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「朱子学」の版間の差分

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== 日本への伝来と影響 ==
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一般には[[正治]]元年([[1199年]])に入宋した[[真言宗]]の[[僧]][[俊芿]]が日本へ持ち帰ったのが日本伝来の最初とされるが、異説も多く明確ではない。[[鎌倉時代]]後期までには、[[五山]]を中心として学僧等の基礎教養として広まり、[[正安]]元年([[1299年]])に来日した[[元 (王朝)|元]]の[[僧]][[一山一寧]]がもたらした注釈によって学理を完成した。{{独自研究範囲|date=2019年11月|[[後醍醐天皇]]や[[楠木正成]]は、朱子学の熱心な信奉者と思われ、鎌倉滅亡から[[建武の新政]]にかけての彼らの行動原理は、朱子学に基づいていると思われる箇所がいくつもある。}}


その後は長く停滞したが、[[江戸時代]]に入り[[林羅山]]によって「[[上下定分の理]]」やその名分論が武家政治の基礎理念として再興され、江戸幕府の正学とされた<ref group="注釈">ただし、幕府には大学に相当する教育機関はなく、[[湯島聖堂]]は林家の私塾にすぎなかった。</ref>。全国で教えられた朱子学は、武士や町人に広く浸透したが、儒学者や思想家の中には朱子学批判を行うものも現れた。[[山鹿素行]]、[[伊藤仁斎]]、[[伊藤東涯]]、[[荻生徂徠]]、[[貝原益軒]]、[[中江藤樹]]、[[本居宣長]]、[[平田篤胤]]などがそれである。大坂の町人学問所[[懐徳堂]]では、[[中井竹山]]や[[中井履軒]]などの朱子学者の他、[[富永仲基]]や[[山片蟠桃]]の朱子学批判者(合理主義者)を生み出した。
その後は長く停滞したが、[[江戸時代]]に入り[[林羅山]]によって「[[上下定分の理]]」やその名分論が武家政治の基礎理念として再興され、江戸幕府の正学とされた<ref group="注釈">ただし、幕府には大学に相当する教育機関はなく、[[湯島聖堂]]は林家の私塾にすぎなかった。</ref>。全国で教えられた朱子学は、武士や町人に広く浸透したが、儒学者や思想家の中には朱子学批判を行うものも現れた。[[山鹿素行]]、[[伊藤仁斎]]、[[伊藤東涯]]、[[荻生徂徠]]、[[貝原益軒]]、[[中江藤樹]]、[[本居宣長]]、[[平田篤胤]]などがそれである。大坂の町人学問所[[懐徳堂]]では、[[中井竹山]]や[[中井履軒]]などの朱子学者の他、[[富永仲基]]や[[山片蟠桃]]の朱子学批判者(合理主義者)を生み出した。

2020年8月26日 (水) 05:43時点における版

朱熹

朱子学(しゅしがく)とは、南宋朱熹によって再構築された儒教の新しい学問体系。日本で使われる用語であり、中国では、朱熹がみずからの先駆者と位置づけた北宋程頤と合わせて程朱学程朱理学)・程朱学派と呼ばれ、宋明理学に属す。当時は、程頤ら聖人の道を標榜する学派から派生した学の一つとして道学(Daoism)とも呼ばれた。

陸王心学と合わせて人間や物に先天的に存在するというに依拠して学説が作られているため理学(宋明理学)と呼ばれ、また、清代漢唐訓詁学に依拠する漢学(考証学)からは宋学と呼ばれた。

概要

朱熹は、それまでばらばらで矛盾を含んでいた北宋の学説を、程頤による性即理説(性(人間の持って生まれた本性)がすなわちであるとする)や程顥の天理(天が理である)をもとに、仏教思想の論理体系性、道教の生成論および静坐という行法を取り込みつつも、それを代替する儒教独自の理論にもとづく壮大な学問体系に仕立て上げた。そこでは、自己と社会、自己と宇宙は、理という普遍的原理を通して結ばれており(理一分殊)、自己修養(修己)による理の把握から社会秩序の維持(治人)に到ることができるとする、個人と社会を統合する思想を提唱した。

