「金沢電気軌道ED1形電気機関車」の版間の差分
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同社はまず[[1920年]](大正9年)8月1日に自社線と接続する西金沢(後の[[白菊町駅|白菊町]]) - [[野町駅|野町]] - 野々市間を開業していた馬車鉄道の金野鉄道を合併<ref name="RP701-81">[[#rp701-81_90|『鉄道ピクトリアル』第701号 p.81]]</ref>、続いて[[1923年]](大正12年)5月1日に旧金野鉄道線区間と野町で接続する石川鉄道(新野々市(後の[[西金沢駅|新西金沢]]) - [[鶴来駅|鶴来]]間を開業)を合併<ref name="RP701-81" />し、これらを合わせて石川線とした<ref name="RP701-81" />。さらに[[1929年]](昭和4年)6月17日には、不況で運転資金がショートした金名鉄道(後の[[北陸鉄道金名線]])から同社線の一部(鶴来 - 神社前(後の[[加賀一の宮駅|加賀一の宮]])間。この時点では非電化)を譲受し、その手中に収めた<ref name="RP701-82" />。 |
同社はまず[[1920年]](大正9年)8月1日に自社線と接続する西金沢(後の[[白菊町駅|白菊町]]) - [[野町駅|野町]] - 野々市間を開業していた馬車鉄道の金野鉄道を合併<ref name="RP701-81">[[#rp701-81_90|『鉄道ピクトリアル』第701号 p.81]]</ref>、続いて[[1923年]](大正12年)5月1日に旧金野鉄道線区間と野町で接続する石川鉄道(新野々市(後の[[西金沢駅|新西金沢]]) - [[鶴来駅|鶴来]]間を開業)を合併<ref name="RP701-81" />し、これらを合わせて石川線とした<ref name="RP701-81" />。さらに[[1929年]](昭和4年)6月17日には、不況で運転資金がショートした金名鉄道(後の[[北陸鉄道金名線]])から同社線の一部(鶴来 - 神社前(後の[[加賀一の宮駅|加賀一の宮]])間。この時点では非電化)を譲受し、その手中に収めた<ref name="RP701-82" />。 |
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こうした相次ぐ合併や路線の譲受、そして1929年9月14日の旧金名鉄道線区間の電化完成<ref name="RP701-82" />などにより、金沢電気軌道は市内線と野町で接続し、[[鶴来町]]の中心地に位置した鶴来を経て神社前に至る、つまり金沢市内と旧[[加賀国]]の[[一宮]]である[[白山比咩神社]]を直結する参宮路線を形成するに至った。 |
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だが、後の北陸鉄道時代に金名線、それに[[鶴来駅|鶴来]]より分岐する[[北陸鉄道能美線|能美線]]と合わせて石川総線と総称されることとなるこの路線には、石川線沿線の貨物需要に加え、神社前で接続する金名鉄道線沿線から全国へ送り出させる木材<ref name="RP461-135">[[#rp461-135_140|『鉄道ピクトリアル』第461号 p.135]]</ref>をはじめとする産品の輸送や、能美線との間での[[九谷焼]]の原材料・製品輸送といった産業鉄道としての性格、それに金名鉄道沿線を流れる[[手取川|手取水系]]の電源開発のための資材輸送鉄道としての性格も備わっていて<ref name="RP461-135" />、旺盛な貨物需要が存在した。 |
だが、後の北陸鉄道時代に金名線、それに[[鶴来駅|鶴来]]より分岐する[[北陸鉄道能美線|能美線]]と合わせて石川総線と総称されることとなるこの路線には、石川線沿線の貨物需要に加え、神社前で接続する金名鉄道線沿線から全国へ送り出させる木材<ref name="RP461-135">[[#rp461-135_140|『鉄道ピクトリアル』第461号 p.135]]</ref>をはじめとする産品の輸送や、能美線との間での[[九谷焼]]の原材料・製品輸送といった産業鉄道としての性格、それに金名鉄道沿線を流れる[[手取川|手取水系]]の電源開発のための資材輸送鉄道としての性格も備わっていて<ref name="RP461-135" />、旺盛な貨物需要が存在した。 |
