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平沼の気質が最も現れた試合が、{{by|1989年}}[[9月23日]]の西武戦([[西武ドーム|西武球場]])で、4回2死一・二塁の際、打者・[[清原和博]]に死球を与えた<ref name="hochi151011"/>。この直後、逆上した清原からバットを投げつけられ、グリップエンドがヒザに直撃した<ref name="hochi151011">{{Cite web|url= http://www.hochi.co.jp/entertainment/20151011-OHT1T50134.html|title=清原氏、26年前の“跳び蹴り事件”を平沼氏に謝罪|publisher=スポーツ報知 |accessdate=2015-10-11|archivedate=2016-02-16|archiveurl=http://web.archive.org/web/20160216132713/http://www.hochi.co.jp/entertainment/20151011-OHT1T50134.html}}</ref>。平沼も怒って清原に向かって走っていったが、清原から勢いのついたヒップアタックを食らい、両軍総動員の大乱闘となった<ref name="hochi151011"/>。試合終了後に平沼は、清原が帰るのを狙おうと駐車場で待ち伏せたが、周りに止められた<ref name="hochi151011"/>。乱闘の翌日、[[辻発彦]]に付き添われて清原はロッテのロッカールームに謝罪にきたが、ベテランの先輩に怒鳴られてしまったなどの要因で、その時には分かち合えなかった。その後の清原との対戦では内角に投げづらくなっていたが、人伝に(清原が)内角を投げてほしいと言っていたことを聞く<ref name="hochi151011"/>。
平沼の気質が最も現れた試合が、{{by|1989年}}[[9月23日]]の西武戦([[西武ドーム|西武球場]])で、4回2死一・二塁の際、打者・[[清原和博]]に死球を与えた<ref name="hochi151011"/>。この直後、逆上した清原からバットを投げつけられ、グリップエンドがヒザに直撃した<ref name="hochi151011">{{Cite web|url= http://www.hochi.co.jp/entertainment/20151011-OHT1T50134.html|title=清原氏、26年前の“跳び蹴り事件”を平沼氏に謝罪|publisher=スポーツ報知 |accessdate=2015-10-11|archivedate=2016-02-16|archiveurl=http://web.archive.org/web/20160216132713/http://www.hochi.co.jp/entertainment/20151011-OHT1T50134.html}}</ref>。平沼も怒って清原に向かって走っていったが、清原から勢いのついたヒップアタックを食らい、両軍総動員の大乱闘となった<ref name="hochi151011"/>。試合終了後に平沼は、清原が帰るのを狙おうと駐車場で待ち伏せたが、周りに止められた<ref name="hochi151011"/>。乱闘の翌日、[[辻発彦]]に付き添われて清原はロッテのロッカールームに謝罪にきたが、ベテランの先輩に怒鳴られてしまったなどの要因で、その時には分かち合えなかった。その後の清原との対戦では内角に投げづらくなっていたが、人伝に(清原が)内角を投げてほしいと言っていたことを聞く<ref name="hochi151011"/>。


これまで平沼は清原からの正式な謝罪を受けたことはなかったが、{{by|2015年}}[[10月11日]]放送の『[[行列のできる法律相談所]]』(あの時は本当にごめんなさいSP)([[日本テレビ]]系)に清原がゲスト出演。この放送分では平沼にもオファーがあったものの収録日は9月だったため球団スタッフである平沼はシーズン中でスタジオ出演はできなかったが、VTRで出演した<ref>平沼はバット投げ事件に関する出演オファーは断っていたものの清原がどうしても謝罪したいとのことで出演を快諾したとのこと。</ref>。そして清原からテレビ越しで「平沼さん、バットを投げて本当に申し訳ありませんでした」と26年越しの謝罪を受けた<ref>[https://www.zakzak.co.jp/sports/baseball/news/20160206/bbl1602061530006-n1.htm 清原容疑者バット投げ因縁の平沼氏 26年ぶりテレビ謝罪の舞台ウラ]Zakzak by 夕刊フジ.2016年2月6日</ref>。しかし、清原は今回の放送の約4か月後に[[覚せい剤取締法]]違反容疑で逮捕された。
これまで平沼は清原からの正式な謝罪を受けたことはなかったが、{{by|2015年}}[[10月11日]]放送の『[[行列のできる法律相談所]]』(あの時は本当にごめんなさいSP)([[日本テレビ]]系)に清原がゲスト出演。この放送分では平沼にもオファーがあったものの収録日は9月だったため球団スタッフである平沼はシーズン中でスタジオ出演はできなかったが、VTRで出演した<ref>平沼はバット投げ事件に関する出演オファーは断っていたものの清原がどうしても謝罪したいとのことで出演を快諾したとのこと。</ref>。そして清原からテレビ越しで「平沼さん、バットを投げて本当に申し訳ありませんでした」と26年越しの謝罪を受けた<ref>[https://www.zakzak.co.jp/sports/baseball/news/20160206/bbl1602061530006-n1.htm 清原容疑者バット投げ因縁の平沼氏 26年ぶりテレビ謝罪の舞台ウラ]Zakzak by 夕刊フジ.2016年2月6日</ref>。しかし、清原は今回の放送の約4か月後に[[覚剤取締法]]違反容疑で逮捕された。


