「靱公園」の版間の差分
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2020年3月23日 (月) 13:08時点における版
靱公園 | |
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靱テニスセンター | |
分類 | 都市公園(総合公園) |
所在地 | |
座標 | 北緯34度41分7.56秒 東経135度29分39.2秒 / 北緯34.6854333度 東経135.494222度座標: 北緯34度41分7.56秒 東経135度29分39.2秒 / 北緯34.6854333度 東経135.494222度 |
面積 | 9.7ha |
開園 | 1955年10月21日 |
運営者 | 大阪市 |
公式サイト | http://www.osakapark140526.osgf.or.jp/utsubo |
靱公園(うつぼこうえん)は、大阪府大阪市西区靱本町にある都市公園(総合公園)である[1]。四つ橋筋からあみだ池筋までなにわ筋を挟んでの東西に細長い敷地を有する。
概要
かつての靱塩干魚市場の跡地にあたる。海部堀川(1951年埋立)沿いの靱塩干魚市場は干物や肥料にする干鰯などの海産物を全国から集めていたが、1931年の大阪市中央卸売市場の開場後に閉鎖され、1945年の大阪大空襲で一帯は焼け野原となった。
戦後、連合国軍最高司令官総司令部は南北幹線道路である四つ橋筋からあみだ池筋までの京町堀川(1955年埋立)と海部堀川に挟まれた細長い区域(当時の町名でいう靱北通と靱上通の大半に相当)約3万坪を接収し、占領軍の常用飛行場として靱飛行場を置いた。1952年の講和条約発効から2ヶ月後に飛行場敷地は大阪市へ返還され、戦災復興土地区画整理事業によって1955年に靱公園が開園した。また、同事業によって1959年になにわ筋が敷設され、公園を縦断するようになった。
なにわ筋を挟んで東園・西園に分かれ、東園にはケヤキ並木とバラ園が整備され、都心のオアシスとなっている。西園は大部分を靱テニスセンターが占め、世界スーパージュニアテニス選手権大会など国際的な大会も行われた。
公園周辺は、1990年代後半から衣料店やカフェ、レストラン、パン屋や洋菓子店などが軒を連ねている。東園では、公園が街路ではなく直接京町堀通り南側ビル群の裏側に接しているため公園に直接面したカフェやバーが出店したり、バラ園では屋外結婚式が行われている。
公園の中央、なにわ筋沿いに楠永神社があり、大きなクスノキが目立つ。ここは古くからの神社でかつて海部堀川が横を流れており、靱市場の数少ない名残である。クスノキは戦後、飛行場建設の際に伐採されようとしたが、けが人やブルドーザーの故障が相次いだ。お祓いの際に神社の建物から白い蛇が出てきたことから「この木は神木なので切ってはいけない」という話になり今に残っている。
公園内に作家・梶井基次郎の文学碑があり、「檸檬」の一節が刻まれている(1981年(昭和56年)に建立)[2][3]。
施設
- ハードコート(西園)
- センターコート1面(観客席5000人)
- サブ センターコート1面(観客席500人)
- 一般コート14面
- アンツーカコート(東園の科学技術館横)
- 4面
- 靱卓球場
- バラ園
- 結婚式場・レストラン(靱テニスセンターB1F)
定例イベント
- 靱公園バラ祭(5月中旬)
- バラ園中央で屋外コンサートなどが行われる
- 花と彫刻展(10月中旬~下旬)
- バラ園、ケヤキ並木沿いに彫刻が展示される
- 植木市(随時)
- 四つ橋筋側の出口付近など
靱サッカー場
靱公園の開園当初、西園にはサッカー専用の球技場(靱蹴球場 / 靱サッカー場)が設置されていた。1960年代・70年代には大阪におけるサッカーの拠点として第40回天皇杯全日本サッカー選手権大会をはじめ各種大会が開催されていたが、1997年の第52回国民体育大会(なみはや国体)におけるテニス会場の整備を目的に取り壊された。現在は靱テニスセンターの一部(センターコートなど)となっている。
アクセス
周辺情報
ギャラリー
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靱公園東口
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バラ園の噴水
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公園を貫くなにわ筋
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公園を貫くなにわ筋
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隣接する科学技術館
脚注
外部リンク
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