司令官や総督に転任され、ナポレオンの指示があればまた復任するのが普通だった。常任士官は偵察や伝令など主に遠隔地への往来を担当したが、1809年に廃止されてその職務は各侍従武官の秘書、補佐官に引き継がれた。
参謀総監
参謀総監(Major-Général)は皇帝軍事宮廷とはまた独立した権限と機能を持ち、ナポレオンから発せられた戦争指導を具体的に実現する為の事務統括者であった。百日天下を除く帝国の全期間を通してルイ=アレクサンドル・ベルティエが在任し続けており参謀総監とベルティエはほとんど同義の言葉となった。参謀総監の役目は、皇帝から発せられた戦争指導を具体的な内容に書き表して、それが記された命令書を各司令官に届ける事であった。その司令官が部隊を率いて移動するルートを策定し、それに伴う軍需品の用意と物資運送の手配をする事もまた重要な役割であった。早期からナポレオンと共に二人三脚で軍隊を動かしてきたベルティエは深く信頼され、ナポレオンは彼の職分を尊重し、皇帝でさえ参謀総監とその部下の業務には介入しない事になった。各地の司令官からの皇帝宛の報告書は全てベルティエが目を通しており、必要とあらば彼が代わりに返信し、また必要と思われるレポートだけを取捨選択して皇帝に伝える事もあったので、軍隊運営における彼はほとんどナポレオンの化身であった。しかしロシア遠征時のボロディノの戦い以降はそれまでの様な全面的委託は避けられたという。なお、参謀長(chef d'état-major)は各軍(armée / corps d'armée / division)司令官(commandant)の秘書業務統括者であり、皇帝直率の方面軍ではベルティエがその参謀長を兼任した。
大陸軍の戦力
皇帝近衛隊
1804年5月に発足した皇帝近衛隊(Garde impériale)はフランスの最精鋭軍隊であり、前身の執政親衛隊(Garde des consuls)から発展した組織だった。皇帝近衛隊はそれ自体が一つの軍団(corps d'armée)であり、歩兵騎兵砲兵の三兵科と支援部門を備えていた。ナポレオンは皇帝近衛隊が全軍隊の模範となる事を望み、常に皇帝と共に従軍して絶対の忠誠を示す事を求めた。
皇帝近衛隊に存在する様々な兵種は連隊単位で管理された。一般の連隊長の職名が大佐階級と同名の「Colonel」だったのに対し、近衛連隊指揮官には複数の等級別職名が存在した。一等名は「Major-colonel」二等名は「Colonel-major」三等名は「Major」であった。最上級連隊のみ上位三者が揃い、他の連隊は下位二者ないし一者だけだった。一等二等には旅団将軍の者が、三等には大佐の者が任じられた。各連隊は旅団、師団、集団(corps)などの編制単位にまとめられたが、その指揮官の職名は「Colonel commandant」で師団将軍の者が任じられた。役職名(fonction)と階級名(grade)に同じ単語が使われてるので紛らわしかった。
近衛隊の規模の変遷 | |
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年 | 兵士数 |
1800 | 3,000 |
1804 | 8,000 |
1805 | 12,000 |
1810 | 56,000 |
1812 | 112,000 |
1813 | 85,000(ほとんどが新規近衛隊) |
1815 | 28,000 |
古参、中堅、新規近衛隊
最終的に皇帝近衛隊は経験と能力によって三階層に分けられる構造となっていた。1806年から本格的な増員が始まり、1809年の組織拡張の中で新規近衛隊が創設され新しい採用者はそこに編入された。同時に従来の近衛隊は古参近衛隊と呼ばれるようになった。1810年に新規と古参の渡り橋となる中堅近衛隊が新設され、1806年からの増員組がその主な構成員となった。各近衛部隊の格式とそこに所属する近衛兵の格式はまた別であり、中堅ないし新規近衛隊の士官は古参近衛隊からの編入者(古参近衛兵)である事が多く、新規近衛隊の下士官は中堅近衛隊からの編入者(中堅近衛兵)である事が多かった。
古参近衛隊(Vieille Garde)
古参近衛隊は皇帝近衛隊の最高格であり、構成員は全て3~5回以上の方面作戦(campagne)従軍経験を持ち、戦闘能力と勇敢さを表彰された者たちだった。1813年の最大規模時の構成内容は以下の通りだった。
- 近衛擲弾兵第1連隊+第2連隊
- 近衛猟歩兵第1連隊+第2連隊
- 近衛精鋭憲兵
- 近衛騎馬擲弾兵連隊の第1大隊~第4大隊
- 近衛猟騎兵連隊の第1大隊~第4大隊
- 皇后竜騎兵連隊の第1大隊~第4大隊
- 近衛マムルーク騎兵大隊
- 近衛軽槍騎兵第1連隊の第1大隊~第4大隊
- 近衛軽槍騎兵第2連隊の第1大隊~第4大隊
- 近衛偵察騎兵第1連隊の第1大隊
- 近衛徒歩砲兵第1連隊
- 近衛騎馬砲兵連隊の第1大隊+第2大隊
中堅近衛隊(Moyenne Garde)
中堅近衛隊[2]は皇帝近衛隊の次席格であった。新規近衛隊で経験を積んだ者を引き上げて精鋭歩兵団を構成させつつ、古参近衛候補生とするか、又は新規近衛隊の士官ないし下士官の補充要員としていた。1814年のナポレオン退位時に解散し1815年の百日天下でも再建されなかった。1813年の最大規模時の構成内容は以下の通りだった。
- 近衛小銃猟歩兵連隊
- 近衛小銃擲弾兵連隊
- 近衛軽槍騎兵第1連隊の第5大隊~第8大隊
新規近衛隊(Jeune Garde)
新規近衛隊[3]は皇帝近衛隊の末席格であった。元々は最低1回の従軍経験を持つ推薦された若年士官と年間表彰兵が入隊していたが、後には新兵からの選抜者が大半を占めるようになった。1813年の最大規模時の構成内容は以下の通りだった。
- 近衛狙撃歩兵第1連隊~第12連隊
- 近衛選抜歩兵第1連隊~第12連隊
- 近衛海兵大隊
- 近衛哨戒擲弾兵連隊
- 近衛哨戒猟歩兵連隊
- 近衛騎馬擲弾兵連隊の第5大隊+第6大隊
- 近衛猟騎兵連隊の第5大隊~第10大隊
- 皇后竜騎兵連隊の第5大隊+第6大隊
- 近衛軽槍騎兵第1連隊の第9大隊+第10大隊
- 近衛軽槍騎兵第2連隊の第5大隊~第10大隊
- 近衛偵察騎兵第1連隊の第2大隊~第4大隊、第2連隊+第3連隊
- 近衛名誉国防騎兵第1連隊~第4連隊
- 近衛徒歩砲兵第2連隊
- 近衛騎馬砲兵連隊の第3大隊
戦闘時の編制
皇帝近衛隊の各連隊は以下のような戦闘序列の編制単位にまとめられて運用された。1813年の最大規模時の編制内容は以下の通りだった。
- 古参近衛擲弾兵集団(Corps des grenadiers à pied de la Vieille Garde)
- 近衛擲弾兵第1連隊+第2連隊
- 近衛小銃擲弾兵連隊
- 近衛徒歩砲兵第1連隊の第5中隊
- 古参近衛猟歩兵集団(Corps des chasseurs à pied de la Vieille Garde)
- 近衛猟歩兵第1連隊+第2連隊
- 近衛小銃猟歩兵連隊
- 近衛徒歩砲兵第1連隊の第6中隊
- 近衛重騎兵師団(Division de cavalerie lourde de la Garde)
- 近衛騎馬擲弾兵連隊
- 皇后竜騎兵連隊
- 近衛騎馬砲兵連隊の第1大隊
- 近衛軽騎兵師団(Division de cavalerie légère de la Garde)
- 近衛猟騎兵連隊
- 近衛軽槍騎兵第1連隊+第2連隊
- 近衛騎馬砲兵連隊の第2大隊
- 予備砲兵(Artillerie de réserve)
- 近衛徒歩砲兵第1連隊の第1中隊~第4中隊
- 新規近衛師団(Division de la Jeune Garde) ※1813年には6個存在した。
- 歩兵旅団(近衛狙撃歩兵の1個連隊+近衛選抜歩兵の1個連隊)
- 歩兵旅団(近衛狙撃歩兵の1個連隊+近衛選抜歩兵の1個連隊)
- 近衛徒歩砲兵第2連隊の2個中隊
近衛歩兵
- 執政親衛隊内の2個大隊を起源とするフランス軍の最上級歩兵団であり、1804年の皇帝近衛隊発足時に連隊となった。密集隊形を組む戦列歩兵科だった。1807年のポーランド遠征の中でナポレオンから「不平屋」という渾名を付けられたが、これは皇帝の前でも愚痴をこぼす事を許された彼らの特権を示すものでもあった。フランス軍内で最も経験を積んだ最優秀の古参歩兵である近衛擲弾兵は、ナポレオンの最後の切り札とされ他の近衛兵ほど戦闘に投入される機会もなく言わば殿堂入りの存在だった。この連隊への採用には厳しい基準が定められており、10年以上の軍隊勤務歴と勇敢さでの表彰歴を持ち、品行方正かつ読み書きが出来て178cm以上の身長である必要があった。1806年に新編成された第2連隊は1810年に中堅近衛隊所属となり1813年に古参近衛隊に昇格した。1810年にオランダ近衛隊を元にした第3連隊が発足したが、これは1813年に解散している。1815年の百日天下の時に第3連隊と第4連隊が追加編制され古参近衛隊に所属した。
- 装備品はシャルルヴィル1777年型マスケット銃とその銃剣と歩兵用小剣であり、これは他の近衛歩兵にも共通していた。
- 制服は白いチョッキの上に、襟口は青く袖口は赤色で白い襟返しのダークブルーのコートを着た。コートには赤色肩章が付いていた。白いズボンと黒い長靴を履いた。前面に金の彫刻板を留め金の飾り紐を巻き赤い羽飾りを立てた背高の熊毛帽をかぶった。
- 近衛猟歩兵(Chasseurs-à-Pied de la Garde impériale)
- 執政親衛隊内の1個大隊を起源とするエリート歩兵団であり、散開して戦う軽歩兵科の彼らは、近衛擲弾兵と双璧をなして戦場では共に連携して戦う位置付けだった。1804年の皇帝近衛隊発足時に連隊となった。採用基準も近衛擲弾兵と概ね同じで身長のみ172cm以上だった。1806年に第2連隊が新編制された。1815年の百日天下の時に第3連隊と第4連隊が追加編制され、彼らはワーテルローの戦いで最終突撃を敢行した。
- 制服は白いチョッキの上に、襟口は青く袖口は赤色で白い襟返しのダークブルーのコートを着た。コートには緑色肩章(房紐は赤)が付いていた。白いズボンと黒い長靴を履いた。銀の飾り紐を巻き赤+緑の羽飾りを立てた中高の熊毛帽をかぶった[6]。
- 近衛海兵(Marins de la Garde impériale)
- 1803年にイギリス上陸作戦に向けて皇帝座乗船の乗組員となる近衛海兵大隊が組織された。この大隊の構造は海軍式であり5個集団(一つの艦船の乗組員集団)で構成された。イギリス侵攻作戦が中止された後は近衛歩兵の一員となり、ナポレオンが乗り込む船舶、ボートやバージなどの操舵と管理を担当した。船舶作業の時は邪魔にならない拳銃を主武器とした。
- 制服は金のモールを肋骨状に並べた青いジャケットと、金のストライプの入った青いズボンだった。赤い羽飾りが立てられ上辺に金色の縁取りがされた青い円筒帽をかぶった[7]。
- 近衛小銃擲弾兵(Fusiliers-Grenadiers de la Garde impériale)[8]
- 1806年に近衛軽装擲弾兵(Velites-Grenadiers de la Garde impériale)連隊として組織されたが、すぐに近衛小銃兵(Fusiliers de la Garde impériale)第2連隊と改称され近衛擲弾兵連隊の弟分的な部隊となった。1809年の新規近衛隊の創設と共にそこに所属し、今度は近衛小銃擲弾兵連隊と改称された。続いて1810年に中堅近衛隊が新設されるとそこに昇格した。密集隊形を組む戦列歩兵科である彼らは姉妹部隊である近衛小銃猟歩兵と連携して戦った。1814年のナポレオン退位と共に解散し、1815年の百日天下では近衛擲弾兵に鞍替えされて、その第3、第4連隊の中核構成員となり古参近衛隊に所属した。彼らはワーテルローの戦いで最終突撃を敢行した。
