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[[1369年]]<ref name="Coedes237"/>[[3月12日]]、その前年に成立した[[明]]に虎都蛮を使者として[[トラ|虎]][[ゾウ|象]]を献じたのを皮切りとして、[[10月15日]]に蒲旦麻都を、[[1370年]][[8月26日]]に打班舍利らを遣使するなど盛んに朝貢し<ref name="sakurai75">{{Citation|和書|last=桜井|first=由躬雄|contribution=南シナ海の世界|title=東南アジア史 I 大陸部|pages=75}}</ref>、同年[[1月11日]]に[[朱元璋|洪武帝]]に派遣された[[中書省]]管勾の甘桓と{{仮リンク|会同四訳館|label=会同館|en|会同四译馆}}副使の路景賢によって占城王に封じられるなど外交関係を強化した。[[12月3日]]に大越で[[楊日礼]]が廃されて[[陳芸宗|芸宗]]が即位すると、これを不満に思った楊日礼の母の手引きを受けて、翌[[1371年]]閏3月に政変で警備が手薄になっていた大越の都[[ハノイ|昇龍]]を攻撃した。昇龍を攻略した後、大いに略奪・破壊してから引き上げた<ref name="momoki468"/>。[[9月4日]]には答班瓜卜農を遣使して大越の侵攻を訴え、兵器や楽器・楽人・俾の援助を求めた<ref name="sakurai75"/>が、チャンパ・大越が共に明の冊封国であることを理由に退けられ、双方に停戦を求められた。


[[1376年]][[5月 (旧暦)|5月]]には化州に侵攻する<ref name="momoki468"/>と、[[12月 (旧暦)|12月]]に反撃のために親征に乗り出した大越皇帝の[[陳睿宗|睿宗]]を偽降で欺いて孤立させ、[[1377年]][[3月4日]]に{{仮リンク|ティーナイ港|label=シュリー・ヴィナーヤ|en|Thị Nại Port}}で敗死に追いやり<ref name="sakurai75"/><ref name="sakurai184">{{Citation|和書|last=桜井|first=由躬雄|contribution=亜熱帯のなかの中国文明|title=東南アジア史 I 大陸部|pages=184}}</ref><ref>{{Harvnb|Cœdès|p=238}}</ref>({{仮リンク|ヴィジャヤの戦い (1377年)|en|Battle of Vijaya 1377}})、勢いに乗ったビナスオールは[[7月16日]]に再び昇龍に侵攻した<ref name="momoki468"/>。翌[[1378年]][[5月31日]]にもヴィジャヤの戦いで捕虜とした御溝王陳勗を押し立てて大越に侵攻し、杜子平の軍を撃破した後に、昇龍を劫掠してから引き上げた<ref name="momoki468"/>。[[1380年]][[2月 (旧暦)|2月]]に大越の新平(現在のクアンビン省[[クアンニン県]])に侵攻した<ref name="sakurai75"/>が、5月に[[タインホア|清華]]一帯で[[胡季|黎季{{Lang|ko|}}]]率いる大越軍に撃退された。[[1382年]]5月にも清華に侵攻したが、黎季{{Lang|ko|犛}}の軍に大敗を喫し<ref name="momoki468"/>、[[1383年]][[1月 (旧暦)|1月]]には黎季{{Lang|ko|犛}}率いる大越水軍の反攻を招いたが、チャンパへの進軍中に暴風雨に遭って引き返した<ref name="momoki468"/>ために難を免れた。同年[[6月 (旧暦)|6月]]にはビナスオール率いるチャンパ軍が昇龍近くの広威鎮(現在の[[バヴィ県]])まで侵攻する<ref name="momoki468"/>など戦況は一進一退の膠着状態に陥った。
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[[1388年]][[12月27日]]に大越で[[陳ケン|陳{{Lang|ko|晛}}]]が廃されて[[陳順宗|順宗]]が即位すると、その隙を突いて翌[[1389年]][[10月 (旧暦)|10月]]に清華に侵攻した。黎季{{Lang|ko|犛}}率いる大越軍が迎撃してきたが、チャンパ軍は敗走したと見せかけて大越軍を誘い出し、伏せていた[[戦象|象兵]]で強襲し、大いに打ち破った<ref name="momoki468"/>。[[11月 (旧暦)|11月]]には{{仮リンク|陳渇真|zh|陳渴真}}率いる大越軍が防衛のために[[紅河|黄江]]まで進出してきたが、戦うには不利と考えて{{仮リンク|ルオ川|label=海潮江|en|Luộc River}}まで退いた。陳{{Lang|ko|晛}}の弟の陳元耀が黎季{{Lang|ko|犛}}に自殺させられた兄の敵を討つためにチャンパ軍に降り、ビナスオールは戦船を海潮江に進めた。[[1390年]]1月の海潮江の戦いでは、罪を得た家臣の波漏稽が、ビナスオールに誅殺されるのを恐れて大越軍に奔り、司令官の陳渇真にビナスオールの乗っている艦の目印を教えた。これにより所在を知った大越軍から火砲を打ちかけられてビナスオールの艦は撃沈され、ビナスオールは船上で戦死を遂げた。陳元耀はビナスオールの首級を手土産にして大越軍に奔ったが范汝勒と楊昂に殺され、その首級は陳渇真の部下の黎克謙によって大越[[太上皇]]の芸宗に捧げられた。
[[1388年]][[12月27日]]に大越で[[陳ケン|陳{{Lang|ko|晛}}]]が廃されて[[陳順宗|順宗]]が即位すると、その隙を突いて翌[[1389年]][[10月 (旧暦)|10月]]に清華に侵攻した。黎季{{Lang|ko|犛}}率いる大越軍が迎撃してきたが、チャンパ軍は敗走したと見せかけて大越軍を誘い出し、伏せていた[[戦象|象兵]]で強襲し、大いに打ち破った<ref name="momoki468"/>。[[11月 (旧暦)|11月]]には{{仮リンク|陳渇真|zh|陳渴真}}率いる大越軍が防衛のために[[紅河|黄江]]まで進出してきたが、戦うには不利と考えて{{仮リンク|ルオ川|label=海潮江|en|Luộc River}}まで退いた。陳{{Lang|ko|晛}}の弟の陳元耀が黎季{{Lang|ko|犛}}に自殺させられた兄の敵を討つためにチャンパ軍に降り、ビナスオールは戦船を海潮江に進めた。[[1390年]]1月の海潮江の戦いでは、罪を得た家臣の波漏稽が、ビナスオールに誅殺されるのを恐れて大越軍に奔り、司令官の陳渇真にビナスオールの乗っている艦の目印を教えた。これにより所在を知った大越軍から火砲を打ちかけられてビナスオールの艦は撃沈され、ビナスオールは船上で戦死を遂げた。陳元耀はビナスオールの首級を手土産にして大越軍に奔ったが范汝勒と楊昂に殺され、その首級は陳渇真の部下の黎克謙によって大越[[太上皇]]の芸宗に捧げられた。

