「オショー・ラジニーシ」の版間の差分
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{{Infobox 人物 |
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{{正確性|date=2020年11月}}[[File:Bhagwan beweging gekwetst door reclame-affiche van het NRC met de tekst profeet , Bestanddeelnr 933-0734-cropped.jpg|thumb|right|250px|ラジニーシ、1984年]] |
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|画像=Bhagwan beweging gekwetst door reclame-affiche van het NRC met de tekst profeet , Bestanddeelnr 933-0734-cropped.jpg |
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'''バグワン・シュリ・ラジニーシ'''('''Bhagwan Shree Rajneesh'''、和尚ラジニーシ、和尚/オショウ;Osho、本名:モーハン・チャンドラ・ジャイン)、[[1931年]][[12月11日]] - [[1990年]][[1月19日]])は、インドの宗教家、[[グル]]、神秘思想家、精神指導者、瞑想指導者。21歳の大学生の時、人間意識の究極の段階に達して光明を得たという<ref name=":3">{{Cite book|title=現代宗教辞典|date=|year=|publisher=弘文堂|author=|page=529}}</ref>。1960年代後半にインドで始まり先進資本主義国を中心に広まった[[新宗教]]のラジニーシ・ムーブメント(英:[[:en:Rajneesh movement|Rajneesh movement]]、和尚ラジニーシ・ムーブメント、ラジニーシズムとも)の創始者{{sfn|伊藤|1999|p=13}}{{sfn|石村|1995|p=343}}。ラジニーシ自身は、宗教的ではあるが宗教の創始者ではない<ref name=":1">{{Cite book|title=自分という名の迷宮 インナーラビリンス|date=2016年2月25日|year=|publisher=めるくまーる|page=P20}}</ref>、と言っていた。「宗教的」とは信仰を土台としない内面的探究、精神世界の求道であり、個の次元でしかないから宗教組織とは全くの圏外におかれる<ref name=":1" />。 真理の探究こそ第一の優先事項である、人間は全実存をかけて、まず第一に自らの生の源泉を探究することにその関心を寄せねばならない、と言っている<ref>{{Cite book|title=空っぽの鏡・馬祖|date=1992年|year=|publisher=壮神社}}</ref>。 死の1年程前に自らの尊称を和尚/オショー(Osho)に変えており、現在はOsho(オショウ)として知られている。 |
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|出生名=チャンドラ・モハン・ジャイン |
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|生年月日=[[1931年]][[12月11日]] |
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|生誕地={{BIN}}<br>[[File:Drapeau_Bhopal.svg|border|25px]] [[ボーパール藩王国]] |
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|没年月日={{死亡年月日と没年齢|1931|12|11|1990|1|19}} |
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|死没地={{IND}}・プネー |
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|国籍={{IND}} |
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|職業=インドのゴッドマン<ref name="ゴッドマン"/>、哲学者、神秘主義者、オショー=ラジニーシ運動の創始者<ref name="Chryssides 2001"/> |
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|活動期間= 1972年~1990年 |
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|公式サイト= |
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|別名 = アーチャリヤ・ラジニーシ、バグワン・シュリ・ラジニーシ、シュリ・ラジニーシ、ゴータマ・ザ・ブッダ、シュリ・ラジニーシ・ゾルバ・ザ・ブッダ、オショー・ラジニーシ(和尚ラジニーシ)、オショー(和尚、Osho) |
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'''オショー・ラジニーシ'''(Osho Rajneesh、和尚ラジニーシ)、'''アーチャリヤ・ラジニーシ'''(Acharya Rajneesh、ラジニーシ先生)<ref name="Gordon26-27">{{Harvnb|Gordon|1987|pp=26–27}}</ref>、'''バグワン・シュリ・ラジニーシ'''(Bhagwan Shree Rajneesh)<ref group=†>'''バグワン・シュリ・ラジネーシ'''とも。</ref><ref name="Chryssides 2001">{{harvnb|Chryssides|1999|pp=206–214}}</ref>(誕生時 チャンドラ・モハン・ジャイン(Chandra Mohan Jain)[[1931年]][[12月11日]] - [[1990年]][[1月19日]])は、[[ゴッドマン (インド)|インドのゴッドマン]]<ref name="ゴッドマン">{{harvnb|Mehta|1993|pp=83–154}}</ref>、哲学者、[[神秘主義]]者、[[新宗教]]運動もしくは代替宗教運動の'''オショー=ラジニーシ運動'''(ORM:Osho Rajneesh Movement、ラジニーシ運動)、'''ラジニーシズム'''の創始者<ref name="Chryssides 2001"/>{{sfn|井上|2019|p=26}}{{sfn|中島|2005|p=260}}<ref group="official">{{harvnb|ラジニーシズム学会|1984|p=11}}</ref>。'''オショー'''('''Osho'''、'''和尚''')とも。彼がオショー・ラジニーシまたはオショーに改名したのは最晩年である。便宜的に記事内ではオショー・ラジニーシと表記する。 |
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彼と、彼が率いた教団・運動について述べる。 |
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大学で哲学を学び、1960年にはジャバルプール大学教授となっている<ref name=":3" />。1966年になると、大学を辞職し、インド各地で講話を始めた<ref name=":3" />。東洋・西洋の思想・宗教、現代西洋科学、心理学等を題材に独自の解釈を加え、魅力的で矛盾のある講話を行った{{sfn|足沢|2000|pp=85-87}}。彼はジャイナ教、ヒンドゥー教、(ユダヤ教の)ハシディズム、タントラ、タオイズム(道教)、スーフィズム、キリスト教、仏教などの主要な伝統宗教、多様な東洋や西洋の神秘家、ウパニシャッドやグルグラントサヒブ(シーク教)等の聖典について語った{{sfn|Mullan|1983|pp=33}}。彼は、すべての組織宗教の形骸化を痛烈に攻撃し、また宗教的戒律は人間を鋳型にはめてしまうものだと非難した<ref name=":3" />。インドの因習的伝統や組織宗教に対する批判を行い、セックスが超意識に至る手段になりえると説いて議論を巻き起こし、身体を重視するホリスティックな教え、[[タントラ]]的な「悟り」とそこに至る方法を教えた{{sfn|Puttick|2009|p=268}}{{sfn|伊藤|1999|P=14}}。 セックスは石炭であり、一方ブラフマチャリア〈性超越〉はダイヤモンドだと言いたい、性超越はセックスの変容だ<ref name=":0" />。 と言った。西洋の前衛的な[[セラピー]]と東洋の修行法を並列的に扱って統合し、数多くのセラピーや[[瞑想]]法を創始し、精神世界のカリスマ、グル的存在として多くの西洋人・先進資本主義国の人間を引き付けた{{sfn|Puttick|2009|p=268}}{{sfn|豊島|1995|pp=46-47}}。 もし人間がセックスを正しく理解するなら人間はセックスを超える事ができる、人間はセックスを超えるべきだ<ref name=":0" />、と彼は説いた。 また、アメリカ時代には高級車の[[ロールス・ロイス]]を90台以上所有していた{{sfn|足沢|2000|p=82}}。 |
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==概要== |
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アメリカに移ってからは[[オレゴン州]][[ワスコ郡 (オレゴン州)|ワスコ郡]]に強引に巨大な[[コミューン]]、ラジニーシプーラムを建設した{{sfn|石村|1995|p=378}}。メンバーの間での性病の流行の情報は地元の住民を不安にさせたが、ラジニーシプーラムは[[HIV]]などの性病対策として性病のスクリーニングを行ったといわれ、セックスの際の感染対策もルール化された{{sfn|足沢|2000|p=82}}。 |
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東洋の[[神秘主義]]・個々人の勤行・性的自由を折衷的に説いたインドのスピリチュアル指導者である<ref name="Britannica"/>。[[新宗教]]運動の指導者として生涯物議を醸した人物で、組織化された宗教を否定し<ref>{{Cite web|author=Osho |title=14. The Only Hope: The Enlightenment of Humanity |url=https://www.osho.com/osho-online-library/osho-talks/religion-being-atheism-3f1213a0-2d0?p=789176b1b3274ece433bab8494a34af1|work=From Personality to Individuality|via=Osho.com|accessdate=2024.8.1}}</ref><ref name="Chryssides 2001"/><ref>{{Cite news|newspaper=[[The Washington Post]]|date=30 April 2014|title=Commentary: Chanting 'Osho' and letting go|agency=Religion News Service |first=Chhaya |last=Nene |url=https://www.washingtonpost.com/national/religion/commentary-chanting-osho-and-letting-go/2014/04/30/46427bf8-d098-11e3-a714-be7e7f142085_story.html}}</ref>、霊的経験はいかなる宗教教義の体系にもまとめ上げることはできないと主張した<ref name="Britannica">{{cite web |last1=Melton |first1=J. Gordon |title=Bhagwan Shree Rajneesh |url=https://www.britannica.com/biography/Bhagwan-Shree-Rajneesh |website=Britannica |access-date=14 November 2022}}</ref>。[[グル]]として多くの弟子を取り、人間の霊的な面を体験できるよう設計した{{仮リンク|ダイナミック瞑想|en|Dynamic meditation}}と呼ばれる独自の瞑想を教えた<ref name="Britannica"/>。伝統的な禁欲的な修行を否定し、{{仮リンク|サンニヤーサ|en|Sannyasa}}(放棄)の考えを禁欲主義ではなく無執着の観点から再解釈し、信奉者たちに、この世に執着することなくこの世を完全に生きることを提唱した<ref name="Britannica"/>。性欲を受け入れ解放し人間に深い自由をもたらす唯一のスピリチュアルな道として[[タントラ]]を推奨し、タントラを性にフォーカスして再解釈し([[ネオタントラ]])<ref name="HBU-2016-3"/>、セックスが超意識に至る手段になりえると説いた{{sfn|Puttick|2009|p=268}}。性愛に対して革新的な態度を表明したことで<ref name="Joshi 1982 pp=1–4"/>、1960年代後半にインドで論争を巻き起こし、「セックス・グル」として知られるようになった<ref name="Chryssides 2001"/><ref name="HBU-ZTB82">{{harvnb|Urban|1996|p=82}}</ref><ref name="Carter45">{{harvnb|Carter|1990|p=45}}</ref>。 |
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青年期にインドで活動する様々な宗教者を訪ねては洞察を得て、ジャバルプール大学で[[哲学]]を学び、1960年に同大学で教えるようになり、教授になった<ref name=":3">{{Cite book|title=現代宗教辞典|date=|year=|publisher=弘文堂|author=|page=529}}</ref><ref name="Britannica"/>。1953年に21歳でスピリチュアルな目覚め({{仮リンク|宗教的経験|en|Religious experience}})をして[[悟り]]を得たと語っており<ref name="Britannica"/>{{sfn|Puttick|2009|p=269}}、大学で数年間活動した後、1966年にジャバルプール大学の職を辞め、インド中を旅し、インド各地で講話(プラヴァチャン、口頭でのパフォーマンス)を始め<ref name=":3" />、主流宗教の正統性や<ref name="Chryssides 2001"/><ref>{{Cite web |url=https://content.ucpress.edu/chapters/12984.ch01.pdf |title=Archived copy |access-date=25 March 2019 |archive-url=https://web.archive.org/web/20190325163212/https://content.ucpress.edu/chapters/12984.ch01.pdf |archive-date=25 March 2019 |url-status=live }}</ref><ref>{{harvnb|Mehta|1993|p=150}}</ref><ref name="Joshi 1982 pp=1–4">{{harvnb|Joshi|1982|pp=1–4}}</ref>、主流の政治イデオロギーや[[マハトマ・ガンディー]]の正統性を声高に批判する人物として知られるようになった{{sfn|FitzGerald|1986a|p=77}}<ref name="LFC44">{{harvnb|Carter|1990|p=44}}</ref><ref name="JSG26-27">{{harvnb|Gordon|1987|pp=26–27}}</ref>。[[ジャイナ教]]、[[ヒンドゥー教]]、[[ユダヤ教]]の[[ハシディズム]]、[[タントラ]]、[[道教]]、[[イスラム教]]の[[スーフィズム]]、[[キリスト教]]、[[仏教]]などの主要な伝統宗教、多様な東洋や西洋の神秘家、[[ウパニシャッド]]や[[シク教]]等の聖典について語り{{sfn|Mullan|1983|pp=33}}、すべての組織宗教は形骸化しているとして痛烈に攻撃し、宗教的戒律は人間を鋳型にはめてしまうものだと非難した<ref name=":3" />。彼はイギリスからの独立を果たした20世紀のインドにおいて、最も論争の的になった人物であると言われる{{sfn|Desai|1993|p=133}}。 |
