「遠藤雅伸」の版間の差分
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『ゼビウス』のヒット後よりメディア出演を行い、ゲームデザイナーとして名が知られる第一人者となった。 |
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* 雑誌『[[ログイン (雑誌)|ログイン]]』[[1984年]]2月号に、『ゼビウス』のファンであった[[細野晴臣]]との対談が掲載(当時同誌編集者だった[[野々村文宏]]の仲介による<ref>{{Cite journal|和書|journal=[[CONTINUE (雑誌)|CONTINUE]]|issue=15|author=[[太田出版]]|title=遠藤雅伸ロングインタビュー| |
* 雑誌『[[ログイン (雑誌)|ログイン]]』[[1984年]]2月号に、『ゼビウス』のファンであった[[細野晴臣]]との対談が掲載(当時同誌編集者だった[[野々村文宏]]の仲介による<ref>{{Cite journal|和書|journal=[[CONTINUE (雑誌)|CONTINUE]]|issue=15|author=[[太田出版]]|title=遠藤雅伸ロングインタビュー|isbn=4872338529|date=2004}}</ref>)。この席で、細野が『ゼビウス』のBGMも気に入っていたことから、ゲームミュージックのアルバム制作の機運が盛り上がり、後に『[[ビデオ・ゲーム・ミュージック]]』の制作に繋がる<ref>{{cite journal|和書|title=祝 細野晴臣・監修による魅惑の円盤 VIDEO GAME MUSIC 所謂音響記念碑的作品、堂々完成|journal=月刊ログイン|publisher=株式会社アスキー|year=1984|month=5|volume=3|issue=5|page=66}}</ref>。 |
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* 1984年、雑誌『[[朝日ジャーナル]]』にて連載された、[[筑紫哲也]]が10代から20代の若者との対談を行う企画「新人類の旗手たち」に、遠藤が出演。 |
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* テレビには1984年にアルバム『ビデオ・ゲーム・ミュージック』が発売される前後から出演しており、発売直後の5月10日には細野晴臣とともに、[[TBSテレビ]]『[[生だ!おもしろ特急便]]』に出演した([[バンダイナムコアミューズメント|ナムコ]]直営の[[ゲームセンター]]「プレイシティキャロット[[田町 (東京都港区)|田町]]店」からの生中継)。 |
* テレビには1984年にアルバム『ビデオ・ゲーム・ミュージック』が発売される前後から出演しており、発売直後の5月10日には細野晴臣とともに、[[TBSテレビ]]『[[生だ!おもしろ特急便]]』に出演した([[バンダイナムコアミューズメント|ナムコ]]直営の[[ゲームセンター]]「プレイシティキャロット[[田町 (東京都港区)|田町]]店」からの生中継)。 |
2020年1月25日 (土) 06:15時点における版
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遠藤 雅伸(えんどう まさのぶ、1959年2月23日 - )は東京都渋谷区出身のゲームクリエイター、東京工芸大学芸術学部ゲーム学科教授[1]。
株式会社ゲームスタジオ創業者・相談役、日本デジタルゲーム学会副会長[2]、宮城大学客員教授、株式会社JAGMO名誉会長、慶應義塾大学大学院特別招聘教授。「ゲームの神様」の異名を取る[3]。
来歴
井草八幡幼稚園、横浜市立つつじヶ丘小学校(上石神井小学校から転校)、横浜市立田奈中学校[4]、神奈川県立横浜翠嵐高等学校、千葉大学工学部画像工学科卒業。
