「ハレー彗星」の版間の差分
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Senbei6304 (会話 | 投稿記録) 大方はen:Halley's Comet oldid=994873240 を翻訳して加筆。中国・日本・朝鮮については英語版の記述は少ないので出典追加。雑学などで出典のないものは出典が探せたものは追加、難しかったものは排除。 タグ: サイズの大幅な増減 |
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{{天体 基本 |
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{{彗星 |
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| 色 = 彗星 |
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| 幅 = 340px |
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| 和名 = ハレー彗星 |
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| 周期彗星番号 = 1 |
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| 英 |
| 英名 = 1P/Halley |
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| 画像 |
| 画像ファイル = Lspn comet halley.jpg |
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| 画像サイズ = 300px |
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| 画像説明 = 1986年3月8日に撮影されたハレー彗星 |
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| 分類 = [[周期彗星]] |
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| 発見者 = 不明<br>[[エドモンド・ハレー]](同定・軌道計算) |
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{{天体 発見 |
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| 色 = 彗星 |
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| 発見者 = 不明<br>(同定・軌道計算は[[エドモンド・ハレー]]) |
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| 発見日 = [[紀元前240年]]6月(古代)<br>[[1758年]][[12月25日]](同定後初) |
| 発見日 = [[紀元前240年]]6月(古代)<br>[[1758年]][[12月25日]](同定後初) |
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}} |
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| 符号・別名 = <span style="font-size:0.8em; line-height:100%">{{plainlist|1= |
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{{天体 軌道 |
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*1P/-239 K1 -239 = 1P/-163 U1 = -163 = |
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| 色 = 彗星 |
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*1P/1835 P1 = 1835 III = |
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*1P/1909 R1 = 1910 II = 1909c = |
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*1P/1982 U1 = 1986 III = 1982i, |
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}}</span>ハリー彗星 |
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| 元期 = [[1994年]][[2月17日]] |
| 元期 = [[1994年]][[2月17日]] |
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| 離心率 = 0.96714291 |
| 離心率 = 0.96714291{{R|jpldata}} |
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| 軌道長半径 = 17. |
| 軌道長半径 = 17.83414429 [[天文単位|au]]{{R|jpldata}} |
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| 近日点距離 = 0.58597811 |
| 近日点距離 = 0.58597811 au{{R|jpldata}} |
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| 遠日点距離 = 35. |
| 遠日点距離 = 35.08231047 au{{R|jpldata}} |
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| 公転周期 = 75.3 |
| 公転周期 = 75.3日{{R|jpldata}} |
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| 軌道傾斜角 = 162.26269 |
| 軌道傾斜角 = 162.26269 °{{R|jpldata}} |
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| 近日点引数 = 111.33249 |
| 近日点引数 = 111.33249 °{{R|jpldata}} |
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| 昇交点黄経 = 58.42008 |
| 昇交点黄経 = 58.42008 °{{R|jpldata}} |
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| 平均近点角 = 38.38426 °{{R|jpldata}} |
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| 前回近日点通過 = [[1986年]][[2月9日]]06:40 (UTC) |
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| 前回近日点通過 = [[1986年]][[2月9日]]{{R|mpcdata}} |
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| 次回近日点通過 = [[2061年]][[7月29日]]{{R|mpcdata}} |
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}} |
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{{天体 項目|[[最小交差距離|MOID]](地球)|0.637815 [[天文単位|au]]}} |
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{{天体 物理 |
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| 色 = 彗星 |
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| 三軸径 = 15.3km×7.22km×7.22km{{sfn|鈴木|秋澤|菅原|2013|p=108}} |
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| 質量 = 2.2{{E|14}} kg{{R|Cevolani1987}} |
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| 平均密度 = 0.6g/cm{{sup|3}}{{R|Sagdeev1988}} |
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| アルベド = 0.04 ± 0.01{{sfn|鈴木|秋澤|菅原|2013|p=108}} |
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}} |
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{{天体 別名称 |
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| 色 = 彗星 |
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| 別名称 = 1 = 1P/-239 K1 -239 = 1P/-163 U1 = -163 = 1P/-86 Q1 = -86 = 1P/-11 Q1 = -11 = 1P/66 B1 = 66 = 1P/141 F1 = 141 = 1P/218 H1 = 218 = 1P/295 J1 = 295 = 1P/374 E1 = 374 = 1P/451 L1 = 451 =1P/530 Q1 = 530 = 1P/607 H1 = 607 = 1P/684 R1 = 684 = 1P/760 K1 = 760 = 1P/837 F1 = 837 = 1P/912 J1 = 912 = 1P/989 N1 = 989 = 1P/1066 G1 = 1066 = 1P/1145 G1 = 1145 = 1P/1222 R1 = 1222 = 1P/1301 R1 = 1301 = 1P/1378 S1 = 1378 = 1P/1456 K1 = 1456 = 1P/1531 P1 = 1531 = 1P/1607 S1 = 1P/1682 Q1 = 1682 = 1P/1758 Y1 = 1759 I = 1P/1835 P1 = 1835 III = 1P/1909 R1 = 1910 II = 1909c = 1P/1982 U1 = 1986 III = 1982i{{R|jpldata}} |
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}} |
}} |
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{{天体 終了|彗星}} |
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'''ハレー彗星'''(ハレーすいせい、1P/Halley、'''ハリー彗星'''とも<ref>[https://kotobank.jp/word/ハリー彗星-116935 ハリー彗星]コトバンク</ref>)は、75.3年周期<ref name=jpldata>{{cite web |date=1994-01-11 last obs |title=JPL Small-Body Database Browser: 1P/Halley |url=http://ssd.jpl.nasa.gov/sbdb.cgi?sstr=1P |accessdate=2008-10-13}}</ref>で[[地球]]に接近する短周期[[彗星]]である<ref name=kronk> {{cite web |first=Gary W |last=Kronk |title=1P/Halley |url=http://cometography.com/pcomets/001p.html |accessdate=2008-10-13}} ([http://cometography.com Cometography Home Page])</ref>。多くの[[周期彗星]]の中で最初に知られた彗星であり、古来多くの文献に記録されている。前回は[[1986年]]2月に回帰し、次回は[[2061年]]夏<ref name=diagram>{{cite web |
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'''ハレー彗星'''(ハレーすいせい、1P/Halley、'''ハリー彗星'''とも{{R|kbhalley}})は、75.32年周期{{R|jpldata}}で[[地球]]に接近する短周期[[彗星]]である{{R|Kronk1P}}。地球から肉眼で見える唯一の[[周期彗星]]であり、かつ人によっては唯一生涯で2度見ることも可能な彗星である{{R|Delehanty}}。多くの周期彗星の中で最初に知られた彗星であり、古来多くの文献に記録されている。前回は[[1986年]]2月に回帰し、次回は[[2061年]]夏に出現すると計算されている。 |
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|title=Orbit Diagram (Java) of 1P/Halley |
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|publisher=JPL Solar System Dynamics |
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|author=Osamu Ajiki and Ron Baalke |
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|url=http://ssd.jpl.nasa.gov/sbdb.cgi?sstr=1P;orb=1 |
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|accessdate=2008-08-01}}</ref>に出現すると考えられている。<!-- 間隔がすべて偶数年なら接近する年は全部偶数年か全部奇数年になるはずだが、周期の「76年」はあくまで概数で、1835年から1910年までと1986年から2061年までは75年で、多少の誤差がある。--> |
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== 組成 == |
== 組成 == |
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[[ジオット (探査機)|ジオット]]や[[ベガ計画|ベガ]]による探査によりハレー彗星の表面や構造が明らかとなった。ハレー彗星は他の彗星と同様に太陽に近づくと水や[[一酸化炭素]]、[[二酸化炭素]]などの沸点の低い揮発性物質が[[核 (彗星)|核]]から昇華する{{R|Brandt}}。これにより彗星の[[コマ (彗星)|コマ]]は10万kmにまで発達する{{R|ASP1986}}。このような氷の蒸発から微粒子(ダスト)が放出され、コマ中のガス分子は太陽光を吸収したのち再放射([[蛍光]]と同じ原理)し、ダストは太陽光を散乱させる。この過程によりコマは見えるようになる{{R|Delehanty}}。コマ中のガス分子の一部は[[太陽風]]による[[紫外線]]放射によりイオン化しており{{R|Delehanty}}、そのイオンが長い尾を形成し、1億kmに及ぶこともある{{R|Brandt|Crovisier2000}}{{要ページ番号|date=2020-11}}。太陽風が変化すると尾の一部が核から完全に離れて分離するdisconnect eventが起こることもある{{R|Mendis1988}}。 |
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ハレー彗星の[[彗星核|核]]は約8km×8km×16kmの大きさでジャガイモのような不定形をしている。核の密度は 0.1 - 0.25g/cm<sup>3</sup> と推定されている。核の表面は非常に暗い色をしており、[[アルベド]]は約0.04と非常に小さい<ref>[http://www.astronomynotes.com/solfluf/s7.htm Comets] Astronomy Notes June 7, 2010</ref>。 |
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ハレー彗星のコマが大きいのに対し核は小さく、15.3km*7.22km*7.22kmほどしかない{{sfn|鈴木|秋澤|菅原|2013|p=108}}。その形は[[ピーナッツ]]の殻に似ている{{R|ASP1986}}。質量も2.2{{E|14}}kgと小さく{{R|Cevolani1987}}、密度が0.6 g/cm{{sup|3}}であるため[[ラブルパイル天体]]のように小さな粒が集積してできたということが示されている{{R|Sagdeev1988}}。地上の望遠鏡からのコマの観測ではハレー彗星の[[自転周期]]が7.4日と示唆されたが、探査機による観測では52時間と求められており{{R|Keller2005}}、ハレー彗星の自転は複雑になっている可能性がある{{R|Brandt}}。ハレー彗星のフライバイのミッションでは表面の25%しか撮影されていないが、丘陵・山・尾根・凹地が発見され、更にクレーターも1つ発見されている{{R|Keller2005}}。 |
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探査機[[ジオット (探査機)|ジオット]]による調査では、[[彗星核]]表面には[[炭素]]が多く存在することが明らかになっている。核から放出された物質の組成(体積比)は、[[水]]([[氷]])が80%、[[一酸化炭素]]が10%、[[メタン]]と[[アンモニア]]の混合物が2.5%などとなっており、他に[[炭化水素]]や[[鉄]]、[[ナトリウム]]などが微量に含まれる。また[[シアン]]ガスもわずかに含まれている。 |
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ハレー彗星は[[エンケ彗星]]や[[ホームズ彗星]]のような他の周期彗星の中では最も活動的で[[対数スケール]]により[[数量の比較|数量を比較]]すると1~2ほどの違いがある{{R|Keller2005}}。また、夜側(太陽を向いていない方)より昼側(太陽を向いている方)の方が活動的である。探査機の観測からは核から放出されるガスの組成は水蒸気80%、一酸化炭素17%、二酸化炭素3~4%{{R|Woods1986}}、炭化水素微量{{R|Chyba1987}}と示されたが、[[ヨーロッパ南天天文台|ESO]]の見解では一酸化炭素10%、二酸化炭素2.5%で[[メタン]]や[[アンモニア]]も微量含まれているとしている{{R|ESO19870313}}。微粒子(ダスト)はこのように主に太陽系外でも多い炭素・水素・酸素・窒素(CHON)と地球の岩石などで見られるケイ素で構成されている{{R|Brandt}}。だが、この微粒子(ダスト)には検出できる限界があり、1nm(=0.001μm)までしか検出できない{{R|Mendis1988}}。 |
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ハレー彗星から放出された物質は、5月の[[みずがめ座η流星群]]および10月の[[オリオン座流星群]]の[[流星物質]]となっていると考えられている。 |
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ハレー彗星に含まれる水H{{sub|2}}O中の水素の[[重水素]]の割合は初めはハレー型彗星が地球に水を運んでいたと提唱されていたため、地球の海と同じ程度と考えられていた。しかし、ハレー彗星の水の重水素の割合は地球の海の水よりも高いことが分かっており、つまり、ハレー型彗星が地球に水を運んだわけではない、ということである{{R|Brandt}}。 |
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ジオットのハレー彗星の観測では[[フレッド・ホイップル]]の[[汚れた雪玉モデル]]が正しいということが明らかになった。このモデルでは彗星がもともと氷から成る物体で、太陽系の内部に近づいていくにつれて太陽により温められ、表面の氷が昇華してガスとなり、揮発性物質から成るガスが放出され、尾・コマを形成するというものである{{R|jaxa_comets}}。ジオットによる観測ではこれに一部修正が加わったものの大方正しいことを証明した{{R|Brandt}}。 |
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ハレー彗星の[[アルベド]]は0.04 ± 0.01 しかなく、太陽の光をたった4 ± 1%しか反射しない{{sfn|鈴木|秋澤|菅原|2013|p=108}}。石炭のように炭素から成るとも言われている{{R|Weaver1997}}。このようにハレー彗星は地球から見れば白く見えるものの実際には真っ黒である。「汚れた雪玉」の蒸発する温度はアルベドが高い所で170[[ケルビン|K]]、低い所で220Kである。[[ベガ1号]]による探査では表面温度は300~400Kと示されたが、これによりハレー彗星で活動的なのは10%程度で残りは黒く、熱を保っていると考えられている{{R|Mendis1988}}。この2つの探査機による観測からハレー彗星は不揮発性物質の方が多く、汚れた雪玉というよりは雪の積もった汚い玉という方が近しい{{R|Keller2005|nasa20051228}}。 |
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== 軌道 == |
== 軌道 == |
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ハレー彗星の公転周期は紀元前240年の観測以来、74年から79年の間を変動している{{R|Yeomans1986|Hughes1987}}。その軌道は非常に扁平な楕円で[[軌道離心率]](0に近いほど[[円]]に似ていて1に近いほど[[放物線]]に似る)は0.967である。近日点では太陽からの距離が0.6[[天文単位|au]]で[[水星]]と[[金星]]の間に位置するが、[[遠日点]]になると35auと[[冥王星]]ほど遠い位置を公転する。また、太陽系内にある数多くの天体の中でも珍しく、[[順行・逆行|逆行軌道]]をとっている。そのため、軌道は18°傾いているのだが表現上は162°と表される{{R|Nakano2002}}。逆行しているため地球に対する[[相対速度]]は非常に速い。1910年に地球周辺を通過した際には相対速度が70.56 km/sにも及んだ{{要出典|date=2020-12}}。ハレー彗星は2度地球に近づくので5月初めの[[みずがめ座η流星群]]と10月中頃の[[オリオン座流星群]]はハレー彗星によるものと考えられている{{R|jplmeteor_streams}}。なお、オリオン座流星群については[[母天体]]がこの彗星であることが分かっているが、みずがめ座η流星群に関しては関連があることが示されているのみで母天体とは完全に言えない{{R|Mitra1987}}。 |
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ハレー彗星は周期約75年の[[楕円軌道]]を持ち、[[遠日点]]は[[海王星]]軌道の外側に達する。また[[軌道傾斜角]]が約162度で、[[順行・逆行|逆行]]軌道となっている。 |
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[[File:Orionid12n.jpg|thumb|right|ハレー彗星が母天体であるオリオン座流星群。]] |
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== エドモンド・ハレーの研究 == |
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ハレー彗星は周期が200年以下の[[短周期彗星]]に分類される{{R|Morbidelli2005}}。短周期彗星には[[軌道傾斜角]]は10°程度で公転周期6、7年のものが多いがそれらと比べるとややタイプが異なる{{R|Hughes1987}}。多くの短周期彗星は木星族彗星({{lang-en|Jupiter-family comets}})別名黄道彗星({{lang-en|Ecliptic Comets}})と言われる一方、周期が20年~200年で軌道傾斜角も大きいものはハレー彗星のような特徴からハレー型彗星({{lang-en|Halley Type Comets}})と呼ばれる{{R|Morbidelli2005|Jewitt2002}}{{sfn|鈴木|秋澤|菅原|2013|p=28}}。 |
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ハレー彗星は周期彗星であることが初めて明らかになった彗星である<ref name="Today">{{cite web|title=Comets, awesome celestial objects|author=Marc Delehanty|work=AstronomyToday|url=http://www.astronomytoday.com/astronomy/comets.html|accessdate=2007-03-15}}</ref>。というのは、ハレー彗星ほど大きく明るい彗星で、人間の寿命とほぼ同程度の短さの回転周期を持つ彗星は他にないからである<ref name="Today" />。この事実を発見したのは[[イギリス]]の[[天文学]]者[[エドモンド・ハレー]]である。彼は24個の彗星の軌道を計算した結果、[[1682年]]に出現した彗星の観測的性質が、[[1531年]]に[[ドイツ]]の[[ペトルス・アピアヌス]]が観測した彗星および、[[1607年]]に[[プラハ]]の[[ヨハネス・ケプラー]]が観測した彗星とほとんど同じだと気づいた。このことから彼は、これら3つの彗星は実際には同一の天体が76年ごとに回帰したのだと結論づけた(実際の出現周期は[[惑星]]の[[摂動 (天文学)|摂動]]によって彗星の軌道が絶えず変化するため、数年の幅で変動する)。ハレーはこの彗星が惑星から受ける摂動を概算して次は[[1757年]]に再び出現すると予言し、この研究を[[1705年]]に発表した。 |
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2020年11月時点でハレー型彗星は104個観測されており、木星族彗星が594個あるのに対し少数である{{R|Fernandez}}。 |
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ハレー型彗星誕生の説としては木星や土星のような巨大な惑星との重力による影響でもとは[[長周期彗星]]であったが太陽の方向に移動したとする説がある{{R|Morbidelli2005}}。その場合、元々は太陽から20000~50000[[天文単位|au]]の場所にあると考えられている[[オールトの雲]]で発生する可能性が高い{{R|Jewitt2002}}。反対に木星族彗星は一般的に太陽から30~50auの場所にある[[エッジワース・カイパーベルト]]で発生する可能性が高い{{R|Jewitt2002}}。しかし、2008年、逆行小惑星{{仮リンク|(528219) 2008 KV42|en|(528219) 2008 KV42|label={{mp|(528219) 2008 KV|42}}}}が発見されたためこの考え方は改められた。{{mp|(528219) 2008 KV|42}}は近日点は[[天王星]]と[[海王星]]の間、遠日点は太陽-[[冥王星]]間の距離の2倍で上記のモデルのどちらにも該当せず、これがハレー型彗星になる可能性もある{{R|Gladman2009}}。 |
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その後[[1758年]][[12月25日]]に、ドイツのアマチュア天文家[[ヨハン・ゲオルク・パリッチュ]]がこの彗星を発見し、ハレーの予言が証明された。実際の彗星の[[近日点]]通過は[[1759年]][[3月13日]]にずれこんだが、これは[[木星]]と[[土星]]の摂動によって彗星の回帰が約618日遅れたためで、このことは出現の前に、[[フランス]]の3人の[[数学者]]、[[アレクシス・クレロー]]、[[ジェローム・ラランド]]、[[ニコル=レーヌ・ルポート]]らが計算していた。ハレー自身はこの回帰を見ることなく[[1742年]]に没していたが、ハレーの功績を記念して、この彗星にハレーの名が付けられた。 |
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ハレー彗星は1.6万~20万年の間、現在と同じ軌道をとっていると考えられているが、何十回か出現しているため数値積分は困難であり、837年より以前は記録からしか遡れない{{R|Olsson-Steel1987}}。それは他惑星の重力によるものではなく{{R|Olsson-Steel1987}}、ハレー彗星が太陽に接近する際に表面上のガスを放出し、わずかに軌道がズレるためである。このような軌道の変化から平均して4日ほど遅れが生じる{{sfn|Yeomans|1991|pp=260–261}}。 |
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== 主な出現 == |
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ハレーの軌道計算法によって、ハレー彗星の過去の出現を歴史上の記録の中に見つけることが可能となった。 |