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ラジニーシの身体を重視するホリスティックな教えと、東洋の瞑想と西洋の心理療法の統合は、現代の代替宗教に大きな影響を与えており、近年ではラジニーシの評価はそれなりに向上している{{sfn|Puttick|2009|p=268}}。 |
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1970年にムンバイに滞在し、弟子達(ネオ・サニヤシンまたはサニヤシンとして知られる)に教えるようになった<ref name="Chryssides 2001"/>。この時期、ラジニーシは自身のスピリチュアルな教えを広げ、世界中の宗教的伝統、[[神秘主義]]者、[[バクティ]]詩人、哲学者たちの著作について幅広くコメントした。1974年にプネーに移転して[[アーシュラマ#転義|アシュラム]](道場)を設立、欧米人の弟子がますます増え、アシュラムでは[[ヒューマン・ポテンシャル運動]]発の方法を取り入れた多様な個人セラピーやグループ・セラピー、[[ニューエイジ]]のヒーリングの多様なプログラムが提供された<ref name=Joshi123>{{harvnb|Joshi|1982|p=123}}</ref><ref name="BM26">{{harvnb|Mullan|1983|pp=26}}</ref><ref name="Britannica"/>{{sfn|伊藤|2003|p=67}}。西洋の先進的な[[精神療法|セラピー]]と東洋の修行法を並列的に扱って統合し、数多くのセラピーや[[瞑想]]法を創始し、[[精神世界]]のカリスマ的存在として多くの欧米人、特に先進資本主義国の若者を引き付けた{{sfn|Puttick|2009|p=268}}{{sfn|豊島|1995|pp=46-47}}{{sfn|伊藤|2003|p=75}}。運動の中心は[[カウンターカルチャー]]の影響を受けた西洋人になり、以降オショー=ラジニーシ運動は[[ニューエイジ]]の文脈で見られている{{sfn|伊藤|2003|p=75}}。欧米人の参加者が増えたことで、彼らがもたらした[[ヒッピー]]文化を色濃く反映していった{{sfn|伊藤|2003|p=75}}。 |
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ホリスティック教育やスピリチュアリティ研究が専門の[[中川吉晴]](同志社大学社会学部教育文化学科教授)は、Oshoは特定の宗教や宗派に属していたわけではなく、広く神秘家たちのエッセンスを伝えることで、世界の叡智の伝統に根ざす「永遠哲学」を説き、人類の普遍的な宗教性・霊性をあらためて明らかにした、と述べている<ref name=":2">中川吉晴「OSHO『存在の詩』バグワン・シュリ・ラジニーシ、タントラを語る」 「サンガジャパン」Vol.23 収録 サンガ 2016 p133-p142</ref>。つづけて、中川は、ブッダをはじめとする古(いにしえ)の神秘家たちを現代に甦らせることで、Oshoは私たちの目の前に意識世界の広大なマップを開いてみせてくれたのだ、と指摘している<ref>中川吉晴「OSHO『存在の詩』バグワン・シュリ・ラジニーシ、タントラを語る」 「サンガジャパン」Vol.23 収録 サンガ 2016 p133-p142</ref>。 |
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アシュラムでは悟りを目指してかなり実験的なセラピーが行われており、1970年代にアシュラムで行われたほぼ全てのセラピーでは全裸になることが求められ、グループ・セラピーでは暴力が許されることもあり、セックスも行われていた{{sfn|伊藤|2003|pp=68-69}}。こうしたグループ・セラピーにおけるヌード、セックス、暴力は、オショー=ラジニーシ運動の評判を悪化させ{{sfn|伊藤|2003|p=85}}、1980年代半ばまで運動は[[乱交]]で悪名高かった<ref name="HBU-2016-5"/>。著しいメンバーの増加でオショー・ラジニーシは少数の弟子以外と個人的に接することが難しくなり、アシュラムの制度化が加速し、健康状態の悪化もあり、1970年代中頃から組織運営から徐々に身を引き、数人の西洋人サニヤシンが中心となって運営した{{sfn|伊藤|2003|p=73}}。オショー・ラジニーシの偶像破壊的な教えやヒンドゥー教に対する度重なる攻撃、アシュラムでのラディカルで強烈な実験等により、インド社会・インド政府との軋轢は激しくなっていった<ref name="LFC6364"/><ref name="HBU-2016-4"/>。オショー=ラジニーシ運動は、設立後数年で世界中から何千人もの信者を集め、何百万ドルもの資産を蓄えた<ref name="HBU-2016-4">{{harvnb|Urban|2016|pp=101–136}}</ref>。1970年代後半になると、[[モラルジー・デーサーイー]]首相の[[ジャナタ党]]政権と運動との間には緊張が生じ、アシュラムの発展は抑制され、非営利団体であるにも関わらず約8千万ドルもの巨額の収入があることから、政府は財務状況の調査を行い非課税資格を取り消し、推定500万ドルの追徴課税を行った<ref name="LFC6364">{{harvnb|Carter|1990|pp=63–64}}</ref>{{sfn|伊藤|2003|p=75}}<ref name="HBU-2016-4"/>。1970年代後半が運動のピークで、これ以降正式な会員数は減少している{{sfn|Goldman|2014|pp=176–194}}。 |
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== 思想と活動 == |
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[[ファイル:Osho Drive By.jpg|250px|サムネイル|コミューン居住の信者を前にロールスロイスを運転するラジニーシ]] |
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ラジニーシは21歳の時に悟りに至ったという{{sfn|Puttick|2009|p=269}}。彼は独立後の20世紀インドにおいて、最も論争の的になったゴッドマンである{{sfn|Desai|1993|p=133}}。[[霊性]]の本質を統合する哲学を雄弁に語り、世界の諸宗教の[[神秘主義]]的伝統を紹介し、称賛された{{sfn|Puttick|2009|p=270}}。自らの思想を弟子に講話として語ったが、本は書かなかった。現在入手可能な講話集だけで200冊以上、3500時間以上の録画ビデオがある。魅力的な語り手で、特注の白いロールス・ロイスで登場し特別感を出すなど場の演出にも優れ、多くの人を魅了した{{sfn|足沢|2000|pp=85-86}}。 |
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1981年に活動の中心をアメリカに移し、オショー・ラジニーシらは[[オレゴン州]][[ワスコ郡]]{{仮リンク|アンテロープ (オレゴン州)|label=アンテロープ|en|Antelope, Oregon}}近郊に移住し、廃墟だった牧場を購入し、砂漠の只中に巨大なユートピア共同体{{仮リンク|ラジニーシプーラム|en|Rajneeshpuram}}建設を計画した<ref name="Britannica"/><ref name="HBU-2016-4"/>。1980年代からは、グループ・セラピーにおけるヌード、セックス、暴力は禁止されるようになった{{sfn|伊藤|2003|p=85}}。 |
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瞑想に入るための準備としての多様なセラピー、悟りを目指す多様な瞑想を開発して指導し、時にセラピーは全裸に近い姿で行われ性行為も含んでいたことが広く知られ、「フリーセックスと瞑想の宗教」と呼ばれた{{sfn|足沢|2000|p=76}}。その思想は、多くの近現代のインドの聖者と同様に、[[ヒンドゥー教]]で伝統的な[[不二一元論]]と同じ構造を持つと評される{{sfn|足沢|2000|p=92}}{{sfn|山下|2005|p=384}}。ラジニーシ自身は「ブラフマンとアートマンの合一」あるいは「全体と個の合一」という考え方が自分の思想の中心であると断言しておらず、注がれるべき「エネルギー」が何であり、どこから来るのかということも断言していないが、[[足澤一成|足沢一成]]は、彼の断定を避ける態度は「自然であること」の重視と関連があると述べている{{sfn|足沢|2000|pp=87-88}}。 |
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プネーのアシュラムでは[[スピリチュアリティ]]とグローバル資本主義の融合が見られたが、こうした宗教とビジネスの融合は、アメリカでさらに大胆に推し進められた<ref name="HBU-2016-4"/>。オショー=ラジニーシ運動はスピリチュアルで商業的な企業へと急速に発展し、(表向きは教団から独立した)世界各地の多数の宗教的・世俗的企業が相互に結び付いた、広大で流動的、柔軟なネットワークからなる複雑な企業の複合体となった<ref name="HBU-2016-4"/>。1983年の教団の小冊子では、オショー=ラジニーシ運動の教えは「ラジニーシズム」と呼ばれ、弟子たちがオショー・ラジニーシの教えを正確に反映することを目指し現在進行形で創る「宗教」であるとされた<ref group="official">{{harvnb|ラジニーシズム学会|1984|p=11}}</ref> |
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「心の自発性にまかせて自然に生きる」「個人の革命によって世界が変わる。そのためには自分自身が目覚めなければならない」と解き、悟りへの道のためなら「何をやってもよい」と標榜した{{sfn|豊島|1995|pp=46-47}}。弟子には高い教育を受けた外国人が多く、インドからの脱出、アメリカからの脱出の際に、2度も弟子たちに何も告げずに逃げ、彼らを放棄しているが、それでも2000人を超える弟子が常時彼のもとに集まっていた{{sfn|足沢|2000|pp=91-92}}。 |
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ラジニーシプーラムは[[有機農業]]などを行う先進的な社会実験として始まり、活動開始からわずか4年で事業としては目覚ましい成功を収めたが{{sfn|Urban|2011|pp=369–382}}<ref name="HBU-2016-4"/>、近隣の地方自治体と対立し、次第に[[全体主義]]的な特徴を持つようになり、厳しく統制された非常に偏執的なコミュニティになり、多くの犯罪行為に手を染め、短期間で壊滅した<ref name="HBU-2016-4"/>{{sfn|伊藤|2003|p=76}}。運動は元々緩やかなネットワークだったが、オショー・ラジニーシ自身もその流れを容認する形で、組織の中央集権化と制度化の流れが進み、確固としたヒエラルキーを持つ宗教組織に変わっていった{{sfn|伊藤|2003|p=76}}{{sfn|伊藤|2003|pp=81-82}}。 |
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講話の題材は、東洋・西洋の思想・宗教、現代西洋科学、心理学等で、それに独自の解釈を加え、(時に尾籠で猥褻な)ジョークやコメントを添えてつなぎ合わせている{{sfn|足沢|2000|pp=85-87}}。その教義は極めて[[シンクレティズム|折衷的]]で、その宗教的技術は非常に雑多であるとも言える{{sfn|脇坂|2000}}。取り上げる多様な宗教や思想はそれぞれの体系があるため、それを時々でつなぎ合わせたラジニーシの講話には、全体としてみると矛盾があり、講話で説かれるの教えは時々で異なっている{{sfn|足沢|2000|pp=85-87}}。彼自身は矛盾を自覚しており、悟りは語ることができず、宗教は隠喩のみによって表現できるため、矛盾はすべからく生じるとしている{{sfn|足沢|2000|pp=85-87}}。Oshoはいつもマインド(心)の問題視を指摘する<ref name=":2" />。私達はたえずマインドの生み出す思考活動と同一化しているが、それこそが最大の障害なのである<ref name=":2" />、と言う。講話の一つ一つのエピソードはわかりやすいが、全体としてみるとはっきり理解できないという点が、むしろインテリの弟子たちにはチャレンジしがいのある魅力的なものに映ったと思われる{{sfn|足沢|2000|p=92}}。 |
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ラジニーシプーラムの永住者は全ての財産をコミューンに寄付し、長期滞在者はコミューンにお金を払い、様々な労働に励み、近隣住民と日常的に交流のない孤立した生活を送った{{sfn|伊藤|2003|p=76}}。オショー・ラジニーシの急進的な世界観だけでなく、メンバーが周辺住民に対し意識変容を目指すことを自負して上から目線で接したこと、近隣のアンテロープの町を実質的に乗っ取りラジニーシプーラム市に組み込んだこと、司法分野への進出を試み、全米から1500名のホームレスを集め選挙工作をしようとしたこと等から、地元住民とのトラブルが絶えなかった{{sfn|伊藤|2003|p=77}}{{sfn|足沢|2000|pp=80-81}}。オショー=ラジニーシ運動は世界的に中央集権化と標準化が進められ、各国に大きなコミューンが作られ、オレゴンのスタッフから各地のメンバーにラジニーシプーラムへの寄付が強く求められた{{sfn|伊藤|2003|p=77}}。コミューンに参加せず社会生活を送っていた者は教団ヒエラルキーの下位に置かれ、「明け渡し(サレンダー)が足りない」と批判され、世界中で半数近くがこの時期に運動から離脱している{{sfn|伊藤|2003|p=77}}。 |
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=== 悟りと瞑想・セラピー === |
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矛盾しているように聞こえるかもしれないが、世界に深く関わりながらも、世界から離れている、これがラジニーシの説いた生き方である<ref name=":2" />。これは社会生活や日常生活のすべてを瞑想にするということである<ref name=":2" />。講話全体を見ると、ほとんどの西洋人は社会や教育によって抑圧されているため、その拘束力を取り除き、抑圧により過去に形成された「エゴ」である「わたし」を捨て去り、「自然であること」によって真の自己に至らなければならない、ということが説かれている{{sfn|足沢|2000|pp=87-88}}。仏教に関する講話を数多く残した<ref name=":2" />。邦訳だけでも、ダンマパダ、般若心経、ダイヤモンド・スートラ(金剛般若心経)、ボーディダルマ、信心銘、十牛図、馬祖、臨済、道元、一休、白隠、禅語録などの講話録がある<ref name=":2" />。 |
