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ボン岬沖海戦

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ボン岬沖海戦
戦争第二次世界大戦
年月日:1941年12月13日
場所チュニジア
結果:連合国軍の勝利
交戦勢力
イギリスの旗 イギリス
オランダの旗 オランダ
イタリア王国の旗 イタリア王国
指導者・指揮官
ストークス中佐 トスカーノ上級少将 [注釈 1]
戦力
駆逐艦4 軽巡洋艦2、水雷艇1
損害
なし 軽巡洋艦2沈没
地中海の戦い

ボン岬沖海戦[1](ボンみさきおきかいせん、: Battle of Cape Bon, : Battaglia di Capo Bon)は、第二次世界大戦中の地中海攻防戦英語版において、1941年(昭和16年)12月13日チュニジアボン岬半島沖合の地中海で発生した、イギリス海軍イタリア海軍との海戦[2]夜戦[3]

背景

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1941年(昭和16年)になると、イギリス連邦諸国軍を中心とした連合国軍と、ドイツ陸軍イタリア陸軍から成る枢軸国軍は、北アフリカで攻防戦を繰り広げていた[4]。 枢軸国軍の補給部隊(輸送船団)の護衛は、イタリア王立海軍であった。枢軸側補給部隊はイタリア本土から地中海を南下し、リビアトリポリベンガジなどに向かう[5]。しかし途中のマルタ島にはイギリス軍の航空基地と海軍基地があり、ここを拠点にイギリス空軍・潜水艦部隊・小規模水上部隊が活動していた[6]11月8日深夜には、イギリス海軍のK部隊Force K)によりデュースブルク船団が全滅した[7][8]。イタリア本土と北アフリカを結ぶ枢軸国補給ルートは、マルタを大きく迂回せねばならなかった[9]。イギリス軍各部隊の活動により、北アフリカ戦線への枢軸側の補給は滞る一方だった[10][11]

11月18日、イギリス陸軍クルセーダー作戦を発動した[12]エルヴィン・ロンメル将軍のドイツアフリカ軍団は反撃して幾つかの戦闘で勝利したが、補給不足のため損害を補填できず、物資の欠乏に苦しんだ[13]。これに対しイギリス軍は補給を受けて戦力を回復し、疲弊したドイツアフリカ軍団は後退を余儀なくされた[14]。ロンメル将軍が戦車を活用して機動戦を試みても、燃料が無くては話にならない[15]。だが低速の輸送船団ではイギリス海軍の水雷戦隊(K部隊、B部隊)に太刀打ちできず、イタリア海軍は巡洋艦潜水艦を活用して北アフリカ戦線への補給を試みた[16]。軽巡洋艦はガソリン入りのドラム缶を満載し、甲板にも積み込んだ[17]

12月、第6戦隊所属の軽巡洋艦ルイージ・カドルナ (Luigi Cadorna) によるターラントベンガジ間の強行輸送が行われ、成功した[17]。そこで次は第4戦隊司令官アントニーノ・トスカーノ上級少将の指揮の下、軽巡洋艦アルベルコ・ダ・バルビアーノ(第6戦隊所属)、アルベルト・ディ・ジュッサーノ(第4戦隊所属)、によるガソリン輸送が行われることになった[18]。軽巡ジョヴァンニ・デレ・バンデ・ネーレ (Giovanni delle Bande Nere) も輸送作戦に加わっていたという。

経過

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イタリア軽巡部隊は12月9日17時20分にシチリア島パレルモを出港したが、ソードフィッシュ (Fairey Swordfish) などの攻撃により任務を断念して引き返した。さらに軽巡ジョヴァンニ・デレ・バンデ・ネーレ (Giovanni delle Bande Nere) は機関故障のため出撃不能となる。12月12日18時、イタリア軽巡アルベルコ・ダ・バルビアーノ (Alberico da Barbiano) とアルベルト・ディ・ジュッサーノ (Alberto di Giussano) は再び出港し、トリポリへと向かった。護衛として、スピカ級水雷艇チーニョイタリア語版が同行する[19][注釈 2]。イタリア軽巡洋艦2隻は、航空燃料などの補給物資を搭載していた[16]。さらに「敵の偵察機に発見されたら、直ちに引き返せ」と厳命されていた[19]

