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画業では白馬会の[[岡田三郎助]]に師事、[[院展]]などに出品した。[[パリ]]に憧れ留学が夢だったが、義父が小豆相場に失敗して断念。親友の[[劇作家]]・[[小山内薫]]に勧められ、美術学校時代の教授だった[[黒田清輝]]らに聞かされたパリの「[[カフェ]]」のような、文人や画家達が集い芸術談義をできる場所を作りたいと、[[平岡権八郎]]とともに[[1911年]]3月、京橋日吉町(現・[[銀座]]8丁目)に「[[カフェー・プランタン]]」を開業した。プランタンは[[フランス語|仏語]]で[[春]]を意味し、親友小山内が命名した<ref name=be>『[[be (朝日新聞)|朝日新聞be]]』「ことばの旅人」2005年2月5日</ref>。 |
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日本で初めて「[[カフェー]]」と名乗り、[[珈琲]]や洋酒、[[サンドイッチ]]、食事を揃えた。フランスのカフェの給仕は男性であるが、プランタンは女給仕、今でいう[[ウェイトレス]]を置いて人気を得た。従来にない営業形態のため、当初は会費50銭で維持会員を募り会員制としていた。会員には[[森 |
日本で初めて「[[カフェー]]」と名乗り、[[珈琲]]や洋酒、[[サンドイッチ]]、食事を揃えた。フランスのカフェの給仕は男性であるが、プランタンは女給仕、今でいう[[ウェイトレス]]を置いて人気を得た。従来にない営業形態のため、当初は会費50銭で維持会員を募り会員制としていた。会員には[[森鷗外]]、[[永井荷風]]<ref>[http://www.meiji.co.jp/foods/curry/ginza/shinshi/nagaikafu.html 永井荷風|銀座紳士録|銀座カリー|株式会社 明治] 2018年7月9日閲覧</ref>、[[谷崎潤一郎]]、[[岸田劉生]]、[[岡本綺堂]]、[[北原白秋]]、[[島村抱月]]、[[市川左團次 (2代目)|2代目市川左團次]]ら錚々たるメンバーが名を連ね大いに賑わった。店の壁は彼らの落書きで埋まり、店の名物になったという<ref>カフェー・プランタンの様子は『女形半世紀』 [[新日本出版社]] 1991年等、河原崎國太郎(5代目)の多くの著書にも詳しい。</ref>。 |
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カフェー・プランタンは日本第1号のカフェとされ、松山は日本の「事始め」や「飲食文化史」に名前を残すこととなった([[日本における喫茶店の歴史]])<ref>[http://www.agf.co.jp/enjoy/cyclopedia/history/04.html 日本で喫茶店が次々開店|AGF] 2018年7月9日閲覧</ref>。 |
カフェー・プランタンは日本第1号のカフェとされ、松山は日本の「事始め」や「飲食文化史」に名前を残すこととなった([[日本における喫茶店の歴史]])<ref>[http://www.agf.co.jp/enjoy/cyclopedia/history/04.html 日本で喫茶店が次々開店|AGF] 2018年7月9日閲覧</ref>。 |
2020年6月18日 (木) 10:38時点における版
松山 省三(まつやま しょうぞう(せいそう)、1884年9月8日 - 1970年2月2日)は洋画家、カフェー・プランタンの経営者。
来歴・人物
広島県広島市出身。父・渡辺又三郎は広島藩主を務めた浅野氏の荒小姓で伊藤博文の弟子。維新後、代言人から政治家になり市議会議長、第8代広島市長を務めた[1][2][3]。省三は三男であった。
日本中学校を経て東京美術学校(現東京芸術大学)西洋画撰科に入学、1907年卒業(卒業時は渡辺姓。その後、弁護士・松山広居に養子入り)。
