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「フェデリコ・テシオ」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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2010年まで記述されているがなぜか削除された部分を復活。独自研究いうなら、高村光雲でないかと「思われる」という記述も消すべき
生涯: では両方消すことにしましょう。なおテオデュール・リボーは、各国語版ウィキペディアの記事を見る限り、美術史上それなりに著名な画家であろうと思われます
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その後数々の名馬を生産し[[ヨーロッパ]]の競馬界で一時代を築く。イタリア国内ではほぼ無敵だったが、唯一のライバルにジュゼッペ・デ・モンテル(Giuseppe De Montel)がいた。モンテルは豊富な資金力を背景に各国から良血馬を次々に導入し、獲得賞金ベースではテシオを上回っていた。また、[[1929年]]にテシオに先んじて[[オルテッロ]]で[[凱旋門賞]]を制覇している。これに触発されたのかマリオ・インチーサ・デッラ・ロケッタ(Mario Incisa della Rocchetta)侯爵のオルジアタ牧場と提携し規模を拡大。冬の間は温暖なオルジアタ牧場に本拠地を移すなど柔軟な経営を可能とし、その後は[[ドナテッロ (競走馬)|ドナテッロ]]、[[ネアルコ]]等を生産した。
その後数々の名馬を生産し[[ヨーロッパ]]の競馬界で一時代を築く。イタリア国内ではほぼ無敵だったが、唯一のライバルにジュゼッペ・デ・モンテル(Giuseppe De Montel)がいた。モンテルは豊富な資金力を背景に各国から良血馬を次々に導入し、獲得賞金ベースではテシオを上回っていた。また、[[1929年]]にテシオに先んじて[[オルテッロ]]で[[凱旋門賞]]を制覇している。これに触発されたのかマリオ・インチーサ・デッラ・ロケッタ(Mario Incisa della Rocchetta)侯爵のオルジアタ牧場と提携し規模を拡大。冬の間は温暖なオルジアタ牧場に本拠地を移すなど柔軟な経営を可能とし、その後は[[ドナテッロ (競走馬)|ドナテッロ]]、[[ネアルコ]]等を生産した。