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1989年、[[:en:Boris Chirikov|Boris Chirikov]]とVitold Vecheslavovは昔の記録から見られるハレー彗星の46回の出現をコンピュータシミュレーションで分析した。するとハレー彗星は1000万年近く存在していることが見積もられた{{R|Chirikov1989}}。更に、将来1万年以内にハレー彗星は蒸発してしまうか2つに分裂してしまい、10万年以内には太陽系から弾き飛ばされてしまうのではないかという説もある{{R|Jewitt2002|UT20150612}}。D. W. Hughesの観測からは2000年~3000年経ってしまうと質量の80~90%を失うことも示唆されている{{R|Keller2005}}。 |
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軌道計算による過去と未来のハレー彗星の近日点通過日は以下の通りである。通常、近日点通過の前後数ヶ月間は肉眼で彗星を見ることができる。また、[[古文書]]などから判明しているハレー彗星の出現記録も付記した。 |
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== 軌道の計算 == |
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[[File:Halley's Comet animation.gif|thumb|right|ハレー彗星の軌道。同心円状の4円は内側から[[木星]]、[[土星]]、[[天王星]]、[[海王星]]。]] |
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;[[紀元前616年]] |
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ハレー彗星は初めて周期彗星であると認識されるようになった彗星である。ルネサンス以前は彗星についての自然観は[[アリストテレス]]により発展させられ、地球の大気中で起こっていることだと考えられていた。しかし1577年には[[ティコ・ブラーエ]]による[[視差]]の測定で月よりももっと向こう側にあることが示された。それでも当時の大方の人々は納得することができなかったため、代わりに[[太陽系]]内を直線運動していると考えた{{sfn|Lancaster Brown|1985|p=25}}。 |
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:『[[春秋]]』魯文公14年条(紀元前613年)の彗星に比定する説があるが、年代が合わない。 |
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;[[紀元前466年]] |
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:『[[史記]]』「周本紀」貞定王2年条(紀元前467年)に現れた彗星、大プリニウス『博物誌』第2巻第58章にある第78オリュンピアード2年(紀元前467年)に現れた彗星に比定する説があるが、いずれも年代が合わない。 |
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;[[紀元前240年]][[5月25日]] |
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:『史記』「秦始皇本紀」始皇帝7年条に「彗星先ず東方に出で、北方に見ゆ。五月西方に見ゆ」との記載がある。太陽に接近して見えなくなったのち、近日点通過後再び姿を現した状況までもが記載されている。明確な観測記録としては世界最古である。 |
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;[[紀元前164年]][[11月12日]] |
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:[[File:Babylonian tablet recording Halley's comet.jpg|thumb|upright=1.0|大英博物館の展示。ハレー彗星に関する粘土板であることがアピールされている。 <br> ([http://www.britishmuseum.org/research/collection_online/collection_object_details.aspx?objectId=327183&partId=1 BM 41462])]] |
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:[[大英博物館]]所蔵の[[バビロニア]][[粘土板]]の彗星に比定する説がある。BMA41628の「彗星は東のかたすばる・牡牛座のアヌの道にあり…西のかたエアの道を通りぬ」BMA41628の「木星の前方1キュビット、北天頂へ3キュビットにあるエア」という記述が、ハレー彗星の軌道と一致すると主張される<ref>Stephenson F. R., Yau K. K. C., Hunger H. (1985). «Records of Halley’s comet on babylonian tablets». Nature 314: 587.</ref>。 |
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;[[紀元前87年]][[8月6日]] |
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: 『[[漢書]]』「昭帝紀」後元2年条に観測記録がある。ティグラネス2世のセレウコス朝撃破(紀元前83年)を記念したコインに描かれた星に比定する説がある<ref>{{cite journal|title=Halley’s Comet of 87 BC on the coins of Armenian king Tigranes?|id={{arxiv|physics|0405073}}|author=Gurzadyan V. G. and Vardanyan R.|journal=Astronomy & Geophysics|volume=45|date=August 2004|issue=4|pages=4.06|url=http://articles.adsabs.harvard.edu/full/seri/A+G../0045//D000006.000.html|doi=10.1046/j.1468-4004.2003.45406.x}}</ref>。 |
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;[[紀元前12年]][[10月10日]] |
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:『漢書』「成帝紀」元延元年条に観測記録がある。時の帝は天の警告と恐れ、人材の推挙を行う詔を出した。西洋でも、[[カッシウス・ディオ]]『ローマ史』第54巻にある[[アウグストゥス]]帝の治世に数回現れた彗星の一つに比定する説がある。アウグストゥスはこの彗星を養父[[ガイウス・ユリウス・カエサル|カエサル]]の魂と見なし、「カエサルの星」をかたどった貨幣なども鋳造された。また[[新約聖書]]の[[ベツレヘムの星]]に比定する説もある<ref>{{Cite journal|author=C. Humphreys|url=http://www.asa3.org/ASA/topics/Astronomy-Cosmology/S&CB%2010-93Humphreys.html|title=The Star of Bethlehem|journal=Science and Christian Belief|volume=5| year=1995|pages=83–101}}</ref>。 |
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1687年には[[アイザック・ニュートン]]による著書[[自然哲学の数学的諸原理|『自然哲学の数学的諸原理』]]において重力や運動の法則が明らかにされた。彼は1680年と1681年に現れた大彗星が太陽の通過前か後かの違いで同じ彗星ではないかと考えていたが、うまく彼のモデルに組み込むことができず、ニュートンの説明では彗星についての説明は不完全であった{{sfn|Lancaster Brown|1985|p=35}}。 |
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=== 紀元後の出現 === |
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;[[66年]][[1月25日]] |
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そしてついにニュートンの友人であった[[エドモンド・ハレー]]は彼の1705年に出版した著書『Synopsis of the Astronomy of Comets』(『彗星天文学概論』{{sfn|鈴木|秋澤|菅原|2013|p=34}})でニュートンが導入した法則を用い、木星・土星の重力の影響を算出した。ハレーは24種の彗星を一覧にまとめ、彼が観測した1682年の彗星(=後のハレー彗星)も含めた[[軌道要素]]を計算した{{sfn|Lancaster Brown|1985|p=76}}{{sfn|Lancaster Brown|1985|p=179}}。そして[[ペトルス・アピアヌス]]が1531年に観測した彗星と[[ヨハネス・ケプラー]]が1607年に観測した彗星が同じであることに気付いた。ハレーは[[摂動 (天文学)|摂動]]を大まかに推定し、彗星が木星などの惑星の重力があっても持続できると考え、1758年に再度見えると予言した{{sfn|Lancaster Brown|1985|p=78}}{{sfn|Ley|1967|p=96–105}}。彼は[[近日点]]に来た1682年{{R|Yeomans1986}}から60年後となる1742年、再びこの彗星を見ることなく死去した{{sfn|Lancaster Brown|1985|p=80}}。 |
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:『続漢書』「天文志」に観測記録がある。『[[タルムード]]』ホラヨット編にある「70年に一度現れる航海者を惑わす星」に比定する説がある。 |
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;[[141年]][[3月22日]] |
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1758年12月25日、ついにハレー彗星が地球に回帰してきたことをドイツの農家でありアマチュア天文家でもあった[[ヨハン・ゲオルク・パリッチュ]]が確認した。近日点に到達したのは1759年3月13日で木星・土星による影響で計618日の遅れが引き起こされた{{sfn|Lancaster Brown|1985|p=86}}。この遅れは1か月の誤差はあったものの[[アレクシス・クレロー]]、[[ジェローム・ラランド]]、[[ニコール=レイヌ・ルポート]]ら3人の数学者により計算された{{sfn|Lancaster Brown|1985|pp=84–85}}{{sfn|Sagan|Druyen|1985|p=74}}。ハレー彗星の回帰の確認により惑星以外の太陽を公転する天体がはじめて発見されたことになる。また、[[ニュートン力学]]が成功を収めた出来事ともなり、その説明力が明らかになった{{R|Hughes1987}}。1759年にはルポートによりハレー彗星と名付けられた{{R|Hughes1987}}。 |
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:『続漢書』「天文志」に観測記録がある。 |
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;[[218年]][[5月17日]] |
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学者の一部はハレー彗星を周期彗星と認識したのはハレーではなくメソポタミアの天文学者らであるという説も提唱している。その根拠は[[タルムード|バビロニア・タルムード]]のHorayotという本である{{R|JVL}}。この本では「70年に一度現れる船長を惑わす星」について言及している{{sfn|Rayner|1998|pp=108–111}}。 |
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:『[[後漢書]]』「献帝紀」建安23年条に観測記録がある。彗星の尾が[[太微垣]]の五帝座の方向を指していたことから、帝位に異変が起こる前兆ととらえられた。2年後に[[献帝 (漢)]]が廃位され、後漢は滅亡した。上記『ローマ史』第78巻に観測記録がある。 |
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;[[295年]][[4月20日]] |
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1981年には17世紀および18世紀の正確な観測データから[[数値積分]]してハレー彗星の過去の軌道を求めようとする試みが行われたが、837年のハレー彗星が地球に接近しすぎていたため837年以前の正確な結果は得られなかった。そのため、古代中国の記録を使う他なかった{{R|Stephenson1984}}。 |
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:『[[晋書]]』「恵帝紀」元康5年条に観測記録がある。 |
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;[[375年]][[2月16日]] |
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== 観測史 == |
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:『晋書』「孝武帝紀」寧康2年条に観測記録がある。時の帝は天の警告と恐れ、租税免除を行う詔を出した。 |
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以下に過去のハレー彗星の出現年及びそれが言及されている記録について説明する。出現についてはJPLによる近日点通過時の年に基づく{{R|jpldata}}。 |
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;[[451年]][[6月28日]] |
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:『[[宋書]]』「天文志」、『[[魏書]]』「天象志」に観測記録がある。[[イシドールス]]『ゴート・ヴァンダル・スエウィ王国史』第26節にある[[アッティラ]]の[[アッティラ#北イタリア侵攻と死|北イタリア侵攻]](452年)の前兆となった彗星に比定する説がある。 |
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=== 紀元前 === |
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;[[530年]][[9月27日]] |
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;[[紀元前467年]]ごろ |
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:『魏書』「天象志」に観測記録がある。占星官は「陰謀有りて奸仇興る」予兆であると警告した。果たしてその年に[[孝荘帝]]がクーデターにより殺害された。ビザンツの『テオファネス年代記』『ヨハネス・マララス年代記』にある[[ユスティニアヌス1世]]の治世(527年-565年)に現れた彗星に比定する説がある。 |
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紀元前467年に出現したという説もあるが不確定である。紀元前468年から紀元前466年までに記録が見られ、タイミングや期間などからもハレー彗星であると考えられている{{R|bbc20100910}}。古代ローマの人物、[[ガイウス・プリニウス・セクンドゥス]]によると、同年に[[トラキア]]の{{仮リンク|アイゴスポタモイ|en|Aegospotami}}という町に隕石が降ってきたという。彼はこれについて色は茶色で[[馬車]]ほどの大きさであると説明した{{sfn|Yeomans|1991|p=4}}。中国の年代記の編者も同年、この彗星について言及している{{R|Dubyago1961}}。 |
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;[[607年]][[3月15日]] |
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:『[[隋書]]』「煬帝紀」大業3年条に観測記録がある。パウルス・ディアコヌス『ランゴバルド史』第10節にあるアギルルフ王の治世(591年-616年)に現れた彗星に比定する説がある。 |
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;[[ |
;[[紀元前240年]] |
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歴史的な記録で初めて見られる'''確定した'''ハレー彗星の出現は紀元前240年である。中国の歴史書『[[史記]]』には彗星が東に現れ、北の方に動いて言ったことが書かれている。更にその後西の方にも現れたことが記録されている{{R|Kronk1P|Kronk1991|Tsu1934}}。 |
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:『[[日本書紀]]』「天武紀」13年条に「秋七月壬申彗星出干西北、長丈餘」との観測記録があり<ref>{{Cite journal|1=和書|author=河鰭公昭|authorlink=河鰭公昭|coauthors=[[谷川清隆]]、[[相馬充]]|year=2002|month=3|title=日本書紀天文記録の信頼性|journal=国立天文台報|volume=5|issue=4|pages=pp. 145-159|url=http://library.nao.ac.jp/naoreport/p145.pdf|format=PDF|publisher=国立天文台|issn=0915-6321|archiveurl=https://web.archive.org/web/20060215231824/http://library.nao.ac.jp/naoreport/p145.pdf|archivedate=2006年2月15日|deadurldate=2017年9月}}</ref>、日本最古の記録である。『[[旧唐書]]』「天文志」に観測記録がある。ドイツの『[[ニュルンベルク年代記]]』第162巻にある7世紀後半に現れた彗星に比定する説がある。第684巻には「毛だらけの星」の模写がある。 |
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;[[760年]][[5月20日]] |
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;[[紀元前164年]] |
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:『旧唐書』「天文志」に観測記録がある。『テオファネス年代記』の[[コンスタンティノス5世]]の20年(762年)に現れた彗星に比定する説もあるが、年代が合わない。 |
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[[File:Babylonian tablet recording Halley's comet.jpg|thumb|right|大英博物館の展示。ハレー彗星に関する粘土板であることがアピールされている。 <br> ([http://www.britishmuseum.org/research/collection_online/collection_object_details.aspx?objectId=327183&partId=1 BM 41462])]] |
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;[[837年]][[2月28日]]([[:fr:Étoiles invitées de 837]]) |
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[[大英博物館]]所蔵の[[バビロニア]][[粘土板]]の彗星に比定する説がある。BMA41628の「彗星は東のかたすばる・牡牛座のアヌの道にあり…西のかたエアの道を通りぬ」BMA41628の「木星の前方1キュビット、北天頂へ3キュビットにあるエア」という記述が、ハレー彗星の軌道と一致すると主張される{{R|Kronk1P|Kronk1991|Stephenson1985}}。中国では漢書によると[[文帝 (漢)|文帝]]後2年(163年)に夕方の南西に槍のような物体が空に現れたとあり、これもハレー彗星である{{R|Tsu1934}}。 |
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:『[[続日本後紀]]』承和4年条に観測記録がある。『旧唐書』「天文志」に観測記録がある。3月丙寅(ユリウス暦837年4月11日)に尾の長さが60度にまで達しており、観測記録があるものとしては屈指の巨大彗星であった。帝は大赦を行なったり、宮中の遊興を控えるなどしたが、その後も彗星や流星が次々と現れ、旱魃などの天変地異も発生した。実権を失い軟禁状態にあった[[文宗 (唐)]]は、これに消沈し「誰か私以外の賢明の君を立ててくれ。」と嘆いている。フランクの匿名の占星術師『ルドヴィクス皇帝の生涯』に観測記録がある。皇帝[[ルートヴィヒ1世 (フランク王)|ルートヴィヒ1世]]は天の警告と恐れ、貧民への恩給やミサを行なった。実際この時には、地球への最接近距離が約515万kmと計算されており、ハレー彗星としては最も近づいた<ref>[http://www.minorplanetcenter.net/iau/lists/ClosestComets.html Closest cometary approaches ''MPC'']</ref>。 |
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;[[912年]][[7月18日]] |
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;[[紀元前87年]] |
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:『[[日本紀略]]』『[[扶桑略記]]』延喜12年条に観測記録がある。『[[新五代史]]』「司天考」に観測記録がある。中国の記録では4月壬申の観測としているが、天文学的な計算から閏5月壬申の誤とされている。アイルランドの『アルスター年代記』に観測記録がある。 |
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紀元前87年にハレー彗星が見られた証として古代バビロニアの板があり、1か月に渡って日中も見られたと書かれてある{{R|Stephenson1985}}。Vahe GurzadyanとR. Vardanyanらは出現の際の[[アルメニア王国|アルメニア]]王、[[ティグラネス2世]]が描かれたコインの冠にある星はこの時現れたハレー彗星であると推測している。また、彼らはティグラネス2世はハレー彗星を見た可能性があり、古代アルメニアの人々にとってはもっとも記憶の残る出来事であったため新時代の到来と考えた、と主張している{{R|Gurzadyan2004}}。また、アルメニア以外でもバビロニアの粘土板BM 41018や中国の古文書、『[[漢書]]』にその記述が見られる{{R|Kronk1P|Tsu1934}}。 |
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;[[989年]][[9月5日]] |
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:『日本紀略』永祚元年条、『扶桑略記』永延3年条に観測記録がある。『扶桑略記』は8月に[[永延]]3年から[[永祚 (日本)|永祚]]へ[[改元]]した理由を「彗星の天変に依る」とする。『[[宋史]]』「太宗紀」端拱2年条に観測記録がある。時の帝は天の警告と恐れ、大赦を行なったところ彗星は消えたという。『増補文献備考』に観測記録がある。これは、朝鮮最古の記録である。 |
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;[[紀元前12年]] |
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[[ファイル:Tapestry of bayeux10.jpg|200px|thumb|バイユーのタペストリーに描かれたハレー彗星と、それを指差して眺めるハロルド2世の家臣。<br/>上には[[ラテン語]]で「これらの者達は星に驚いている」と書かれている。]] |
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『漢書』に記述が見られ、8月から10月に観測されている{{R|Kronk1P}}。このときハレー彗星は地球から0.16auの場所を通過しており{{R|jplgreat_comets}}、漢書によると[[ふたご座]]の[[ポルックス (恒星)|ポルックス]]、[[カストル (恒星)|カストル]]を通過し、[[しし座]]と[[おとめ座]]の方に行ったと記録されている{{R|Tsu1934}}。古代ローマの歴史家、[[カッシウス・ディオ]]によると[[マルクス・ウィプサニウス・アグリッパ]]の死の前兆のように何日間か彗星がローマの町に浮かぶようにあったと言う{{sfn|Chambers|1909|p=123}}。[[キリストの降誕|キリスト降誕]]の数年前に起こったことであるため[[ベツレヘムの星]]ではないかとも言われる。ただし、惑星の[[合 (天文)|合]]や別の彗星である可能性もある{{R|Humphreys1995}}。 |
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;[[1066年]][[3月20日]] |
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:『扶桑略記』治暦2年条、『宋史』「英宗紀」治平3年条、『[[高麗史]]』「文宗紀」20年条にそれぞれ観測記録がある。『[[アングロサクソン年代記]]』にも観測記録があり、「火の星」「長髪の星」と表現され、「イングランド人が誰も見たことのない予兆」と、即位して間もない[[ハロルド2世 (イングランド王)|ハロルド2世]]の家臣が、これに大いに怯えたことが記録されている。まもなく[[ノルマン・コンクエスト]]が起こり、ハロルド2世は戦死し、イングランドは征服された。[[バイユーのタペストリー]]にもその様子が描かれている。アイルランドの『四王国年代記』にある「月よりも明るい星」もハレー彗星に比定する説がある。 |
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=== 1世紀~10世紀 === |
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;[[1145年]][[4月18日]] |
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;[[66年]] |
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:『[[本朝世紀]]』久安元年条に観測記録がある。7月に[[天養]]2年から[[久安]]に改元されたが、理由を「彗星に依る也」とする。[[藤原頼長]]の『[[台記]]』には、彗星を見た貴族達が陰陽博士の話を聞いたり、孔雀経をあげて祈祷したり右往左往する様子が克明に描かれている。阿闍梨が孔雀経をあげたところ、彗星が消滅したため褒賞を与えられたが、近日点を通過した後再び彗星が姿を現したため、阿闍梨はかえって物笑いとなり、人々は彗星のことを「出賞(懸賞を出した星)」と呼んで揶揄したという。『宋史』「天文志」に観測記録がある。『高麗史』「仁宗紀」23年条に観測記録がある。イギリスの『エドウィン詩篇』に描かれた彗星に比定する説がある。 |
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Horayotという[[タルムード]]に「70年に一度現れる船長を惑わす星」として言及が見られる{{R|JVL}}。この星が66年出現のハレー彗星だと考えられている。この文章は当時の[[ラビ]]、Joshua ben Hananiahの手によるものとされ、彼の生きている時に起こったものであることから年代が特定された{{R|Ne'eman1983}}。 |
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;[[1222年]][[9月28日]] |
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:『[[吾妻鏡]]』貞応元年条に観測記録がある。おりしも地震も起こったため、天の警告と恐れ祈祷を行なったという。『宋史』「寧宗紀」嘉定15年条、『[[金史]]』「天文志」に観測記録がある。金の太史は新旧交代を表す天兆であると奏上し、[[元光 (金)]]に改元を行った。『高麗史』「高宗紀」9年条に観測記録がある。 |
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;[[141年]] |
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[[ファイル:Giotto - Scrovegni - -18- - Adoration of the Magi.jpg|thumb|200 px|[[スクロヴェーニ礼拝堂]]壁画]] |