2020年7月13日 (月) 20:21時点における最新版
金沢電気軌道ED1形電気機関車 | |
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北陸鉄道ED20形ED201、鶴来にて | |
基本情報 | |
運用者 | 金沢電気軌道→北陸鉄道 |
製造所 | 木南車輌製造 |
製造年 | 1938年 |
製造数 | 1両 |
主要諸元 | |
軸配置 | Bo - Bo |
軌間 | 1,067 mm (狭軌) |
電気方式 | 直流600V(架空電車線方式) |
全長 | 11,136 mm |
全幅 | 2,540 mm |
全高 | 3,950 mm |
運転整備重量 | 29.3t |
台車 | 住友金属工業KS30L |
動力伝達方式 | 1段歯車減速吊り掛け式 |
主電動機 | 直流直巻電動機 ウェスティングハウス・エレクトリックWH-558J × 4基 |
主電動機出力 | 74.6 kW (600V定格) |
歯車比 | 3.45 |
制御方式 | 抵抗制御、直並列2段組合せ制御 |
制御装置 | 電磁空気単位スイッチ式 HL-846D改 |
制動装置 | M自動空気ブレーキ |
定格出力 | 298.4 kW |
定格引張力 | 2,450 kg |
備考 | 諸元は1962年の改造後のもの |
金沢電気軌道ED1形電気機関車(かなざわでんききどうED1がたでんききかんしゃ)は、金沢電気軌道(後の北陸鉄道金沢市内線の経営母体)が保有した電気機関車の1形式。
概要
[編集]側窓が多く比較的大型の乗務員室を備える20t級凸型電気機関車である。
石川県下の鉄軌道の戦時統合により北陸鉄道ED20形となった後、車体延長や台車、主電動機、それに制御器の交換などを経て実質30t級となり、冬期の石川線で使用する除雪用機関車として現存する。
前後に背の低い機器室(ボンネット)を置き、中央に側窓の多い乗務員室を備える、戦前の南海鉄道に多数在籍した独特な形状の凸型電気機関車の様式を今に伝える、いわゆる南海型機関車の1例[1]として希少な存在であり、また木南車輌製造製電気機関車として唯一の現存例[2]でもある[注 1]。
製造経緯
[編集]元々城下町金沢の市内電気軌道建設を目的として創設され、配電事業も併せて行っていた[8]金沢電気軌道は、市内線の第1期線を開業して間もない頃から、その事業規模の拡大に乗り出すようになった。
同社はまず1920年(大正9年)8月1日に自社線と接続する西金沢(後の白菊町) - 野町 - 野々市間を開業していた馬車鉄道の金野鉄道を合併[9]、続いて1923年(大正12年)5月1日に旧金野鉄道線区間と野町で接続する石川鉄道(新野々市(後の新西金沢) - 鶴来間を開業)を合併[9]し、これらを合わせて石川線とした[9]。さらに1929年(昭和4年)6月17日には、不況で運転資金がショートした金名鉄道(後の北陸鉄道金名線)から同社線の一部(鶴来 - 神社前(後の加賀一の宮)間。この時点では非電化)を譲受し、その手中に収めた[8]。
こうした相次ぐ合併や路線の譲受、そして1929年9月14日の旧金名鉄道線区間の電化完成[8]などにより、金沢電気軌道は市内線と野町で接続し、鶴来町の中心地に位置した鶴来を経て神社前に至る、つまり金沢市内と旧加賀国の一宮である白山比咩神社を直結する参宮路線を形成するに至った。
だが、後の北陸鉄道時代に金名線、それに鶴来より分岐する能美線と合わせて石川総線と総称されることとなるこの路線には、石川線沿線の貨物需要に加え、神社前で接続する金名鉄道線沿線から全国へ送り出させる木材[10]をはじめとする産品の輸送や、能美線との間での九谷焼の原材料・製品輸送といった産業鉄道としての性格、それに金名鉄道沿線を流れる手取水系の電源開発のための資材輸送鉄道としての性格も備わっていて[10]、旺盛な貨物需要が存在した。