2020年8月28日 (金) 05:08時点における版

 ポー・ビナスオール
Po Binasuor
チャンパ王
在位 1360年 - 1390年

死去 1390年2月8日
大越
配偶者 シティ・ズバイダ
王朝 第13王朝
父親 ジャヤ・アーナンダ
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チャンパの支配領域(1380年)

ビナスオールチャム語: Binasuor[1], 生年不詳 - 1390年2月8日)は、チャンパ王国占城国)第13王朝の第3代(最後)の国王(在位:1360年 - 1390年[2])。『大越史記全書』では制蓬峩(せいほうが、ベトナム語: Chế Bồng Nga)、『明史』『明実録』では阿答阿者(あとうあしゃ、ベトナム語: A Đáp A Giả)と記される。

生涯

ジャヤ・シンハヴァルマン3世の代に陳朝大越に割譲して喪失した烏州ベトナム語版里州ベトナム語版を奪回すべく軍制改革を中心に国力増強を図り、大越からの投降者を優遇した。即位翌年の1361年[1]3月に大越の哩海門(現在のクアンビン省ボーチャック県)を略奪した[3]のを手始めに攻勢に出て、1362年3月には化州中国語版に侵攻した[3]1367年4月には陳世興と杜子平ベトナム語版率いる大越軍が占洞(現在のクアンナム省タンビン県)に侵攻してきたが、伏兵を用いて撃退し[3]、陳世興を捕えた(チャンパ=大越戦争 (1367年–1396年)中国語版)。

1369年[1]3月12日、その前年に成立したに虎都蛮を使者としてを献じたのを皮切りとして、10月15日に蒲旦麻都を、1370年8月26日に打班舍利らを遣使するなど盛んに朝貢し[4]、同年1月11日洪武帝に派遣された中書省管勾の甘桓と会同館英語版副使の路景賢によって占城王に封じられるなど外交関係を強化した。12月3日に大越で楊日礼が廃されて芸宗が即位すると、これを不満に思った楊日礼の母の手引きを受けて、翌1371年閏3月に政変で警備が手薄になっていた大越の都昇龍を攻撃した。昇龍を攻略した後、大いに略奪・破壊してから引き上げた[3]9月4日には答班瓜卜農を遣使して大越の侵攻を訴え、兵器や楽器・楽人・俾の援助を求めた[4]が、チャンパ・大越が共に明の冊封国であることを理由に退けられ、双方に停戦を求められた。

