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「ホトトギス (雑誌)」の版間の差分

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*[[1911年]](明治44年)4月 [[阿部次郎]]『狐火』、[[森田草平]]『御殿女中』。10月 雑誌名を『ホトトギス』とする。碧梧桐編集より離れる。
*[[1911年]](明治44年)4月 [[阿部次郎]]『狐火』、[[森田草平]]『御殿女中』。10月 雑誌名を『ホトトギス』とする。碧梧桐編集より離れる。
*[[1912年]](明治45年)7月 虚子選雑詠欄復活。[[川端龍子]]挿絵を描くようになる。
*[[1912年]](明治45年)7月 虚子選雑詠欄復活。[[川端龍子]]挿絵を描くようになる。
*[[1913年]]([[大正]]2年)3月 [[徳田秋声]]『南国』、虚子俳壇復帰。5月 [[田山花袋]]『椿の花』。6月 [[泉鏡花]]『菎蒻本』。7月 [[正宗白鳥]]『臆病者』。8月 虚子が[[嶋田青峰]]に編集の一切を任せることを表明<ref>秋元(1966):130ページ</ref>。10月 [[森外]]『護持院原の敵討』。11月 [[ジョージ・バーナード・ショー|バーナード・ショー]]『悪魔の弟子』。
*[[1913年]]([[大正]]2年)3月 [[徳田秋声]]『南国』、虚子俳壇復帰。5月 [[田山花袋]]『椿の花』。6月 [[泉鏡花]]『菎蒻本』。7月 [[正宗白鳥]]『臆病者』。8月 虚子が[[嶋田青峰]]に編集の一切を任せることを表明<ref>秋元(1966):130ページ</ref>。10月 [[森外]]『護持院原の敵討』。11月 [[ジョージ・バーナード・ショー|バーナード・ショー]]『悪魔の弟子』。
*[[1914年]](大正3年)4月 [[近松秋江|徳田秋江]]『青草』。[[前田普羅]]、課題選者となる。
*[[1914年]](大正3年)4月 [[近松秋江|徳田秋江]]『青草』。[[前田普羅]]、課題選者となる。
*[[1915年]](大正4年)1月 [[飯田蛇笏]]、[[村上鬼城]]が雑詠欄巻頭を飾る。7月 [[小川未明]]『藪陰』。[[青木月斗]]、課題選者となる。
*[[1915年]](大正4年)1月 [[飯田蛇笏]]、[[村上鬼城]]が雑詠欄巻頭を飾る。7月 [[小川未明]]『藪陰』。[[青木月斗]]、課題選者となる。

2020年6月18日 (木) 10:52時点における版

ホトトギス』は、合資会社ホトトギス社が発行する俳句雑誌1897年明治30年)に正岡子規の友人である柳原極堂が創刊した。夏目漱石小説吾輩は猫である』、『坊っちゃん』を発表したことでも知られる。明治期には総合文芸誌として、大正昭和初期には保守俳壇の最有力誌として隆盛を誇った。

歴史

戦前

戦後

現況

現在のホトトギス社主宰は高浜虚子の曽孫である稲畑廣太郎が務めている。1979年から2013年まで主宰を務めた稲畑汀子はその母で高浜虚子の孫。

ホトトギス社はホトトギス誌以外に書籍も編集・発行しているが、発売元はホトトギス社のものと他の版元のものがある。例えば歳時記は、虚子編「新歳時記」やホトトギス編「ホトトギス新歳時記」を三省堂が発売している。虚子編「新歳時記」は基本的に高濱虚子が編集したものだが、ホトトギス編「ホトトギス新歳時記」は、全国の俳人からホトトギス誌に寄せられた句を元に編集したもの。

ホトトギス社は長年、旧・丸ビルに入居していたが、丸ビルの建て替えのため、三菱ビルに移った。

脚注

  1. ^ 秋元(1966):130ページ
  2. ^ 秋元(1966):134ページ

参考文献

外部リンク