「コンスタンティン・フィップス (初代ノーマンビー侯爵)」の版間の差分
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[[ハーロー校]]を経て[[ケンブリッジ大学]][[トリニティ・カレッジ (ケンブリッジ大学)|トリニティ・カレッジ]]で学ぶ<ref name="venn">{{Venn|id=PHPS814CH|name=Phipps, Constantine Henry (Viscount Normanby)}}</ref>。在学中の[[1815年]]には、{{仮リンク|ケンブリッジ・ユニオン・ソサエティ|en|Cambridge Union Society}}の第2代会長を務めた<ref name="venn" />。 |
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[[1825年]]の小説『{{lang|en|''The English in Italy''}}』や『{{lang|en|''Matilda''}}』の作者としてこのころ既に名が知られており、[[1828年]]には『{{lang|en|''Yes and No''}}』を上梓した。 |
2020年6月2日 (火) 11:31時点における版
初代ノーマンビー侯爵 コンスタンティン・フィップス Constantine Phipps, 1st Marquess of Normanby | |
---|---|
ノーマンビー侯 (アルフレッド・ドルセー伯爵画、1840年) | |
生年月日 | 1797年5月15日 |
没年月日 | 1863年7月28日 (満66歳没) |
死没地 | イギリス、ロンドン |
出身校 | ケンブリッジ大学トリニティ・カレッジ |
所属政党 | ホイッグ党 |
称号 |
ガーター勲章勲爵士 (KG) バス勲章勲爵士 (GCB) ロイヤル・ゲルフ勲章勲爵士 (GCH) 枢密顧問官 (PC) |
配偶者 | マリア・リデル |
親族 |
初代マルグレイヴ伯爵 (父) 第2代ノーマンビー侯爵 (子) |
内閣 | 第1次メルバーン内閣 |
在任期間 | 1834年7月 - 1834年11月 |
国王 | ウィリアム4世 |
内閣 | 第2次メルバーン内閣 |
在任期間 | 1839年2月20日 - 1839年8月30日 |
国王 | ヴィクトリア |
内閣 | 第2次メルバーン内閣 |
在任期間 | 1839年8月30日 - 1841年8月30日 |
国王 | ヴィクトリア |
初代ノーマンビー侯爵コンスタンティン・ヘンリー・フィップス(英: Constantine Henry Phipps, 1st Marquess of Normanby, 1797年5月15日 - 1863年7月28日)は、イギリスの政治家、外交官、作家。ガーター勲章勲爵士、バス勲章ナイト・グランド・クロス勲爵士、ロイヤル・ゲルフ勲章ナイト・グランド・クロス勲爵士、枢密顧問官。1838年にノーマンビー侯爵に叙位される前は連合王国貴族の爵位「第2代マルグレイヴ伯爵」で、1831年にマルグレイヴ伯爵を相続する前は儀礼称号の「ノーマンビー子爵」で称された。
経歴
第3代マルグレイヴ男爵ヘンリー・フィップス(後の初代マルグレイヴ伯爵)と妻のマーサ・ソフィア・フィップス(旧姓マリング)の間の長男[1]。父の初代マルグレイヴ伯爵はランカスター公領大臣(Chancellor of the Duchy of Lancaster)・外務大臣・海軍大臣(First Lord of the Admiralty)を務めた軍人・政治家。また伯父に軍人の第2代マルグレイヴ男爵コンスタンティン・フィップスがいる。
ハーロー校を経てケンブリッジ大学トリニティ・カレッジで学ぶ[2]。在学中の1815年には、ケンブリッジ・ユニオン・ソサエティの第2代会長を務めた[2]。
1818年にヨークシャー州スカーブラ選挙区選出の庶民院議員となるが[3][4]、カトリック解放に賛意を示すなど一族の政治方針に異議を唱えて1820年に辞職し[注 1]、以後2年間イタリアに住んだ。帰国後1822年から1826年までノーサンプトンシャー州ハイアム・フェラーズ選挙区選出の庶民院議員を務め[3][5]、政治的なパンフレットや議会での演説によって高い評価を得た。1826年の総選挙ではヨークシャー州マルトン選挙区から庶民院議員に選出され[3][6]、1830年まで務めた。議会ではジョージ・カニングの支持者であった。
1825年の小説『The English in Italy』や『Matilda』の作者としてこのころ既に名が知られており、1828年には『Yes and No』を上梓した。
1831年、父親の死によりマルグレイヴ伯爵を相続し、貴族院議員となる。1832年より1834年までジャマイカの総督(Governor of Jamaica)[7]となり当地に赴任。1834年、第2代メルバーン子爵ウィリアム・ラムの第1次内閣で王璽尚書として入閣[8]。
1835年に発足した第2次メルバーン内閣では当初アイルランド総督(Lord Lieutenant of Ireland)へ任命され[9]、総督在任中の1838年に、「カウンティ・オヴ・ヨークにおけるノーマンビー侯爵」(Marquess of Normanby, in the county of York)に叙位された[10][注 2]。1839年2月に陸軍・植民地大臣となり入閣[11]、同年8月に内務大臣へ転任した。植民地相として彼は、ウィリアム・ホブソンに対してニュージーランドの統治についてイギリス政府の方針を書簡で指示した[12]。
1846年から1852年までフランス駐箚イギリス特命全権大使[13]としてパリへ、1854年から1858年までトスカーナ駐箚イギリス特命全権公使[14]としてフィレンツェへ赴任。1857年に出版されたパリ駐在中の1848年の日記『A Year of Revolution』は、ルイ・ブランとの間で激しい議論を招いた。さらに公職からの引退後にもフランスやイタリアに対する政策について第3代パーマストン子爵ヘンリー・ジョン・テンプルやウィリアム・グラッドストンと衝突した。
1832年に枢密顧問官へ列せられ[2][15]、同年にロイヤル・ゲルフ勲章ナイト・グランド・クロス[2]、1847年にバス勲章ナイト・グランド・クロス[16]、1851年にガーター勲章[17]を授けられた。
1863年にロンドンで死去。66歳。爵位は一人息子のジョージが相続した。
家族
