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「たけしプロレス軍団」の版間の差分

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試合当日には長州がたけしの元に「よろしくお願いします」と頭を下げにきたりサインを求めたりしていたが、試合が始まるとリング上で「なんだお前は!」と怒鳴り、「態度が全然違うじゃないかー」とたけしはラジオで語っていた。
試合当日には長州がたけしの元に「よろしくお願いします」と頭を下げにきたりサインを求めたりしていたが、試合が始まるとリング上で「なんだお前は!」と怒鳴り、「態度が全然違うじゃないかー」とたけしはラジオで語っていた。


ミスター高橋によれば、たけし軍団のガダルカナル・タカも、両国での殺気立ったファンからの罵声や[[ブーイング]]に対して「大丈夫でしょうか?」と控室では不安気に関係者に尋ねていたが、「セコンドが守りますから安心してください」と高橋が回答していたという<ref name="takarajima/>。一方、一部の新日所属選手側はTPGに対して良い感情を持っていなかったことも事実で、両国当日に新日側と同じ控室に入っていたTPGに対して[[山本小鉄]]が物凄い剣幕で激怒し、同じたけし軍団であった[[そのまんま東]]はリングに上がる前から「帰ろ、帰ろ」と言っていたとのことである。ファンからの不穏なムードを察知した高橋ら関係者が軍団をメインが始まる前に国技館を退出させたが、その際にたけしは「やってられないよー、まったくもー」と高橋に語り、TPGのマット上でのアングルについて終了させる趣旨の発言をしている<ref name="takarajima"/>。
ミスター高橋によれば、たけし軍団のガダルカナル・タカも、両国での殺気立ったファンからの罵声や[[ブーイング]]に対して「大丈夫でしょうか?」と控室では不安気に関係者に尋ねていたが、「セコンドが守りますから安心してください」と高橋が回答していたという<ref name="takarajima" />。一方、一部の新日所属選手側はTPGに対して良い感情を持っていなかったことも事実で、両国当日に新日側と同じ控室に入っていたTPGに対して[[山本小鉄]]が物凄い剣幕で激怒し、同じたけし軍団であった[[そのまんま東]]はリングに上がる前から「帰ろ、帰ろ」と言っていたとのことである。ファンからの不穏なムードを察知した高橋ら関係者が軍団をメインが始まる前に国技館を退出させたが、その際にたけしは「やってられないよー、まったくもー」と高橋に語り、TPGのマット上でのアングルについて終了させる趣旨の発言をしている<ref name="takarajima"/>。


=== 試合後 ===
=== 試合後 ===

2018年8月11日 (土) 01:12時点における版

たけしプロレス軍団(たけしプロレスぐんだん)は、ラジオ番組企画から生まれたプロレス団体あるいは、その企画。略称はTPG

概要

1987年、ラジオ番組『ビートたけしのオールナイトニッポン』の企画から生まれたプロレス団体で、ビートたけしが首領にあたり、たけし軍団も参加している。

歴史

端緒

ビートたけしが当時懇意になりつつあった東京スポーツの紙上(1987年9月8日付け)で「プロレス団体設立」をぶち上げたのが発端。設立の動機を「オイラがプロレスファンという事もあるけど、最近のプロレスに感じられなくなった力道山時代の熱気を、ぜひ取り戻したいと思った」と語り、手駒の選手をスカウトしたり育てたうえで、「手始めにアントニオ猪木に挑戦したい。何といっても日本でナンバー1のプロレスラーだから」と、その目標を明らかにした。

東京スポーツは以後「ビートたけしプロレス大挑戦」と題した密着ルポを始めるなどして、『たけしのオールナイトニッポン』と共にTPGの煽り役を担う。ただし他のプロレスマスコミのなかには「(たけしが本気かどうかが分からないので)人騒がせな話」となじる声もあった。またすでにこの段階から、以前『天才・たけしの元気が出るテレビ!!』で、テリー伊藤が中心となって発案し全日本プロレスの協力のもとの、いつしか立ち消えとなった企画「プロレス予備校」[1]の焼き直しではないか、との疑問が呈されていた。