テシオは美術愛好家であり、生産馬には[[美術家]]にちなんだ馬名を与えていた<ref name="原田p205">{{Cite book|和書|title=世界の名馬―サイトサイモンからケルソまで |author=原田俊治 |publisher=[[白井透|サラブレッド血統センター]] |date=1970年8月 |page=205}}</ref><ref name="吉沢p71-72">{{Cite book|和書|author=吉沢譲治|title=競馬の血統学 サラブレッドの進化と限界|pages=71-72}}</ref>。馬名の元となった美術家には、[[ドナテッロ]]、[[ジョヴァンニ・ベッリーニ|ベッリーニ]]、[[サンドロ・ボッティチェッリ|ボッティチェッリ]]、[[ミケランジェロ・ブオナローティ|ミケランジェロ]]のような[[ルネサンス]]期の巨匠に加えて、{{仮リンク|ピエトロ・テネラニ|label=テネラニ|en|Pietro Tenerani}}、[[アンリ・ド・トゥールーズ=ロートレック|トゥールーズ=ロートレック]]など、テシオと近い年代の人物も含まれている。代表生産馬の[[リボー]]と[[ネアルコ]]は、それぞれフランスの{{仮リンク|テオデュール=オーギュスタン・リボー|en|Théodule Ribot}}と[[古代ギリシャ]]の{{仮リンク|ネアルコス (画家)|label=ネアルコス|en|Nearchos (painter)}}(イタリア語名:[[:it:Nearco (ceramista)|ネアルコ]])<ref name="原田p205" /><ref name="吉沢p71-72" />から名付けたとされる。珍しいところでは"Nakamuro"<ref>{{Cite web|url=http://www.jbis.or.jp/horse/0000335598/|title=Nakamuro (ITY)|work=JBIS (Japan Bloodstock Information System)|publisher=[[日本軽種馬協会|公益社団法人日本軽種馬協会]]|accessdate=2017-10-27}}</ref>(ナカムロ、[[中村不折]]から<ref name="吉沢p71-72" />)、"Tokamura"<ref>{{Cite web|url=http://www.jbis.or.jp/horse/0000388931/|title=Tokamura (ITY)|work=JBIS|publisher=日本軽種馬協会|accessdate=2017-10-27}}</ref>(トカムラ、{{信頼性要検証範囲|[[高村光太郎]]から<ref name="原田p205" />|date=2019年8月 |title=原田俊治は「高村光太郎からとったトカムラという馬」と書いているが、この馬が生まれた1940年当時の彫刻家としての国際的知名度を考えると、高村光太郎(この時点で彫刻家としての国外実績なし、「智恵子抄」も出版前)ではなく父の高村光雲(この時点で万国博覧会に複数回の出品実績あり)ではないかと思われる。}})といった生産馬もいた。晩年になるとさすがにネタが尽きたのかリボーはかなり無名の画家である。 またテシオ自身が[[画家]]でもあり、自身の生産馬の絵画を何点か残している。
テシオは美術愛好家であり、生産馬には[[美術家]]にちなんだ馬名を与えていた<ref name="原田p205">{{Cite book|和書|title=世界の名馬―サイトサイモンからケルソまで |author=原田俊治 |publisher=[[白井透|サラブレッド血統センター]] |date=1970年8月 |page=205}}</ref><ref name="吉沢p71-72">{{Cite book|和書|author=吉沢譲治|title=競馬の血統学 サラブレッドの進化と限界|pages=71-72}}</ref>。馬名の元となった美術家には、[[ドナテッロ]]、[[ジョヴァンニ・ベッリーニ|ベッリーニ]]、[[サンドロ・ボッティチェッリ|ボッティチェッリ]]、[[ミケランジェロ・ブオナローティ|ミケランジェロ]]のような[[ルネサンス]]期の巨匠に加えて、{{仮リンク|ピエトロ・テネラニ|label=テネラニ|en|Pietro Tenerani}}、[[アンリ・ド・トゥールーズ=ロートレック|トゥールーズ=ロートレック]]など、テシオと近い年代の人物も含まれている。代表生産馬の[[リボー]]と[[ネアルコ]]は、それぞれフランスの{{仮リンク|テオデュール=オーギュスタン・リボー|en|Théodule Ribot}}と[[古代ギリシャ]]の{{仮リンク|ネアルコス (画家)|label=ネアルコス|en|Nearchos (painter)}}(イタリア語名:[[:it:Nearco (ceramista)|ネアルコ]])<ref name="原田p205" /><ref name="吉沢p71-72" />から名付けたとされる。珍しいところでは"Nakamuro"<ref>{{Cite web|url=http://www.jbis.or.jp/horse/0000335598/|title=Nakamuro (ITY)|work=JBIS (Japan Bloodstock Information System)|publisher=[[日本軽種馬協会|公益社団法人日本軽種馬協会]]|accessdate=2017-10-27}}</ref>(ナカムロ、[[中村不折]]から<ref name="吉沢p71-72" />)、"Tokamura"<ref>{{Cite web|url=http://www.jbis.or.jp/horse/0000388931/|title=Tokamura (ITY)|work=JBIS|publisher=日本軽種馬協会|accessdate=2017-10-27}}</ref>(トカムラ、[[高村光太郎]]から<ref name="原田p205" />)といった生産馬もいた。晩年になるとさすがにネタが尽きたのかリボーはかなり無名の画家である。 またテシオ自身が[[画家]]でもあり、自身の生産馬の絵画を何点か残している。


テシオの配合方針はかなり複雑で、著書「サラブレッドの生産」にまとめられている。配合する種牡馬の選択にあたっては、スピードと早熟性を重視していた<ref name="吉沢p60">{{Cite book|和書|author=吉沢譲治|title=競馬の血統学 サラブレッドの進化と限界|page=60}}</ref>。他の大馬産家とは違い自身が生産した名馬をあまり自分では使わず、常に新しい血を求めていた。このため長期にわたって成功を収めることができたという意見もある。ただし例外もおり、[[リボー]]などは[[カヴァリエーレ・ダルピーノ]]からリボーまで一貫してテシオが生産、母もテシオの生産である。
テシオの配合方針はかなり複雑で、著書「サラブレッドの生産」にまとめられている。配合する種牡馬の選択にあたっては、スピードと早熟性を重視していた<ref name="吉沢p60">{{Cite book|和書|author=吉沢譲治|title=競馬の血統学 サラブレッドの進化と限界|page=60}}</ref>。他の大馬産家とは違い自身が生産した名馬をあまり自分では使わず、常に新しい血を求めていた。このため長期にわたって成功を収めることができたという意見もある。ただし例外もおり、[[リボー]]などは[[カヴァリエーレ・ダルピーノ]]からリボーまで一貫してテシオが生産、母もテシオの生産である。