もっとも、電化当初の石川鉄道線には動力車が電動客車しか在籍しておらず、これらが鉄道省払い下げあるいは自社発注による貨車を牽引する形態で貨物輸送が実施されており、それは金沢電気軌道への合併後も踏襲されていた[11]。
しかし、1930年代中盤に自社保有貨車の増備が実施[12]されて貨車数が増えたことなどから、本格的な電気機関車新造の必要性が生じた。そこで、金沢電気軌道は石川線向けとして堺市の木南車輌製造に電気機関車1両を発注した[1]。
この機関車は1938年(昭和13年)3月24日認可[1]でED1形ED1として竣工し、金沢電気軌道が所有した唯一の電気機関車[13]となった[注 2]。
その後、配電事業者でもあった金沢電気軌道は1941年8月1日に北陸合同電気に吸収合併され[8]、その後、国策による配電事業者の統合と配電事業者の兼業禁止で旧金沢電気軌道の鉄軌道部門が独立、初代の北陸鉄道となった[8]。
さらに、石川県下の私鉄各社の戦時統合により1943年10月13日に2代目北陸鉄道が発足[8]、1949年(昭和29年)10月1日の一斉改番[1]で本形式は自重が20t級[1]のD型機であったことに由来するED20形ED201に改称された[2]。
つまり、この間の車籍の変遷は以下の通りとなる。
- 金沢電気軌道ED1形ED1(1938年3月24日~1941年7月31日)
→北陸合同電気ED1形ED1(1941年8月1日~1942年1月26日)
→北陸鉄道(初代)ED1形ED1(1942年1月27日~1943年10月12日)
→北陸鉄道(2代)ED1形ED1(1943年10月13日~1949年9月30日)
→北陸鉄道ED20形ED201(1949年10月1日~)
車体
[編集]端梁に自動連結器を備える長さ9.4m[14]の台枠中央に半鋼製の運転室を置き、その前後にリベット組立の機器室を置く凸型車体で、窓配置は3d(d:乗務員扉)である。新造時には妻窓を横引き式で開閉可能な4枚構成[15]としている。
運転台は車体中央に制御器を置き、乗務員は横向きに座って操作を行う構造[1]であり、側窓は下降式となっていて開閉可能である。
前照灯は機器室中央の点検用ハッチの前に台座を組んで灯具が固定されており[注 3]、尾灯は台枠端梁に灯具を取り付けて使用する。
後述するように直接制御式の抵抗制御車として製造された本形式の場合、電気車保守の上で重要な電動機は台車内、制御器は運転室内の設置となり、また抵抗器は放熱の必要もあって床下に装架されるため、竣工当初の各機器室には空気圧縮機と空気溜を設置するのみで、非常にコンパクトにまとめられている[注 4]。
この車体は製造当時南海鉄道が保有していた同級電気機関車、特に当時最新のEF5形5121・5122[注 5]などの車体を、南海沿線の新興車両メーカーであった木南車輌製造がスケッチして製作したもの[注 6]の一つである。南海鉄道では1916年(大正5年)に大阪高野鉄道が自社工場で製造した電2形に範を採って1922年(大正11年)に日本車輌製造本店で製造した電機第1号形1001 - 1004[20][注 7]を皮切りに、沿線の梅鉢鉄工場や藤永田造船所、木南車輌製造、それに自社天下茶屋工場で貨物列車牽引用として凸型電気機関車を多数製造[21]、吸収合併した大阪高野鉄道からの編入車(電2形1 - 5→電機第4号形1016 - 1020[22])を含め、本形式製造の時点で25両を運用していた[18]。
本形式については、これと前後して同じ木南車輌製造で製作された姉妹車である富岩鉄道ロコ1形や渥美電鉄ED1と共に、同様の構成の車体を備えて1939年(昭和14年)2月に竣工した南海鉄道EF1形5123・5124[注 8]が製造された際に発生した、旧EF1形5071・5072のいずれかの台枠が流用され、これに5121・5122と同様式で製造した車体を載せた可能性[3]が存在する。
主要機器
[編集]制御器