1376年5月には化州に侵攻する[3]と、12月に反撃のために親征に乗り出した大越皇帝の睿宗を偽降で欺いて孤立させ、1377年3月4日シュリー・ヴィナーヤ英語版で敗死に追いやり[4][5][6]ヴィジャヤの戦い (1377年)英語版)、勢いに乗ったビナスオールは7月16日に再び昇龍に侵攻した[3]。翌1378年5月31日にもヴィジャヤの戦いで捕虜とした御溝王陳勗を押し立てて大越に侵攻し、杜子平の軍を撃破した後に、昇龍を劫掠してから引き上げた[3]1380年2月に大越の新平(現在のクアンビン省クアンニン県)に侵攻した[4]が、5月に清華一帯で黎季犛率いる大越軍に撃退された。1382年5月にも清華に侵攻したが、黎季の軍に大敗を喫し[3]1383年1月には黎季率いる大越水軍の反攻を招いたが、チャンパへの進軍中に暴風雨に遭って引き返した[3]ために難を免れた。同年6月にはビナスオール率いるチャンパ軍が昇龍近くの広威鎮(現在のバヴィ県)まで侵攻する[3]など戦況は一進一退の膠着状態に陥った。

1388年12月27日に大越でが廃されて順宗が即位すると、その隙を突いて翌1389年10月に清華に侵攻した。黎季率いる大越軍が迎撃してきたが、チャンパ軍は敗走したと見せかけて大越軍を誘い出し、伏せていた象兵で強襲し、大いに打ち破った[3]11月には陳渇真中国語版率いる大越軍が防衛のために黄江まで進出してきたが、戦うには不利と考えて海潮江英語版まで退いた。陳の弟の陳元耀が黎季に自殺させられた兄の敵を討つためにチャンパ軍に降り、ビナスオールは戦船を海潮江に進めた。1390年1月の海潮江の戦いでは、罪を得た家臣の波漏稽が、ビナスオールに誅殺されるのを恐れて大越軍に奔り、司令官の陳渇真にビナスオールの乗っている艦の目印を教えた。これにより所在を知った大越軍から火砲を打ちかけられてビナスオールの艦は撃沈され、ビナスオールは船上で戦死を遂げた。陳元耀はビナスオールの首級を手土産にして大越軍に奔ったが范汝勒と楊昂に殺され、その首級は陳渇真の部下の黎克謙によって大越太上皇の芸宗に捧げられた。

出典

  1. ^ a b c Cœdès, p. 237
  2. ^ Sharma, p. 109
  3. ^ a b c d e f g h i j k 桃木, p. 468
  4. ^ a b c d 桜井由躬雄「南シナ海の世界」『東南アジア史 I 大陸部』、75頁。 
  5. ^ 桜井由躬雄「亜熱帯のなかの中国文明」『東南アジア史 I 大陸部』、184頁。 
  6. ^ Cœdès, p. 238

参考資料

  • George Cœdès (May 1, 1968). The Indianized States of South-East Asia. University of Hawaii Press. ISBN 978-0824803681 
  • Geetesh Sharma (2010). Traces of Indian Culture in Vietnam. Rajkamal Prakashan. ISBN 978-8190540148 
  • 石井米雄桜井由躬雄編 編『東南アジア史 I 大陸部』山川出版社〈新版 世界各国史 5〉、1999年12月20日。ISBN 978-4634413504 
  • 桃木至朗十-十五世紀ベトナム國家の「南」と「西」」『東洋史研究』第51巻第3号、京都大学東洋史研究会、1992年12月31日、464-497頁。 
  • 明史』巻三百二十四 列伝第二百一十二 外国五 占城
  • 大越史記全書』本紀巻之七 陳紀 裕宗皇帝 付昏徳公楊日礼一年 芸宗皇帝 睿宗皇帝
  • 『大越史記全書』本紀巻之八 陳紀 廃帝 順宗皇帝
  • ベトナム史略』第1巻 第3部 第10章 陳氏
  • 『明実録』太祖高皇帝実録中国語版 巻三十九
  • 『明実録』太祖高皇帝実録 巻四十四
  • 『明実録』太祖高皇帝実録 巻五十五
  • 『明実録』太祖高皇帝実録 巻六十三
先代
マハー・サーヴァ
チャンパ王
第13王朝第3代:
1360年 - 1390年
次代
ジャヤ・シンハヴァルマン6世