「山田才吉」の版間の差分
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[[1895年]](明治28年)[[3月1日]]、[[東陽町 (名古屋市)|東陽町]](現在の中区栄五丁目24付近)に料理旅館「東陽館」を開業{{sfn|田中彰吾|2002|p=65}}。広い庭園に人工の築山や舟遊びが出来る池に加えて396畳の大広間を持つ本館のある娯楽施設で、実業界での山田の名を高めた。[[1903年]](明治36年)[[8月13日]]に火災で焼失した{{sfn|田中彰吾|2002|pp=65-66}}が、再建されて営業が継続された。往時の賑わいを取り戻せず、昭和時代初期に閉館した{{sfn|田中彰吾|2002|p=66}}。かつての「東陽町」および現在の「東陽通」の名前は東陽館に由来する。 |
[[1895年]](明治28年)[[3月1日]]、[[東陽町 (名古屋市)|東陽町]](現在の中区栄五丁目24付近)に料理旅館「東陽館」を開業{{sfn|田中彰吾|2002|p=65}}。広い庭園に人工の築山や舟遊びが出来る池に加えて396畳の大広間を持つ本館のある娯楽施設で、実業界での山田の名を高めた。[[1903年]](明治36年)[[8月13日]]に火災で焼失した{{sfn|田中彰吾|2002|pp=65-66}}が、再建されて営業が継続された。往時の賑わいを取り戻せず、昭和時代初期に閉館した{{sfn|田中彰吾|2002|p=66}}。かつての「東陽町」および現在の「東陽通」の名前は東陽館に由来する。 |
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=== 南陽館 === |
=== 南陽館および名古屋教育水族館 === |
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[[1910年]](明治43年)、現在の[[港区 (名古屋市)|港区]]([[竜宮インターチェンジ]]付近)に「名古屋教育水族館」を開館{{sfn|田中彰吾|2002|p=75}}。また東築地5号地に5階建ての料理旅館「南陽館」建設を開始し、これらへのアクセスとして[[熱田電気軌道]]を開業{{sfn|服部鉦太郎|1976|p=557}}。[[1912年]]([[大正]]元年)9月の台風による[[高潮]]で完成間近の南陽館は倒壊、水族館も大きな打撃を受けた{{sfn|田中彰吾|2002|p=79}}。南陽館は3階建てで再建され、水族館も南陽館の敷地に移転・縮小して再建された。[[1935年]](昭和10年)に閉館{{sfn|田中彰吾|2002|pp=79-80}}<ref name="広報なごや港">{{Cite journal|和書 |format=PDF|title=名古屋港開港100周年 第6回 『名古屋教育水族館』と『南陽館』|url=http://www.city.nagoya.jp/shicho/cmsfiles/contents/0000099/99927/minato1904.pdf|journal=広報なごや 港区版|volume=平成19年4月号|accessdate=2018-04-21|page=13|language=日本語}}</ref>。南陽館の跡地は[[名古屋市立東築地小学校]]となっている<ref name="広報なごや港"/>。現在も残る「南陽通」と「竜宮町」の地名は南陽館および名古屋教育水族館があったことに由来する。名古屋教育水族館について[[名古屋港水族館]]初代館長[[内田至]]は、その先進性を評価している<ref>{{Cite news|title=面影を探して 90年目の昭和 名古屋港② もう一つの水族館 解説など教育にも力|newspaper=中日新聞朝刊市民版|publisher=中日新聞|date=2015-12-11|language=日本語|page=20}}</ref>。 |
[[1910年]](明治43年)、現在の[[港区 (名古屋市)|港区]]([[竜宮インターチェンジ]]付近)に「名古屋教育水族館」を開館{{sfn|田中彰吾|2002|p=75}}。また東築地5号地に5階建ての料理旅館「南陽館」建設を開始し、これらへのアクセスとして[[熱田電気軌道]]を開業{{sfn|服部鉦太郎|1976|p=557}}。[[1912年]]([[大正]]元年)9月の台風による[[高潮]]で完成間近の南陽館は倒壊、水族館も大きな打撃を受けた{{sfn|田中彰吾|2002|p=79}}。南陽館は3階建てで再建され、水族館も南陽館の敷地に移転・縮小して再建された。[[1935年]](昭和10年)に閉館{{sfn|田中彰吾|2002|pp=79-80}}<ref name="広報なごや港">{{Cite journal|和書 |format=PDF|title=名古屋港開港100周年 第6回 『名古屋教育水族館』と『南陽館』|url=http://www.city.nagoya.jp/shicho/cmsfiles/contents/0000099/99927/minato1904.pdf|journal=広報なごや 港区版|volume=平成19年4月号|accessdate=2018-04-21|page=13|language=日本語}}</ref>。南陽館の跡地は[[名古屋市立東築地小学校]]となっている<ref name="広報なごや港"/>。現在も残る「南陽通」と「竜宮町」の地名は南陽館および名古屋教育水族館があったことに由来する。名古屋教育水族館について[[名古屋港水族館]]初代館長[[内田至]]は、その先進性を評価している<ref>{{Cite news|title=面影を探して 90年目の昭和 名古屋港② もう一つの水族館 解説など教育にも力|newspaper=中日新聞朝刊市民版|publisher=中日新聞|date=2015-12-11|language=日本語|page=20}}</ref>。 |