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ラジニーシプーラムはワスコ郡の住民や州政府と対立し、コミューン建設や継続的な開発に関する法廷闘争が相次いで拡大は阻害された。オショー・ラジニーシの個人秘書{{仮リンク|マ・アナンド・シーラ|en|Ma Anand Sheela}}達側近の高弟たちは、1984年にワスコ郡の選挙結果を望むようにしようと、[[サルモネラ菌]]を地元のレストランに散布して集団食中毒を起こし(アメリカ初の[[バイオテロ]]である[[ラジニーシ教団によるバイオテロ事件]]。被害者約750名、うち45名が入院)、1985年に{{仮リンク|チャールズ・H・ターナー|en|Charles H. Turner (attorney)}}連邦弁護士に対する{{仮リンク|1985年のオショー・ラジニーシの弟子による暗殺計画|label=暗殺計画|en|1985 Rajneeshee assassination plot}}を立て(未遂に終わった)、オショー・ラジニーシの主治医スワミ・デヴァラジ(ジョージ・メレディス)の殺人未遂を行い、既知のものでは最大の違法盗聴事件や、教団に不利な裁判記録を隠滅するための公共施設の放火、麻薬の密輸、アメリカにおける最大の移民詐欺事件などの数々の犯罪行為を行った{{sfn|FitzGerald|1986b|p=108}}<ref name="Britannica"/>{{sfn|伊藤|2021|p=75}}{{sfn|櫻井|2003|p=101}}。オショー・ラジニーシは1985年に地元当局にシーラ達側近に対する捜査を求め、その後、シーラを含むアシュラムの弟子数名に有罪判決が下された{{sfn|FitzGerald|1986b|p=108}}<ref name="Britannica"/>。1985年に彼は[[司法取引]]を行い、別の移民詐欺の容疑でアメリカから国外に追放された<ref name=Latkin342>{{harvnb|Latkin|1992|p=}}, reprinted in{{harvnb|Aveling|1999|p=342}}</ref><ref>{{Cite news|title =Wasco County History|work=Oregon Historical County Records Guide|publisher =Oregon State Archives|url=https://sos.oregon.gov/archives/records/county/Pages/wasco-history.aspx|access-date=22 November 2007|archive-url=https://web.archive.org/web/20180612184622/https://sos.oregon.gov/archives/records/county/Pages/wasco-history.aspx|archive-date=12 June 2018|url-status=live}}</ref><ref>{{Cite news|title=Bhagwan Shree Rajneesh|work=Newsmakers 1990|pages=Issue 2|publisher=Gale Research|year=1990 }}</ref><ref name="Britannica"/>{{sfn|伊藤|2003|pp=84-87}}。その後21カ国に入国を拒否され、世界を放浪した<ref>{{harvnb|Aveling|1999|p=xxii}}</ref>。ラジニーシプーラムの成功と破滅は、高尚な人物が矮小化し没落する物語として、長い間一般大衆の娯楽となってきた<ref name="print"/>。 |
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[[足澤一成|足沢一成]]によると、ラジニーシの「悟り」とは、「何らかの真理を知ることではなく、セックスにより個と個に一体感が生じるように『全体』である『エネルギー』に個が流れ込む状態そのものを経験すること」を意味しているようである{{sfn|足沢|2000|p=90}}。 |
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最終的に1986年にインドのムンバイに戻り、弟子の家に6ヶ月間滞在し講話を再開した後、1987年1月にプネーに戻り、アシュラムを復活させた<ref>{{Cite book|last=Joshi|first=Vasant|url=https://www.worldcat.org/oclc/496597032|title=Osho, the luminous rebel : life story of a maverick mystic|publisher=Wisdom Tree|year=2010|isbn=978-81-8328-154-6|location=New Delhi|pages=210|language=English|oclc=496597032}}</ref><ref>{{Cite book|last=Appleton|first=Sue|title=Was Bhagwan Poisoned by Ronald Reagan's America?|publisher=Rebel Publishing House|year=1988|isbn=3-89338-041-8|location=Germany|pages=60|language=English}}</ref>。インド帰国後は、サニヤシンのグルへの無条件の服従や全面的コミットメントの傾向を解消し、宗教の脱制度化を進める方向に転換していき、オショー=ラジニーシ運動の[[セクト]]的な特徴は徐々に薄れ、アメリカ時代の中央集権的な体制・大規模な国際的コミューンから、小規模なグループが各国に点在し各瞑想センターが独自に展開する、初期のインド時代と似た状況に変わっていった{{sfn|伊藤|2003|pp=80-81}}。 |
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決まった一つの体系を多様な個々人に与えることは「自然であること」に反するので、それぞれが自分に合ったセラピーを行い、エゴを取り除いて、自分に合った瞑想法で「悟り」に向かうことが目指される{{sfn|足沢|2000|pp=87-88}}。[[上座部仏教]]の[[ヴィパッサナー瞑想]]や、[[禅宗]]の[[座禅]]、[[チベット仏教]]の観想法などをアレンジし、100以上の瞑想のテクニックを開発した{{sfn|足沢|2000|p=91}}{{sfn|Sinha|2015}}。Oshoは仏教の[[ヴィパッサナー瞑想]]をこのほか重視していた<ref name=":2" />。そして「瞑想」と呼ばれる実践をするときだけが瞑想なのではない、気づきを生の本質とすることが瞑想であると、繰り返し語った<ref name=":2" />。1時間ほどの瞑想を10~15分のユニットに分けて、動き、発声、感情の吐露を加えるといったアレンジの傾向は、セラピーの影響がうかがえる{{sfn|足沢|2000|p=91}}。ラジニーシが作った瞑想法で一番有名なのは、深くて速くて乱雑な呼吸を行い、泣いたり叫んだりして感情を吐き出し、「フー、フー」という[[イスラム神秘主義]]の真言を唱えながらジャンプし、突然の静止、そしてダンスという1時間の「ダイナミック瞑想」である{{sfn|足沢|2000|p=71}}。 |
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プネーのアシュラムは1980年代後半から1990年代前半にかけて大きく変化し、共同体的な雰囲気を持つ素朴なアシュラムから、多くの短期滞在者を受け入れる瞑想と自己発見のための高級リゾート、多様なサービスを提供する世界的なスピリチュアル・センターへと急速に変化・拡大し、年配のサニヤシンたちはアシュラムを離れ、世界の他の地域へと散って行った<ref name="HBU-2016-5"/>。コミュニティのリーダーシップにも重要な変化があり、オショー・ラジニーシは1989年に、ジェイエシュ(マイケル・オバーン)、アムリト(ジョージ・メレディス、旧サニヤシン名スワミ・デヴァラジ)、アナンドを中心とする21人の弟子からなる「インナーサークル」と呼ばれる委員会を設立し、彼らが運営の実務を担った<ref name="HBU-2016-5"/>。彼はインナーサークルの活動を推進し、自身の思想を普及させ、統治機構を発展させた{{sfn|Goldman|2004|pp=119–138}}。 |
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ラジニーシは性的欲求の抑圧こそが精神的不調の大きな要因であると考えたため、セラピーは全裸に近い姿で行われ、周辺社会から奇異な目で見られることになった{{sfn|中島・外川・田中・小牧 |2015}}。 |
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オショー・ラジニーシはプネーのアシュラムで1990年に死去した。死後信奉者たちは、彼が政府の陰謀の犠牲者だという確信を持ち、その無実を主張し、運動を継続した<ref name="Britannica"/>。彼の死後運動は安定し、数年間で彼は「驚くべき神格化」を遂げ、人気を高めたと言われる<ref name="HBU-TSSP" /><ref name=GIA182-183>{{harvnb|Forsthoefel|Humes|2005|pp=182–183}}</ref>{{sfn|Urban|2011|pp=369–382}}{{sfn|Goldman|2004|pp=119–138}}。 |
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=== 精神医療現場で導入されている瞑想法 === |
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世界中で行われているオショー・ラジニーシの教えの実践の多くは、現在も[[ネオタントラ]]と性愛に重点を置き続けている<ref name="HBU-2016-6"/>。彼の教えは欧米の[[ニューエイジ]]の思想に影響を与えた<ref>{{harvnb|Heelas|1996|pp=22, 40, 68, 72, 77, 95–96}}</ref><ref name=GIA177>{{harvnb|Forsthoefel|Humes|2005|p=177}}</ref>。 |
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米国ダラスに在住する精神科医Vyas, ''A''博士は、Oshoが編み出したダイナミック瞑想の臨床効果を調査するために、パイロットスタディを行い論文にまとめた。本研究は治験者が実際に瞑想を行い、ペアワイズ比較を用いて行われた。結論として、攻撃的行動、抑うつ状態、形質的危険性、感情的な疲労、役割の過負荷、心理的な緊張の大幅な減少が見られたと実証した。そして、心理療法として使用することができると示している。<ref>[[Kostas Andrea Fanti--編]][["Psychological Science: Research, Theory and Future Directions"]][[ATINER]][[2007]]</ref> |
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プネーのアシュラムは現在、OSHOインターナショナル・メディテーション・リゾートとして知られる<ref>{{Cite web|url=https://www.vice.com/en_ca/article/xd7qp4/sex-robes-and-gurus-299|title=I Charged My Sexual Energies at the OSHO Meditation Resort in India|website=Vice|access-date=12 September 2017|archive-url=https://web.archive.org/web/20170912191809/https://www.vice.com/en_ca/article/xd7qp4/sex-robes-and-gurus-299|archive-date=12 September 2017|url-status=live|date=19 April 2015}}</ref>。宿泊料や各種コースの料金は上昇し、宿泊者の数は減っていき、2016年時点で少数の富裕層向けの施設となっている<ref name="HBU-2016-5"/>。プネーのOSHOインターナショナル・メディテーション・リゾートと、彼の著作権を管理し講話録を出版するOSHOインターナショナル財団は提携関係にある{{sfn|Goldman|2014|pp=176–194}}。プネーのリゾートは今日非常に人気があり、毎年何十万人もの訪問者があり、講話録も世界中で大量に出版され続けている<ref name="Gietz"/>。 |
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OSHO 公式サイトの記事からの抜粋「ドイツのファフクリニーク・ハイリゲンフェルトという、精神療養所を運営しているヨアヒム・ガルスカ博士は、『ダイナミックは、私が知っているうちでももっともパワフルなテクニックのひとつです』と彼は言う。 |
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精神医学者であるライナ・ファルク博士は、OSHO Dynamic Meditation®を、毎月21日間、患者たちに提供している」<ref>https://www.osho.com/ja/read/media/professionals/what-the-doctors-say</ref> |
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彼の死以降、運動は何度も自ら再定義を繰り返し、より包括的な方向へ進んでいった{{sfn|Goldman|2004|pp=119–138}}。運動は彼の役割を再定義し、悟りへの架け橋を「オショー・ラジニーシの教えへの『明け渡し(サレンダー)』で[[自我]](エゴ)を消滅させること」から「瞑想で自我を消滅させること」に変更する等、教えの中心要素を[[リフレーミング]](再構成)し、運動の目的を再定義し、運動の歴史を選択的に再解釈して過去の悪評や問題から距離を取ることで、部外者から問題視されることを避け、勢いのある文化的勢力となった{{sfn|Lewis|Petersen|2005|p=120}}{{sfn|Goldman|2014|pp=176–194}}{{sfn|Goldman|2009|pp=311–327}}。1970年代後半以降、運動は会員数、資産の蓄積、社会的影響力という点で成功してはいないが、現在はプネーの教団(リゾート)を中核に、関連センター、運動とつながりのある自己啓発ビジネス、彼の影響を受けたスピリチュアル教師、スピリチュアル市場の顧客の輪が広がっている{{sfn|Goldman|2004|pp=119–138}}。彼の死後、運動の権威はプネーの教団(リゾート)から分散した。アシュラムやコミューンでフルタイムで生活し人生を捧げるスタイルは廃れ、世界各地に緩やかにつながるセンターが点在し、センターや個人の家に集まる分散型モデルに移行した<ref name="HBU-2016-6"/>。21世紀初頭時点で、60か国以上に約750のセンターがあった<ref name="Britannica"/>。人々はプネーのリゾートや各地のセンターで短期間スピリチュアルな[[リトリート (宗教上)|リトリート]]を体験し、日常に帰っていく<ref name="HBU-2016-6"/>。 |
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2015年3月1日から2015年3月21日までの21日間、OSHO Dynamic Meditation®の実験研究が行なわれた。インド、ラックナウで行われたこの研究は、20~50歳の健康なボランティア20名(男性14名、女性6名)が参加し(4名は健康上や一身上の理由で脱落)血漿コルチゾール値(ストレスに関与し、過度なストレスを受けると分泌量が増加し、抗ストレスホルモンとして恒常性の維持に不可欠な物質)を測定し、このアクティブ瞑想が抗ストレス効果を生み出すと結論づけた。この結果は、National Center for Biotechnology Information, U.S. National Library of Medicineのサイトにアーカイブされている。<ref>https://www.ncbi.nlm.nih.gov/pmc/articles/PMC5198312/</ref> |
