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[[1884年]](明治17年)には、[[小堀政一|小堀遠州]]が作庭した退亨園のある邸宅に隠棲。多くの[[文人]]と[[煎茶道|煎茶会]]・[[書画|書画会]]<ref>山紫水明処書画会(明治11年・1878年5月5日)京都[[鴨川 (淀川水系)|鴨川]]、[[鳩居堂]][[熊谷直行]]主催。天江のほかに[[山中静逸]]・[[宮原易安]]・[[田能村直入]]・[[板倉槐堂]]・[[村瀬雪峡]]らが参加した。 </ref>などを通して交流し文芸にふける。 |
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同世代の[[神山鳳陽]]・[[頼支峰]]、[[漢詩|漢詩人]]の[[村上仏山]]・[[小野湖山]]・[[書家]]の[[巖谷一六]]・[[清]]人[[陳曼寿]]、[[篆刻|篆刻家]]の[[山本竹雲]]・[[小曽根乾堂]]らとも交流した。[[還暦]]の記念に清人画家の[[胡鉄梅]]によって[[肖像画]]が画かれている。 |
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息子の[[江馬章太郎|章太郎]]は[[医学者]]、その子の[[江馬務|務]]は[[歴史学者]]として活躍した。 |
息子の[[江馬章太郎|章太郎]]は[[医学者]]、その子の[[江馬務|務]]は[[歴史学者]]として活躍した。 |
2020年7月3日 (金) 06:23時点における版
江馬 天江(えま てんこう、文政8年11月3日(1825年12月12日) - 明治34年(1901年)3月8日)は書家・漢詩人・医師。幕末から明治期の京都を代表する文人。
略歴
近江国坂田郡中村の下阪篁斎の第6子として生まれる。医学を修めてのち、21歳で仁和寺侍医の江馬榴園の養嗣子となった。大坂に出て緒方洪庵に洋学を学び、梁川星巌に師事し詩文を学び詩作に興じた。幕末維新期になると実兄の板倉槐堂や山中静逸・谷如意などと国事に奔走した。
1868年(明治元年)には東京で明治政府の太政官に出仕するも翌年致仕して京都に戻る。1869年(明治2年)に開校した私塾立命館では、塾長として儒学の講義を担当した。
1884年(明治17年)には、小堀遠州が作庭した退亨園のある邸宅に隠棲。多くの文人と煎茶会・書画会[1]などを通して交流し文芸にふける。
同世代の神山鳳陽・頼支峰、漢詩人の村上仏山・小野湖山・書家の巖谷一六・清人陳曼寿、篆刻家の山本竹雲・小曽根乾堂らとも交流した。還暦の記念に清人画家の胡鉄梅によって肖像画が画かれている。
著作
- 『賞心賛録』
- 『古詩声譜』
- 『退亨園詩鈔』