「源氏物語 (1951年の映画)」の版間の差分
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本作は、当時の[[源氏物語]]ブームにあやかって製作され<ref name="悲劇">若井田恆『源氏物語の悲劇』、文芸社、2005年、p.287</ref>、当時の日本映画においては空前の規模で製作を敢行した<ref name="カドカワ">[http://www.kadokawa-pictures.jp/official/genjimonogatari/ 源氏物語]、[[KADOKAWA]]、2015年2月2日閲覧</ref>。[[新藤兼人]]は、原作に最も忠実といわれる[[与謝野晶子訳源氏物語|与謝野晶子の現代語訳]]をもとに、長大な原作を約1年半の物語に脚色し、さらに[[明石の上]]と[[女三宮]]を合体させた「淡路の上」という人物を新たに創出している<ref name="悲劇"/><ref>[http://www.momat.go.jp/FC/NFC_Calendar/2006-04-05/kaisetsu_14.html 源氏物語]、[[東京国立近代美術館フィルムセンター]]、2015年3月3日閲覧</ref>。脚色には、[[谷崎潤一郎]]が監修、[[池田亀鑑]]が校閲、[[紫式部#紫式部学会|紫式部学会]]が後援にあたった。 |
本作は、当時の[[源氏物語]]ブームにあやかって製作され<ref name="悲劇">若井田恆『源氏物語の悲劇』、文芸社、2005年、p.287</ref>、当時の日本映画においては空前の規模で製作を敢行した<ref name="カドカワ">[http://www.kadokawa-pictures.jp/official/genjimonogatari/ 源氏物語]、[[KADOKAWA]]、2015年2月2日閲覧</ref>。[[新藤兼人]]は、原作に最も忠実といわれる[[与謝野晶子訳源氏物語|与謝野晶子の現代語訳]]をもとに、長大な原作を約1年半の物語に脚色し、さらに[[明石の上]]と[[女三宮]]を合体させた「淡路の上」という人物を新たに創出している<ref name="悲劇"/><ref>[http://www.momat.go.jp/FC/NFC_Calendar/2006-04-05/kaisetsu_14.html 源氏物語]、[[東京国立近代美術館フィルムセンター]]、2015年3月3日閲覧</ref>。脚色には、[[谷崎潤一郎]]が監修、[[池田亀鑑]]が校閲、[[紫式部#紫式部学会|紫式部学会]]が後援にあたった。 |
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主演級の俳優の衣裳60組は、[[髙島屋]]の全面協力によって調達し、花の宴のシーンでは30人の女官の衣裳代だけで総予算をオーバーしたという<ref name="カドカワ"/>。 |
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[[1951年]](昭和26年)[[11月1日]]に[[帝国劇場]]で行われた大映創立10周年記念式典で先行上映され、翌日の[[11月2日]]に封切られた<ref name="経営">『占領終結前後の映画産業と大映の企業経営(下)』、立教大学</ref>。本作は当初[[カラー映画|カラー作品]]として構想されたが、技術的な問題でモノクロとなった<ref name="経営"/>。 |
2020年6月16日 (火) 00:00時点における版
源氏物語 | |
---|---|
監督 | 吉村公三郎 |
脚本 | 新藤兼人 |
製作 | 永田雅一 |
出演者 |
長谷川一夫 京マチ子 乙羽信子 木暮実千代 大河内傳次郎 |