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運動の中でも、彼という人間と彼の教えの扱いには温度差がある<ref name="WRSP"/>。OSHOインターナショナル財団は、彼という人格ではなくその哲学を熱心に宣伝しているが、彼という人間に強い敬意を持つグループもあり、最近の熱心なメンバーには、運動の中心的存在として彼が引き続き必要なのか疑問を持つ人もいる<ref name="WRSP"/>{{sfn|Goldman|2004|pp=119–138}}。 |
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===セックスとタントラ=== |
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セックスに関する[[タントラ]]的な教えが、最も意見が分かれ、インドでも西洋でも批判されてきた{{sfn|Puttick|2009|p=270}}。ラジニーシはセックスの[[オーガズム]]は「悟り」のエネルギーに似ており、悟りのエネルギーの疑似体験になるので、むしろセックスは悟りにプラスであるとした{{sfn|足沢|2000|p=90}}。彼は性の4段階のモデルを作り、男女のエネルギーが[[エクスタシー]]によって合一する最終段階に至ることで(または、これと他の方法との組み合わせで)、覚醒することができると教えた{{sfn|Puttick|2009|p=281 }}。悟り自体を知った人は、セックスで得られるような些細な快楽には興味を持たなくなるとしている{{sfn|足沢|2000|p=90}}。 セックスにいつまでもとどまっているべきではないが、セックスを踏み台として用いることができる。それがタントラの意図するところだ、と彼は説いた<ref name=":0">{{Cite book|title=タントラ―セックス、愛、そして瞑想への道|date=|year=1992年|publisher=和尚コーシャ瞑想センター}}</ref>。 |
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運動は自らの成功を、規模や人数ではなく世界規模の文化的影響力と解釈するようになり{{sfn|Goldman|2004|pp=119–138}}、再構築された教えは人々を引きつけ、インターネット上でコミュニケーションが続けられ、プネーの教団(リゾート)は運動に資金提供する何千人もの顧客を引き付けた{{sfn|Goldman|2004|pp=119–138}}。運動は裕福で才能のあるメンバーを集めることに成功しており、特権階級のサニヤシン達は社会に影響力を持ち、運動は激しい政治的弾圧を受けることなく真面目に受け止められ、国際的に活動し続けている{{sfn|Goldman|2004|pp=119–138}}。現在世界中で活動しているサニヤシンと献身的な参与者は8,000人未満だが、洗練されたコンピューター・ネットワークで結びつき、幅広い市場の神秘主義の消費者にスピリチュアルな商品を届け、小グループで定期的に集まっているため、その数よりも大きな影響力を持ち続けている{{sfn|Goldman|2004|pp=119–138}}。 |
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===ラジニーシの「十戒」=== |
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アーチャーリヤ・ラジニーシと呼ばれていた初期の頃、彼はあらゆる戒律に反対していたが、次の「十戒」を示したことがある{{sfn|Goldman|2014|pp=186-187}}。 |
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1962年から1971年の間に、弟子と友人たちに向けて書いた手紙が書簡集として出版されている。その一通に以下の「十戒」が綴られている。 |
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Love(愛する者へ)<br> |
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あなたはわたしの「十戒」を教えてくれと言った。これはたいへん難しい。わたしはいかなる種類の戒律にも反対だからだ。それでも、ほんの余興のつもりで次のようにまとめてみた。 |
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オショー・ラジニーシは生前、インドのスピリチュアルな伝統である瞑想に著作権や商標を適用し独占しようとすることを批判したが、彼の死後、彼の瞑想や著作(講演録)は速やかに著作権で保護され、「Osho」は商標登録され、使用権と利益をめぐる様々な争いにつながった<ref name="HBU-2016-6"/>。OSHOインターナショナル財団(OSHO International Foundation、OSHOインターナショナル・ファウンデーション。旧ラジニーシ・インターナショナル財団)が、関連するすべての[[知的財産権]]の保有を主張し管理していたが<ref name="osho.com">[http://www.osho.com/trademarks Trademarks of Osho International Foundation] {{Webarchive|url=https://web.archive.org/web/20180619140511/http://www.osho.com/trademarks |date=19 June 2018 }}. Retrieved 20 June 2018.</ref><ref>[http://www.osho.com/oshointernationalfoundation OSHO International Foundation] {{Webarchive|url=https://web.archive.org/web/20180620232417/http://www.osho.com/oshointernationalfoundation |date=20 June 2018 }} "is a registered foundation of Switzerland, founded in 1984 and is the owner of all the intellectual property of the contemporary mystic Osho (1931–1990) and the sole and registered owner of all of the copyrights ..."</ref>、1990年代後半には、対立する派閥がオショー・ラジニーシの著作物に対するOSHOインターナショナル財団の著作権の保有と、資料の出版や再版に対する[[ロイヤルティー]](使用料)請求の有効性に異議を唱えた{{sfn|Lewis|Petersen|2005|p=120}}<ref>[https://web.archive.org/web/20000711021203/http://www.india-today.com/itoday/20000703/religion.html Osho's Legacy; Royalty Ruckus] originally published in ''[http://indiatoday.intoday.in/site/ India Today]'' 3 July 2000. Retrieved 7 December 2009.</ref><ref name="JMF44-45">{{harvnb|Fox|2002|pp=44–45}}</ref>。オショー・フレンズ・インターナショナル(Osho Friends International:OFI)がOSHOインターナショナル財団を訴え、このアメリカでの法廷闘争は10年近くに及んだが、OSHOインターナショナル財団が提出したオショー・ラジニーシの遺言状に偽造の疑いが生じ、遺言状は取り下げられ、控訴は棄却<ref name="Osho"/><ref name="HBU-2016-6"/>。2009年1月に、OSHOインターナショナル財団がアメリカで保有していたOshoという商標は無効となった<ref name="Osho">(18 July 2009) [https://web.archive.org/web/20090925162103/http://www.indianexpress.com/news/osho-trademarkoif-appeal-dismissed/490876 Osho trademark:OIF appeal dismissed], ''The Indian Express''. Retrieved 15 July 2011.</ref>。今日多くのサニヤシンは、インナーサークル、特にジェイエシュとアムリト(ジョージ・メレディス)に対し、彼らがオショー・ラジニーシの遺産を単なるビジネスと化し、共同体の富を私利私欲のために流用していると激しく非難している<ref name="HBU-2016-5"/>。こうした批判や告発、訴訟は、インド国内だけでなく世界中のサニヤシンたちのスピリチュアルな生活や士気に影響を与えており、プネーのアシュラム(リゾート)やその周辺の街の雰囲気は、かつての陽気で祝祭的なものから著しく悪化したと言われるが、彼のメッセージとはほとんど関係がない問題だと考える信奉者もかなり多い<ref name="HBU-2016-6"/>。 |
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# 内部から来るもの以外どんな命令にも従うべからず |
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# 唯一の神は生そのものである |
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# 真理は内にある、それを他のどこかに探すべからず |
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# 愛は祈りである |
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# 空(くう)は真理への扉である それは手段であり、目的であり、達成である |
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# 生はいまここにある |
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# '''完全に目覚めて生きよ''' |
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# 泳がず、浮かび漂うべし |
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# 一瞬ごとに死に、一瞬ごとに新生すべし |
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# 探求をやめよ、在るところのものは在る '''立ち止まり、そして見よ'''{{sfn|和尚|1995|p=135}}</blockquote> |
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== 来歴 == |
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彼は7番、10番の2段目にアンダーラインを引いた。個々に合わせた指導が可能な融通があり、厳密なものではないが、これらは30年にわたる彼の運動の[[ライトモチーフ]]と言える{{sfn|Goldman|2014|pp=186-187}}。 |
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=== 幼少期・青年期: 1931年-1950年 === |
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オショー・ラジニーシは1931年12月11日に、中央インドの[[マディヤ・プラデーシュ州]]{{仮リンク|ラーイセーン県|en|Raisen district}}のクチワダという小さな村で、[[ジャイナ教]]徒の布商人の11人兄弟の長男チャンドラ・モハン・ジャインとして生まれ、ラジニーシというあだ名で呼ばれていた{{sfn|伊藤|2003|p=70}}<ref name="HBU-2016-1"/>{{sfn|McDaniel|2004|pp=265–294}}<ref name=Mullan10-11>{{harvnb|Mullan|1983|pp=10–11}}</ref><ref name=Mangalwadi88>{{harvnb|Mangalwadi|1992|p=88}}</ref><ref name="JSG21">{{harvnb|Gordon|1987|p=21}}</ref>。彼は病弱な子供で、[[天然痘]]と[[喘息]]で死にかけたことがあった{{sfn|McDaniel|2004|pp=265–294}}。生家の宗教はジャイナ教の小宗派{{仮リンク|ターラン・パンタ派|en|Taran Panth}}で、この宗派は、16世紀の[[ディガンバラ派]](裸行派)の出家者で、[[偶像崇拝]]を否定し、無形の神([[アートマン]])への個々人の深い帰依を説いた開祖{{仮リンク|ターラン・スヴァーミー|en|Taran Svami}}にちなんで名付けられた<ref name="Aveling"/>。ジャイナ教は仏教と密接な関係のあるインドの宗教であり、そのため彼は、インド社会の主流であるヒンドゥー教の枠組みの外で、様々な哲学を統合する伝統の中で育った{{sfn|Goldman|2004|pp=119–138}}。 |
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両親バブラル・ジャイナとサラスワティ・ジャイナは、彼が8歳になるまで母方の祖父母と一緒に暮らすことを許し<ref name="BM11">{{harvnb|Mullan|1983|p=11}}</ref>、彼自身の説明によると、祖母は彼に最大限の自由を与え、教育や制約を押し付けず気楽に育ててくれたため、これが彼の成長に大きな影響を与えたという<ref group="本人">{{harvnb|Osho|1985|p=''passim''}}</ref>。祖母は彼を「ラージャ」(王様)と呼び、王様のように扱われていた<ref name="HBU-2016-1"/><ref name="Aveling"/>。 |
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===指導・師弟関係=== |
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サンニヤーシン(出家者)は本来俗世の事柄をすべて捨てるものだが、「自然であるなら何を抱えていてもよい」という考えで悟りを目指すとし、弟子を「ネオ・サンニヤーシン」(Neo-Sannyas)と呼んだ。ネオ・サンニヤーシンは世俗の事柄を捨てず、性的な禁欲もない{{sfn|足沢|2000|pp=89-90}}。弟子たちはラジニーシーズ(Rajneeshes)とも呼ばれた{{sfn|石村|1995|p=343}}。 |
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7歳の時に祖父が亡くなり、両親と一緒に暮らすために{{仮リンク|ガダルワラ|en|Gadarwara}}へ移った<ref name=Mullan10-11 /><ref name=Joshi22-48 />。祖父の死は深い心の傷となり、死に魅了され、幼少期から青年期にかけて死への執着が続いた<ref name=Joshi22-48>{{harvnb|Joshi|1982|pp=22–25, 31, 45–48}}</ref><ref name="JSG22">{{harvnb|Gordon|1987|p=22}}</ref>。子供時代、他者が死に直面するのを観察することに魅了されていたと言われ、死にゆく人と共に過ごしたり、火葬場に向かう葬列に付いていったり、また、危険な洪水の川に飛び込むなど、自身を命の危険にさらしたことも知られている<ref name="HBU-2016-1"/>{{sfn|McDaniel|2004|pp=265–294}}。のちに、前世でほぼ[[悟り]](enlightenment)に達していたが、現世では完全な悟りを開く7年前の14歳の時に、初めて悟りを体験したと主張している{{sfn|Palmer|Bromley|2007|pp=135–158}}。 |