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2019年9月10日 (火) 20:54時点における版
やまだ さいきち 山田 才吉 | |
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生誕 |
1852年8月19日[1] 日本美濃国厚見郡富茂登村(現岐阜県岐阜市)[2] |
死没 |
1937年1月31日(84歳没) 日本聚楽園[3] |
墓地 | 大龍寺[3] |
国籍 | 日本 |
山田 才吉(やまだ さいきち、1852年8月19日 - 1937年1月31日[1])は美濃国出身の実業家。
経歴
嘉永5年(1852年)、美濃国厚見郡富茂登村(現在の岐阜県岐阜市大仏町)で料理屋を営業していた山田辰次郎の長男として生まれる[2]。板前などを経て名古屋の熱田神戸町・大須門前町に店を構え、1881年(明治14年)には末広町3丁目(現在の栄)の若宮八幡社西隣に漬物屋「きた福」を開店[4]。この頃に守口漬(守口大根の味醂粕漬)を考案したとされ、これが評判を呼んだ[5]。1884年(明治17年)3月には缶詰工場を[6]新開地(東築地5号地)において立ち上げて愛知県下で初めて缶詰製造販売に参入[7]。日清戦争・日露戦争で大量の軍用缶詰の注文を受けて更なる財を為した[8]。
1887年(明治20年)中京新報(後の名古屋新聞で現在の中日新聞の前身)を創刊し新聞事業に乗り出した山田は、1895年(明治28年)名古屋市議会議員に初当選。1897年(明治30年)には現在の中区に料理旅館「東陽館」を開業した。東陽館は396畳の大広間を併設した公会堂のような性格を持っており、伊藤博文や尾崎行雄も東陽館を訪れている。1899年(明治32年)には愛知県議会議員、1901年(明治34年)には名古屋商業会議所議員に選出。1904年(明治37年)に愛知県五二会の幹事長に就く(後に会長)。1906年(明治39年)には名古屋瓦斯(東邦ガスの前進)を設立した。
1910年(明治43年)現在の港区に南陽館と名古屋教育水族館を開き、白鳥橋と南陽館をつなぐ熱田電気軌道を敷設。同年には知多電車軌道の発起人にも名を連ねるとともに、中央市場株式会社も設立した。1916年(大正5年)現在の東海市に料理旅館「聚楽園」を開園。名古屋道徳地区の住宅地開発を進めた名古屋桟橋倉庫株式会社の取締役に就く。1924年(大正13年)現在の可児市に料理旅館「北陽館」を開業。1927年(昭和2年)聚楽園の敷地内に聚楽園大仏を建立した。1937年(昭和12年)1月31日没、享年85。葬儀は本願寺名古屋別院で営まれ墓所は千種区の大龍寺にある[9]。
なお、才吉が創業した「きた福」は同店から暖簾分けした「松喜屋」に屋号など含めて生前に売却され、「喜多福総本家」として現在も守口漬の製造販売を続けている[10]。
才吉が手がけた施設
東陽館
1895年(明治28年)3月1日、東陽町(現在の中区栄五丁目24付近)に料理旅館「東陽館」を開業[11]。広い庭園に人工の築山や舟遊びが出来る池に加えて396畳の大広間を持つ本館のある娯楽施設で、実業界での山田の名を高めた。1903年(明治36年)8月13日に火災で焼失した[12]が、再建されて営業が継続された。往時の賑わいを取り戻せず、昭和時代初期に閉館した[13]。かつての「東陽町」および現在の「東陽通」の名前は東陽館に由来する。
南陽館および名古屋教育水族館
1910年(明治43年)、現在の港区(竜宮インターチェンジ付近)に「名古屋教育水族館」を開館[14]。また東築地5号地に5階建ての料理旅館「南陽館」建設を開始し、これらへのアクセスとして熱田電気軌道を開業[15]。1912年(大正元年)9月の台風による高潮で完成間近の南陽館は倒壊、水族館も大きな打撃を受けた[16]。南陽館は3階建てで再建され、水族館も南陽館の敷地に移転・縮小して再建された。1935年(昭和10年)に閉館[17][18]。南陽館の跡地は名古屋市立東築地小学校となっている[18]。現在も残る「南陽通」と「竜宮町」の地名は南陽館および名古屋教育水族館があったことに由来する。名古屋教育水族館について名古屋港水族館初代館長内田至は、その先進性を評価している[19]。
聚楽園
1916年(大正5年)、知多郡上野村砂崎(現東海市名和町)に、神宮外宮前の旅館「雲丹館」を移築して料理旅館「聚楽園」を開業[20]。敷地内には山田の自宅もあった。当時、名鉄常滑線聚楽園駅は海岸線沿いに位置しており、名古屋市近郊の観光地として客を集めた。山田が没した翌年の1938年(昭和13年)に売却された。
東海市の聚楽園公園となっており、営業当初の1927年(昭和2年)に建立された聚楽園大仏も現存する。大仏および境内地は1983年(昭和58年)に東海市指定名勝に指定されたが[21][22]、聚楽園旅館は市によって解体され、1996年(平成8年)に跡地に茶室「嚶鳴庵」が建てられた[23]。
北陽館
1926年(昭和元年)、岐阜県可児郡土田村大脇(現在の可児市)に料理旅館「北陽館」を開業[24][25]。終戦後ごろまでは営業していた。その後名古屋鉄道可児寮(名鉄道場)となり、1976年(昭和51年)解体[26]。跡地に名鉄グループの「江陵閣」が1977年(昭和52年)2月1日に開館したもの[26]の、のち閉館し、跡地は温泉入浴施設「湯の華アイランド」となっている。
家族・親戚
- 父・辰次郎
- 母・すて
- 先妻・なつ
- 子・たか(養女)
- 後妻・よね
- 子・寿恵子(長女)、朝子(次女)、幾久子(三女)
脚注
- ^ a b 林董一 1976, p. 842.
