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「司空」の版間の差分

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2020年8月16日 (日) 12:01時点における版

司空(しくう)は、中国の官名の一つ。金文では司工と作る。

変遷

司空は『周礼』に記された六官の一つであり、『漢書』の注には水と罪人を主る(つかさどる)[1]とされる。刑徒(囚人)の管理(治獄)と治水や各種土木工事(作事)を掌った。当時は官の工事は刑徒を動員して行われることがあり両者の職掌は密接に関係していた。戦国時代から漢代の文献や出土史料からは「都司空」「次司空」(『墨子』)・「国司空」(『商君書』)・「県司空」「邦司空」(『秦律雑抄』)・「中司空」「郡司空」「宮司空」「県司空」(『二年律令』)・「獄司空」(『洪範五行伝』)などの存在が記されており、地方の役所にも司空が設置されていたことが知られている。だが、前漢後期以後、治獄と作事の役割が分離するようになると、各地にあった「司空」の名称は次第に用いられなくなり、後漢に入るともっぱら三公の一つとしてその名称が用いられることになった。御史大夫を大司空に改称した際にも当初は司空に改称しようとして後から獄司空の存在を指摘されてこれと区別するために「大」を覆加したという逸話[2]が残されている。

司空の地位

西周で初めて設置された。当初は三公に次ぐ位で、六卿の一つという位置づけであった。土地・人民を司るとされた。司馬司徒・司空はを除いて多くの国に置かれた。

前漢

前漢では御史大夫が三公の一つとされていたが、成帝綏和元年(紀元前8年)に御史大夫を大司空と改称している。前漢の哀帝建平2年(紀元前5年)に、大司空は御史大夫の名称に戻されたが、元寿2年(紀元前1年)に再び、大司空と改称している。

では三公に大司馬大司徒、大司空が置かれた。

後漢

後漢建武27年(51年)、朱祜の上奏によって大司空は司空と改称される。

献帝建安13年(208年)6月、曹操によって三公制度が廃止されると設置されなくなったが、後漢からへの禅譲により三公制度が復活すると、再び司空が設置されるようになった。

南朝宋

南朝宋では軍の最高職として司空が置かれた。

隋では名誉職であり、兵権を持たなかった。

明代では、工部尚書の別称として用いられた。

清代では、工部尚書の別称として用いられた。

司空についた人物

晋(春秋)

前漢

更始

後漢

魏(三国)

呉(三国)

西晋

東晋

前趙

後趙

前燕

前秦

後燕

南朝宋

南朝斉

南朝梁

北魏

東魏

西魏

北斉

北周

隋末の独立勢力

渤海

回鶻

後唐

後晋

北漢

大理

清代の独立勢力

脚注

  1. ^ 『漢書』百官公卿表・如淳注
  2. ^ 『続漢書』百官志注引『漢官儀』

参考文献

  • 宮宅潔「『司空』小考-秦漢時代における刑徒管理の一斑-」(初出:『張家山漢簡による中国漢代制度史の再検討』平成16-19年度科学研究費補助金(基盤C)研究成果報告書(2008年)/所収:宮宅『中国古代刑政史の研究』(京都大学学術出版会、2011年) ISBN 9784876985333 第5章)

関連項目