2019年10月22日 (火) 02:41時点における版

フェデリコ・テシオ(Federico Tesio、1869年1月17日 - 1954年5月1日)はイタリアの馬産家、馬主調教師上院議員である。当時競馬が始まったばかりのイタリアで、しかも年間僅か10数頭程度の生産馬からリボーネアルコ等の世界的名馬を生産した。異名は「ドルメロの魔術師」(Il mago di dormello、イル・マーゴ・ディ・ドルメッロ)。

生涯

幼少の頃に両親を亡くし、モンカリエリで13年間学んだ後、騎兵隊の少尉として軍役を終えている。その後両親の遺産を受け継ぐと、ギャンブルにおぼれたり、絵を描いてみたり、アマチュア騎手をしてみたりと放蕩生活を送っていた。

遊びほうけていたテシオの転機は、妻リディア・テシオ(Lydia Flori di Serramezzana、リディア・フィオーリ・ディ・セッラメッツァーナ)との結婚である。1898年ミラノ北部マッジョーレ湖の近くにドルメロ牧場という小さな牧場を開いた[1]。このときテシオ29歳であった[1]

その後数々の名馬を生産しヨーロッパの競馬界で一時代を築く。イタリア国内ではほぼ無敵だったが、唯一のライバルにジュゼッペ・デ・モンテル(Giuseppe De Montel)がいた。モンテルは豊富な資金力を背景に各国から良血馬を次々に導入し、獲得賞金ベースではテシオを上回っていた。また、1929年にテシオに先んじてオルテッロ凱旋門賞を制覇している。これに触発されたのかマリオ・インチーサ・デッラ・ロケッタ(Mario Incisa della Rocchetta)侯爵のオルジアタ牧場と提携し規模を拡大。冬の間は温暖なオルジアタ牧場に本拠地を移すなど柔軟な経営を可能とし、その後はドナテッロネアルコ等を生産した。

テシオは美術愛好家であり、生産馬には美術家にちなんだ馬名を与えていた[2][3]。馬名の元となった美術家には、ドナテッロベッリーニボッティチェッリミケランジェロのようなルネサンス期の巨匠に加えて、テネラニトゥールーズ=ロートレックなど、テシオと近い年代の人物も含まれている。代表生産馬のリボーネアルコは、それぞれフランスのテオデュール=オーギュスタン・リボー古代ギリシャネアルコス英語版(イタリア語名:ネアルコ[2][3]から名付けたとされる。珍しいところでは"Nakamuro"[4](ナカムロ、中村不折から[3])、"Tokamura"[5](トカムラ、高村光太郎から[2])といった生産馬もいた。晩年になるとさすがにネタが尽きたのかリボーはかなり無名の画家である。 またテシオ自身が画家でもあり、自身の生産馬の絵画を何点か残している。

テシオの配合方針はかなり複雑で、著書「サラブレッドの生産」にまとめられている。配合する種牡馬の選択にあたっては、スピードと早熟性を重視していた[6]。他の大馬産家とは違い自身が生産した名馬をあまり自分では使わず、常に新しい血を求めていた。このため長期にわたって成功を収めることができたという意見もある。ただし例外もおり、リボーなどはカヴァリエーレ・ダルピーノからリボーまで一貫してテシオが生産、母もテシオの生産である。

自身の最高傑作は生前カヴァリエーレ・ダルピーノと周囲に語っていた。ネアルコは真のステイヤーではないとテシオ自身の評価は低く、また悲願であった凱旋門賞を制覇したリボーの競走は、自身が1954年に死亡したため見ることはなかった。