[編集]ゼネラル・エレクトリック(GE)社製K-38直接制御器を搭載する[24]。GE K-38は大阪高野鉄道電2形に採用され[16]、大阪市電気局など日本の電気軌道各社局で多数が輸入・採用された実績のある、初期の路面電車用直接制御器を代表する機種の一つである。
もっとも、許容電流量の問題から、これは特に100馬力以上の定格出力の電動機を4基装架する電気機関車で使用するにはやや荷が重かったらしく[18][注 9]、南海鉄道でこれを搭載した電気機関車では故障が頻発したという[18][注 10]。こうしたことからGE K-38制御器は本形式の竣工当時、電5形電車の制御器を電空カム軸式のPC-14Aへ換装した際[26]に発生したウェスティングハウス・エレクトリック(WH)社製HL151-D-2制御器[25]を2両分(2組)運転台に搭載して並列で総括制御動作させるように自社で改造した[注 11]、HL-N電磁単位スイッチ式手動加速制御器への換装[18][注 12]で徐々に淘汰が進みつつあった。
主電動機
[編集]本形式製作当時の南海鉄道で余剰を来していたものを流用したと考えられる、WH社製WH-101-H[注 13]を各台車2基ずつ吊り掛け式で装架している。歯数比は69:15である[28]。この電動機は元々南海鉄道が電化時に新造した電第壱號形1 - 24[注 14]や電第弐號形101 - 112[注 15]などに装着されていたもので、本形式が製造された時期の南海鉄道では、より強力な電動機への新製交換と併せて、老朽化等で処分する車両にこれより強力な電動機が付いていた場合に今後も継続使用する車両に装架されているWH-101-Hとこれを交換する、譲渡車に装着の電動機をこれと振り替えて送り出す、あるいは単純にWH-101-H搭載車を電装解除して制御車化する、といった手法で社内的な淘汰が順次進められていた[31][注 16]。そのため木南車輌製造が本形式と前後して製作した同系凸型電気機関車は、全て入手の容易なこの電動機を装架して出荷され[3]、同様に南海鉄道で廃車手続き後、木南車輌製造で鋼体化改造を施した上で1934年(昭和9年)に大阪窯業セメントへ譲渡した電機第4号形1020[注 17]についても、大阪高野鉄道電2形時代以来のGE社製GE-218-B(端子電圧600V時一時間定格出力52.0kW[34])からこのWH-101-Hへ主電動機を振り替えた後で送り出されている[33][35]。
台車
[編集]竣工時には、軸距1,372mmの軸ばね台車であるJ.G.ブリル社製[注 18]Brill 27GE1を動揺防止を目的として改造[37]したものが装着されている。
具体的には、本来の27GE1では線路方向に沿って置かれた重ね板ばねによる枕ばねを、前後端に接続された釣り合いばねによって懸架していた[3]が、これを後継の27Eと同様、新製した鍛造品の梁を線路方向に沿って置き、これを釣り合いばねで懸架した[3]上で、これら左右の梁を下揺れ枕と結合してH字状に組み立てたもの[3]の上に、まくら木方向に重ね板ばね(楕円ばね)を配することで車体の左右方向の揺動特性の改善を図っている[3]。つまりこの改造は実質的には27GE1の27E化[38]と言えるが、鍛造側枠そのものは無改造のため、短軸距かつ主電動機を外掛けという路面電車向け台車並の構造・基本寸法には変化はない[39]。
このBrill 27GE1は南海鉄道電1形と大阪高野鉄道電第1形[40]、それに大阪髙野鉄道電2形に装着された台車であり[41]、改造後も長く南海線で使用されていた[3]が、本形式製造当時には装着車の鋼体化などに伴う相次ぐ大型化と重量増に対応しきれなかった。そのため、上述のWH-101-H電動機と同様、南海鉄道では電気機関車を含めて[23]代替用台車の新造と複雑な振り替えを経て、順次淘汰が始まっていたもの[42]であった。
ブレーキ
[編集]M三動弁によるAMM自動空気ブレーキ(Mブレーキ)を搭載する[43]。
集電装置
[編集]新造時の石川総線の規格に従い、竣工の時点ではトロリーポール[24]が前後各1基で合計2基、屋根上に設置されている。
