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スミスは[[ホイッグ党 (イギリス)|ホイッグ党]]所属で中道派であり、最初は{{仮リンク|1679年3月イングランド総選挙|en|March 1679 English general election|label=1679年2月}}に{{仮リンク|ラガーシャール選挙区|en|Ludgershall (UK Parliament constituency)}}で[[庶民院 (イギリス)|庶民院]]議員に当選したが、同年8月の選挙では敗れた。{{仮リンク|1681年イングランド総選挙|en|1681 English general election}}でも立候補、2選挙区で当選したが、片方の代表となることを選ぶ前に議会が解散された。1689年、ラガーシャール選挙区で再び当選した<ref name="HOP">{{HistoryofParliament|1660| url = https://www.historyofparliamentonline.org/volume/1660-1690/member/smith-john-1656-1723 | title= SMITH, John (c.1656-1723), of South Tidworth, Hants.|last=Ferris |first=John P | accessdate = 25 November 2018}}</ref>。 |
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1691年12月15日の補欠選挙で{{仮リンク|ベア・アルストン選挙区|en|Bere Alston (UK Parliament constituency)}}の議員になり、1694年に下級大蔵卿に任命され、1695年5月23日に[[枢密院 (イギリス)|枢密顧問官]]に任命された。{{仮リンク|1695年イングランド総選挙|en|1695 English general election}}と{{仮リンク|1698年イングランド総選挙|en|1698 English general election}}では{{仮リンク|アンドーヴァー選挙区|en|Andover (UK Parliament constituency)}}から出馬して当選、1699年6月2日には[[財務大臣 (イギリス)|財務大臣]]に任命された。{{仮リンク|1701年1月イングランド総選挙|en|January 1701 English general election}}で再選したが、議会における勢力再編を受けて1701年3月27日に財務大臣を辞任した。続く{{仮リンク|1701年11月イングランド総選挙|en|November 1701 English general election}}、{{仮リンク|1702年イングランド総選挙|en|1702 English general election}}、{{仮リンク|1705年イングランド総選挙|en|1705 English general election}}で再選を果たし、1705年の選挙の後に{{仮リンク|庶民院議長 (イギリス)|en|Speaker of the House of Commons (United Kingdom)|label=庶民院議長}}に選出された。1706年にはスコットランドとの合同交渉を担当するイングランド代表の1人になった。[[合同法 (1707年)|1707年合同法]]の成立に伴い、スミスはイングランド庶民院最後の議長で、グレートブリテン庶民院最初の議長となった。[[1708年イギリス総選挙]]で再選した後、1708年4月22日に財務大臣に任命されるとともに庶民院議長を辞任した。その後、議会解散に伴い1710年8月11日に財務大臣を辞任、[[1710年イギリス総選挙]]で再選した後に{{仮リンク|財務省出納官|en|Teller of the Receipt of the Exchequer}}に任命された。[[1713年イギリス総選挙]]では自身が政府の統制下に置かれているとの指摘に怒り立候補しなかった。1714年、財務省出納官に再任、以降1723年に死去するまで務めた<ref name="HOP2">{{HistoryofParliament|1690|url = https://www.historyofparliamentonline.org/volume/1690-1715/member/smith-john-i-1655-1723 | title= SMITH, John I (c.1655-1723), of South Tidworth |last=Watson |first=Paula |last2=Wynne |first2=Sonya |accessdate = 25 November 2018}}</ref>。 |
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=== 死去 === |
=== 死去 === |
2020年6月2日 (火) 11:42時点における版
ジョン・スミス(英語: John Smith、1656年 – 1723年10月2日)は、イギリスの政治家。1678年から1707年までイングランド庶民院議員を、1707年から1723年までグレートブリテン庶民院議員を務め、庶民院議長や財務大臣を歴任した。
生涯
初期の経歴
テッドワース・ハウスのジョン・スミスとメアリー・ライト(Mary Wright、サー・エドマンド・ライトの娘)の四男(ただし、ジョン以外は全員成人せず)として生まれた。姉アンは庶民院議員でロンドン市長のサー・サミュエル・ダッシュウッドと結婚した。1672年5月18日にオックスフォード大学セント・ジョンズ・カレッジに入学、1674年にミドル・テンプルに入った[1]。1679年9月1日、初代準男爵サー・ニコラス・スチュワードの娘アンと結婚したが、アンが1680年に死去した。1683年11月7日、第2代準男爵トマス・ストリックランドの娘アンと再婚した。1690年に父が死去すると遺産を継承、1692年には叔父トマス・スミスの財産も継承した。
政歴
スミスはホイッグ党所属で中道派であり、最初は1679年2月にラガーシャール選挙区で庶民院議員に当選したが、同年8月の選挙では敗れた。1681年イングランド総選挙でも立候補、2選挙区で当選したが、片方の代表となることを選ぶ前に議会が解散された。1689年、ラガーシャール選挙区で再び当選した[2]。
