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2020年8月16日 (日) 15:33時点における版

第2次シルテ湾海戦
戦争第二次世界大戦
年月日:1942年3月22日
場所シルテ湾(シドラ湾)
結果
交戦勢力
イタリア王国 イギリス
指導者・指揮官
アンジェロ・イアキーノ中将 フィリップ・ヴィアン少将
戦力
戦艦1
重巡洋艦2
軽巡洋艦1
駆逐艦8
軽巡洋艦5
駆逐艦17
損害
なし 軽巡洋艦2、駆逐艦3損傷
地中海の戦い

第2次シルテ湾海戦[1][2](だいにじシルテわんかいせん)は、第二次世界大戦中の1942年3月22日に地中海で生起した海戦である。イギリスがMW10船団アレキサンドリアからマルタへ送るMG1作戦を実行し、その船団を護衛していたイギリス艦隊とそれを阻止しようとしたイタリア艦隊が交戦した。

背景

マルタは地中海におけるイギリス軍の重要な拠点であり、ここを拠点とするイギリス軍はイタリアと北アフリカ間の枢軸国の補給線に大きな打撃を与えていた。だが、枢軸国軍の攻撃によりマルタでは物資の不足が深刻となってきた。イギリス軍は何度もマルタへ補給船団を送っており、それを巡って何度も戦闘が起きていた。

1942年3月、地中海東部でマルタへの補給作戦(MG1作戦)が実行されようとしていた。

MG1作戦

MG1作戦は、ブレコンシャー、クラン・キャンベル、パンパス、タラボートからなるMW10船団をアレクサンドリアからマルタへ送るというものである。この船団の護衛には、フィリップ・ヴィアン少将が指揮する軽巡洋艦クレオパトラ(旗艦)、ダイドーユーライアラスカーライル、駆逐艦ジャーヴィスキプリングケルヴィンキングストンシークヒーローライヴリーハヴォックヘイスティーズールーサウスウォールドボーフォートダルヴァートンハワースエイヴォン・ヴェイルエリッジヘイスロップからなる艦隊がついた。また、マルタからも軽巡洋艦ペネロピと駆逐艦リージョンが護衛として加わる予定であった。船団は3月20日にアレクサンドリアを出発し、3月23日の夜明けにマルタ到着の予定であった。また、メッシーナ海峡の南側とターラント湾に哨戒のための潜水艦が配置された。

3月19日、まず航続距離の短いハント級駆逐艦7隻からなる第5駆逐群が対潜哨戒も兼ねて船団に先立ってアレクサンドリアから出航し、トブルクへ向かった。3月20日7時、船団がカーライルと駆逐艦6隻に護衛されてアレクサンドリア出航。残りの護衛部隊も同日18時に出撃した。第5駆逐群は3月20日にトブルクで給油し、その後船団に合流した。この間にヘイスロップがソルム北方でU-652の雷撃を受け、トブルクへの曳航中に沈没した。3月22日6時に、後から出撃した部隊も船団に合流し、8時には3月20日にマルタから出撃していたペネロピとリージョンも合流した。

この作戦を支援するため、北アフリカではイギリス陸軍による陽動攻撃がおこなわれた。また、船団に対する航空攻撃の脅威を低減するため、キレナイカクレタ島に対する空襲も行われた。

21日17時5分、イタリアの潜水艦Platinoが船団を視認した。また、Ju52輸送機も船団を発見した。メッシーナからParona上級少将が指揮する重巡洋艦ゴリツィアトレント、軽巡洋艦ジョバンニ・デレ・バンデ・ネレ、駆逐艦アルピーノベルサリエーレフチリエーレランチエーレが、タラントからイアッキーノ中将が指揮する戦艦リットリオ、駆逐艦アスカリアヴィエーレアルフレード・オリアーニグレカーレが出撃し、両部隊は22日朝に合流してイギリス船団攻撃に向かった。イギリスの潜水艦P36はタラントを出撃したイタリア艦隊を発見、報告した。

22日午前、船団は数度航空攻撃を受けたが損害はなかった。

戦闘経過

この日は海は大荒れであった。22日14時10分、軽巡洋艦ユーライアラスがイタリア艦隊発見を報告した。それはParona少将が指揮する艦隊であった。ヴィアンはハント級駆逐艦5隻を護衛につけて船団を南西に退避させ、煙幕を張った。南東からの風により煙幕はイタリア艦隊のほうへ流れ効果的に働いた。この時の戦闘では両軍とも損害はなく、イタリア艦隊は15時15分に戦場を離脱した。この戦闘中、船団は空襲を受けたが被害はなかった。

メッシーナから出撃したParona上級少将の艦隊はイギリス側に発見されていなかったため、ヴィアンは交戦したのはタラントから出撃した艦隊であり、それを追い返したので敵艦隊の脅威はなくなったと考え、船団との合流に向かった。だが、イタリア軍は撤退したわけではなかった。艦隊をまとめたイアキーノ中将はイギリス艦隊へ向かい、16時37分に駆逐艦ズールーが再びイタリア艦隊を発見した。16時43分に戦闘が開始され、軽巡洋艦クレオパトラに軽巡洋艦ジョバンニ・デレ・バンデ・ネレの砲撃が命中して15名が戦死、また戦艦リットリオの砲弾の破片で軽巡洋艦ユーライアラスが損傷した。悪天候や煙幕による視界不良の中で戦闘はおこなわれたが、その後の戦闘でさらにイギリスの駆逐艦ハヴォック、キングストン、ライヴリィが損傷した。戦闘は18時56分に終了し、レーダーを持たないイタリア艦隊は夜戦を避けて北へ引き揚げた。

海戦後

イギリス艦隊はイタリア艦隊の撃退に成功し、船団の船には被害はなかった。だが、この戦闘のため夜の内マルタに到着することが出来なくなり、翌朝空襲を受けた。ブレコンシャーには3発の爆弾が命中、航行不能となり、強風のため曳航も不可能であったためマルサシロク近くで錨泊した。クラン・キャンベルは爆撃で沈められた。残りの2隻、タラボットとパンパスも空襲を受け、パンパスに爆弾2発が命中した。だが、これは共に不発であり、2隻は無事にマルタのグランド・ハーバーに到着した。護衛艦艇にも被害が生じ、損傷した駆逐艦リージョンは海岸に乗り上げ(後日沈没)、サウスウォールドはマルタ港外で触雷沈没した。

さらに、無事に入港できたタラボット、パンパスも港内で空襲により沈められ、ブレコンシャーも27日に沈没した。

結局、運んできた物資26000トンの内、陸揚げできたのは5000トンであった。

一方、イタリア艦隊のほうは帰投途中に嵐で駆逐艦ランチエーレ、シロッコが沈没し、軽巡洋艦ジョバンニ・デレ・バンデ・ネレが損傷した。

脚注

  1. ^ 福田誠、光栄出版部 編集『第二次大戦海戦事典 W.W.II SEA BATTLE FILE 1939~45』、光栄、1998年、ISBN 4-87719-606-4、272ページ
  2. ^ 『世界の艦船 増刊第41集 イタリア戦艦史』海人社、1994年、126ページ

外部リンク