運用
[編集]竣工後、北陸合同電気時代の1941年(昭和16年)11月28日に発生した[44]温泉電軌山代車庫の全焼に伴う車両不足に対する応援として、約2年にわたって同社に貸し出されて使用された[13]。1943年(昭和18年)に実施された石川県下に所在する私鉄各社の北陸鉄道への統合後、1949年(昭和24年)10月1日付で実施された一斉改番の際にはED20形ED201へ改番され[24]、その後は他線区へ転出することも無く、専ら石川総線に配置され続けている。
その間、1953年(昭和28年)に非力であった主電動機を他形式の主電動機交換で発生した三菱電機MB-64C[注 19]へ換装、さらに1962年[24][注 20]に自社工場において台枠を中央で切断し部材を挿入することで全長を1.7m延長[24]、これにより前後の機器室を拡大[注 21]、制御器を直接式のGE K-38からWH社製単位スイッチ式手動加速制御器であるHL-846Dを改造したものに交換[24]し、台車と主電動機についてもモハ852の廃車発生品である住友金属工業KS30L鋳鋼製釣合梁式台車[24][注 22]と、それに装架されていたとされるWH社製WH-558-J6[注 23]に交換された。この台車交換→台車の大型化に伴う車体延伸改造は、前述の通り同系車を多数擁した本家である南海鉄道→南海電気鉄道でも戦前から実施されており、また後述の妻窓の2枚窓化改造も戦後の南海電気鉄道で実施されていた。これらの改造により、自重は23.5t[14]から29.3tに増加[43]し、ワンランク上のED301に迫る粘着力が確保されるようになっている[注 24]。
また、集電装置もポールからZ型パンタグラフを経て[24]、北鉄式と称する[43]通常の菱枠型パンタグラフに交換[24][注 25]、車体についても運転中に窓を開けてポール操作を行う必要が無くなったことから、4枚窓構成で開閉可能であった妻窓を2枚ずつまとめてHゴム支持方式の固定窓に改造[24]、これにより運転中の前面からの雪や雨の浸入を防ぎ、さらに降雪時の視界確保のため旋回窓を後日[注 26]追加している。加えて、この時代には前照灯がボンネット上から運転室妻面中央窓上に移設されていることが、残された写真から確認出来る[50][51]。
1976年(昭和51年)4月の貨物営業廃止[52]までは貨物列車牽引の主力としてED301やED311と共に重用された[注 27]が、以後は貨車牽引運用が無くなったため、除雪車として前後に大型スノープロウを装着したまま[注 28]年中待機状態に置かれることとなった[24]。
1986年(昭和61年)には台枠両端梁の自動連結器を撤去して運転台からスノープロウの高さを調節する機構を搭載[24]、1990年には前照灯をシールドビームに交換[24]、併せて除雪作業中の視認性向上を図って尾灯を妻面窓上部に移設する工事も実施されている[24]。
石川線では降雪時の除雪用として、本形式の他により強力なED301も機器更新を受けつつ長く在籍していた[2]が、能美線および金名線の廃止で路線長が短縮された後は、本形式1両で事足りるようになったため、本形式が除雪用として常用されている[53]。
ED301が2010年(平成22年)に除籍されて若桜鉄道隼駅へ保存のため輸送された[54]後は、北陸鉄道唯一の電気機関車となっている。
脚注
[編集]注釈
[編集]- ^ 木南車輌製造による同系車は大阪窯業セメント、富岩鉄道、それに渥美電鉄へ納入されている[3]が、南海鉄道→南海電気鉄道向けに製造されたものを含め、いずれも既に廃車されている。なお、本形式の他に渥美電鉄ED1→名古屋鉄道デキ151→豊橋鉄道デキ151[4]→デキ201[5]が1984年2月の渥美線貨物輸送廃止で廃車された[6]後、伊良湖フラワーパークに保存された[6]が2005年の同パーク閉園後にこれも解体されたため、現存例は本形式が最後となっている。なお、南海型としては戦後に製造された南海最後の電気機関車であるED5201形ED5202(東芝製)がED30 1として三岐鉄道に在籍する[7]が、これは戦前のものとは印象を大きく異にする。