1691年12月15日の補欠選挙でベア・アルストン選挙区の議員になり、1694年に下級大蔵卿に任命され、1695年5月23日に枢密顧問官に任命された。1695年イングランド総選挙と1698年イングランド総選挙ではアンドーヴァー選挙区から出馬して当選、1699年6月2日には財務大臣に任命された。1701年1月イングランド総選挙で再選したが、議会における勢力再編を受けて1701年3月27日に財務大臣を辞任した。続く1701年11月イングランド総選挙、1702年イングランド総選挙、1705年イングランド総選挙で再選を果たし、1705年の選挙の後に庶民院議長に選出された。1706年にはスコットランドとの合同交渉を担当するイングランド代表の1人になった。1707年合同法の成立に伴い、スミスはイングランド庶民院最後の議長で、グレートブリテン庶民院最初の議長となった。1708年イギリス総選挙で再選した後、1708年4月22日に財務大臣に任命されるとともに庶民院議長を辞任した。その後、議会解散に伴い1710年8月11日に財務大臣を辞任、1710年イギリス総選挙で再選した後に財務省出納官に任命された。1713年イギリス総選挙では自身が政府の統制下に置かれているとの指摘に怒り立候補しなかった。1714年、財務省出納官に再任、以降1723年に死去するまで務めた[3]。
1715年イギリス総選挙と1722年イギリス総選挙ではイースト・ロウ選挙区で当選したが、財務省出納官の官職以外は一議員として活動し、大臣職につくことはなかった[4]。
死去
1723年10月2日に死去、サウス・ティッドワースの旧教会に埋葬された。2人目の妻との間でメアリー、アン、トマスなど4男3女をもうけており、うち長男トマスはホイッグ党所属の庶民院議員になった。
脚注
- ^ Foster, Joseph. “'Smith-Sowton', in Alumni Oxonienses 1500-1714, ed. Joseph Foster (Oxford, 1891), pp. 1368-1394” (英語). British History Online. 28 November 2018閲覧。
- ^ Ferris, John P (1983). "SMITH, John (c.1656-1723), of South Tidworth, Hants.". In Henning, B. D. (ed.). The House of Commons 1660-1690 (英語). The History of Parliament Trust. 2018年11月25日閲覧。
- ^ Watson, Paula; Wynne, Sonya (2002). "SMITH, John I (c.1655-1723), of South Tidworth". In Hayton, David; Cruickshanks, Eveline; Handley, Stuart (eds.). The House of Commons 1690-1715 (英語). The History of Parliament Trust. 2018年11月25日閲覧。
- ^ Cruickshanks, Eveline (1970). "SMITH, John (?1655-1723), of South Tidworth, Hants". In Sedgwick, Romney (ed.). The House of Commons 1715-1754 (英語). The History of Parliament Trust. 2013年5月17日閲覧。
参考文献
- Courtney, William Prideaux (1898). Lee, Sidney (ed.). Dictionary of National Biography (英語). Vol. 53. London: Smith, Elder & Co. p. 77. . In
イングランド議会 (en) | ||
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先代 ウィリアム・アシュバーナム ジョージ・レッグ |
庶民院議員(ラガーシャール選挙区選出) 1679年 同職:トマス・ニール |
次代 トマス・ニール ジョン・ガラード |
先代 ヘンリー・クラーク トマス・ニール |
庶民院議員(ラガーシャール選挙区選出) 1689年 – 1690年 同職:ジョン・ディーン |
次代 ジョン・ディーン トマス・ニール |
先代 サー・フランシス・ドレイク ジョン・スウィンフェン |
庶民院議員(ベア・アルストン選挙区選出) 1691年 – 1695年 同職:ジョン・スウィンフェン 1691年 – 1694年 サー・ヘンリー・ホバート準男爵 1694年 – 1695年 |
次代 ジョン・エルウィル サー・ヘンリー・ホバート準男爵 |
先代 フランシス・ポーレット ジョン・ポレン |
庶民院議員(アンドーヴァー選挙区選出) 1695年 – 1707年 同職:サー・ロバート・スミス 1695年 – 1698年 アンソニー・ヘンリー 1698年 – 1701年 フランシス・シェパード 1701年 – 1707年 |
次代 グレートブリテン議会 |
グレートブリテン議会 | ||
先代 イングランド議会 |
庶民院議員(アンドーヴァー選挙区選出) 1707年 – 1713年 同職:フランシス・シェパード 1707年 – 1708年 ウィリアム・ギドット 1708年 – 1713年 |
次代 ウィリアム・ギドット サー・アンブローズ・クロウリー |
先代 チャールズ・ヘッジス エドワード・ジェニングス |
庶民院議員(イースト・ロウ選挙区選出) 1715年 – 1723年 同職:ジェームズ・ベートマン 1715年 – 1718年 ホレーショ・ウォルポール 1718年 – 1722年 ウィリアム・ラウンズ 1722年 – 1724年 |
次代 モールパス子爵 ウィリアム・ラウンズ |
公職 | ||
先代 チャールズ・モンタギュー |
イングランド財務大臣 1699年 – 1701年 |
次代 ヘンリー・ボイル |
先代 ロバート・ハーレー |
イングランド庶民院議長 1705年 – 1706年 |
次代 グレートブリテン議会 |
先代 イングランド議会 |
グレートブリテン庶民院議長 1707年 – 1708年 |
次代 リチャード・オンズロー |
先代 ヘンリー・ボイル |
グレートブリテン財務大臣 1708年 – 1710年 |
次代 ロバート・ハーレー |
先代 ジェームズ・ヴァーノン |
財務省出納官 1710年 – 1712年 |
次代 マンセル男爵 |
先代 マンセル男爵 |
財務省出納官 1714年 – 1723年 |
空位 次代の在位者 ジョージ・トレビー
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