その後、『たけしのオールナイトニッポン』内で練習生を募集。都内に秘密道場を用意してトレーニングを積ませた。この時彼らを指導したコーチはアポロ菅原である。練習生のなかには、脇田洋人(現:スペル・デルフィン)秋吉昭二(現:邪道)高山圭司(現:外道)がいた。当初の構想としては、後年のアニマル浜口トレーニングジム闘龍門のようなスタイルでの運営が予定されていたようだが、後述の両国暴動により企画、団体が自然消滅し、秋吉らは紆余曲折の末にプロレスデビューへとこぎつける事になった[2]

その一方、巌流島の戦いの終わった猪木と深くなった因縁の関係のあるマサ斎藤がたけしに接近。「打倒猪木」で意気投合し、斎藤はTPGの参謀役を任される。また渉外的な役割をガダルカナル・タカダンカンが務め、1987年10月9日に新日本プロレスの事務所に出向いて山本小鉄に挑戦状を手渡したが、山本に「プロレスをなめるな!」と一喝された[3]。12月4日にはリングに上がり猪木に直接挑戦状を渡すなどした[3]。こうしてTPGの参戦は12月27日の両国国技館大会に決定し、対猪木の刺客がビッグバン・ベイダーであることが発表された。

ミスター高橋が後に明かしたところによれば、TPGの結成と後述のアングルには、東京スポーツの櫻井康雄の仲介でたけしと親交を持った猪木が大きく関係していたとしている。高橋によれば、猪木はマッチメイカーであった高橋に命じて後述のTPGに関するアングルを作成させたとしている[4]

試合当日

1987年12月27日の新日本プロレス両国国技館大会において、藤波辰巳&木村健吾組対マサ斎藤&ビッグバン・ベイダー組のタッグマッチが組まれた。しかし、選手と共にたけし、タカ、ダンカンが入場しリングに上がり、タカが「我々の挑戦状を自ら受け取ったのだから、ベイダーと戦うべき人はアントニオ猪木さんのはずです」と挑発、更にダンカンが観客に向けて「あんたらアントニオ猪木の逃げる姿を見に来たのか?あんたら猪木を卑怯者にしていいのか?やらせろーっ!やらせてくださーい!やらせてくれー!」などとアピールし、続いてマサ斎藤も「猪木!この男(ベイダー)と戦え!俺がわざわざアメリカから連れてきた男だ!怖いか?猪木!出てこーい!」と猪木を挑発した(たけし本人は黙っていた)。これに対して猪木はリングに上がり、観客に向かって「受けてやるかコノヤロー!(お客さんに対し)どーですか!(挑戦者と対戦してもいいか)」と呼びかけ、当初より予定されていた長州力とのシングルマッチを中止し、ベイダーとの対戦を宣言すると場内は騒然となった。

猪木がベイダーと戦うことになった為、その振替試合として長州&斎藤組対藤波&木村組のタッグマッチが急遽行われたが、突然の試合変更に納得がいかない観客席からは試合開始前から、「やめろ、やめろ!」というコールが起きリングに次々と物が投げ込まれ、担当したレフェリーがレフェリングの合間に選手が不慮の事故で負傷しない様、投げ込まれた物を片付ける場面が見られた[5]。この試合終了後に長州がマイクを持って「マサ(斎藤)さんよく聞けよ、何で俺が(試合を)代わらなきゃいけないんだ!」と斎藤に不満をぶつけると共に「みんな、納得いかなくても頼むから試合だけはやらせてくれ!お願いだから物は投げないでくれ!みんな必死でやってるから!猪木だったら俺がやる!倒すから!」と観客に冷静を呼びかけた。

