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「アレクサンドル1世 (ロシア皇帝)」の版間の差分

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'''アレクサンドル1世'''({{翻字併記|ru|'''Александр I'''|'''Aleksandr I'''}}、アレクサンドル・パヴロヴィチ・ロマノフ、{{翻字併記|ru|Александр Павлович Романов|Aleksandr Pavlovich Romanov}}、[[1777年]][[12月23日]](ユリウス暦[[12月12日]]) - [[1825年]][[12月1日]](ユリウス暦[[11月19日]]))は、[[ロマノフ朝]]第10代[[ロシア帝国|ロシア]][[ロシア皇帝|皇帝]](在位:[[1801年]][[3月23日]] - [[1825年]][[12月1日]])、初代[[ポーランド立憲王国]][[ポーランド国王|国王]]('''アレクサンデル1世'''、在位:[[1815年]][[6月9日]] - [[1825年]][[12月1日]])、初代[[フィンランド大公国|フィンランド]][[フィンランド大公|大公]]('''アレクサンテリ1世'''、在位:[[1809年]][[9月17日]] - [[1825年]][[12月1日]])。
'''アレクサンドル1世'''({{翻字併記|ru|'''Александр I'''|'''Aleksandr I'''}}、アレクサンドル・パヴロヴィチ・ロマノフ、{{翻字併記|ru|Александр Павлович Романов|Aleksandr Pavlovich Romanov}}、[[1777年]][[12月23日]](ユリウス暦[[12月12日]]) - [[1825年]][[12月1日]](ユリウス暦[[11月19日]]))は、[[ロマノフ朝]]第10代[[ロシア帝国|ロシア]][[ロシア皇帝|皇帝]](在位:[[1801年]][[3月23日]] - [[1825年]][[12月1日]])、初代[[ポーランド立憲王国]][[ポーランド国王|国王]]('''アレクサンデル1世'''、在位:[[1815年]][[6月9日]] - [[1825年]][[12月1日]])、初代[[フィンランド大公国|フィンランド]][[フィンランド大公|大公]]('''アレクサンテリ1世'''、在位:[[1809年]][[9月17日]] - [[1825年]][[12月1日]])。


皇帝[[パーヴェル1世]]と皇后[[マリア・フョードロヴナ (パーヴェル1世皇后)|マリア・フョードロヴナ]]の第1皇子。父帝暗殺後に帝位を継承し、当初は[[自由主義]]的改革を志向して開明的な政策をとったが、[[ナポレオン戦争]]を経て、治世後半は強権的反動政治に転じた。外交政策では、[[ナポレオン・ボナパルト|ナポレオン1世]]失脚後開かれた[[ウィーン会議]]で主導的な役割を演じ、以後のヨーロッパにおける君主主義、正統主義的反動体制の確立に尽力した。また、キリスト教倫理観に基づく[[神聖同盟]]を結成して[[ヨーロッパ]]諸国のあらゆる自由主義運動や[[ナショナリズム|国民主義]]運動の[[弾圧]]に協力した他、[[オスマン帝国]]に対する対[[イスラム]][[十字軍]]を目論んだ。アレクサンドル1世の治世中、ロシア帝国は[[フィンランド]]と[[ポーランド]]を獲得した。''{{独自研究範囲|歴代皇帝中、最も複雑怪奇な性格の持ち主とされ|date=2020年7月}}、''矛盾に満ちていた。
皇帝[[パーヴェル1世]]と皇后[[マリア・フョードロヴナ (パーヴェル1世皇后)|マリア・フョードロヴナ]]の第1皇子。父帝暗殺後に帝位を継承し、当初は[[自由主義]]的改革を志向して開明的な政策をとったが、[[ナポレオン戦争]]を経て、治世後半は強権的反動政治に転じた。外交政策では、[[ナポレオン・ボナパルト|ナポレオン1世]]失脚後開かれた[[ウィーン会議]]で主導的な役割を演じ、以後のヨーロッパにおける君主主義、正統主義的反動体制の確立に尽力した。また、キリスト教倫理観に基づく[[神聖同盟]]を結成して[[ヨーロッパ]]諸国のあらゆる自由主義運動や[[ナショナリズム|国民主義]]運動の[[弾圧]]に協力した他、[[オスマン帝国]]に対する対[[イスラム]][[十字軍]]を目論んだ。アレクサンドル1世の治世中、ロシア帝国は[[フィンランド]]と[[ポーランド]]を獲得した。''{{独自研究範囲|歴代皇帝中、最も複雑怪奇な性格の持ち主とされ|date=2020年7月}}、''矛盾に満ちていた。この複雑怪奇な性格は晩年になるにつれて顕著になり、周囲に対して皇帝の座を退位して隠遁したいという心情を吐露していたこともあって、1825年に病死したと見せかけて死を偽装して、帝位を捨て名前も変えて全くの別人に成り済まし、約40年間、シベリアの片田舎で生き延びた後、没したという生存伝説を民衆の間で生み出すことになる。これが「フョードル・クジミッチ(クジーミチ、クジミーチ)伝説」であり、この生存伝説の謎は後世の歴史家を大いに悩ませることになったが、今日ではアレクサンドル1世の死に関する記録(検死解剖記録や検死に立ち会った9人の医師のサインが署名されたことや同時代の人々の証言、肖像画と酷似したアレクサンドル1世のデスマスク)やクジミッチが記録に現れた時の強健な健康状態と晩年のアレクサンドル1世が腸チフスに苦しんでいたが、そのような健康状態でクジミッチが追放されたシベリアの極寒の環境に耐えられるのかという疑問も提起されており、確定はできないながらもほぼ否定されつつある


== 生涯 ==
== 生涯 ==
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こうしてナポレオンの失墜後、ヨーロッパ最強の君主となったアレクサンドル1世は、ヨーロッパに新たな国際秩序を再建すべく「ヨーロッパの救済者」としての自負を持って[[ウィーン会議]]に臨んだ。アレクサンドル1世は列強の首脳たちに対してキリスト教精神に基づく「[[神聖同盟]]」構想を発表し、これは最終的には実現を見たが、彼の[[神秘主義]]的、[[敬虔主義]]的態度は、列強首脳の冷笑と不信、猜疑心を募らせることとなった。アレクサンドル1世は真剣ではあったが、それ故に列強首脳は神聖同盟を言葉通り受け取ることはなく、ロシアの一層の覇権確立のための手段と受け取っていた。また、ヨーロッパやロシア国内の自由主義者たちは、彼の言動は偽善に過ぎないと受けとめていた。これに対して、アレクサンドル1世はロシア国内の反対を押して[[1815年]]に[[ポーランド立憲王国]]を復興し、ポーランドに対して[[憲法]]を与え、[[国会]]の開会を勅許した。また1809年に獲得したフィンランドも[[フィンランド大公国]]として承認され初代[[大公]]となった。ただスウェーデン王太子ベルナドットのフランス王への推戴は反発もあって取り下げた。
こうしてナポレオンの失墜後、ヨーロッパ最強の君主となったアレクサンドル1世は、ヨーロッパに新たな国際秩序を再建すべく「ヨーロッパの救済者」としての自負を持って[[ウィーン会議]]に臨んだ。アレクサンドル1世は列強の首脳たちに対してキリスト教精神に基づく「[[神聖同盟]]」構想を発表し、これは最終的には実現を見たが、彼の[[神秘主義]]的、[[敬虔主義]]的態度は、列強首脳の冷笑と不信、猜疑心を募らせることとなった。アレクサンドル1世は真剣ではあったが、それ故に列強首脳は神聖同盟を言葉通り受け取ることはなく、ロシアの一層の覇権確立のための手段と受け取っていた。また、ヨーロッパやロシア国内の自由主義者たちは、彼の言動は偽善に過ぎないと受けとめていた。これに対して、アレクサンドル1世はロシア国内の反対を押して[[1815年]]に[[ポーランド立憲王国]]を復興し、ポーランドに対して[[憲法]]を与え、[[国会]]の開会を勅許した。また1809年に獲得したフィンランドも[[フィンランド大公国]]として承認され初代[[大公]]となった。ただスウェーデン王太子ベルナドットのフランス王への推戴は反発もあって取り下げた。


=== 反動 ===
=== 反動と死 ===
[[1818年]]頃からアレクサンドル1世の政治的見解には変化が生じていった。ナポレオン戦争に従軍した青年将校の一部は、西欧の進歩に衝撃を受けるとともに祖国の遅れを痛感するようになった。こうした一部の近衛士官は急進化し、[[革命]]による共和制樹立、さらには皇帝暗殺の密議を謀る者まで現れた([[パーヴェル・ペステリ]]、[[ピョートル・カホフスキー]]、A.I.ヤクボーヴィチなど)。
[[1818年]]頃からアレクサンドル1世の政治的見解には変化が生じていった。ナポレオン戦争に従軍した青年将校の一部は、西欧の進歩に衝撃を受けるとともに祖国の遅れを痛感するようになった。こうした一部の近衛士官は急進化し、[[革命]]による共和制樹立、さらには皇帝暗殺の密議を謀る者まで現れた([[パーヴェル・ペステリ]]、[[ピョートル・カホフスキー]]、A.I.ヤクボーヴィチなど)。


