スパダ岬沖海戦
スパダ岬沖海戦 | |
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戦争:第二次世界大戦 | |
年月日:1940年7月19日 | |
場所:地中海、クレタ島の北から西の海域 | |
結果:連合国の勝利 | |
交戦勢力 | |
連合国(イギリス、オーストラリア) | イタリア |
指導者・指揮官 | |
ニコルソン大佐、ジョン・コリンズ大佐 | フェルディナンド・カサルディ上級少将 |
戦力 | |
軽巡洋艦1、駆逐艦5 | 軽巡洋艦2 |
損害 | |
軽巡1小破 | 軽巡1沈没、軽巡1損傷、129名戦死 |
スパダ岬沖海戦 (スパダみさきおきかいせん、英語: Battle of Cape Spada) [1][2]は、第二次世界大戦中の地中海攻防戦において、1940年7月19日に地中海のクレタ島北西沖で発生した海戦[3]。 イギリス海軍およびオーストラリア海軍の水雷戦隊と、イタリア王立海軍の軽巡洋艦2隻が交戦した[注釈 1]。 海戦は、イタリアの軽巡洋艦2隻と、イギリスの駆逐艦4隻との間で始まった[注釈 2]。その後オーストラリアの軽巡洋艦シドニー (HMAS Sydney) とイギリスの駆逐艦ハヴォック (HMS Havock, H43) が加わって形勢が逆転した[6]。戦闘の結果、イタリアの軽巡洋艦バルトロメオ・コレオーニ (Bartolomeo Colleoni) が撃沈され、カサルディ提督が将旗を掲げる軽巡ジョヴァンニ・デレ・バンデ・ネーレ (Giovanni delle Bande Nere) は逃げ切った[注釈 1][7]。
経過
[編集]1940年6月10日、イタリアは第二次世界大戦に枢軸側として参戦し、イギリスとフランスに宣戦布告した(イタリアの参戦)[8]。地中海戦域におけるイタリア王立海軍とイギリス地中海艦隊の本格的対決は、7月9日のカラブリア沖海戦 (Battle of Calabria) であった[注釈 3]。
カラブリア岬沖海戦からまもない7月中旬、イギリスの小型タンカーの船団がルーマニアからギリシャ水域へと向かっているとの情報に基づき、イタリア海軍はフェルディナンド・カサルディ上級少将[注釈 4]が率いる第2巡洋艦戦隊 (II Divisione Incrociatori) の軽巡洋艦ジョヴァンニ・デレ・バンデ・ネーレとバルトロメオ・コレオーニを攻撃に向かわせる[10]。カサルデイ提督はジョヴァンニ・デレ・バンデ・ネーレ (Giovanni delle Bande Nere) に将旗を掲げていた。イタリア軽巡2隻は7月17日にトリポリから出撃し、ドデカネス諸島のレロス島へと向かった[11]。
一方、イギリス軍も7月18日未明に以下の部隊を出撃させた。
A部隊の任務はクレタ島北方でのイタリア潜水艦掃討であり、クレタ島の東のカソス海峡からエーゲ海に入り[注釈 5]、クレタ島西のアンティキティラ海峡から出て帰投する予定であった。B部隊 (Force B) の任務はA部隊の援護とアテネ湾でのイタリア船攻撃であった。両部隊は7月18日に夜にクレタ島の東のカソ海峡を通過してエーゲ海に入った。コリンズ艦長はA部隊の援護を優先し、A部隊がクレタ島西のアンティキティラ海峡を通過する時間まではA部隊の近くにいることを決めた。カサルディ提督は進路上でこれらの部隊が活動中であることは知らなかった。