なお朱子のとは、形而上のもの、形而下のものであってまったく別の二物(「理気二元論」)であるが、たがいに単独で存在することができず、両者は「不離不雑」の関係であるとする。また、は、この世の中の万物を構成する要素でつねに運動してやむことがない。そして「気」の運動量の大きいときを「陽」、運動量の小さいときを「陰」と呼ぶ。陰陽の二つの気が凝集して木火土金水の「五行」となり、「五行」のさまざまな組み合わせによって万物が生み出されるという。理は根本的実在として気の運動に対して秩序を与えるとする。この「理気二元論」の立場に立つ存在論から、「性即理」という実践論が導かれている。「性即理」の「性」とは心が静かな状態である。この「性」が動くと「情」になり、さらに激しく動きバランスを崩すと「欲」となる。「欲」にまで行くと心は悪となるため、たえず「情」を統御し「性」に戻す努力が必要とされるというのが、朱子学の説く倫理的テーマである。つまり、朱子学の核心は実践倫理である。朱子学は、この「性」にのみ「理」を認める(=「性即理」)のであり、この「性」に戻ることが「修己」の内容である。その方法が「居敬窮理」である。「居敬」の心構えで、万物の理を窮めた果てに究極的な知識に達し、「理」そのもののような人間になりきる(窮理)のである。ちなみに、朱熹の主張する「性即理」説は、陸象山の学説心即理説と対比され、朱熹は、心即理説を、社会から個人を切り離し、個人の自己修養のみを強調するものとして批判した。一方で朱熹は、陳亮功利学派(事功学派)を、個人の自己修養を無視して社会関係のみを重視していると批判している。

朱熹の学は、社会の統治を担う士大夫層の学として受け入れられたが、慶元の党禁によって弾圧され、朱熹も不遇の晩年を送った。その後、一転して理宗の時代に孔子廟に従祀されることとなり、続く代には科挙試験が準拠する経書解釈として国に認定されるに至り、国家教学としてその姿を変えることになった。その結果、科挙で唯一採用された朱子学を学ぶことが中国社会を生きる上での必要かつ十分条件として位置づけられるようになり、反対に科挙から排除された他の学説は一部の「偏屈な人あるいは変わり者」が学ぶものとする風潮が醸成されるようになった[1]

代、国家教学となった朱子学は、科挙合格という世俗的な利益のためにおこなわれ、また体制側でも郷村での共同体倫理確立に朱子学を用い、道徳的実践を重んじた聖人の学としての本質を損なうようになった。そこで明代の朱子学者たちは、陸九淵心学を取り入れて道徳実践の学を補完するようになった。この流れのなかで王守仁陽明学が誕生することになる。一方で胡居仁(中国語版)のように従来の朱子学のあり方を模索し、その純粋性を保持しようとした人物もいる。

代の朱子学は、理気論や心性論よりも、朱熹が晩年に力を入れていた礼学が重視され、社会的な秩序構築を具体的に担う「」への関心が高まり、壮大な世界観を有する学問よりは、具体的・具象的な学問へと狭まっていった。礼学への考証的な研究はやがて考証学の一翼を担うことになる。清代になっても朱子学は、体制教学として継承され、礼教にもとづく国家体制作りに利用され、君臣倫理などの狭い範囲でしか活用されることはなかった。

衣川強[2]は理宗以来の朱子学の国家教学化の動き(科挙における他説の排除など)を中国史の転機と捉え、多様的な学説・思想が許容されることで儒学を含めた新しい学問・思想が生み出されて発展してきた中国社会が朱子学による事実上の思想統制の時代に入ることによって変質し、中国社会の停滞、ひいては緩やかな弱体化の一因になったと指摘している[1]

