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[[安政]]6年([[1859年]])、ロシアの東シベリア総督[[ニコライ・ムラヴィヨフ=アムールスキー]]が、自ら軍艦7隻を率いて江戸湾の[[品川 (東京都)|品川]]に来航。樺太全土は露領と威嚇、主張したが、同年7月26日、虎ノ門[[天徳寺 (東京都港区)|天徳寺]]における江戸幕府とムラヴィヨフの会談の席上、幕府は外国事務掛の胤統と[[ |
[[安政]]6年([[1859年]])、ロシアの東シベリア総督[[ニコライ・ムラヴィヨフ=アムールスキー]]が、自ら軍艦7隻を率いて江戸湾の[[品川 (東京都)|品川]]に来航。樺太全土は露領と威嚇、主張したが、同年7月26日、虎ノ門[[天徳寺 (東京都港区)|天徳寺]]における江戸幕府とムラヴィヨフの会談の席上、幕府は外国事務掛の胤統と[[酒井忠毗]]を通してこれを完全に退けた。 |
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安政7年3月3日(1860年3月24日)早朝、[[桜田門外の変]]により、[[大老]][[井伊直弼]]は討たれた。井伊家の行列に襲撃をかけた実行犯の一人、[[有村次左衛門]]が直弼の首級を掲げて現場を離れたが、有村は深手を負っており逃走不能と判断し、遠藤家屋敷の門前で自決を図った。有村は遠藤家藩邸内に収容されたが、同日中に死亡した。たまたま遠藤家の門前であっただけなのだが、これにより”井伊直弼の首級”を遠藤家が入手してしまい、直弼に対しあまり良い感情を持っていなかった胤統ら遠藤家側と、首級の返還を求める井伊家との間で、返還交渉は同日夕方まで押し問答となった。 |
安政7年3月3日(1860年3月24日)早朝、[[桜田門外の変]]により、[[大老]][[井伊直弼]]は討たれた。井伊家の行列に襲撃をかけた実行犯の一人、[[有村次左衛門]]が直弼の首級を掲げて現場を離れたが、有村は深手を負っており逃走不能と判断し、遠藤家屋敷の門前で自決を図った。有村は遠藤家藩邸内に収容されたが、同日中に死亡した。たまたま遠藤家の門前であっただけなのだが、これにより”井伊直弼の首級”を遠藤家が入手してしまい、直弼に対しあまり良い感情を持っていなかった胤統ら遠藤家側と、首級の返還を求める井伊家との間で、返還交渉は同日夕方まで押し問答となった。 |
2020年7月5日 (日) 05:31時点における版
時代 | 江戸時代後期 - 明治時代 |
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生誕 | 寛政5年11月22日(1793年12月24日) |
死没 | 明治3年9月25日(1870年10月19日) |
改名 | 直之進(幼名)、胤統 |
別名 | 胤緒(別名) |
戒名 | 敬武徳院殿顕文素中大居士 |
墓所 | 東京都台東区西浅草の長敬寺 |
官位 |
従五位下、但馬守、従四位下、民部大輔 中務大輔 |
幕府 | 江戸幕府 若年寄 |
藩 | 近江国三上藩主 |
氏族 | 戸田氏→遠藤氏 |
父母 | 父:戸田氏教、母:猿田氏、養父:遠藤胤富 |
兄弟 | 戸田氏庸、本多助賢、胤統、戸田氏綏 |
妻 |
正室:遠藤胤富の娘・恭寿院 継室:藤堂高嶷の娘 側室:小谷氏、平松氏 |
子 |
花風院、娘(最上義昶正室)、亀若、胤城、 唯楽院、欽哉、娘(遠藤胤昌正室) 養子:胤昌 |
遠藤 胤統(えんどう たねのり)は、近江三上藩の第5代藩主。三上藩遠藤家10代。江戸幕府の若年寄を務めた。
経歴