- ^ 竣工図では能美電気鉄道デキ1として記載されているものが存在するが、これは誤記であったとされる[1]。
- ^ これは大阪高野鉄道電2形以来南海鉄道で標準となっていた配置を踏襲したものであった[16]。
- ^ この機器レイアウトも大阪高野鉄道電2形以来のもので、南海鉄道では間接制御式に変更した後継形式でもこのレイアウトを踏襲し続けた[17]。
- ^ 1936年(昭和11年)11月竣工[18]。
- ^ 木南車輌製造はその後、1943年(昭和18年)5月にEF5形5127 - 5129として再度これらの完全なコピー品を製造している[19]。
- ^ 後のEF1形5101 - 5104→ED5101形5101 - 5104[18]
- ^ 元大阪高野鉄道電2形3・4→南海鉄道電機第4号形1018・1019→EF4形1018・1019→EF1形5071・5072の車籍を継承して自社天下茶屋工場で製造された、事実上の完全新造車 [23]。5071・5072と5123・5124の台車や主電動機、制御器などの機器構成や車体寸法の相違から、5123・5124の製作に当たっては5071・5072の部品は何一つ使用されなかった可能性が指摘[3]されている。
- ^ なお、新造時の本形式に装着されたWH-101-Hを直接式制御器で4基制御する構成としていた南海鉄道電1形は、大容量のWH社製WH-403-Dを制御器として搭載している[25]。
- ^ 本形式でも後述するように、後年になってより出力の大きな電動機へ換装が実施された際に、制御器も併せて交換されている[24]。
- ^ この改造そのものは、1936年のEF4形5117 - 5119[18]での施工以来、必要に応じて実施されていたものである。
- ^ 南海では主電動機を強化し両抱き式ブレーキを備える大きな台車を装着するため、9m級の台枠を中央で分割、部材を挿入して11m級に延長する工事を自社天下茶屋工場で実施している[27]。
- ^ 端子電圧500V時1時間定格出力37.3kW[28]。
- ^ 電1形とも。後のモハ1形モハ1 - モハ10・電附第弐號形(電付2形)205 - 207→クハユニ505形クハユニ505 - クハユニ507・電附第参號形(電付3形)208-210→クハユニ505形クハユニ508 - クハユニ510・電附四號形(電付4形)221-226→クハ716形クハ716 - クハ721など[29]。
- ^ 電2形とも。後の電附第八號形(電付8形)704 - 715→クハ704形クハ704 - クハ715[30]。
- ^ 本形式に装架されたものは、時期的にモハ501形501 - 512の電装解除などによる発生品であったと考えられる[32]。
- ^ 大阪窯業セメント→大阪セメント三重工場1。元大阪髙野鉄道電弐形5。[33]
- ^ 大阪高野鉄道2・4・5からの流用の場合は、J.G.ブリル社純正品ではなくそれをデッドコピーした梅鉢鉄工場製となる[36]が、いずれであったかは判明していない。
- ^ 端子電圧600V時1時間定格出力48.5kW/685rpm。歯数比は3.55で、定格引張力は2,360kg、定格速度30.5km/hであった[14]。
- ^ 1960年(昭和35年)6月30日認可で改造が実施されたとする文献も存在する[1]が、後述するモハ852から本形式への台車供出が1962年(昭和37年)に実施されていることから、少なくとも現在装着するKS-30Lへの台車交換は同年に実施された可能性が高い。
- ^ 機器室は元々あった部分を両端に置き、運転室との間に延長用部材を挿入する形で延長されている。当該挿入部分はケーシングが溶接組み立て構造となっているため、外観でもリベット組み立ての既存部分との判別が容易である。またこの改造の際には、抵抗器を鶴来側ボンネットに搭載し[1]これを冷却する必要が生じたことから、延伸部付近の側面に鎧戸状の換気口が設置されている。