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『後漢書』に観測記録があり、[[うみへび座]]に現れてしし座を通過し、約56日間見えたと書かれている{{R|Tsu1934}}。また、[[タミル語]]で書かれたPunaranuruには{{仮リンク|チェーラ朝|en|Chera dynasty}}の王、Yanaikatchai Mantaran Cheral Irumporaiの死に関連があると書かれている{{R|PN229}}。 |
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;[[1301年]][[10月25日]] |
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:『[[鎌倉年代記]]』正安3年条、[[中原師守]]『師守記』に観測記録がある。以後、日本の歴史書の記述は途絶え、個人の日記のみの記録となる。『[[元史]]』「天文志」に観測記録がある。『高麗史』「忠烈王紀」27年条に観測記録がある。イタリアの[[ジョヴァンニ・ヴィラーニ]]『年代記』に観測記録がある。[[ジョット・ディ・ボンドーネ]]が[[パドヴァ]]の[[スクロヴェーニ礼拝堂]]の壁画『[[東方三博士の礼拝]]』(1305年頃完成)に描いたベツレヘムの星に比定する説がある。長い尾があるなど明らかに彗星然としていることから、ジョット自身が見たハレー彗星を模写したに違いないと主張される。 |
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;[[ |
;[[218年]] |
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[[建安 (漢)|建安]]23年(218年)、朝の東の空に彗星が出現し、彗星の尾が[[太微垣]]の五帝座([[デネボラ]])の方向を指していたことから、帝位に異変が起こる前兆ととらえられた{{R|Tsu1934}}。なお、2年後に[[献帝 (漢)]]は廃位され、後漢は滅亡している。 |
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:[[近衛道嗣]]『愚管記』に観測記録がある。貴族達は三社に祈祷を行なわせたり、五壇の祈祷を行なうなどしたという。『[[明史]]』「天文志」に観測記録がある。『高麗史』「辛禑紀」4年条に観測記録がある。 |
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;[[1456年]][[6月9日]] |
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;[[295年]] |
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:[[中原師郷]]『師郷記』に観測記録がある。『明史』「天文志」に観測記録がある。『[[朝鮮王朝実録]]』「世祖実録」2年条に観測記録がある。彗星に人心が動揺する中、[[成三問]]が謀反を計画するが果たせなかった。ヨーロッパでもようやく近代天文学的観測が現れ、イタリアの[[パオロ・ダル・ポッツォ・トスカネッリ|トスカネッリ]]、アヴォガリオ、オーストリアのポイルバッハが観測記録を残している。バルトロメオ・プラティナ『歴代教皇伝』によれば、時のローマ教皇は[[6月29日]]付の教皇勅書で、鐘を打ち鳴らし[[アヴェ・マリア]]を唱えヨーロッパをおびやかしていた[[オスマン帝国]]を憎悪する祈りを捧げるよう命じた。この日付がたまたま彗星出現時期と重なることから、面白おかしく潤色され「教皇が占星術師の言いなりになって彗星退散の祈祷をした」などと信じられた。このため教皇[[カリストゥス3世 (ローマ教皇)|カリストゥス3世]]は彗星に震え上がった愚かな教皇として記憶されることとなった。 |
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『[[晋書]]』に観測記録があり、[[アンドロメダ座]]に出現したのち、[[ペガスス座]]を通過し、[[しし座]]の方へ行ったと書かれてある{{R|Tsu1934}}。 |
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;[[1531年]][[8月26日]] |
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:『公卿補任』享禄4年条に観測記録がある。[[三条西実隆]]『[[実隆公記]]』によれば、陰陽師の[[勘解由小路在富]]が彗星に乗じて怪しげな占文を出した。(鷲尾隆康『[[二水記]]』によれば大きな兵乱が起こるとの予言であったが、まともに信じられなかったという。)『明史』「天文志」に観測記録がある。『増補文献備考』「象緯考」に観測記録がある。ヨーロッパに記録がある。 |
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;[[ |
;[[374年]] |
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『[[晋書]]』に観測記録があり、[[寧康]]2年(374年)、みずがめ座に出現し、[[てんびん座]]、おとめ座、[[からす座]]、[[コップ座]]、みずへび座と動いて行ったと書かれている{{R|Tsu1934}}。このとき、ハレー彗星は地球に0.09auまで接近していた{{R|jplgreat_comets}}。 |
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:『公卿補任』慶長12年条に観測記録がある。『明史』「天文志」に観測記録がある。『増補文献備考』「象緯考」に観測記録がある。ヨーロッパに記録がある。 |
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;[[1682年]][[9月15日]] |
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;[[451年]] |
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:[[尭恕法親王]]『堯恕法親王日記』に観測記録がある。『清朝文献通考』「象緯考」に観測記録がある。『増補文献備考』「象緯考」に観測記録がある。リカルドとラヒラにより[[8月26日]]発見された。[[ゲオルク・ザムエル・デルフェル]]により観測される。 |
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『[[宋書]]』に観測記録があり、[[元嘉 (南朝宋)|元嘉]]28年(451年)に[[ペルセウス座]]で見られて、最終的にはからす座で消えたとある{{R|Tsu1934}}。更にヨーロッパでは現在のフランスで行われた[[カタラウヌムの戦い]]で[[アッティラ]]の前進が阻まれ、最終的には負ける前兆となったと考えられている{{R|O'Toole1985}}。 |
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;[[1759年]][[3月13日]] |
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:広橋兼胤『八槐記』に観測記録がある。陰陽師の[[土御門泰邦]]が彗星に乗じて、国に叛臣が出るとの占文を出した。『清朝文献通考』「象緯考」に観測記録がある。『英祖実録』三十五年条に観測記録がある。折しも[[荘献世子]]が[[老論派]]と対立を深めていた時期であり、彗星を天の警告として荘献世子の不徳を責める上書が次々と出された。[[1758年]][[12月25日]][[ヨハン・ゲオルク・パリッチュ]]がドレスデン郊外にて224cm望遠鏡により発見し、ハレーの予言が実証された。[[アレクシス・クレロー]]らの計算の近日点の誤差は-31日であった。 |
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;[[530年]] |
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『[[魏書]]』に観測記録があり、[[永安 (北魏)|永安]]3年(530年)8月29日に北東の空で[[おおぐま座ラムダ星|おおぐま座λ星]]と[[おおぐま座ミュー星|おおぐま座μ星]]の東近くに現れた。その後も同様の現象が起こり、9月27日に消えたと書かれている{{R|Tsu1934}}。 |
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;[[607年]] |
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『[[隋書]]』に観測記録が見られ、[[大業]]3年(607年)3月13日にアンドロメダ座で現れてしし座で消えたと書かれている{{R|Tsu1934}}。このときはハレー彗星は地球に0.09auまで接近しており{{R|jplgreat_comets}}、隋書には100日間以上も見えたことが書かれている。また、同年10月21日にも観測記録が見られるがこれはハレー彗星が近日点を通過した後の観測記録である{{R|Tsu1934}}。 |
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;[[684年]] |
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:『[[日本書紀]]』に観測記録があり、[[天武天皇]]の治世13年(684年)9月7日に出現した{{R|naoj2002|Hirayama1910}}。日本最古の記録である。『[[旧唐書]]』にも観測記録があり、[[光宅]]元年(684年)11月11日に西の空に現れたとある{{R|Tsu1934}}。ドイツの『[[ニュルンベルク年代記]]』にもハレー彗星と思われるものがあるが、観測から800年経った後に出版されたものであるため作者による想像を含む可能性がある{{R|Ridpath1985}}。 |
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;[[760年]] |
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『旧唐書』に観測記録が見られ、[[上元 (唐粛宗)|上元]]元年に東の空、[[おひつじ座]]で見られたと書かれている{{R|Tsu1934}}。 |
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;[[837年]] |
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記録に残されている中ではハレー彗星が最も地球に近づいた接近でありその距離は0.03auである{{R|jplgreat_comets}}。観測記録は中国、日本、ドイツ、中東などで見られた{{R|Kronk1P}}。日本では『[[続日本後紀]]』に見られ、4月12日に南東の空に現れたとある{{R|Hirayama1910}}。フランク王国皇帝[[ルートヴィヒ1世 (フランク王)|ルートヴィヒ1世]]はハレー彗星の出現に天の警告と恐れ、祈祷・懺悔をした{{R|Cabaniss1961}}。中国では『旧唐書』に観測記録があり、[[開成 (唐)|開成]]2年(837年)3月22日に南西の空の[[みずがめ座アルファ星|みずがめ座α星]]付近で現れて4月28日にしし座の方で消えるまでが詳細に書かれている{{R|Tsu1934}}。 |
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;[[912年]] |
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日本では『[[日本紀略]]』『[[扶桑略記]]』に観測記録がある。どちらの文献にも7月19日から7月28日に彗星が見られたことが書かれている{{R|Hirayama1910}}。中国では『[[新五代史]]』に観測記録があり、[[乾化]]2年(912年)5月13日にみずへび座の東側で出現したと書かれている{{R|Tsu1934}}。また、アイルランドの年代記、{{仮リンク|アルスター年代記|en|Annals of Ulster}}にも彗星について言及がある{{R|Ulster}}。 |
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;[[989年]] |
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日本では『日本紀略』『[[一代要記]]』に観測記録がある。『日本紀略』には7月6日の彗星と8月13~23日の彗星が記載されており、前者についてはハレー彗星なのかどうか不明である。『一代要記』では8月15日に東の空に彗星があったと書かれている{{R|Hirayama1910}}。中国では『[[宋史]]』に観測記録がある。8月13日にふたご座の西で出現し、30日間観測された。最初の10日間は朝に見られたが残りは夕方に見られるようになったとも書かれている{{R|Tsu1934}}。『[[高麗史]]』にはハレー彗星と思われるものが記録されているものの10月18日で日付が合っていない{{R|Lee2014}}。 |
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=== 11世紀~15世紀 === |
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[[File:Tapestry of bayeux10.jpg|thumb|right|[[バイユーのタペストリー]]に描かれたハレー彗星と、それを指差して眺めるハロルド2世の家臣。上には[[ラテン語]]で「これらの者達は星に驚いている」と書かれている。]] |
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[[File:Comete Tapisserie Bayeux.jpg|thumb|上写真を彗星部分のみ拡大したもの。]] |
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[[File:Comet Halley from London on 1066-05-06.png|thumb|right|1066年5月6日にロンドンで観測されたハレー彗星。[[Stellarium]]を用いてシミュレーションされた。月、火星、木星、土星も図に見える。]] |
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;[[1066年]] |
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このときイングランドではこのハレー彗星が何らかの前兆であると言われた。結果、[[ヘイスティングズの戦い]]では[[ハロルド2世 (イングランド王)|ハロルド2世]]の死の悪い前兆となり、[[ウィリアム1世 (イングランド王)|ウィリアム征服王]]にとっては良い前兆となった。この事実は[[バイユーのタペストリー]]に見ることができる。当時の記録では[[金星]]の4倍ほど大きく、月の明かりの4分の1ぐらい明るいと描写されている。このときの接近距離は0.10auである{{R|jplgreat_comets}}。 |
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また、この彗星は『[[アングロサクソン年代記]]』にも見られ、[[マルムズベリーのエイルマー]]はハレー彗星を989年にも見たと思われるような文章を残している{{R|Mynors1998}}。アイルランドの年代記『''Annals of the Four Masters''』{{small|([[:en:Annals of the Four Masters|英語版]])}}第2巻にある「月よりも明るい星」もハレー彗星に比定する説がある{{R|FourMasters}}。[[ニューメキシコ州|ニューメキシコ]]のネイティブ・アメリカンもペトログリフにこの出現を表した可能性がある{{R|Brazil2005}}。 |
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日本では『一代要記』『扶桑略記』に記載があり、[[治暦]]2年(1066年)の4月に見られた旨が書かれてある{{R|Hirayama1910}}。中国では『宋史』に記録があり、[[治平 (宋)|治平]]3年(1066年)4月2日の朝に東の空、ペガスス座で見られたと書かれている{{R|Tsu1934}}。『高麗史』にも4月19日に観測されたとあるが、4月24日ではないかという疑義がある{{R|Lee2014}}。 |
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;[[1145年]] |
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ヨーロッパでは修道士のEadwineによる書に記録が残されている。扇風機のようなハレー彗星の絵が掲載されている{{R|Olson1986}}。 |
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日本では『[[台記]]』『一代要記』『[[百錬抄]]』に記述が見られる。『台記』には[[天養]]2年(1145年)5月9日に出現してからが詳細に書かれており、5月19日から5月22日に姿を現さず、5月23にもう一度現れたことも書かれてある。『一代要記』『百錬抄』については内容は『台記』に及ばないものの出現について記録されている{{R|Hirayama1910}}。 |
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中国では『宋史』に観測記録があり、[[紹興 (宋)|紹興]]15年(1145年)4月26日に出現が始まり、近日点通過による2回の出現を経て6月24日に消えたことが書かれている{{R|Tsu1934}}。朝鮮では『高麗史』『[[高麗史節要]]』などに記録がある。5月14日から5月29日まで15日間の間記録されており、長さは[[視直径]]で10°に及んだとある{{R|Lee2014}}。 |
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;[[1222年]] |
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1222年のハレー彗星の出現は[[チンギス・カン]]がヨーロッパへ侵攻する誘因になったのではないかという説がある。なお、この年の彗星はヨーロッパに記録が見られない{{R|Tsu1934}}。 |
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日本では『[[吾妻鏡]]』『百錬抄』『[[皇代暦]]』『[[皇代記|皇年代略記]]』に見られる。『吾妻鏡』では[[貞応]]元年(1222年)9月8日に見られたとあり、中心部分(=コマ)は月の半分ほどと記録されている{{R|Hirayama1910}}。『百錬抄』『皇代暦』『皇年代略記』についても9月に見られたことが書かれている{{R|Hirayama1910}}。 |
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中国では『宋史』に見られ、[[嘉定 (南宋)|嘉定]]15年(1222年)9月25日に[[うしかい座]]で現れて2か月間見られたことが書かれている{{R|Tsu1934}}。朝鮮では『高麗史』に観測記録があり、1222年9月3日に見られたことが書かれている{{R|Lee2014}}。 |
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[[ファイル:Giotto - Scrovegni - -18- - Adoration of the Magi.jpg|thumb|right|[[スクロヴェーニ礼拝堂]]壁画。中央上部に見られるのが当時ベツレヘムの星と考えられていたハレー彗星。]] |
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;[[1301年]] |
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『[[元史]]』に観測記録があり、[[大徳 (元)|大徳]]5年(1301年)9月16日にふたご座の方で見られたとある。また、その後は46日間見られ、10月31日消えたと書かれてある{{R|Tsu1934}}。朝鮮では『高麗史』に観測記録が見られ、[[忠烈王]]27年(1301年)10月1日に見られたとある{{R|Lee2014}}。 |
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[[ジョット・ディ・ボンドーネ]]による[[パドヴァ]]の[[スクロヴェーニ礼拝堂]]の壁画『[[東方三博士の礼拝]]』(1305年頃完成)に描かれた[[ベツレヘムの星]]は彼自身が見たと思われるハレー彗星を描いたものであると考えられている{{R|Olson1986}}。 |
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;[[1378年]] |
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日本では1378年以後も日本にも観測記録はあるもののヨーロッパの文献から得られた既知の内容より分かるものはない{{R|Hirayama1910}}。中国では『[[明史]]』[[洪武]]11年(1378年)9月26日に[[ぎょしゃ座]]で現れた旨が記載されている{{R|Tsu1934}}。朝鮮では『高麗史』に観測記録があり、[[王ウ (高麗王)|辛禑]]4年に西から東に見られたとある{{R|Lee2014}}。 |
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[[File:PSM V76 D015 Halley comet in 1456.png|thumb|right|[[黄道帯]]と1456年のハレー彗星。]] |
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;[[1456年]] |
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中国では『明史』に観測記録があり、[[景泰]]7年(1456年)5月7日、おひつじ座の方で見られ、7月6日にしし座で消えたことが書かれている{{R|Tsu1934}}。朝鮮でも観測記録があり、[[世祖 (朝鮮王)|世祖]]2年(1456年)6月6日から記録がある。近日点通過のため6月13日から6月19日を除いて6月29日まで観測された{{R|Lee2014}}。 |
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ヨーロッパでは[[オスマン帝国]]が[[ハンガリー王国]]侵攻の際の{{仮リンク|ベオグラード包囲 (1456年)|en|Siege of Belgrade (1456)|label=ベオグラード包囲}}の真っ只中であった。[[カリストゥス3世 (ローマ教皇)|カリストゥス3世]]による[[教皇勅書]]ではベオグラードに御加護があるよう祈るように命じた。1470年、[[人文主義者]]、Bartolomeo Platina{{small|([[:en:Bartolomeo Platina|英語版]])}}は彼の著作で以下のことについて言及している{{sfn|Emerson|1910|p=74}}。 |
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{{Quotation|1=毛に覆われていて燃えているような星がここ数日現れた。数学者によると最悪の疫病、飢饉、大災害が起こるとのことだ。カリストゥス3世は神の怒りから免れるために「もし人類の危機が差し迫っているのならトルコ人(=キリスト教の敵)に全てを向けよ」と祈祷して命じた。また、絶え間なく祈祷を続け神を動かそうとし、祈りによってトルコ人と戦っている者たちを助けるため真昼に信者を呼ぶために鐘の音を知らせるように命じた。}} |
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Platinaのこの説明は公式には記録されていない。この話は創作による可能性が高いにも関わらず、「教会への怒りのあまり彗星を''破門''にした。」とフランス人によって誇張して面白おかしく潤色された{{R|Botley1971}}。 |
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インドでは[[カシミール]]でこの彗星が目撃され、詩人かつ伝記作家のŚrīvaraによって詳細に描かれている。彼はこの彗星の出現をSultan Zayn al-Abidin(1418/1420-1470)の没落を意味すると考えた{{R|Slaje2012}}。 |
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また、エチオピアでは1434年から1468年までの間の[[エチオピア帝国]]王、Zara Yaqob{{small|([[:en:Zara Yaqob|英語版]])}}が明るい光(=ハレー彗星)を目撃し、光の都市、{{仮リンク|デブレ・ヘルハン|en|Debre Berhan}}を設営して彼の治世の時に首都とした{{R|Pankhurst1967}}。 |
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=== 16世紀~1910年 === |
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ハレー彗星の周期的な回帰は16世紀以降、科学研究の対象となっていた。1531年、1607年、1682年のハレー彗星の出現によりエドモンド・ハレーは回帰を予測することができた。ハレーが大躍進を遂げたのはニュートンと運動の法則について話し合ったときである。また、ニュートンは[[ジョン・フラムスティード]]の1682年のハレー彗星のデータを得るのを手伝った。1531年、1607年、1682年の彗星のデータによりハレーはどれも同じ彗星だと結論づけ、1696年にそれを公表した{{R|Broughton1985}}。 |
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困難を極めたのが他惑星による重力の影響で1759年などは木星の影響でやや遅れた。その数十年後には[[アレクシス・クレロー]]らパリ天文台の数学者らによる数学の発展もあり、ハレーは結果としてニュートンやケプラーの天体運動の法則を後押しする形となった{{R|Broughton1985}}。 |
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==== 16世紀~18世紀 ==== |
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;[[1531年]] |
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中国では『明史』に観測記録があり、[[嘉靖]]10年(1531年)8月5日にふたご座の方で現れ、34日間観測されたとある{{R|Tsu1934}}。朝鮮では『増補文献備考』に観測記録がある{{R|Lee2014}}。ヨーロッパでも[[ペトルス・アピアヌス]]がハレー彗星を確認しており、これは後のハレーの研究に役立った{{sfn|Lancaster Brown|1985|p=78}}。 |
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;[[1607年]] |
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中国では『明史』に観測記録があり、[[万暦]]35年(1607年)9月21日にふたご座に現れ、10月12日に[[アンタレス]]の方で消えたとある{{R|Tsu1934}}。朝鮮にも観測記録があり、9月23日から11月3日まで記録されている{{R|Lee2014}}。ヨーロッパではヨハネス・ケプラーがハレー彗星を確認しており、これは後のハレーの研究に役立った{{sfn|Lancaster Brown|1985|p=78}}。 |
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[[File:PSM V76 D017 Halley comet in 1682.png|thumb|right|[[ポピュラーサイエンス]]に掲載された1682年のハレー彗星の模写図。]] |
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;[[1682年]] |
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中国では地方史にのみ観測記録があり、[[江南#中華人民共和国(中国)|江南]]の歴史書(題名不明)には[[康熙]]21年(1682年)9月に見られたことが書かれている{{R|Tsu1934}}。朝鮮では『[[朝鮮王朝実録]]』に記録があり、8月24日に観測された旨が記載されている{{R|Lee2014}}。また、『[[承政院日記]]』には8月25日からの記録が『朝鮮王朝実録』よりも詳細に書かれている{{R|Lee2014}}。この接近時のエドモンド・ハレーによる軌道の計算については[[#軌道の計算|軌道の計算]]節を参照。 |
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[[File:PSM V76 D017 Halley comet in 1682.png|thumb|right|[[ポピュラーサイエンス]]に掲載された1759年のハレー彗星の模写図。]] |
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;[[1759年]] |
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中国で観測記録があり、[[乾隆]]24年(1759年)4月に現れて1か月以上見られたとある{{R|Tsu1934}}。朝鮮では『朝鮮王朝実録』及び『承政院日記』に記載がある{{R|Lee2014}}。 |
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[[ヨハン・ゲオルク・パリッチュ]]は1758年時点でハレー彗星の回帰を12月25日に発見し、ハレーの予言を証明した。[[アレクシス・クレロー]]らの計算の近日点の誤差は約1か月ほどあった{{sfn|Lancaster Brown|1985|p=86}}。 |
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=== 近代以降の出現 === |