7月19日7時17分[注釈 6]、アンティキラ海峡付近でイタリア軽巡2隻は対潜掃蕩中のイギリス駆逐艦部隊を発見した[注釈 7]。アンティキティラ海峡へ向かっていたA部隊も同時刻にイタリア軽巡2隻を発見し、友軍(シドニー、ハボック)のいる方へ速度を上げて逃走を図る[11]。イタリア側は7時27分に距離19,000ヤードで砲撃を開始。イギリス駆逐艦も7時32分に砲撃を開始したが、砲撃は届かなかった。カサルディ提督は、イギリス駆逐艦部隊が他の強力な部隊の護衛ではないかどうかわからなかったため、接近しようとしなかった。イギリス駆逐艦部隊は北東へ進み、イタリア軽巡2隻は北へ向かったため、両者の距離は次第に離れていった。イタリア軽巡2隻の砲撃は太陽に向かっての砲撃であったため、不正確であった[12]。またイギリス駆逐艦が展開した煙幕も加わって、砲撃はさらに困難になった[6]。カサルディ提督は7時48分に砲撃を中断し、7時50分に東へと進路をかえて敵への接近を図った。
一方、軽巡洋艦シドニー (HMAS Sydney) の艦長コリンズ大佐 (John Augustine Collins) は7時33分にニコルソン(A部隊)からの敵発見の報告を受け取り、その方へと向かい始めた。この際、敵に存在を知られないよう通信は行わなかった。8時20分、南東へ向かっていたシドニー (HMAS Sydney) はイタリア軽巡洋艦の煙を発見する。8時29分に距離20,000ヤードで「ジョヴァンニ・デレ・バンデ・ネーレ」に対して砲撃を開始した。豪州軽巡洋艦は霧に隠されていたため、イタリア側は砲撃を受けるまでその存在に気づかなかった。さらに豪州軽巡と共に出現した英駆逐艦ハヴォック (HMS Havock, H43) も「敵軽巡洋艦」だと誤認する[6]。「連合軍軽巡2隻および駆逐隊」と交戦する不利を悟ったイタリア側は[13]、8時32分まで南東へ針路をかえ、逃走しつつ砲撃を開始した。豪州軽巡の増援を得たイギリス駆逐艦4隻も反転し、イタリア軽巡2隻との距離を詰めようとした[注釈 8]。
8時35分、シドニーの砲撃がジョヴァンニ・デレ・バンデ・ネーレに命中した。煙突を貫通して爆発し、死者4名負傷者4名を出した。連合軍艦隊とクレタ島との間に挟まれるのを避けるため、カサルディ提督が指揮するイタリア軽巡2隻は煙幕を張り南西へと針路を変える[14]。8時58分にはイタリア軽巡洋艦2隻は南西へと向かい始めた[15]。この誤判断により、37ノットを発揮できるイタリア軽巡2隻は、速力32ノットのシドニーに追いつかれてしまう[16]。 9時21分、シドニーの煙突右舷側に命中弾があり1名が負傷した。9時24分、または25分にシドニーからの6インチ砲弾がバルトロメオ・コレオーニ (Bartolomeo Colleoni) に命中した。その直後にもさらに命中弾があり、同艦は航行不能となった[14]。英駆逐艦ハイペリオン (HMS Hyperion, H97) とアイレクス (HMS Ilex) が雷撃を行い、アイレクスの魚雷1本が命中する。続いてハイペリオンが2度目の雷撃を行い、さらに魚雷1本が命中した。9時59分、バルトロメオ・コレオーニは沈没した。英駆逐艦が沈没した伊軽巡生存者の救助を行った。
伊軽巡ジョヴァンニ・デレ・バンデ・ネーレ(カサルディ提督)は、被弾して窮地に陥った姉妹艦を支援することなく、一目散に逃走を続けた[16]。未だにシドニー等に追跡されており、9時58分にシドニーから命中弾を受けた(死者4名、負傷者12名)。だが、距離が開いたことなどからシドニー側は10時37分に追跡を打ち切った。その後、ロドス島から飛来した爆撃機の攻撃を受け、至近弾によりハヴォックが小破した[17]。
