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石川丈山

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
{{{氏名}}}
時代 戦国時代 - 安土桃山時代 - 江戸時代
生誕 天正11年(1583年)10月
死没 寛文4年(1664年5月23日
改名 嘉右衛門 → 重之 →丈山
別名 嘉右衛門、重之
墓所 詩仙堂の東南・舞楽寺中山の山頂(京都府京都市左京区一乗寺松原町
主君 徳川家康 → (浪人)→ 浅野長晟
氏族 石川氏
父母 父:石川信定
母:本多重貞の娘
兄弟 丈山、重治(三十郎)、男、女、女
妻帯せず
養子:之昌(石原加右衛門家昌[注釈 1]の子か)
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石川 丈山(いしかわ じょうざん、天正11年(1583年[2] - 寛文12年5月23日1672年6月18日[2])は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将文人。父は石川信定石川正信の子)。三河国出身[3]大坂の陣後、牢人。一時、浅野家に仕官するが致仕して京都郊外に隠棲し、丈山と号した。子には石川之昌が、子孫に石川竹厓がいる。

江戸初期における漢詩の代表的人物で、儒学書道茶道庭園設計にも精通していた[2]幕末の『煎茶綺言』には、「煎茶家系譜」の初代に丈山の名が記載されており、煎茶の祖ともいわれる。

は初め重之、後に通称は初め三彌、後に嘉右衛門丈山は六六山人、四明山人、凹凸窠、詩仙堂、大拙、烏麟、山木、山村、藪里、東渓、三足など。

略歴

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愛知県安城市和泉町に建てられた庭園「丈山苑」[4]

天正11年(1583年)、三河国碧海郡泉郷(現在の愛知県安城市和泉町)にて[5]、代々徳川家松平家)に仕える譜代武士の家に生まれた[2]

一途な性格で早く功を挙げたいと思い、大叔父のもとで武芸を学んだ。慶長3年(1598年)、徳川家康の近侍となり[2]、その忠勤ぶりに信頼を寄せられた。大坂夏の陣に参加して功績を挙げるが、家康が先陣争いを禁じていたにもかかわらず、軍令に反して抜け駆けをしたため、家康から賞されなかった[2]。軍令に背いた丈山は浪人となり[6]妙心寺に隠棲した[2]

元和3年(1617年)頃、知人・林羅山の勧めによって藤原惺窩に師事して儒学を学んだ[2]。文武に優れると評判になった丈山には各所から仕官の誘いが多かった[2]紀州和歌山県和歌山浅野家に一時仕えるが、数ヶ月で京都に帰る[2]。その後、病気がちな母を養うために再び浅野家に仕官し[2]、浅野家の転封に従って安芸広島県広島に赴き[2]、そこで13年ほど過ごした。母が死去すると引退を願い出たが許されなかったため[2]、病気と偽って広島を去り、寛永13年(1636年)に相国寺の近くに睡竹堂をつくり隠棲し始めた[2]

さらにその後、洛北の一乗寺村(比叡山西麓)に凹凸窠(詩仙堂)を寛永18年(1641年)に建てて終の棲家と定めた[2][7]。この時、洛東の隠者・木下長嘯子の歌仙堂(三十六歌仙の肖像を掲げていた)に倣って、中国歴代の詩人を36人選んで三十六詩仙とし[2]狩野探幽に肖像を描かせて堂内2階の四方の小壁に9面ずつ掲げた[2]。そのため凹凸窠は詩仙堂の名で知られるようになった[2]。煎茶に親しんだと伝えられると共に、作庭に長じたともいわれ、東本願寺枳殻邸(渉成園)の庭園は石川丈山の手になるものと伝えられている。この頃、後水尾上皇からお召しがあったが「渡らじな瀬見の小川の浅くとも老の波たつ影は恥かし」と詠んで断った。上皇はその意を了として丈山の歌を「渡らじな瀬見の小川の浅くとも老の波そふ影は恥かし」と手直しして返したという。清貧を旨として学問に没頭し30数年を過ごし、寛文12年(1672年)に90歳で死去した。

なお、鷹が峰の本阿弥光悦、八幡の松花堂昭乗と共に、江戸幕府の意を受けて京中の監視をしていたとの説もある。小堀遠州など当時の文化人とも広く交流したと伝えられるが、中でも親しく交わったのが、松花堂昭乗と佐川田喜六であり、京田辺市の一休寺(酬恩庵)の庭園は3人の合作によるとの伝えが遺されている。