- 制服は白のチョッキの上に白い襟返しのダークブルーのコートを着た。コートには赤色肩章(房紐は白)が付いていた。白いズボンと黒い長靴を履いた。白の飾り紐を巻き赤い羽飾りを立てた黒い円筒帽をかぶった。
- 近衛小銃猟歩兵(Fusiliers-Chasseurs de la Garde impériale)
- 1806年に近衛小銃兵(Fusiliers de la Garde impériale)連隊として組織された後に、近衛小銃兵第1連隊と番号付きの呼称となり近衛猟歩兵連隊の弟分的な部隊となった。1809年の新規近衛隊創設時にそこに所属し、近衛小銃猟歩兵連隊に改称された。1810年の中堅近衛隊新設時にそこに昇格した。散開して戦う軽歩兵科の彼らは姉妹部隊である近衛小銃擲弾兵と連携して戦った。1814年に解散し、1815年の百日天下では近衛猟歩兵第3、第4連隊の中核構成員に改組されて古参近衛隊に所属した。彼らもワーテルローの戦いに参加した。
- 制服は白のチョッキの上に白い襟返しのダークブルーのコートを着た。コートには緑色肩章(房紐は赤)が付いていた。白いズボンと黒い長靴を履いた。白の飾り紐を巻き赤+緑の羽飾りを立てた黒い円筒帽をかぶった。
- 近衛狙撃歩兵(Tirailleurs de la Garde impériale)
- 1809年に近衛狙撃擲弾兵(Tirailleurs-Grenadiers de la Garde impériale)として組織され、翌年に近衛狙撃歩兵と改称された。密集隊形を組む戦列歩兵科だった。まず2個連隊が編制され姉妹部隊である近衛選抜歩兵2個連隊と共に、同年に創設された新規近衛隊を構成した。新規近衛兵の中で背の高い者が優先的に入隊した。次々と連隊が新設され1814年には16個連隊が存在した。古参近衛兵が士官となり中堅近衛兵が下士官となって編入され、新規近衛兵たちを鍛えて戦場に導く形となった。
- 制服は白のチョッキの上に青い襟返しのダークブルーのコートを着た。コートには赤色肩章が付いていた。白いズボンと黒い長靴を履いた。白の飾り紐を巻き赤+白の羽飾りを立てた黒い円筒帽をかぶった。
- 近衛選抜歩兵(Voltigeurs de la Garde impériale)
- 1809年に近衛狙撃猟歩兵(Tirailleurs-Chasseurs de la Garde impériale)として組織され、翌年に近衛選抜歩兵と改称された。散開して戦う軽歩兵科だった。まず2個連隊が編制され、姉妹部隊である近衛狙撃歩兵と対をなして新規近衛隊を構成した。1814年には16個連隊が存在した。密集隊形を組む近衛狙撃歩兵の周辺で近衛選抜歩兵は散兵線を敷き共に連携して戦った。散開する軽歩兵の比率が高い近衛歩兵隊はその散兵線の広さが特徴だった。
- 制服は白のチョッキの上に青い襟返しのダークブルーのコートを着た。コートには黄色肩章(房紐は緑)が付いていた。白いズボンと黒い長靴を履いた。白の飾り紐を巻き赤+緑の羽飾りを立てた黒い円筒帽をかぶった。
近衛哨戒擲弾兵(Flanqueurs-grenadiers de la Garde impériale)
- ロシア遠征に備えて1811年に1個連隊が創設された。その役割は露払いのようなものであり、皇帝近衛隊の各部隊が行軍する周辺に配置されて敵の奇襲や待ち伏せを警戒し本隊の長蛇の移動を支援した。彼らは近衛兵と言っても名ばかりの存在でありそれに準じた待遇は無かった。1814年に解散した。
- 制服は襟返しが金色に縁取られたグリーンのコートと白色のズボンだった。短めの赤い羽飾りを立てて赤い飾り紐を巻いた黒い円筒帽をかぶった。
近衛哨戒猟歩兵(Flanqueurs-chasseurs de la Garde impériale)
- ロシア遠征に備えて1811年に1個連隊が創設された。姉妹部隊である近衛哨戒擲弾兵と同じ役割で、近衛兵たちの前方および側面に配置されて敵の奇襲と待ち伏せを警戒し本隊の長大な行軍を支援した。彼らはより外側の範囲に展開されていた。彼らもまた名前だけの近衛兵で特別な待遇は無かった。1814年に廃止された。
- 制服は襟返しが金色に縁取られたグリーンのコートと白色のズボンだった。短めの黄+緑色の羽飾りを立てて黄色の飾り紐を巻いた黒い円筒帽をかぶった。
近衛騎兵
- 近衛騎馬擲弾兵(Grenadiers-à-Cheval de la Garde impériale)
- 執政親衛隊内の1個大隊を起源とするフランス軍の最上級騎兵団であり、1804年の皇帝近衛隊発足時に連隊となった。背高の熊毛帽をかぶり巨大な黒馬に騎乗する近衛騎馬擲弾兵の行進はさながら黒い森林が迫ってくるように見え周囲を圧倒した。「神」とも「巨人」ともあだ名されるこの偉大な連隊への採用には厳しい審査が課せられており、身長176cm以上の屈強な体格を持ち、4回以上の方面作戦に参加して10年以上の軍隊勤務歴があり、勇敢さで表彰されている必要があった。カービン騎兵連隊と胸甲騎兵連隊から採用されるのが常だったが、その他の騎兵科からの選抜者もいた。
- 近衛騎馬擲弾兵連隊の歴史は数々の武勲で飾られていた。1805年のアウステルリッツの戦いではロシア皇帝の騎兵隊を撃破し、1807年のアイラウの戦いでは大砲60門による苛烈な集中砲火に晒されるが、指揮官の「諸君!あれは糞ではない!ただの砲弾だ!」の一言でロシア軍の陣地に雪崩れ込んだ。1812年のロシア遠征ではフランス兵を散々に苦しめたコサック騎兵でさえも高い熊毛帽の陣列を見ると逃げ去ったという。近衛騎馬擲弾兵は白兵戦で無敗を誇り、ナポレオンが最も頼りにした重騎兵だった。
- 制服は白いチョッキの上に中央の襟返しが白いダークブルーのコートを着て、白色のズボンと黒い膝上長靴を履いた。金の飾り紐を巻き赤い羽飾りを立てた背高の熊毛帽をかぶった。装備品は直刀サーベルとカービン銃と拳銃であった。
- 近衛猟騎兵(Chasseurs-à-cheval de la Garde impériale)
- 1796年のイタリア遠征中に敵騎兵の奇襲から命拾いしたナポレオンは護衛用の軽騎兵中隊を編制しこの200名が起源となった。最古参の騎兵団とも言える彼らは後に執政親衛隊に組み込まれ、そこから皇帝近衛隊の1個連隊に発展した。この連隊に採用されるには3回以上の方面作戦従軍経験と10年以上の軍歴、身長170cm以上が必要であった。1815年の百日天下の時に2個目の連隊も作られていた。
- 近衛猟騎兵は最優秀の斥侯であり戦場におけるナポレオンの目となり耳となった。高度に融通が利きナポレオンと密接な関係にあった彼らは「皇帝の寵児」と呼ばれていた。それ故かやや規律に欠ける面もあり皇帝の前での無作法を指揮官から注意される事が度々あったという。アウステルリッツの戦いで武勲を挙げたが、スペインの戦場ではイギリス騎兵の奇襲で大きな被害を出した。だが概ね活躍してその戦歴を飾りワーテルローの戦いでも勇敢な戦いぶりを見せた。
- 彼らは特に豪華に飾り立てたユサール様式の制服を着用していた。白い羊毛で裏打ちされ金の装飾が施された赤い短丈外套を羽織り、金色モールを肋骨状に並べた緑色のジャケットを着て、白金色のハンガリー風ズボンと黒い膝下長靴を履いた。古参近衛兵は赤いスカーフをかけ赤+緑の羽飾りを立てた黒い毛皮高帽(colpack)をかぶり、新規近衛兵は赤+緑の羽飾りを立てた赤い円筒帽をかぶった。装備品は曲刀サーベルとカービン銃と拳銃であった。
- 近衛精鋭憲兵(Gendarmes d'élite de la Garde impériale)
- 執政親衛隊時代から2個大隊(escadron)が存在した。更に近衛徒歩精鋭憲兵の1個大隊(bataillon)もあった。皇帝近衛隊を引き締める最高峰の監視員である彼らは鉄の規律を持ち、その高潔さと無慈悲さによって近衛兵達から畏怖される存在であった。皇帝の本営を警備して周囲の秩序を保つと共に、捕虜の尋問や賓客の護衛も担当した。1807年以降は戦闘に参加する機会も増え、1809年のアスペルン=エスリンクの戦いにおけるドナウ橋の防衛戦で名を馳せた。採用には厳重な審査が課せられ従軍経験4回と勇敢さの表彰歴、品行方正で教養を備え身長176cm以上が必須とされた。後年はドイツ語能力も求められた。採用者は主に一般の憲兵隊からで、また重騎兵隊からの者もいた。
- 制服は黄色のチョッキに赤い襟返しのダークブルーのコートを着て肩から白い飾緒を下げていた。そして黄色のズボンと黒い膝上長靴を履いた。赤い羽飾りを立てた中高の熊毛帽をかぶった。
- 近衛マムルーク騎兵(Mamelouks de la Garde impériale)
- ナポレオンはエジプト遠征の中でこの砂漠の戦士達を見出しフランスに連れ帰った。狂信的な勇気を持ち中東の馬術と剣技を見せる彼らはフランス軍内にその名を轟かせ、近衛猟騎兵連隊に所属する異質な軽騎兵中隊となった。1805年のアウステルリッツの戦いで頭角を現し独自の軍旗を獲得して古参近衛隊所属の独立大隊に昇格した。1813年には第二のマムルーク中隊が新規近衛隊に新編制された。この両部隊は近衛猟騎兵と連携して1815年の百日天下を戦った。
- 彼らの制服は異国情緒に溢れていた。白いターバンを巻いた赤い帽子をかぶり、紺、緑、黄、橙、紫など銘々の色鮮やかなシャツとチョッキを着て、赤いズボンと茶色の長靴を履いた。武器もまた異国的であり、反りの深い三日月刀と二丁の拳銃を中心にして短刀や槌矛を使い、はたまた戦斧を持つ者もいたという。
- 皇后竜騎兵(Dragons de l’Impératice)
- 1806年に近衛竜騎兵(Dragons de la Garde impériale)連隊として創設されたが翌年に改称された。儀仗兵となる機会が多かった。3番目の近衛騎兵隊である彼らは、その装備品から見ても中騎兵的位置付けだった。この連隊も最後までナポレオンと共に戦った。採用資格は軍歴6年、従軍経験2回、勇敢さの表彰歴、読み書きの教養と身長173 cm以上だった。各竜騎兵連隊から一度に10名ずつが採用され、後には他からの門戸も開かれた。
- 制服は白のチョッキに白い襟返しのダークグリーンのコートを着て肩から金の飾緒を下げていた。白いズボンと黒い膝下長靴を履き、黒い房飾りを後ろに下げ赤い羽飾りを立てた真鍮製ギリシャ風ヘルメットをかぶっていた。曲刀サーベルと拳銃と竜騎兵用マスケット銃で武装していた。
- 近衛軽槍騎兵(Chevau-Légers-Lanciers de la Garde impériale)[9]
- 4番目の近衛騎兵隊であり、元々の構想は優れた外国人騎兵隊を組織する事にあったが、ポーランド人騎兵の活躍を高く評価したナポレオンの考えで、ポーランド式槍騎兵(ウーラン)の部隊が編制される事になった。装備品はその名が示す通り槍であったが実際に槍を構えるのは前列だけで、後列は銃剣付きカービン銃を用いておりそれがポーランド式であった。補助武器として曲刀サーベルと拳銃も携行していた。
- 第1連隊(ポーランド)
- 皇帝近衛隊に所属するポーランド人騎兵たちは、ナポレオンに自分達の独立部隊の創設を認めさせたいと日々望んでいた。1806年の遠征中の活躍によってその努力は報われ、1807年にナポレオンは近衛ポーランド軽騎兵(Chevaux-légers polonais de la Garde impériale)連隊の創設を承認した。ただし担当教官はフランス人でありフランス式の騎兵隊として編制された。最初の閲兵時にナポレオンは彼らを意味深な言葉で皮肉ったが、戦場では自身の側に置いた。翌年のスペイン半島戦争中、ソモシエラの戦いでナポレオンは彼らに防御の厚いスペイン軍砲兵陣地への攻撃を命じた。ポーランド騎兵達はサーベルと拳銃だけを頼りに伝説的な突撃を敢行して無数の砲弾を浴びながらもついに敵陣を打ち破り、20門以上の大砲を鹵獲して偉大な勝利に結び付けた。ナポレオンはこのポーランド人たちの人間離れした勇気を絶賛し、槍を主武器とする本来のポーランド形式で戦う事を認めて近衛軽槍騎兵と改称した。彼らは教えられる側から教える側になり後年、フランス軍内に槍騎兵連隊が新編制される時にその手腕を振るった。近衛軽槍騎兵第1連隊は近衛騎馬擲弾兵連隊と共に騎兵戦闘において一度も敗れた事がない部隊だった。ワーテルローの戦いでイギリス軍のロイヤル・スコッツ・グレイズ騎兵連隊を撃破した事も彼らの偉大な武勇伝の一つとなった。