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青年将校らの秘密結社は急進化していった。アレクサンドル1世は、こうした秘密結社の動きを把握していたと言われるが、晩年になり全てに無関心に陥るようになっていった([[鬱病]]の可能性が指摘されている)。国事行為から次第に身を引くようになり、国政はアラクチェーエフ伯に任せて引きこもりがちとなった。また宮廷に聖職者を招き、キリスト教信仰に救いを求めた。
青年将校らの秘密結社は急進化していった。アレクサンドル1世は、こうした秘密結社の動きを把握していたと言われるが、晩年になり全てに無関心に陥るようになっていった([[鬱病]]の可能性が指摘されている)。国事行為から次第に身を引くようになり、国政はアラクチェーエフ伯に任せて引きこもりがちとなった。また宮廷に聖職者を招き、キリスト教信仰に救いを求めた。


[[1825年]]9月、[[アレクサンドル・ネフスキー大修道院]]を訪問し、[[致命者]]的な苦行を自らに課していた老アレクセイと親しく会見した。その後、皇后を伴い黒海沿岸の[[タガンログ]]離宮に行幸する。11月熱病に罹り、快癒することなく[[11月19日]]崩御した。48歳。
[[1825年]]9月、[[アレクサンドル・ネフスキー大修道院]]を訪問し、[[致命者]]的な苦行を自らに課していた老アレクセイと親しく会見した。その後、皇后を伴い黒海沿岸の[[タガンログ]]離宮に行幸する。11月熱病(重い丹毒(傷口から細菌が入って起こる化膿性の感染症で、高熱を伴う)に罹り、快癒することなく[[11月19日]]崩御した。47没。死因は腸チフスであろうと考えられている


== 生存伝説 ==
アレクサンドル1世の突然の崩御は、全ての人々にとって寝耳に水の出来事であった。48歳の若さと身体的にはまだまだ健康と見られていたことから、その死を不可解なことと見なし、実はアレクサンドル1世は生きていて身分を隠して隠棲したとする説も流布された。特にシベリアに現れたフョードル・クジミッチ([[:ru:Фёдор Кузьмич|ru]])こそアレクサンドル1世に他ならないとする「クジミッチ伝説」が良く知られる。

=== 伝説のバージョン ===
アレクサンドル1世の突然の崩御は、全ての人々にとって寝耳に水の出来事であった。元来健康な身体の持ち主だったこと、没した土地がタガンログという僻地だったことが様々な風評を生みやすくした。遺体が崩御してから2ヶ月以上も経過した1826年の初めに首都サンクトペテルブルクに運ばれ、埋葬された。この際、棺は開けられることなく埋葬されたことも実際にはアレクサンドル1世は生きていて、皇帝の位を捨てて各地を放浪する聖者になったのだと広く語り継がれていくことにもなった(アレクサンドルの遺体は、閉じられた棺の中にあり、その顔を見た者は殆ど誰もいなかった。見た人も、それは皇帝のようには見えなかったと言った。もっとも、これには単純な説明もある。遺体をタガンログからサンクトペテルブルクに運ぶのに2ヶ月もかかったので、単に腐敗の影響だろうというものである)。また、なかにはアレクサンドル1世は毒殺されたというものもあったが、これを支持できる証拠は皆無であり、今日では否定されている。何よりも今日まで興味深く語られている風評は、47歳の若さと身体的にはまだまだ健康と見られていたことから、その死を不可解なことと見なし、実はアレクサンドル1世は生きていて身分を隠して隠棲したとする説が流布されたことである。特にアレクサンドル1世の崩御から11年後の1836年、モスクワから約1400km~1600km東にあるペルミの近くに現れて、背中に鞭打たれた跡があり、氏名、身分などをうまく説明できなかったため、地元警察は放浪のかどで拘留、シベリアに送るというこの処分に満足し、トムスク(モスクワ東方約3600km)付近に定住、教育と教養、博識があり、聖書や歴史に詳しく、賢明で親切で、信心深い性格、粗末な格好をしており、白髭におおわれているものの、強健かつ長身でよく顔を見ればなかなか端正。さらにちょっとした仕草にも優美さが感じられる為、柔和で徐々に言動や行動によってその地で尊敬の念を集めた(深い信仰を持つキリスト教徒として、いつでもシベリアの隣人たちを助ける用意があった彼は、間もなくその親切さと賢明さで崇拝をかち得た)聖人で、1864年に没したフョードル・クジミッチ(クジミーチ、クジーミチ、クジミィチ)・クジミン(クジミーン、クジーミン)([[:ru:Фёдор Кузьмич|ru]])こそアレクサンドル1世に他ならないとする「クジミッチ伝説」が良く知られる。クジミッチの噂はサンクトペテルブルクの宮廷にさえ届いた。また、クジミッチの話を聞きに大勢の人々が彼の下を訪れるようになった。クジミッチと面会した人たちは、その優雅な身のこなし、堂々たる態度に感銘を受け、「この御方は、かつては身分の高い方であったに違いない」と確信したという。

クジミッチは、記憶喪失状態で発見されたにも関わらず、よく昔話をした。

「1812年の戦争は、大変なものだった。ナポレオンがモスクワに入場した時のことを、今でもはっきりと思い出せる。クトゥーゾフ、バグラチオン……将軍たちはよくやったものだ」

しかもクジミッチは祖国戦争のことを詳しく語るばかりか、参戦した将軍と個人的な面識があったように語ったのである(クジミッチは生涯を通じ、帝都サンクトペテルブルクや、クトゥーゾフやスヴォーロフなどの軍司令官についてしばしば語った。その際、その話し方はあたかも個人的に知っているかのようだったと伝えられている。この正体不明の老人が1812年の祖国戦争(ナポレオンのロシア遠征)に参加していたことは明らかなようだった)。

流暢なフランス語を話すと信じられており、その姿が目撃されている(地元の守備隊の将校と話すときに、実際にその能力を示した)。

ある時、かつてアレクサンドル1世に仕えた兵士が、突如クジミッチを見て、「この方はアレクサンドル様に違いない!」と叫び出すと、クジミッチは慌てて「そんなことを言うんじゃない!」と相手を制止したという話が伝わっている。このようにかつて首都で勤務していた兵士たちの報告がいくつか残っているが、彼らには、聖者クジミッチが亡き皇帝そっくりに見えたといい、亡きアレクサンドル1世に似ていると断言した者がいたということが示唆されている。

彼が亡くなり手厚く葬られた墓は巡礼地となった。死後は「スターレツ(霊的な父)」という聖人に準ずる称号を贈られている(文字通りの意味は年長者、長老で、「霊的な父」を意味する。聖人に近い非公式の位)「スターレツ」(クジミッチ)の住んでいた家の周囲では、奇跡がたびたび目撃された為、その称号が送られた。更に30年後、日本訪問の帰りにニコライ皇太子(後のロマノフ家最後の皇帝ニコライ2世)も訪れている。後世には「スターレツ」の住んでいた家の跡地に、「聖アレクサンドル」を讃える教会が建てられた。正体不明の老人クジミッチは、柔和なように見えたが、 自分の過去について語ることは一切拒否し、亡くなるまで決しての本名を明かすことはなく、最後まで語らなかった。また、彼が生まれたときから“フョードル・クジミッチ”であったと信じる者もいなかった。

クジミッチが偽装したアレクサンドル1世だと最初に示唆したのは伝えられるところでは、セミョーン・フロモフという商人である。この商人は、クジミッチをトムスクの自宅に住まわせ、その老人が元皇帝だと完全に確信していたという。その為、フロモフはある種の有名人になってしまった。故にフロモフが時の皇帝アレクサンドル2世に手紙を書こうとしたのも不思議ではない。だがフロモフは、クジミッチが亡くなってから18年後の1882年にトムスク当局に逮捕された時、クジミッチの過去については何も知らないと言った。クジミッチ自身はと言えば、前述の通り、存命中に伝説を否定も肯定もしなかった。

以上の事から、確実視されるクジミッチの経歴は1812年のロシア戦役に参戦して生き残ったこと、1836年にモスクワから約1400km~1600km東にあるペルミの近くに現れて、放浪のかどでシベリア追放という処分を受けてトムスク(モスクワ東方約3600km)付近に定住、1864年に亡くなるまでにその地で尊敬の念を集めて、聖人とされた。という52年間である。

クジミッチの正体はロマノフ家とは非血縁の貴族で、失踪したフョードル・アレクサンドロヴィチ・ウヴァロフ(1780年 - 1827年1月7日失踪)という人物ともされる。

他方、ロマノフ家と結び付ける伝説も2つあり、1つ目はアレクサンドル1世の祖父ピョートル3世の母アンナの妹で女帝でもあるエリザヴェータ(1709年 - 1762年)の孫(娘の子)と語られている。女帝エリザヴェータと秘密結婚したラズモフスキー伯爵との間に生まれたと、18世紀後半にヨーロッパ中で自称し回り、帝位継承権を請求した皇女タラカーノヴァと結び付けられ、皇女タラカーノヴァがラジウィヴ伯爵との短い結婚生活で生まれた息子がクジミッチであるというものである。この伝説を史実とした場合、アレクサンドル1世とクジミッチは別人ではあるものの、直系ではなく傍系で遠い血縁関係(再従甥と再従伯叔父の関係)にあることになり、女系ではあるものの、クジミッチはロマノフ家の系譜に連なる人物となる。