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初期にはヒンドゥー教の伝統的な儀礼である「ダルシャン([[:en:Darśana|Darśana]])」を取り入れ、弟子たち一人ひとりに接見していた{{sfn|足沢|2000|p=91}}。弟子との関係で最も重要なのは、グルから弟子へ直接エネルギーを与える[[シャクティーパット]](エネルギー・ダルシャン)だった{{sfn|Puttick|2009|p=270}}。ラジニーシは、「グル」は「全体」と結びつき、「聖なるエネルギー」に満たされているとし、そのエネルギーを弟子に与えることができ、弟子にエゴがなければエネルギーが注ぎ込まれるとした{{sfn|足沢|2000|p=89}}。ダルシャンではライブ演奏や歌、踊りを行い、女性の「伝達者」を用いて弟子に[[エクスタシー]]的状況を経験させるような強烈な儀式を行い指導していたが、接見する人数が増えた第1期プネー時代にはグループ単位になって重要性が薄まり、アメリカ時代には中断している{{sfn|足沢|2000|p=91}}。ラジニーシの死後は、ダルシャンのビデオを使う「白バラの兄弟」という儀礼が毎日続けられた{{sfn|Puttick|2009|p=270}}。 |
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1947年には愛する幼なじみのガールフレンドが腸チフスで死去し、数年間深い鬱状態に陥った<ref name="HBU-2016-1"/>{{sfn|McDaniel|2004|pp=265–294}}<ref name=Joshi22-48>{{harvnb|Joshi|1982|pp=22–25, 31, 45–48}}</ref><ref name="JSG22">{{harvnb|Gordon|1987|p=22}}</ref>。 |
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ラジニーシは、弟子がグルからエネルギーを与えられるために必要なグルへの絶対服従を、「明け渡し」と表現している{{sfn|足沢|2000|p=89}}。 |
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彼は自身の子ども時代を、甘やかされ、孤独で、気難しい子供だったと誇らしげに語っており、宗教的、教育的な人物の権威に頻繁に挑戦していたという<ref name="Aveling"/>。伝記作家のヴァサント・ジョシによると、「彼の学校時代は、あらゆる権威に対する反抗の時期であり、ギャングを組織して村を恐怖に陥れ、他人を命の危険に誘導したり追い込むような、無謀な『実験』を行っていたと語られている。」<ref name="HBU-2016-1"/>。学校では、彼は才能豊かで反抗的な生徒であり、討論が上手だと評判だった<ref name="FF1-77">{{harvnb|FitzGerald|1986a|p=77}}</ref>。伝統的な宗教に批判的になり、呼吸の制御、[[ヨーガ]]の練習、[[瞑想]]、[[断食]]、[[オカルト]]、[[催眠]]など、意識を拡張するための多くの方法に興味を持っており、ヴァサント・ジョシによると、幼い頃から幅広く本を読み、少年時代にはスポーツもしていたが、主に読書を好んでいた<ref name=":5" group="関係者">{{Cite book|first=Satya |last=Vedant |title=The awakened one : the life and work of Bhagwan Shree Rajneesh|date=1982|publisher=Harper & Row|isbn=0-06-064205-X |location=San Francisco|oclc=8194778}}</ref>。[[カール・マルクス]]と[[フリードリヒ・エンゲルス]]の[[共産主義]]の本に興味を持ち、共産主義者とみなされて退学の脅しを受けた。ヴァサント・ジョシによると、彼は友人の助けを借りて、共産主義の本をメインにした小さな図書館を作った。また叔父のアムリトラルによれば、共産主義イデオロギーと宗教への反対について定期的に議論する若者のグループも結成した<ref name=":5" group="関係者" />。 |
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ラジニーシは、「明け渡し」についてこう語っている。 |
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彼は後に次のように語っている。「私は幼いころから共産主義に興味を持っていた。共産主義の文献…私の図書館の蔵書で欠けているものはなかっただろう。1950年以前の本には、すべて署名と日付を記した。私にとって知的世界への最初の入り口だったので、細かいところまで鮮明に思い出される。最初は共産主義に深く興味を持っていたが、それが死に体であることがわかり、[[アナキズム]]に興味を持つようになった。アナキズムもロシアの現象だった。[[ピョートル・クロポトキン|クロポトキン公子]]、[[ミハイル・バクーニン|バクーニン]]、[[レフ・トルストイ]]。この3人はみなアナキストだった。世界には国家も政府も存在しない。」<ref>{{Cite book|last=Anand Urmila|first=Ma|title=Osho: Call of the Ocean|publisher=Zorba Designs, Hotel Surya Villa, Koregaon Park, Pune|year=2007|location=India|pages=101}}</ref> |
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「私に関する限り、マスターのどの古いカテゴリーにも属さない。私は新しい始まりだ。古いマスターたちは明け渡すことを要求したという意味で――。私はあなたがたに何も要求しない。私にとっては、明け渡すことは微妙な精神的隷属だからだ。私は、私の仲間たちが自由に生きる個人であってほしい。愛はどんな明け渡しよりもはるかに大きな現象だ。明け渡しはマインドのもの、明け渡しはひとつの努力だ。愛はハートのもので、努力ではない。私はあなたが個人であることを消すためにここにいるのではない。あなたのエゴを消すためにここにいる。それにはどんな明け渡しも必要ない。必要なのは、あなたの側での深い瞑想的理解だ」<ref>{{Citation |author=Bhagwan Shree Rajneesh|year=1988|title=[[The Invitation]]|publisher=Rebel Publishing|edition=1}}</ref> |
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短い間[[社会主義]]に関わり、[[インド国民軍]]、[[民族義勇団]]という2つのインド民族主義組織に参加したが<ref name="FF1-77" /><ref name="JSG23">{{harvnb|Gordon|1987|p=23}}</ref><ref name="Joshi38">{{harvnb|Joshi|1982|p=38}}</ref>、形式的な規律、イデオロギー、システムに従うことができなかったため、これらの組織での活動は短期間で終わった<ref>{{harvnb|Joshi|1982|p=11}}</ref>。 |
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===女性=== |
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「直観力、受容力、献身などの美徳ゆえに、女性はより容易にグルに従い、瞑想の微妙なエネルギーに対して自らを開くことができる」とし、インドでは無知で不浄とされ、社会的にも霊的にも劣位に扱われる傾向のある女性を霊的に評価し、管理者として実務面もすぐれていると考えた{{sfn|Puttick|2009|pp=270-271}}。 |
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=== 大学時代・講演活動:1951年-1970年 === |
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ラジニーシは講話で、「母親になるという事は、この上もなく価値あるものを作り出している。あなたは生命を彫刻し、生命に形を与えている。子育ては深刻にならず陽気に受け止める事。あなたが深刻になってしまったら子供はあなたの深刻さを感じ、押しつぶされてダメになってしまう、子供に重荷を負わせてはならない。子供があなたを母親として選んでくれたことに感謝し、子供を通して自分の女性を開花させなさい。母親になることは祝福だ」と語っている<ref>{{Cite book|title=英知の辞典|author=和尚|date=|year=1996|publisher=めるくまーる}}---p470-p474「母親になる MOTHERHOOD」</ref>。 |
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19歳でジャバプールの{{仮リンク|ヒトカリニ大学|en|Hitkarini College of Engineering and Technology}}(Hitkarini College)で学び始めたが、講師と衝突した後すぐにD・N・ジャイナ教大学(D. N. Jain College)に転校した<ref name="HBU-2016-1"/>。大学では哲学を専攻したが{{sfn|伊藤|1999|p=14}}、彼自身が後に回想しているように、たとえ戯れにでも、問題を引き起こしたり、教官に論争を吹っ掛けることに必然性を感じており、非常に問題児だったようである<ref name="HBU-2016-1"/>。好んで場を掻き乱すため、授業には出ずに試験を受けることだけを求められ、空いた時間を使って地元の新聞社で編集助手として数ヶ月働いた<ref name=Joshi50>{{harvnb|Joshi|1982|p=50}}</ref>。生家の宗教であるジャイナ教ターラン・パンタ派のコミュニティが毎年ジャバルプールで開催するサルヴァ・ダルマ・サムメラン(すべての信仰の会合)で演説するようになり、1951年から1968年まで参加した<ref>Smarika, ''Sarva Dharma Sammelan'', 1974, ''[[:en:Taran Panth|Taran Taran Samaj|Taran Panth|Taran Taran Samaj]]'', Jabalpur</ref>。両親からは結婚するよう言われていたが、逆らっていた<ref name="LT15">(1985) Interview with Howard Sattler, 6PR Radio, Australia, [https://www.youtube.com/watch?v=5ocbZhRQS9I video available here] {{Webarchive|url=https://web.archive.org/web/20161130174649/https://www.youtube.com/watch?v=5ocbZhRQS9I |date=30 November 2016 }}. Retrieved 10 July 2011.</ref>。 |
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後に1971年に[[グル]]として活動をするようになってから、独立後インド社会が様々な社会的・宗教的対立に苦しんでいた1950年代初頭の1953年、大学時代に、彼の最初の大きなスピリチュアルな変容があり、悟りを開いたと語っており、それは次のようなものである。彼自身が語るところによると、[[クリシュナ]]、[[仏陀]]、[[マハーヴィーラ]]、[[イエス・キリスト]]、[[ヴェーダ]]、[[コーラン]]など、どの教えも確かな根拠を与えてくれるものとは思えず、彼はスピリチュアルな危機、一種の「魂の闇夜」の中で精神的な迷路に陥った<ref name="HBU-2016-1"/>。本人曰く「気が狂ったも同然」「完全な暗闇」の状態となり、何日も空腹や渇きを感じることもなく、朝夕5マイルから10マイルも走り続け、困惑した両親は、アーユルヴェーダ医や宗教家などの元に連れて行った<ref name="HBU-2016-1"/>。彼はついに完全な絶望に陥り、あきらめて激しい肉体的苦行をやめ、それから7日目の[[1953年]][[3月21日]]、ジャバルプールのバーンヴァルタルの庭園の樹の下に座っている時に悟りの体験があり、エネルギーがあらゆるところから湧き上がり、彼の中で弾け、気が狂いそうな至福に浸る[[エクスタシー]]の体験をし、仏陀が言う[[無我]]、自我の喪失・自己の消滅、再生を体験したという<ref name="HBU-2016-1"/><ref name="BM12">{{harvnb|Mullan|1983|p=12}}</ref>。伊藤雅之は、「人間の[[意識]]の最終的な段階に達し光明(悟り)を得たという」と表現している{{sfn|伊藤|2003|p=70}}。 |
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== 来歴 == |
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=== 初期 === |
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[[1931年]][[12月11日]]、中央インドの[[マディヤ・プラデーシュ州]]の、人口700名ほどの小さな田舎町クチワダに、[[ジャイナ教]]の布商を営む商人の家に生まれたといわれる{{sfn|足沢|2000|p=72}}。 |
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この体験の後も学業を続け、1955年にD.N.ジャイン・カレッジで哲学の学士号を取得した後、サガル大学に入学し1957年に哲学の修士号を取得した。[[ラーイプル]]のサンスクリット・カレッジで哲学を教え始めたが、すでに物議を醸す人物として広く知られており、「生徒の道徳、人格、宗教を破壊する」等と批判され、同僚の教師や上司を敵に回したが、むしろ「危険な男」というイメージを積極的に受け入れ、過激で挑発的で因習を打破する、斬新で独創的な教師としてふるまい活動した<ref name="HBU-2016-1"/>。彼の講義が大きな論争を巻き起こしたため、1958年にジャバルプール大学の哲学教授となった{{sfn|Goldman|2014|pp=176–194}}。1960年に教授に昇進<ref name="LFC44" />。人気教師となり、田舎町での不十分な教育というハンデを克服した非常に知的な人物だと仲間から認められていた<ref name="JSG25">{{harvnb|Gordon|1987|p=25}}</ref>。 |
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ジャバプール大学で哲学を専攻した{{sfn|伊藤|1999|P=14}}。大学生だった[[1953年]][[3月21日]]に、人間の意識の最終的な段階に達し、光明を得たという{{sfn|伊藤|1999|P=14}}。 |