テシオの死後もドルメロ牧場は継続され、マルゲリートヴェルノー、ホガース等の名馬を輩出したが、1985年のティスランを最後の名馬として1992年に閉鎖された。

主な生産馬

  • リボー(Ribot、1952) 16戦16勝、凱旋門賞連覇、キングジョージ6世&クイーンエリザベスステークスミラノ大賞典ジョッキークラブ大賞、クリテリウムナツィオナーレ、伊グランクリテリウム、英リーディングサイアー3回
  • ネアルコ(Nearco、1935) 14戦14勝、パリ大賞典デルビーイタリアーノ、イタリア大賞、ミラノ大賞典、クリテリウムナツィオナーレ、伊グランクリテリウム、キウスラ賞、パリオリ賞(伊2000ギニーに相当)、英リーディングサイアー3回
  • ドナテッロ(Donatello、1934 ) 9戦8勝、デルビーイタリアーノ、ミラノ大賞、イタリア大賞、クリテリウムナツィオナーレ、伊グランクリテリウム
  • ボッティチェッリ(Botticelli、1951) 18戦14勝、アスコットゴールドカップ、イタリアクラシック三冠、イタリア大賞、ミラノ大賞典、クリテリウムナツィオナーレ
  • テネラニ(Tenerani、1944) 24戦17勝、デルビーイタリアーノ、クイーンエリザベスステークス(現キングジョージ6世&クイーンエリザベスステークス)、グッドウッドカップ、イタリア大賞、ミラノ大賞典、セントレジャーイタリアーノ、伊ジョッキークラブ大賞、リボーの父
  • ベッリーニ(Bellini、1937) 23戦15勝、デルビーイタリアーノ、ファッショ賞(セントレジャーイタリアーノ)、ジョッキークラブ大賞、テネラニの父
  • カヴァリエーレ・ダルピーノ(Cavaliere d'Arpino、1926) 5戦5勝、ミラノ大賞典、イタリアリーディングサイアー、ベッリーニの父
  • ロマネッラ(Romanella、1943) 7戦5勝、クリテリウムナツィオナーレ、リボーの母
  • ノガラ(Nogara、1928) 18戦14勝、エレナ王妃賞(伊1000ギニーに相当)、パリオリ賞、クリテリウムナツィオナーレ、ネアルコの母
  • ブラック(Braque、1954) 12戦全勝、デルビーイタリアーノ、イタリア大賞、ミラノ大賞典、セントレジャーイタリアーノ
  • スコパス(Scopas、1919) 6勝、バーデン大賞、伊ジョッキークラブ大賞
  • アペレ(Apelle、1923) 23戦14勝、デルビーレアーレ、ミラノ大賞典、コロネーションカップフランスリーディングサイアー
  • ニコロデラルカ(Niccolo dell'Arca、1938) 15戦12勝、イタリアクラシック三冠、イタリア大賞、ミラノ大賞典、伊グランクリテリウム、ネアルコの半弟
  • トレヴィサーナ(Trevisana、1945) 22戦17勝、イタリア大賞、セントレジャーイタリアーノ、クリテリウムナツィオナーレ、伊グランクリテリウム
  • アストルフィーナ(Astolfina、1945) 19戦14勝、エレナ王妃賞、パリオリ賞、伊オークス、ジョッキークラブ大賞、ミラノ大賞典
  • ドーミエ(Daumier、1948) 15戦13勝、デルビーイタリアーノ、セントレジャーイタリアーノ、ジョッキークラブ大賞、クリテリウムナツィオナーレ、伊グランクリテリウム

他イタリアクラシックホース数十頭。

脚注

  1. ^ a b 吉沢譲治『競馬の血統学 サラブレッドの進化と限界』日本放送出版協会、2001年10月15日、57頁。ISBN 9784140841419 
  2. ^ a b c 原田俊治『世界の名馬―サイトサイモンからケルソまで』サラブレッド血統センター、1970年8月、205頁。 
  3. ^ a b c 吉沢譲治『競馬の血統学 サラブレッドの進化と限界』、71-72頁。 
  4. ^ Nakamuro (ITY)”. JBIS (Japan Bloodstock Information System). 公益社団法人日本軽種馬協会. 2017年10月27日閲覧。
  5. ^ Tokamura (ITY)”. JBIS. 日本軽種馬協会. 2017年10月27日閲覧。
  6. ^ 吉沢譲治『競馬の血統学 サラブレッドの進化と限界』、60頁。 

外部リンク