- 制服は白く縁取られた赤い襟返しの濃青のコートと緋色のストライプの入った濃青のズボンだった。ポーランド風の特徴的な四角筒帽をかぶった。四角筒帽は赤く塗装され黒い牛皮を巻き白の飾り紐を付け前面に金のプレートを留めて中央から白い羽飾りを立てていた。
- 第2連隊(オランダ、後にフランス)
- 1810年にオランダの3個部隊を元にして編制された。彼らオランダ人槍騎兵はその特徴的な赤一色の軍装で知られており赤い槍騎兵(les lanciers rouges)と呼ばれていた。ロシア遠征の中で壊滅状態となり、1813年に再編制された後の構成員はほぼフランス人となった。フランス人槍騎兵もまた赤い軍装を受け継いだ。正面戦闘の白兵戦もこなせる万能型の軽騎兵である彼らをナポレオンは気に入っており、最後までこの槍騎兵連隊の規模拡張を計画していた。幾多の戦いを経てワーテルローの戦いにも参加した。
- 制服は青い襟返しの赤色のコートと赤色のズボンだった。赤いポーランド風四角筒帽をかぶった。四角筒帽は金色の飾り紐を巻き白い羽飾りを立てて前面に金のプレートが留められていた。
- 第3連隊(リトアニア)
- 1812年に編制され新規近衛隊に所属した。構成員となったのはリトアニアとポーランドの学生または地主の子弟であり、熱意はあるが経験の足りない者達だった。訓練が不足したままロシア遠征に投入され、1812年後半の戦いでロシア・コサック騎兵とウクライナ・ユサール騎兵に包囲されスロニムで滅ぼされた。
- 制服は青い襟返しの紺色のコートと紺色のズボンだった。紺色のポーランド風四角筒帽をかぶった。
- 近衛名誉国防騎兵(Gardes d'honneur de la Garde impériale)
- 第六次対仏大同盟の結成で予期される諸外国の大規模な侵攻に備える為に、ナポレオンの指示で1813年に新設された。主に上流家庭と富裕家庭出身の20歳から26歳の子弟、約15,000名を半ば強制採用して4個連隊が編制された。彼らは「人質」と暗に呼ばれており国内資産家の逃亡を抑止する狙いもあったという。彼らの家庭が持つ財産は帝国の権威の下で保証されていたので、その理由もあって駆り出されていた。馬と装備品の費用も自腹だった。彼らの戦闘技術は明らかに近衛騎兵の水準ではなかったが、その身分と立場上の理由から皇帝近衛隊に加えられた。彼らは軽騎兵科であり、他の近衛部隊に随伴して支援任務を担当した。1814年のフランス防衛戦の中で消滅した。
- 制服は、白いモールを肋骨状に飾り付けた緑色のジャケットを着用し、肩から白の飾り帯をかけ、グリーンの短丈外套を羽織った。赤いズボンに黒い膝下長靴を履いた。緑の羽飾りを付けた赤い円筒帽をかぶった。
- 近衛偵察騎兵(Eclaireurs de la Garde impériale)
- ロシア遠征の退却中、コサック騎兵の戦闘技術に強い印象を受けていたナポレオンは、フランス本土決戦前夜の1813年12月にコサック騎兵を参考にした新しい騎兵団を創設し近衛偵察騎兵と名付けた。軽騎兵科である近衛偵察騎兵は純粋な支援部隊であり、編制された3個の連隊は近衛重騎兵の各隊に随伴する位置付けだった。第1連隊は近衛騎馬擲弾兵連隊に、第2連隊は皇后竜騎兵連隊に、第3連隊は近衛軽槍騎兵第1連隊にそれぞれ付属して、専ら偵察と戦闘支援を担当するものとされた。装備品はポーランド槍騎兵と似て、前列は槍と曲刀サーベル、後列は銃剣付きカービン銃と曲刀サーベルだった。訓練期間も短く、彼らがどれだけコサック騎兵の技術を身に付ける事が出来たのか疑問が残った。1814年のフランス防衛戦に投入されたが、敗戦によるナポレオン退位と共に解散した。
- 第1連隊第1大隊の制服は黒い毛皮高帽と白いモールで飾った緑色のジャケットと緑色のズボンだった。その他大隊は猟騎兵風で黒い円筒帽と緑のコートと緑のズボンだった。第2連隊も猟騎兵風だが赤い円筒帽をかぶった。第3連隊は赤い襟返しの濃青色コートと白いズボンと赤いポーランド風四角筒帽だった。
近衛砲兵
- 近衛徒歩砲兵(Artillerie a Pied de la Garde impériale)
- 前身の執政親衛隊では1個中隊のみの規模だった。この皇帝直属の砲兵連隊の入隊資格は、背が高く勇敢さの表彰歴を持ち教養を備えた3回以上の従軍経験者であり、各砲兵連隊より2名が採用された。1806年には35歳以下で10年以上の軍隊勤務者という条件が加わり各連隊から15名が採用されるようになった。フランス徒歩砲兵の最精鋭であるこの連隊は3個大隊で構成され第1、第2大隊は古参近衛隊に所属して3個中隊を擁した。第3大隊は新規近衛隊に所属して同じく3個中隊を擁した。1809年に第3大隊はスペインに遠征して連隊から分離し、やがてこの第3大隊を中核とした近衛徒歩砲兵第2連隊が新編制されて新規近衛隊の支援砲兵となり、1813年には16個中隊まで増やされた。同時に第1、第2大隊は近衛徒歩砲兵第1連隊を構成し古参近衛隊の支援砲兵となる他、皇帝直率の予備砲兵ともなった。
- 制服は袖口が赤く襟口と襟返しを赤く縁取ったダークブルーのコートにダークブルーのズボンだった。コートには赤色肩章が付いていた。古参近衛砲兵は赤い飾り紐を巻き赤い羽飾りを立てた熊毛帽を、新規近衛砲兵は赤い羽飾りを立てた赤い円筒帽をかぶった。装備品は銃剣付き竜騎兵用マスケット銃と歩兵用小剣だった。
- 近衛騎馬砲兵(Artillerie a Cheval de la Garde impériale)
- 前身の執政親衛隊にも1個中隊が存在していた。ナポレオンは1802年から騎馬砲兵の増設に力を注ぎ3個大隊構成の連隊にまで拡張した。各大隊は2個中隊を擁していた。近衛騎馬砲兵の採用には更に厳しい基準が定められて帝国全土から最優秀の人材が探し出されていた。比類なき砲兵である彼らは戦場を神出鬼没に駆け巡り、全速力で駆けつけて来て馬車から大砲を降ろして最初の砲弾を放つのに1分と掛からなかったという。その動きを目の当たりにしたウェリントン公は「彼らはまるで拳銃を撃つように大砲をぶっ放している!」と記している。近衛騎馬砲兵連隊は徒歩と騎馬双方を含めたフランス全砲兵中の最上級部隊であった。用いられる軍馬も超一流のものが選ばれており巨大で怪力の黒い馬が必須条件とされた。もしこの連隊の馬が不足した場合は皇帝の命令で、全騎兵中の最上級部隊である近衛騎馬擲弾兵連隊から軍馬を融通して貰えるよう定められていたので、近衛騎馬砲兵は全軍隊の頂点に立つ戦力と見なされていた事が分かる。第1大隊と第2大隊は古参近衛隊に所属し、第3大隊は新規近衛隊に所属していた。
- 制服はユサール様式の洗練されたもので、金色モールで肋骨状に装飾したダークブルーのジャケットを着て、黒い羊毛で裏打ちされ金の組み紐で飾られたダークブルーの短丈外套を羽織った。きつめの濃青ハンガリー風スボンと黒い膝下長靴を履いた。金の飾り紐を巻き赤い羽飾りを立てた黒い毛皮高帽をかぶった。装備品は軽騎兵用サーベルと二丁の拳銃で、拳銃は馬鞍に取り付けられていた。
- 近衛砲車牽引兵(Train d’artillerie de la Garde impériale)
- 近衛砲車牽引兵中隊(compagnie)は近衛砲兵中隊(batterie)の大砲運搬を一対一で担当して作戦中の行軍を支援した[10]。当初は大隊組織で全中隊を管理したが、中隊数の増加に伴い1812年からは連隊組織で管理されるようになった。制服は青みのある灰色基調で赤い肩章が付いていた。
歩兵
”Une bonne infanterie est sans doute le nerf de l'armée, mais si elle avait longtemps à combattre contre une artillerie très supérieure, elle se démoraliserait et serait détruite. ”(優れた歩兵は疑いなく軍隊の要である。しかしより優れた砲兵の前ではその士気を挫かれやがて壊走するだろう)。ナポレオンの歩兵観はこの様なものであった。歩兵は最も数の多い大陸軍(グランダルメ)の主要構成員であり、密集隊形で戦う戦列歩兵(infanterie de ligne)と、散開して戦う軽歩兵(infanterie légère)の二つの兵科に分けられていた。
戦列歩兵(infanterie de ligne)はフランス軍の基本構成員であり最も人数の多い兵科だった。戦場の彼らは密集した隊形を組み、何があっても隊列から離れない事を求められ、常に隊形の一部となって戦った。これは近世ヨーロッパ歩兵の標準的な戦い方だった。
ナポレオンが半旅団(demi-brigade)を連隊(régiment)に改称した1803年当時は、89個の戦列歩兵連隊が存在した。これはフランス国内の県とほぼ同じ数であり、革命戦争時代にそれぞれの県が一つの半旅団を組織していた事になる。その後も新しい連隊が作られ最終的には156個となった。
戦列歩兵連隊は3ないし4個大隊で構成された。大隊は複数の中隊で構成されたが、その構成内容は革命戦争時代から三回変更されている。1800年から1804年にかけての戦列歩兵大隊は8個小銃兵中隊+1個擲弾兵中隊であり各中隊の人数は約120名だった。1805年から1807年にかけては7個小銃兵中隊+1個擲弾兵中隊+1個選抜歩兵中隊となった。1808年から1815年にかけては4個小銃兵中隊+1個擲弾兵中隊+1個選抜歩兵中隊で中隊の人数は約140名となった。戦列歩兵大隊の兵員数は1800年からは約1,000名、1808年からは約800名であり、即ち戦列歩兵連隊の兵員数は大雑把に見て2,400名から3,200名という事になる。
- 小銃兵(Fusiliers)
- 小銃兵は最も人数の多い標準的な歩兵だった。彼らには行軍訓練が最優先に課せられて歩行速度と持久力を伸ばす事に最大の注意が払われた。”La première vertu d'un soldat est l' endurance de fatigue courage est seulement la deuxième vertu.”(兵士の第一の美徳は疲労に耐える事であり、勇気はその次でよい)とはナポレオンの言葉であり、この戦略眼による訓練で養われた長い距離を短い時間で踏破出来る歩兵達の移動能力はフランス軍の勝利を支え続けた。また戦場においては敵への接近中、個々に狙いを定めて射撃する事が奨励されており、加えて半ば自由行動となる銃剣突撃が積極的に用いられた。この様な兵士達の自主性にまかせる戦い方が出来たのはひとえにフランスが国民軍であるが故であり、他のヨーロッパ諸国ではこうは行かず、戦場では常に隊列を維持させ個々の発砲は許されず指揮官の号令下での一斉射撃を順守させる事が普通であった。
- 小銃兵の武器は、前装式火打石発火型滑腔砲であるシャルルヴィル1777年型マスケット銃とその銃剣であった。制服は白いチョッキと白いズボンの上に、襟口と袖口は赤く中央の襟返しは白い濃青色のコートを着た。濃青色コートは1812年までは尾の長いハビットロングで1813年からは尾の短いハビットベストとなった。始めは二角帽子をかぶり1807年に円筒帽に変わった。円筒帽には中隊毎に色の異なるポンポンを付けていた。1808年の再編制では第1中隊は緑色、第2中隊は水色、第3中隊は橙色、第4中隊は紫色のポンポンと決められた。