2つ目は、ロマノフ家の一員で歴史家でもあるニコライ・ミハイロヴィチ(アレクサンドル1世の後継者にして弟ニコライ1世の孫の1人であり、アレクサンドル1世から見れば大甥にあたる。ニコライ2世の従兄でもある。1859年 - 1919年)が唱えている説である。ニコライ・ミハイロヴィチはアレクサンドル1世とクジミッチの研究結果として、アレクサンドル1世とクジミッチが同一人物である可能性は低いとしながらも、パーヴェル1世の庶子セミョーン(1772年 - 1794年。アレクサンドル1世の庶兄にあたる。海軍省によると、セミョーンは1794年8月24日にアンティル諸島の海域でのひどい嵐の中でイギリスのヴァンガード号の難破船で死んだ(セントユースタティウス島とセントトーマス島の地域で嵐に気づいた)とされ、正式に行方不明と見なされた)がクジミッチの正体だと結論付けている。この場合、クジミッチはアレクサンドル1世の異母兄となるが、現在推定されているクジミッチの生年(1776年か1777年生まれで86歳から88歳で没した)とは4年~5年の差があることになる(クジミッチがセミョーンと同一人物で1772年生まれとすれば没年齢は91歳~92歳となる)。ニコライ・ミハイロヴィチもクジミッチをロマノフ家の系譜に連なる人物であると考えていた(ちなみにニコライから見れば、アレクサンドル1世とセミョーンの2人はいずれも大伯父にあたる)。

総論としてクジミッチの正体については、

①アレクサンドル1世自身。

②フョードル・アレクサンドロヴィチ・ウヴァロフというロマノフ家とは血縁関係の無い貴族。

③アレクサンドル1世の叔曾祖母(曾祖母の妹)である女帝エリザヴェータの孫。

④アレクサンドル1世の異母兄セミョーン。

以上の説が、伝説を含めて現在に伝わっている。

=== 皇后の伝説 ===
なお、アレクサンドル1世の皇后エリザヴェータ・アレクセーエヴナにも似たような伝説があり、それによると皇后は1826年には死なず、ベラという修道女として35年間生き続け、1861年に没したという(ベラが歴史上の記録に現れるのは1834年)。ベラの正体については様々な推測が現在までなされているが、皇后エリザヴェータ・アレクセーエヴナと同一視される可能性は薄く、伝説の域にとどまっており史実とは見られていない。

=== 伝説の現在 ===
このような伝説はロシアに限っても類似例が多く見られる。例えば、ロマノフ朝が成立する前にロシアが経験した動乱時代(スムータ)に巻き起こったイヴァン4世の庶子ドミトリー皇子の生存説(ドミトリー皇子を名乗る人物が3名現れているが、いずれも偽物とされる。偽ドミトリー1世の正体について対峙した皇帝ボリス・ゴドゥノフはこの僭称者の存在を聞くと、特にはっきりした情報も掴めないうちに、彼を逃亡した[[修道士]]グレゴリー・オトレピエフ(俗名ユーリー)だと宣言している。偽ドミトリー2世に関しては本名は不明で、トゥシノを本拠としたことから、「トゥシノの悪党」と呼ばれた。偽ドミトリー3世はシドルカという名の[[助祭]]だったらしく、1612年3月2日、[[モスクワ]]近郊を荒らしていた[[コサック]]によってツァーリに推戴され、コサックの報復をおそれた[[プスコフ]]の指導層が彼を迎えて忠誠を誓ったため、「プスコフの悪党」と呼ばれた。一部の歴史家の中には本物のドミトリーが実は生き延び、スムータの時代に現れたと唱える者もいるが、仮にそうだとしても前述の通り、ドミトリー皇子を名乗る人物が3人現れていることから、全員が本物のドミトリー皇子だとは考えにくい。全員が本物だとすれば、偽ドミトリー1世から偽ドミトリー3世の3人が同一人物かつ本物のドミトリー皇子ということになり、公式上、4人の人物が同一人物となり、かなり話に無理がある。また、偽ドミトリー1世を支援していた多くのポーランド貴族たちが、彼を本物の皇子だと信じてはいなかったことは有名な事実である。当初、偽ドミトリー1世を支持し、彼の旗色が悪くなると裏切ったヴァシーリー・シュイスキー(後のヴァシーリー4世。傍系ながらリューリク朝の血を引く)は本物のドミトリーが死んでいることを実証するため、1606年年[[6月3日]]に皇子の遺体を掘り起こしてウグリチから[[モスクワ]]に運ばせている)、ロマノフ朝滅亡後、その最後の皇帝ニコライ2世の子女に関する生存説(特にニコライ2世の四女アナスタシア皇女に関する生存伝説)である。この2つはいずれも現在は信じている人は少ない。しかしこの2つとは異なって「アレクサンドル1世生存伝説」は未だに根深いものがある。その理由はアレクサンドル1世自身の内面史と、19世紀初期にロシアが経験した激動の歴史の1つの結末として説得力を持ち続けているからであり、アレクサンドル1世の生存伝説の扱いは歴史家の間でも慎重になされ続け、解決を見ていないというのが現状ではあるが、ほぼ否定されつつある。アレクサンドル1世の墓に遺体が無いということと年齢の一致もしくは近さ、姿勢の正しさと高身長、右耳に障害という外見上の類似性、高い教育水準と1801年頃から1825年頃のロシア宮廷の事情に精通していた、というようにアレクサンドル1世とクジミッチの2人には共通点が多く、更に2015年には「2人の筆跡には類似性がある」と発表されるなど、2人が同一人物であることを示す記録やデータが出てきているのも事実であり、クジミッチが他界する頃にはロマノフ家の人々もこの人物に並々ならぬ関心を寄せていたと広く信じられるようになっていたことも相俟って主流派では無いものの、生存伝説を全くの荒唐無稽とは結論しづらいという事態を引き起こし複雑にしてきた。一方、アレクサンドル1世の病気の記録(検死が行われ、9人の医師が署名している。また、アレクサンドル1世の顔の容姿と酷似したデスマスクとイギリス人医師の検死解剖記録が現代に伝わっている)や同時代の人々の証言とその治世の終わり頃の晩年には腸チフスを患っていたアレクサンドル1世が、クジミッチが現れたというシベリアで過酷な環境での苦難の生活に80代後半まで(あるいは90代前半まで)生き延びられるのか、それは考えにくいという疑問と反論も提起されている。実際、イギリス人医師の検死解剖記録と記録されているクジミッチの外見を含めた言動は一致せず、矛盾が見られる。以下はイギリス人医師で王立協会の特別会員でもあったロバート・リーがアレクサンドル1世の遺体を検死解剖した所見である。伝えられているクジミッチの噂と照合すると見事なまでに食い違いを見せており、所見はより細かな具体性を持っている。

「遺体の検死解剖にあたって、観察された外見的特徴は、体内に充血を伴った胆汁性の弛緩熱(病熱が出たり引いたりする症状)による死亡例で多く見られるものと同じである。脳髄の空洞に60ccの漿液が発見され、静脈及び動脈に血液が溜まっていた。脳の後部の硬膜と軟膜の間に癒着した部分があるが、これは古いもので大きな問題になるものではない。心臓と肺は健康だが、むくみがあった。肝臓は血液で腫れ上がり、色が黒ずんでいた。脾臓の組織は肥大し、軟化している。秋にクリミアで熱病が流行していたこと、皇帝(アレクサンドル1世)が沿岸地方に出発した後、急に気候が寒くなったこと、他の患者で確認した通りに、ペレコープを出立して数日経った後に通常みられる症状があらわれていること、その後の症状の推移や死後に示されている状態によって、アレクサンドル皇帝がクリミアで罹った胆汁性の弛緩熱で死亡したことは明らかである」

病気の記録が偽造されたという議論も取り沙汰されてもいるが、憶測の域を出ず、可能性も低く、根拠も薄い。また、クジミッチは、ウクライナと南部ロシアの特殊な語彙を使ったが、サンクトペテルブルクで生まれ育ったアレクサンドルがこれを知っていたとは考えづらい。クジミッチは亡くなる前、自身がトムスクに追放された後に自宅に住まわせてくれた商人セミョーン・フロモフに身元を明かす暗号化したメッセージメモを遺したが、それは今日に至るまで解読されてない(本物のメッセージメモは1909年に未知の状況下で消えて失われたと考えられている。現在、メッセージメモのコピーだけが残っており、品質があまり良くなく、さらに識別して解読することが遥かに困難になっている)。