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==== 1835年 ==== |
==== 1835年 ==== |
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[[File:Looking at Halley's Comet, 1835 RMG PT1974.tiff|thumb|right|1835年のハレー彗星接近を描いた[[水彩画]]。]] |
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[[1835年]][[11月16日]]のハレー彗星は、初めて大々的に近代的な観測が行われた。検出は[[8月5日]]ローマ大学天文台のダモアシェルにより行なわれた。[[オットー・ローゼンベルガー]]による計算の近日点の誤差は+5日であった。 |
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[[File:PSM V76 D018 Halley comet in 1835.png|thumb|right|[[ポピュラーサイエンス]]に掲載された1835年のハレー彗星の模写図。]] |
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[[1835年]]のハレー彗星は、初めて大々的に近代的な観測が行われた。写真撮影が可能になったのは1839年のことであったためこの時はぎりぎりハレー彗星の[[天体写真]]を撮ることはできなかった{{R|Reneke}}。 |
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この回帰の際、Marie-Charles Damoiseau{{small|([[:en:Marie-Charles Damoiseau|英語版]])}}、らが近日点通過時刻を予想した。Damoiseauは木星と土星の重力の影響を考えて11月4.81日であることを示した{{R|first|group=注}}。Philippe Gustave Doulcet{{small|([[:en:Philippe Gustave le Doulcet, Comte de Pontécoulant|英語版]])}}も地球・木星・土星・天王星の重力の影響を考慮したが11月12.9日とやや外れていた。[[オットー・ローゼンベルガー]]も海王星以外の当時知られていた7惑星の重力の影響を考えたが11月12.0日であり、実際の近日点通過時刻、11月16.4日を正確には予測できなかった{{R|Yeomans2016}}。 |
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まだ写真が発明されておらず全ての観測は肉眼によった。エストニアの[[タルトゥ天文台]]のウィルヘルム・シュトルーベが22.5cm屈折望遠鏡で、ウィーンのリトロウが15cm屈折望遠鏡で観測した。南アフリカにいた[[ジョン・ハーシェル]]も長期のスケッチ記録を残し、「1835年10月2日(その日は尾が初めて見えた日だった)核は暗く小さかったが、突然その明るさを増し、その前方、つまり太陽の方向へジェット(光のすじ)を投げだした」と書いている。同じ頃スケッチしていたドイツの[[フリードリヒ・ヴィルヘルム・ベッセル]]や[[ハインリッヒ・シュワーベ]]のスケッチにも同様の模様が記録されている。[[1836年]]5月まで追跡された。 |
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アイルランドのMatkree天文台{{small|([[:en:Markree Observatory|英語版]])}}ではE. J. Cooper{{small|([[:en:Edward Joshua Cooper|英語版]])}}がハレー彗星のスケッチをするために口径13.3インチの望遠鏡を用いた{{R|Abrahams2009}}。ドイツの天文学者、[[フリードリヒ・ヴィルヘルム・ベッセル]]もハレー彗星のスケッチを行った{{R|BesselSketch}}。また、彼は自身の観測したハレー彗星の尾の流れから彗星の蒸気の噴射力が軌道を変える一因となっていると提唱した{{sfn|Sagan|Druyan|1985|p=117}}。フランスでは[[フランソワ・アラゴ]]が[[パリ天文台]]で口径24.4cmのLerebours望遠鏡を用いて観測し、偏光観測も行った。彼は{{仮リンク|1819年の大彗星|en|Great Comet of 1819}}を観測していることもあり、尾はまばらに分散した物質が太陽光を反射しているものだと提唱した。カナダでは[[ニューファンドランド島]]と[[ケベック州|ケベック]]で観測が行われ、新聞にもハレー彗星に関することが報道された{{R|Smith1986}}。中国にも観測記録がある{{R|Tsu1934}}。朝鮮では『朝鮮王朝実録』と『承政院日記』にハレー彗星の記述がある{{R|Lee2014}}。 |
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日本では『新修彗星法』に、中国や朝鮮でも記録がある。 |
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William G. Toddは1835年と1910年のハレー彗星両方を目撃しており、[[ポピュラー・アストロノミー]]のインタビューに答えている。彼は1910年の彗星がどんな風に見えたかを述べた後、1910年のハレー彗星に関して、1843年のハレー彗星に比べて尾は広がっているが長くはないと語っている{{R|Todd1910}}。 |
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[[ファイル:Halley's Comet - May 29 1910.jpg|thumb|1910年5月29日に撮影されたハレー彗星]] |
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更に[[フリードリッヒ・フォン・シュトルーベ]]、[[ジョン・ハーシェル]]など各地の著名な天文学者らもハレー彗星の観測を始めた{{R|Lynn1909}}。アメリカでは[[イェール大学#イェール・カレッジ|イェール・カレッジ]]で{{仮リンク|デニソン・オルムステッド|en|Denison Olmsted}}と{{仮リンク|エリアス・ルーミス|en|Elias Loomis}}による望遠鏡での観測が行われた。この観測により1456年と1378年のハレー彗星がハレー彗星であると同定された{{R|Lynn1909}}。 |
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この後ハレー彗星が回帰してくるのは1910年となるがこの期間は74.42年と既知のもののなかでは最短である。なお、最も長い時は451年から530年の期間で、79.25年も間隔があった{{R|nasaHalley}}。 |
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==== 1910年 ==== |
==== 1910年 ==== |
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[[ファイル:Halley's Comet - May 29 1910.jpg|thumb|1910年5月29日に撮影されたハレー彗星]] |
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[[1910年]][[4月20日]]のハレー彗星は、比較的地球に接近したものだった。初めて[[写真]]撮影がされたが、当時は写真撮影は未だ一般的なものでなく、アマチュアは肉眼によるスケッチを行なった。 |
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[[File:Halley's comet 1910.jpg|thumb|right|[[ハーバード大学天文台]]で1910年4月に撮影されたハレー彗星。]] |
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[[File:PSM V76 D020 Path of halley comet.png|thumb|right|ポピュラー・サイエンス1910年1月号に掲載された図。ハレー彗星が近日点を通過するに伴い尾が太陽とは逆方向に伸びていることが分かる。]] |
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1910年のハレー彗星は4月10日ごろには肉眼でも見えるほどになり、4月20日に近日点に達した{{R|jplgreat_comets}}。ハレー彗星の写真が撮影された初の接近であり、[[分光学|分光観測]]によるデータが得られた初の接近でもある{{R|Mendis1988}}。さらに近日点を通過した後の5月20日頃には0.15auまで地球に接近した{{R|jplgreat_comets}}。実際に5月19日にはハレー彗星の尾の外側の部分を地球が通過した{{R|Ridpath1985-2|Nunnally2011}}。今回のハレー彗星の出現より4か月前には大彗星{{仮リンク|C/1910 A1|en|Great January Comet of 1910}}も観測されていたがこちらはDaylight Cometと呼ばれるほど昼でも肉眼で見られた別の彗星である{{R|SandT2010|Bortle1998}}。 |
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ハレー彗星の核が地球と太陽の間に入ったため、今回の接近では地球上から太陽面通過を観測できる状態となっていたが、世界中の天文台が当時としては最新の機材を使って観測にあたったにもかかわらず、結局、確実に見たとの報告はなかった。現在の[[八戸市]]に住む天文愛好家、[[前原寅吉]]は、自作の天体望遠鏡を自宅の物干し台に取り付け、観測に挑戦した。太陽面通過の観測には成功したものの学会には認められなかった{{R|MaeharaStory|Hachinohe}}。 |
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[[1909年]][[9月11日]]、[[マックス・ヴォルフ]]がケーニヒスツール天文台の72cmF3.9望遠鏡にて写真撮影で検出し、1909年[[9月15日]]に[[ヤーキス天文台]]で実視観測された。コーエルと[[アンドリュー・クロンメリン]]が出した予報の近日点通過誤差は+3.03日であった。 |
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最初にこの時のハレー彗星が発見されたのは1909年9月12日で、[[マックス・ヴォルフ]]が[[ハイデルベルク]]の[[ケーニッヒシュトゥール天文台]]で写真撮影によって発見した。このとき、ドイツの天文学会、Astronomische Gesellschaft{{small|([[:en:Astronomische Gesellschaft|英語版]])}}は近日点通過時刻を最も的確に当てた者に賞金を与える企画を行っており、Philip H. Cowellと[[アンドリュー・クロンメリン]]が最も正確に当てることができた{{R|Ridpath1985-3}}。実際の近日点通過時刻が4月20.18日であったのに対し、金星から海王星までの惑星による摂動を計算した彼らの予想では4月17.11日と3日程度しか誤差がなかった{{R|Yeomans2016}}。 |
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発見当時の光度は約16等だったがその後明るくなり、翌1910年2月に8等級、3月に7等級となり、4月に2等級となり、8度ほどの尾を見せた。[[5月11日]]には最も明るく、0.6等となり、尾はさらに長くなり、[[5月14日]]に58度、16日に70度、19日に105度、21日には120度となった。夜明けごろに観測されていたのが、21日以後は夕方西方に現れ、光度、尾の長さともに次第に減じ、7月に7等、尾の長さ2度となり、翌年1月に13等級、4月に15等級となり、[[1911年]][[7月11日]]の写真に現れたのを最後に見えなくなった。この時、[[太陽]]からの距離は約8億3000万km。 |
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ハレー彗星の尾は1910年2月ぐらいはまだほとんど見えなかったが4月中頃になってようやく4°、4月21日には12°までになり肉眼でも尾が見えるようになった。5月19日には150°にまでなり、それ以降は尾は小さくなっていたものの6月11日でも25度であった{{R|Wood1910}}。 |
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当時麻布飯倉町にあった東京天文台(現:[[国立天文台]])では平山信と戸田光潤が20cmf=1203mm、8.7cmf=254mm、3.2cmf=78mmの3台のカメラを使用し、[[4月20日]]から[[6月7日]]までに44枚を撮影した。また満州日々新聞の協力を得て、春に晴天が続く[[関東州]][[大連市]](現:[[中華人民共和国]][[遼寧省]]大連市)郊外に観測小屋を建て、早乙女清房と帆足通直が遠征、15cm屈折赤道儀に10cmf=882mm、7.8cmf=245mm、3.9cmf=144mmの3台のカメラを同架して[[5月6日]]から[[6月11日]]までに90枚を撮影した。 |
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当時[[麻布]]にあった東京天文台(現:[[国立天文台]])では[[平山信]]らが3台のカメラを使用し、4月20日から6月7日の間に44枚を撮影した。また、満州にも観測小屋を建て、[[早乙女清房]]らが遠征し、15cm屈折赤道儀と3台のカメラを使用して5月6日から6月11日までに90枚を撮影した{{R|arcnews609}}。 |
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日本のアマチュアは観測方法が分からず光度観測などはほとんど行われなかったが、井上四郎が10cm屈折望遠鏡でスケッチを残している。 |
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今回の接近ではスペクトルの分析を行われ、ハレー彗星には[[シアン化物]]が含まれていることが明らかになった{{R|NYTimes1910}}。天文学者[[カミーユ・フラマリオン]]は地球がハレー彗星の尾に近づいたとき、大気中にガスが充満しひょっとすると全生命体が殺されるかもしれない、と主張した{{R|Strauss2009}}。彼の声明によりパニックが引き起こされ、ガスマスクを買う人やanti-comet pill、anti-comet umbrellaのような偽商品を買う人が相次いだ{{R|UT20090920}}。また、瓶や自転車のゴムチューブに空気を詰め、ハレー彗星が通過する時にその中の空気を吸ってなんとか生き延びようとした人もいた{{R|natgeo20110523|MaeharaStory}}。これは後にすぐに他の天文学者によって指摘され、実際にガスは拡散したため地球が尾を通過しても何ら影響はなかった{{R|Strauss2009}}。しかし同じ頃[[インフルエンザ]]が流行し、ウイルスの存在が分かっていなかった当時は原因をハレー彗星に求める説もあった{{R|Akazawa192111}}。 |
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今回の接近では軌道の関係上、ハレー彗星の核は地球と太陽の間に入り、地球上から太陽面通過を観測できる状態となっていた。しかし、世界中の天文台が当時としては最新の機材を使って観測にあたったにもかかわらず、結局、確実に見たとの報告はなかった。現在の[[八戸市]]に住む、一人の天文愛好家、[[前原寅吉]]([[1872年]] - [[1950年]])は、自作の「黒色ガラス」をつけた3台の天体望遠鏡を自宅の物干し台に取り付け、観測に挑戦した。記録には「5月19日、午後11時20分に至り西より東に向き太陽面上段青色に変じたり。これ全く核(ガス状になった彗星の本体)の経過せしものにて午後12時17分まで見えたるも西方より白色状の状態に復したり」とあるが、これも学会に認められるものではなかった。 |
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自転車のゴムチューブが大量に購入され、騒ぎとなった出来事は、[[岩倉政治]]による『[[空気のなくなる日]]』という絵本に描かれている{{R|mainichi20200325}}。『[[ドラえもん]]』「ハリーのしっぽ」でも、ハレー彗星が接近した時、[[骨川スネ夫|スネ夫]]の先祖がチューブを買い占める話や、[[野比のび太|のび太]]の曽祖父・のび吉が桶の水で息を止める訓練をする話が出ている{{R|Doraemon12|Doraemon33}}。 |
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太陽面を通過した際、ハレー彗星の尾の中を地球が通過することも天文学者により予言されていた。彗星の尾には有毒の[[シアン化水素|シアン化合物]]が含まれていることが知られていた。特にフランスの科学者[[カミーユ・フラマリオン]]([[1842年]] - [[1925年]]、日本のメディアでの表記はフレンマリオン)の説がもととなり、尾に含まれる猛毒成分により、地球上の生物は全て窒息死するという噂が広まった。日本でのその日時は、[[5月19日]]11時22分とされた。 |
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中国では[[辛亥革命]]の前年にあたり、ハレー彗星の出現によって更に不穏になっていた。[[四川省]]で任務に当たっていたJames Hutsonは以下のような記録を残している。 |
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シアン毒説の他に、地球上の空気が5分間ほどなくなるという噂が一部で広まった。[[自転車]]のチューブを買い占め、チューブ内の空気を吸って一時的な[[酸素]]枯渇に備える裕福な者、水を張った桶で息を止める訓練をする者、全財産を遊びにつぎ込む者、世界滅亡を憂えて自殺する者などが現れたという。{{要出典範囲|「どうせ死ぬのだから」とばかりに、歓楽街が非常に賑わい、かつてない盛況を見せたがために、[[花柳界]]では「'''嗚呼ありがたきホーキ星様'''」とハレー彗星が歓迎された。|date=2014年8月}}<!-- 2010年4月11日の[http://blog.ho-wiki06.com/index.php?%E3%83%96%E3%83%AD%E3%82%B0%2F2010-04-11]のブログが初出。有意な出典があればお願いします -->この顛末は、[[1949年]]([[昭和]]24年)、[[日本映画社]]製作の『[[空気のなくなる日]]』という映画に描かれている。『[[ドラえもん]]』「ハリーのしっぽ」<ref>『[[小学館の学年別学習雑誌|小学六年生]]』1984年7月号掲載、[[てんとう虫コミックス]]第33巻・[[藤子・F・不二雄大全集]]第12巻に収録。</ref>でも、ハレー彗星が接近した時、[[骨川スネ夫|スネ夫]]の先祖がチューブを買い占める話や、[[野比のび太|のび太]]の曽祖父・のび吉が桶の水で息を止める訓練をする話が出ている。しかし、当時の新聞記事を見るかぎり、大規模な騒乱などが起きたわけではない<ref>{{Cite web|url=http://www.geocities.jp/planetnekonta2/hanasi/halley/halley.html|title= 1910年のハレー彗星騒動|date=2002-09-28|accessdate=2014-08-14|work= 暦と星のお話}}</ref>。 |
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{{Quotation|人々はハレー彗星が戦争、火災、疫病、王朝の交代のような惨事を引き起こすと信じていた。一部地域では家の扉が半日開かない日や水が運ばれてこない日もあった。彗星のせいで地球上には有害な蒸気で満たされているとうわさされていて水を飲まない人さえもたくさんいた{{R|Hutson1921}}。}} |
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海外では[[ローマ教皇庁]]が「贖罪券」を発行したところ、希望者が殺到し、手に入れられなかった人が悲嘆に暮れるあまり自殺するという事件も起きている。中には[[酸素ボンベ]]を持ち出し地下に逃げ込んだ者もいた。「彗星が持ち込むシアンの毒はこれで大丈夫」と、小麦粉を丸めただけのニセの薬を売って金もうけしようとした詐欺師がアメリカで摘発されたこともあった。[[メキシコ]]では、「[[処女]]を[[生贄]]にすれば助かる」と信じ込んだ暴徒が、女性を襲撃する事件も起きている。 |
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[[オクラホマ州]]ではSacred Followersという宗教団体がハレー彗星による災害を退けるために処女をいけにえにしようとしたという話も新聞に残っている。この宗教団体の行動はのちに警察に止められた{{R|NYTimes1997}}。 |
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実際のハレー彗星は[[5月19日]]に太陽面を通過したが、彗星のガスは非常に薄いため、地球が尾の中を通過してもハレー彗星のガスは地球の厚い大気に阻まれて地表に到達することはなく、地球及び生命体には何の影響も与えなかった。しかし同じ頃[[インフルエンザ]]が流行し、ウイルスの存在が分かっていなかった当時は原因をハレー彗星に求める説もあった{{R|Akazawa192111}}。 |
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アメリカの風刺作家であった[[マーク・トウェイン]]はハレー彗星近日点通過の2週間後(1835年11月30日)に生まれ、彼が1909年に公表した自伝では以下のように述べている。 |
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太古より、ハレー彗星は[[不吉]]の前兆などと考えられてきたが、この時ほどの大きな騒ぎの記録はなく、結果的に、科学とメディアの発達がかえって迷信によるパニックを煽ることとなった。 |
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{{Quotation|私は1835年にハレー彗星と共にやって来た。来年にはまた回帰してくるので私もともに行くのだろうと思う。もしそうでないのなら人生で一番の失望だ。全能者も疑うことなく、「ここにいる変わり者の二者は共にやって来たのだから共に出ていくにちがいない」と言ったのだ{{R|Paine1912|Litts2009}}。}} |
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1910年のハレー彗星を見たと言う者の中には、実際には、ハレー彗星とは別の1910年1月の彗星 (C/1910 A1 = 1910 I (Great January comet)、[[:en:Great January Comet of 1910]]) の記憶と混同している例も少なくない。この彗星はハレー彗星の接近の約4ヶ月前に現れ、最も明るい時にはハレー彗星より明るく、白昼でも見えた。太陽面を横切る様子が数多くの人々に目撃され、{{要出典|日本でも新聞に「白昼横行 光芒千里」との漫画が掲載されている。|date=2020年10月|}} |
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そしてトウェインは彼の予想どおり近日点通過の翌日となる4月21日に亡くなった{{R|anonymous1910}}。1985年のファンタジー映画、The Adventures of Mark Twain{{small|([[:en:The Adventures of Mark Twain (1985 film)|英語版]])}}はこの出来事を題材とした作品となっている{{R|NYTimes1986}}。 |
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=== 1986年以降 === |
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==== 1986年 ==== |
==== 1986年 ==== |
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[[1986年 |
[[File:Halley path 1986.png|thumb|right|1986年のハレー彗星の1時間毎の動き。]] |
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[[File:Comet Halley.jpg|thumb|right|まだ尾が少し見える程度のときのハレー彗星。背景は[[天の川銀河]]。]] |
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[[File:1986 Comet Halley.jpg|thumb|right|エドモンド・ハレー、[[ベガ1号]]、[[ベガ2号]]、[[ジオット (探査機)|ジオット]]、[[すいせい]]が描かれた[[小型シート]]。]] |
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[[File:Animation of 1P/Halley orbit - 1986 apparition.gif|thumb|right|1986年のハレー彗星の軌道。黄色が太陽、青が地球、桃色がハレー彗星。]] |
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1986年の接近は、ハレー彗星は地球から見て太陽の向こう側にあり過去2000年以内では最も観測には不向きな状況であった{{R|Broughton1979}}。都市化による[[光害]]もあり、都市ではないところでしか見えず、双眼鏡で見えるぐらいであった{{R|AAA2004}}。さらに彗星が最も明るくなった1986年の3・4月には北半球からはほとんど見えない位置にあった{{R|Ocala1986}}。 |
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今回のハレー彗星を初めて観測したのは[[デビッド・C・ジューイット|D. C. ジューイット]]、G. Edward Danielsonらで1982年10月16日、[[パロマー天文台]]の5.1m[[ヘール望遠鏡]]と[[CCDイメージセンサ]]を用いて観測を行った{{R|ESAgiotto}}。視覚的な最初の発見はアマチュア天文家のStephen James O'Mearaによるもので、1985年1月24日、自作の24インチ望遠鏡で[[マウナ・ケア山]]で観測した{{R|NYTimes1985}}。1985年11月には[[ジェット推進研究所]]の天文学者Stephen EdbergとCharles Morrisが初めて肉眼で観測した{{R|LATimes1985}}。 |
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[[1982年]][[10月16日]]、ジェウィットら8名により[[パロマー天文台]]508cmF3.3[[ヘール望遠鏡]]にてCCDで検出された。ヨーマンズが出した予報の近日点通過の誤差は-0.36日であった。 |
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1985年11月8日、J. Ciffreoはハレー彗星を撮影しようとした際に望遠鏡のセッティングを間違え、撮影した画像にある彗星をハレー彗星だと勘違いしていた。その後、J. Ciffreoは注意深く見るとハレー彗星ではないことが分かり、この彗星は後に周期彗星と分かって[[シフレオ彗星]]と命名された{{R|Benest1990}}{{sfn|天文観測年表編集委員会|1987|p=200}}。 |
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アマチュア天文家による最初の確実な観測は[[1985年]][[8月12日]]で、14-15等級の暗く淡いイメージであった。9月にかけ少しずつ明るくなり、10月には増光も移動もそのスピードを増し、12月にはタイプIの尾が撮影できるようになり、1986年1月には夕方西空に長く細い尾を眼視で確認できるようになった。近日点通過前の最終観測は[[1月28日]]になされた<ref name="天文観測年表1987.p.200">[[#天文観測年表編集委員会1986|天文観測年表(1986)]]、p.200</ref>。 |
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ハレー彗星は[[軌道傾斜角]]が大きく逆行軌道をとるため、探査機を送ることは難しい{{sfn|Ley|1967|p=108}}が、今回の接近ではいくつか探査機が打ち上げられた。ソ連は[[ベガ1号]]と[[ベガ2号]]を打ち上げ、1986年3月4日からハレー彗星の画像を送信し始めた。ベガ1号はハレー彗星の核に接近した初めての事例となり、3月6日には[[フライバイ]]に成功した。続いて[[ベガ2号]]も3月9日に成功した。接近距離はそれぞれ8890km、8030kmであった{{R|Keller2005}}。[[欧州宇宙機関]](ESA)は[[ジオット (探査機)|ジオット]]を打ち上げ、1986年3月14日には596kmまで接近することができた{{R|Keller2005}}。日本の探査機としては[[すいせい]]と[[さきがけ (探査機)|さきがけ]]が打ち上げられた。これらの探査機は総称して[[ハレー艦隊]]とも言われる{{R|jaxasuisei}}。 |
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近日点通過後は[[2月16日]]から再観測され、3月にはこの回帰中もっとも美しい姿になった。過去の出現時のような光度に達せず、[[都市化]]によって[[光害]]が広がっていたこと、最も地球に近づくことからさかんに報道された4月には南に低く[[北半球]]からほとんど見られなくなった時期であったことから、多くの一般の人々は彗星を全く見ることができなかった。アマチュア天文家は彗星を見ようと[[南半球]]へ移動し、社会現象までになった。5月には未だ長い尾を見せつつも少しずつ暗くなり、6月にはコマだけになり、日本では7月初めの観測がアマチュアが観望できた最後になった<ref name="天文観測年表1987.p.200" />。 |