- 擲弾兵(Grenadiers)
- 擲弾兵とは18世紀以前に大柄で精強な者が選ばれて敵戦列に擲弾(手榴弾)を投げ付ける役目を担った伝統に由来する名称であり、即ち精鋭兵を意味する兵種だった。二回以上の方面作戦(campagne)従軍経験を持ち、背が高く勇敢で精強な者が選抜されて擲弾兵となった。彼らが加入する擲弾兵中隊は各大隊に1個ずつ組織された。擲弾兵中隊の位置は大隊戦列の右端と定められており、これは伝統的に最も名誉ある位置だった。戦況に応じて各擲弾兵中隊を合わせた擲弾兵大隊や擲弾兵連隊が編制される事もあり、この強力な部隊はたいてい大規模戦闘隊形の中枢に配置されて決戦力となった。
- 擲弾兵は威圧感を持つように全員が口ひげを蓄えるよう求められた。彼らは赤い羽飾りを立てた熊毛帽をかぶったが、1807年に赤い羽飾りの赤紐円筒帽に変わった。制服は小銃兵と同じだがコートに赤色肩章が付いた。標準装備のマスケット銃と銃剣の他、擲弾兵は歩兵用小剣を腰に帯びた。歩兵用小剣はエリート歩兵の証であると同時に白兵戦用の武器でもあったが肝心の戦闘では滅多に使われず、ただの薪割りの道具になったという。
- 選抜歩兵(Voltigeurs、意味的には曲芸的に飛んだり跳ねたりする者)
- 1803年に軽歩兵連隊の中に選抜歩兵中隊が組織されたのに続いて、ナポレオンは1805年から戦列歩兵連隊にも選抜歩兵中隊を組織させた。選抜歩兵は複雑な地形および障害物環境下でのアクロバットな戦いを専門とする者達であり、城壁の乗り越えや市街戦、山岳戦の時に活躍し、他に奇襲や斥侯も担当した。連隊の中から特に敏捷で身のこなしに優れた者が選ばれて入隊し、素早い装填と正確な射撃技術を持つ彼らは擲弾兵に次ぐ精鋭と見なされた。1808年から選抜歩兵の待遇は上げられ、彼らの位置は伝統的に二番目の名誉ある位置である大隊戦列の左端と定められた。軽歩兵連隊との連携が出来ない時はこの選抜歩兵が散兵の役目を担った。各選抜歩兵中隊はまとめられて選抜歩兵大隊や選抜歩兵連隊を編制する事があり、司令官の中には擲弾兵よりも選抜歩兵部隊を好んで用いる者もいた。
- 彼らは黄+緑色の羽飾りを立てた二角帽をかぶったが、1807年に黄+緑色の羽飾りの黄紐円筒帽に変わった。制服は小銃兵と同じだがコートに黄色の襟口と黄色肩章(房紐は緑)が付いた。装備品は竜騎兵用マスケット銃(銃身がやや短い)とされたが、実際には歩兵用マスケット銃が使われてる事が多くそれに銃剣が付いた。歩兵用小剣も腰に帯びた。
近世の歩兵の大半は隊列を組み隊形の一部となって戦ったが、それとは別に隊列を組まず散開し、各自の判断で動き戦う者達もいて彼らは軽歩兵(infanterie légère)と呼ばれた。軽歩兵は、密集した戦列歩兵隊形の前面と側面に配置されて散兵線を築き、強固だが正面以外への融通が利かない歩兵陣形を臨機応変に援護した。戦列歩兵と異なり軽歩兵は選抜扱いで人数はずっと少なく、156個連隊が存在した戦列歩兵とは対照的に軽歩兵連隊は35個を越える事はなかった。しかし他のヨーロッパ諸国と比べるとかなりの大人数ではあった。軽歩兵の役割は敵前逃亡しない強い責任感を持つ者だけにまかせる事が出来たので強制徴募と傭兵中心の封建軍隊では編制が難しく、国民国家の軍隊に限り大量編制が可能だった。
軽歩兵連隊は3個大隊で構成された。軽歩兵大隊の構成内容は1807年までは7個猟歩兵中隊+1個カービン兵中隊+1個選抜歩兵中隊で中隊の人数は約120名、1808年からは4個猟歩兵中隊+1個カービン兵中隊+1個選抜歩兵中隊の構成で中隊の人数は約140名だった。
軽歩兵は正確で素早い射撃と機敏な動作を身に付ける為の専門的な訓練を受けていた。選抜扱いの誇りから高い団結心を持ち、哨戒や伏兵などの様々な任務をまかされるのが常だった。大柄が美徳とされる軍隊世界において軽歩兵の価値観は一線を画す事が許されており、小柄さの長所と利点が強調されていた。これは実際に森林を駆け抜ける時の敏捷性や物陰に隠れる動作に活かされていた。
- 猟歩兵(Chasseurs)
- 猟歩兵は軽歩兵科で最も人数の多い標準的な存在だった。武器はシャルルヴィル1777年型マスケット銃と銃剣だった。1806年までは選抜扱いだったが、軽歩兵連隊の増加と選抜歩兵中隊の設立に伴い1807年からは待遇が下げられ、歩兵用小剣と円筒帽の羽飾りも取り外される事になった。
- 猟歩兵の制服は全体的にダークブルーで統一されており、濃青のチョッキと濃青のスボンの上に濃青のコートを着て、コートには緑色肩章(房紐は赤)が付いた。緑の羽飾りを立てた白紐円筒帽をかぶり、1807年から羽飾りは無くなり白い紐飾りだけの円筒帽に変わった。円筒帽には中隊毎に色の異なるポンポンが付いた。
- カービン歩兵(Carabiniers)
- この名称は近世初期にカービン銃で武装した騎兵が精鋭とされた伝統に由来しており、即ちカービン兵は擲弾兵と対をなす精鋭の意味だった。彼らは戦列歩兵大隊の擲弾兵と同じ位置付けだった。二回以上の方面作戦(campagne)を経験し、勇敢かつ精強で背の高い猟歩兵が選ばれてカービン歩兵中隊に入った。彼らは擲弾兵と同様に口ひげを蓄える事を求められた。
- 制服は猟歩兵と同じだがコートに赤色肩章が付いた。赤い羽飾りを立てた熊毛帽をかぶり、1807年からは赤い羽飾りの赤紐円筒帽に変わった。標準装備のマスケット銃と銃剣の他、カービン歩兵は歩兵用小剣を腰に帯びた。
- 選抜歩兵(Voltigeurs、意味的には曲芸的に飛んだり跳ねたりする者)
- 1803年にナポレオンの指示で、軽歩兵連隊の中から背の低い者を集めて選抜歩兵中隊が組織されるようになった。彼らの身長は160cmを越える事は無かった。軽歩兵はすでに選抜要員であり身のこなしに優れた者だったので、小柄さの利点を存分に発揮出来る特別な部隊が誕生した事になる。選抜歩兵は複雑な地形および障害物環境下でのアクロバットな戦いを専門とする者達であり、城壁の乗り越えや市街戦、山岳戦の時に活躍し、他に奇襲や斥侯も担当した。ナポレオンの命名であるVoltigeurには敵騎兵の背後から「飛び上がって」攻撃する対騎兵用の歩兵という意味が込められていたが、この斬新な構想は上手くいかなかった。しかし特殊任務担当要員としての必要性を確立し後年には戦列歩兵連隊の方にも選抜歩兵中隊が編制されるようになった。
- 制服は猟歩兵と同じだがコートに黄色の襟口と黄色肩章(房紐は緑)が付いた。黄+緑色の羽飾りを立てた黒い毛皮高帽(colpack)をかぶり、1807年からは黄+緑色の羽飾りの黄紐円筒帽に変わった。竜騎兵用マスケット銃が標準装備とされたが、実際は歩兵用マスケット銃が使われてる事が多くそれに銃剣が付き、歩兵用小剣も腰に帯びた。
騎兵
”La cavalerie est utile avant, pendant et après une bataille.”(騎兵は戦闘前、戦闘中、そして戦闘後に役に立つ)とはナポレオンが残した言葉である。この言葉の解釈は様々だが、戦闘前の騎兵偵察はナポレオンが特に重視した分野であり、作戦中の司令官は軽騎兵からのレポートを逐一受け取り幅広い現状把握に努めるべきだと考えていた。また重騎兵による肉弾突撃を今まで以上に多用したのもナポレオン戦術の特徴であり、結果として敵のみならず味方騎兵の被害をも拡大する事になった。ナポレオンは騎兵との連携を必須とし、なるべく二割以上の騎兵比率を維持するよう各軍に指示していた。
騎兵連隊の兵員数は800名から1000名であり、各連隊は3ないし4個大隊で構成され、各大隊は2個中隊構成であった。騎兵中隊の人数は約100名だった。更に補欠用の予備大隊が付く事もあった。各連隊の第1大隊の第1中隊は精鋭中隊とされ成績優秀な者が入隊した。フランス革命の中で、騎兵の中枢であった貴族階層の士官と下士官の大半が国外に脱出して失われておりフランス騎兵はその質をひどく落としていたが、ナポレオンはこの部門の再建に成功した。重騎兵の重量胸甲着用の義務付け、ハンガリー式軽騎兵(ユサール)の育成強化、後年のポーランド式槍騎兵(ウーラン)の導入などがナポレオンのアイディアであった。
騎兵は直線的な白兵戦を専門とする重騎兵(cavalerie lourde)と柔軟な機動任務を専門とする軽騎兵(cavalerie légère)の二つの兵科があった。これらは二つのランクに分ける事ができた。カービン騎兵と胸甲騎兵は重騎兵の一線級であり竜騎兵は二線級だった。ユサール騎兵は軽騎兵の一線級であり猟騎兵は二線級だった。槍騎兵はポーランド式騎兵を高く評価したナポレオンが後年に導入したもので、正面戦闘の白兵戦もこなせる万能型の軽騎兵だった。
重騎兵
- 胸甲騎兵(Cuirassiers)
- 彼らは中世の騎士を彷彿とさせる騎兵であり、重量の胸甲を身に着け、鉄と真鍮製の兜をかぶり、直刀サーベルと拳銃で武装した。1812年にはカービン銃も装備品となったが多くの者が持つのを嫌ったという。胸甲騎兵は当初25個連隊が編制されたが、適格とされた上位12個連隊に選別され残りは竜騎兵に転向させられた。最終的には16個連隊となった。力の強い大きな軍馬にまたがる胸甲騎兵は正面から突撃して敵の隊列を突き崩し、しばしば戦いの流れを変える決定打となった。何があっても突撃する事を義務付けられた胸甲騎兵には大きな勇気が必要であり、代わりに高い名誉が与えられた。彼らの胸甲はマスケット銃には無力だったが、遠くからの拳銃と流れ弾ならばはね返す事は出来た。何より胸甲は白兵戦の中で大きな防護効果を発揮し、刀剣と槍の打撃から身を守り続けた。なお18世紀のヨーロッパ諸国の重騎兵は軽装甲ないし非装甲が主流となっており、前面と背面を覆う重い胸甲の採用はナポレオンのアイディアだった。重量胸甲の着用は短期の訓練では身に付かない白兵戦技術を補い、個人の技量に頼らず騎兵の練度を底上げさせる為の手段だった。この事は胸甲騎兵の大量編制と補充を可能にし、ナポレオンは犠牲を顧みない騎兵の肉弾突撃を多用して、それがナポレオン軍の強さにつながった。
- 制服は白のズボンに濃青のコートだった。コートの襟口と袖口と折返しは連隊別に6色で色分けされた。その上に銀色の胸甲を着けた。兜は黒い牛皮を前面に巻き黒い房飾りを後ろに下げて金のとさかが付き赤い羽飾りが立てられていた。
- カービン騎兵(Carabiniers-à-Cheval)
- この名称は近世初期にカービン銃で武装した騎兵が精鋭とされた伝統に由来していた。彼らはフランス重騎兵の中から剣の達人を選抜したエリート部隊の位置付けで、2個連隊が編制された。当初は赤い羽飾り付きの熊毛帽をかぶり白のチョッキと赤い襟返しの濃青色コートを着て白いズボンを履いていた。胸甲騎兵と同じく突撃と白兵戦を主な任務とし、直刀サーベルとカービン銃で武装したが、カービン騎兵は胸甲を着用しなかった。彼らは胸甲に頼らず純粋に剣の技術のみで敵と格闘する事を許されたエリートだった。なお18世紀のヨーロッパ諸国の重騎兵は軽装甲ないし非装甲が主流となっており、重量胸甲は銃撃には無力な上に行軍時の疲労が増し夏は暑く冬は冷たく、更に落馬時の受け身と離脱行動が難しくなる厄介な代物でもあった。しかし突撃を多用するナポレオン戦術の下で白兵戦の機会が急増するともはや技量だけでは対応出来ない現実が明らかとなり、彼らの勇気に見合った戦果を挙げれる機会は減っていった。1809年にはオーストリア軍のウーラン騎兵(ポーランド式槍騎兵)との戦いで大損害を被り、ついにナポレオンはカービン騎兵たちに胸甲の着用を命じる事になった。彼らは口惜しがったが以後の軍装は一新され、熊毛帽の代わりに赤いとさかで飾られた鉄と真鍮製の金色兜をかぶり、白いコートの上に黄金色に輝く胸甲を着用するようになった。カービン騎兵は近衛騎馬擲弾兵に次ぐ地位の重騎兵であったが、その戦歴は振るわなかった。