クジミッチに関する証言を研究しても、真実と伝説を区別することは難しい。クジミッチが死去してから150年経っても、アレクサンドル1世との関わりを証明あるいは否定できた者はいなかった。歴史家アレクセイ・トゥルベツコイは、その画期的な著書『皇帝の伝説:消えたアレクサンドル1世』で、こう指摘する。20世紀半ばにパリに住んでいた著名なロシア貴族達でさえ、アレクサンドル1世は1825年には死んでおらず、残りの人生をシベリアでフョードル・クジミッチとして生きたと厳かに信じていた、と。

今日までこの問題を解明し得るであろうDNA鑑定などの遺伝学的調査は行われていない。人類学者ミハイル・ゲラシモフ(多くのツァーリ、皇族の遺体の調査を行ったことで知られる)によれば、政府は、アレクサンドルの棺を開けDNA検査を行って他のロマノフ家の人々と比較することを、絶えず拒否してきた。最後の解決手段としてはクジミッチの遺体鑑定がある。将来的に実施する可能性はあるようだが、まだ着手はされていない。一方、法医学的な調査は、仮に行われたとしても、結果は分かりにくく、すべての専門家が同意することはないとも言われている。

実はアレクサンドル1世の墓は、ソビエト政府によって発掘調査が行われている。そしてその結果は

「墓は空であった、あるいは何者かが墓を荒した兆候を発見した」

今日のロシアの歴史家たちの考えは次の点で一致する。

「フョードル・クジミッチは実在したが、アレクサンドル1世ではなかった。クジミッチは、恐らくロシア軍に勤務した高位の貴族であり、決して皇帝では無かった」

つまり、クジミッチの正体が誰であれ、ロマノフ家と血縁関係があるか否かに関わらず、アレクサンドル1世とクジミッチが同一人物である可能性は薄く、別人であるという説が有力になりつつある。しかし、DNA鑑定など決定的な物的証拠が出ていない以上、確定することはできない。かくして、アレクサンドル1世の死をめぐる真実、シベリアの荒野での隠遁の可能性は、いまだに藪の中であると言わざるを得ないのが現状である。少なくとも、その死を巡る奇怪な状況から、アレクサンドル1世は極秘のうちに人目を忍んで、宮廷生活から遁れたのではという疑いを、多くの人が持ったということは事実である。


== 人物と評価 ==
== 人物と評価 ==
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[[Category:ポーランド国王]]
[[Category:ポーランド国王]]
[[Category:フィンランド大公]]
[[Category:フィンランド大公]]
[[Category:パーヴェル1世の子女]]
[[Category:ホルシュタイン=ゴットルプ=ロマノフ家]]
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[[Category:ナポレオン戦争の人物]]
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[[Category:19世紀ロシア人物]]

2020年12月8日 (火) 05:59時点における版

アレクサンドル1世
Александр I
ロシア皇帝
在位 1801年3月23日 - 1825年12月1日
1815年6月9日 - 1825年12月1日ポーランド国王
1809年9月17日 - 1825年12月1日フィンランド大公
戴冠式 1801年9月15日、於モスクワ・ウスペンスキー大聖堂

全名 Александр Павлович
アレクサンドル・パヴロヴィチ
出生 (1777-12-23) 1777年12月23日
ロシア帝国の旗 ロシア帝国サンクトペテルブルク
死去 (1825-12-01) 1825年12月1日(47歳没)
ロシア帝国の旗 ロシア帝国タガンログ
埋葬 ロシア帝国の旗 ロシア帝国サンクトペテルブルクペトロパヴロフスキー大聖堂
配偶者 エリザヴェータ・アレクセーエヴナ
子女 マリア(実父はアダム・イエジィ・チャルトリスキ
エリザヴェータ(実父はアレクセイ・オコトニコフ
ソフィア(庶子)
家名 ホルシュタイン=ゴットルプ=ロマノフ家
王朝 ホルシュタイン=ゴットルプ=ロマノフ朝
父親 パーヴェル1世
母親 マリア・フョードロヴナ
宗教 キリスト教正教会
サイン
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アレクサンドル1世ロシア語: Александр I, ラテン文字転写: Aleksandr I、アレクサンドル・パヴロヴィチ・ロマノフ、ロシア語: Александр Павлович Романов, ラテン文字転写: Aleksandr Pavlovich Romanov1777年12月23日(ユリウス暦12月12日) - 1825年12月1日(ユリウス暦11月19日))は、ロマノフ朝第10代ロシア皇帝(在位:1801年3月23日 - 1825年12月1日)、初代ポーランド立憲王国国王アレクサンデル1世、在位:1815年6月9日 - 1825年12月1日)、初代フィンランド大公アレクサンテリ1世、在位:1809年9月17日 - 1825年12月1日)。

皇帝パーヴェル1世と皇后マリア・フョードロヴナの第1皇子。父帝暗殺後に帝位を継承し、当初は自由主義的改革を志向して開明的な政策をとったが、ナポレオン戦争を経て、治世後半は強権的反動政治に転じた。外交政策では、ナポレオン1世失脚後開かれたウィーン会議で主導的な役割を演じ、以後のヨーロッパにおける君主主義、正統主義的反動体制の確立に尽力した。また、キリスト教倫理観に基づく神聖同盟を結成してヨーロッパ諸国のあらゆる自由主義運動や国民主義運動の弾圧に協力した他、オスマン帝国に対する対イスラム十字軍を目論んだ。アレクサンドル1世の治世中、ロシア帝国はフィンランドポーランドを獲得した。歴代皇帝中、最も複雑怪奇な性格の持ち主とされ[独自研究?]矛盾に満ちていた。この複雑怪奇な性格は晩年になるにつれて顕著になり、周囲に対して皇帝の座を退位して隠遁したいという心情を吐露していたこともあって、1825年に病死したと見せかけて死を偽装して、帝位を捨て名前も変えて全くの別人に成り済まし、約40年間、シベリアの片田舎で生き延びた後、没したという生存伝説を民衆の間で生み出すことになる。これが「フョードル・クジミッチ(クジーミチ、クジミーチ)伝説」であり、この生存伝説の謎は後世の歴史家を大いに悩ませることになったが、今日ではアレクサンドル1世の死に関する記録(検死解剖記録や検死に立ち会った9人の医師のサインが署名されたことや同時代の人々の証言、肖像画と酷似したアレクサンドル1世のデスマスク)やクジミッチが記録に現れた時の強健な健康状態と晩年のアレクサンドル1世が腸チフスに苦しんでいたが、そのような健康状態でクジミッチが追放されたシベリアの極寒の環境に耐えられるのかという疑問も提起されており、確定はできないながらもほぼ否定されつつある。

生涯

生い立ち

1777年12月23日、パーヴェル・ペトローヴィチ大公(のちのロシア皇帝パーヴェル1世)とヴュルテンベルクフリードリヒ・オイゲンの娘マリア・フョードロヴナ(ドイツ名ゾフィー・ドロテア)の第1皇子としてサンクトペテルブルクに生まれる。祖母に当たる女帝エカチェリーナ2世によって、アレクサンドル・ネフスキーにちなんで命名された。

生まれてすぐに、祖母であるエカチェリーナ2世によって両親のいるガッチナ宮殿から引き離され、女帝の手元で養育された[1]。彼の性格と行動は以後の環境と教育によってもたらされたものであると考えられている。エカチェリーナは息子のパーヴェルと折り合いが悪く、彼を排して皇孫たるアレクサンドルを帝位につけることも念頭にあったと伝えられる。アレクサンドルは祖母と父との間にあって、上手く立ち回る術を身につけた。

こうした後に狡猾かつ偽善的と言われる性格は、アレクサンドルに施された教育によって一層強くなった。7歳から11年間家庭教師として彼に教育を施したのは、スイス人のジャコバン主義者であったフレデリック・セザール・ド・ラ・アルプ[2]であった。ルソーに心酔し、根っからの共和主義者であったラ・アルプの影響によってアレクサンドルは自由主義的傾向を強く持つようになったが、ラ・アルプによる教育は結婚によって中断され、中途半端な理想論を持たせるだけに終わった。

ラ・アルプと並び、傅育官としての礼法と健康を担当した軍人ニコライ・サルトゥイコフ(ru)大佐からは、ロシアの伝統的な皇帝(ツァーリ)専制の原則を叩き込まれた。若い頃のアレクサンドルはフランス革命ポーランドの反乱に同情的であったが、サルトゥイコフによって、毎週金曜日に父パーヴェルの住むガッチナに赴き、閲兵式に臨席し、自ら中隊を指揮した。パーヴェル1世の即位後は、以前の人類愛に対する共感は蔭を潜め、冷笑的かつ曖昧な態度を身につけた。

帝位継承

1793年、アレクサンドルはバーデン大公女ルイーズ(結婚後はエリザヴェータ・アレクセーエヴナ)と結婚した。1796年11月エカチェリーナ2世が崩御し、パーヴェル1世が即位した。パーヴェル1世は貴族層を中心に多くの人々の反感を買い、暗殺が計画された。1801年3月11日深夜から翌12日にかけて、ニコライ・パーニン伯、ペテルブルク総督パーレン伯を中心とする近衛連隊がパーヴェル1世の住むミハイロフスキー宮殿に乱入し、皇帝は暗殺された(パーヴェル1世暗殺事件ロシア語版)。