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当時としては最大の紫外線天文衛星、[[アストロン (人工衛星)|アストロン]]の1985年12月の観測データに基づきソ連の研究者らはハレー彗星の[[コマ (彗星)|コマ]]のモデルを発展させた。この研究によりハレー彗星のコマは他の大きめの周期彗星に類似していることが分かった{{R|Boyarchuk1986}}。また、ハレー彗星は探査機[[ISEE-3/ICE|ICE]]からも観測された。ICEは当初はISEE-3という名称で太陽を観測する目的で運用されていたが、その後第二の目的として[[ジャコビニ・ツィナー彗星]]とハレー彗星の調査が行われた{{R|ICE-EAA}}。 |
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[[ファイル:DBP 1986 1273 Giotto Mission Halleyscher Komet.jpg|250px|thumb|left|ドイツが発行したジオット計画の[[記念切手]]]] |
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地球からの観測には不向きな接近だったものの、この76年間の人類の宇宙開発の進展により、地表を離れて、さらには惑星間空間にまで進出しての観測技術が投入された初の接近となった。ハレー彗星のために、複数の国家(および国際)宇宙機関が次々と探査機を送り出し、非公式に[[ハレー艦隊]] (Halley Armada) と呼ばれる活躍を見せた。中でも最も華々しく成功したのは[[ヨーロッパ宇宙機関]] (ESA) の[[ジオット (探査機)|ジオット]]で、ハレー彗星のコマに突入、核から596kmまで接近し観測を行った。この探査により、ハレー彗星の核が推定されていた通りの汚れた雪玉状の組成を持ち、核の形がひょうたん型であることも分かった。他に、[[ソビエト連邦|ソ連]]・フランス合同の[[ベガ計画|ベガ1号・ベガ2号]]や、日本の[[さきがけ (探査機)|さきがけ]]・[[すいせい]]が打ち上げられた(この2機は日本初の地球圏を離れた宇宙機でもある)。[[アメリカ合衆国|アメリカ]]は、太陽周回軌道にあった [[ISEE-3/ICE|ICE]] (International Cometary Explorer)と[[パイオニア計画|パイオニア7号]]でハレー彗星を観測した。ICEは、元々は ISEE-3 (International Sun-Earth Explorer 3) といい、太陽-地球 L<sub>1</sub> [[ラグランジュ点]]で[[太陽風]]を観測していたが、予定のミッションを完了した後で改名され、軌道を変更し、[[ジャコビニ・ツィンナー彗星]]とハレー彗星を観測した。パイオニア7号は元々[[パイオニア計画|パイオニア6号 - 9号]]で4機編隊を組み、太陽周回軌道を網羅して惑星間環境を観測する探査機であったが、7号の軌道は運良くハレー彗星に1230万kmまで接近するものであり、彗星尾部の観測を行なった。 |
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[[STS-51-L]]および[[STS-61-E]]の2回の[[スペースシャトル]]ミッションで、低軌道からハレー彗星を観測する計画 |
[[STS-51-L]]および[[STS-61-E]]の2回の[[スペースシャトル]]ミッションで、低軌道からハレー彗星を観測する計画もあった。51-LではSPARTAN-203を打ち上げるミッション{{R|Gunter-51-L}}、61-Eでは1986年3月にスペースシャトル・[[コロンビア (オービタ)|コロンビア]]を打ち上げて観測装置ASTRO-1でハレー彗星を観測するミッションを行う予定だった{{sfn|Shayler|Burgess|2006|p=433}}。しかし1986年1月28日にスペースシャトル・[[チャレンジャー (オービタ)|チャレンジャー]]が51-Lミッションの打ち上げで[[チャレンジャー爆発事故|爆発事故]]を起こしたため、全ての計画は中止になった{{R|nasa20051206}}。ASTRO-1は[[1990年]]12月の[[STS-35]]ミッションでようやく打ち上げられ、ハレー彗星には間に合わなかった{{R|nasaSTS-35}}。 |
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==== 1991年のアウトバースト ==== |
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ソ連の[[宇宙ステーション]]・[[サリュート]]7号は、1986年のハレー彗星接近時には無人だった。サリュートの後継となる[[ミール]]は、この接近期間中の1986年2月に打ち上げられたが、まだ乗組員は滞在していなかった。 |
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1986年の地球接近後もハレー彗星の観測は続けられた。[[1991年]]2月にはハレー彗星が突然光度を増した(アウトバースト)ことが観測されている{{R|astroarts20030904}}。この増光の詳細な原因は不明であるが、二酸化炭素や一酸化炭素のような揮発性物質が昇華して圧力によりアウトバーストが起こったと考えられている{{R|nasa1991}}。 |
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その後、[[ヨーロッパ南天天文台]] (ESO) が[[1994年]]と[[2003年]]にハレー彗星を観測して以来、ハレー彗星は姿を見せていない{{R|eso1994|eso2003}}。 |
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==== 今後 ==== |
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今後の出現予定(及び接近の日)は以下の通りである。 |
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* [[2061年]][[7月28日]] |
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* [[2134年]][[3月27日]] |
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==== 2061年 ==== |
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== 出現にまつわる雑学 == |
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[[File:Animation of 1P/Halley orbit - 2061 apparition.gif|thumb|right|2061年のハレー彗星の接近。黄色:太陽、水色:金星、青:地球、橙色:木星、桃色:ハレー彗星]] |
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* 「次回の接近でハレー彗星が太陽に衝突して地球に被害が及ぶと[[アイザック・ニュートン|ニュートン]]が唱えたという説」があるが、シミュレーションで見る限り、ハレー彗星は太陽に衝突しない(そもそもアイザック・ニュートンが太陽に衝突し地球に被害が及ぶと指摘した彗星は非周期彗星の[[キルヒ彗星]]でありハレー彗星ではない)。 |
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ハレー彗星の予想される次回近日点時刻は2061年7月29日であり{{R|mpcdata}}、アニメーションのように太陽から同じ側にあるので1986年のハレー彗星よりは観測しやすい{{R|Yeomans1986}}。[[見かけの等級]]は最大で-0.3になり、1986年のハレー彗星よりも2.4等級明るくなると予想されている{{R|Odenwald1997}}。2060年9月9日には木星に、2061年4月20日には金星に最接近する{{R|jpldata}}。 |
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* [[マーク・トウェイン]]は生前、「私はハレー彗星が空に掛かる頃この世に生まれた。だから私は、ハレー彗星と共に旅立つのだ」という言葉を残している。その通りに、彼は[[1835年]]の回帰時にこの世に生まれ、[[1910年]]の回帰時、丁度近日点を通過する頃にこの世を去っている。 |
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*[[天体望遠鏡]]を市販している光学機器メーカーでは、ハレー彗星観測と銘打って多数の製品を売り出し、各社共に高い売れ行きを記録した。出版界でも多数の書籍が発行され、テレビ番組でも「[[NHKスペシャル]]」や「[[日立テレビシティ]]」、「[[そこが知りたい]]」等でハレー彗星を扱った番組が放映されている。 |
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*1985年の[[シフレオ彗星]]は、ハレー彗星を撮影しようとした際に望遠鏡のセッティングを間違え、偶然写っていて発見された<ref name="天文観測年表1987.p.200" />。 |
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==== 2134年 ==== |
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2134年にはハレー彗星は地球に0.09auの距離で最接近する{{R|jpldata}}。見かけの等級は-2.0と予測されている{{R|Odenwald1997}}。 |
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ハレー彗星の回帰・接近にともなって起きた社会現象について、ここでは日本において現れた商品などについてまとめる。 |
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* 1910年 |
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** 「口内清涼剤カオール」が発売された。[[仁丹]]のような細かい丸薬状の商品で、ハレー彗星の尾が伸びるようにカオールの売れ行きも伸びているという内容のキャッチコピーが添付されていた。 |
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* 1986年 |
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** カネボウが「星化粧ハレー」という、目元のワンポイントメイク商品を発売した(CM挿入歌は[[ハイ・ファイ・セット]]の同タイトル)。楽曲では、[[少女隊]]が「ハレーロマンス」、[[南こうせつ]]が「少女の名前はハレー」、[[レベッカ (バンド)|レベッカ]]が「76th Star」という曲をリリースしたり、歌詞中に「ハレー」や「彗星」という言葉がある曲をさまざまなアーティストがリリースしていた([[1986オメガトライブ]]の「[[君は1000%]]」、[[チェッカーズ]]の「[[Song for U.S.A.]]」など)。アニメには、手塚プロのOVA作品『[[ラブ・ポジション ハレー伝説]]』がある。[[時代劇]]では『[[必殺仕事人V・激闘編]]』「江戸の空にハレー彗星が飛ぶ」というエピソードがある。コンピュータゲームでは[[タイトー]]が[[ハレーズコメット]]というアーケードゲームを出した。[[スーパー戦隊シリーズ]]第9作『[[電撃戦隊チェンジマン]]』の最終回は、ハレー彗星に隠れて敵の首領が地球に接近するというエピソードだった。 |
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=== 出現の年表 === |
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以下に過去の出現と仮符号、近日点通過日時などを表にまとめた。データに関しては[[小惑星センター|MPC]]や[[ジェット推進研究所|JPL]]のものを使用している{{R|jpldata|mpcdata}}。 |
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1986年の地球接近後もハレー彗星の観測は続けられた。[[1991年]]2月にはハレー彗星が突然光度を増したことが観測されている。この増光の原因は不明であるが、以下のようないくつかの説が考えられた。 |
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{| class="wikitable" style="width:98%;" |
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* 別の[[天体]]との衝突 |
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|-valign=top |
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* 彗星の崩壊([[太陽風]]の圧力などによる) |
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!仮符号 |
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* 内部構造を原因としたガス噴出量の増加や発熱 |
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!年 |
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!前回との間隔 |
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その後、[[ヨーロッパ南天天文台]] (ESO) が[[1994年]]と[[2003年]]3月にハレー彗星の姿を観測しているため、核本体が失われるような衝突や崩壊は起こっていないと推定されている。 |
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!近日点通過日時 |
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!最接近時距離 |
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== フィクションの中のハレー彗星 == |
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!備考 |
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* 時代劇「[[必殺仕事人V・激闘編]] 」第17話「江戸の空にハレー彗星が飛ぶ」で「妖しのほうき星」と呼ばれるハレー彗星が登場。[[天保]]6年([[1835年]])と推定される。 |
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* 漫画「[[お〜い!竜馬]]」の冒頭で、[[坂本乙女]]が[[1835年]]のハレー彗星に天翔ける竜と白馬の姿を見た。やがて生まれてきた弟に「竜馬」と名づけた。 |
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|1P/−239 K1, −239 |
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* 漫画「[[ドラえもん]]」の中に1910年のハレー彗星接近時の騒動を元にした作品「ハリーのしっぽ」がある。(原作漫画は[[てんとう虫コミックス]]33巻に収録。アニメ化もされ、[[1984年]][[12月21日]]に初放送。) |
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|style="white-space:nowrap;"|[[紀元前240年]] |
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* アニメ[[ルパン三世]]の劇場版第3作[[ルパン三世 バビロンの黄金伝説|バビロンの黄金伝説]]([[1985年]][[7月]]公開)において、1986年の接近が物語終盤のキーになっている。 |
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* [[アーサー・C・クラーク]]のSF小説『[[2061年宇宙の旅]]』では、[[2061年]]に回帰したハレー彗星に、有人宇宙船が着陸する。 |
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|5月25日 |
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* [[グレゴリイ・ベンフォード]]&[[デイヴィッド・ブリン]]のSF小説『彗星の核へ』では、2061年に回帰したハレー彗星に、有人宇宙船が着陸する。 |
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* テレビアニメとして人気を博した[[魔法の天使クリィミーマミ]]の続編[[OVA]]では、テレビ版の結末で主人公が失った魔法の力が突如よみがえる理由(作劇上の口実)としてハレー彗星の接近を利用している。 |
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|確実に記録として残っているとされていものでは最古のハレー彗星 |
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* 和風ホラーゲームの[[SIREN]]では、684年(天武12年)に彗星と共に現れた「常世の存在」である堕辰子が舞い降り、その肉を食った村人の一人である妊婦が村と共に呪われる。彼女は死ぬ事を許されず、現代(2003年)まで約1300年間生き続けており、子孫を生贄とする事で罪を償っている。 |
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* [[ガイナックス]]製作の[[サイエンス・フィクション|SF]][[ロボットアニメ]]『[[トップをねらえ!]]』では、[[2032年]][[7月23日]]に[[ヱクセリヲン]]がハレー彗星の軌道上に[[ワープ]]アウトした。 |
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|1P/−163 U1, −163 |
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* 『ラブ・ポジション ハレー伝説』 原作:[[手塚治虫]]([[OVA]]/[[1985年]]製作) |
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|[[紀元前164年]] |
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* 映画『[[スペースバンパイア]]』(1985年製作) では、ハレー彗星に紛れて、人間の生命エネルギー(精気)を吸い取る吸精鬼(スペースバンパイア)が飛来する。物語の年代は1986年の接近時と思われるが、劇中では明確にされていない(架空の[[サイエンス・フィクション|SF]]設定とはいえ、重力制御装置を積んだイギリス製スペースシャトルが登場するなど、1986年とは断定しがたい部分もある)。 |
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|76年 |
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* アニメ映画『[[ゲゲゲの鬼太郎]] 妖怪大戦争』([[1986年]]製作)では、舞台となった島で海の異常現象が確認され、ハレー彗星の接近が原因という説が唱えられているが、因果の程は作中でも明らかにされていない。 |
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|11月12日 |
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* エニックス(現・[[スクウェア・エニックス]])製作のゲーム『[[ジーザス]]』([[1987年]])では、2061年のハレー彗星接近を描いており、彗星内に棲息する異星生命体(モンスター)が彗星探査船に侵入し、乗組員を次々と殺害しながら、その[[DNA]]を摂取して急速に進化していく。モンスターには弱点がある一方、耐性についても懸念されており、ラストでは次のハレー彗星接近時に予測される危機に対して警鐘を鳴らしている。 |
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|1P/−86 Q1, −86 |
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|[[紀元前87年]] |
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|77年 |
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|8月6日 |
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|1P/−11 Q1, −11 |
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|[[紀元前12年]] |
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|75年 |
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|10月10日 |
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|0.16au |
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|1P/66 B1, 66 |
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|[[66年]] |
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|78年 |
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|1月25日 |
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|1P/141 F1, 141 |
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|[[141年]] |
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|75年 |
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|3月22日 |
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|1P/218 H1, 218 |
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|[[218年]] |
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|77年 |
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|5月17日 |
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|1P/295 J1, 295 |
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|[[295年]] |
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|77年 |
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|4月20日 |
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|1P/374 E1, 374 |
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|[[374年]] |
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|79年 |
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|2月16日 |
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|0.09au |
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|1P/451 L1, 451 |
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|[[451年]] |
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|77年 |
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|6月28日 |
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|1P/530 Q1, 530 |
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|[[530年]] |
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|79年 |
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|9月27日 |
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|1P/607 H1, 607 |
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|[[607年]] |
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|77年 |
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|3月15日 |
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|0.09au |
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|1P/684 R1, 684 |
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|[[684年]] |
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|77年 |
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|10月2日 |
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|1P/760 K1, 760 |
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|[[760年]] |
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|76年 |
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|5月20日 |
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|1P/837 F1, 837 |
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|[[837年]] |
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|77年 |
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|2月28日 |
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|0.03au |
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|人類が観測した中では地球に最も接近した(500万km) |
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|1P/912 J1, 912 |
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|[[912年]] |
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|75年 |
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|7月18日 |
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|1P/989 N1, 989 |
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|[[989年]] |
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|77年 |
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|9月5日 |
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|1P/1066 G1, 1066 |