寛政5年(1793年)11月22日、美濃大垣藩の第7代藩主・戸田氏教の三男として江戸呉服橋の戸田屋敷で生まれる。享和元年(1801年)12月8日、三上藩の第4代藩主・遠藤胤富の養子となる。文化6年5月15日、将軍徳川家斉に拝謁する。文化8年(1811年)6月23日に胤富が病で隠居したため家督を継ぎ、12月11日に従五位下・但馬守に叙位・任官する。
文化9年(1812年)2月3日に江戸城田安門番に任じられ、4月17日に日光祭祀奉行に任じられる。その後も大坂城青屋口加番、江戸城馬場先御門守衛、大坂城雁木坂加番、大坂城玉造口定番など諸役を歴任した。
天保8年(1837年)の大塩平八郎の乱の際には玉造口定番を務めていた。京橋口定番は米倉昌寿であったがまだ着任していなかったため、胤統が両口の守備を兼務し、大坂城代土井利位の下で鎮圧に功績を挙げた。大久保忠真、松平乗寛、水野忠邦の三老中連署の感状が贈られ、将軍家斉からは鞍鐙が下賜された。
第11代将軍・徳川家斉と第12代将軍・家慶の双方から信を受けて天保12年(1841年)8月10日、若年寄に任じられ、嘉永4年(1851年)まで10年間務めた。嘉永5年(1852年)12月25日、江戸城御勝手掛および西ノ丸造営奉行、海岸防御筋御用掛を命じられ、2000石の加増を受けて領地は計1万2000石となる。
幕末期の幕政にも参与し、徳川将軍家の諸大名との婚姻の事務関係の処理を務め、ロシアとの領土交渉や、第14代将軍・徳川家茂と和宮の婚姻をまとめる功も挙げている。和宮の関東御下向の際には、婚姻大礼御用掛を勤めた。
安政元年(1854年)内海台場築造用掛(お台場)を命じられ、万延元年(1860年)4月15日には城主格に任じられ、本丸造営御用掛に就任、5月には国益主法御用掛、外国貿易筋御用掛に就任した。
安政6年(1859年)、ロシアの東シベリア総督ニコライ・ムラヴィヨフ=アムールスキーが、自ら軍艦7隻を率いて江戸湾の品川に来航。樺太全土は露領と威嚇、主張したが、同年7月26日、虎ノ門天徳寺における江戸幕府とムラヴィヨフの会談の席上、幕府は外国事務掛の胤統と酒井忠毗を通してこれを完全に退けた。
安政7年3月3日(1860年3月24日)早朝、桜田門外の変により、大老井伊直弼は討たれた。井伊家の行列に襲撃をかけた実行犯の一人、有村次左衛門が直弼の首級を掲げて現場を離れたが、有村は深手を負っており逃走不能と判断し、遠藤家屋敷の門前で自決を図った。有村は遠藤家藩邸内に収容されたが、同日中に死亡した。たまたま遠藤家の門前であっただけなのだが、これにより”井伊直弼の首級”を遠藤家が入手してしまい、直弼に対しあまり良い感情を持っていなかった胤統ら遠藤家側と、首級の返還を求める井伊家との間で、返還交渉は同日夕方まで押し問答となった。
万延元年(1860年)7月、老齢を理由に諸役を免ぜられたが、文久元年(1861年)4月16日、軍制用掛・陸海軍備向に任じられた。7月15日に従四位下に昇叙され、7月19日には民部大輔に遷任された。この官位は1万石クラスの大名としては異例の高位である。
文久3年(1863年)10月7日、老齢を理由に隠居を許され、家督を三男の胤城に譲って引退した。それでもなお、元治元年(1864年)12月19日には中務大輔に遷任するなど、幕府の信は厚かった。
明治3年(1870年)9月25日に死去。享年78。
家系・血筋
遠藤家は東氏の末裔であるとされる譜代格大名であるが、胤統自身は
という流れで、家康の男系7世孫に当たる。
戸田家は、郡上藩時代の遠藤家に戸田氏信の娘が嫁ぎ、氏信の息子の戸田氏西が甥の遠藤常春とその子常久を後見し、常久が夭逝して無嗣改易となった後に、遠藤胤親を当主として三上藩主遠藤家として再興された際、旗本の子であった胤親を一旦氏西の次男戸田氏成(大垣新田藩主)の養子とした上で遠藤家の養子とした、など多重の縁がある。