この長州のアピールに猪木が応える形でメインイベントの前に猪木対長州の対戦が急遽特別試合として行われ、会場は落ち着きを取り戻した。先の試合でのダメージが残っていた上に、顔面骨折が完治していない状況の長州が、猪木の攻撃により顔面から大量に出血。猪木の卍固めでギブアップ寸前の所にセコンドの馳浩が乱入し、試合阻止による長州の反則負けとなる。納得のいかない長州が馳をリング外に投げ飛ばし、若手に掴みかかるという大荒れの結果になってしまった。

そして猪木は、直前の長州戦のダメージが抜けていないまま、中止する事なくそのままメインイベントとなるベイダーとの一騎討ちへと突入。ベイダーの一方的な攻撃の末、全体重をかけたボディスラム(オクラホマ・スタンピード)であっさりとピンフォール負けを喫する。この試合を見た観客が再び騒ぎ始め、最終的には暴動騒ぎにまで発展した。この時、既にたけし軍団は会場を後にしていた[6]

舞台裏のエピソード

両国国技館大会までの一連の抗争は、当然ながら新日本プロレスも合意済のアングルであり、試合前には新日本プロレスのフロントとの話し合いの中で「えー、海賊男がいましてこれはうちのキャラクターで…」と念入りに打ち合わせがされていた。2012年7月5日放送の『たけしの等々力ベース』(第36回プロレス道)にて、新間寿(元新日本プロレス専務取締役兼営業本部長)より、「新日本プロレスでレオン・ホワイト(ビッグバン・ベイダー)をデビューさせたいが、たけしプロレス軍団からデビューさせて欲しい」とお願いされたと語っている。

試合当日には長州がたけしの元に「よろしくお願いします」と頭を下げにきたりサインを求めたりしていたが、試合が始まるとリング上で「なんだお前は!」と怒鳴り、「態度が全然違うじゃないかー」とたけしはラジオで語っていた。

ミスター高橋によれば、たけし軍団のガダルカナル・タカも、両国での殺気立ったファンからの罵声やブーイングに対して「大丈夫でしょうか?」と控室では不安気に関係者に尋ねていたが、「セコンドが守りますから安心してください」と高橋が回答していたという[4]。一方、一部の新日所属選手側はTPGに対して良い感情を持っていなかったことも事実で、両国当日に新日側と同じ控室に入っていたTPGに対して山本小鉄が物凄い剣幕で激怒し、同じたけし軍団であったそのまんま東はリングに上がる前から「帰ろ、帰ろ」と言っていたとのことである。ファンからの不穏なムードを察知した高橋ら関係者が軍団をメインが始まる前に国技館を退出させたが、その際にたけしは「やってられないよー、まったくもー」と高橋に語り、TPGのマット上でのアングルについて終了させる趣旨の発言をしている[4]

試合後

この暴動騒ぎにより両国国技館の升席のパイプが破損したり、座布団が破られる、椅子席が壊されるなど日本プロレス史上最大級の暴動となった為、1987年12月28日に坂口征二副社長が日本相撲協会に謝罪したが、翌12月29日に日本相撲協会が新日本プロレスに対して「両国国技館の貸し出しを無期限で禁止」する事を決定した[6]。既に無期限使用禁止となっていた全日本プロレス[7]と合わせて国技館でのプロレス興行が一切出来なくなり、新日本プロレスは1年2か月に渡って国技館の使用が出来なかった。

その後、新日本プロレスは日本相撲協会から多額の損害賠償を請求され、1988年2月3日に行われる予定だった国技館大会も中止となったため(1988年2月5日に後楽園ホールで振替興行を開催)、大損害を被ることになった。国技館は都内でのビッグイベントの常打ち会場でもあり、集客性が高い国技館での興行が禁止されたことで会場を失った新日本にとっては大打撃であった[8][9]