周濂渓→程伊道→張横渠と展開されてきた新しい思想、すなわち当時の言葉で言われる「道学」は、宋が南方に遷都して南宋となった頃には、士大夫の間にすでに相当の信奉者を得ていたようである。かくて朱子学が現れて、この道学に首尾一貫した体系を与え、いわゆる朱子学が完成されたことになる。朱子の出現は、朱子学の影響するところが単に中国のみにとどまらなかったという点でも、東アジア世界における世界的事件であった。朱子というのは尊称で、本名は朱熹、本籍は安徽の婺源であるが、実際に生まれ成長したのは、福建省の山間地帯。父は早くから詩人として知られ、また道学を学んだ理想主義者で、のちに秦檜の対金和議に反対して中央官界から追放された人。朱子が少年時代より道学を研究したのは、父の遺言による。19歳で科挙試験に合格して進士となり、以後、福建省、広西省浙江省などの各地で事務官、知事、首都隣接地域の経済部長などを経て、浙江省の警察長官、最後には侍講となって寧宗皇帝の輔導のために心を尽くしたが、権臣・韓侂胄に憎まれて、在職わずか45日で免職となった。韓侂胄の一派は朱子など道学者に対する迫害をやめず、ついに偽学を名としてその学徒を政府の官職から一斉に追放し、著述の流布をも禁じるにいたった。いわゆる慶元の偽学の禁である。彼は官にあること50年、つまり官史の職員録には50年間も登録されていたが、実際に職務のある官にいたのは、地方官として、5回、計9年と、宮中で侍講としての45日のみで、他は全て奉祠の官であった奉祠の官というのは、全国各所にある道観、例えば湖南省長沙にある南岳廟、浙江省台州の崇道観、などの管理官となるとこである。これは必ずしも実際に起任する必要のない名目的な官で、要するに退職官史とか学者などへの優待策である。すなわち朱子は、官史としてはかならずしも栄達したとは言えないけれども、さてばとてけっして下級官僚に終始したというわけではない。普通に彼はいわゆる道学先生、哲学者としてのみ知られているが、またそれが当然のことであるが、しかし彼は実際に行政官としても立派な仕事をした人で、地方官としての彼が非常な熱意を、もって職務に精励し、浙江省東部の大飢饉を救済したり、不合理な税金700万を廃止したり、社倉法などの社会施設を創始したり、そのせいせきは大いにみるべきものであった。それはひとえに、全体大用というその哲学的根本思想に由来するものであった[3]

朝鮮半島への伝来と影響

朱子学は13世紀には朝鮮に伝わり、朝鮮王朝の国家の統治理念として用いられた。朝鮮はそれまでの高麗の国教であった仏教を排し、朱子学を唯一の学問(官学)とした。そのため朱子学は今日まで朝鮮の文化に大きな影響を与えている。

李氏朝鮮時代、国家教学として採用され、16世紀には李退渓李栗谷の二大儒者が現れ、朱子学を朝鮮人の間に根付かせた[4]。日常生活に浸透した朱子学を思想的基盤とした両班は、知識人・道徳的指導者を輩出する身分階層に発展した。特に李退渓の学問は日本の林羅山山崎闇斎らに影響を与えた。

朝鮮の朱子学受容の特徴として、李朝500年間にわたって、仏教はもちろん、儒教の一派である陽明学ですら異端として厳しく弾圧し、朱子学一尊を貫いたこと、また、朱熹の「文公家礼」(冠婚葬祭手引書)を徹底的に制度化し、朝鮮古来の礼俗や仏教儀礼を儒式に改変するなど、朱子学の研究が中国はじめその他の国に例を見ないほどに精密を極めたことが挙げられる[4]。こうした朱子学の純化が他の思想への耐性のなさを招き、それが朝鮮の近代化を阻む一要因となったとする見方もある[4]

琉球への影響

17世紀後半から18世紀にかけて活躍した詩人儒学者程順則は、琉球王朝時代の沖縄で最初に創設された学校である明倫堂創設建議を行うなど、琉球の学問に大きく貢献した。清との通訳としても活動し、『六諭衍義』を持ち帰って琉球に頒布した。この書は琉球を経て日本にも影響を与えている。

日本への伝来と影響

日本の儒教も参照。

一般には正治元年(1199年)に入宋した真言宗俊芿が日本へ持ち帰ったのが日本伝来の最初とされるが、異説も多く明確ではない。鎌倉時代後期までには、五山を中心として学僧等の基礎教養として広まり、正安元年(1299年)に来日した一山一寧がもたらした注釈によって学理を完成した。後醍醐天皇楠木正成は、朱子学の熱心な信奉者と思われ、鎌倉滅亡から建武の新政にかけての彼らの行動原理は、朱子学に基づいていると思われる箇所がいくつもある。[独自研究?]