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|[[1066年]] |
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|77年 |
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|3月20日 |
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|0.10au |
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|1P/1145 G1, 1145 |
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|[[1145年]] |
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|79年 |
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|4月18日 |
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|- |
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|1P/1222 R1, 1222 |
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|[[1222年]] |
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|77年 |
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|9月28日 |
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|1P/1301 R1, 1301 |
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|[[1301年]] |
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|79年 |
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|10月25日 |
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|- |
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|1P/1378 S1, 1378 |
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|[[1378年]] |
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|77年 |
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|11月10日 |
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|1P/1456 K1, 1456 |
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|[[1456年]] |
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|78年 |
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|6月9日 |
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|1P/1531 P1, 1531 |
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|[[1531年]] |
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|75年 |
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|8月26日 |
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|1P/1607 S1, 1607 |
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|[[1607年]] |
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|76年 |
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|10月27日 |
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|1P/1682 Q1, 1682 |
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|[[1682年]] |
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|75年 |
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|9月15日 |
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|1P/1758 Y1, 1759 I |
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|[[1759年]] |
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|76年 |
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|3月13日 |
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|回帰が予想された後の初の回帰 |
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|1P/1835 P1, 1835 III |
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|[[1835年]] |
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|77年 |
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|11月16日 |
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|- |
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|1P/1909 R1, 1910 II, 1909c |
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|[[1910年]] |
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|75年 |
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|4月20日 |
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|初の写真撮影が行われたハレー彗星 |
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|- |
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|style="white-space:nowrap;"|1P/1982 U1, 1986 III, 1982i |
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|[[1986年]] |
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|76年 |
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|2月9日 |
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|0.586au |
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|初めて探査機が送られたハレー彗星 |
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|[[2061年]]<br />(参考) |
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|75年 |
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|7月29日 |
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|次回の回帰 |
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|} |
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{{Clear}} |
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== 脚注 == |
== 脚注 == |
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{{脚注ヘルプ}} |
{{脚注ヘルプ}} |
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=== 注釈 === |
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{{Reflist|refs= |
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{{Reflist|group="注"|refs= |
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<ref name="Akazawa192111">{{cite book|和書 |
|||
|author= 赤沢義人 |
|||
<ref name="first" group="注">Damoiseauは最初は最初の予想では11月17.15日と言っていたため、最初の方が正しかった。</ref> |
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|url=https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/961238 |
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|title=新しい発明及発見 |
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}} |
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|volume=第1巻|pages=195-196 |
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=== 出典 === |
|||
|publisher=大明堂書店|doi=10.11501/961238|ncid=BA55893634}}</ref> |
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{{Reflist|2|refs=<!-- アルファベット順で --> |
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<ref name="AAA2004">{{Cite web |title=Australian Astronomy: Comets |publisher=Australian Astronomical Association |url=http://www.astronomy.org.au/ngn/media/client/3110_factsheet_17.pdf |year=2004 |accessdate=2020-12-19 |url-status=dead |archiveurl=https://web.archive.org/web/20050616113415/http://www.astronomy.org.au/ngn/media/client/3110_factsheet_17.pdf |archivedate=2005-06-16 |format=pdf }}</ref> |
|||
<ref name="Abrahams2009">{{Cite web |url=http://www.europa.com/~telscope/tsfrance.txt |last=Abrahams |first=Peter |year=2009 |title=Bardou, Brunner, Cassegrain, Cauchoix, Chevalier, Gambey, Gautier, Krauss, |
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Lerebours et Secretan, Mailhat, Vion |accessdate=2020-11-25 }}</ref> |
|||
<ref name="Akazawa192111">{{cite book|和書 |author= 赤沢義人 |url=https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/961238 |title=新しい発明及発見 |volume=第1巻 |pages=195-196 |publisher=大明堂書店 |doi=10.11501/961238 |ncid=BA55893634 }}</ref> |
|||
<ref name="anonymous1910">{{Cite web |url=https://twain.lib.virginia.edu/sc_as_mt/mtobit5.html |date=1910-06 |title=The Death of Mark Twain |author=匿名 |work=Chautauquan 59 |accessdate=2020-12-19 }}</ref> |
|||
<ref name="arcnews609">{{Cite web |url=https://prc.nao.ac.jp/prc_arc/arc_news/arc_news609.pdf |title=第609号 ハレー彗星地球大接近1986・4・11のテレフォンカード収蔵 |date=2012-06-22 |author=中桐正夫 |format=pdf |publisher=[https://prc.nao.ac.jp/prc_arc/arc_news/ 国立天文台 アーカイブ新聞] |accessdate=2020-12-19 }}</ref> |
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<ref name="ASP1986">{{Cite web |url=http://www.astrosociety.org/education/publications/tnl/06/06.html |title=What Have We Learned About Halley's Comet? |publisher=Astronomical Society of the Pacific |archiveurl=http://web.archive.org/web/20120207035921/http://www.astrosociety.org/education/publications/tnl/06/06.html |archivedate=2012-02-07 |accessdate=2020-12-19 }}</ref> |
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<ref name="astroarts20030904">{{Cite web |url=https://www.astroarts.co.jp/news/2003/09/04nao669/index-j.shtml |title=ハレー彗星観測の最遠記録、塗り替えられる |date=2003-09-04 |publisher=アストロアーツ |accessdate=2020-12-19 }}</ref> |
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<ref name="bbc20100910">{{Cite web |url=https://www.bbc.com/news/science-environment-11255168 |title=Halley's comet 'was spotted by the ancient Greeks' |date=2010-09-10 |last=Rincon |first=Paul |website=BBC News |accessdate=2020-12-19 }}</ref> |
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<ref name="Benest1990">{{Cite journal |last1=Benest |first1=D. |last2=Ciffreo |first2=J. |last3=Heudier |first3=J. L. |title=A study of the prediscovery motion of Comet P/Ciffreo and its future |year=1990 |journal=[[アストロノミー・アンド・アストロフィジックス|Astronomy and Astrophysics]] |volume=228 |issue=2 |pages=539-545 |issn=0004-6361 |bibcode=1990A&A...228..539B }}</ref> |
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<ref name="BesselSketch">{{Cite web |url=https://airandspace.si.edu/multimedia-gallery/web12123-2011640jpg# |title=Comet Halley in 1835 |publisher=Smithsonian National Air and Space Museum |accessdate=2020-12-19 }}</ref> |
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<ref name="Boyarchuk1986">{{Cite journal |last1=Boyarchuk |first1=A. A. |last2=Grinin |first2=V. P. |last3=Zvereva |first3=A. M. |last4=Petrov |first4=P. P. |last5=Sheikhet |first5=A. I. |title=A model for the coma of Comet Halley, based on the Astron ultraviolet spectrophotometry |journal=Pisma v Astronomicheskii Zhurnal |volume=12 |year=1986 |pages=696-706 |bibcode=1986PAZh...12..696B }}</ref> |
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<ref name="Brandt">{{Cite journal |url=https://www.accessscience.com/content/305800#305800FG0010 |title=Halley's Comet |publisher=McGraw-Hill |work=Access Science |last=Brandt |first=John C. |doi=10.1036/1097-8542.305800 }}</ref> |
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<ref name="Brazil2005">{{Cite web |url=https://www.latimes.com/archives/la-xpm-2005-sep-18-tr-chaco18-story.html |title=Chaco Canyon mystery tour |date=2005-09-18 |last=Brazil |first=Ben |Publisher=Los Angeles Times |accessdate=2020-12-19 }}</ref> |
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<ref name="Broughton1979">{{Cite journal |url=The Visibility of Halley's Comet |last1=Broughton |first1=R. P. |journal=Journal of the Royal Astronomical Society of Canada |volume=73 |page=24 |year=1979 |bibcode=1979JRASC..73...24B }}</ref> |
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<ref name="Broughton1985">{{cite journal |last1=Broughton |first1=Peter |title=The First Predicted Return of Comet Halley |journal=Journal for the History of Astronomy |volume=16 |issue=2 |year=1985 |pages=123–133 |issn=0021-8286 |doi=10.1177/002182868501600203 |bibcode=1985JHA....16..123B }}</ref> |
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<ref name="Cabaniss1961">{{Cite book |last=Cabaniss |first=Allen |title=Son of Charlemagne: A Contemporary Life of Louis the Pious |publisher=Syracuse University Press |year=1961 |isbn=9780815620310 }}</ref> |
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<ref name="Cevolani1987">{{cite journal |last1=Cevolani |first1=G. |last2=Bortolotti |first2=G. |last3=Hajduk |first3=A. |display-authors=1 |title=Debris from comet Halley, comet's mass loss and age |journal=Il Nuovo Cimento C |volume=10 |issue=5 |year=1987 |pages=587–591 |issn=0390-5551 |doi=10.1007/BF02507255 |bibcode=1987NCimC..10..587C }}</ref> |
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<ref name="Chirikov1989">{{Cite journal |last1=Chirikov |first1=R. V. |last2=Vecheslavov |first2=V. V. |title=Chaotic dynamics of Comet Halley |journal=[[アストロノミー・アンド・アストロフィジックス|Astronomy & Astrophysics]] |volume=221 |issue=1 |pages=146-154 |year=1989 |issn=0004-6361 |bibcode= |
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1989A&A...221..146C }}</ref> |
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<ref name="Chyba1987">{{cite journal |last1=Chyba |first1=Christopher |last2=Sagan |first2=Carl |title=Infrared emission by organic grains in the coma of comet Halley |journal=[[ネイチャー|Nature]] |volume=330 |issue=6146 |year=1987 |pages=350–353 |issn=0028-0836 |doi=10.1038/330350a0 |bibcode=1987Natur.330..350C |S2CID=4351413 }}</ref> |
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<ref name="Crovisier2000">{{Cite book |title=Comet Science |first1=Jacques |last1=Crovisier |first2=Thérèse |last2=Encrenaz |date=2000 |publisher=Cambridge University Press |isbn=978-0-521-64591-1 }}</ref> |
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<ref name="Delehanty">{{Cite web |title=Comets, awesome celestial objects |first=Marc |last=Delehanty |work=AstronomyToday |url=http://www.astronomytoday.com/astronomy/comets.html |accessdate=2020-12-19 |archiveurl=https://www.webcitation.org/615R9FXAP?url=http://www.astronomytoday.com/astronomy/comets.html |archivedate=2011-08-20 }}</ref> |
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<ref name="Doraemon12">{{Cite book |title=[[藤子・F・不二雄大全集]] ドラえもん 12 |author=藤子・F・不二雄 |date=2011-03-25 |publisher=小学館 |isbn=9784091434548 }}</ref> |
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<ref name="Doraemon33">{{Cite book |title=てんとう虫コミックス ドラえもん(33) |author=藤子・F・不二雄 |chapter=第10話 ハリーのしっぽ |date=1985-03 |publisher=[[小学館]] |isbn=9784091408037 }}</ref> |
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<ref name="Dubyago1961">{{Cite book |title=The Determination of Orbits |last=Dubyago |first=A. D. |year=1961 |publish=New York, Macmillan |bibcode= |
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1961deor.book.....D }}</ref> |
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<ref name="ESAgiotto">{{Cite web |url=https://sci.esa.int/web/giotto/-/13795-comet-halley-recovered |title=COMET HALLEY RECOVERED |date=2019-09-01 |publisher=European Space Agency |accessdate=2020-12-19 }}</ref> |
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<ref name="ESO19870313">{{Cite web |url=https://sci.esa.int/web/giotto/-/31878-halley |title=HALLEY |publisher=[[ヨーロッパ南天天文台|European Southern Observatory]] |date=2019-09-01 |accessdate=2020-12-19 }}</ref> |
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<ref name="eso1994">{{Cite web |url=https://www.eso.org/public/news/eso9404/ |title=Comet Halley Passes the Halfway Mark - Very Distant Image Obtained with the ESO NTT |date=1994-02-18 |publisher=European Southern Observatory |accessdate=2020-12-19 }}</ref> |