1981年、ナムコ(現・バンダイナムコエンターテインメント)入社。研修時に『ディグダグ』のテストプレイを行い、その際に書き留めたテクニックのメモが中村雅哉社長(当時)の目に留まり、豆本「ディグショナリー」として出版される[5]。1983年にシューティングゲーム『ゼビウス』のゲームデザイン・プログラム・グラフィックを担当、大ブームを巻き起こす。以降『ドルアーガの塔』『グロブダー』などを手がける。
1985年に独立し、株式会社ゲームスタジオを設立。『イシターの復活』『カイの冒険』『ザ・ブルークリスタルロッド』といったバビロニアン・キャッスル・サーガシリーズや、『ファミリーサーキット』『ケルナグール』(以上ナムコ)『機動戦士Ζガンダム・ホットスクランブル』(バンダイ)『エアーズアドベンチャー』などのゲームデザイン・開発、ファミリーコンピュータ版『ウィザードリィ』シリーズ(アスキー)の移植プロデュース、『いただきストリート』のディレクション等を手がける。
また、携帯電話用アプリケーションにも早期から参入し、2004年4月21日に株式会社モバイル&ゲームスタジオを設立。『三国志年代記』『ケータイ社長』『右脳パラダイス』『ビーチバレーガールしずく』などのタイトルを手がけている。また2008年放映のテレビアニメ『ドルアーガの塔』およびMMORPG『ドルアーガの塔 The Recovery of BABYLIM』では、スーパーバイザーを務める。
2014年より、東京工科大学大学院に進学[6]。「ゲーム研究者」としての学位取得が目標で、盟友の飯野賢治の死が大きな契機になったという[7][8]。
遠藤雅伸★として
2001年3月14日、2ちゃんねるのレトロゲーム板「XEVIOUSを懐かしむ」スレッドに「Evezoo END」の固定ハンドルで書き込み、当事者でしか知りえない数々の情報を披露し閲覧しているゲームマニアたちを驚かせた[9]。その後、2ちゃんねるの管理人の西村博之より専用の固定キャップを貰い、同月29日より「遠藤雅伸 ★」として2ちゃんねるに書き込むようになる[10]。遠藤雅伸をネタにした「こんな遠藤…スレ」にも時々書き込みをしており、スレッドが落ちた際には本人が新規スレッドを立てることもある[11]。
また、「レトロゲーム板@2ちゃんねる掲示板」の看板(コンピュータで描かれたイラストレーションで掲示板の名前が表示される)を作成し2001年5月14日より採用された。[要出典]
2008年、GyaOジョッキーにて行われたアニメ『ドルアーガの塔 〜the Aegis of URUK〜』最終話の実況放送に、「遠藤雅伸★」名義でゲスト出演。「(遠藤雅伸★は)キャラクターですから」と割り切って数々の名言を放ち、同プログラムの同時視聴接続最高数の新記録を樹立した[12]。またMMORPG『ドルアーガの塔 The Recovery of BABYLIM』でも「遠藤雅伸★」名で、25歳当時の写真を元にしたという外見のプレイヤーキャラクターを持ち活動。
メディアへの出演
『ゼビウス』のヒット後よりメディア出演を行い、ゲームデザイナーとして名が知られる第一人者となった。
- 雑誌『ログイン』1984年2月号に、『ゼビウス』のファンであった細野晴臣との対談が掲載(当時同誌編集者だった野々村文宏の仲介による[13])。この席で、細野が『ゼビウス』のBGMも気に入っていたことから、ゲームミュージックのアルバム制作の機運が盛り上がり、後に『ビデオ・ゲーム・ミュージック』の制作に繋がる[14]。
- 1984年、雑誌『朝日ジャーナル』にて連載された、筑紫哲也が10代から20代の若者との対談を行う企画「新人類の旗手たち」に、遠藤が出演。
- テレビには1984年にアルバム『ビデオ・ゲーム・ミュージック』が発売される前後から出演しており、発売直後の5月10日には細野晴臣とともに、TBSテレビ『生だ!おもしろ特急便』に出演した(ナムコ直営のゲームセンター「プレイシティキャロット田町店」からの生中継)。
- 1985年、『YOU』(NHK教育)に出演。
- ゲーム雑誌『Beep』1986年8月号では、「遠藤雅伸さんとつくったBEEP」という特集記事が作られた。