リベラリストだった省三は政治家になることを嫌がり、画家になるべく家族を連れて1909年上京。妻・英子は当時妊娠7ヵ月で、上京直後に生まれた長男が後の歌舞伎役者、河原崎国太郎である[4][5]。1909年11月に小山内薫が主宰した自由劇場の公演で、他の美術学校関係者とともに背景画を担当したという[6]。実父は広島市長在職中の1910年7月に病死した。
画業では白馬会の岡田三郎助に師事、院展などに出品した。パリに憧れ留学が夢だったが、義父が小豆相場に失敗して断念。親友の劇作家・小山内薫に勧められ、美術学校時代の教授だった黒田清輝らに聞かされたパリの「カフェ」のような、文人や画家達が集い芸術談義をできる場所を作りたいと、平岡権八郎とともに1911年3月、京橋日吉町(現・銀座8丁目)に「カフェー・プランタン」を開業した。プランタンは仏語で春を意味し、親友小山内が命名した[7]。
日本で初めて「カフェー」と名乗り、珈琲や洋酒、サンドイッチ、食事を揃えた。フランスのカフェの給仕は男性であるが、プランタンは女給仕、今でいうウェイトレスを置いて人気を得た。従来にない営業形態のため、当初は会費50銭で維持会員を募り会員制としていた。会員には森鷗外、永井荷風[8]、谷崎潤一郎、岸田劉生、岡本綺堂、北原白秋、島村抱月、2代目市川左團次ら錚々たるメンバーが名を連ね大いに賑わった。店の壁は彼らの落書きで埋まり、店の名物になったという[9]。
カフェー・プランタンは日本第1号のカフェとされ、松山は日本の「事始め」や「飲食文化史」に名前を残すこととなった(日本における喫茶店の歴史)[10]。
しかし、1923年9月の関東大震災で日吉町のプランタンは焼失。
震災後の一時期、牛込神楽坂に支店を出した。こちらの店は文化人や早大生に特に愛されたという[11]。またかつて大型客船でバーテンをしていたこの店の従業員が、船内用の英文18ページの麻雀の手引書を持っていて、松山がこれに興味を持ち、二代目 市川猿之助に頼んで、市川が上海で買った一組の麻雀牌を店に持ち込んだ[7]。近くに住む広津和郎と佐々木茂索、松井潤子をカフェ2階に呼び、しどろもどろのルールでゲームを始めたのが、麻雀史に於ける日本麻雀の黎明期ープランタン時代の始まり[7]。その後、貿易商で麻雀通の林茂光(鈴木郭郎)が店に出入りするようになり、松山の牌と、この林の指導を受けた菊池寛、濱尾四郎、古川ロッパ、久米正雄らが日本麻雀の基礎を創った[7]。この神楽坂プランタンは日本の「麻雀荘発祥の地」でもある[7]。神楽坂店は震災の翌年から約2年営業。
本店は銀座通りの南金六町に移転したが、1945年3月の建物疎開で取壊された。
第2次世界大戦後は、文春クラブ支配人を務めた。
1970年2月2日、85歳で死去。墓所は調布市明西寺にある。
長男は歌舞伎俳優の5代目河原崎國太郎。孫は俳優の松山英太郎、松山政路、女優の松山梨絵。曾孫は歌舞伎俳優の7代目嵐芳三郎、6代目河原崎國太郎、女優の由夏、俳優の芦田昌太郎、女優の松山愛佳。
脚注
- ^ 自著 『女形半世紀』 新日本出版社 1991年 34頁。(1889年9月-1890年10月議長、1909年9月-1910年7月市長)
- ^ 自著 『河原なでしこ』 理論社 1955年 23頁。
- ^ 『広島県大百科事典<下巻>』 中国新聞社 1982年 508頁。
- ^ 河原崎国太郎著 『河原なでしこ』 23頁。
- ^ 河原崎国太郎著 『演劇とは何か』 ポプラ社 1974年 10、11頁。
- ^ 河原崎国太郎『女形芸談』P257。
- ^ a b c d e 『朝日新聞be』「ことばの旅人」2005年2月5日
- ^ 永井荷風|銀座紳士録|銀座カリー|株式会社 明治 2018年7月9日閲覧
- ^ カフェー・プランタンの様子は『女形半世紀』 新日本出版社 1991年等、河原崎國太郎(5代目)の多くの著書にも詳しい。
- ^ 日本で喫茶店が次々開店|AGF 2018年7月9日閲覧
- ^ 前掲『女形芸談』P272