音楽 | 伊福部昭 |
撮影 | 杉山公平 |
編集 | 西田重雄 |
製作会社 | 大映京都撮影所 |
配給 | 大映 |
公開 | 1951年11月2日 |
上映時間 | 123分 |
製作国 | 日本 |
言語 | 日本語 |
配給収入 | 1億4105万円[1] |
『源氏物語』(げんじものがたり)は、1951年(昭和26年)11月2日公開の日本映画である。大映製作・配給。監督は吉村公三郎、脚本は新藤兼人。モノクロ、スタンダード、123分。
大映の創立10周年記念映画として、豪華出演者・スタッフで製作した大作映画。紫式部の『源氏物語』の初の映像化作品であり、本作では、桐壺の死と光源氏の幼少期をプロローグとし、26歳頃の源氏を中心とした1年半の物語を描いている[2]。配収は1億4105万円で、1951年度の邦画配収ランキング第1位となった。第25回キネマ旬報ベスト・テン第7位、第5回カンヌ国際映画祭撮影賞受賞。
スタッフ
- 監督:吉村公三郎(近代映画協會)
- 製作:永田雅一
- 企画:松山英夫
- 脚本:新藤兼人(近代映画協會)
- 監修:谷崎潤一郎
- 校閲:池田亀鑑
- 後援:紫式部学會
- 撮影:杉山公平
- 録音:大角正夫
- 照明:加藤庄之丞
- 美術監督:水谷浩
- 音楽監督:伊福部昭
- 風俗考証:江馬務
- 建築考証:藤原義一
- 庭園考証:重森三玲
- 舞楽考証:平安舞楽會
- 衣裳調整:髙島屋
- 特殊撮影:松村禎三、本多省三
- 編集:西田重雄
- 製作主任:橋本正嗣
- 按舞:藤間良輔
- 箏曲:東登美子
- 琵琶:安田旭邦
- 助監督:三隅研次
キャスト
- 光源氏:長谷川一夫
- 播磨入道:大河内傳次郎
- 藤壺:木暮実千代(松竹)
- 葵の上:水戸光子
- 淡路の上:京マチ子
- 紫の上:乙羽信子
- 良成:堀雄二
- 頭中将:本間謙太郎
- 左大臣:菅井一郎(第一協團)
- 右大臣:進藤英太郎
- 御門:小沢栄(俳優座)
- 朧月夜の君:長谷川裕見子
- 桐壷:相馬千恵子
- 桐壷の母:英百合子
- 尼君:瀧花久子
- 弘徴殿女御:東山千栄子(俳優座)
- 惟光:加東大介
- 左馬頭:近衛敏明
- 藤式部丞:小柴幹治
- 僧侶:殿山泰司(近代映画協會)
- 下人:天野一郎
- 僧都:上山草人
- 源氏の従者:石原須磨男
- 朱雀院の御門:筧田浩一
- 源氏の幼少時代:本松一成
- 刺客:清水明、佐々木小二郎
- 下人:由利道夫
- 弘徴殿の命婦:大美輝子、正木隆子
- 典侍:大伴千春
- 藤壺の命婦:橘公子、小松みどり、三星富美子、戸村昌子
- 朧月夜の君の女房:相馬幸子
- 淡路の上の女房:小林叶江、中目順子
- 葵の上の女房:仲上小夜子、高森和子
- 花売りの女:堀さわ子
- 市女笠の女:高原朝子、前田和子
- 紫の上の女房:松岡信江
- 命婦:橘恵美子、瀧のぼる、小柳圭子、大井由貴子、南春恵、富田暁美、富士原比那子、種井信子、児島昌子
- 桐壷の女房:小櫻瑠美
作品解説
本作は、当時の源氏物語ブームにあやかって製作され[3]、当時の日本映画においては空前の規模で製作を敢行した[4]。新藤兼人は、原作に最も忠実といわれる与謝野晶子の現代語訳をもとに、長大な原作を約1年半の物語に脚色し、さらに明石の上と女三宮を合体させた「淡路の上」という人物を新たに創出している[3][5]。脚色には、谷崎潤一郎が監修、池田亀鑑が校閲、紫式部学会が後援にあたった。
主演級の俳優の衣裳60組は、髙島屋の全面協力によって調達し、花の宴のシーンでは30人の女官の衣裳代だけで総予算をオーバーしたという[4]。
1951年(昭和26年)11月1日に帝国劇場で行われた大映創立10周年記念式典で先行上映され、翌日の11月2日に封切られた[6]。本作は当初カラー作品として構想されたが、技術的な問題でモノクロとなった[6]。