長谷川裕見子
表示
はせがわ ゆみこ 長谷川 裕見子 | |
---|---|
本名 | 船越 琴子(ふなこし ことこ) |
生年月日 | 1924年12月8日 |
没年月日 | 2010年7月27日(85歳没) |
出生地 | 東京府東京市麹町区[1](現・東京都千代田区) |
死没地 | 神奈川県足柄下郡湯河原町 |
国籍 | 日本 |
職業 | 女優 |
ジャンル | 映画、テレビドラマなど |
活動期間 | 1950年代 - 1970年代 |
配偶者 | 船越英二(1958 - 2007年) |
著名な家族 |
船越英一郎(長男) 長谷川一夫(叔父) 平野洋子(長女) |
長谷川 裕見子(はせがわ ゆみこ、本名;船越 琴子、1924年12月8日 - 2010年7月27日)は、日本の女優。夫は船越英二。息子は船越英一郎、娘は平野洋子。叔父は長谷川一夫。東京都出身。
来歴・人物
[編集]1924年、飯島まつの次女として誕生。旧制・白百合高等女学校(現・白百合女子大学)を卒業した。祖父・飯島次郎は建設業で名をなした。
長谷川一夫の姪[2]にあたり、長谷川が主宰した劇団・映画会社新演伎座に所属した。映画デビュー作は長谷川主演、大曾根辰夫監督の「遊侠の群れ」(1948年)[3][4]。
1950年代から1960年代にかけ、東映の時代劇映画で活躍。
1958年1月13日、第2回日本映画見本市に出席のため、城戸四郎(松竹社長)、白川由美、宇治みさ子らと共にアメリカ合衆国のニューヨークへ出発。同年2月8日、日本に帰国。当時はまだ海外渡航自由化の前で、大変貴重なニューヨーク訪問となった。同年、俳優の船越英二と結婚、1960年に長男で俳優の英一郎を出産。
女優としての最後の出演作品は、親友であった石井ふく子プロデュースによる東芝日曜劇場「一つだけのいのち」(1974年10月20日放送)であった。その後は神奈川県足柄下郡湯河原町で長女(英一郎の妹)とともに旅館を経営していたが[5]、長女には先立たれてしまった。 他に一般男性の次男もいる。
2010年7月27日午前4時44分、転移性肺癌のため湯河原町の病院で死去した[6]。85歳没。墓所は新宿区正受院。
主な出演作品
[編集]映画
[編集]- 遊侠の群れ(1948年、松竹)
- 傷だらけの男(1950年、東日興業・新演伎座)
- 源氏物語(1951年、大映)
- 関八州勢揃い(1954年、新東宝)
- 隠密若衆(1955年、新東宝)
- 牢獄の花嫁(1955年、東映)
- 御存じ快傑黒頭巾 神出鬼没(1956年、東映)
- 鳳城の花嫁(1956年、東映)- おきぬ 役
- 水戸黄門(1957年、東映京都) - お縫 役
- 大菩薩峠(1957年、東映)- お豊・お浜 役
- 大菩薩峠 第二部(1958年、東映)- お豊 役
- 丹下左膳(1958年、東映)
- 風と女と旅鴉(1958年、東映)- おちか 役
- 旗本退屈男(1958年、東映)
- 国定忠治(1958年、東映)
- 大菩薩峠 完結篇(1959年、東映)- お浜 役
- 新吾十番勝負(1959年 - 1960年、東映)
- 赤穂浪士(1961年、東映)
- 新選組血風録 近藤勇(1963年、東映)
- 新吾番外勝負(1964年、東映)
テレビドラマ
[編集]- 東芝日曜劇場・女と味噌汁(1965年6月20日、TBS) - 桐谷錦子 役
- 渥美清の泣いてたまるか 第25話「お家が欲しいの」(1966年、TBS)
- 肝っ玉かあさん(第1シリーズのみの出演、1968年4月 - 11月、TBS) - 堀川とみ 役
- 東芝日曜劇場・カミさんと私(1959年 - 1972年、TBS)
- 東芝日曜劇場・一つだけのいのち(1974年、TBS) 佐久間良子主演、石井ふく子プロデュース
註
[編集]- ^ 長谷川裕見子 コトバンク 新撰 芸能人物事典 明治~平成 2018年7月9日閲覧。
- ^ 長谷川一夫の後妻・繁の次姉まつが裕見子の母。2013年2月4日NHK総合ファミリーヒストリーによる。
- ^ #外部リンク、「長谷川裕見子」、日本映画データベース、2009年11月18日閲覧。
- ^ 「映画渡世・地の巻 - マキノ雅弘自伝」には「傷だらけの男」でデビューとあるが誤りである。「映画渡世・地の巻 - マキノ雅弘自伝」、マキノ雅弘、平凡社、1977年、p.225.
- ^ “女優、長谷川裕見子さんが死去 片岡千恵蔵らの相手役、船越英一郎さんの母”. MSN産経ニュース. (2010年7月27日). オリジナルの2010年7月30日時点におけるアーカイブ。 2022年10月31日閲覧。
- ^ “元女優の長谷川裕見子さんが死去”. 日本経済新聞 (2010年7月27日). 2020年7月27日閲覧。