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大学の仕事と並行して、インド全土を巡って講義を始め、挑発的で物議を醸す面白い講師というスタイルを磨き、欧米で台頭していた[[カウンターカルチャー]]運動を反映し、独自のインド版[[カウンターカルチャー]]革命、因習打破の教えを作っていった<ref name="HBU-2016-1"/>。彼の発言は物議を醸したが、裕福な商人や実業家を含む多くの忠実な支持者を獲得することにもなった<ref name="FF1-77" /><ref name="Lewis122">{{harvnb|Lewis|Petersen|2005|p=122}}</ref>。彼らはスピリチュアルな発達や日常生活に関する個別相談を行い寄付をした{{sfn|Goldman|2014|pp=176–194}}。インドでは学識ある人や聖職者に個人的に相談しアドバイスを求めることは一般的なことだが、彼のクライエントの急激な増加は、並外れたスピリチュアル・セラピストだったことを示唆している{{sfn|Goldman|2014|pp=176–194}}。スピリチュアルな指導者としての役割を示すアーチャリヤ(教師または教授)・ラジニーシ(子どもの頃のあだ名)という名前を使い始め、講演、瞑想キャンプの開催、裕福なクライエントのカウンセリングで生計を立て{{sfn|Goldman|2014|pp=176–194}}、その活動は雪だるま式に拡大していった<ref name="Lewis122" />。 |
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ラジニーシはジャバルプール大学の哲学教授となり、1960年代にはインド各地で講演をし、「すべての行為や感情を抑圧することなく、ありのままの自分を受け入れ、瞬間、瞬間をトータルに覚醒することが必要である」と説き、宗教批判とともに、インドの因習的伝統や組織宗教に対する批判を行い、セックスが超意識に至る手段になりえると主張した{{sfn|伊藤|1999|P=14}}。66年には大学を辞職して講演に専念し、69年に[[超越瞑想]]運動の指導者[[マハリシ・マヘーシュ・ヨーギー]]の招待で、初めて西洋の大衆に向けて英語で語る機会を得た{{sfn|Sinha|2015}}{{sfn|伊藤|1999|P=14}}。 |
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1964年に、ラジャスタンの丘陵地帯にあるムチャラ・マハヴィールで、朝と夕方の瞑想、講話、質疑応答のセッションで構成された最初の10日間の瞑想キャンプ(リトリート)を開催し続いて、全国各地でさらに多くのキャンプが開催された<ref name="Aveling"/>。1965年には、4人の裕福なジャイナ教徒の商人によって、ムンバイに「生命覚醒センター」が設立され、彼の説教ツアーやキャンプを企画し、その教えを雑誌、パンフレット、ヒンディー語の講話やその英訳の小冊子といった形で宣伝した<ref name="Aveling"/>{{sfn|Goldman|2014|pp=176–194}}。運動は当時、生命覚醒運動(Jivan Jagruti Andolan)として知られていた<ref name="ASIMA" group="本人">{{harvnb|Osho|2000|p=224}}</ref>。 |
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またこの頃に、初期の弟子の中で最も重要な人物ラクシュミー・タカルシ・クルワ(マ・ヨーガ・ラクシュミー)が加わった<ref name="HBU-2016-1"/>。彼女は、インドの初代首相[[ジャワハルラール・ネルー]]や、四代目首相の[[モラルジー・デーサーイー|モラルジ・デサイ]]、その他の政治家と密接な関係を持つ[[国民会議党]]の大物支持者の年若い娘で、広い人脈を持っており、講演するオショー・ラジニーシに一目惚れした様で、最初の本当の「[[グルーピー]]」だった<ref name="HBU-2016-1"/>。彼女は組織のトップと個人秘書を兼ねたビジネスマネージャーとなった{{sfn|Goldman|2014|pp=176–194}}。初期のもう一人の重要人物が、アメリカのニュージャージー州の学校に通い、裕福なアメリカ人の夫がいたシーラ・パテル(のち{{仮リンク|マ・アナンド・シーラ|en|Ma Anand Sheela}})で、夫も運動に加わったため、多額の資金を運動にもたらした<ref name="HBU-2016-1"/>。 |
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オショー・ラジニーシは高校時代に[[社会主義]]に興味を持っていたが、経済システムとしての社会主義に次第に幻滅していき、1960年代後半までに、社会主義の知的基盤と、現代インドにおける社会主義の社会的・経済的・倫理的影響に対する非常に厳しい批判、[[マハトマ・ガンディー]]への批判、反ガンジー主義に発展した<ref name="HBU-2016-2"/>。彼の経済への態度は、グローバル資本主義の積極的推進・反社会主義であった<ref name="HBU-2016-2"/>。1969年の講演では、社会主義は資本主義の究極の結果であると言え、資本主義そのものが社会主義をもたらす革命だと語っている<ref name=":5">{{Cite book|first=Satya |last=Vedant |title=The awakened one : the life and work of Bhagwan Shree Rajneesh|date=1982|publisher=Harper & Row|isbn=0-06-064205-X |location=San Francisco|oclc=8194778}}</ref>。インドでは社会主義は避けられないが、50年後、60年後、70年後には、インドはまず富の創出に力を注ぐべきだと確信していると述べた<ref>{{Cite book|first=Satya |last=Vedant|title=The awakened one : the life and work of Bhagwan Shree Rajneesh|date=1982|publisher=Harper & Row|isbn=0-06-064205-X |location=San Francisco|page=89|oclc=8194778}}</ref>。社会主義は貧困だけを社会化すると主張し、マハトマ・ガンディーを貧困を崇拝する[[自己敗北性パーソナリティ障害|マゾヒスト反動主義者]]と評した<ref name="FF1-77" /><ref name="JSG26-27" />。インドが後進国から脱却するために必要なのは、資本主義、科学、近代技術、そして[[避妊]]であると語った<ref name="FF1-77" />。彼は資本主義と社会主義を正反対のシステムとは考えず、どの国も資本主義経済をまず構築するべきで、そうせずに社会主義を語るのは悲惨なことだと考えていた<ref name=":5" />。 |
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インドの正統派の宗教は空虚な儀式で満たされ、地獄行きの恐怖と祝福の約束で信者を抑圧していると批判し<ref name="FF1-77" /><ref name="JSG26-27" />、全ての組織化された宗教は物質世界を拒否するという点で死んでおり、生命を否定し、[[倒錯]]していると非難するようになった{{sfn|McDaniel|2004|pp=265–294}}。インド各地で講演し、「すべての行為や感情を抑圧することなく、ありのままの自分を受け入れ、瞬間、瞬間をトータルに覚醒することが必要である」と説き、全ての組織宗教を激しく批判した{{sfn|伊藤|1999|p=14}}。 |
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彼は規模の大小を問わずどこでも講演を行い、5-10万人の聴衆相手に話したこともあると主張している<ref name="Aveling"/>。生家の宗教である[[ジャイナ教]]に反発し、その禁欲的な伝統を[[マゾヒスト|マゾヒスティック]]と呼び、ジャイナ教が性欲を抑圧していると考え、性欲の重要性を強調した{{sfn|McDaniel|2004|pp=265–294}}。彼の公開講座はより過激になり、主流の政治や宗教を批判し、よりオープンで自由な性愛を提唱した{{sfn|Goldman|2014|pp=176–194}}。講演者として広く知られるようになり、しばしば物議を醸した<ref name="Aveling"/>。1966年に物議を醸す講演ツアーを行った後、1966年に大学当局の求めでジャバルプール大学の職を辞した<ref name="LFC44">{{harvnb|Carter|1990|p=44}}</ref>。ハリー・エーヴリングは、副学長が辞職を求めた理由は、彼が頻繁に仕事を休んでいたためだろうと述べている<ref name="Aveling"/>。 |
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セックスが超意識に至る手段になりえると主張し、1968年の一連の講演(後に『セックスから超意識へ』というタイトルで出版)で、セックスをより自由に受け入れるよう呼びかけてヒンドゥー教の指導者を憤慨させ、インドのマスコミから「セックス・グル」として知られるようになった<ref name="Carter45" /><ref name="Joshi 1982 pp=1–4" />{{sfn|伊藤|1999|p=14}}。この講演は性の「神的な」性質に焦点を当てており、彼の悪名を高めたが、内容は箍の外れた官能への誘いというわけではなく、セックスは「愛の出発点」であり、自己超越の最初の片鱗だということをオープンに正直に受け入れるべきだと主張し、セックスを不届きな「罪」の行為として非難することに反対した<ref name="Aveling"/>。1960年代後半以降の彼の講話には性的なテーマが一貫して含まれており、セックスというテーマは挑発的で独自性があり、新たな信者を引き寄せるポイントとなった{{sfn|Tiwary|2024|pp=152–188}}。また、瞑想の実践や、音声テープ・ビデオの講話の重要なテーマになった{{sfn|Tiwary|2024|pp=152–188}}。 |
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インド哲学の要素と、[[新フロイト派|ポスト・フロイト派]]の[[精神分析]]、{{仮リンク|生体エネルギー論|en|Bioenergetics}}、西洋の神秘家・哲学者[[ゲオルギイ・グルジエフ]]の折衷的な神秘主義等といったヨーロッパの心理学から導入したアイデアの融合をさらに進めていき<ref name="HBU-2016-1"/>、1960年代後半までに、人間が自分の身体的、霊的・精神的、感情的なプロセスを観察することを容易にするアクティブな瞑想エクササイズとして、ダイナミック瞑想のシステムを開発し始めた{{sfn|McDaniel|2004|pp=265–294}}{{sfn|Goldman|2014|pp=176–194}}。 |
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1969年に第2回世界ヒンドゥー会議に招かれた際に、一部のヒンドゥー教指導者の懸念にもかかわらず、「人生を無意味で悲惨なものと考え、生命への憎悪を教える宗教は、真の宗教ではない。宗教は人生を楽しむ方法を示す芸術領域(アート)である」と発言して再び物議を醸した<ref name="Joshi88">{{harvnb|Joshi|1982|p=88}}</ref>。ヒンドゥー教の下層カーストの[[シュードラ]]と女性の扱いを動物の扱いと比し<ref>{{Cite book|url=https://books.google.com/books?id=s-XbBB3bOn4C&q=osho+patna+second+world+hindu+conference&pg=PA271|title=The Rebellious Enlightened Master Osho|last=Bhed|first=Gyan|year=2006|publisher=Fusion books|pages=273|location=New Delhi|isbn=81-8419-047-6}}</ref>、上位カーストの[[バラモン]]を利己心で動いているとみなし、ヒンドゥー教の尊敬される最高指導者であるプリーの[[シャンカラ・アーチャーリヤ|シャンカラ・アーチャリヤ]]を挑発した<ref name="Joshi88" />。シャンカラ・アーチャリヤは講演を中止させようとしたが叶わなかった<ref name="Joshi88" />。 |
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彼の教えはほとんどのインド人にとって非常にショッキングだったが、一部の人にとってはかなり魅力的だった{{sfn|伊藤|1999|p=14}}。口コミや、時折メディアで彼の才能に触れられたことで、1960年代後半から1970年代前半に、欧米人が彼の瞑想キャンプにやって来るようになった{{sfn|Goldman|2014|pp=176–194}}。 |
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=== ムンバイ: 1970年 – 1974年 === |
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[[File:Osho 1972 Birthday seek-index 268 0.26.ogv|thumb|250px|alt=Video of man in white, sitting in an armchair|ムンバイ時代の誕生祭を記録した動画]] |
[[File:Osho 1972 Birthday seek-index 268 0.26.ogv|thumb|250px|alt=Video of man in white, sitting in an armchair|ムンバイ時代の誕生祭を記録した動画]] |
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1970年代より思想家からグルへと移行し、弟子を |
1970年頃まで、オショー=ラジニーシ運動はさほど組織化されておらず、彼は一思想家であり、講演を聞きに来る人も弟子ではなく聴衆だったと言える{{sfn|伊藤|1999|p=14}}。1970年代から活動が宗教的色彩を帯びるようになり、思想家・講演者からグルへと移行し、聴衆の一部が弟子になり、正式にイニシエーションを授けて出家させ、弟子を取るようになった{{sfn|伊藤|1999|p=14}}{{sfn|足沢|2000|p=73}}。 |
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1970年初頭の公開瞑想イベントで、非常に速い呼吸と音楽とダンスによる祝祭を伴うダイナミック瞑想を、始めて披露した<ref name=LFC46>{{harvnb|Carter|1990|p=46}}</ref><ref name="Handa 2020">{{cite web |last=Handa |first=Mohini |title=Orangebook Osho Discourses |website=Internet Archive |date=10 June 2020 |url=https://archive.org/details/orangebookoshodiscourses_517_Y |access-date=20 June 2020}}</ref>。6月末にジャバルプールを離れ、ムンバイに向かい<ref name="Joshi94103">{{harvnb|Joshi|1982|pp=94–103}}</ref>、1970年9月26日に最初の弟子を取り、彼がネオ・サニヤシンと呼ぶ弟子たちの集団を作っていった<ref name="LFC47">{{harvnb|Carter|1990|p=47}}</ref>。マ・ヨーガ・ラクシュミーが彼が定住するための資金を集め<ref name=" FF1-77" />、1970年12月にムンバイのウッドランズ・アパートに移り、そこで講演を行った<ref name=" Joshi94103" />。彼はめったに旅をしなくなり、公開の集会で話すこともなくなった<ref name="Joshi94103" />。 |