- 竜騎兵(Dragons)
- 彼らは重騎兵に区分されるが用途的には中騎兵として認識されており、正面戦闘の構成員となって白兵戦を挑む他、前哨戦や遭遇戦の小競り合い、哨戒と偵察の任務にも当たった。彼らは二線級の重騎兵として扱われたが多芸で汎用な存在でもあった。騎兵用の直刀サーベルと歩兵用の銃剣付きマスケット銃で武装しており、マスケット銃は通常馬鞍に取り付けられ馬上戦闘中はベルトで背負っていた。竜騎兵は歩兵戦闘の訓練も受けており必要に応じて下馬して戦った。故に軍馬が不足した際は徒歩竜騎兵となって柔軟に存在価値を示す事が出来た。徒歩竜騎兵は標準以上の歩兵戦力と見なされており、取り分け騎兵支援用の歩兵となる事が多かった。なお、竜騎兵の為の軍馬調達の努力が怠られていた訳ではなく、必要ならば軍の指示で歩兵将校達の乗用馬を提供させる事もあった。これは竜騎兵の格式を示すのと同時に、歩兵将校達に竜騎兵への反感を持たせる事にもなった。竜騎兵は二線級重騎兵であったが、同じく二線級軽騎兵である猟騎兵よりも練度的に上の位置付けだった。1804年に竜騎兵連隊は30個存在した。1811年にナポレオンがポーランド式槍騎兵の価値を認めると、6個の竜騎兵連隊が槍騎兵連隊に改組されたが、これは槍武装に対応出来ると見込まれた故での指示でもあった。そして1815年には軍馬の欠乏から15個連隊まで規模縮小されていた。
- 制服は白のチョッキと白のズボンに赤い襟返しの緑色のコートだった。コートの襟口と袖口と折返しは連隊別に6色で色分けされた。前面に豹皮を巻き後ろに黒い房飾りを下げた真鍮製ギリシャ風ヘルメットをかぶった。
軽騎兵
- ユサール騎兵(Hussards)
- この高速度の精鋭騎兵は各司令官の目となり耳となって軍隊の針路を決定した。ユサール騎兵の軍装はきらびやかで華麗な事で有名だった。彼らの中にはカービン銃を持つ者もいたが、大抵は特に敏捷さを重視して曲刀サーベルと拳銃のみで武装した。ユサール騎兵の主な任務は偵察であったが、本隊が交戦するまでの前哨戦の中で様々な任務をこなした。作戦地域を駆け巡って敵部隊の動きをくまなく司令官に知らせるのと同時に、敵の斥侯兵を見つけた際にはこれを撃退して味方の情報を与えないようにした。ナポレオン軍の高度な戦略機動と分進合撃を可能にしたのは、軽騎兵の組織的な情報収集力に拠る所が大きく、その中で特に目覚しい働きを見せていたのがユサール騎兵だった。また戦闘終了後に敵軍隊を再捕捉する追撃戦も彼らの重要な役目であった。敵地への危険な強行偵察を敢行する彼らはほとんど自殺行為と言えるほどの無謀な勇敢さで有名であった。30歳まで生き延びたユサール騎兵は真の古参兵であり幸運の持ち主であると言われた。1804年に10個連隊が編制され、1810年に11個連隊、1813年には13個連隊となった。
- ユサール騎兵の制服はジャケット、モール、襟口、袖口、スボン、短丈外套、羽飾りの各パーツの色の組み合わせが連隊毎に異なり色彩の変化に富んでいた。配色は濃青、赤、緑、黄、茶、白、水色だった。前面にモールが肋骨状に並んだジャケットを着て、黒い羊毛で裏打ちされた短丈外套を羽織り、きつめのハンガリー風ズボンと膝下長靴を履いた。頭には羽飾りを立てた円筒帽をかぶった。士官と精鋭中隊は黒い毛皮高帽だった。
- 猟騎兵(Chasseurs-à-Cheval)
- 彼らの役割と任務はユサール騎兵と同じで偵察、哨戒、奇襲、遊撃、追撃などであったが精鋭扱いされない二線級の軽騎兵だった。1804年には24個連隊が存在し、1811年には31個連隊を数えた。その内の6個連隊はドイツ人、イタリア人などの外国人部隊であった。猟騎兵の馬と装備品の費用は安く、訓練も簡素で短い事がその規模拡張を容易にしていた。1805年には数ヶ月の乗馬射撃訓練だけの事もあった。装備品はカービン銃と曲刀サーベルで、カービン銃用の銃剣も渡されていたが多くの者はこれを用いなかった。この銃剣は下馬戦闘の為でもあり、猟騎兵もまた竜騎兵と同様に下馬戦闘の実技を課せられていたが、訓練が簡素過ぎたせいか徒歩騎兵として用いられる事はなく、軍馬欠乏の際はそのまま待機させられる事が多かった。同様の理由で1815年には15個連隊まで規模縮小されていた。
- 猟騎兵の軍装は全体的にダークグリーンで統一されていた。制服は黒い円筒帽をかぶり、緑色のコートを着て、緑色のズボンと黒い膝下長靴を履いた。コートの襟口と袖口と折返しは連隊毎に12色で色分けされていた。
- 槍騎兵(Lancers)
- ポーランド式槍騎兵(ウーラン)を高く評価したナポレオンは、ロシア遠征に備えて1811年から6個の竜騎兵連隊を槍騎兵連隊に改組させ、皇帝近衛隊のポーランド人騎兵たちにその教練をまかせた。彼らは名前が示す通り槍で武装しており、他に曲刀サーベルと拳銃も携行した。編制当初は全隊列に槍を構えさせていたが、実戦の中でポーランド流戦術の正しさが証明されると、後列の槍騎兵には槍の代わりに銃剣付きカービン銃を装備させた。彼らの槍は銃剣より長かったので歩兵陣形を攻めるのに効果があり、同様に長い槍のリーチで騎兵との白兵戦にも有利だった。ただし槍騎兵の本領を満足に発揮出来たのはもっぱらポーランド人と近衛騎兵に限られており、一般のフランス人槍騎兵の方は急造による不慣れと訓練の不足からロシア遠征では苦戦を強いられる事が多かった。てこ入れとして本場である同盟国ポーランドから2個の槍騎兵連隊が追加された。更にドイツ人猟騎兵連隊から改組された槍騎兵連隊も加えられた。
- 制服は黒いとさかで飾られた真鍮製ヘルメットとグリーンのコートとグリーンのズボンだった。コートの前面の襟返しは連隊別に6色で色分けされた。なお、ポーランド人の第7、第8連隊の方は黄色の襟返しのブルーのコートとブルーのズボンで頭には青いポーランド風四角筒帽をかぶった。
砲兵
”Dieu se bat sur le côté avec la meilleure artillerie.”(神は優れた砲兵を持つ側に味方する)[11] 。砲兵士官の出身であるナポレオンはしばしばこの様に語っていたとされる。大砲はナポレオン軍の柱石であり、歩兵と騎兵が突入する前の敵隊列を乱す攻撃の要であった。徒歩砲兵(Artillerie a pied)と騎馬砲兵(Artillerie a cheval)の二つの兵種があり、更に大砲運搬を専門に行う砲車牽引兵(Train d’artillerie)と、大砲を載せる台車や荷車の修理修繕を行う工匠兵(Ouvriers)と、大砲の修理修繕を行う大砲鍛冶兵(Armuriers)の三つの支援兵種があった。
大陸軍(グランダルメ)が発足した1805年には8個の徒歩砲兵連隊と6個の騎馬砲兵連隊が存在した。徒歩砲兵連隊は22個の徒歩砲兵中隊を一括管理した。騎馬砲兵連隊は3個大隊を擁し各大隊は2個中隊構成だったので合計6個の騎馬砲兵中隊を管理していた。なお1814年に4個大隊に増え合計8個中隊となった。徒歩砲兵中隊はカノン砲6門と榴弾砲2門の計8門を持ち、騎馬砲兵中隊はカノン砲6門を保有した。砲兵連隊は戦場で一体的に行動する訳ではなく単に軍政面の管理上の組織だったので、各砲兵中隊は個別に師団司令部か軍団司令部に配属されていた。師団には1個砲兵中隊が配属されて師団砲兵と呼ばれた。歩兵師団には徒歩砲兵が、騎兵師団には騎馬砲兵が割り当てられた。軍団には徒歩と騎馬の2個砲兵中隊を配属するのが標準とされ軍団砲兵となった。軍団砲兵とその配下師団の師団砲兵は合併して軍団指揮下の大砲列となる事もあった。1809年からは革命戦争末期に廃れた連隊砲兵の編制が再び始まり、カノン砲2門を持つ砲兵分隊(escouade)が配属された歩兵連隊も存在するようになった。
砲車牽引兵中隊(compagnie)は砲兵中隊(batterie)の大砲運搬に一対一で対応した。砲兵中隊には工匠兵と大砲鍛冶兵が随伴して大砲と砲車の修理修繕を担当した。工匠兵は1812年に19個中隊あり、木工職人である彼らは軍隊内の様々な工作作業も担当した。大砲鍛冶兵は1813年に6個中隊あり、鍛冶職人である彼らは軍隊内の銃器全般の修理も担当した。
大砲
- 旧体制時代の1765年にフランスの大砲製造技術は大幅な革新が為されており、ナポレオンはその優れた遺産を受け継ぐ幸運に恵まれた。ジャン=バティスト・ヴァケット・ド・グリボーバルが考案したグリボーバル・システムの下で製造された大砲は軽量化されて運搬が容易となり、砲身口径も標準化されて照準も合わせやすくなった。また台車も強化されて安定性も増した。標準型式は4ポンド、8ポンド、12ポンドのカノン砲と6インチの榴弾砲に定められた。1803年にナポレオンはこれを改定した共和暦11年式システムを発案し、4ポンド砲と8ポンド砲は6ポンド砲に置き換えられた。12ポンド砲は牽引に馬6頭を必要とする重砲で専ら軍団砲兵で用いられた。6ポンド砲は馬4頭で牽引された。砲身は真鍮(黄銅)製であった。青銅砲ともされるがこれは慣例上、真鍮製の物も含めて青銅砲と呼ばれたからである。砲架、車輪、前車はオリーブグリーン(薄緑色)のペンキで塗られていた。
徒歩砲兵
- 徒歩砲兵(Artillerie a pied)は標準的な砲兵だった。1805年に徒歩砲兵連隊は8個存在し1810年に9個目の連隊が追加された。軍政面の管理上組織である徒歩砲兵連隊は22個中隊を一括管理していた。徒歩砲兵中隊の兵員数は約120名でカノン砲6門と榴弾砲2門の計8門を保有した。
- 1人の下士官が砲1門を管理しその下士官2人(伍長と軍曹)を1人の士官が管理して分隊(砲2門)を構成した。その士官2人(中尉と大尉)で小隊(砲4門)を構成し大尉が管理者となった。砲兵中隊には大尉が2人いたので2個小隊のセット品と言えた。この構造ゆえに大砲は2門単位で柔軟に分割運用が出来た。
- 制服は襟返しを赤く縁取ったダークブルーのコートとダークブルーのズボンで、赤い飾り紐を巻き上辺を赤く縁取った黒い円筒帽をかぶった。装備品は銃剣付き竜騎兵用マスケット銃と歩兵用小剣だった。
- 騎馬砲兵(Artillerie a cheval)は騎兵と砲兵の高度な融合であり、大砲を荷馬車に乗せて戦闘に参加した。後方で砲列を敷く徒歩砲兵とは対照的に、ほぼ最前線で大砲の移動を繰り返す騎馬砲兵は近接戦闘の訓練も施されていた。彼らは指定位置に着くと素早く下馬して大砲を設置し敵を砲撃した。そして再び大砲を荷車に載せて乗馬し新しい場所へ素早く移動した。この一連の動作を成し遂げる為に相当の訓練を積んでいた彼らは精鋭と見なされており兵員数は徒歩砲兵の五分の一程度だった。騎馬砲兵中隊の兵員数は約100名でカノン砲6門を保有した。
- 1807年に騎馬砲兵連隊は6個存在し1810年に7個目の連隊が追加された。各連隊は3個の大隊(escadron)を擁し1814年に4個となった。各大隊は2個の中隊で構成された。騎馬砲兵連隊も軍政面の管理上組織であり合計6個の中隊を管理していた事になる。1814年からは合計8個となった。騎馬砲兵中隊は騎兵師団の支援砲兵となり、軍団にも1個が配属される事があって貴重な戦力となった。標準構成の軍団は軍団砲兵のそれと配下騎兵師団砲兵のそれの計2個を擁する事になったので大隊組織はこの指揮時に活かされた。騎馬砲兵はナポレオン軍の虎の子部隊であり極めて優秀な戦力となったが、その編制と維持に掛かる費用もかなりのものであった。
- 制服は赤色モールを肋骨状に飾り付けた濃青のジャケットを着て、濃青のズボンと黒い膝下長靴を履いた。赤い羽飾りを立てた黒い毛皮高帽をかぶった。装備品は軽騎兵用サーベルと二丁の拳銃で、拳銃は馬鞍に取り付けられていた。
砲車牽引兵