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<ref name="eso2003">{{Cite web |url=https://www.eso.org/~ohainaut/nice/phot-27-03.html |title=New Image of Comet Halley in the Cold - VLT Observes Famous Traveller at Record Distance |date=2003-09-01 |publisher=European Southern Observatory |accessdate=2020-12-19 }}</ref> |
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<ref name="Fernandez">{{Cite web |url=https://physics.ucf.edu/~yfernandez/cometlist.html#hf |last=Fernandez |first=Yan |date=2020-10-27 |title=List of Jupiter-Family and Halley-Type Comets |accessdate=2020-12-19 }}</ref> |
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<ref name="FourMasters">{{Cite web |url=http://www.ucc.ie/celt/publishd.html |title="Annals of the Four Masters 2" |work=Corpus of Electronic Texts |publisher=University College Cork |accessdate=2020-12-19 }}</ref> |
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<ref name="Gunter-51-L">{{Cite web |url=https://space.skyrocket.de/doc_sdat/spartan-203.htm |title=Spartan 203 (Spartan Halley, HCED) |publisher=Gunter's Space Page |accessdate=2020-12-19 }}</ref> |
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<ref name="Gurzadyan2004">{{cite journal |last1=Gurzadyan |first1=V. G. |last2=Vardanyan |first2=R. |title=Halley's comet of 87 BC on the coins of Armenian king Tigranes? |journal=Astronomy and Geophysics |volume=45 |issue=4 |year=2004 |pages=4.06–4.06 |issn=1366-8781 |doi=10.1046/j.1468-4004.2003.45406.x |arxiv=physics/0405073 |bibcode=2004A&G....45d...6G |S2CID=119357985 }}</ref> |
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<ref name="Hachinohe">{{Cite web |url=https://www.city.hachinohe.aomori.jp/bunka_sports/bunka/hachinohenosenjin/11976.html |title=h八戸市ゆかりの先人たち 前原寅吉 |date=2020-01-16 |publisher=[[八戸市]] |accessdate=2020-12-19 }}</ref> |
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<ref name="Hutson1921">{{Cite book |title=CHINESE LIFE IN THE TIBETAN FOOTHILLS |first=James |last=Hutson |year=1921 |issue=8 |loc=Eclipses and Comets }}(著作権保護期間満了) [https://en.m.wikisource.org/wiki/Chinese_Life_in_the_Tibetan_Foothills/Book_8/Eclipses_and_Comets ウィキソース英語版]</ref> |
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<ref name="jaxa_comets">{{Cite web |url=https://spaceinfo.jaxa.jp/ja/comets.html |title=彗星 |publisher=[[宇宙航空研究開発機構|JAXA]] |work=宇宙情報センター |accessdate=2020-12-19 }}</ref> |
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<ref name="jaxasuisei">{{Cite web |url=http://www.isas.jaxa.jp/en/missions/spacecraft/past/suisei.html |title=PAST / SUISEI |publisher=[[宇宙航空研究開発機構|JAXA]] |lang=en |accessdate=2020-12-19 }}</ref> |
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<ref name="Jewitt2002">{{cite journal |last1=Jewitt |first1=David C. |title=From Kuiper Belt Object to Cometary Nucleus: The Missing Ultrared Matter |journal=[[アストロノミカルジャーナル|The Astronomical Journal]] |volume=123 |issue=2 |year=2002 |pages=1039–1049 |issn=00046256 |doi=10.1086/338692 |bibcode=2002AJ....123.1039J }}</ref> |
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<ref name="jpldata">{{cite web |date=1994-01-11<!-- last obs --> |title=JPL Small-Body Database Browser: 1P/Halley |url=http://ssd.jpl.nasa.gov/sbdb.cgi?sstr=1P |accessdate=2020-12-19 }}</ref> |
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<ref name="jplgreat_comets">{{Cite web |url=https://ssd.jpl.nasa.gov/?great_comets |title=Great Comets in History |date=2007-04 |last=Yeomans |first=Donald K. |publisher=[[ジェット推進研究所|JPL]] |work=JPL & [[カリフォルニア工科大学|Caltech]] |accessdate=2020-12-19 }}</ref> |
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<ref name="jplmeteor_streams">{{Cite web |url=https://ssd.jpl.nasa.gov/?meteor_streams |title=Meteor Streams |publisher=[[ジェット推進研究所|JPL]] |accessdate=2020-12-19 }}</ref> |
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<ref name="JVL">{{Cite web |url=https://www.jewishvirtuallibrary.org/tractate-horioth-chapter-3 |title=Tractate Horioth: Chapter 3 |publisher=Jewish Virtual Library |accessdate=2020-12-19 }}</ref> |
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<ref name="kbhalley">{{Cite web |url=https://kotobank.jp/word/ハリー彗星-116935 |title=ハリー彗星 |work=コトバンク |publisher=百科事典マイペディア |accessdate=2020-12-19 }}</ref> |
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<ref name="Keller2005">{{Cite book |title=Comets II |chapter-url=http://www.lpi.usra.edu/books/CometsII/7017.pdf |editor-first1=Michel |editor-last1=Festou |editor-first2=Horst Uwe |editor-last2=Keller |editor-first3=Harold A. |editor-last3=Weaver |chapter=In Situ Observations of Cometary Nuclei |first1=Horst Uwe |last1=Keller |first2=Daniel |last2=Britt |first3=Bonnie J. |last3=Buratti |first4=Nicolas |last4=Thomas |pages=211–222 |date=2005 |isbn=978-0-8165-2450-1 |publisher=University of Arizona Press }}</ref> |
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<ref name="Kronk1991">{{Cite book |title=Cometography, vol. 1: Ancient-1799 |last=Kronk |first=Gary W. |year=1991 |publisher=Cambridge University Press |p=14 |isbn=978-0-521-58504-0 }}</ref> |
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<ref name="Kronk1P">{{Cite web |first=Gary W. |last=Kronk |title=1P/Halley |url=http://cometography.com/pcomets/001p.html |website=cometography.com |accessdate=2020-12-19 }}</ref> |
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<ref name="LATimes1985">{{Cite web |url=https://www.latimes.com/archives/la-xpm-1985-11-12-mn-4897-story.html |title=First Naked-Eye Sighting of Halley’s Comet Reported |date=1985-11-12 |publisher=Los Angeles Times |accessdate=2020-12-19 }}</ref> |
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== 参考文献 == |
== 参考文献 == |
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;主要文献 |
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* {{Citation |和書 |last1=鈴木 |first1=文二 |last2=秋澤 |first2=宏樹 |last3=菅原 |first3=賢 |title=彗星の科学 知る・撮る・探る |date=2013-09-15 |publisher=株式会社恒星社厚生閣 |isbn=9784769914631 |lang=ja }} |
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;他文献 |
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* {{Citation |title=[[ギャラクシー・サイエンス・フィクション|Galaxy Science Fiction]] - For Your Information |first=Willy |last=Ley |volume=26 |issue=1 |date=1967-10 }} |
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* {{Citation |和書 |title=天文観測年表'87 |author=天文観測年表編集委員会 |year=1987 |publisher=地人書館 }} |
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== 外部リンク == |
== 外部リンク == |
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* {{Kotobank|ハレー彗星}} |
* {{Kotobank|ハレー彗星}} |
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* [https://www2.nhk.or.jp/archives/tv60bin/detail/index.cgi?das_id=D0009030684_00000 ハレーすい星接近 | NHK放送史(動画・記事)] |
* [https://www2.nhk.or.jp/archives/tv60bin/detail/index.cgi?das_id=D0009030684_00000 ハレーすい星接近 | NHK放送史(動画・記事)] |
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* [https://web.archive.org/web/20090401005245/http://seds.org/~spider/spider/Comets/halley.html SEDS] |
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* [https://cometography.com/pcomets/001p.html cometography.com] |
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* [https://web.archive.org/web/ |
* [https://web.archive.org/web/20050404232823/http://pages.preferred.com/~tedstryk/vega2.html ベガ2号によるハレー彗星の画像] |
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* [https://web.archive.org/web/20070109175837/http://pages.preferred.com/~tedstryk/vega2.html Vega 2 Images of Comet Halley] |
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* [https://www.youtube.com/watch?v=ZlrHjJggomE Comet Halley's next close encouter with Earth 2061- 2062] |
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[[Category:古代以前に発見された天体]] |
2020年12月19日 (土) 02:31時点における版
ハレー彗星 1P/Halley | ||
---|---|---|
1986年3月8日に撮影されたハレー彗星
| ||
分類 | 周期彗星 | |
発見 | ||
発見日 | 紀元前240年6月(古代) 1758年12月25日(同定後初) | |
発見者 | 不明 (同定・軌道計算はエドモンド・ハレー) | |
軌道要素と性質 元期:1994年2月17日 | ||
軌道長半径 (a) | 17.83414429 au[1] | |
近日点距離 (q) | 0.58597811 au[1] | |
遠日点距離 (Q) | 35.08231047 au[1] | |
離心率 (e) | 0.96714291[1] | |
公転周期 (P) | 75.3日[1] | |
軌道傾斜角 (i) | 162.26269 °[1] | |
近日点引数 (ω) | 111.33249 °[1] | |
昇交点黄経 (Ω) | 58.42008 °[1] | |
平均近点角 (M) | 38.38426 °[1] | |
前回近日点通過 | 1986年2月9日[2] | |
次回近日点通過 | 2061年7月29日[2] | |
MOID(地球) | 0.637815 au | |
物理的性質 | ||
三軸径 | 15.3km×7.22km×7.22km[3] | |
質量 | 2.2×1014 kg[4] | |
平均密度 | 0.6g/cm3[5] | |
アルベド(反射能) | 0.04 ± 0.01[3] | |
他のカタログでの名称 | ||
1 = 1P/-239 K1 -239 = 1P/-163 U1 = -163 = 1P/-86 Q1 = -86 = 1P/-11 Q1 = -11 = 1P/66 B1 = 66 = 1P/141 F1 = 141 = 1P/218 H1 = 218 = 1P/295 J1 = 295 = 1P/374 E1 = 374 = 1P/451 L1 = 451 =1P/530 Q1 = 530 = 1P/607 H1 = 607 = 1P/684 R1 = 684 = 1P/760 K1 = 760 = 1P/837 F1 = 837 = 1P/912 J1 = 912 = 1P/989 N1 = 989 = 1P/1066 G1 = 1066 = 1P/1145 G1 = 1145 = 1P/1222 R1 = 1222 = 1P/1301 R1 = 1301 = 1P/1378 S1 = 1378 = 1P/1456 K1 = 1456 = 1P/1531 P1 = 1531 = 1P/1607 S1 = 1P/1682 Q1 = 1682 = 1P/1758 Y1 = 1759 I = 1P/1835 P1 = 1835 III = 1P/1909 R1 = 1910 II = 1909c = 1P/1982 U1 = 1986 III = 1982i[1] | ||
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ハレー彗星(ハレーすいせい、1P/Halley、ハリー彗星とも[6])は、75.32年周期[1]で地球に接近する短周期彗星である[7]。地球から肉眼で見える唯一の周期彗星であり、かつ人によっては唯一生涯で2度見ることも可能な彗星である[8]。多くの周期彗星の中で最初に知られた彗星であり、古来多くの文献に記録されている。前回は1986年2月に回帰し、次回は2061年夏に出現すると計算されている。
組成
ジオットやベガによる探査によりハレー彗星の表面や構造が明らかとなった。ハレー彗星は他の彗星と同様に太陽に近づくと水や一酸化炭素、二酸化炭素などの沸点の低い揮発性物質が核から昇華する[9]。これにより彗星のコマは10万kmにまで発達する[10]。このような氷の蒸発から微粒子(ダスト)が放出され、コマ中のガス分子は太陽光を吸収したのち再放射(蛍光と同じ原理)し、ダストは太陽光を散乱させる。この過程によりコマは見えるようになる[8]。コマ中のガス分子の一部は太陽風による紫外線放射によりイオン化しており[8]、そのイオンが長い尾を形成し、1億kmに及ぶこともある[9][11][要ページ番号]。太陽風が変化すると尾の一部が核から完全に離れて分離するdisconnect eventが起こることもある[12]。
ハレー彗星のコマが大きいのに対し核は小さく、15.3km*7.22km*7.22kmほどしかない[3]。その形はピーナッツの殻に似ている[10]。質量も2.2×1014kgと小さく[4]、密度が0.6 g/cm3であるためラブルパイル天体のように小さな粒が集積してできたということが示されている[5]。地上の望遠鏡からのコマの観測ではハレー彗星の自転周期が7.4日と示唆されたが、探査機による観測では52時間と求められており[13]、ハレー彗星の自転は複雑になっている可能性がある[9]。ハレー彗星のフライバイのミッションでは表面の25%しか撮影されていないが、丘陵・山・尾根・凹地が発見され、更にクレーターも1つ発見されている[13]。
ハレー彗星はエンケ彗星やホームズ彗星のような他の周期彗星の中では最も活動的で対数スケールにより数量を比較すると1~2ほどの違いがある[13]。また、夜側(太陽を向いていない方)より昼側(太陽を向いている方)の方が活動的である。探査機の観測からは核から放出されるガスの組成は水蒸気80%、一酸化炭素17%、二酸化炭素3~4%[14]、炭化水素微量[15]と示されたが、ESOの見解では一酸化炭素10%、二酸化炭素2.5%でメタンやアンモニアも微量含まれているとしている[16]。微粒子(ダスト)はこのように主に太陽系外でも多い炭素・水素・酸素・窒素(CHON)と地球の岩石などで見られるケイ素で構成されている[9]。だが、この微粒子(ダスト)には検出できる限界があり、1nm(=0.001μm)までしか検出できない[12]。
ハレー彗星に含まれる水H2O中の水素の重水素の割合は初めはハレー型彗星が地球に水を運んでいたと提唱されていたため、地球の海と同じ程度と考えられていた。しかし、ハレー彗星の水の重水素の割合は地球の海の水よりも高いことが分かっており、つまり、ハレー型彗星が地球に水を運んだわけではない、ということである[9]。
ジオットのハレー彗星の観測ではフレッド・ホイップルの汚れた雪玉モデルが正しいということが明らかになった。このモデルでは彗星がもともと氷から成る物体で、太陽系の内部に近づいていくにつれて太陽により温められ、表面の氷が昇華してガスとなり、揮発性物質から成るガスが放出され、尾・コマを形成するというものである[17]。ジオットによる観測ではこれに一部修正が加わったものの大方正しいことを証明した[9]。
ハレー彗星のアルベドは0.04 ± 0.01 しかなく、太陽の光をたった4 ± 1%しか反射しない[3]。石炭のように炭素から成るとも言われている[18]。このようにハレー彗星は地球から見れば白く見えるものの実際には真っ黒である。「汚れた雪玉」の蒸発する温度はアルベドが高い所で170K、低い所で220Kである。ベガ1号による探査では表面温度は300~400Kと示されたが、これによりハレー彗星で活動的なのは10%程度で残りは黒く、熱を保っていると考えられている[12]。この2つの探査機による観測からハレー彗星は不揮発性物質の方が多く、汚れた雪玉というよりは雪の積もった汚い玉という方が近しい[13][19]。
軌道
ハレー彗星の公転周期は紀元前240年の観測以来、74年から79年の間を変動している[20][21]。その軌道は非常に扁平な楕円で軌道離心率(0に近いほど円に似ていて1に近いほど放物線に似る)は0.967である。近日点では太陽からの距離が0.6auで水星と金星の間に位置するが、遠日点になると35auと冥王星ほど遠い位置を公転する。また、太陽系内にある数多くの天体の中でも珍しく、逆行軌道をとっている。そのため、軌道は18°傾いているのだが表現上は162°と表される[22]。逆行しているため地球に対する相対速度は非常に速い。1910年に地球周辺を通過した際には相対速度が70.56 km/sにも及んだ[要出典]。ハレー彗星は2度地球に近づくので5月初めのみずがめ座η流星群と10月中頃のオリオン座流星群はハレー彗星によるものと考えられている[23]。なお、オリオン座流星群については母天体がこの彗星であることが分かっているが、みずがめ座η流星群に関しては関連があることが示されているのみで母天体とは完全に言えない[24]。
ハレー彗星は周期が200年以下の短周期彗星に分類される[25]。短周期彗星には軌道傾斜角は10°程度で公転周期6、7年のものが多いがそれらと比べるとややタイプが異なる[21]。多くの短周期彗星は木星族彗星(英語: Jupiter-family comets)別名黄道彗星(英語: Ecliptic Comets)と言われる一方、周期が20年~200年で軌道傾斜角も大きいものはハレー彗星のような特徴からハレー型彗星(英語: Halley Type Comets)と呼ばれる[25][26][27]。 2020年11月時点でハレー型彗星は104個観測されており、木星族彗星が594個あるのに対し少数である[28]。
ハレー型彗星誕生の説としては木星や土星のような巨大な惑星との重力による影響でもとは長周期彗星であったが太陽の方向に移動したとする説がある[25]。その場合、元々は太陽から20000~50000auの場所にあると考えられているオールトの雲で発生する可能性が高い[26]。反対に木星族彗星は一般的に太陽から30~50auの場所にあるエッジワース・カイパーベルトで発生する可能性が高い[26]。しかし、2008年、逆行小惑星(528219) 2008 KV42が発見されたためこの考え方は改められた。(528219) 2008 KV42は近日点は天王星と海王星の間、遠日点は太陽-冥王星間の距離の2倍で上記のモデルのどちらにも該当せず、これがハレー型彗星になる可能性もある[29]。
ハレー彗星は1.6万~20万年の間、現在と同じ軌道をとっていると考えられているが、何十回か出現しているため数値積分は困難であり、837年より以前は記録からしか遡れない[30]。それは他惑星の重力によるものではなく[30]、ハレー彗星が太陽に接近する際に表面上のガスを放出し、わずかに軌道がズレるためである。このような軌道の変化から平均して4日ほど遅れが生じる[31]。
1989年、Boris ChirikovとVitold Vecheslavovは昔の記録から見られるハレー彗星の46回の出現をコンピュータシミュレーションで分析した。するとハレー彗星は1000万年近く存在していることが見積もられた[32]。更に、将来1万年以内にハレー彗星は蒸発してしまうか2つに分裂してしまい、10万年以内には太陽系から弾き飛ばされてしまうのではないかという説もある[26][33]。D. W. Hughesの観測からは2000年~3000年経ってしまうと質量の80~90%を失うことも示唆されている[13]。
軌道の計算
ハレー彗星は初めて周期彗星であると認識されるようになった彗星である。ルネサンス以前は彗星についての自然観はアリストテレスにより発展させられ、地球の大気中で起こっていることだと考えられていた。しかし1577年にはティコ・ブラーエによる視差の測定で月よりももっと向こう側にあることが示された。それでも当時の大方の人々は納得することができなかったため、代わりに太陽系内を直線運動していると考えた[34]。
1687年にはアイザック・ニュートンによる著書『自然哲学の数学的諸原理』において重力や運動の法則が明らかにされた。彼は1680年と1681年に現れた大彗星が太陽の通過前か後かの違いで同じ彗星ではないかと考えていたが、うまく彼のモデルに組み込むことができず、ニュートンの説明では彗星についての説明は不完全であった[35]。
そしてついにニュートンの友人であったエドモンド・ハレーは彼の1705年に出版した著書『Synopsis of the Astronomy of Comets』(『彗星天文学概論』[36])でニュートンが導入した法則を用い、木星・土星の重力の影響を算出した。ハレーは24種の彗星を一覧にまとめ、彼が観測した1682年の彗星(=後のハレー彗星)も含めた軌道要素を計算した[37][38]。そしてペトルス・アピアヌスが1531年に観測した彗星とヨハネス・ケプラーが1607年に観測した彗星が同じであることに気付いた。ハレーは摂動を大まかに推定し、彗星が木星などの惑星の重力があっても持続できると考え、1758年に再度見えると予言した[39][40]。彼は近日点に来た1682年[20]から60年後となる1742年、再びこの彗星を見ることなく死去した[41]。
1758年12月25日、ついにハレー彗星が地球に回帰してきたことをドイツの農家でありアマチュア天文家でもあったヨハン・ゲオルク・パリッチュが確認した。近日点に到達したのは1759年3月13日で木星・土星による影響で計618日の遅れが引き起こされた[42]。この遅れは1か月の誤差はあったもののアレクシス・クレロー、ジェローム・ラランド、ニコール=レイヌ・ルポートら3人の数学者により計算された[43][44]。ハレー彗星の回帰の確認により惑星以外の太陽を公転する天体がはじめて発見されたことになる。また、ニュートン力学が成功を収めた出来事ともなり、その説明力が明らかになった[21]。1759年にはルポートによりハレー彗星と名付けられた[21]。
学者の一部はハレー彗星を周期彗星と認識したのはハレーではなくメソポタミアの天文学者らであるという説も提唱している。その根拠はバビロニア・タルムードのHorayotという本である[45]。この本では「70年に一度現れる船長を惑わす星」について言及している[46]。