このイタリア軍の動きはイギリス軍も察知した[20]マルタにはK部隊が存在していたが、マルタに十分な燃料がなかったこともあり、K部隊ではなく地中海を東に向かっていた連合国軍駆逐艦4隻がイタリア巡洋艦の迎撃に差し向けられた。連合国軍駆逐艦の編成は、イギリス海軍のシーク (HMS Sikh, F82) 、マオリ (HMS Maori) 、リージョン (HMS Legion, G74) 、オランダ海軍イサーク・スウェールズ (Hr.Ms. Isaac Sweers) であった[21]。4隻はH部隊 (Force H) から地中海艦隊への転属のため、ジブラルタルからアレクサンドリアへ向かっているところであった[注釈 3]。シーク艦長(ストークス中佐)がこれを率いていた[21]

連合軍駆逐艦4隻は機雷原を避けるためにフランス領海内を航行し、12月13日午前3時過ぎにボン岬を回った。すでにイタリア空軍機に発見されており[21]、また英空軍のウェリントン (Vickers Wellington) 爆撃機から「イタリア軽巡2隻がトリポリに向けて南下中」との情報も得た[22]。一方、イタリア艦隊は英軍双発爆撃機に発見されたことを司令部に報告したところ、反転退避とパレルモへの帰投を命じられた[23]。翌朝までにイタリア空軍の行動圏に入るための行動だったが、逆にイギリス駆逐艦に追いつかれることになった[23]

イタリア艦隊は軽巡アルベルコ・ダ・バルビアーノ(旗艦)、軽巡アルベルト・ディ・ギュッサーノ、水雷艇チーニョの順番で単縦陣を形成し、シチリア島にむけて北上していた[22]。イギリス駆逐艦部隊はレーダーを装備しており、北アフリカ大陸沿いを航行してイタリア艦隊を待ち構えた[22]。敵艦隊を発見しても砲撃をおこなわず、まず魚雷で先制攻撃をおこなう[22]。3時23分、英駆逐艦シークが先頭を行く伊軽巡バルビアーノに向けて魚雷4本を発射した。うち2本が命中した[22]。さらにリージョンが2本の魚雷をバルビアーノに対して発射し1本が命中。バルビアーノは沈没した。また駆逐艦はイタリア巡洋艦に対して砲撃も行った。マオリも2本の魚雷を発射し、バルビアーノに1本を命中させたとしている。

もう1隻の伊巡洋艦アルベルト・ディ・ジュッサーノも反撃をおこなったが、英駆逐艦に命中弾を与える前に被弾して炎上した[24]。英駆逐艦リージョンが魚雷6本を発射し、3時27分に1本が命中した。ジュッサーノは間もなく沈没した。伊軽巡2隻の後方にいた伊水雷艇チーニョは砲撃と雷撃で応戦したが、イギリス駆逐艦部隊に被害はなかった[24]。蘭駆逐艦イサーク・スウェールズがチーニョに対して砲雷撃を行ったがともに命中しなかった。チーニョは伊軽巡2隻の生存者を救助しようとしたが、英軍機の空襲で断念した[25]。イタリア艦隊はトスカーナ少将を含めて多数の戦死者を出した[注釈 4]

結果と影響

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本海戦により、マルタを拠点に行動するイギリス軍の脅威と、枢軸側シーレーンの脆弱性が改めて浮き彫りとなった。イタリア海軍は新鋭戦艦2隻も船団護衛に投入し、12月中旬の第1次シルテ湾海戦で勝利して北アフリカ戦線への補給に成功した。地中海戦線や北アフリカ戦線は頻繁に攻守が交替し、時期によっては枢軸国側が優勢になる[26]。枢軸側は「マルタを占領してシーレーンの安全性を確保しない限り、地中海戦線北アフリカ戦線に勝利できない」と悟った[27]。そこで空挺部隊によるマルタ占領作戦ヘラクレス英語版ドイツ語版(イタリア側はC3作戦と呼称)を準備した[27]

出典

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注釈

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  1. ^ 英語ではVice Admiralと訳される事が多いが、注釈でRear Admiral Upper Halfに相当すると表記されている。
  2. ^ 同航予定だった水雷艇クリメーネイタリア語版は故障のため残留した。
  3. ^ 連合国軍駆逐艦4隻は12月11日にジブラルタルを出発[21]
  4. ^ 伊水雷艇チーニョが約500名を救助し、一部が海岸に漂着して救助された。また魚雷艇が145名を救助した。戦死者は817名にのぼるという。日本側の史料では約900名戦死とする[24]