- 砲車牽引兵(Train d’artillerie)は大砲運搬を専門に担当して砲兵部隊の行軍を支援した[12] 。革命戦争期間は民間の人夫を雇っていたが、彼らは敵に襲撃されるとすぐに大砲を放棄する事が多かったので[13]、これを作戦上の重大な懸案と見なしたナポレオンは1800年1月に専門の兵員を用意させる事にした。砲車牽引兵は黄色のズボンとチョッキの上に襟返しが青い灰色のコートを着て黒い円筒帽をかぶった。下士官は軽騎兵用サーベルを腰に下げ、一般兵は短いサーベルを携行した。カービン銃ないし拳銃で武装する者もいて運搬中の大砲を守った。
- 砲車牽引兵中隊は砲兵中隊の大砲運搬に一対一で対応し[10]、軍政面の管理上の組織である砲車牽引兵大隊にまとめられていた。1805年には10個の大隊があり各大隊は5個中隊を管理した。1808年に8個の大隊に再編制され各大隊は6個中隊を管理した。1810年には14個大隊となり、その後も更に増設された。1809年からは歩兵連隊の大砲配備にも対応するべく、その運搬を担当する分遣隊を柔軟に編制して連隊砲兵(砲2門)に随伴させるようになった[13]。
支援部隊
工兵
戦闘工兵(Sapeurs grenadiers)は、厳密に言えば工兵(Génie)ではなく擲弾兵中隊の中から選抜された者達であり各歩兵大隊に5名が置かれていた。彼らはトレードマークである大斧を持ち、部隊の先頭に立って敵施設の解体作業を行った。敵の城門、防御柵、橋梁、防塞などを破壊して回り、また壁に穴を開けて味方の為の銃眼を作る事もあった。敵前での危険な解体作業に当たる事が多かったので名誉ある地位とされた。彼らは擲弾兵の制服の上に胸から足元までを覆う厚地のエプロンをつけて作業中に飛び散る破片から身を守った。また、ユサール騎兵連隊と竜騎兵連隊にも10名の戦闘工兵が置かれており、精鋭中隊から選抜された彼らは先発隊として連隊野営地の確保を担当した。
土木工兵(Sapeurs)は、軍内の土木作業を担当する者達でその任務は多岐に渡った。堡塁を築き、塹壕を掘り、簡易兵舎を建て、城塞都市攻略の際には土木技術を活かして味方を支援した。都市攻略戦が多発した革命戦争中は12個大隊を数えたが、1805年には5個大隊に選別されてそれぞれが8個中隊を擁した。土木工兵中隊の兵員数は200名だった。土木工兵大隊は軍政面の管理上組織であり戦場では中隊ごとに活動していた。だいたい1個師団に1個中隊が付けられて大規模作業では軍団内の全中隊がまとめて運用された。1812年には8個大隊まで増やされた。制服は徒歩砲兵に似たもので上下共に濃青色だった。必要な工具、資材などは工具牽引兵(Train du génie)が専門の荷車で運搬していた。工具牽引兵は1806年に創設され1810年には6個中隊が存在した。皇帝近衛隊には近衛土木工兵(Sapeurs de la Garde impériale)の1個大隊が存在し4個中隊を擁していた。
坑道工兵(Mineurs)は、城塞都市を攻略する攻城戦の際に城外から地下にトンネルを掘って城内に侵入する作業に従事した。この坑道作戦は18世紀ヨーロッパの攻城戦の中でよく用いられていたが、ナポレオンは城塞の正面攻略をさほど重視せず、可能な限りそれを迂回するか、また孤立させて戦略的に無力化した後に開城させる方針を取っていたので、当時のフランス軍ではそれほど活躍する機会を与えられなかったという。1805年の時点で9個の坑道工兵中隊が存在し、1808年には12個中隊にまで増やされ、2個大隊がそれぞれ6個の中隊を管理した。坑道工兵大隊も軍政面の管理上組織だった。制服は徒歩砲兵に似たもので上下共に濃青色だった。
架橋工兵(Pontonniers)は、工兵科(Génie)ではなく砲兵科(Artillerie)に属する兵種であり、制服も徒歩砲兵と同じものを着用していた。遠征中の河川の問題に対処する彼らは「はしけ」をつなぎ合わせてその上に橋梁を渡した浮き橋を構築するか、又は橋台橋脚が支える橋梁を組み立てて味方の渡河を助けた。フランス軍架橋工兵部門の責任者であったジャン・バプティスト・エーブレによる技術革新は名高く、彼が考案した工具と工作機械を用いる特別な訓練を施された工兵たちは、様々な橋梁部品を素早く作ると同時にそれらを組み立てて橋を完成させ、また分解した後は各部品の再利用も出来るようにした。必要な資材、工具、特殊部品は工具牽引兵(Train du génie)が運搬する専門の荷車で運ばれた。特殊部品が破損した時も専門の荷車に備えている鍛造機などの工作機械で製造し補充出来た。一つの架橋工兵中隊で全長120mから150m程のはしけ(艀)約80艘からなる浮き橋を7時間以内に組み立てる事が出来た。1805年の時点で5個中隊を管理する2個の架橋工兵大隊が存在し、最終的には8個中隊構成の3個大隊となり合計24個中隊まで増やされた。架橋工兵大隊も軍政面の管理上組織であり戦場では中隊毎に活動したが、大きな川の架橋作業で合同する機会が多かった。皇帝近衛隊には近衛架橋工兵(Pontonniers de la Garde impériale)の1個中隊が存在した。
補給部門
有名な”une armée marche sur son estomac.”(軍隊は胃で行進する)の言葉を残したナポレオンは、兵站の重要性を明確に認識していた。従軍開始時にフランス兵は食料4日分を各自所持した。また部隊に続く荷車には全員に行き渡る食糧8日分が積まれていたが、これは緊急時にのみ消費された。ナポレオンも安定した補給が困難である事を悟っており、兵士達になるべく狩猟採集と現地調達で日々を賄うように勧めていた。現地調達とは金品で平和裏に購入する事もあったが、地元住民から徴発する機会も多くまた略奪も頻発した。
国家から各軍に提供される軍需品は戦争委員(Commiissares des guerres)が手配した。戦争委員は政府から各方面軍司令部に派遣されていた役人だった。軍需品は各方面軍の倉庫に蓄えられ、その進軍に合わせて補給物資として逐次移動された。まず各師団の補給部門に補給物資が輸送され、師団から各連隊の輜重部隊に必要物資が支給され、更に連隊から各中隊に糧秣が届けられた。師団が集結する時は、その所属先軍団の補給部門が各師団の荷車の交通整理を行いまとめて補給物資を管理した。なお、旅団と大隊は戦術戦闘面の組織だったので物資の管理には携わらなかった。
1806年までは民間の人夫を雇い軍隊に随伴させて物資全般の運搬をまかせていたが、戦利品を勝手に放棄する無責任さと運送能力に不満を募らせたナポレオンは、1807年に輜重牽引兵(Train des équipages)を創設して物資運搬の専門要員とした。彼らは砲車牽引兵と似た制服を着て同等の武装をし、糧秣武器弾薬などの軍需品および戦利品と更には負傷兵の運搬も担当した。各輜重牽引兵中隊は4頭立ての荷馬車32台を持ち、軍政面の管理上組織である輜重牽引兵大隊にまとめられていた。中隊は更に4個の分隊(escouade)に分割されて運用される事が多かった。各分隊は荷馬車8台を持ち軍曹に指揮された。1807年には8個の大隊があり各大隊は4個中隊を管理した。1812年には16個大隊に増え6個中隊を管理するようになった。だがロシア遠征でほとんどの荷馬車が失われて壊滅状態となり、1813年には4個大隊が再建されたのみとなった。皇帝近衛隊には近衛輜重牽引兵(Train des équipages de la Garde impériale)の1個大隊が1811年に編制されて6個中隊を擁していた。
遠征ないし作戦開始前の兵舎生活を送る兵士に支給された食糧1日分はパン750g、ビスケット550g、肉250g、豆類60g、米穀30g、ワイン250ccだった。他によく語られるものとして、1804年にナポレオンが懸賞を掛けた食糧保存技術の公募に応えてニコラ・アペールが発明した「瓶詰」の実用的製法があった。しかし肝心の製造ラインと特に輸送手段の確立がなかなか進まず軍隊全体への普及は遅れ気味で、1814年にようやくその目処が立った時はすでに敗戦間近だった。
医療部門
近世の医療は正しい知識が確立される以前の不完全なものであり、それはナポレオン戦争でも同様であった。当時の医療の過酷な現状については他の文献を参考されたい。不完全と言っても全くの未開だった訳ではなく、包帯での止血と傷口の縫合および手法は不明だが挫傷の為の治療も存在し、また体内から破片を摘出する真っ当な外科手術と傷口を洗浄して清潔に保つ事も行われていた[14]。それらは担当軍医の経験と知識に依存していたようだった。苦痛とショックをやわらげる目的でアヘンもよく使われていた。アヘンは丸薬か液体瓶として携行され、負傷者に摂取させて麻酔同様の働きをした。
各連隊には軍医長(Chirurgien-major)1名、軍医助手(Aides-chirurgiens)約5名、その他スタッフ達が在籍していた。また師団ごとに野戦病院が設置され負傷兵はここに運ばれたが満員で溢れ返るようになると近くの町や村に可能な限り搬送された。皇帝近衛隊の医療部門(service de santé)は正規の医療関係者で占められていたが、その他の部隊では事情が異なった。当時の欧州諸国の中でフランス軍の医療事情は比較的ましな方とされており、特に負傷兵の救命救護に大きく貢献した二人の名高い人物がいた。ドミニク・ジャン・ラリーが発明した救急馬車(Ambulances volantes)は、前線の負傷兵を迅速かつ効率的に後方の野戦病院に搬送する事を可能にした。ラリーはまた野戦病院の改善にも取り組んだ。ピエール・フランシス・パーシーは逆のアプローチを取り、前線の負傷兵の下に素早く駆け付けて担架に乗せ安全な所に運ぶと、その場で応急処置ないし治療を施す移動外科(Chirurgie mobile)を組織した。これは衛生兵の元祖でもあった。この両者の業績は他の欧米諸国を啓発し各国の軍隊でも取り入れられる事になった。
ナポレオンは負傷兵たちに最良の病院で静養出来る保証を与えた。傷痍軍人は英雄として扱われ、勲章を授与され、恩給が支払われ必要ならば義肢も与えられた。傷痍者となっても帰郷後の保証がある事が知れ渡ると、軍人全体の士気も盛んになり戦力の向上につながった。
情報通信部門
近世を通して軍内の命令は馬に乗った伝令によって運ばれていた。戦場での視覚面では旗手(Porte-drapeaux)が軍旗を掲げて部隊の存在と位置を示し、聴覚面では鼓手(Tambours)がドラムを鳴らして歩行ペースの調整と一斉射撃の合図をし、また横笛手(Fifres)が響かせる小フルートの高い音色は戦いの渦中にある兵士達に隊列の維持を促した。軍旗と楽器は兵士達の士気を維持する為にも重要で、また精神的儀礼的においてもそうであった。 フランス軍は伝書鳩を大規模かつ組織的に用いて遠距離通信に役立てていた。また観測用熱気球を空に上げて偵察のみならず通信手段としても用いていた。他に革新的な通信技術としては腕木通信(セマフォ)があった。ナポレオンも腕木通信を活用したが、天候状態で通信時間が左右される不安定さがあったせいか、専ら政治的メッセージや軍政面の指示伝達用だった。
外国人部隊
従来のヨーロッパ諸国と同じくナポレオンも外国人部隊を採用して自国の戦力とした。当時のヨーロッパに存在した国々の多くがナポレオン戦争中の様々な局面でフランス軍の一部となった。彼らはフランス人だけでは手が回らない戦闘支援の任務に付けられる他、正規の外国人連隊を構成して主要戦力的に活躍する事もあった。取り分けポーランド人連隊はナポレオン軍の頼れる戦力となった。
1805年の対オーストリア、ロシア戦役では、ライン同盟から動員された35,000名の兵士がフランス軍の情報連絡線と本隊の側面を守る為に使われた。