学問

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  • 漢詩には閑適の詩が多い。七言絶句富士山」は詩吟を学ぶ初心者の練習によく用いられる。
せんかくきたりあそぶ うんがいのいただき
  白   雪   神   仙   仙客來たり遊ぶ 雲外の巓
  扇   龍   客   しんりゅう すみおゆ どうちゅうのふち
  倒   紈   栖   來   神龍 栖み老ゆ 洞中の淵
  懸   老   遊   ゆきはがんそのごとく けむりはえのごとし
  東   煙   洞   雲   雪は紈素の如く 煙は柄の如し
  海   中   外   はくせん さかしまにかかる とうかいのてん
  天   柄   淵   巓   白扇 倒に懸かる 東海の天
1671年『覆醤集』上より[8]  

訳注

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  • 『江戸詩人選集第一巻 石川丈山 元政上野洋三訳注、岩波書店、1991年(平成3年)、復刊 2001年(平成13年)。 

三十六詩仙

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丈山は選定に当たり林羅山と協議した。詩人の特徴によって2人ずつ対になっており、堂内でもそのように掲げられている。

蘇武-陶潜 謝霊運-鮑照 杜審言-陳子昂
李白-杜甫 王維-孟浩然 高適-岑参
儲光羲-王昌齢 韋応物-劉長卿 韓愈-柳宗元
劉禹錫-白居易 李賀-盧仝 杜牧-李商隠
寒山-霊澈 林逋-邵雍 梅堯臣-蘇舜欽
欧陽脩-蘇軾 黄庭堅-陳師道 陳与義-曽幾

出自

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丈山は源義家の子・石川義時の末裔である。義時の7代孫である石川信茂三河国に移住し、その7代孫の石川信貞松平長親に仕えたことにより、信貞の子孫は松平氏徳川氏の家臣となった[9]

系譜

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実線は実子、点線は養子。
石川信茂(掃部助、弥三郎)
 
 
 
石川高信(弥三郎)
 
 
 
石川信元(左近将監)
 
 
 
石川信尚(兵庫允)
 
 
 
石川信吉(左京亮)
 
 
 
石川信勝(隼人佐)
 
 
 
石川義信(又二郎
 
 
 
石川信貞(大炊助)
 
 
 
石川信治(嘉右衛門尉)
 
 
 
石川正信(嘉右衛門尉)
 
 
 
石川信定(嘉右衛門尉)
 
 
 
石川丈山(重之、嘉右衛門)

後裔

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実線は実子、点線は養子。
石川丈山(重之、嘉右衛門)
 
 
 
石川之昌(十太夫)
 
 
 
之利(半助、数馬)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
之祥之甫
 
 
 
 
 
之政敬之
 
 
 
 
 
茂太夫香之
 
 
 
 
 
之喬之信
 
 
 
 
 
之褧(石川竹崖安之
 
 
 
 
 
之圭(靖斉)之則
 
 
 
 
 
洋之助之貞

脚注

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注釈

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  1. ^ 石原八右衛門家春の子で、鎌田政家の末裔とされる[1]

出典

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  1. ^ 小川武彦、石島勇共著『石川丈山年譜』(青裳堂書店、1994年)
  2. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r 石川丈山”. 安城市図書情報館. 2022年8月閲覧。
  3. ^ a b c 石川丈山 京都観光Navi(京都市観光協会)、2021年3月9日閲覧。
  4. ^ 安城市 丈山苑 オフィシャルサイト
  5. ^ 石川丈山について 安城市 丈山苑 オフィシャルサイト”. 安城市 丈山苑 オフィシャルサイト. 2022年8月20日閲覧。
  6. ^ 上田正昭、津田秀夫、永原慶二、藤井松一、藤原彰、『コンサイス日本人名辞典 第5版』、株式会社三省堂、2009年 94頁。
  7. ^ 石川丈山について | 詩仙堂丈山寺”. kyoto-shisendo.net. 詩仙堂. 2022年8月20日閲覧。
  8. ^ 石川丈山『富士山』〈覆醤集〉1671年。 
  9. ^ 小川武彦、石島勇共著『石川丈山年譜』(青裳堂書店、1994年)

関連項目

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外部リンク

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