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「末法思想」の版間の差分

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== 歴史 ==
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=== インド ===
=== インド ===
正しい教えは次第に衰え、やがて滅びる、とする考え方は、仏教の初期の段階の経や[[律 (仏教)|律]]にすでに含まれている。初期経典の[[ケン度 (パーリ律)|犍度]]には、正法はもともと千年続くはずだったのが、女人の出家が許されたために正法が五百年になってしまったという記述がある<ref name="toyo">[[渡辺章悟]]「[https://toyo.repo.nii.ac.jp/?action=repository_action_common_download&item_id=3287&item_no=1&attribute_id=22&file_no=1 インド仏教の法滅思想(2)初期仏教資料をめぐって]」</ref>。
正しい教えは次第に衰え、やがて滅びる、とする考え方は、仏教の初期の段階の経や[[律 (仏教)|律]]にすでに含まれている。初期経典の[[犍度]]には、正法はもともと千年続くはずだったのが、女人の出家が許されたために正法が五百年になってしまったという記述がある<ref name="toyo">[[渡辺章悟]]「[https://toyo.repo.nii.ac.jp/?action=repository_action_common_download&item_id=3287&item_no=1&attribute_id=22&file_no=1 インド仏教の法滅思想(2)初期仏教資料をめぐって]」</ref>。


最初はこうした考え方は修行者に対して訓戒として説かれていたらしい<ref name="itj" />。だが実際に教団内で争いが激しくなったり、異民族の侵略が起きるようになると、「形だけの偽仏教の横行」や「正法の滅尽」という内容が、より現実感をともなって受け入れられるようになった<ref name="itj" />。
最初はこうした考え方は修行者に対して訓戒として説かれていたらしい<ref name="itj" />。だが実際に教団内で争いが激しくなったり、異民族の侵略が起きるようになると、「形だけの偽仏教の横行」や「正法の滅尽」という内容が、より現実感をともなって受け入れられるようになった<ref name="itj" />。

2020年9月6日 (日) 04:42時点における版

末法思想(まっぽうしそう)とは、釈迦が説いた正しい教えが世で行われ修行して悟る人がいる時代(正法)が過ぎると、次に教えが行われても外見だけが修行者に似るだけで悟る人がいない時代(像法)が来て、その次には人も世も最悪となり正法がまったく行われない時代(=末法)が来る、とする歴史観のことである[1]

歴史

インド

正しい教えは次第に衰え、やがて滅びる、とする考え方は、仏教の初期の段階の経やにすでに含まれている。初期経典の犍度には、正法はもともと千年続くはずだったのが、女人の出家が許されたために正法が五百年になってしまったという記述がある[2]

最初はこうした考え方は修行者に対して訓戒として説かれていたらしい[1]。だが実際に教団内で争いが激しくなったり、異民族の侵略が起きるようになると、「形だけの偽仏教の横行」や「正法の滅尽」という内容が、より現実感をともなって受け入れられるようになった[1]

6世紀、エフタルの王ミヒラクラ英語版はインド侵攻と仏像破壊を行った。同時期に成立したとみられる『大集経』(正式名『大方等大集経』)にはこの影響が含まれており、「末法」の概念も生まれた[2]。大集経には「我が滅後に於て五百年の中は解脱堅固、次の五百年は禅定堅固、次の五百年は読誦多聞堅固、次の五百年は多造塔寺堅固、次の五百年は我が法の中に於て闘諍言訟して白法隠没せん」とある。つまり最後の500年では仏教徒の間で論争が闘わされ、正しい教えが隠没してしまう、とある。なお釈迦の生没年は不明であり諸説ある。

大乗仏教経典には「末の世」という表現は様々な形で現れる[1]。また、こうした時代にこそ菩薩が真の法を説く、と強調する経典もある[1]

中国

末法思想は、中国では代に盛んとなり、三階教浄土教の成立に深い関わりを持った。その早期の例としては、北斉天台宗二祖・南嶽慧思によって記された「立誓願文」に見られるし、隋代以降千年にわたって継続される房山雲居寺石経事業も、末法思想によるものである。

