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1924年6月に渡日した。雑誌『日本と極東』({{fr|Japon et Extrême-Orient}}) 上に[[森鷗外]]や[[志賀直哉]]の小説の翻訳を発表した。アグノエルは、立派だが時代遅れの[[小泉八雲|ラフカディオ・ハーン]]の書物や、日本をゲイシャの国とするなどの[[ジャポニスム]]を脱した日本研究を行うべきであると主張した<ref>Marquet (2014) p.50, 邦訳 p.87</ref>。 |
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アグノエルは1932年まで[[日仏会館]]の初代研究員をつとめた<ref>森川(1983) p.42</ref><ref>{{citation|url=http://www.mfj.gr.jp/web/historique/list-chercheurs-ja.html|title=フランス政府から研究員として派遣された人々の一覧表|publisher=[[日仏会館]]|date=2011-08-03}}</ref>。この間、日本本土だけでなく、[[沖縄]]・[[台湾]]・[[朝鮮]]を研究し、さらに[[満州]]や[[中国]]にも渡った。 |
2020年6月18日 (木) 11:59時点における版
モイーズ=シャルル・アグノエル(Moïse Charles Haguenauer[1]、1896年 - 1976年12月24日[2])は、フランスの言語学者、日本学者。セルゲイ・エリセーエフとならんで、第一次世界大戦後のフランスにおける日本研究の中心的な存在だった[3]。主著に『日本文化の起源』(1956)がある。
略歴
アグノエルはカーンに生まれ[2]、高等研究実習院でマルセル・グラネ、アンリ・マスペロ、ポール・ペリオといった世界的な東洋学者に学んだ。また言語学はアントワーヌ・メイエに学んだ[4]。
1924年6月に渡日した。雑誌『日本と極東』(Japon et Extrême-Orient) 上に森鷗外や志賀直哉の小説の翻訳を発表した。アグノエルは、立派だが時代遅れのラフカディオ・ハーンの書物や、日本をゲイシャの国とするなどのジャポニスムを脱した日本研究を行うべきであると主張した[5]。
アグノエルは1932年まで日仏会館の初代研究員をつとめた[6][7]。この間、日本本土だけでなく、沖縄・台湾・朝鮮を研究し、さらに満州や中国にも渡った。
1932年にフランスに戻り、国立東洋語学校の教授に就任した。さらに高等研究実習院第5部門(宗教学)で、渡米したエリセーエフの後任として日本の宗教史、のちに極東(日本と朝鮮)の宗教について教えた。
第二次世界大戦中にはパリを離れたが、1945年にパリに戻り、1947年に日本文化の起源に関する論文によって文学博士の学位を得た[8]。1953年には国立東洋語学校からソルボンヌ大学の教授に移り、日本の言語・文化を教えた。1967年に高等研究実習院を退官した。
1956年に出版された大著『日本文化の起源』(Origines de la civilisation japonaise : introduction à l'étude de la préhistoire du Japon)は、その主要な部分を日本語とアルタイ諸語との比較にさいているが、言語学者の服部四郎による否定的な書評がある[9]。エドウィン・ライシャワーの書評では高く評価しているが[10]、ロイ・アンドリュー・ミラーはライシャワーの書評を含めて批判している[11]。
アグノエルはパリ大学日本高等研究所(IHEJ)の創立に尽力し[12]、1959年にその初代所長に就任した(研究所は1973年以降コレージュ・ド・フランスに所属)。
アグノエルは主に上代から平安時代までの日本文化を研究した。『源氏物語』桐壺帖の翻訳があるが、意図的に極端な逐語訳になっている[13]。
没後に『シャルル・アグノエル選集』[14]全3巻が出版されている。第1巻が言語学、第2巻が宗教・歴史・文学、第3巻が琉球・台湾関係にあてられている。
アグノエルが1930年に沖縄を調査したときのノートが1990年代に発見された[15]。
脚注
- ^ Marquet (2014) p.51, 邦訳 p.87
- ^ a b Rietsch (1977) p.543
- ^ 河合(1994) p.103
- ^ Villard(1988) p.286
- ^ Marquet (2014) p.50, 邦訳 p.87
- ^ 森川(1983) p.42
- ^ フランス政府から研究員として派遣された人々の一覧表, 日仏会館, (2011-08-03)
- ^ 森川(1983) p.44
- ^ 服部(1999) pp.263-272(初出は1957年)
- ^ Edwin Reischauer (1958). “Reviews: Origines de la civilisation japonaise by Charles Haguenauer”. Harvard Journal of Asiatic Studies (21): 202-207. JSTOR 2718632.
- ^ ミラー (1981) pp.18-20
- ^ Japanese Studies, Collège de France
- ^ Roy Andrew Miller (1986). Nihongo: In Defence of Japanese. London: The Athlone Press. p. 112
- ^ Charles Haguenauer (1976-1977). Études choisies de Charles Haguenauer. Leiden: E. J. Brill. ISBN 9004047999
- ^ 森田孟進, フランスにおける琉球関係資料の調査, 琉球大学附属図書館
参考文献
- Christophe Marquet (2014). “Le développement de la japonologie en France dans les années 1920 : autour de la revue Japon et Extrême-Orient”. Ebisu (51): 35-74 .
- クリストフ・マルケ (2014). “雑誌『Japon et Extrême-Orient/日本と極東』と1920年代フランスにおける日本学の萌芽”. 日仏文化 (83): 83-92 .(上の日本語版)
- R.A. ミラー 著、西田龍雄監訳、近藤達夫; 橋本勝; 庄垣内正弘; 樋口康一 訳『日本語とアルタイ諸語』大修館書店、1981年。
- Paul Rietsch (1977). “Book Reviews: Études Choisies de Charles Haguenauer”. Monumenta Nipponica 32 (4): 543-545. JSTOR 2384060.
- Hartmut O. Rotermund (1976). “Necrologie -- Charles Haguenauer (1896-1976)”. École pratique des hautes études, Section des sciences religieuses. Annuaire (85): 29-33 .
- Masako Villard (1988). “Meillet et son disciple japonisant Hagenauer”. Histoire Épistémologie Langage 10 (2): 285-293 .
- 河合満朗「フランスにおける日本研究」『日本研究』第10号、1994年、101-112頁。
- 服部四郎『日本語の系統』岩波文庫、1999年。
- 森川甫「フランスの日本研究」『関西学院大学社会学部紀要』第46号、1983年、39-49頁。