- 1986年発売のファミコン用ソフト『機動戦士Ζガンダム・ホットスクランブル』のテレビCMに制作者として出演。既に『ドルアーガの塔』で知名度の高かった遠藤を「ゲームデザイナーの第一人者」として前面に押し出す宣伝であった[15]。
- 日本テレビの『1億人の大質問!?笑ってコラえて!』に登場し「名古屋撃ちは常識」などの発言を残している。
- 2006年12月9日にNHKの討論特番『ネット社会 日本のこれから』に生出演。番組中で唯一発言した「神降臨!」発言で世間の注目を再び浴び、存在を世にアピールした。また雅伸の席の前列には声優の落合祐里香が座っており、生放送終了後は『アイドルマスター』に関する雑談をしていたことが落合のブログで記されていた。また、2009年3月21日の同番組「テレビの、これから」ではゲーム製作者の代表として登場した。
- ゲーマー向けバラエティ番組『ゲームセンターCX』にゲームクリエイターとして出演し、インタビューに応じている。インタビューの中で彼は『ゼビウス』の世界設定が生み出された背景や『ドルアーガの塔』が全60階になったいきさつ、日本におけるスライムの立場を貶めてしまった事などを説明している。2007年12月24日(再放送・2008年1月6日)の9時間生放送の時では、『カイの冒険』の98面で攻略に行き詰っていた有野晋哉へのアドバイス役として電話出演した。
- 2007年3月8日には『TVゲーム・ジェネレーション 〜8bitの魂〜』に番組での企画制作ゲームのアドバイザーとして出演。企画のマイナス部分を次々に的確に指摘するなどゲームデザイナーとしての遠藤の健在ぶりを示した。また、ゼビウス制作時の数々の逸話は全てプロモーションのための後付け設定であったと明かし、「プロモーションのそれはそれとして、みんな生きてる内にちゃんとバラしてから死のうぜ」と他のクリエイターに向けて発言した。
- アニメ『ドルアーガの塔 〜the Aegis of URUK〜』では7話次回予告に出演している。
- 活躍の場はテレビに留まらず、2004年にはゲーム販売会社ディースリー・パブリッシャーの新作プロモーションビデオに出演。学校コントの中で「先生の名前は是美臼(えんどうまさのぶ)です!」というアドリブギャグを繰り広げる。[16]
- プレイステーション3の『トロ・ステーション』2008年2月23日放送分に出演。富野由悠季とのエピソードなどを披露した。
- 2009年4月10日発売の『週刊ファミ通』にて自身のネットとの付き合いを語る中で、「ブログも某掲示板と同じくまとめページが作られることを前提に書いている。但し、ウィキペディアはウソばかり。匿名性が有るから何をやってもいい、と考えるのだろうね。」という発言をしている。
- 2009年7月1日より、自身がパーソナリティを務めるポッドキャスト『遠藤雅伸のMGSラジオ』を隔週で配信。第24回(2010年8月6日配信分)では、秋葉原PCゲームフェスタ会場にて公開録音も行った。同番組は2012年6月28日配信の第80回にて定期配信を終了、その後2013年4月19日に『遠藤雅伸のMGSラジオ2013春』として、2013年度新入社員を紹介する特別版が配信された。
- 2011年4月17日、NHK教育テレビの番組『ITホワイトボックス』の第3回「なぜハマる?新ゲームビジネスの秘密」に出演。
- 2013年10月4日、テレビ東京系列のドラマ番組『ノーコン・キッド 〜ぼくらのゲーム史〜』の第1話にカメオ出演(役名なし)。
- 2013年11月10日、NHK教育テレビの番組『80年代の逆襲“宮沢章夫の戦後ニッポンカルチャー論”』にVTR出演。
- 2014年2月22日公開の映画『ゲームセンターCX THE MOVIE』に出演(校長役)。その後も、ケルナグール、イシターの復活挑戦中に有野が電話をかけているが、共にゲーム史の講義中だった。
エピソード・その他
- アルバム『ハドソン・ゲーム・ミュージック』の収録曲「バイナリィランド」において、3歳から始めたピアノの腕前を披露している。楽器はピアノの他に、中学からトランペット、高校ではジャズ・コンボを作ったり、シンセサイザーやベースギターも経験する[4]。