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1971年にアーチャリヤの称号を止め、「バグワン」という称号に変え、「バグワン ・シュリ・ラジニーシ」と名乗り、約20年前の1953年3月21日に、光明(enlightenment)を成就させる真の「悟り(satori)」の深遠な無を体験したと公言した{{sfn|Goldman|2014|pp=176–194}}{{sfn|FitzGerald|1986a|p=78}}{{sfn|足沢|2000|p=74}}。「バグワン」は神や釈迦の尊称であり、悟りを開いた者や目覚めた者、神と一体化した人を意味し、ヒンドゥー教では特に創造神[[ヴィシュヌ]]を意味し、「シュリ」は「聖なる」という意味であり、この新しい名称はインドの人々に衝撃を与え、反感を買うことになり、インド人の弟子の一部は去っていった{{sfn|足沢|2000|p=74}}{{sfn|Goldman|2014|pp=176–194}}<ref name="Aveling"/>。 |
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彼のサニヤシンたちは、禁欲的な生活ではなく祝祭的な生活を送ることが奨励されていた<ref name="JSG32-33">{{harvnb|Gordon|1987|pp=32–33}}</ref>。彼自身は崇拝対象ではなく、「花が開くように促す太陽」、つまり触媒であるとされていた<ref name="JSG32-33" />。この時期のダルシャンでは、オショー・ラジニーシ自身がおのおのの弟子に修行内容を指示し、弟子からの質問に答えていた{{sfn|足沢|2000|p=75}}。 |
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ラクシュミーのビジネスセンスとシーラのコネクションにより、オショー・ラジニーシは裕福なインド人だけでなく、インドのスピリチュアリティ・西洋の心理学・体制への攻撃などをミックスした彼の教えを新鮮に感じる欧米の観光客も引きつけるようになった<ref name="HBU-2016-1"/>。当時アメリカは、まだ[[ベトナム戦争]]の反戦デモの渦中にあり、1960年代の[[カウンターカルチャー]]は終焉を迎えつつあり、彼の教えは他のインド系新宗教運動([[クリシュナ意識国際協会]]や[[超越瞑想]]運動など)と同様に、[[サイケデリック]]・ドラッグや過激な政治運動、その他のカウンターカルチャーの思想を試して飽き足らず、もっと永続的な自己変革の形を模索していた若者達に特にアピールした<ref name="HBU-2016-1"/>。当時の運動は、裕福なインド人ビジネスマンと、長髪でみすぼらしい服装の[[ヒッピー]]や[[ニューエイジ|ニューエイジャー]]が混ざり合っていた<ref name="HBU-2016-1"/>。西洋人の訪問者に対して、故郷に戻って「バグワンについてのニュースを広める」よう奨励した<ref name="Aveling"/>。 |
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1971年に初めて英語で著作『''I am the Gate''』が出版された{{sfn|Goldman|2014|pp=176–194}}。{{仮リンク|ハーパー (出版社)|label=ハーパー・アンド・ロー|en|Harper (publisher)}}などの有名な西洋の出版社が講話の一部を翻訳し出版した{{sfn|Goldman|2014|pp=176–194}}。より多くの欧米人が弟子になり、公式の組織が作られた{{sfn|Goldman|2014|pp=176–194}}。欧米からの訪問者は彼のボンベイのアパートに集まり、彼は海外からの訪問者の何人かに西ヨーロッパとアメリカに瞑想センターを作らせ、西洋とのネットワークを構築した{{sfn|Goldman|2014|pp=176–194}}。こうした瞑想センターを通じてオショー・ラジニーシを知った欧米人たちが、インドに集まるようになった{{sfn|足沢|2000|p=74}}。 |
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オショー=ラジニーシは、イニシエーションを受けた西洋人の弟子たちに、しばしばヒンドゥー教で崇拝される神々の名前を与え、これはサニヤス (放棄の誓い) を立て、グルに自身を明け渡し、過去を捨てることによる心理的、霊的・精神的な再生を意味した{{sfn|Goldman|2004|pp=119–138}}{{sfn|Goldman|2014|pp=176–194}}。また、この頃ボンベイでは、すべての弟子にインドの伝統的な聖者の色である[[サフラン]]・オレンジのローブを着させ、自身の写真入りロケットをつるした[[数珠]]を身につけさせたが、神々の名前と聖者の衣装というインスタントな神聖さは、その自由奔放な政治的・性的哲学と相まって、地元住民の深い怒りを買った{{sfn|Goldman|2014|pp=176–194}}{{sfn|伊藤|2003|p=72}}。ムンバイ時代は瞑想のための独自の施設はなく、サニヤシン達は海岸で瞑想を行っていたが、彼らは「体内のエネルギーの流れを妨げる」として下着の着用が禁じられており、聖者の色のローブを着て、下着もつけずに海岸で叫んだり飛び跳ねたりする様は、地元の人々にとってヒンドゥー教への侮辱に感じられた{{sfn|足沢|2000|p=74}}。一方で、インド人訪問者の数を上回り始めていた欧米人の訪問者たちを魅了した{{sfn|Goldman|2014|pp=176–194}}。彼の過激な教えとその評判、インドの慣習を軽んじる何百人もの特権的な欧米人の弟子たちの存在は、地域との間に緊張を生んだが、緊張が高まることで内部の連帯が生じ、ひとつの運動として形成されていった{{sfn|Goldman|2014|pp=176–194}}。 |
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ムンバイ在住時に、[[糖尿病]]、[[喘息]]、および多くのアレルギーを発症した<ref name="FF1-78">{{harvnb|FitzGerald|1986a|p=78}}</ref>。 |
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呼吸への働きかけや身体の自由な動き、発声などを伴い、心理的な解放を志向した動的な技法(アクティブ・メディテーション)を編み出した。71年からの4年間は定期的に公共施設で瞑想キャンプを開いている{{sfn|伊藤|1999|P=14}}。 |
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===第1期プネー 1974年 – 1981年 === |
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[[ムンバイ]]での一時期を経て、1972年にバグワン・シュリ・ラジニーシと改名、その直後に[[プネー]]にアシュラムを設立し、拠点に定めた{{sfn|Puttick|2009|p=268}}。国外からの25万人ものメンバー(うち3000人ほどが定住)を集め、ラジニーシの周辺には[[コミューン]]的な状況が生まれた{{sfn|Puttick|2009|p=268}}。ラジニーシはヒンディ語に加えて英語でも講話をするようになり、古今東西の宗教的または精神的な師や神秘家、あるいは注目すべき創始的な人物について語った。こうした流れは関心を集め、多くの人々を惹きつけると同時にセンセーショナルな報道や反発も少なくなかった。 |
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[[File:Rajneesh and disciples at Poona in 1977.jpg|thumb|right|250px|プネーにて、1977年]] |
[[File:Rajneesh and disciples at Poona in 1977.jpg|thumb|right|250px|プネーにて、1977年]] |
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1974年にボンベイの南東100マイルにある高原都市プネーに本部を移した{{sfn|Goldman|2014|pp=176–194}}。ギリシャの海運会社の相続人キャサリン・ヴェニゼロス(マ・ヨーガ・ムクタ)の多大な支援と、長年のインド人の弟子からの追加の財政支援を受け、オショー・ラジニーシは郊外のエリート街コレガオン・パーク地区に隣接する不動産を取得し、2万平方メートルの敷地をもつシュリ・ラジニーシ・アシュラムを作った{{sfn|Goldman|2014|pp=176–194}}{{sfn|伊藤|2003|p=72}}{{sfn|Tiwary|2024|pp=152–188}}。講話は定期的に録音され、後にはビデオ録画され、書籍化され、世界中で販売され、これまでよりはるかに多くの聴衆に講話を届けることができるようになり、西洋からの訪問者の数は急増した<ref name="FF1-80" />。1975年に数人の[[ヒューマンポテンシャル運動]]のセラピストが到着した後、アシュラムでは瞑想に加えグループ・セラピー([[集団精神療法]])が増えていき<ref name="Joshi123"/><ref name="BM26"/>、これがアシュラムの主な収入源になった<ref name="JMF16-17">{{harvnb|Fox|2002|pp=16–17}}</ref><ref name="FF1-82-83">{{harvnb|FitzGerald|1986a|pp=82–83}}</ref>。 |
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ムンバイでは彼に簡単に会うことができたが、プネーではこれをやめ、彼はほとんどの時間を自分の宿舎で過ごすようになった<ref name="Aveling"/>。弟子の数が増えたため、ムンバイ時代のような一対一のダルシャンは行われなくなり、グループ単位になった{{sfn|足沢|2000|p=75}}。午前中に講話の場所に車で出向き、夕方にはダルシャン(謁見)で小グループに会うために現れた<ref name="Aveling"/>。ダルシャンでは、弟子にサニヤス([[通過儀礼|イニシエーション]])を与え、サニヤシンや訪問者それぞれと話し<ref name="FF1-80" /><ref name="BM24-25" /><ref name="Aveling"/>、サニヤシンの書面による質問に答えた{{sfn|Goldman|2014|pp=176–194}}。ほとんどのサニヤシンは日常的に彼に会うことはできなくなったが、アシュラムのいたるところに写真が貼られ、一般のサニヤシンが時折偶然会うことができたという噂が広まり、アシュラムのいたるところに彼の姿が見られた{{sfn|Goldman|2014|pp=176–194}}。夕方のダルシャンが象徴的な親近感を醸し出しており{{sfn|Goldman|2014|pp=176–194}}、サニヤシンたちは出立時や帰国時、また私生活に関して等、グルに質問したいことがある際にダルシャンを受けに来た<ref name="FF1-80" /><ref name="BM24-25" />。重要な訪問者や旅立つサニヤシンに小さな木箱や衣服を贈呈する習慣も、生活の中でオショー・ラジニーシの存在を継続的に感じさせた{{sfn|Goldman|2014|pp=176–194}}。ムンバイ時代からの弟子には、直接の対話の時間が減少したことに不満を覚える者も出てきた{{sfn|足沢|2000|p=75}}。 |
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その当時のグループセラピーは、初日から全裸になることが一般的で、シャワーとトイレも男女の区別はなく、「人とのつきあいも、ものすごく近い感じ」だったという{{sfn|伊藤|1997}}。セラピーや瞑想では「お腹のところに白い光るエネルギーを感じる。背骨からエネルギーがワーッとなって、それが3日続く。すべてが美しくみえて、何をやっても深い感じがする」というような[[変性意識]]体験があったといい、こうした内的体験が入信と信仰の継続に重要な役割を果たしていたようである{{sfn|伊藤|1997}}。 |
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1975年頃から英語での講話が増え、アシュラムにグループセラピー([[集団心理療法]])を取り入れ始めた{{sfn|Dempsey|2011|pp=76-107}}。1975年4月に、自己認識を育む方法として[[エンカウンター・グループ]]と[[アーサー・ヤノフ]]の{{仮リンク|原初療法|en|Primal therapy}}の提供が始まり、すぐにボディワーク、グループセラピー、幼少期の探求、[[潜在意識]]への働きかけ、[[ヴィパッサナー]]や[[座禅]]などの集中的な瞑想実践を含む幅広い実践が提供されるようになった<ref name="Aveling"/>。 |
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1975年に日本で布教が開始され{{sfn|石村|1995|p=343}}、この頃から日本でも知られるようになり、[[1977年]]に最初の邦訳講話録である『存在の詩』が[[精神世界]]系の出版社[[めるくまーる]]より出版された。本書は1997年までの20年間で、4万9千部売れた{{sfn|伊藤|1997}}。なお翻訳家・著作家の[[吉福伸逸]]は、ラジニーシの思想は当初アメリカなどより日本の方が先行して広まっていたと述べており{{sfn|吉福|1987}}、それが[[ニューエイジ]]/[[トランスパーソナル心理学|トランスパーソナル]]ムーブメントにおけるラジニーシの引用の少なさを説明している、と考えている<ref>引用例としては、例えばピーター・ラッセル 『グローバル・ブレイン』工作舎,1994年</ref>。 |
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プネーのアシュラムは、感情を掻き立てる狂乱のカーニバルのような雰囲気に包まれており、エキサイティングで強烈な場所だとみられていた<ref name="FF1-80" /><ref name="JMF18">{{harvnb|Fox|2002|p=18}}</ref><ref name="JSG76-78">{{harvnb|Gordon|1987|pp=76–78}}</ref>。一日は午前6時にダイナミック瞑想で始まり<ref name="TLS192">{{harvnb|Aveling|1994|p=192}}</ref><ref name="BM24-25">{{harvnb|Mullan|1983|pp=24–25}}</ref>、午前8時からオショー・ラジニーシがアシュラムの「ブッダホール」講堂で60分から90分の講話を行い、宗教的な書物について解説したり、訪問者や弟子からの質問に答えたりした<ref name="FF1-80" /><ref name="BM24-25" />。1981年まで、[[ヒンディー語]]と英語の一連の講話が交互に行われていた<ref name=Mehta93>{{harvnb|Mehta|1993|p=93}}</ref>。日中はさまざまな瞑想やセラピーが行われ、その強烈さはオショー・ラジニーシのスピリチュアルなエネルギー「ブッダフィールド」によると考えられていた<ref name="JMF18" />。 |
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[[吉福伸逸]]は、ラジニーシのグループは、[[トランスパーソナル心理学]]、ニューサイエンス、ヒューマン・ポテンシャル・ムーブメント、ホリステッィク・ヘルス・ムーブメントに関連した宗教のなかで、唯一、もっとも[[ニューエイジ]]的な感性に近いグループであった、あれだけの実験を提供してくれたグループはどこにもなく、初期の[[エサレン協会|エサレン]]のような活気が、プーナのラジニーシ・アシュラムにはあった、と述べている<ref>{{Cite book ja-jp |author=[[吉福伸逸]]|chapter= |title =トランスパーソナルとは何か |publisher=春秋社|year=1987|ref={{Harvid|吉福|1987}} }}---p58 </ref>。 |
