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「ジョン・ウォード (初代ダドリー=ウォード子爵)」の版間の差分

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== 生涯 ==
== 生涯 ==
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2020年6月2日 (火) 11:56時点における版

初代ダドリー=ウォード子爵ジョン・ウォード英語: John Ward, 1st Viscount Dudley and Ward1704年3月6日1774年5月6日)は、イギリスの貴族、政治家。トーリー党所属。

生涯

ウィリアム・ウォード英語版初代ウォード男爵ハンブル・ウォード英語版の孫[1])とメアリー・グレイ(Mary Grey、ジョン・グレイの娘)の長男として、1704年3月6日に生まれた[2]。1722年春、ケンブリッジ大学キングス・カレッジに入学した[3]

1727年イギリス総選挙トーリー党の候補としてニューカッスル=アンダー=ライン選挙区英語版から出馬して当選、議会で常に野党の一員として投票したが、1734年イギリス総選挙で落選して議席を失った[2]1747年イギリス総選挙では初代ゴア伯爵ジョン・ルーソン=ゴアの派閥への反対運動に参加した[2]

1740年5月21日、親族の第10代ダドリー男爵および第5代ウォード男爵ウィリアム・ウォードが死去すると、ウォード男爵の爵位を継承した[4]

フリーメイソンの一員として、1742年よりイングランド首位グランドロッジ英語版のグランドマスターを務めた[4]

1763年4月21日、ウスターシャーにおけるダドリー=ダドリーのウォード子爵Viscount Dudley and Ward of Dudley)に叙された[4]

1774年5月6日に死去、ヒムリー英語版で埋葬された[4]。息子ジョンが爵位を継承した[4]

家族

1723年12月26日、アンナ・マリア・バウチャー(Anna Maria Bourchier、1725年12月12日没、チャールズ・バウチャーの娘)と結婚[4]、1男をもうけた[1]

  • ジョン(1725年 – 1788年) - 第2代ダドリー=ウォード子爵

1745年1月1日、メアリー・カーヴァー(Mary Carver、1782年5月31日没、ジョン・カーヴァーの娘)と再婚[4]、2男をもうけた[1]

  • ハンブル(1747年3月11日 – ?) - 夭折
  • ウィリアム(1750年 – 1823年) - 第3代ダドリー=ウォード子爵

出典

  1. ^ a b c "Dudley and Ward, Viscount (GB, 1763 - 1833)". Cracroft's Peerage (英語). 2019年10月19日閲覧
  2. ^ a b c Cruickshanks, Eveline (1970). "WARD, John (1704-74), of Sedgley Park, Staffs.". In Sedgwick, Romney (ed.). The House of Commons 1715-1754 (英語). The History of Parliament Trust. 2019年10月19日閲覧
  3. ^ "John WARD (WRT722J)". A Cambridge Alumni Database (英語). University of Cambridge.
  4. ^ a b c d e f g Cokayne, George Edward; Gibbs, Vicary; Doubleday, H. Arthur, eds. (1916). Complete peerage of England, Scotland, Ireland, Great Britain and the United Kingdom, extant, extinct or dormant (Dacre to Dysart) (英語). Vol. 4 (2nd ed.). London: The St. Catherine Press, Ltd. pp. 487–488.
グレートブリテン議会英語版
先代
トマス・ルーソン=ゴア
サー・ウォルター・バゴット英語版
庶民院議員(ニューカッスル=アンダー=ライン選挙区英語版選出)
1727年 – 1734年
同職:バプティスト・ルーソン=ゴア
次代
バプティスト・ルーソン=ゴア
ジョン・ロートン英語版
フリーメイソン
先代
モートン伯爵
イングランド首位グランドロッジ・グランドマスター英語版
1742年 – 1744年
次代
クランストン卿
グレートブリテンの爵位
爵位創設 ダドリー=ウォード子爵
1763年 – 1774年
次代
ジョン・ウォード
イングランドの爵位
先代
ウィリアム・ウォード
ウォード男爵
1740年 – 1774年
次代
ジョン・ウォード