- ^ a b 田中彰吾 2002, p. 54.
- ^ a b 田中彰吾 2002, p. 90.
- ^ 田中彰吾 2002, pp. 56–57.
- ^ “守口漬の歴史”. 愛知県漬物協会. 2015年2月18日閲覧。
- ^ 1902年(明治35年)法人化し日本罐詰合資会社となり、翌年株式会社化(田中彰吾『守口漬ものがたり』2002年、68頁)。
- ^ 田中彰吾 2002, p. 59.
- ^ 田中彰吾 2002, p. 68.
- ^ 田中彰吾 2002, p. 92.
- ^ 田中彰吾 2002, pp. 88–89.
- ^ 田中彰吾 2002, p. 65.
- ^ 田中彰吾 2002, pp. 65–66.
- ^ 田中彰吾 2002, p. 66.
- ^ 田中彰吾 2002, p. 75.
- ^ 服部鉦太郎 1976, p. 557.
- ^ 田中彰吾 2002, p. 79.
- ^ 田中彰吾 2002, pp. 79–80.
- ^ a b 「名古屋港開港100周年 第6回 『名古屋教育水族館』と『南陽館』」(PDF)『広報なごや 港区版』平成19年4月号、13頁、2018年4月21日閲覧。
- ^ “面影を探して 90年目の昭和 名古屋港② もう一つの水族館 解説など教育にも力” (日本語). 中日新聞朝刊市民版 (中日新聞): p. 20. (2015年12月11日)
- ^ 田中彰吾 2002, pp. 80–81.
- ^ “聚楽園大仏及び境内地”. 文化遺産データベース:文化遺産オンライン(文化庁). 2019年3月25日閲覧。
- ^ “聚楽園大仏及び境内地”. 東海市の文化財(東海市). 2019年3月25日閲覧。
- ^ “東海市しあわせ村”. 東海市しあわせ村(東海市). 2019年3月25日閲覧。
- ^ 広報かに[リンク切れ]、2009年6月1日
- ^ 田中彰吾 2002, p. 85.
- ^ a b 田中彰吾 2002, p. 86.
参考文献
- 岡田善敏 著「山田才吉宅址」、名古屋市文化財調査保存委員会 編『名古屋史蹟名勝紀要』芸術案内社、1954年12月25日、153頁。
- 服部鉦太郎「東陽館」『愛知百科事典』中日新聞社、1976年、557頁。
- 服部鉦太郎「南陽館」『愛知百科事典』中日新聞社、1976年、627頁。
- 林董一「山田才吉」『愛知百科事典』中日新聞社、1976年、842頁。
- 名古屋市教育委員会 編『名古屋の史跡と文化財 (新訂版)』名古屋市教育委員会、1990年。
- 田中彰吾『守口漬ものがたり ―創業者たちの横顔―』中日出版社、2002年11月18日。ISBN 4-88519-194-7。
- 愛知県小中学校長会・愛知県小中学校PTA連絡協議会・名古屋市立小中学校PTA協議会 編「山田才吉 名古屋のアイディアマン」『燃えるかがり火』愛知県教育振興会〈あいちの偉人〉、2014年6月25日。ISBN 978-4-900010-35-2。
- 新修名古屋市史編集委員会 編『新修名古屋市史 (第五巻)』名古屋市、1999年。
- 新修名古屋市史資料編編集委員会 編『新修名古屋市史 (資料編近代2)』名古屋市、1999年。
外部リンク
- 喜多福総本家
- 聚楽園の仁王像、大仏、弘法大師像『モージャー氏撮影写真資料』p37-42, 1946年、国立国会図書館