パーヴェル1世暗殺に関して、アレクサンドルの役割については歴史家の間で議論が交わされている。陰謀について事前に計画を知っていた、または決行の日を決めたと言われるが、実際に父帝が殺害されたことに対して非常な衝撃を受けた。アレクサンドルは、罪悪感にさいなまれると同時に父の死を目の当たりにし、また祖父ピョートル3世の非業の死(宮廷クーデター (1762年)ロシア語版)を思い、より慎重になった。1801年3月23日に即位した。

治世初期

秘密委員会

帝位に就いたアレクサンドル1世は、早速「自由主義的」な改革に着手した。彼は、非公式の諮問機関として秘密委員会を設立した。この委員会は、アレクサンドルの「若き友人たち」、すなわちパーヴェル・ストロガノフニコライ・ノヴォシリツェフヴィクトル・コチュベイアダム・イエジィ・チャルトリスキら、西欧の進歩的啓蒙思想に通じた青年貴族たちによって組織された。

秘密委員会はアレクサンドル1世自身が議長となって、活発な議論が行われた。議論はロシア帝国の改造、すなわち専制から法的秩序の確立のため、憲法を中心とする立憲君主制の導入、農奴制の廃止、教育制度の改革といった問題について討議がなされた。秘密委員会での議論はその多くが空論のまま終わった感があるが、それでもいくつかが具現化された。中央官庁の官制改革が実施され、ピョートル1世によって創設された参議会(コレギア)制は廃止され、代わって外務、陸軍、海軍、内務、大蔵、文部(国民啓蒙)、司法、商務の8省庁が設置された。各省には大臣が置かれ、連絡・調整機関として大臣委員会が組織された。

秘密委員会では農奴解放、土地改革についても議論を繰り広げたが、パーヴェル・ストロガノフの農奴解放推進論は結局、1861年アレクサンドル2世による農奴解放令を待たなければならなかった。この段階では、1803年2月20日の勅令で領主が自発的に農奴を土地つき、有償で解放し、自由耕作民とするという限定的な内容であった。

アレクサンドル1世と秘密委員会の構想した改革は、貴族層を中心に保守派の反発を招いた。また、彼の「若き友人たち」も現実に直面し、1807年に秘密委員会は解散を余儀なくされた。

スペランスキー改革

1801年に開始された立憲制導入を目標とする法制改革、国制改革はミハイル・スペランスキーによって担われることとなった。アレクサンドル1世から改革案作成を命じられたスペランスキーは、極めて大胆な「国家改造」とも呼べる法制改革案を提案した。改革案では基本姿勢として、憲法の制定、皇帝の下での立法行政司法の各国家機関の整備、法の支配による立憲君主制の確立が掲げられた。具体的には、皇帝の任命による国家評議会と、間接選挙による国会(ドゥーマ)の設立であった。

しかし、スペランスキーの国制改革案はあまりにも時期尚早であり、アレクサンドル1世のお気に入りの妹で帝位に執着を見せていたエカテリーナ・パーヴロヴナ大公女をはじめ、貴族・官僚層の憤激を買った。スペランスキーへの排斥が激化する中で、アレクサンドル1世は国制改革の推進に躊躇するようになる。また、彼の念頭にはナポレオン・ボナパルトとの関係悪化があった。アレクサンドル1世はナポレオンとの対決に備え、国内における対立に終止符を打つ必要性に迫られた。1812年3月、スペランスキーは国家顧問を解任され、ニジニ・ノヴゴロドに追放された。

ヨーロッパに対する影響

フリードリヒ・ヴィルヘルム3世夫妻とともにフリードリヒ大王の棺を拝むアレクサンドル1世

アレクサンドル1世は、国内政治よりも外交における業績に顕著なものが見られる。事実、彼の壮大な想像力は、ヨーロッパにおける諸問題により強く惹きつけられていた。アレクサンドル1世は即位直後、父帝の中立路線を翻し、1801年にイギリスと同盟した。同時に神聖ローマ皇帝フランツ2世(のちのオーストリア皇帝フランツ1世)と同盟を協議し、さらにプロイセンフリードリヒ・ヴィルヘルム3世とはメーメル(現在のクライペダ)で同盟を締結した。

こうした各国との同盟の背景にはナポレオン・ボナパルトの存在があった。始めアレクサンドル1世はラ・アルプの影響からナポレオンに対して敬意を示していた。しかし、フランスを訪問したラ・アルプはナポレオンに、軍事独裁者としての片鱗を鋭く見て取り、帰国後アレクサンドルに対して全否定する報告を提出した。このラ・アルプの酷評に加え、1804年にナポレオンの命でブルボン家の王族であるアンギャン公ルイ・アントワーヌが処刑されたことで、アレクサンドルはナポレオンの野心に恐怖を抱くようにすらなっていた。アンギャン公処刑を契機に露仏関係は冷却化し、国交を断絶するに至った。

ナポレオン包囲網

1804年12月にフランス皇帝に即位したナポレオンを「ヨーロッパの圧制者、世界の平和の妨害者」として、アレクサンドル1世は1805年にイギリス、オーストリアと第三次対仏大同盟を結んだ。彼が英国に派遣したノヴォシリツェフは、ウィリアム・ピット首相(小ピット)、カスルリー外相に、ナポレオンに対する勝利はフランスを専制者から解放することのみならず、ヨーロッパに平和をもたらす人類の神聖な権利であると説いた。キリストの意志による神の任務を遂行するといった主張には、後の神聖同盟の萌芽が見て取れる。

一方ナポレオンは対仏大同盟の一角を崩すために、ロシアに対してはポーランド人オスマン帝国ペルシアと同盟関係を結び、ロシアを牽制した。また、ロシア国内では、皇弟コンスタンチン・パヴロヴィチ大公が対仏大同盟からの離脱を唱えるなど、国内にも反対勢力が形成されたが、ナポレオンを「反キリスト」と見なすアレクサンドル1世の戦意は旺盛であった。

大陸封鎖

ティルジットの和約の調印に臨むアレクサンドル1世、ナポレオン1世とフリードリヒ・ヴィルヘルム3世夫妻
エアフルトの会談に臨むアレクサンドル1世とナポレオン1世

1805年12月2日アウステルリッツの戦い(三帝会戦)に敗れたアレクサンドル1世は、這々の体でロシアへ逃走した。次いで1807年2月のアイラウの戦い、6月のフリートラントの戦いで敗北したアレクサンドルは、ナポレオンとの間に講和を結ばざるを得なくなった。ここに両者はプロイセン・ロシア国境のネマン川に浮かぶ筏の上で初めて顔を合わせた。7月7日、アレクサンドルはティルジットの和約に合意し、対仏大同盟からロシアを離脱させ、対英経済封鎖網である大陸封鎖令に参加することとなった。ロシアは英国と断交、宣戦布告することとなる(英露戦争)。

一方でナポレオンはアレクサンドル1世にフィンランドを与える約束をしたことから、スウェーデンと戦争(第二次ロシア・スウェーデン戦争)となり、これに勝利して、1809年9月のフレデリクスハムンの和約においてフィンランドを併合する。さらに1806年からトルコと戦争状態に入り、ベッサラビアを併合(1812年)した。

ナポレオンに対して、誠実な同盟者として振る舞っていたアレクサンドル1世であったが、ティルジットでの会見から1年後、1808年10月12日エルフルトの会談では、同盟を再確認したものの、ナポレオンによって議題として取り上げられたポーランド問題をめぐり、両者の間に緊張状態が拡がることとなった。そもそもロシア国内においてはティルジットの和約に対して「フランス革命の申し子」「コルシカの成り上がり者」「アンチ・キリスト」との同盟に保守層(つまりは貴族)の批判が上がっていた。特にこの時期は上述の通り、スペランスキーによる立憲制導入の試みが行われようとしていた時期でもあり、尚更であった。これに加えて貴族たちは、自分の領地から収穫される農産物をイギリスに対して輸出し、利益を上げていたため、大陸封鎖は経済的な点から言って死活問題でもあった。

ナポレオンはアレクサンドル1世の誠実さを試すために、さらにはボナパルト家と諸王室との血縁・縁組を渇望し、アンナ・パーヴロヴナ大公女との結婚を申し込んだ。アレクサンドルはアンナが当時15歳で年端もいかないことと、皇太后マリア・フョードロヴナの反対を口実にこの申し入れを拒絶した。1809年、ナポレオンはジョゼフィーヌとの離婚と、オーストリア皇女マリー・ルイーズとの婚約を発表した。

さらにこの後、フランス軍はオルデンブルク大公国に進駐した。同大公国にはアレクサンドルの妹エカテリーナが大公妃として嫁いでいたため、露仏間の同盟には決定的な亀裂が走ることとなった。アレクサンドルは、秘密裏にフランスと決裂の時を待ち、軍を動員した。ナポレオンも、ロシアが大陸封鎖令に違反していることを口実に、ロシア遠征の準備を開始し、ワルシャワ公国とプロイセンに大陸軍の集結を開始した。アレクサンドルとナポレオンは再び共には天を戴かぬ関係へと戻った。