1806年の対プロイセン、ロシア戦役でも同様の目的でライン同盟から27,000名が動員された。更にザクセンから20、000名の兵員が召集され、彼らはプロイセン軍に対する掃討作戦に使われた。1806年から1807年にかけての冬季作戦ではドイツ諸国、ポーランド人、スペイン人の部隊がフランス軍の左翼を担い、バルト海に面したシュトラールズントとダンツィヒの港の占領を助けた。1807年にロシア軍と決戦したフリートラントの戦いでは、外国人部隊が初めて会戦における主要な役割を演じる事になった。ポーランド人、ザクセン人、オランダ人が主力部隊の構成員となり、彼らは目立った働きを見せてフランス軍の勝利に貢献した。
1809年の対オーストリア戦役ではドイツ方面で戦うフランス軍の約3分の1はライン同盟の兵士だった[15]。またイタリア方面に展開したフランス軍の4分の1はイタリア人で構成されていた。
1812年、最大規模に膨れ上がったナポレオン軍はロシア遠征を開始するが、その総勢60万を数える侵攻軍のおよそ4割はドイツ圏を中心とする外国人兵士たちであり、彼らの出身国は20ヶ国に渡っていた。
大陸軍の階級
封建制度の軍隊とは異なり、大陸軍(グランダルメ)での昇進は生来の身分や富でなく個人の能力と勇気で審査された。ナポレオンは ”Tout soldat français porte dans sa giberne le bâton de maréchal de France."(全てのフランス兵の背嚢には未来の元帥杖が入っている)と声明して、どの兵士も成した功績によって最高位まで昇進出来る事を示した。フランス革命前は庶民は将校になれず、名門貴族出身でないと大佐以上になれなかったのでこの違いは大きかった。
大陸軍の最高階級は師団将軍(Général de division)であった[16]。その中で特に功績を認められた者には帝国元帥 (Maréchal d’Empire)、大将(Colonel-Général)、軍団将軍(Général en chef commandant une armée)の栄典、役職が授与された。階級ではない名誉称号である為、これらを重複して授けられた者もいた。帝国元帥の栄典は軍功卓抜な者への表彰と、帝政樹立時に著名な古将への懐柔策として使われた。高い給与と大きな指揮権限が付与され合計26名が叙任された。大将は旧体制の称号をナポレオンが引っ張り出してきたもので、元々は各兵科最先任の将官を意味する役職であったが[17]大陸軍ではただの名誉称号となり、もっぱらナポレオンの取り巻きが叙任されて彼らの箔付けに使われた。軍団将軍は複数の師団長を指揮する権限を与えられた役職だった。師団数の増加により設置されたが、ロシア遠征で兵力を失った1812年に廃止された。
師団将軍(Général de division)は旧体制の中将(Lieutenant-Général)に、旅団将軍(Général de brigade)は旧体制の少将(Maréchal de camp)に相当し、革命時の改称をナポレオンもそのまま使用した。ただし、1814年に両階級とも旧体制の階級呼称に戻され、これは1848年2月18日まで続いた。蛇足ながら、少将の呼称をMajor-Généralとしていなかったのは、当時は参謀長を意味していたことによる[18]。旧体制の准将(Brigadier des armées du roi)は革命時に廃止されたままとなった。将軍副官(Adjudant-commandant)は階級ではなく軍団、師団司令部スタッフとしての役職名であり大佐(Colonel)と中佐(Major)の中から任命された。序列は旅団将軍と大佐の間とされる事が多かったという。
ナポレオンは1803年の命令書で、革命時に改称された半旅団(demi-brigade)を連隊(régiment)に、半旅団長(Chef de brigade)を大佐(Colonel)に戻させ、更に革命時に廃止された中佐(Major/又はGros-majorとも呼ばれた)を再設して各連隊に置くよう指示した[19]。中佐は専ら連隊の運営事務を担当した。大佐には一等、二等の等級が存在した。二等大佐(Colonel en second)は各連隊に一名置かれ副連隊長の役目を果たし、1809年の間のみ正式に階級化して特設連隊を率いる事になった。少佐=大隊長(Chef de bataillon)の補佐に任命された大尉は副官勤務大尉(Capitain adjudant-major)と呼ばれ一つ上のランクに扱われたが、これは階級でなく役職としての地位だった。大佐=連隊長の副官大尉は(Capitain adjudant-chef)と呼ばれた。准尉(Adjudant sous-oficier)は連隊内全下士官の監査役となり中佐の業務を補佐した。
大尉(Capitaine)は中隊長であり、中尉(Lieutenant)は副中隊長だった。大尉と中尉には一等、二等の等級があり砲兵科のみ三等まであった。少尉(Sous-lieutenant)は副中隊長の次席だった。軍曹(Sergent)は兵士達の現場監督であり、伍長(Caporal)はその補佐役となった。第一帝政下の伍長は旧体制の上等兵扱いから引き上げられ下士官待遇とされた。曹長(Sergent-major)は中隊の物資全般を管理し、給養係伍長(Caporal-fourrier)は中隊の食糧を管理した。歩兵中隊を例に取ると、各中隊には四名の軍曹がいてそれぞれが二人の伍長を管理し伍長は約10名の兵士をまとめていた。
なお、下記表内で※が付いたものは階級ではなく役職的地位、名誉称号である。「AまたはB」のBは騎乗部隊(騎兵、騎馬砲兵、憲兵、各種牽引兵)での呼称である。
大陸軍の階級 現代の米陸軍で相当する階級 帝国元帥 (Maréchal d’Empire)※
大将 (Colonel-Général)※
軍団将軍 (Général en chef commandant une armée)※
師団将軍 (Général de division)大将 (General)
中将 (Lieutenant general)
少将 (Major general)旅団将軍 (Général de brigade) 准将 (Brigadier general) 将軍副官 (Adjudant-commandant)※ 大佐 (Staff Colonel) 大佐 (Colonel) 大佐 (Colonel) 二等大佐 (Colonel en second) 中佐 (Senior lieutenant colonel) 中佐 (Major) 中佐 (Lieutenant Colonel) 少佐 (Chef de bataillon または Chef d'escadron) 少佐 (Major) 副官勤務大尉 (Capitaine adjudant-chef/Capitaine adjudant-major)※ 大尉 (Staff Captain) 大尉 (Capitaine) 大尉 (Captain) 中尉 (Lieutenant) 中尉 (First Lieutenant) 少尉 (Sous-lieutenant) 少尉 (Second Lieutenant) 准尉 (Adjudant sous-oficier) 准尉 (Warrant Officer) 曹長 (Sergent-major または Maréchal-des-logis-major) 曹長 (Sergeant-Major) 軍曹 (Sergent または Maréchal des logis) 軍曹 (Sergeant) 給養係伍長 (Caporal-fourrier または Brigadier-fourrier) 中隊書記/補給係軍曹 (Company clerk / supply Sergeant) 伍長 (Caporal または Brigadier) 伍長 (Corporal) 兵士 (Soldat) または騎兵 (Cavalier) または砲兵 (Canonnier) 一等兵 (Private)
最高位まで昇進を果たした軍人たち
陣形および戦術
18世紀のヨーロッパの戦いは概して横長の長方形隊列を組んだ歩兵が互いに小銃を撃ち合い、頃合を見て銃剣突撃を仕掛けるという定形的なものだった。大砲は戦いの始めに放たれて敵を脅かし、騎兵は戦いが佳境に差し掛かった時に突入した。封建時代の軍隊の構成員は強制徴募兵と傭兵で占められていたので、モラルと責任感に欠ける彼らを複雑に操作するのは難しく、必然的に戦いはシンプルな作法で行われていた。歩兵、騎兵、砲兵の各隊が戦場に配置された後は、それぞれが前進して正面からぶつかり合うのが当時の戦いの通例だった。
フランス革命で誕生した国民皆兵軍隊(Levée en masse)は素人の集まりゆえに練度面は劣っていたものの圧倒的人数を誇り、また愛国心を持つ彼らのモラルと責任感は高かった。その特徴を生かした大量の兵士が一斉突入する群衆戦術は革命戦争の中で確立されて大きな威力を発揮し、ナポレオンもまたそれを踏襲した。彼らが実戦経験を積んだ後はモラルの高さゆえに複雑な隊列運動をまかせる事も可能となった為、ナポレオンはこの長所を存分に活かして高度に柔軟な陣形戦術を駆使し、固定的な戦術しか使えない封建軍隊を圧倒していった。その代表例は敵陣形の端に陽動攻撃を仕掛けるか、又は自軍の一部を囮にして敵部隊を釣り出し、敵の予備兵が出払った隙に一気に中央突破を図るというものだった。これはアウステルリッツの戦いなどで用いられており戦争の芸術と称えられた。
戦場の基本行動単位は大隊(bataillon)であり、その人数は800名から1,000名であった。戦闘隊形はこの大隊ごとに組まれていた。戦場は戦闘隊形の幾何学模様で埋め尽くされ、それぞれの隊形が移動し衝突して疎と密の混在状態を作り出し、ある隊形は突破されて崩壊し、またある隊形は包囲されて消耗し、最終的により多くの戦闘隊形の秩序を保ち続けた側が勝利した。優れた戦術とは状況に応じた適切な戦闘隊形の選択と巧みな機動および連携行動の組成物であった。当時の代表的な戦闘隊形は以下の通りだった。
- 横隊(Ligne)
- 横長の隊列であり通常は横三列で並んだ。正面への火力が最大となるので一斉射撃に適していた。移動方向はほぼ正面に限られており、また両翼端の側面が弱点となった。
- 行軍縦隊(Colonne de Marche)
- 街道を行進する時と戦場での素早い移動に使われた。大抵は縦三列ほどで先導者を後続の者達が追った。銃撃戦には向かず、大砲被弾時の被害も大きくなった。縦隊で敵に接近して横隊に展開するのが定石とされたが、これを成し遂げるには一定の訓練が必要だった。
- 突撃縦隊(Colonne de Charge)
- いわゆる逆V字形の楔形隊形。中央の先導者がやや突出し両翼外側に向けて広がる各員が段々と後ろに下がった。各員が隣接する内側の者の動きに次々と連動する事で隊列を広げたままの柔軟な高速移動が可能となった。ただし一定の訓練は必要だった。騎兵の移動と突入に用いられた。
- 攻撃縦隊(Colonne d'Attaque)
- やや広めの縦隊を組む歩兵の前方に散開した軽歩兵が配置された。集団突入の隊形であり、まず軽歩兵が銘々進みながら射撃して敵を牽制しつつその隊列を乱し、敵にある程度迫った後は左右に散って道を開け、後続の歩兵が縦隊のまま突撃した。左右に分かれた軽歩兵はその縦隊の側面を守った。革命戦争時代の群衆戦術の代表例で、玄人の散開歩兵が素人の縦隊歩兵をエスコートして敵にぶつけるような隊形だった。
- 混成配置(Ordre Mixte)
- 一斉射撃を行う横隊と銃剣突撃する縦隊を組み合わせた隊形。横隊は複数の大隊をつないだ長大なものとなった。縦隊はその後方か、横隊の節々の切れ目に配置された。横隊が一斉射撃した後に縦隊が突入した。大規模な戦闘隊形ゆえに移動は鈍重で、騎兵と砲兵の支援が必要だったが、横隊の正面火力の高さと縦隊の衝撃力の高さを兼ね備えており、ナポレオンも好んで用いていた。
- 散兵配置(Ordre Ouvert)