脚注

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  1. ^ 福田誠、光栄出版部 編集『第二次大戦海戦事典 W.W.II SEA BATTLE FILE 1939~45』、光栄、1998年、ISBN 4-87719-606-4、268ページ
  2. ^ 三野、地中海の戦い 1993, p. 70(3)地中海における十大海戦とその概略/五、一九四一年十二月十四日のボン岬沖海戦
  3. ^ 三野、地中海の戦い 1993, pp. 282–284(6)高速軍艦同士の戦闘/四、ボン岬沖の夜戦/一九四一年十二月十三日
  4. ^ 三野、地中海の戦い 1993, pp. 117–120北アフリカの戦いとマルタ島の重要性
  5. ^ 呪われた海 1973, p. 226a地図8 地中海航路図と各基地攻撃圏
  6. ^ 撃沈戦記(II) 1988, pp. 278–279過熱する北アフリカ
  7. ^ 呪われた海 1973, pp. 224–225.
  8. ^ 三野、地中海の戦い 1993, pp. 120–122K部隊の栄光
  9. ^ 呪われた海 1973, p. 226b.
  10. ^ 三野、地中海の戦い 1993, pp. 121–122.
  11. ^ 撃沈戦記 1988, pp. 358–359北アフリカ戦線と補給戦
  12. ^ ロンメル戦車軍団 1984, pp. 55–58「クルセイダー」作戦の幕あけ
  13. ^ ロンメル戦車軍団 1984, pp. 70–73英軍、戦力を回復
  14. ^ ロンメル戦車軍団 1984, pp. 73–75ロンメル、撤退を命ず
  15. ^ 撃沈戦記 1988, pp. 359–362決死の燃料輸送作戦
  16. ^ a b 呪われた海 1973, p. 227.
  17. ^ a b 撃沈戦記 1988, p. 360.
  18. ^ 撃沈戦記 1988, p. 361.
  19. ^ a b 撃沈戦記 1988, p. 362.
  20. ^ 三野、地中海の戦い 1993, p. 283.
  21. ^ a b c d 撃沈戦記 1988, p. 363.
  22. ^ a b c d e 撃沈戦記 1988, p. 365.
  23. ^ a b 撃沈戦記 1988, p. 364.
  24. ^ a b c 撃沈戦記 1988, p. 366.
  25. ^ 撃沈戦記 1988, p. 367.
  26. ^ 呪われた海 1973, pp. 234–235.
  27. ^ a b 呪われた海 1973, pp. 236–238.

参考文献

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  • 永井喜之、木俣滋郎『撃沈戦記』朝日ソノラマ〈文庫版新戦史シリーズ〉、1988年10月。ISBN 4-257-17208-8 
    • 第3部 第二次大戦 ― 外国編/9.イタリア軽巡洋艦「バルビアーノ」「ギュッサーノ」
  • 永井喜之、木俣滋郎『新戦史シリーズ撃沈戦記・PARTII』朝日ソノラマ、1988年10月。ISBN 4-257-17223-1 
    • 第3部 第二次大戦 ― 外国編 23.イギリス軽巡洋艦「ネプチューン」
  • カーユス・ベッカー、松谷健二 訳「第4部 地中海の戦い」『呪われた海 ドイツ海軍戦闘記録』フジ出版社、1973年7月。 
  • ケネス・J・マクセイ、加登川幸太郎 訳『ロンメル戦車軍団 独英、砂漠の対決』株式会社サンケイ出版〈第二次世界大戦文庫3〉、1984年12月。ISBN 4-383-02355-X 
  • 三野正洋『地中海の戦い』朝日ソノラマ〈文庫版新戦史シリーズ〉、1993年6月。ISBN 4-257-17254-1 
  • Eric Grove, Sea Battles in Close-up :World War 2 Volume Two, Naval Institute Press, 1993, ISBN 1-55750-758-9
  • Vincent P. O'Hara, Struggle for the Middle Sea, Naval Institute Press, 2009, ISBN 978-1-59114-648-3

関連項目

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