祖国戦争

1812年6月24日ナポレオンの率いる総勢69万1500人の大陸軍は、ロシア国境のネマン川を渡河し、ヴィルノに集結し、ロシア領内に侵入した。ロシア軍はこれを迎え撃たず、後退する焦土作戦を採った。アレクサンドル1世は、後退策が消極的であるとの批判が起こると総司令官バルクライ・ド・トーリを解任し、後任にクトゥーゾフ将軍を任命した。クトゥーゾフは、ボロジノの戦いで激突した後は軍を後退させ、9月14日ナポレオンはモスクワに入城した。しかしその夜、モスクワは大火に見舞われた。ナポレオンは撤退を決断し、フランスが誇る大陸軍は退却を開始した。

アレクサンドル1世はモスクワ大火と冬将軍で大陸軍をロシア国内から退去せしめたが、その勢いに乗じて、対仏大同盟を復活させることに成功した。1812年7月18日、フィンランドでスウェーデン王太子に任命されたベルナドットと友好関係を結び、スウェーデンを対仏同盟側へと復活させた。その折りにベルナドットにノルウェーの取得とフランスの王位推戴を約束することで、フィンランドのロシア領は確定する。1813年1814年諸国民の戦い第六次対仏大同盟)に乗じてアレクサンドル1世は軍を進め、パリに入城した。

モスクワ炎上後の様々な出来事は、アレクサンドル1世の精神を昂揚させ、後にドイツ人牧師アイレルトに対して、「モスクワの大火は私の魂を照らし出した。その時、私は初めて神を知ることができ、別人となった」と述べ、「我が魂は今や光明を見出し、神の啓示により自分はヨーロッパの調停者という使命を帯びることとなった」と断言するようになった。

こうしてナポレオンの失墜後、ヨーロッパ最強の君主となったアレクサンドル1世は、ヨーロッパに新たな国際秩序を再建すべく「ヨーロッパの救済者」としての自負を持ってウィーン会議に臨んだ。アレクサンドル1世は列強の首脳たちに対してキリスト教精神に基づく「神聖同盟」構想を発表し、これは最終的には実現を見たが、彼の神秘主義的、敬虔主義的態度は、列強首脳の冷笑と不信、猜疑心を募らせることとなった。アレクサンドル1世は真剣ではあったが、それ故に列強首脳は神聖同盟を言葉通り受け取ることはなく、ロシアの一層の覇権確立のための手段と受け取っていた。また、ヨーロッパやロシア国内の自由主義者たちは、彼の言動は偽善に過ぎないと受けとめていた。これに対して、アレクサンドル1世はロシア国内の反対を押して1815年ポーランド立憲王国を復興し、ポーランドに対して憲法を与え、国会の開会を勅許した。また1809年に獲得したフィンランドもフィンランド大公国として承認され初代大公となった。ただスウェーデン王太子ベルナドットのフランス王への推戴は反発もあって取り下げた。

反動と死

1818年頃からアレクサンドル1世の政治的見解には変化が生じていった。ナポレオン戦争に従軍した青年将校の一部は、西欧の進歩に衝撃を受けるとともに祖国の遅れを痛感するようになった。こうした一部の近衛士官は急進化し、革命による共和制樹立、さらには皇帝暗殺の密議を謀る者まで現れた(パーヴェル・ペステリピョートル・カホフスキー、A.I.ヤクボーヴィチなど)。

このような動きが当局によって露見すると、アレクサンドル1世はそれまでの自由主義的政治思想をかなぐり捨てた。対外的には、エクス・ラ・シャペルアーヘン)でオーストリア宰相メッテルニヒと会談し、親交を結んだ。その後、メッテルニヒに強く影響されるようになり、ナポリ、及びピエモンテで革命が勃発したのを契機にフランス、ドイツ、ロシア国内に動揺が波及するに及んで、一挙に反動化していった。

1820年10月、トロッパウ(現在のオパヴァw:Opava))で行われた会議に出席し、自由主義運動を弾圧するために相互に内政干渉ができると定めたトロッパウ議定書Troppau Protocol)に署名した。1821年にはライバッハ(現在のリュブリャナ)で行われた同様の会議に出席した。この時にオスマン帝国からギリシャ人が独立を目指して反乱を起こしたという報に接したアレクサンドルは、この時から死ぬまで、オスマン帝国から正教会の守護者としての立場とヨーロッパにおける神聖同盟という夢想を抱え、絶えず不安に揺れ動くこととなる。当初は、メッテルニヒに巧みに操られ、ヨーロッパ同盟に重きを置きつつ、正教十字軍の構想とを融合させるべく努力を重ねた。

ロシア国内では、アレクサンドル1世の宗教的「啓蒙主義」の国内普及という考えは、国家主義、反動政治となって展開された。1817年に文部省を宗務と統合し、ゴリツィン公爵を新設された啓蒙宗務教育に任命した。ゴリツィン公については自由主義者との評価・解釈がある一方で、1819年から1821年にかけて新設された帝国大学の閉鎖や、学校教育における自然法倫理学論理学の禁止と聖書教育の徹底という反動政策が行われた。

ゴリツィン公は以上のような教育における反動主義の実行者であったが、ゴリツィン公でさえも、ロシア正教会からは自由主義的と異端視される傾向があった。アレクサンドル1世の寵臣で元陸軍大臣アレクセイ・アラクチェーエフ伯爵と権力闘争を繰り広げることとなる。アレクサンドル1世は両者を使い分け均衡を保っていたが、権力闘争の結果ゴリツィン公は敗れ、辞職を余儀なくされた。アラクチューエフは大臣会議国家評議会皇帝官房を掌握し、事実上国政を壟断した。アラクチューエフは無知で残忍かつ卑屈であったが、アレクサンドル1世には忠実で、ナポレオン戦争後の破綻した国家財政再建策として屯田村を創設したが、結果は惨憺たるものに終わった。

1825年、アレクサンドル1世は行幸中のタガンログ離宮で急逝した

青年将校らの秘密結社は急進化していった。アレクサンドル1世は、こうした秘密結社の動きを把握していたと言われるが、晩年になり全てに無関心に陥るようになっていった(鬱病の可能性が指摘されている)。国事行為から次第に身を引くようになり、国政はアラクチェーエフ伯に任せて引きこもりがちとなった。また宮廷に聖職者を招き、キリスト教信仰に救いを求めた。

1825年9月、アレクサンドル・ネフスキー大修道院を訪問し、致命者的な苦行を自らに課していた老アレクセイと親しく会見した。その後、皇后を伴い黒海沿岸のタガンログ離宮に行幸する。11月熱病(重い丹毒(傷口から細菌が入って起こる化膿性の感染症で、高熱を伴う)に罹り、快癒することなく11月19日崩御した。47歳没。死因は腸チフスであろうと考えられている。

生存伝説

伝説のバージョン

アレクサンドル1世の突然の崩御は、全ての人々にとって寝耳に水の出来事であった。元来健康な身体の持ち主だったこと、没した土地がタガンログという僻地だったことが様々な風評を生みやすくした。遺体が崩御してから2ヶ月以上も経過した1826年の初めに首都サンクトペテルブルクに運ばれ、埋葬された。この際、棺は開けられることなく埋葬されたことも実際にはアレクサンドル1世は生きていて、皇帝の位を捨てて各地を放浪する聖者になったのだと広く語り継がれていくことにもなった(アレクサンドルの遺体は、閉じられた棺の中にあり、その顔を見た者は殆ど誰もいなかった。見た人も、それは皇帝のようには見えなかったと言った。もっとも、これには単純な説明もある。遺体をタガンログからサンクトペテルブルクに運ぶのに2ヶ月もかかったので、単に腐敗の影響だろうというものである)。また、なかにはアレクサンドル1世は毒殺されたというものもあったが、これを支持できる証拠は皆無であり、今日では否定されている。何よりも今日まで興味深く語られている風評は、47歳の若さと身体的にはまだまだ健康と見られていたことから、その死を不可解なことと見なし、実はアレクサンドル1世は生きていて身分を隠して隠棲したとする説が流布されたことである。特にアレクサンドル1世の崩御から11年後の1836年、モスクワから約1400km~1600km東にあるペルミの近くに現れて、背中に鞭打たれた跡があり、氏名、身分などをうまく説明できなかったため、地元警察は放浪のかどで拘留、シベリアに送るというこの処分に満足し、トムスク(モスクワ東方約3600km)付近に定住、教育と教養、博識があり、聖書や歴史に詳しく、賢明で親切で、信心深い性格、粗末な格好をしており、白髭におおわれているものの、強健かつ長身でよく顔を見ればなかなか端正。さらにちょっとした仕草にも優美さが感じられる為、柔和で徐々に言動や行動によってその地で尊敬の念を集めた(深い信仰を持つキリスト教徒として、いつでもシベリアの隣人たちを助ける用意があった彼は、間もなくその親切さと賢明さで崇拝をかち得た)聖人で、1864年に没したフョードル・クジミッチ(クジミーチ、クジーミチ、クジミィチ)・クジミン(クジミーン、クジーミン)(ru)こそアレクサンドル1世に他ならないとする「クジミッチ伝説」が良く知られる。クジミッチの噂はサンクトペテルブルクの宮廷にさえ届いた。また、クジミッチの話を聞きに大勢の人々が彼の下を訪れるようになった。クジミッチと面会した人たちは、その優雅な身のこなし、堂々たる態度に感銘を受け、「この御方は、かつては身分の高い方であったに違いない」と確信したという。