- 各員が散開する隊形。軽歩兵は専らこれで戦った。銃撃と砲撃の被害を減らせるので、戦列歩兵も大砲で狙われた時に用いたが一定の訓練が必要だった。各員が散らばってるので白兵戦には弱く、敵の密集隊形に突入されると為す術が無かった。
- 方陣(Carre)
- 歩兵が敵騎兵に対して用いる防御隊形。歩兵達が中空の四角形の隊列を組み一辺は三層ないし四層だった。士官が中に入り、四辺の歩兵が銃を構えて射撃し、接近した敵は銃剣で撃退した。こうする事で全方位からの騎兵突入に対抗出来た。また四隅に大砲が置かれる事もあった。移動は極めて緩慢であり、大砲で狙われた時はひとたまりも無く、また敵歩兵の一斉射撃にも弱かった。この隊形は一度崩れると全くの烏合の衆と化してしまう危うさがあった。
戦歴
1803年、ヨーロッパ大陸内における英仏間の貿易上の対立などの要因からイギリスはアミアンの和約を破棄してフランスに宣戦布告した。革命の波及を警戒する他のヨーロッパ諸国もまたフランスを公然と敵視しており、1804年5月の膨張主義を伴うフランス第一帝政の発足と、同年12月のナポレオンの戴冠式によって国際間の緊張は再び高まり始めていた。
第三次対仏大同盟(1805)
1805年初頭、イギリス征服を企図したナポレオンはドーバー海峡に面したブローニュに軍勢を集結させ、ここから大陸軍(グランダルメ)が発足した。それに対抗してイギリスは4月にオーストリア、ロシアと共に第三次対仏大同盟を結成した。イギリス上陸作戦が実は困難な事を悟ったナポレオンは、9月から矛先をオーストリアに変えてドイツ南部に進軍し10月のウルムの戦いを経て11月に首都ウィーンを占領した。翌12月にナポレオンはアウステルリッツの地でオーストリア=ロシア連合軍を打ち破り、オーストリアにプレスブルクの和約を調印させて戦争に勝利した。翌1806年にオーストリアを宗主とする神聖ローマ帝国は解体され、代わりにフランスを盟主とするライン同盟がドイツ圏に誕生した。更にナポレオンは同年11月にイギリスとの貿易を禁止し、フランス国内業者に取引を独占させる事になる大陸封鎖令を発令しヨーロッパ諸国に参加を強制した。
第四次対仏大同盟(1806 - 1807)
ナポレオンを危険視したプロイセンは1806年10月、ロシアと共に第四次対仏大同盟を結成した。直ちに出征したナポレオンはイエナ・アウエルシュタットの戦いでプロイセン軍を撃破した。続くポーランド方面の冬季遠征では苦戦するが、翌1807年5月にプロイセン軍を降服させ、6月のフリートラントの戦いでもロシア軍を撃破した。その後のティルジット条約でロシア、プロイセン両国と講和し、先の大陸封鎖令にも参加させた。
スペイン半島戦争(1808 - 1814)
1807年10月、ナポレオンは親仏派であるスペインのゴドイ政権とフォンテーヌブロー条約を結び、大陸封鎖令を拒否するポルトガル占領の同意と、スペイン領内のフランス軍通過の合意を得た後に遠征を開始し、12月にポルトガルを制圧した。だがその後も様々な口実でスペイン各地に軍を進駐させた事から反仏感情が高まり、1808年3月の政変でナポレオンに忠実なゴドイ政権が倒されるに到った。するとナポレオンはスペイン王家を追放して5月に自身の兄ジョゼフを王位に据えた。フランスの占領に反対するスペイン民衆は全土で蜂起してゲリラの語源となると共に、凄惨な半島戦争が始まった。7月に起きたフランス軍の衝撃的な敗北で新王ジョゼフは逃亡を余儀なくされた。ポルトガルでも反乱が起きており、これを契機と見たイギリスは8月にイベリア半島へ軍勢を上陸させた。英葡西の三軍は各地でフランス軍の撃退に成功し、戦況が悪化した事から11月にナポレオンはスペインへの親征に踏み切った。12月に首都マドリードを占領して兄ジョゼフをスペイン王に復帰させ、翌1809年1月にナポレオン自身はフランスに帰国した。しかしイギリス軍に支援されたスペイン人は頑強に抵抗して戦いは泥沼化し、半島戦争はそのまま長期化して1814年夏にスペインから追い出されるまでフランスを消耗させ続ける事になった。
第五次対仏大同盟(1809)
半島戦争でのフランスのつまづきを見たオーストリアは再度の挑戦を決意して1809年4月にイギリスと第五次対仏大同盟を結成した。オーストリア軍はドイツとイタリアで急速な軍事作戦を展開し、それに応じてナポレオンも反撃を開始するが、5月に発生したアスペルン・エスリンクの戦いで始めて一敗地に塗れる事になった。だが7月のワグラムの戦いで勝利した事から、オーストリアは意気消沈して停戦への運びとなり、10月のシェーンブルンの和約でオーストリアは巨額の賠償金と領土割譲を課せられ大陸封鎖令の遵守も確約させられた。この頃がナポレオン帝国の絶頂期であり、その後二年間のヨーロッパ大陸はスペインを除いて平穏な状態が続いた。
ロシア遠征(1812)
大陸封鎖令による貿易の不自由と経済の悪化でヨーロッパ諸国の不満は高まり、1810年にロシアが離脱を表明してイギリスとの貿易を再開した。これを認めないナポレオンは主にドイツ圏の外国人が4割を占める総勢60万の巨大な多国籍軍を編制し、1812年6月からロシア遠征を開始した。ロシアはナポレオンをひたすら自国の荒野に引きずり込んで疲弊させていく焦土作戦を展開して侵攻するフランス軍を大きく消耗させた。9月のボロディノの戦いの後に首都モスクワに到着したが、そこももぬけの殻で食糧と物資の欠乏に更に苦しむ事になった。ナポレオンはロシアとの講和を探ったが無駄に終わり10月から退却を開始した。この退却行は苦心惨憺を極め、過酷な極寒と執拗な追撃で多数の兵士が失われて総勢60万のうち生還出来たのは2万名ほどだった。フランスは壊滅的な大敗北を喫した。
第六次対仏大同盟(1813 - 1814)
ナポレオンのロシア遠征惨敗とスペインでの敗色を好機と見たプロイセンは、1813年3月にロシアと第六次対仏大同盟を結成しフランスへ宣戦するが、素早く軍隊を再建したナポレオンの反撃に手を焼いて6月に一時休戦した。同じく6月にスペインでは英葡西の三軍がフランス軍を敗走させ、7月には仏西国境のピレネー山脈を越える勢いだった。同時にスウェーデンもフランスに宣戦した。ナポレオンは対仏同盟諸国との講和を求めるが決裂し、他の国々も次々とフランスから離反して大陸封鎖令も有名無実化された。8月にはオーストリアも宣戦して総勢45万を数える対仏同盟軍が一斉にドイツ方面から攻撃を開始した。同盟軍はナポレオンとの対決を避けて周囲の軍を叩く作戦を取った為に、ナポレオン自身は敗北しないままフランス軍は次第に消耗し追い詰められていった。10月、ライプツィヒで史上最大規模の決戦が行われてフランス軍は大敗しドイツから完全撤退した。
1814年はフランス本土の防衛戦となり、南から英葡西連合軍が、東から普露奥瑞の四軍がフランス国内に殺到し、3月には首都パリが包囲された。ナポレオンは徹底抗戦を望んだが部下達に退位を迫られて4月に降服した。フォンテーヌブロー条約に従いナポレオンはエルバ島に追放され、ルイ18世が帰還して王政復古となり5月のパリ条約で諸外国と講和した。9月からヨーロッパ諸国の間でウィーン会議が開かれ戦後の領土分割が協議されたが、各国の利害が対立してまとまる気配を見せなかった。
第七次対仏大同盟(1815)
1815年2月、ルイ18世に対する国民の不満とウィーン会議の混迷を好機と見たナポレオンはエルバ島を脱出して3月にパリへ到着し、特に軍人達に迎えられて皇帝の座に返り咲いた。ルイ18世は国外に逃亡した。驚いたウィーン会議中の諸国は急いで妥協案を成立させると第七次対大同盟を結成し、ナポレオンを法の外に置く旨を宣言した。戦争は不可避となり、兵力で劣るナポレオンは対仏同盟諸国の合流前に各個撃破する作戦を立て、まずベルギー方面にいるイギリス軍とプロイセン軍の攻撃に向かった。しかし6月のワーテルローの戦いで敗北した事で再び退位に追い込まれ、ナポレオン帝国と大陸軍(グランダルメ)はここで終焉を迎える事になり、11月の第二次パリ条約の締結でナポレオン戦争は幕を閉じた。
脚注
- ^ Elting, John R.:"Swords Around A Throne.", pages 60-65. Da Capo Press, 1997
- ^ Napoleon's Guard Infantry - Moyenne Garde, Accessed March 16, 2006
- ^ Tirailleurs de la Garde Imperiale: 1809-1815, Accessed March 16, 2006
- ^ Uniform of the Grenadiers-a-Pied de la Garde, Accessed March 16, 2006
- ^ Foot Grenadiers in the Imperial Guard, Accessed March 16, 2006
- ^ Uniforms of the Chasseurs-a-Pied de la Garde, Accessed March 16, 2006
- ^ Grand Tenue - Marins de la Garde, Accessed March 16, 2006
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- ^ Napoleon's Polish Lancers, Accessed March 16, 2006
- ^ a b Elting, John R.:"Swords Around A Throne.", page 186, 194. Da Capo Press, 1997
- ^ Mas, M.A. M., p.81.
- ^ Elting, John R.:"Swords Around A Throne.", page 250. Da Capo Press, 1997
- ^ a b Elting, John R.:"Swords Around A Throne.", page 254-5. Da Capo Press, 1997
- ^ Campagne 1793-1837 de François Vigo-Roussillon, Grenadier de l'Empire(Broché – 1981)
- ^ Elting, John R. Swords Around A Throne. Da Capo Press, 1997. Pg.387.
- ^ John R. Elting "Swords Around A Throne", p124, Da Capo Press, 1997
- ^ 「華麗なるナポレオン軍の軍服」134頁 リシュアン・ルスロ著 辻元よしふみ、辻元玲子翻訳 マール社 2014年
- ^ 「華麗なるナポレオン軍の軍服」7頁
- ^ Tome huitieme "Correspondance de Napoleon I", p452, "ttp://books.google.com/books?id=KXAPAAAAQAAJ"
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外部リンク
- French website displaying flags of the Grande Armee
- Soldiers of Fortitude: The Grande Armee of 1812 in Russia by Major James T. McGhee
- French Heavy and Light Cavalry (Lourde et Legere Cavalerie)[リンク切れ]
- French article on Chappe telegraphs, Les Telegraphes Chappe, l'Ecole Centrale de Lyon
- Uniforms of Napoleon's Guard