平沼がバットを投げつけられたのは上記の清原だけではなかった。{{by|1987年}}4月28日の日本ハム戦でも、死球を当てられ激高した[[二村忠美]]が付近にバットを投げつけてきて(これは当たっていない)、二村の態度に激高した[[有藤道世]]監督がベンチから飛び出してくるなど乱闘の当事者になっている。
平沼がバットを投げつけられたのは上記の清原だけではなかった。{{by|1987年}}4月28日の日本ハム戦でも、死球を当てられ激高した[[二村忠美]]が付近にバットを投げつけてきて(これは当たっていない)、二村の態度に激高した[[有藤道世]]監督がベンチから飛び出してくるなど乱闘の当事者になっている。

2020年4月22日 (水) 07:46時点における版

平沼 定晴
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 千葉県習志野市
生年月日 (1965-03-27) 1965年3月27日(59歳)
身長
体重
178 cm
78 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 投手
プロ入り 1982年 ドラフト2位
初出場 1984年5月23日
最終出場 1998年8月16日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)

平沼 定晴(ひらぬま さだはる、1965年3月27日 - )は、千葉県習志野市出身の元プロ野球選手投手)。右投右打。

2011年シーズンまでは中日ドラゴンズ打撃投手兼用具係を担当していたが、後述の理由で2012年シーズンからは用具係専任となった。

経歴

千葉商大付高時代、1982年第54回選抜高等学校野球大会に出場。大会屈指の速球派として前評判が高かったものの、初戦で尾道商業高に敗れた。同年夏は千葉県予選2回戦で12奪三振を奪う好投を見せたが敗退した。

喧嘩早く物怖じせず度胸が据わっている性格とセンバツでの活躍が評価され、同年のプロ野球ドラフト会議中日ドラゴンズから2位指名を受け入団した。

プロ2年目の1984年に一軍初登板を果たす。その後も主に中継ぎとして登板機会を増やしていたが、1986年オフに落合博満との交換トレードで、上川誠二牛島和彦桑田茂の3選手とともに、ロッテオリオンズに移籍した。

ロッテでも中継ぎとして活躍し、1995年オフに仁村徹酒井忠晴山本保司との3対3交換トレードで、前田幸長樋口一紀とともに中日に移籍。10年ぶりの古巣復帰となった。2度の大型トレードによって古巣復帰を果たした珍しい例である。

1998年には西武ライオンズに移籍したが、同年限りで現役を引退した(同年に1対4の大型トレード相手だった落合も引退しこれでこのトレードに関わった選手全てが現役を退いた)。

現役引退後は、1999年から中日で打撃投手を務めたが、2009年頃から右肘に痛みを感じるようになり、連日テーピングと注射で痛みに耐えていたが、2011年夏ごろに肘が曲がらない「ロック」という症状に陥り、秋に復帰するものの打撃投手からの引退を決意。2012年シーズンからは用具係専任となる[1]

人物

ニックネームはジャミラウルトラマンに登場した首がほとんどない怪獣で平沼の風貌が似ているからだという。

現役時代から丸刈り頭がトレードマークで、かつてはCBCテレビサンデードラゴンズ」内の企画で平沼の散髪中にチーム内のこぼれ話を話してもらうコーナーがあった(打撃投手になった後であり、現役時代ではない)。

平沼の気質が最も現れた試合が、1989年9月23日の西武戦(西武球場)で、4回2死一・二塁の際、打者・清原和博に死球を与えた[2]。この直後、逆上した清原からバットを投げつけられ、グリップエンドがヒザに直撃した[2]。平沼も怒って清原に向かって走っていったが、清原から勢いのついたヒップアタックを食らい、両軍総動員の大乱闘となった[2]。試合終了後に平沼は、清原が帰るのを狙おうと駐車場で待ち伏せたが、周りに止められた[2]。乱闘の翌日、辻発彦に付き添われて清原はロッテのロッカールームに謝罪にきたが、ベテランの先輩に怒鳴られてしまったなどの要因で、その時には分かち合えなかった。その後の清原との対戦では内角に投げづらくなっていたが、人伝に(清原が)内角を投げてほしいと言っていたことを聞く[2]

これまで平沼は清原からの正式な謝罪を受けたことはなかったが、2015年10月11日放送の『行列のできる法律相談所』(あの時は本当にごめんなさいSP)(日本テレビ系)に清原がゲスト出演。この放送分では平沼にもオファーがあったものの収録日は9月だったため球団スタッフである平沼はシーズン中でスタジオ出演はできなかったが、VTRで出演した[3]。そして清原からテレビ越しで「平沼さん、バットを投げて本当に申し訳ありませんでした」と26年越しの謝罪を受けた[4]。しかし、清原は今回の放送の約4か月後に覚醒剤取締法違反容疑で逮捕された。

