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当初は第一護衛艦隊に担当させるか、第三護衛艦隊にする案が出されていたが、任務上の重要性から士気を上げる為に正規艦隊の一つにする事が決まり、空席となっていた第七艦隊として発足した。形式的には[[連合艦隊]]の所属であったが、実際には[[海上護衛総司令部]]の指揮下に組み込まれていた。初代の司令長官と参謀長は、[[海上護衛隊#第一護衛艦隊|第一護衛艦隊]]司令長官の[[岸福治]]中将と同参謀長の[[後藤光太郎]]少将がそれぞれ兼任していた<ref group="注釈">後に第一護衛艦隊の司令部要員は[[舞鶴鎮守府]]司令長官ほかが兼任に変わる。</ref>。 |
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1945年6月1日時点 |
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*第18戦隊:[[常磐 (装甲巡洋艦)|常磐]]・[[高栄丸]]・永城丸(※1945年6月5日に解隊、3隻とも第七艦隊附属となる) |
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* 第104海防艦 |
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* 機雷敷設艦 [[常磐 (装甲巡洋艦)|常磐]] |
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* 機雷敷設艦 [[高栄丸]] |
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== 歴代司令長官 == |
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2019年6月23日 (日) 05:51時点における版
官衙 |
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第七艦隊(だいななかんたい)は旧日本海軍の艦隊の一つ。太平洋戦争末期の1945年3月から、アメリカ軍の飢餓作戦によって九州周辺の海上に大量の機雷が敷設されたので、これに対抗するべく同年4月に急遽編制された。九州周辺の海上輸送路の防衛を任務とし、もっぱら掃海活動に従事した。
日本海軍の中で最後に編制された艦隊組織となったが、第七を飛び越して第八艦隊、第九艦隊、第十方面艦隊がすでに存在していた。一説には南遣艦隊が第七艦隊扱いされていたので最後まで第七が空席になっていたという。
概要
1945年(昭和20年)3月末よりアメリカ軍は、西日本の海上輸送を機能不全に追い込む飢餓作戦を開始し、九州周辺の海上に大量の機雷をばら巻いていた。ここを管轄とする呉鎮守府には大規模な掃海を行なう機能が無かったので、翌4月に急遽編制されたのが第七艦隊であった。艦隊司令部は福岡県門司に設置され、関門海峡、対馬海峡、豊予海峡、朝鮮海峡を主な担当区域とし哨戒と機雷を取り除く作業に従事した。
当初は第一護衛艦隊に担当させるか、第三護衛艦隊にする案が出されていたが、任務上の重要性から士気を上げる為に正規艦隊の一つにする事が決まり、空席となっていた第七艦隊として発足した。形式的には連合艦隊の所属であったが、実際には海上護衛総司令部の指揮下に組み込まれていた。初代の司令長官と参謀長は、第一護衛艦隊司令長官の岸福治中将と同参謀長の後藤光太郎少将がそれぞれ兼任していた[注釈 1]。
編制
1945年6月1日時点
司令部附属
- 第102海防艦
- 第104海防艦
- 第106海防艦
- 第154海防艦
第18戦隊(1945年6月5日に解隊され3隻とも司令部附属となる)
下関防備隊
歴代司令長官
歴代参謀長
脚注
注釈
出典
参考文献
- 日本近代史料研究会(編) 『日本陸海軍の制度・組織・人事』 東京大学出版会、1971年。
- 大井篤 「海上護衛総司令部」『歴史と人物』昭和60年冬号、中央公論社、1985年。
- 日本海軍人事手帳(?)