暴動後から4日後の大晦日、『ビートたけしの元祖マラソン野球中継』に新日本プロレス正規軍が乱入し野球対決をするが、たけしが3ストライクでバッターボックスを去る木村にボールを投げつけ、逃げるたけしを木村が追いかける様を、猪木、藤波らが笑い転げる姿が放映された。このように新日本プロレスの選手がたけしの番組に出演する形で、TPG後も両者の良好な関係は続いていた。 また翌1988年2月に再開された『ビートたけしのスポーツ大将』のなかで、「たけしプロレス軍団」と称し、たけし軍団の若手にマスクを被せてシゴキを行ったり、前述のTPGの練習生が登場して草野球ならぬ「草プロレス」を行うコーナーを作るなど、その後もたけしの番組でプロレスを題材にした企画が組まれていた。

マスコミの反応

前述のとおり、TPGの企画を全面的に後押しした東京スポーツでさえ、この1987年12月27日の評価は紙上で二分された。猪木対ベイダー戦の後、一旦引っ込んだ猪木がリング上に現れ「みんな今日はありがとう」と挨拶したのに対し、観客が怒りを増幅させ、さらに暴動が激化―といった場面があったが、それについて「観客の怒りが収まらないのに、何を思ったか猪木が現れ『ありがとう』と挨拶」と解釈するものと、「猪木がわざわざ出てきて『ありがとう』と挨拶したにもかかわらず、観客の怒りは増幅」と解釈した異なったニュアンスの記事が東京スポーツの同一紙面に掲載されていた。東京スポーツでさえも混乱した様子が伺える。

因みに他のプロレスマスコミの扱いは、東スポやたけしに遠慮してなのか、事実のみを伝えて、論評はあっても及び腰のものが多かった(例えば週刊プロレスは、暴動までに至った原因について「観客は与えられたカードをじっくり見たいと思っていたのだろう」などと書いていた)。

わずかにフリーライターの板橋雅弘が、当時、週刊プレイボーイで連載していたコラム「元祖!プロレスの鬼」のなかで「こうなる(ファンが怒り出す、暴動になる)事は分かり切っていたのになあ。特にTPGに関しては煽り立てた東スポも悪い。猛省せよ。東スポはこれを機会に、プロレス報道のあり方をよく考えてもらいたい」と、正面切って東スポを批判していた。

消滅とその後

その後、TPGは自然消滅した。一時、たけしの周辺では猪木の発した言葉「どーですか!」が、「どーですか、お客さん!」としてちょっとした流行語になり、『スーパージョッキー』のワンコーナーのタイトルにもなった。また、たけし軍団の一員で、もともと猪木の物真似を得意としていた井手らっきょは、前述の暴動直後、早速このフレーズを持ちネタに加えていた。

ベイダーはその後も新日本プロレスに継続して参戦、常連外国人となり、日本とアメリカ双方で人気プロレスラーとして長く活躍した。2018年6月に63歳で死去している。

一方、TPGの頓挫によりインディ団体でそれぞれデビューした脇田洋人(現:スペル・デルフィン)秋吉昭二(現:邪道)高山圭司(現:外道)の3人は現役を続けており、デルフィンは1994年の第1回「ベスト・オブ・ザ・スーパージュニア」に招聘され、優勝決定戦に進出するなど好成績を挙げた。また、邪道&外道はデビュー以来一貫してタッグで様々なインディ団体を渡り歩いた後、2001年から新日本へ定着参戦し、IWGPジュニアタッグ王座も獲得している。

プロレスラー養成学校としての企画は、『天才・たけしの元気が出るテレビ!!』のなかで「女子プロレス予備校」として復活、こちらは当時あったほぼ全ての女子団体のバックアップを得て、元気美佐恵シュガー佐藤市来貴代子上林愛貴らを世に送り出し評価された。

時代背景

当時のプロレスファンには「プロレスを理解できない部外者」に対する明確な拒絶反応が存在しており、芸能人(ビートたけし)がらみのプロレス軍団というギミックは到底受け入れられないものだった。しかも猪木と長州のシングル対決はシリーズ全体の目玉カードだったため、その試合に期待して集まった観客の怒りが頂点に達してしまった。TPGがリング上に登場した直後から「帰れ!」、「プロレスを甘く見るな!」などの罵声が飛び、激しいブーイングも起きた。