初代レイヴンズワース男爵トマス・リデルの娘マリア・リデル(1798年 - 1882年)と1818年8月12日に結婚した[1]。彼女との間に生まれた息子のジョージは自由党の政治家となり、ノヴァスコシアの総督(Governor of Nova Scotia)・クイーンズランドの総督(Governor of Queensland)・ニュージーランドの総督(Governor of New Zealand)・ヴィクトリアの総督(Governor of Victoria)を務めた[18]。
注釈
- ^ スカーブラ選挙区(定数2)は、ラトランド公爵家とマルグレイヴ伯爵家の強い影響下にあり、両家から議員を一人ずつ出すのが慣例化していた。
- ^ 彼の曾祖母にあたるキャサリン・アンズリー(1681年頃 - 1743年)は、イングランド王ジェイムズ2世の庶子キャサリン・ダーンリーと第3代 アングルシー伯爵ジェイムズ・アンズリーの娘であるが、キャサリン・ダーンリーはアングルシーと離婚後に初代ノーマンビー侯爵ジョン・シェフィールド(後の初代バッキンガムおよびノーマンビー公爵)と再婚している。
出典
- ^ a b Lundy, Darryl. “Constantine Henry Phipps, 1st Marquess of Normanby” (英語). thepeerage.com. 2010年10月11日閲覧。
- ^ a b c d "Phipps, Constantine Henry (Viscount Normanby) (PHPS814CH)". A Cambridge Alumni Database (英語). University of Cambridge.
- ^ a b c Casey, Martin (2009). "PHIPPS, Constantine Henry, Visct. Normanby (1797-1863), of 19 Grosvenor Street, Mdx.". In Fisher, D.R. (ed.). The History of Parliament: the House of Commons 1820-1832 (英語). Cambridge University Press. 2013年5月12日閲覧。
- ^ Rayment, Leigh. “The House of Commons Constituencies Beginning With "S"” (英語). Leigh Rayment's Peerage Page. 2010年11月22日閲覧。
- ^ Rayment, Leigh. “The House of Commons Constituencies Beginning With "H"” (英語). Leigh Rayment's Peerage Page. 2010年11月22日閲覧。
- ^ Rayment, Leigh. “The House of Commons Constituencies Beginning With "M"” (英語). Leigh Rayment's Peerage Page. 2010年11月22日閲覧。
- ^ "No. 18918". The London Gazette (英語). 20 March 1832. 2010年11月22日閲覧。
- ^ "No. 19030". The London Gazette (英語). 5 August 1834. 2010年11月22日閲覧。
- ^ "No. 19263". The London Gazette (英語). 24 April 1835. 2010年11月22日閲覧。
- ^ "No. 19629". The London Gazette (英語). 26 June 1838. 2010年11月22日閲覧。
- ^ "No. 19709". The London Gazette (英語). 22 February 1839. 2010年11月22日閲覧。
- ^ “The Treaty of Waitangi” (英語). Waitangi Tribunal. ワイタンギ審判所. 2010年11月26日閲覧。
- ^ "No. 20633". The London Gazette (英語). 18 August 1846. 2010年11月22日閲覧。
- ^ "No. 21642". The London Gazette (英語). 19 December 1854. 2010年11月22日閲覧。
- ^ Rayment, Leigh. “Privy Counsellors 1679 - 1835” (英語). Leigh Rayment's Peerage Page. 2010年11月26日閲覧。
- ^ "No. 20804". The London Gazette (英語). 10 December 1847. 2010年11月26日閲覧。
- ^ "No. 21184". The London Gazette (英語). 21 February 1851. 2010年11月26日閲覧。
- ^ Bolton, G. C. (1974). "Normanby, second Marquess of (1819 - 1890)". Australian Dictionary of Biography (英語). Canberra: Australian National University. 2010年11月26日閲覧。
- この記事にはアメリカ合衆国内で著作権が消滅した次の百科事典本文を含む: Chisholm, Hugh, ed. (1911). "Normanby, Constantine Henry Phipps, 1st Marquess of". Encyclopædia Britannica (英語). Vol. 19 (11th ed.). Cambridge University Press. p. 748-749.
外部リンク
- Hansard 1803–2005: contributions in Parliament by Mr Constantine Phipps
- Constantine Henry Phipps, 1st Marquess of Normanby (1797-1863) ナショナル・ポートレート・ギャラリー
- “1ST MARQUESS OF CONSTANTINE HENRY PHIPPS NORMANBY (1797–1863)” - Online 1911 Encyclopedia Britannica
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