- ^ 伊那電気鉄道でKS-30Lを装着していたのはデハ110形とデハ120形の2形式で、モハ852は伊那電気鉄道デハ110に由来する。同車は元来芝浦SE-102を主電動機として装架していて、1962年に台車振り替えを実施している[45]。
- ^ 端子電圧600V時1時間定格出力74.6kW/985rpm[46]。歯数比は3.45[43]。なお、モハ852をデハ110形デハ110として新造した伊那電気鉄道[45]ではこのWH-558-J6はデハ110形ではなく、増備形式であるデハ200形デハ201 - デハ204が装架していたとされ[47]、この電動機がどのような経緯で北陸鉄道へ譲渡されたのかは明らかになっていない。
- ^ もっとも主電動機定格出力はカルダン駆動へ改造される以前のED301と同格の74.6kW級となったが、本来は急行電車用の高速モーター(WH-558-J6は南海鉄道で急行用の電7形に搭載された[25]、設計当時の吊り掛け駆動を行う電車用直流直巻整流子電動機としては異例の高回転仕様[48]のモデルである)を歯数比を落とさないまま流用したこともあり、牽引力はED30形の3,060kg[14]に対して2,450kg[49]と大きく見劣りした。
- ^ 急曲線通過対策の必要から偏倚を考慮して屋根上の一端、ひさしぎりぎりの位置にパンタ台を設置し、パンタグラフが機器室上に突き出すように搭載されている[24]。なお、この位置はZ型パンタグラフへの交換時以来のもので、Z型パンタグラフを取り付けた場合に、集電用のスライダーシューが台車心皿直上に位置するように定められたものであった。なお、Z型パンタグラフへの交換直後には、トロリーポール1基を中央部に残して使用されていた。
- ^ 1966年1月撮影の写真では未装備[50]で、これ以降の追加となる。
- ^ ただし、本形式は通常、小運転や構内入れ替え用を主体に運用されたとされる[51]。なお、大日川ダムおよび大日川第1・第2発電所建設建設工事完了後間もない1968年(昭和43年)3月の石川総線では、これら3両の他にEB12形2両、ED23形1両と合計3両の入替用小型電気機関車が在籍[14]して沿線の主要駅に配置されており、ダム工事以外でも同線の貨物需要が旺盛なものであったことを示している。
- ^ 以前より降雪期には大型スノープロウを装着して除雪用に使用されていた[50]。
出典
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- ^ 『鉄道史料』第49号 pp.35-38
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- ^ 『車両発達史シリーズ5 南海電気鉄道 上巻』 p.132
- ^ 『車両発達史シリーズ5 南海電気鉄道 上巻』 pp.130-131
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- ^ 『レイル』第34号 pp.68-69
- ^ 『鉄道史料』第49号 p.34
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- ^ a b 『釣り掛け電車の響き 鉄道ピクトリアル2000年4月臨時増刊号』 p.86
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- ^ 『鉄道ピクトリアル』通巻771号 pp.174-175
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- ^ 『鉄道ピクトリアル』第845号 p.96
参考文献
[編集]書籍
- 日本車輛製造『日本車輛製品案内 昭和4年(電気機関車)』日本車輛製造、1929年。
- 日本車両鉄道同好部・鉄道史資料保存会『日車の車輌史 図面集-戦前私鉄編 下』鉄道史資料保存会、1996年。ISBN 978-4885400971。
- 日本車両鉄道同好部・鉄道史資料保存会『日車の車輌史 写真集-創業から昭和20年代まで』鉄道史資料保存会、1996年。ISBN 978-4885400988。