1987年の格闘技界は、修斗が既に活動を開始し、翌年に第2次UWFが再出発を図る(その1つのきっかけとなる「前田顔面蹴撃事件」がこの1987年11月に起きた)など、後の総合格闘技ブームに繋がる動きが出てきた頃であり、真剣勝負を押し出した格闘技色の強いプロレスが好まれた。特に新日本プロレスはストロングスタイルを標榜していたため、その傾向が強い団体であった。

そうした状況下で、「ビートたけし」及び「たけし軍団」という看板を前面に押し出したTPGの登場は、そもそも当時のファンに受け入れられるはずもなく、それに加えて頼みの猪木が不甲斐ない試合をした事もあり、当日来場していたファンから非常に強く反発される結果となった。たけし(と取り巻きのブレーン)と新日本プロレス(猪木及びテレビ局など)の双方がダメージを受ける形となったが、結局は共に[10][11][12]ファンのニーズや空気をまるで読み切れなかったがゆえである。

参考文献

  • 『日本プロレス事件史 Vol.10』ベースボール・マガジン社、2015年。ISBN 9784583622996 

脚注

  1. ^ 参加者募集時から、合格者を「たけし猫招き仮面」という覆面レスラーとしてデビューさせる計画が予告されていた。
  2. ^ 秋吉、高山、脇田らはその後FMWの旗揚げにも参加したが、水に馴染めず短期間で離脱。さらにユニバーサル・プロレスリングへ移籍し、海外でデビュー戦を行うことになった。
  3. ^ a b 『日本プロレス事件史 vol.10』P53 - P54
  4. ^ a b c 別冊宝島『新日本プロレス10大事件の真相』P82-P83、P85-P88より。
  5. ^ 『日本プロレス事件史 vol.10』P56 - P57
  6. ^ a b 『日本プロレス事件史 vol.10』P58
  7. ^ 1986年、年寄株を借金の担保にした問題で廃業した元大相撲横綱輪島大士が、全日本プロレスに入団したことが影響していたとされている。輪島大士#プロレス時代を参照。
  8. ^ 当時の新日本プロレスは日本武道館を使用していなかった他(全日本は武道館を常打ち会場としていた)、さらに東京体育館は当時建て替え工事中だった。結局この期間は完成したばかりの有明コロシアムを使用したものの、当時はレインボーブリッジが建設されておらず、ゆりかもめりんかい線も未開業で、交通アクセスが未整備だった上に屋根もないため雨に祟られるなど不便を強いられた、
  9. ^ 1989年2月22日の国技館大会で解禁。この時のメインイベントには「みそぎ」として長州対猪木戦が組まれた。
  10. ^ 『あと12月は(中略)なんたってパニックだったのは国技館のTPGだよな。ホントはオレ行きたくなかったんだけどさ、あのザマだろ。帰れコールまであがっちゃったりさ、ひでぇ目にあったよ。ビッグ・バン・ベイダーってのは、ちょっと強すぎたけどネ。だけど群衆心理ってのは怖いよな。あれだけの人数がいっせいに、「たけし!帰れ!」だものな。後で聞いたら、あれ、先頭になって言ってたの高田文夫軍団のセピアの連中なんだって。とんでもないよな。』(「ビートたけしの幸せ丸十年」、ニッポン放送出版、1990年、311-312頁。原文のまま。「オールナイトニッポンその後の事件簿」より、TPGに関して、たけしが後日談として発言)
  11. ^ 翌1988年初頭のオールナイトニッポンで、たけしが『うちのプロレス(TPG)はシャレだったんだから』と発言。後日、週刊プロレスの投書欄には、『今更“シャレ”と言われても』といった内容の、この発言を受けての投書が掲載されていた。
  12. ^ 東京スポーツ「ビートたけしプロレス大挑戦」にて、前田顔面蹴撃事件を受けて、たけしが次の旨を発言。『前田はTPGに来ればいい。覆面して、リングネームを「じゃない前田」にすればいい』