平沼がバットを投げつけられたのは上記の清原だけではなかった。1987年4月28日の日本ハム戦でも、死球を当てられ激高した二村忠美が付近にバットを投げつけてきて(これは当たっていない)、二村の態度に激高した有藤道世監督がベンチから飛び出してくるなど乱闘の当事者になっている。

現役引退後、打撃投手に就任した当初は選手の打ちやすい球を投げられず苦労したが、立浪和義には逆にそれが好評であった。立浪は2009年に現役を引退するまで、打撃練習の相手には平沼か入団当初から打撃投手を務めていた左投手の清水治美を指名していた[5]

立浪の打撃練習の際、防護ネットをすり抜けたライナー性の打球を、脇腹に受けたことがあった[5]。打撃投手は本来、110km/hから120km/hの球を、マウンドの少し前から投げるが、立浪は30代半ばごろから、「早いボールを打つ」練習を重点的に取り組んでいたため、練習相手の平沼・清水治美両打撃投手の協力を得て、距離を詰めて打撃練習をしており、その際に起きた事故だった[5]。平沼は、心配する立浪に対し、「大丈夫」と言いつつ、最後まで練習相手を務めたが、後で病院の診察を受けた際、肋骨骨折の重傷を負っていたことを知ったという[5]

詳細情報

年度別投手成績





















































W
H
I
P
1984 中日 4 0 0 0 0 0 0 0 -- .000 29 5.2 10 1 3 0 0 2 1 0 5 5 7.94 2.29
1985 20 0 0 0 0 0 1 0 -- .000 115 20.2 34 4 18 0 2 13 0 0 32 29 12.63 2.52
1986 34 2 0 0 0 1 2 0 -- .333 223 50.2 54 6 18 1 3 39 3 0 27 25 4.44 1.42
1987 ロッテ 35 1 0 0 0 1 0 0 -- 1.000 302 70.0 70 8 28 1 2 45 6 0 25 25 3.21 1.40
1988 8 1 0 0 0 0 1 0 -- .000 93 17.1 31 3 11 2 2 8 1 0 26 24 12.46 2.42
1989 36 1 0 0 0 1 3 4 -- .250 285 65.1 70 13 28 1 2 41 2 0 42 41 5.65 1.50
1990 18 3 0 0 0 0 0 0 -- .000 151 32.2 43 6 12 0 0 25 3 0 22 17 4.68 1.68
1991 40 0 0 0 0 4 6 1 -- .400 416 96.0 99 9 36 6 5 71 3 0 46 37 3.47 1.41
1992 40 3 1 1 0 6 2 0 -- .750 333 82.0 59 6 37 2 5 49 3 0 22 22 2.41 1.17
1993 36 0 0 0 0 3 2 0 -- .600 291 68.0 69 6 33 2 3 40 2 0 35 34 4.50 1.50
1994 38 1 0 0 0 2 5 0 -- .286 276 61.2 76 10 25 0 0 44 2 0 43 40 5.84 1.64
1995 10 0 0 0 0 0 0 0 -- .000 29 5.2 10 0 4 0 0 3 1 0 6 6 9.53 2.47
1996 中日 13 0 0 0 0 0 0 0 -- .000 67 14.0 23 1 6 0 1 8 1 0 12 10 6.43 2.21
1997 4 0 0 0 0 0 0 0 -- .000 15 3.2 6 0 1 0 0 1 0 0 0 0 0.00 1.91
1998 西武 6 0 0 0 0 0 0 0 -- .000 42 9.1 9 2 6 0 0 2 0 0 7 7 6.75 1.61
通算:15年 342 12 1 1 0 18 22 5 -- .450 2667 602.2 663 75 266 15 25 391 28 0 350 322 4.81 1.54

記録

背番号

  • 46 (1983年 - 1986年)
  • 25 (1987年 - 1995年)
  • 13 (1996年 - 1997年)
  • 50 (1998年)
  • 111 (1999年 - 2011年)

脚注

  1. ^ 「竜が舞う2011 打撃投手から用具係へ 支える土台として」 - 中日新聞 2011年12月3日付夕刊 10面
  2. ^ a b c d e 清原氏、26年前の“跳び蹴り事件”を平沼氏に謝罪”. スポーツ報知. 2016年2月16日時点のオリジナルよりアーカイブ。2015年10月11日閲覧。
  3. ^ 平沼はバット投げ事件に関する出演オファーは断っていたものの清原がどうしても謝罪したいとのことで出演を快諾したとのこと。
  4. ^ 清原容疑者バット投げ因縁の平沼氏 26年ぶりテレビ謝罪の舞台ウラZakzak by 夕刊フジ.2016年2月6日
  5. ^ a b c d 立浪和義『負けん気』文芸社、2010年2月20日、150-154頁。ISBN 978-4286088532 

関連項目

外部リンク