カサルディ提督が指揮するジョヴァンニ・デレ・バンデ・ネーレはトブルクへ行くと見せかけてからベンガジへと向かい、無事に到着している。この過程で伊軽巡を捜索していた英戦艦ウォースパイト (HMS Warspite) の水上偵察機1機が失われた[注釈 9]。カサルディ提督およびジョヴァンニ・デレ・バンデ・ネーレがトブルクにいると考えたイギリス軍は、地中海艦隊に所属する空母イーグル (HMS Eagle) を派遣して、イタリア軽巡の撃沈を試みる[17][注釈 10]。イーグルの艦上攻撃機フェアリー ソードフィッシュ (Fairey Swordfish) がトブルク空襲を敢行し、同地にいたイタリア駆逐艦ネンボ (Nembo) やオストロ (Ostro) などを撃沈した[18]。
参加艦艇
[編集]イタリア
[編集]- 軽巡洋艦バルトロメオ・コレオーニ(沈没、戦死121)、ジョバンニ・デレ・バンデ・ネレ(損傷、戦死8)
連合国
[編集]出典
[編集]注釈
[編集]- ^ a b 第一六、伊の退嬰長蛇を逸す[4] 潜水艦ばかりでなしにイタリー海軍全體の指導精神には次のやうな事が言へると思ふ。/ イタリーがドイツと比較して強大を誇り得るものは海軍力だけである。なまじ海軍力を使つてこれを失つてしまへば、戰後の講話會議の際ドイツに對する發言權を喪失してしまふかも知れぬ。出來るなら海軍力をそのまゝにして置きたい。使ふにしても最小限度に止めたい。この考へ方がイタリー海軍を引込思案にし、進んで敵を破るよりは退いて守るに如かずといふ消極退嬰の戰法をとる事を餘儀なからしめたのではなからうか。それがため、イギリス艦隊から受けた損害を加算すれば莫大な數字に上るのだ。/ 無傷な帝國海軍は日本の至寶であり、儼然たる海軍を背景にすればこそ我外交上の發言も重きを加へる所以であるが、海軍の實力を行使する必要が起きた際は苟くも力の出し惜しみをしてはならぬ事は、イタリーがいゝ手本を示してゐる。
昨年七月十九日午前三時イタリーの乙級巡洋艦ジョンアニ・デルレ・バンデネーレ號及びバルトロメオ・オルレオーン號の兩艦はクリート島沖でシドニー級の巡洋艦一隻及び驅逐艦四隻よりなる艦隊と遭遇海戰を交へた。イタリー兩艦は同型で五,〇六九トン、主砲は一五.二糎砲八門、速力卅七節、共に一九三一年に就役してゐる。一方のイギリス巡洋艦はシドニー級だといふから、六,八三〇トン、主砲は一五糎六門、速力卅二浬四分の一、驅逐艦を加へたところで數が多いか少いだけで實力は大した距りがなかつた筈だ。然るにイタリー側は敵艦に損傷を與へたものの撃沈し得なかつたに反し、コルレオーオン號先づ敵彈のため航行の自由を奪はれ、遂に沈没してしまつたのである。/ 急を聞いて驅けつけたイタリー空軍は爆撃を加へて驅逐艦一隻を撃沈した。/ この海戰で氣のつく事は飛行機と軍艦の強力、つまりイタリーが海軍獨自の空軍を保有してゐたなら、味方の巡洋艦が砲戰を交へるに先立つてイギリス艦隊を叩き得た事であらうといふ事と、潜水艦を随伴して艦隊行動をとつてゐたらなら砲力は伯中して居り、速力はずつと優れてゐたのであるからもつと手際のいゝ戰が出來たであらうといふ事だ。 - ^ 三野『地中海の戦い』(1993年)276頁では、連合軍艦隊を豪州海軍軽巡シドニー、英海軍駆逐艦4隻(アイレックス、ヒーロー、ハイぺリオン、ハボック)とする[5]。
- ^ イタリア側は“プンタスティロ沖海戦” (Battaglia di Punta Stilo) と呼称する[9]。
- ^ Ammirarlio di divisione。英訳はvice admiral。但し、注釈ではrear admiral upper half に相当するとの表記あり。
- ^ カソス海峡の東側にはドデカネス諸島のカソス島がある。
- ^ 時刻はイギリス側のもの。イタリア側より1時間遅い。以下同じ。
- ^ 木俣『ヨーロッパ列強戦史』(2004年)88頁では、対潜掃蕩中のイギリス駆逐艦を3隻(ハイぺリオン、ヒーロー、アイレックス)と記述する[10]。
- ^ 近距離戦ならば、魚雷を有するイギリス駆逐艦が数的優勢を生かして優勢となる[6]。