クジミッチは、記憶喪失状態で発見されたにも関わらず、よく昔話をした。

「1812年の戦争は、大変なものだった。ナポレオンがモスクワに入場した時のことを、今でもはっきりと思い出せる。クトゥーゾフ、バグラチオン……将軍たちはよくやったものだ」

しかもクジミッチは祖国戦争のことを詳しく語るばかりか、参戦した将軍と個人的な面識があったように語ったのである(クジミッチは生涯を通じ、帝都サンクトペテルブルクや、クトゥーゾフやスヴォーロフなどの軍司令官についてしばしば語った。その際、その話し方はあたかも個人的に知っているかのようだったと伝えられている。この正体不明の老人が1812年の祖国戦争(ナポレオンのロシア遠征)に参加していたことは明らかなようだった)。

流暢なフランス語を話すと信じられており、その姿が目撃されている(地元の守備隊の将校と話すときに、実際にその能力を示した)。

ある時、かつてアレクサンドル1世に仕えた兵士が、突如クジミッチを見て、「この方はアレクサンドル様に違いない!」と叫び出すと、クジミッチは慌てて「そんなことを言うんじゃない!」と相手を制止したという話が伝わっている。このようにかつて首都で勤務していた兵士たちの報告がいくつか残っているが、彼らには、聖者クジミッチが亡き皇帝そっくりに見えたといい、亡きアレクサンドル1世に似ていると断言した者がいたということが示唆されている。

彼が亡くなり手厚く葬られた墓は巡礼地となった。死後は「スターレツ(霊的な父)」という聖人に準ずる称号を贈られている(文字通りの意味は年長者、長老で、「霊的な父」を意味する。聖人に近い非公式の位)「スターレツ」(クジミッチ)の住んでいた家の周囲では、奇跡がたびたび目撃された為、その称号が送られた。更に30年後、日本訪問の帰りにニコライ皇太子(後のロマノフ家最後の皇帝ニコライ2世)も訪れている。後世には「スターレツ」の住んでいた家の跡地に、「聖アレクサンドル」を讃える教会が建てられた。正体不明の老人クジミッチは、柔和なように見えたが、 自分の過去について語ることは一切拒否し、亡くなるまで決しての本名を明かすことはなく、最後まで語らなかった。また、彼が生まれたときから“フョードル・クジミッチ”であったと信じる者もいなかった。

クジミッチが偽装したアレクサンドル1世だと最初に示唆したのは伝えられるところでは、セミョーン・フロモフという商人である。この商人は、クジミッチをトムスクの自宅に住まわせ、その老人が元皇帝だと完全に確信していたという。その為、フロモフはある種の有名人になってしまった。故にフロモフが時の皇帝アレクサンドル2世に手紙を書こうとしたのも不思議ではない。だがフロモフは、クジミッチが亡くなってから18年後の1882年にトムスク当局に逮捕された時、クジミッチの過去については何も知らないと言った。クジミッチ自身はと言えば、前述の通り、存命中に伝説を否定も肯定もしなかった。

以上の事から、確実視されるクジミッチの経歴は1812年のロシア戦役に参戦して生き残ったこと、1836年にモスクワから約1400km~1600km東にあるペルミの近くに現れて、放浪のかどでシベリア追放という処分を受けてトムスク(モスクワ東方約3600km)付近に定住、1864年に亡くなるまでにその地で尊敬の念を集めて、聖人とされた。という52年間である。

クジミッチの正体はロマノフ家とは非血縁の貴族で、失踪したフョードル・アレクサンドロヴィチ・ウヴァロフ(1780年 - 1827年1月7日失踪)という人物ともされる。

他方、ロマノフ家と結び付ける伝説も2つあり、1つ目はアレクサンドル1世の祖父ピョートル3世の母アンナの妹で女帝でもあるエリザヴェータ(1709年 - 1762年)の孫(娘の子)と語られている。女帝エリザヴェータと秘密結婚したラズモフスキー伯爵との間に生まれたと、18世紀後半にヨーロッパ中で自称し回り、帝位継承権を請求した皇女タラカーノヴァと結び付けられ、皇女タラカーノヴァがラジウィヴ伯爵との短い結婚生活で生まれた息子がクジミッチであるというものである。この伝説を史実とした場合、アレクサンドル1世とクジミッチは別人ではあるものの、直系ではなく傍系で遠い血縁関係(再従甥と再従伯叔父の関係)にあることになり、女系ではあるものの、クジミッチはロマノフ家の系譜に連なる人物となる。

2つ目は、ロマノフ家の一員で歴史家でもあるニコライ・ミハイロヴィチ(アレクサンドル1世の後継者にして弟ニコライ1世の孫の1人であり、アレクサンドル1世から見れば大甥にあたる。ニコライ2世の従兄でもある。1859年 - 1919年)が唱えている説である。ニコライ・ミハイロヴィチはアレクサンドル1世とクジミッチの研究結果として、アレクサンドル1世とクジミッチが同一人物である可能性は低いとしながらも、パーヴェル1世の庶子セミョーン(1772年 - 1794年。アレクサンドル1世の庶兄にあたる。海軍省によると、セミョーンは1794年8月24日にアンティル諸島の海域でのひどい嵐の中でイギリスのヴァンガード号の難破船で死んだ(セントユースタティウス島とセントトーマス島の地域で嵐に気づいた)とされ、正式に行方不明と見なされた)がクジミッチの正体だと結論付けている。この場合、クジミッチはアレクサンドル1世の異母兄となるが、現在推定されているクジミッチの生年(1776年か1777年生まれで86歳から88歳で没した)とは4年~5年の差があることになる(クジミッチがセミョーンと同一人物で1772年生まれとすれば没年齢は91歳~92歳となる)。ニコライ・ミハイロヴィチもクジミッチをロマノフ家の系譜に連なる人物であると考えていた(ちなみにニコライから見れば、アレクサンドル1世とセミョーンの2人はいずれも大伯父にあたる)。

総論としてクジミッチの正体については、

①アレクサンドル1世自身。

②フョードル・アレクサンドロヴィチ・ウヴァロフというロマノフ家とは血縁関係の無い貴族。

③アレクサンドル1世の叔曾祖母(曾祖母の妹)である女帝エリザヴェータの孫。

④アレクサンドル1世の異母兄セミョーン。

以上の説が、伝説を含めて現在に伝わっている。

皇后の伝説

なお、アレクサンドル1世の皇后エリザヴェータ・アレクセーエヴナにも似たような伝説があり、それによると皇后は1826年には死なず、ベラという修道女として35年間生き続け、1861年に没したという(ベラが歴史上の記録に現れるのは1834年)。ベラの正体については様々な推測が現在までなされているが、皇后エリザヴェータ・アレクセーエヴナと同一視される可能性は薄く、伝説の域にとどまっており史実とは見られていない。