- 藤井信夫『車両発達史シリーズ5 南海電気鉄道 上巻』関西鉄道研究会、1996年。
- 藤井信夫『車両発達史シリーズ6 南海電気鉄道 下巻』関西鉄道研究会、1998年。
雑誌
- 「私鉄専用鉄道の電気機関車」『世界の鉄道'69』、朝日新聞社、1968年10月、59 - 105頁。
- 「日本の私鉄及び会社専用線電気機関車諸元表」『世界の鉄道'69』、朝日新聞社、1968年10月、178 - 185頁。
- 「特集・日本のローカル私鉄 北陸鉄道」『世界の鉄道'74』、朝日新聞社、1973年10月、72 - 77頁。
- 「日本の私鉄車両 諸元表」『世界の鉄道'74』、朝日新聞社、1973年10月、174 - 183頁。
- 「特集・日本のローカル私鉄 豊橋鉄道」『世界の鉄道'75』、朝日新聞社、1974年10月、71 - 74頁。
- 「日本の私鉄車両 諸元表」『世界の鉄道'75』、朝日新聞社、1974年10月、158 - 169頁。
- 西敏夫「Brill台車とその特色」『鉄道史料』第28巻、鉄道史資料保存会、1982年10月、17 - 24頁。
- 西敏夫「南海型小型電気機関車の図面について」『鉄道史料』第49巻、鉄道史資料保存会、1988年2月、33 - 39頁。
- 白井昭「特別寄稿 南海阪神電車の初期技術について -西 敏夫氏の最後の便り-」『鉄道史料』第67巻、鉄道史資料保存会、1992年8月、17 - 18頁。
- 今井琢磨「中京・北陸地方のローカル私鉄 現況1 豊橋鉄道」『鉄道ピクトリアル1986年3月臨時増刊号』第461巻、電気車研究会、1986年3月、101 - 108頁。
- 西脇恵「中京・北陸地方のローカル私鉄 現況9 北陸鉄道」『鉄道ピクトリアル1986年3月臨時増刊号』第461巻、電気車研究会、1986年3月、135 - 140頁。
- 田尻弘行・阿部一紀・亀井秀夫「買収国電」『鉄道ピクトリアル2000年4月臨時増刊号』、電気車研究会、2000年4月、65 - 95頁。
- 山本宏之「現有私鉄概説 北陸鉄道」『鉄道ピクトリアル2001年5月臨時増刊号』第701巻、電気車研究会、2001年5月、81 - 90頁。
- 沖中忠順「北陸鉄道 金沢の郊外線と加賀温泉郷の電車たち」『鉄道ピクトリアル2001年5月臨時増刊号』第701巻、電気車研究会、2001年5月、132 - 135頁。
- 山本宏之「温泉電軌車両史」『鉄道ピクトリアル2001年5月臨時増刊号』第701巻、電気車研究会、2001年5月、152 - 165頁。
- 高山禮蔵「1960~1970年代 北陸地方ローカル私鉄車両の興味」『鉄道ピクトリアル2001年5月臨時増刊号』第701巻、電気車研究会、2001年5月、176 - 183頁。
- 真鍋祐司「琴電へ譲渡された名鉄3700系」『鉄道ピクトリアル2006年1月臨時増刊号』第771巻、電気車研究会、2006年1月、174 - 180頁。
- 「トピック・フォト 各地」『鉄道ピクトリアル2011年3月号』第845巻、電気車研究会、2011年3月、96-97頁。
- 斎藤彰久「「南海型電機」とそのルーツを考える」『鉄道ピクトリアル2011年12月臨時増刊号』、電気車研究会、2011年12月、131 - 137頁。
- 澤内一晃「凸型電気機関車の系譜」『鉄道ピクトリアル2012年2月号』第859巻、電気車研究会、2012年2月、10 - 32頁。
- 構成:服部朗宏 監修:澤内一晃「私鉄の現有凸型電気機関車」『鉄道ピクトリアル2012年2月号』第859巻、電気車研究会、2012年2月、38 - 43頁。
- 山本宏之「100周年を迎えた北陸鉄道石川線 1」『鉄道ピクトリアル2016年6月号』第918巻、電気車研究会、2016年6月、105 - 111頁。
- 吉雄永春「ファンの目で見た台車の話 IX 私鉄編 ボギー台車 その1」『レイル』第31巻、エリエイ出版部プレス・アイゼンバーン、1996年1月、42 - 52頁。
- 吉雄永春「ファンの目で見た台車の話 X 私鉄編 ボギー台車 その2」『レイル』第34巻、エリエイ出版部プレス・アイゼンバーン、1996年10月、65 - 72頁。