1981年には17世紀および18世紀の正確な観測データから数値積分してハレー彗星の過去の軌道を求めようとする試みが行われたが、837年のハレー彗星が地球に接近しすぎていたため837年以前の正確な結果は得られなかった。そのため、古代中国の記録を使う他なかった[47]。
観測史
以下に過去のハレー彗星の出現年及びそれが言及されている記録について説明する。出現についてはJPLによる近日点通過時の年に基づく[1]。
紀元前
- 紀元前467年ごろ
紀元前467年に出現したという説もあるが不確定である。紀元前468年から紀元前466年までに記録が見られ、タイミングや期間などからもハレー彗星であると考えられている[48]。古代ローマの人物、ガイウス・プリニウス・セクンドゥスによると、同年にトラキアのアイゴスポタモイという町に隕石が降ってきたという。彼はこれについて色は茶色で馬車ほどの大きさであると説明した[49]。中国の年代記の編者も同年、この彗星について言及している[50]。
歴史的な記録で初めて見られる確定したハレー彗星の出現は紀元前240年である。中国の歴史書『史記』には彗星が東に現れ、北の方に動いて言ったことが書かれている。更にその後西の方にも現れたことが記録されている[7][51][52]。
大英博物館所蔵のバビロニア粘土板の彗星に比定する説がある。BMA41628の「彗星は東のかたすばる・牡牛座のアヌの道にあり…西のかたエアの道を通りぬ」BMA41628の「木星の前方1キュビット、北天頂へ3キュビットにあるエア」という記述が、ハレー彗星の軌道と一致すると主張される[7][51][53]。中国では漢書によると文帝後2年(163年)に夕方の南西に槍のような物体が空に現れたとあり、これもハレー彗星である[52]。
紀元前87年にハレー彗星が見られた証として古代バビロニアの板があり、1か月に渡って日中も見られたと書かれてある[53]。Vahe GurzadyanとR. Vardanyanらは出現の際のアルメニア王、ティグラネス2世が描かれたコインの冠にある星はこの時現れたハレー彗星であると推測している。また、彼らはティグラネス2世はハレー彗星を見た可能性があり、古代アルメニアの人々にとってはもっとも記憶の残る出来事であったため新時代の到来と考えた、と主張している[54]。また、アルメニア以外でもバビロニアの粘土板BM 41018や中国の古文書、『漢書』にその記述が見られる[7][52]。
『漢書』に記述が見られ、8月から10月に観測されている[7]。このときハレー彗星は地球から0.16auの場所を通過しており[55]、漢書によるとふたご座のポルックス、カストルを通過し、しし座とおとめ座の方に行ったと記録されている[52]。古代ローマの歴史家、カッシウス・ディオによるとマルクス・ウィプサニウス・アグリッパの死の前兆のように何日間か彗星がローマの町に浮かぶようにあったと言う[56]。キリスト降誕の数年前に起こったことであるためベツレヘムの星ではないかとも言われる。ただし、惑星の合や別の彗星である可能性もある[57]。
1世紀~10世紀
Horayotというタルムードに「70年に一度現れる船長を惑わす星」として言及が見られる[45]。この星が66年出現のハレー彗星だと考えられている。この文章は当時のラビ、Joshua ben Hananiahの手によるものとされ、彼の生きている時に起こったものであることから年代が特定された[58]。
『後漢書』に観測記録があり、うみへび座に現れてしし座を通過し、約56日間見えたと書かれている[52]。また、タミル語で書かれたPunaranuruにはチェーラ朝の王、Yanaikatchai Mantaran Cheral Irumporaiの死に関連があると書かれている[59]。
建安23年(218年)、朝の東の空に彗星が出現し、彗星の尾が太微垣の五帝座(デネボラ)の方向を指していたことから、帝位に異変が起こる前兆ととらえられた[52]。なお、2年後に献帝 (漢)は廃位され、後漢は滅亡している。
『晋書』に観測記録があり、アンドロメダ座に出現したのち、ペガスス座を通過し、しし座の方へ行ったと書かれてある[52]。
『晋書』に観測記録があり、寧康2年(374年)、みずがめ座に出現し、てんびん座、おとめ座、からす座、コップ座、みずへび座と動いて行ったと書かれている[52]。このとき、ハレー彗星は地球に0.09auまで接近していた[55]。
『宋書』に観測記録があり、元嘉28年(451年)にペルセウス座で見られて、最終的にはからす座で消えたとある[52]。更にヨーロッパでは現在のフランスで行われたカタラウヌムの戦いでアッティラの前進が阻まれ、最終的には負ける前兆となったと考えられている[60]。
『魏書』に観測記録があり、永安3年(530年)8月29日に北東の空でおおぐま座λ星とおおぐま座μ星の東近くに現れた。その後も同様の現象が起こり、9月27日に消えたと書かれている[52]。
『隋書』に観測記録が見られ、大業3年(607年)3月13日にアンドロメダ座で現れてしし座で消えたと書かれている[52]。このときはハレー彗星は地球に0.09auまで接近しており[55]、隋書には100日間以上も見えたことが書かれている。また、同年10月21日にも観測記録が見られるがこれはハレー彗星が近日点を通過した後の観測記録である[52]。
- 684年
- 『日本書紀』に観測記録があり、天武天皇の治世13年(684年)9月7日に出現した[61][62]。日本最古の記録である。『旧唐書』にも観測記録があり、光宅元年(684年)11月11日に西の空に現れたとある[52]。ドイツの『ニュルンベルク年代記』にもハレー彗星と思われるものがあるが、観測から800年経った後に出版されたものであるため作者による想像を含む可能性がある[63]。
『旧唐書』に観測記録が見られ、上元元年に東の空、おひつじ座で見られたと書かれている[52]。
記録に残されている中ではハレー彗星が最も地球に近づいた接近でありその距離は0.03auである[55]。観測記録は中国、日本、ドイツ、中東などで見られた[7]。日本では『続日本後紀』に見られ、4月12日に南東の空に現れたとある[62]。フランク王国皇帝ルートヴィヒ1世はハレー彗星の出現に天の警告と恐れ、祈祷・懺悔をした[64]。中国では『旧唐書』に観測記録があり、開成2年(837年)3月22日に南西の空のみずがめ座α星付近で現れて4月28日にしし座の方で消えるまでが詳細に書かれている[52]。
日本では『日本紀略』『扶桑略記』に観測記録がある。どちらの文献にも7月19日から7月28日に彗星が見られたことが書かれている[62]。中国では『新五代史』に観測記録があり、乾化2年(912年)5月13日にみずへび座の東側で出現したと書かれている[52]。また、アイルランドの年代記、アルスター年代記にも彗星について言及がある[65]。
日本では『日本紀略』『一代要記』に観測記録がある。『日本紀略』には7月6日の彗星と8月13~23日の彗星が記載されており、前者についてはハレー彗星なのかどうか不明である。『一代要記』では8月15日に東の空に彗星があったと書かれている[62]。中国では『宋史』に観測記録がある。8月13日にふたご座の西で出現し、30日間観測された。最初の10日間は朝に見られたが残りは夕方に見られるようになったとも書かれている[52]。『高麗史』にはハレー彗星と思われるものが記録されているものの10月18日で日付が合っていない[66]。
11世紀~15世紀
このときイングランドではこのハレー彗星が何らかの前兆であると言われた。結果、ヘイスティングズの戦いではハロルド2世の死の悪い前兆となり、ウィリアム征服王にとっては良い前兆となった。この事実はバイユーのタペストリーに見ることができる。当時の記録では金星の4倍ほど大きく、月の明かりの4分の1ぐらい明るいと描写されている。このときの接近距離は0.10auである[55]。
また、この彗星は『アングロサクソン年代記』にも見られ、マルムズベリーのエイルマーはハレー彗星を989年にも見たと思われるような文章を残している[67]。アイルランドの年代記『Annals of the Four Masters』(英語版)第2巻にある「月よりも明るい星」もハレー彗星に比定する説がある[68]。ニューメキシコのネイティブ・アメリカンもペトログリフにこの出現を表した可能性がある[69]。
日本では『一代要記』『扶桑略記』に記載があり、治暦2年(1066年)の4月に見られた旨が書かれてある[62]。中国では『宋史』に記録があり、治平3年(1066年)4月2日の朝に東の空、ペガスス座で見られたと書かれている[52]。『高麗史』にも4月19日に観測されたとあるが、4月24日ではないかという疑義がある[66]。
ヨーロッパでは修道士のEadwineによる書に記録が残されている。扇風機のようなハレー彗星の絵が掲載されている[70]。
日本では『台記』『一代要記』『百錬抄』に記述が見られる。『台記』には天養2年(1145年)5月9日に出現してからが詳細に書かれており、5月19日から5月22日に姿を現さず、5月23にもう一度現れたことも書かれてある。『一代要記』『百錬抄』については内容は『台記』に及ばないものの出現について記録されている[62]。
中国では『宋史』に観測記録があり、紹興15年(1145年)4月26日に出現が始まり、近日点通過による2回の出現を経て6月24日に消えたことが書かれている[52]。朝鮮では『高麗史』『高麗史節要』などに記録がある。5月14日から5月29日まで15日間の間記録されており、長さは視直径で10°に及んだとある[66]。
1222年のハレー彗星の出現はチンギス・カンがヨーロッパへ侵攻する誘因になったのではないかという説がある。なお、この年の彗星はヨーロッパに記録が見られない[52]。
日本では『吾妻鏡』『百錬抄』『皇代暦』『皇年代略記』に見られる。『吾妻鏡』では貞応元年(1222年)9月8日に見られたとあり、中心部分(=コマ)は月の半分ほどと記録されている[62]。『百錬抄』『皇代暦』『皇年代略記』についても9月に見られたことが書かれている[62]。
中国では『宋史』に見られ、嘉定15年(1222年)9月25日にうしかい座で現れて2か月間見られたことが書かれている[52]。朝鮮では『高麗史』に観測記録があり、1222年9月3日に見られたことが書かれている[66]。
『元史』に観測記録があり、大徳5年(1301年)9月16日にふたご座の方で見られたとある。また、その後は46日間見られ、10月31日消えたと書かれてある[52]。朝鮮では『高麗史』に観測記録が見られ、忠烈王27年(1301年)10月1日に見られたとある[66]。
ジョット・ディ・ボンドーネによるパドヴァのスクロヴェーニ礼拝堂の壁画『東方三博士の礼拝』(1305年頃完成)に描かれたベツレヘムの星は彼自身が見たと思われるハレー彗星を描いたものであると考えられている[70]。
日本では1378年以後も日本にも観測記録はあるもののヨーロッパの文献から得られた既知の内容より分かるものはない[62]。中国では『明史』洪武11年(1378年)9月26日にぎょしゃ座で現れた旨が記載されている[52]。朝鮮では『高麗史』に観測記録があり、辛禑4年に西から東に見られたとある[66]。
中国では『明史』に観測記録があり、景泰7年(1456年)5月7日、おひつじ座の方で見られ、7月6日にしし座で消えたことが書かれている[52]。朝鮮でも観測記録があり、世祖2年(1456年)6月6日から記録がある。近日点通過のため6月13日から6月19日を除いて6月29日まで観測された[66]。
ヨーロッパではオスマン帝国がハンガリー王国侵攻の際のベオグラード包囲の真っ只中であった。カリストゥス3世による教皇勅書ではベオグラードに御加護があるよう祈るように命じた。1470年、人文主義者、Bartolomeo Platina(英語版)は彼の著作で以下のことについて言及している[71]。
毛に覆われていて燃えているような星がここ数日現れた。数学者によると最悪の疫病、飢饉、大災害が起こるとのことだ。カリストゥス3世は神の怒りから免れるために「もし人類の危機が差し迫っているのならトルコ人(=キリスト教の敵)に全てを向けよ」と祈祷して命じた。また、絶え間なく祈祷を続け神を動かそうとし、祈りによってトルコ人と戦っている者たちを助けるため真昼に信者を呼ぶために鐘の音を知らせるように命じた。
Platinaのこの説明は公式には記録されていない。この話は創作による可能性が高いにも関わらず、「教会への怒りのあまり彗星を破門にした。」とフランス人によって誇張して面白おかしく潤色された[72]。
インドではカシミールでこの彗星が目撃され、詩人かつ伝記作家のŚrīvaraによって詳細に描かれている。彼はこの彗星の出現をSultan Zayn al-Abidin(1418/1420-1470)の没落を意味すると考えた[73]。
また、エチオピアでは1434年から1468年までの間のエチオピア帝国王、Zara Yaqob(英語版)が明るい光(=ハレー彗星)を目撃し、光の都市、デブレ・ヘルハンを設営して彼の治世の時に首都とした[74]。
16世紀~1910年
ハレー彗星の周期的な回帰は16世紀以降、科学研究の対象となっていた。1531年、1607年、1682年のハレー彗星の出現によりエドモンド・ハレーは回帰を予測することができた。ハレーが大躍進を遂げたのはニュートンと運動の法則について話し合ったときである。また、ニュートンはジョン・フラムスティードの1682年のハレー彗星のデータを得るのを手伝った。1531年、1607年、1682年の彗星のデータによりハレーはどれも同じ彗星だと結論づけ、1696年にそれを公表した[75]。
困難を極めたのが他惑星による重力の影響で1759年などは木星の影響でやや遅れた。その数十年後にはアレクシス・クレローらパリ天文台の数学者らによる数学の発展もあり、ハレーは結果としてニュートンやケプラーの天体運動の法則を後押しする形となった[75]。
16世紀~18世紀
中国では『明史』に観測記録があり、嘉靖10年(1531年)8月5日にふたご座の方で現れ、34日間観測されたとある[52]。朝鮮では『増補文献備考』に観測記録がある[66]。ヨーロッパでもペトルス・アピアヌスがハレー彗星を確認しており、これは後のハレーの研究に役立った[39]。
中国では『明史』に観測記録があり、万暦35年(1607年)9月21日にふたご座に現れ、10月12日にアンタレスの方で消えたとある[52]。朝鮮にも観測記録があり、9月23日から11月3日まで記録されている[66]。ヨーロッパではヨハネス・ケプラーがハレー彗星を確認しており、これは後のハレーの研究に役立った[39]。
中国では地方史にのみ観測記録があり、江南の歴史書(題名不明)には康熙21年(1682年)9月に見られたことが書かれている[52]。朝鮮では『朝鮮王朝実録』に記録があり、8月24日に観測された旨が記載されている[66]。また、『承政院日記』には8月25日からの記録が『朝鮮王朝実録』よりも詳細に書かれている[66]。この接近時のエドモンド・ハレーによる軌道の計算については軌道の計算節を参照。
中国で観測記録があり、乾隆24年(1759年)4月に現れて1か月以上見られたとある[52]。朝鮮では『朝鮮王朝実録』及び『承政院日記』に記載がある[66]。
ヨハン・ゲオルク・パリッチュは1758年時点でハレー彗星の回帰を12月25日に発見し、ハレーの予言を証明した。アレクシス・クレローらの計算の近日点の誤差は約1か月ほどあった[42]。
1835年
1835年のハレー彗星は、初めて大々的に近代的な観測が行われた。写真撮影が可能になったのは1839年のことであったためこの時はぎりぎりハレー彗星の天体写真を撮ることはできなかった[76]。
この回帰の際、Marie-Charles Damoiseau(英語版)、らが近日点通過時刻を予想した。Damoiseauは木星と土星の重力の影響を考えて11月4.81日であることを示した[注 1]。Philippe Gustave Doulcet(英語版)も地球・木星・土星・天王星の重力の影響を考慮したが11月12.9日とやや外れていた。オットー・ローゼンベルガーも海王星以外の当時知られていた7惑星の重力の影響を考えたが11月12.0日であり、実際の近日点通過時刻、11月16.4日を正確には予測できなかった[77]。
アイルランドのMatkree天文台(英語版)ではE. J. Cooper(英語版)がハレー彗星のスケッチをするために口径13.3インチの望遠鏡を用いた[78]。ドイツの天文学者、フリードリヒ・ヴィルヘルム・ベッセルもハレー彗星のスケッチを行った[79]。また、彼は自身の観測したハレー彗星の尾の流れから彗星の蒸気の噴射力が軌道を変える一因となっていると提唱した[80]。フランスではフランソワ・アラゴがパリ天文台で口径24.4cmのLerebours望遠鏡を用いて観測し、偏光観測も行った。彼は1819年の大彗星を観測していることもあり、尾はまばらに分散した物質が太陽光を反射しているものだと提唱した。カナダではニューファンドランド島とケベックで観測が行われ、新聞にもハレー彗星に関することが報道された[81]。中国にも観測記録がある[52]。朝鮮では『朝鮮王朝実録』と『承政院日記』にハレー彗星の記述がある[66]。
William G. Toddは1835年と1910年のハレー彗星両方を目撃しており、ポピュラー・アストロノミーのインタビューに答えている。彼は1910年の彗星がどんな風に見えたかを述べた後、1910年のハレー彗星に関して、1843年のハレー彗星に比べて尾は広がっているが長くはないと語っている[82]。
更にフリードリッヒ・フォン・シュトルーベ、ジョン・ハーシェルなど各地の著名な天文学者らもハレー彗星の観測を始めた[83]。アメリカではイェール・カレッジでデニソン・オルムステッドとエリアス・ルーミスによる望遠鏡での観測が行われた。この観測により1456年と1378年のハレー彗星がハレー彗星であると同定された[83]。
この後ハレー彗星が回帰してくるのは1910年となるがこの期間は74.42年と既知のもののなかでは最短である。なお、最も長い時は451年から530年の期間で、79.25年も間隔があった[84]。
1910年
1910年のハレー彗星は4月10日ごろには肉眼でも見えるほどになり、4月20日に近日点に達した[55]。ハレー彗星の写真が撮影された初の接近であり、分光観測によるデータが得られた初の接近でもある[12]。さらに近日点を通過した後の5月20日頃には0.15auまで地球に接近した[55]。実際に5月19日にはハレー彗星の尾の外側の部分を地球が通過した[85][86]。今回のハレー彗星の出現より4か月前には大彗星C/1910 A1も観測されていたがこちらはDaylight Cometと呼ばれるほど昼でも肉眼で見られた別の彗星である[87][88]。
ハレー彗星の核が地球と太陽の間に入ったため、今回の接近では地球上から太陽面通過を観測できる状態となっていたが、世界中の天文台が当時としては最新の機材を使って観測にあたったにもかかわらず、結局、確実に見たとの報告はなかった。現在の八戸市に住む天文愛好家、前原寅吉は、自作の天体望遠鏡を自宅の物干し台に取り付け、観測に挑戦した。太陽面通過の観測には成功したものの学会には認められなかった[89][90]。
最初にこの時のハレー彗星が発見されたのは1909年9月12日で、マックス・ヴォルフがハイデルベルクのケーニッヒシュトゥール天文台で写真撮影によって発見した。このとき、ドイツの天文学会、Astronomische Gesellschaft(英語版)は近日点通過時刻を最も的確に当てた者に賞金を与える企画を行っており、Philip H. Cowellとアンドリュー・クロンメリンが最も正確に当てることができた[91]。実際の近日点通過時刻が4月20.18日であったのに対し、金星から海王星までの惑星による摂動を計算した彼らの予想では4月17.11日と3日程度しか誤差がなかった[77]。
ハレー彗星の尾は1910年2月ぐらいはまだほとんど見えなかったが4月中頃になってようやく4°、4月21日には12°までになり肉眼でも尾が見えるようになった。5月19日には150°にまでなり、それ以降は尾は小さくなっていたものの6月11日でも25度であった[92]。
当時麻布にあった東京天文台(現:国立天文台)では平山信らが3台のカメラを使用し、4月20日から6月7日の間に44枚を撮影した。また、満州にも観測小屋を建て、早乙女清房らが遠征し、15cm屈折赤道儀と3台のカメラを使用して5月6日から6月11日までに90枚を撮影した[93]。
今回の接近ではスペクトルの分析を行われ、ハレー彗星にはシアン化物が含まれていることが明らかになった[94]。天文学者カミーユ・フラマリオンは地球がハレー彗星の尾に近づいたとき、大気中にガスが充満しひょっとすると全生命体が殺されるかもしれない、と主張した[95]。彼の声明によりパニックが引き起こされ、ガスマスクを買う人やanti-comet pill、anti-comet umbrellaのような偽商品を買う人が相次いだ[96]。また、瓶や自転車のゴムチューブに空気を詰め、ハレー彗星が通過する時にその中の空気を吸ってなんとか生き延びようとした人もいた[97][89]。これは後にすぐに他の天文学者によって指摘され、実際にガスは拡散したため地球が尾を通過しても何ら影響はなかった[95]。しかし同じ頃インフルエンザが流行し、ウイルスの存在が分かっていなかった当時は原因をハレー彗星に求める説もあった[98]。
自転車のゴムチューブが大量に購入され、騒ぎとなった出来事は、岩倉政治による『空気のなくなる日』という絵本に描かれている[99]。『ドラえもん』「ハリーのしっぽ」でも、ハレー彗星が接近した時、スネ夫の先祖がチューブを買い占める話や、のび太の曽祖父・のび吉が桶の水で息を止める訓練をする話が出ている[100][101]。
中国では辛亥革命の前年にあたり、ハレー彗星の出現によって更に不穏になっていた。四川省で任務に当たっていたJames Hutsonは以下のような記録を残している。
人々はハレー彗星が戦争、火災、疫病、王朝の交代のような惨事を引き起こすと信じていた。一部地域では家の扉が半日開かない日や水が運ばれてこない日もあった。彗星のせいで地球上には有害な蒸気で満たされているとうわさされていて水を飲まない人さえもたくさんいた[102]。
オクラホマ州ではSacred Followersという宗教団体がハレー彗星による災害を退けるために処女をいけにえにしようとしたという話も新聞に残っている。この宗教団体の行動はのちに警察に止められた[103]。
アメリカの風刺作家であったマーク・トウェインはハレー彗星近日点通過の2週間後(1835年11月30日)に生まれ、彼が1909年に公表した自伝では以下のように述べている。
そしてトウェインは彼の予想どおり近日点通過の翌日となる4月21日に亡くなった[106]。1985年のファンタジー映画、The Adventures of Mark Twain(英語版)はこの出来事を題材とした作品となっている[107]。
1986年以降
1986年
1986年の接近は、ハレー彗星は地球から見て太陽の向こう側にあり過去2000年以内では最も観測には不向きな状況であった[108]。都市化による光害もあり、都市ではないところでしか見えず、双眼鏡で見えるぐらいであった[109]。さらに彗星が最も明るくなった1986年の3・4月には北半球からはほとんど見えない位置にあった[110]。
今回のハレー彗星を初めて観測したのはD. C. ジューイット、G. Edward Danielsonらで1982年10月16日、パロマー天文台の5.1mヘール望遠鏡とCCDイメージセンサを用いて観測を行った[111]。視覚的な最初の発見はアマチュア天文家のStephen James O'Mearaによるもので、1985年1月24日、自作の24インチ望遠鏡でマウナ・ケア山で観測した[112]。1985年11月にはジェット推進研究所の天文学者Stephen EdbergとCharles Morrisが初めて肉眼で観測した[113]。
1985年11月8日、J. Ciffreoはハレー彗星を撮影しようとした際に望遠鏡のセッティングを間違え、撮影した画像にある彗星をハレー彗星だと勘違いしていた。その後、J. Ciffreoは注意深く見るとハレー彗星ではないことが分かり、この彗星は後に周期彗星と分かってシフレオ彗星と命名された[114][115]。
ハレー彗星は軌道傾斜角が大きく逆行軌道をとるため、探査機を送ることは難しい[116]が、今回の接近ではいくつか探査機が打ち上げられた。ソ連はベガ1号とベガ2号を打ち上げ、1986年3月4日からハレー彗星の画像を送信し始めた。ベガ1号はハレー彗星の核に接近した初めての事例となり、3月6日にはフライバイに成功した。続いてベガ2号も3月9日に成功した。接近距離はそれぞれ8890km、8030kmであった[13]。欧州宇宙機関(ESA)はジオットを打ち上げ、1986年3月14日には596kmまで接近することができた[13]。日本の探査機としてはすいせいとさきがけが打ち上げられた。これらの探査機は総称してハレー艦隊とも言われる[117]。
当時としては最大の紫外線天文衛星、アストロンの1985年12月の観測データに基づきソ連の研究者らはハレー彗星のコマのモデルを発展させた。この研究によりハレー彗星のコマは他の大きめの周期彗星に類似していることが分かった[118]。また、ハレー彗星は探査機ICEからも観測された。ICEは当初はISEE-3という名称で太陽を観測する目的で運用されていたが、その後第二の目的としてジャコビニ・ツィナー彗星とハレー彗星の調査が行われた[119]。
STS-51-LおよびSTS-61-Eの2回のスペースシャトルミッションで、低軌道からハレー彗星を観測する計画もあった。51-LではSPARTAN-203を打ち上げるミッション[120]、61-Eでは1986年3月にスペースシャトル・コロンビアを打ち上げて観測装置ASTRO-1でハレー彗星を観測するミッションを行う予定だった[121]。しかし1986年1月28日にスペースシャトル・チャレンジャーが51-Lミッションの打ち上げで爆発事故を起こしたため、全ての計画は中止になった[122]。ASTRO-1は1990年12月のSTS-35ミッションでようやく打ち上げられ、ハレー彗星には間に合わなかった[123]。
1991年のアウトバースト
1986年の地球接近後もハレー彗星の観測は続けられた。1991年2月にはハレー彗星が突然光度を増した(アウトバースト)ことが観測されている[124]。この増光の詳細な原因は不明であるが、二酸化炭素や一酸化炭素のような揮発性物質が昇華して圧力によりアウトバーストが起こったと考えられている[125]。
その後、ヨーロッパ南天天文台 (ESO) が1994年と2003年にハレー彗星を観測して以来、ハレー彗星は姿を見せていない[126][127]。
2061年
ハレー彗星の予想される次回近日点時刻は2061年7月29日であり[2]、アニメーションのように太陽から同じ側にあるので1986年のハレー彗星よりは観測しやすい[20]。見かけの等級は最大で-0.3になり、1986年のハレー彗星よりも2.4等級明るくなると予想されている[128]。2060年9月9日には木星に、2061年4月20日には金星に最接近する[1]。
2134年
2134年にはハレー彗星は地球に0.09auの距離で最接近する[1]。見かけの等級は-2.0と予測されている[128]。
出現の年表
以下に過去の出現と仮符号、近日点通過日時などを表にまとめた。データに関してはMPCやJPLのものを使用している[1][2]。
仮符号 | 年 | 前回との間隔 | 近日点通過日時 | 最接近時距離 | 備考 |
---|---|---|---|---|---|
1P/−239 K1, −239 | 紀元前240年 | - | 5月25日 | 確実に記録として残っているとされていものでは最古のハレー彗星 | |
1P/−163 U1, −163 | 紀元前164年 | 76年 | 11月12日 | ||
1P/−86 Q1, −86 | 紀元前87年 | 77年 | 8月6日 | ||
1P/−11 Q1, −11 | 紀元前12年 | 75年 | 10月10日 | 0.16au | |
1P/66 B1, 66 | 66年 | 78年 | 1月25日 | ||
1P/141 F1, 141 | 141年 | 75年 | 3月22日 | ||
1P/218 H1, 218 | 218年 | 77年 | 5月17日 | ||
1P/295 J1, 295 | 295年 | 77年 | 4月20日 | ||
1P/374 E1, 374 | 374年 | 79年 | 2月16日 | 0.09au | |
1P/451 L1, 451 | 451年 | 77年 | 6月28日 | ||
1P/530 Q1, 530 | 530年 | 79年 | 9月27日 | ||
1P/607 H1, 607 | 607年 | 77年 | 3月15日 | 0.09au | |
1P/684 R1, 684 | 684年 | 77年 | 10月2日 | ||
1P/760 K1, 760 | 760年 | 76年 | 5月20日 | ||
1P/837 F1, 837 | 837年 | 77年 | 2月28日 | 0.03au | 人類が観測した中では地球に最も接近した(500万km) |
1P/912 J1, 912 | 912年 | 75年 | 7月18日 | ||
1P/989 N1, 989 | 989年 | 77年 | 9月5日 | ||
1P/1066 G1, 1066 | 1066年 | 77年 | 3月20日 | 0.10au | |
1P/1145 G1, 1145 | 1145年 | 79年 | 4月18日 | ||
1P/1222 R1, 1222 | 1222年 | 77年 | 9月28日 | ||
1P/1301 R1, 1301 | 1301年 | 79年 | 10月25日 | ||
1P/1378 S1, 1378 | 1378年 | 77年 | 11月10日 | ||
1P/1456 K1, 1456 | 1456年 | 78年 | 6月9日 | ||
1P/1531 P1, 1531 | 1531年 | 75年 | 8月26日 | ||
1P/1607 S1, 1607 | 1607年 | 76年 | 10月27日 | ||
1P/1682 Q1, 1682 | 1682年 | 75年 | 9月15日 | ||
1P/1758 Y1, 1759 I | 1759年 | 76年 | 3月13日 | 回帰が予想された後の初の回帰 | |
1P/1835 P1, 1835 III | 1835年 | 77年 | 11月16日 | ||
1P/1909 R1, 1910 II, 1909c | 1910年 | 75年 | 4月20日 | 初の写真撮影が行われたハレー彗星 | |
1P/1982 U1, 1986 III, 1982i | 1986年 | 76年 | 2月9日 | 0.586au | 初めて探査機が送られたハレー彗星 |
2061年 (参考) |
75年 | 7月29日 | 次回の回帰 |
脚注
注釈
- ^ Damoiseauは最初は最初の予想では11月17.15日と言っていたため、最初の方が正しかった。
出典
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外部リンク
- 斉藤馨児 「ハリー彗星」 『日本大百科全書(ニッポニカ)』 - コトバンク
- 『ハレー彗星』 - コトバンク
- ハレーすい星接近 | NHK放送史(動画・記事)
- SEDS
- ベガ2号によるハレー彗星の画像
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