「大正橋 (大阪市)」の版間の差分
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2020年3月23日 (月) 15:43時点における版
大正橋(たいしょうばし)は、大阪府大阪市大正区三軒家東一丁目と同市浪速区幸町三丁目・木津川一丁目を結ぶ、木津川に架かる千日前通の橋。橋長80mの連続桁橋である。
船舶の出入が多いため無橋地帯だった勘助島(のちの大正区)へ向けて最初に架けられた橋で、市中心部と大阪市電で結ばれたことでアクセスが飛躍的に向上し、区名の由来となった橋でもある。
現在の橋は2代目で、初代の橋は日本一の支間長を誇るアーチ橋として架橋されたが、橋梁技術が未熟な時代の橋であったことなどから想定外の変形が発生し、補修・補強がくり返され、結局は架け替えとなった。
歴史と構造
日本最大のアーチ橋であった初代橋
大正橋は、工業地帯として発展していた現在の大正区の区域(当時は西区の一部)と対岸の大阪市街地を結ぶ目的で、1915年(大正4年)に完成した。大正時代に架橋されたことから「大正橋」と命名され、1932年(昭和7年)に新設された「大正区」の区名は当橋に由来する。
初代大正橋はアーチ支間91.4mのアーチ橋で、当時日本最長のアーチ橋だった。幅員は大阪市電の軌道敷を含めて19.0mあった。
架橋計画が持ち上がった当時、予定地のすぐ上流側で創業していたガス会社が原料の船運ができなくなって損害を被るとして反対し、当時の大阪府知事に斡旋を依頼するなどした結果、当時としては異例ともいえる支間長の橋が架けられるようになった。
ところが、この橋の架橋後にいろいろな問題が発生した。まず、この橋がよく揺れるということが露見し、さらにアーチ部の変形が生じ、変形が大きくなっていったことである。当時は日本で国産の鉄橋が架けられるようになってまもなくであり、明確な設計基準も整備されて無かった。後に各種応力計算・測定を行うと明らかに強度不足であることが判明した。
初代橋の問題点
初代大正橋は2ヒンジアーチという構造を採用していた。右図に示すとおり、両橋台の支点2箇所にヒンジを有する構造であり、橋の自重や車両の荷重により、アーチが外側に開こうとする水平力が橋台の支点部に作用する。したがって、橋台やその基礎は水平力に耐える強固な構造を必要とし、一般には強固な岩盤が支持地盤として求められる。しかしながら、本橋は沖積平野に位置し、強固な岩盤を得ることはできなかった。このため、アーチから作用する水平力に橋台が耐えきれず、支点(橋台)が移動しアーチが開きはじめてしまった。2ヒンジアーチでは、支点の移動が起こるとアーチに不利な二次力が作用し、ますますアーチの耐力が低下する結果を引き起こした。これを受けて、後の1930年(昭和5年)同市に架けられた桜宮橋は、アーチ支点が移動しても不利な二次力が作用しない3ヒンジアーチ構造が採用されている。さらにその後、地盤の軟弱な地域に架けられるアーチ橋は、水平力をタイと呼ばれる部材で結び、支点に水平力が作用しないタイドアーチを基本とする構造が一般となっており、2ヒンジアーチは強固な岩盤を有する山岳部の橋梁などに限定されることとなった。
初代大正橋の変形は、第二次世界大戦後さらにひどくなり、支間は45cm広がり、頭頂部は50cm低くなった。そのため、車両が通行しない状態であっても、アーチ部材は降伏応力(部材が破壊に至る状態)に近い値を示すようになり、軽量化や補強などさまざまな補修・延命策が採られた。
連続桁橋に架け替え
そのような中、都市計画道路泉尾今里線(千日前通・大阪市道難波境川線)の拡張に伴い、大正橋の架け替えが決定した。
1969年(昭和44年)4月に新橋の下流側半分が架橋され、1971年(昭和46年)3月に上流側にあった旧橋が撤去された。1974年(昭和49年)3月に新橋の上流側半分が架橋され、下流側と連結された。
初代大正橋が支間91mを1径間で渡河する大アーチ橋あったのに対し、2代目大正橋は中間に2箇所の橋脚を設置した最大支間37.5mの連続桁橋が採用され、ごく一般的な橋梁形式となった。第二次大戦後における日本の橋の架け替えでは、河川法の改定によって橋脚の設置に対する制限が厳しくなり、一般に橋脚の数は減らす傾向にあることを考えると、架け替えにあたって橋脚新設した大正橋は珍しい事例と言える。2代目大正橋の諸元は以下のとおりである。
- 種別 - 鋼道路橋
- 形式 - 3径間連続合成桁
- 橋長 - 80.0m
- 支間 - 20.8m + 37.5m + 20.8m
- 有効幅員 - 41.0m
- 完成年度 - 1974年
橋の欄干には、ベートーヴェン作曲・交響曲第9番『歓喜の歌』の楽譜がデザインされている。また歩道にはメトロノームとピアノの鍵盤がデザインされている。
大地震両川口津浪記
大正橋の東詰めの広場には「大地震両川口津浪記」という大津浪記念碑が設置されている。これは1854年(嘉永7年・安政元年)の安政南海地震の後に発生し大阪を襲った津波の被害と教訓を記したもので、安政2年7月に建立された[1][2]。碑文には「嘉永7年(1854年)、6月14日午前零時ごろに大きな地震が発生し市中一統驚いた。同年11月4日朝にも大地震が発生し地震を恐れて舟に乗り避難した。翌日夕方にも大地震が発生し津波がおしよせた。被害状況は・・」と具体的な被害状況を述べ「地震が発生したら津波がくることを心得ておき、舟での避難は絶対してはいけない。また建物は壊れ火事になる。なによりも「火の用心」が肝心、津波というのは沖から波が来るだけではなく、岸近くから吹き上がってくることもあり、津波の勢いは、普通の高潮とは違う」と細かい注意を書きのこした。
また、148年前(数え年、満147年前)の1707年宝永津波でも同様のことがあって2万人以上の犠牲者が出たとの記録もあり[3]、過去の教訓が生かせなかったことを悔やみ、後世の人が同じ被害を受けないよう、「つたない文だが、ここに書き残す。願わくば、心ある人は、文字が読みやすいように毎年墨を入れなおし、後の世に伝えていってほしい」と刻まれており、記述どおり地域の有志によって毎年墨入れが行われている[4]。
周辺
参考文献
- 松村 博 著 『大阪の橋』 (松籟社)ISBN 9784879840820
脚注
- ^ 両川口津波の碑 大正橋北東橋詰(浪速区側) - 大阪市
- ^ 津波災害の歴史から現代を見る-南海地震の津波災害- 東京大学地震研究所 助教授 都司嘉宣 消防科学総合センター
- ^ 矢田俊文, 2013, 1707年宝永地震による浜名湖北部の沈降と大坂の被害数 (PDF) , 第21回GSJシンポジウム「古地震・古津波から想定する南海トラフの巨大地震」
- ^ 長尾武, 2012, 『大地震両川口津浪記』にみる大阪の津波とその教訓 (PDF) , 京都歴史災害研究 第13号, 17-26.