日本

日本では平安時代の頃から現実化してきた。平安初期には(まだ一般的ではなかったものの)すでに最澄景戒には、末法であるとの自覚が見られる[1]。伝教大師が著した(とされるが現在では偽書とみられている)『末法燈明記』の中には「正像やや過ぎ終って末法甚だ近きにあり法華一乗の機、 今正しく是れその時なり何を以て知る事を得ん安楽行品 にいわく末法法滅の時なり」と末法が近づいている旨が書かれている。一般的には、特に1052年(永承7年)は末法元年とされ人々に恐れられ、盛んに経塚造営が行われた[3]。 この時代は貴族摂関政治が衰え院政へと向かう時期で、また武士が台頭しつつもあり、治安の乱れも激しく、民衆の不安は増大しつつあった。また仏教界も天台宗を始めとする諸寺の腐敗や僧兵の出現によって退廃していった。このように仏の末法の予言が現実の社会情勢と一致したため、人々の現実社会への不安は一層深まり、この不安から逃れるため厭世的な思想に傾倒していった。

『末法灯明記』は、現在は末法であって無戒の時代であることを強調するものであり、これは仏教が堕落し社会が混乱している時代に育った鎌倉新仏教の祖師たちに大きな影響を与えた[1]

栄西や、曹洞宗を開いた道元は、釈迦在世でも愚鈍で悪事を働いた弟子もいたことや、末法を言い訳にして修行が疎かになることを批判した。そして修行に努めることを説いた[1]

鎌倉時代法然を開祖とする浄土宗は末法思想に立脚し、末法濁世の衆生は阿弥陀仏の本願力によってのみ救済されるとし称名念仏による救済を広めた。一方で浄土真宗の開祖とされる親鸞は、師・法然の末法観を受け継ぎつつも、「正像末の三時には 弥陀の本願ひろまれり」「像法のときの智人も 自力の諸教をさしおきて 時機相応の法なれば 念仏門にぞいりたまふ」(正像末和讃)と説く様に、正法・像法・末法といった時代を超えて受け継がれてきた念仏の普遍性を強調した。 また同時期、日蓮も末法思想を真剣に受け止め、末法であるからこそ信じて行うべき法を求め[1]法華経こそが正しい教えであるとし(法華一乗)、南無妙法蓮華経と唱えることを広めた。

室町時代後期、戦国時代に入ると、寺社勢力は金融の担い手となっており度々土一揆に襲われたり、千年近くかけて有力寺社が自墾・寄進で増やしてきた寺社本所領が地方豪族によって横領されるなど寺社の経営基盤が大きく揺らいだ。また、この時代の寺社の多くは土一揆に備えたことをきっかけとして施設を要塞化、僧侶は武装、僧兵と化し、日々の修行よりも戦いに明け暮れ、人を殺めるようになり、浄土真宗や比叡山のように戦国大名と交戦したものもあった。また東大寺のように施設を拠点に利用され戦乱の舞台となり焼失した事例も少なくない。人々はこうした数々の出来事を見て、まさに末世が到来した、と判断した。[5]

脚注

  1. ^ a b c d e f g h i 岩波 哲学思想事典 1998年 p.1523
  2. ^ a b 渡辺章悟インド仏教の法滅思想(2)初期仏教資料をめぐって
  3. ^ なお、釈迦の入滅の年代は、現代では学問的に見れば諸説あるため、末法の年代設定にも諸説あり、定まっていない。
  4. ^ 森新之介「末代観と末法思想」『摂関院政期思想史研究』(思文閣出版、2013年) ISBN 978-4-7842-1665-9。原論文『日本思想史研究』40・41号(2008-9年)
  5. ^ 2013年、森新之介が、「末法」「末代」「末世」の異同に関して論じた専論は明治から今日に至るまで全く存在しないにも関わらず、全てが末法(思想)と同義として扱われていると批判し(森、2013年、P43-48)、従来、区別せずに用いられていた「末法」「末代」「末世」に関して、「末代」や「末世」の語源は儒教道教などの古代中国思想に由来する用語であって末法および末法思想とは直接的な関係は無いとし、日本の平安から鎌倉にかけて人々に強い影響を与えたのは、実際の災害や飢饉などと漢学の知識が結びつけられた「末代(観)」であって、末代との関係が薄い末法思想は当時の社会には限定的な影響しか与えなかった、と主張している[4]

関連項目