その後は長く停滞したが、江戸時代に入り林羅山によって「上下定分の理」やその名分論が武家政治の基礎理念として再興され、江戸幕府の正学とされた[注釈 1]。全国で教えられた朱子学は、武士や町人に広く浸透したが、儒学者や思想家の中には朱子学批判を行うものも現れた。山鹿素行伊藤仁斎伊藤東涯荻生徂徠貝原益軒中江藤樹本居宣長平田篤胤などがそれである。大坂の町人学問所懐徳堂では、中井竹山中井履軒などの朱子学者の他、富永仲基山片蟠桃の朱子学批判者(合理主義者)を生み出した。 松平定信は、1790年寛政2年)に寛政異学の禁を発している。だが皮肉なことに、この朱子学の台頭によって天皇を中心とした国づくりをするべきという尊王論と尊王運動が起こり、後の倒幕運動明治維新へ繋がっていくのである。ただし、幕末・維新期の尊皇派の主要人物である西郷隆盛吉田松陰は、ともに朱子学ではなく陽明学に近い人物であり、佐幕派の中核であった会津藩桑名藩はそれぞれ保科正之、松平定信の流れであり朱子学を尊重していた。

朱子学の思想は、近代日本にも影響を与えたとされる。「学制」が制定された当時、教科の中心であった儒教は廃され、西洋の知識・技術の習得が中心となった。その後、明治政府は自由民権運動の高まりを危惧し、それまでの西洋の知識・技術習得を重視する流れから、仁義忠孝を核とした方針に転換した。1879年の「教学聖旨」、1882年幼学綱要」に続き、1890年明治23年)、山縣有朋内閣のもと、『教育勅語』が下賜された。明治天皇の側近の儒学者である元田永孚の助力があったことから、『教育勅語』には儒教朱子学の五倫の影響が見られる[5]

また、1882年(明治15年)に明治天皇から勅諭された、『軍人勅諭』にも儒教の影響が見られる。『軍人勅諭』には忠節、礼儀、武勇、信義、質素の5か条の解説があり、これらは儒教朱子学における五常・五論の影響が見られる。この「軍人勅諭」は、後の1941年(昭和16年)に発布された『戦陣訓』にも強く影響を与え、第二次世界大戦時の全軍隊の行動に大きく影響を与えた[6]

日本の簡単な儒系図

※以下の系図は全てではない

程朱学派

いわゆる宋学を奉じたもの。

官儒派

南学派

脚注

注釈

  1. ^ ただし、幕府には大学に相当する教育機関はなく、湯島聖堂は林家の私塾にすぎなかった。

出典

  1. ^ a b 衣川強『宋代官僚社会史研究』(汲古書院、2006年)p464-468
  2. ^ きぬがわつよし(1939 - )京都大学博士(文学)、京都橘大学文学部教授(2006年現在)
  3. ^ 島田虔次『朱子学と陽明学』(岩波新書、1967年)
  4. ^ a b c 尹基老 「西洋に対しての日本と朝鮮の対応の比較 - シーボルトとハーメルを手がかりに」『県立長崎シーボルト大学国際情報学部紀要』第6号、県立長崎シーボルト大学、2005年
  5. ^ 荒川紘 (2010年). “教育基本法と儒教教育”. 東邦学誌 39: 37-52. 
  6. ^ 荒川紘 (2010年). “教育基本法と儒教教育”. 東邦学誌 39: 37-52. 

関連項目