- 自身がゲームデザインを手がけた『Bビーダマン爆外伝』のカードゲームでは、CMソング「いくぜ!キラカード!!(ダークビーダ編、ビーダマン編)」の作詞も手がけている。
- 多忙な身であるがサイトを運営するファンのインタビューに応じたり2ちゃんねる等のインターネットを中心として行われるOFF会等、遠藤が誘われた際は都合があう場合に限り出席する事もある。インタビュー・OFFの様子は、多くのサイト・ブログに記されている。ファンとの集いで判明した事実・裏話もかなり多い。
- ウィキペディアに対しては批判的立場を示しており、ブログや雑誌上で度々、「自身についての項目は嘘ばかりである」と述べている[17]。
脚注
- ^ “教員紹介 | ゲーム学科 | 芸術学部 | 東京工芸大学”. 2014年7月11日閲覧。
- ^ “役員|DiGRA JAPAN”. DiGRA JAPAN. 2016年9月19日閲覧。
- ^ “あの“ゲームの神様”遠藤雅伸氏がMMORPGに言いたい放題。「ドルアーガの塔」からケータイゲームまで,存分にどうぞ”. 4Gamer.net (2009年5月1日). 2014年5月29日閲覧。
- ^ a b マイコンBASICマガジン1984年2月号別冊付録・スーパーソフトマガジン スペシャルインタビューより。
- ^ “『ゼビウス』の生みの親・遠藤雅伸氏が『ポケモンGO』を斬る! VRを中心とした最新技術の話題も”. Game Deets. 2016年9月6日閲覧。
- ^ evezooのツイート(378343996793159682)
- ^ evezooのツイート(374705180031197184)
- ^ “「ゼビウス」がなければ「ポケモン」は生まれなかった!?———遠藤雅伸、田尻智、杉森建がその魅力を鼎談。ゲームの歴史を紐解く連載シリーズ「ゲームの企画書」第一回|電ファミニコゲーマー企画記事” (2016年2月8日). 2016年4月11日閲覧。
- ^ XEVIOUSを懐かしむ - ウェイバックマシン(2001年7月8日アーカイブ分)
- ^ XEVIOUSを懐かしむ エリア2 - ウェイバックマシン(2001年12月22日アーカイブ分)
- ^ “こんな遠藤、やっぱり松嶋菜々子が最高!”. 2ちゃんねる (2007年4月4日). 2015年5月19日閲覧。
- ^ “GyaOジョッキー『ドルアーガの塔』最終話”. 遠藤雅伸公式blog「ゲームの神様」 (2008年6月21日). 2015年1月7日閲覧。
- ^ 太田出版「遠藤雅伸ロングインタビュー」『CONTINUE』第15号、2004年、ISBN 4872338529。
- ^ 「祝 細野晴臣・監修による魅惑の円盤 VIDEO GAME MUSIC 所謂音響記念碑的作品、堂々完成」『月刊ログイン』第3巻第5号、株式会社アスキー、1984年5月、66頁。
- ^ なお、遠藤自身は『スーパーマリオブラザーズ』の制作者である宮本茂を表舞台に引っ張り出したくて京都の任天堂まで行ったと語っている(週刊ファミ通 2008年6月13日号 岡本吉起の語って!チョーダイ!!より)
- ^ 当項目は当初「ギャグは台本にあり、のちに講演などで持ちネタになった」と記載されていた。本人のブログ記事によって「ネット情報の不確かさ」および「Wikipediaの妄信」の例にあげられている(遠藤雅伸公式blog「ゲームの神様」/2009年5月25日分記事 テレビのこれからより)ように、本人ないしそれを知る人物によって修正されるも、荒らし扱いされ元に戻されたりしている。ただし、wikipediaのルールでは出典を伴わなければ戻されても仕方ない。
- ^ 2009年度ハイパーホビー5月号
外部リンク
- 遠藤雅伸 Official site
- 遠藤雅伸公式blog「ゲームの神様」 - Ameba Blog
- 遠藤雅伸 (@evezoo) - X(旧Twitter)
- 遠藤雅伸 (@endohmasanobu) - Instagram
- 株式会社ゲームスタジオ
- こんな遠藤の秘密基地 [リンク切れ]