伝説の現在

このような伝説はロシアに限っても類似例が多く見られる。例えば、ロマノフ朝が成立する前にロシアが経験した動乱時代(スムータ)に巻き起こったイヴァン4世の庶子ドミトリー皇子の生存説(ドミトリー皇子を名乗る人物が3名現れているが、いずれも偽物とされる。偽ドミトリー1世の正体について対峙した皇帝ボリス・ゴドゥノフはこの僭称者の存在を聞くと、特にはっきりした情報も掴めないうちに、彼を逃亡した修道士グレゴリー・オトレピエフ(俗名ユーリー)だと宣言している。偽ドミトリー2世に関しては本名は不明で、トゥシノを本拠としたことから、「トゥシノの悪党」と呼ばれた。偽ドミトリー3世はシドルカという名の助祭だったらしく、1612年3月2日、モスクワ近郊を荒らしていたコサックによってツァーリに推戴され、コサックの報復をおそれたプスコフの指導層が彼を迎えて忠誠を誓ったため、「プスコフの悪党」と呼ばれた。一部の歴史家の中には本物のドミトリーが実は生き延び、スムータの時代に現れたと唱える者もいるが、仮にそうだとしても前述の通り、ドミトリー皇子を名乗る人物が3人現れていることから、全員が本物のドミトリー皇子だとは考えにくい。全員が本物だとすれば、偽ドミトリー1世から偽ドミトリー3世の3人が同一人物かつ本物のドミトリー皇子ということになり、公式上、4人の人物が同一人物となり、かなり話に無理がある。また、偽ドミトリー1世を支援していた多くのポーランド貴族たちが、彼を本物の皇子だと信じてはいなかったことは有名な事実である。当初、偽ドミトリー1世を支持し、彼の旗色が悪くなると裏切ったヴァシーリー・シュイスキー(後のヴァシーリー4世。傍系ながらリューリク朝の血を引く)は本物のドミトリーが死んでいることを実証するため、1606年年6月3日に皇子の遺体を掘り起こしてウグリチからモスクワに運ばせている)、ロマノフ朝滅亡後、その最後の皇帝ニコライ2世の子女に関する生存説(特にニコライ2世の四女アナスタシア皇女に関する生存伝説)である。この2つはいずれも現在は信じている人は少ない。しかしこの2つとは異なって「アレクサンドル1世生存伝説」は未だに根深いものがある。その理由はアレクサンドル1世自身の内面史と、19世紀初期にロシアが経験した激動の歴史の1つの結末として説得力を持ち続けているからであり、アレクサンドル1世の生存伝説の扱いは歴史家の間でも慎重になされ続け、解決を見ていないというのが現状ではあるが、ほぼ否定されつつある。アレクサンドル1世の墓に遺体が無いということと年齢の一致もしくは近さ、姿勢の正しさと高身長、右耳に障害という外見上の類似性、高い教育水準と1801年頃から1825年頃のロシア宮廷の事情に精通していた、というようにアレクサンドル1世とクジミッチの2人には共通点が多く、更に2015年には「2人の筆跡には類似性がある」と発表されるなど、2人が同一人物であることを示す記録やデータが出てきているのも事実であり、クジミッチが他界する頃にはロマノフ家の人々もこの人物に並々ならぬ関心を寄せていたと広く信じられるようになっていたことも相俟って主流派では無いものの、生存伝説を全くの荒唐無稽とは結論しづらいという事態を引き起こし複雑にしてきた。一方、アレクサンドル1世の病気の記録(検死が行われ、9人の医師が署名している。また、アレクサンドル1世の顔の容姿と酷似したデスマスクとイギリス人医師の検死解剖記録が現代に伝わっている)や同時代の人々の証言とその治世の終わり頃の晩年には腸チフスを患っていたアレクサンドル1世が、クジミッチが現れたというシベリアで過酷な環境での苦難の生活に80代後半まで(あるいは90代前半まで)生き延びられるのか、それは考えにくいという疑問と反論も提起されている。実際、イギリス人医師の検死解剖記録と記録されているクジミッチの外見を含めた言動は一致せず、矛盾が見られる。以下はイギリス人医師で王立協会の特別会員でもあったロバート・リーがアレクサンドル1世の遺体を検死解剖した所見である。伝えられているクジミッチの噂と照合すると見事なまでに食い違いを見せており、所見はより細かな具体性を持っている。

「遺体の検死解剖にあたって、観察された外見的特徴は、体内に充血を伴った胆汁性の弛緩熱(病熱が出たり引いたりする症状)による死亡例で多く見られるものと同じである。脳髄の空洞に60ccの漿液が発見され、静脈及び動脈に血液が溜まっていた。脳の後部の硬膜と軟膜の間に癒着した部分があるが、これは古いもので大きな問題になるものではない。心臓と肺は健康だが、むくみがあった。肝臓は血液で腫れ上がり、色が黒ずんでいた。脾臓の組織は肥大し、軟化している。秋にクリミアで熱病が流行していたこと、皇帝(アレクサンドル1世)が沿岸地方に出発した後、急に気候が寒くなったこと、他の患者で確認した通りに、ペレコープを出立して数日経った後に通常みられる症状があらわれていること、その後の症状の推移や死後に示されている状態によって、アレクサンドル皇帝がクリミアで罹った胆汁性の弛緩熱で死亡したことは明らかである」

病気の記録が偽造されたという議論も取り沙汰されてもいるが、憶測の域を出ず、可能性も低く、根拠も薄い。また、クジミッチは、ウクライナと南部ロシアの特殊な語彙を使ったが、サンクトペテルブルクで生まれ育ったアレクサンドルがこれを知っていたとは考えづらい。クジミッチは亡くなる前、自身がトムスクに追放された後に自宅に住まわせてくれた商人セミョーン・フロモフに身元を明かす暗号化したメッセージメモを遺したが、それは今日に至るまで解読されてない(本物のメッセージメモは1909年に未知の状況下で消えて失われたと考えられている。現在、メッセージメモのコピーだけが残っており、品質があまり良くなく、さらに識別して解読することが遥かに困難になっている)。

クジミッチに関する証言を研究しても、真実と伝説を区別することは難しい。クジミッチが死去してから150年経っても、アレクサンドル1世との関わりを証明あるいは否定できた者はいなかった。歴史家アレクセイ・トゥルベツコイは、その画期的な著書『皇帝の伝説:消えたアレクサンドル1世』で、こう指摘する。20世紀半ばにパリに住んでいた著名なロシア貴族達でさえ、アレクサンドル1世は1825年には死んでおらず、残りの人生をシベリアでフョードル・クジミッチとして生きたと厳かに信じていた、と。

今日までこの問題を解明し得るであろうDNA鑑定などの遺伝学的調査は行われていない。人類学者ミハイル・ゲラシモフ(多くのツァーリ、皇族の遺体の調査を行ったことで知られる)によれば、政府は、アレクサンドルの棺を開けDNA検査を行って他のロマノフ家の人々と比較することを、絶えず拒否してきた。最後の解決手段としてはクジミッチの遺体鑑定がある。将来的に実施する可能性はあるようだが、まだ着手はされていない。一方、法医学的な調査は、仮に行われたとしても、結果は分かりにくく、すべての専門家が同意することはないとも言われている。

実はアレクサンドル1世の墓は、ソビエト政府によって発掘調査が行われている。そしてその結果は

「墓は空であった、あるいは何者かが墓を荒した兆候を発見した」

今日のロシアの歴史家たちの考えは次の点で一致する。

「フョードル・クジミッチは実在したが、アレクサンドル1世ではなかった。クジミッチは、恐らくロシア軍に勤務した高位の貴族であり、決して皇帝では無かった」

つまり、クジミッチの正体が誰であれ、ロマノフ家と血縁関係があるか否かに関わらず、アレクサンドル1世とクジミッチが同一人物である可能性は薄く、別人であるという説が有力になりつつある。しかし、DNA鑑定など決定的な物的証拠が出ていない以上、確定することはできない。かくして、アレクサンドル1世の死をめぐる真実、シベリアの荒野での隠遁の可能性は、いまだに藪の中であると言わざるを得ないのが現状である。少なくとも、その死を巡る奇怪な状況から、アレクサンドル1世は極秘のうちに人目を忍んで、宮廷生活から遁れたのではという疑いを、多くの人が持ったということは事実である。

人物と評価

人間として多くの美点を有する人物であった。美男子であり、愛嬌に富み、友情に厚かった。また、社交性に富み、ウィーン会議ではその人となりと華麗な立ち居振る舞いからひときわ目立った。他人の言葉に良く耳を傾けていたが、一方でそれは青年期まで受けた教育の影響で、優柔不断かつ曖昧な態度となって終始した。

ナポレオンはアレクサンドル1世の人物を早くから見抜き「北方のタルマフランソワ・ジョゼフ・タルマ、当時の有名な俳優)」、「ビザンツ時代のギリシャ人」と呼び、「知性、優雅さ、教育を備えている。彼は魅力的だが、彼を信頼することはできない。彼は真心が無い。帝国衰退の時代のこのビザンツ人は抜け目なく、偽善的で狡猾である。」と評していた。

アレクサンドル崩御後のロシアには、スパイと秘密警察、不明瞭な帝位継承法、離反する軍隊、武装蜂起の絶えざるポーランド、偽善によってむしばまれた教育制度と、社会の変化とともに問題が増大していったロシア正教会、破綻する経済と社会の遅れを象徴する農奴制が遺された。アレクサンドルの崩御によって帝位は空位となり、この空隙を狙ってデカブリストの乱が引き起こされることとなる。

[3]モスクワが炎上したことをきっかけに、アレクサンドル1世は敬虔主義的「改宗」という意識面での変容をとげたとされる。専ら教会スラヴ語によっていた聖書ロシア語訳を進めさせ、「聖書協会」を通じてその普及に努めた。ただしアレクサンドル1世は正教にはそれほど関心を持たず、モラヴィア兄弟団ドイツ神秘主義と接触し、クエーカーをロシアに招待するなど、西方への関心が顕著であった。皇帝の正教会に対する無関心は、19世紀におけるロシア正教会の問題の増大と解決の遅延を結果的にもたらすこととなった。

参考文献

  • 塚本哲也『メッテルニヒ』文藝春秋、2009年。ISBN 978-4-16-371920-7 
  • Аммон Ф. Г. В фаворе у кесаря: Александр I и Аракчеев

脚注

  1. ^ 中野京子『名画で読み解く ロマノフ家12の物語』光文社、2014年、122頁。ISBN 978-4-334-03811-3 
  2. ^ ラアルプとも。ヘルヴェティア共和国を建てる主導的役割を担った。
  3. ^ I.S.ベーリュスチン著/白石治朗訳『十九世紀ロシア農村司祭の生活-付 近代ロシアの国家と教会-』170頁、中央大学出版部 1999 年 ISBN 4-8057-4132-5

関連項目