- ^ トブルク港の偵察をおこない、対空砲火で撃墜されたという。
- ^ この時点におけるイーグルの艦隊航空隊は、第813海軍飛行隊と第824海軍飛行隊だった。
脚注
[編集]- ^ 福田誠、光栄出版部 編集『第二次大戦海戦事典 W.W.II SEA BATTLE FILE 1939~45』、光栄、1998年、ISBN 4-87719-606-4、256ページ
- ^ 『世界の艦船 増刊第54集 イタリア巡洋艦史』海人社、2000年、158ページ
- ^ 三野、地中海の戦い 1993, pp. 76–81カラブリア岬海戦とスパダ岬海戦
- ^ 列強の臨戦態勢 1941, pp. 121–122(原本219-221頁)
- ^ 三野、地中海の戦い 1993, pp. 276–278(6)高速軍艦同士の戦闘/スパダ岬沖海戦
- ^ a b c d ヨーロッパ列強戦史 2004, p. 90.
- ^ イカロス、世界の巡洋艦 2018, pp. 108–109(イタリア海軍)ジュッサーノ/バルビアーノ級軽巡洋艦 コンドッチェリ級第1群
- ^ 三野、地中海の戦い 1993, pp. 60–61(1)フランスとの戦争
- ^ 三野、地中海の戦い 1993, p. 80.
- ^ a b ヨーロッパ列強戦史 2004, p. 88.
- ^ a b ヨーロッパ列強戦史 2004, p. 89.
- ^ ヨーロッパ列強戦史 2004, p. 889.
- ^ ヨーロッパ列強戦史 2004, p. 96.
- ^ a b ヨーロッパ列強戦史 2004, p. 92.
- ^ ヨーロッパ列強戦史 2004, p. 93aスパダ岬の海戦(1940年7月19日)海戦行動図
- ^ a b ヨーロッパ列強戦史 2004, p. 97.
- ^ a b ヨーロッパ列強戦史 2004, p. 94.
- ^ ヨーロッパ列強戦史 2004, p. 95.
参考文献
[編集]- 木俣滋郎『大西洋・地中海の戦い ヨーロッパ列強戦史』光人社〈光人社NF文庫〉、2004年2月(原著1986年)。ISBN 978-4-7698-3017-7。
- 三野正洋『地中海の戦い』朝日ソノラマ〈文庫版新戦史シリーズ〉、1993年6月。ISBN 4-257-17254-1。
- 本吉隆(著)、田村紀雄、吉原幹也(図版)「イタリアの巡洋艦」『第二次世界大戦 世界の巡洋艦 完全ガイド』イカロス出版株式会社、2018年12月。ISBN 978-4-8022-0627-3。
- Jack Greene and Alessandro, The Naval War in the Mediterranean, Chatham Publishing, 1998, ISBN 1-86176-190-2
- G. HerMon Gill, Australia in the War of 1939–1945. Series 2 – Navy Volume I – Royal Australian Navy, 1939–1942, 1957
- Vincent P. O'Hara, Struggle for the Middle Sea, Naval Institute Press, 2009, ISBN 978-1-59114-648-3
- Naval Staff History Second World War: Selected Operations (Mediterranean), 1940
- 国立国会図書館デジタルコレクション - 国立国会図書館
- 中外商業新報政治部 編「第四章 今次大戦に於ける海戦の様相」『烈強の臨戦態勢 経済力より見たる抗戦力』東洋経済新報社、1941年12月 。