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開設から5年間でアシュラムは成長し、スピリチュアルな師として数千人を前に講義できる瞑想ホール、小規模な講堂、ヒューマンポテンシャル運動のグループ・セラピーのための施設、診療所、衣類・ジュエリー・陶芸・オーガニック化粧品等の家内工業、レストラン、商店、教室、定住しているサニヤシン用の住宅が設けられた{{sfn|Goldman|2014|pp=176–194}}。演劇、音楽、[[パントマイム|無言劇]](マイム)の公演も行うようになった<ref name="FF1-80">{{harvnb|FitzGerald|1986a|p=80}}</ref><ref name="FF1-82-83">{{harvnb|FitzGerald|1986a|pp=82–83}}</ref>。教団の建物は、ジーザス([[イエス・キリスト|イエス]])・ハウス、チャンツー([[荘子]])・ホール、ラオツー([[老子]])・ハウス、[[クリシュナ]]・ハウス、[[仏陀|ブッダ]]・ホールといった名前が付けられていた{{sfn|足沢|2000|p=75}}。アシュラムは、グループ・セラピーと個人セラピーの料金、部屋代と食事代、書籍の販売、講演会の入場料から、毎月10万-20万ドルの安定した収入を得ていた<ref name="Aveling"/>。 |
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プネーの住民にとってラジニーシのアシュラムは「インド社会の公序良俗に反する[[ヒッピー]]」であり、その対立は激化し、行方不明になって死体で発見される弟子もいた(事件の詳細は不明){{sfn|足沢|2000|pp=77-78}}。このころの弟子には、地元の精神病院に収容されるものも多かった{{sfn|足沢|2000|pp=77-78}}。 |
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インドを旅していた欧米の[[ヒッピー]]や、日本でいう[[精神世界]]の探究者たちがオショー・ラジニーシと出会って惹きつけられ、続いて[[ヒューマン・ポテンシャル運動]]にかかわっていたセラピストたちがスピリチュアリティの新たな発展を求めて集まるようになり、欧米人のサニヤシンが大部分を占めるようになっていった{{sfn|伊藤|2003|p=72}}。この頃からアシュラムの公式発表と現実の差が大きくなっていき、弟子の正確な数も把握しにくいが、各種調査の共通する概算では、少なくとも年間25,000人以上がアシュラムを訪問し、常時3,000人ほどが長期滞在していたといわれ、弟子たちの個人情報も制限されていたため実態はつかみにくいが、ドイツ人、イギリス人、アメリカ人が全体の半数以上を占めていた様である{{sfn|足沢|2000|p=75}}。第1期プネーで、オショー・ラジニーシの周辺には[[コミューン]]的な状況が生まれた{{sfn|Puttick|2009|p=268}}。裕福な弟子、才能のある弟子がグルの最も近くに位置し、運動は明らかに階層化されていた{{sfn|Goldman|2014|pp=176–194}}。 |
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プネー警察は不法滞在外国人の取り締まりを厳しくしたが、インド滞在にビザがいらないイギリス人と偽装結婚する信者もいた{{sfn|足沢|2000|pp=77-78}}。多宗教国家であるインドでは、宗教対立を引き起こす言動は犯罪であり、インド中央政府はラジニーシの伝統宗教批判を犯罪と判定して起訴の準備を進めていた{{sfn|足沢|2000|pp=77-78}}。このころ、ラジニーシはアレルギーや糖尿病の悪化、背中を痛めたという理由で講話をやめ、さらに言葉を話さなくなった{{sfn|足沢|2000|pp=77-78}}。 |
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彼の元に集まるセラピストが増加するにつれ、今度は新しい心理学の流れに興味を持つ者の訪問も増え、様々なセラピーの一大実験場と化していった{{sfn|伊藤|2003|p=73}}。オショー・ラジニーシは、ニューエイジャーの興味をそそる幅広い物事、セラピー、啓示に対して驚くほどオープンで、ヨーロッパとアメリカのセラピー関係者のサニヤシンは、[[エンカウンター・グループ]]、原初療法、[[ゲシュタルト療法]]、{{仮リンク|アレクサンダー・ローウェン|en|Alexander Lowen}}と{{仮リンク|ジョン・ピエラコス|en|John Pierrakos}}のバイオエナジェティクス、[[ロルフィング]]、[[ヨーガ]]、[[空手]]、[[太極拳]]、[[タロット]]占いまで、あらゆるものをもたらし、オショー・ラジニーシは「メソッドを持つすべての人」にピリチュアルな活動の場を提供した{{sfn|Bruce|2017|pp=60–84}}{{Refn|group="†"|[[吉福伸逸]]は、オショー・ラジニーシのグループは、[[トランスパーソナル心理学]]、ニューサイエンス、ヒューマン・ポテンシャル運動、ホリステッィク・ヘルス運動に関連した宗教のなかで、最も[[ニューエイジ]]的な感性に近いグループで、あれだけの実験を提供したグループは他になく、当時は初期の[[エサレン協会]]のような活気があったと述べている{{sfn|吉福|1987|p=58}}。}}。 |
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===アメリカ オレゴン州ラジニーシプーラム=== |
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[[1981年]]、ラジニーシは逮捕を避けるため、背中の手術を理由に[[アメリカ合衆国|アメリカ]]短期滞在ビザを取り、40人の側近だけを連れ、出国・税関手続き、セキュリティーチェックなどをすべて無視して強引に出国し、アメリカに立った{{sfn|足沢|2000|pp=77-78}}。この出国は、プネーに残された弟子には全く秘密にされていた{{sfn|足沢|2000|pp=77-78}}。出国の理由は背中の治療だったが、アメリカで治療も手術もしなかった{{sfn|足沢|2000|pp=77-78}}。 |
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訪問者はオショー・ラジニーシに相談するか、自分の好みに応じて参加するセラピーを選択した<ref name="TLS193">{{harvnb|Aveling|1994|p=193}}</ref>。当時、悟りに至る手助けとして行われたセラピーはかなり激しいもので、セラピーでは全裸になることが求められ、アシュラムの初期のグループ・セラピーのいくつか、例えば[[エンカウンターグループ]]等の実験的なものでは、ある程度の肉体的暴力も許されており、参加者同士のセックスも行われていた{{sfn|伊藤|2003|pp=68-69}}<ref name="FF1-83">{{harvnb|FitzGerald|1986a|p=83}}</ref><ref name="NYT131181">{{harvnb|Maslin|1981|p=}}</ref>。セラピーの詳細は外部に公開されていなかったが、ヌードやセックスを含むことは一般にも知られており、「フリーセックスと瞑想の宗教」と呼ばれていた{{sfn|足沢|2000|p=75}}。この頃は、地元の精神病院に収容されるサニヤシンも多かった{{sfn|足沢|2000|p=77}}。 |
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当初は東部ニュージャージー州モンクレアにコミューンを建設したが、地域住民とのトラブル・争いが絶えなかった{{sfn|石村|1995|pp=342‐343}}。 |
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エンカウンターグループのセッション中での負傷について、錯綜した報告が報道され始めた<ref>Karlen, N., Abramson, P.: ''Bhagwan's realm'', ''Newsweek'', 3 December 1984. Available on [https://web.archive.org/web/20090710170848/http://www.nealkarlen.com/newsweek/bhagwan.shtml N. Karlen's own website]. Retrieved 10 July 2011.</ref><ref>{{harvnb|Prasad|1978|p=}}</ref><ref>{{harvnb|Mehta|1994|pp=36–38}}</ref>。オショー・ラジニーシのラディカルな思想や実験的なアシュラムは、多くの人々、特に先進資本主義国の若者を惹きつけたが、インド社会と運動の軋轢も激しさを増していった{{sfn|伊藤|2003|p=75}}。 |
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====コミューンの建設、ラジニーシプーラム市の誕生==== |
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まもなく信者たちは[[オレゴン州]][[ワスコ郡 (オレゴン州)|ワスコ郡]]アンテロープ町([[:en:Antelope, Oregon|Antelope]])のはずれの農業指定地域に、農業以外の目的に土地を使用できず居住者も10名と定められている農場(放牧地)6万4,229エーカー(約2万5,900ヘクタール)を嘘の使用目的を伝えて購入し(農場を見つけたのはマ・アナンド・シーラ([[:en:Ma Anand Sheela|Ma Anand Sheela]])だが、購入目的はシーラ夫婦の引退後の生活のためだと説明されていた)、巨大な[[コミューン]]、「ラジニーシプーラム(ラジニーシの街)」の建設を始めた{{sfn|足沢|2000|pp=78-81}}。しかし、農業指定地域位置する宗教組織ラジニーシプーラムの存在も、行政が指定する人口以上の弟子を居住させることも法律違反であった{{sfn|足沢|2000|pp=78-81}}。地元の人々は、彼らがインドのアシュラムからの来訪者で、5,000人のメンバーの間で[[淋病]]や[[ヘルペス]]が発生しているという情報に悪い印象を持ち、不安を高めていった{{sfn|ロナルド・レーガン記念図書館}}。 |
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運動がピークを迎えた1976年頃には、年間3万人近くの西洋人がアシュラムを訪れ、世界規模の運動には2万5千人以上のサニヤシンが参加していた{{sfn|Goldman|2014|pp=176–194}}。当時の講話の聴衆は主にヨーロッパ人とアメリカ人だった<ref>{{harvnb|Wallis|1986|p=}}, reprinted in {{harvnb|Aveling|1999|p=143}}</ref><ref>{{harvnb|Mehta|1993|p=99}}</ref>。 |
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アメリカでは、沈黙を守るラジニーシに代わり、インド人女性でアメリカの就労権を持つシーラが中心的人物となった{{sfn|足沢|2000|pp=81-82}}。ラジニーシは大部分の弟子とほとんど接触しなくなり、プネー時代の側近もそれを不満に思い去っていった{{sfn|足沢|2000|pp=81-82}}。 |
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[[File:Flags at entrance to Rajneeshpuram.jpg|thumb|right|200px|ラジニーシプーラムの入り口]] |
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[[File:ReservoirDedicationStone.jpg|thumb|right|200px|教団員がラジニーシに奉げた石碑]] |
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アメリカで地方団体は、各州の憲法、制定法に基づいて設置される{{sfn|石村|1995|pp=343-344}}。 |
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1976年か1977年以降、運動の勧誘は停滞し、多くのサニヤシンが運動を去った{{sfn|Goldman|2014|pp=176–194}}。アメリカのスピリチュアル市場・自己実現の市場では競争が激化しており、欧米の経済は縮小し、[[エサレン協会]]の創始者のひとり{{仮リンク|ディック・プライス|en|Dick Price}}のように、[[ヒューマンポテンシャル運動]]の有力者の中には、オショー・ラジニーシのグループ・セラピーにおける暴力を公然と非難した者もいた{{sfn|Goldman|2014|pp=176–194}}。プライスは木製の武器を持った参加者たちと8時間部屋に閉じ込められ、腕を骨折してアシュラムから出てきたという<ref name=Carter62>{{harvnb|Carter|1990|p=62}}</ref>。エサレンの同僚バーナード・ガンサーはプネーでもっと上手く過ごし、瞑想と[[グループセラピー]]の写真と叙情的な文章を収録した『''Dying for Enlightenment''』という本を書いた<ref name=Carter62 />。 |
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ラジニーシプーラム市は教団にとっての「メッカ」とされ、世界中にいる信徒30万人(教団公表データ)のうち10万人を移住させることを計画していた{{sfn|石村|1995|pp=348-349}}。市中のほぼすべての建物が教団関連の不動産であり、市庁舎などの原則来訪自由であるはずの公的な建物も信徒以外が行き来することは困難だった{{sfn|石村|1995|pp=348-349}}。また、市の道路は赤い火山灰で舗装され、住民は全員赤とオレンジのユニフォームを着て太陽崇拝があらわされ、コミューンは礼拝所であり労働は礼拝であるとされ、警察活動を含む自治体の様々な行政活動は、礼拝所を管理するコーディネーターによって実質的に管理・運営されていた{{sfn|石村|1995|pp=348-349}}。コミューンの定款では「生活が、いかなる面においても、共有性のもとで共同生活を送る〔教祖〕バグワン・シュリ・ラジニーシ及び彼の従者の宗教的教えに導かれる宗教共同体」であるとされていた{{sfn|石村|1995|pp=348-349}}。ラジニーシプーラム市の市長はコミューン事務長、助役・出納長はコミューンの出納係、市議会議員は5名すべて信徒であり、保安隊長はシーラの夫であった{{sfn|石村|1995|pp=348-349}}。 |
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数ヶ月の瞑想とセラピーを「卒業」したサニヤシンはアシュラムで働くことを志願でき、その環境は、ロシアの神秘家[[ゲオルギイ・グルジエフ]]が1930年代にフランスで率いたコミュニティを意識的にモデルにしたものだった<ref name="Clarke466">{{harvnb|Clarke|2006|p=466}}</ref>。グルジエフから取り入れた重要な特徴は、過酷な無給労働と不快な性格の監督者であり、どちらも自己観察と超越の機会を刺激するように設計されていた<ref name="Clarke466" />。多くの弟子は何年もそこに留まることを選んだ<ref name="Clarke466" />。 |
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ラジニーシプーラム市には他の宗教の住民が住むことはできず、政治に信者が積極的に参加し宗教団体が行政を掌握しているが、こうした点が[[モルモン教]]と[[ソルトレイク市]]、[[天理教]]と[[天理市]]といった、宗教団体が公の政治参加を自制し、行政や住民との関係がそれなりに安定している宗教門前町と異なっている{{sfn|石村|1995|pp=379-383}}。 |
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オショー・ラジニーシの伝統宗教批判、聖者の色のローブを身にまとったサニヤシン達が市街で抱き合うなど、インドの公序良俗に反するあけすけな愛情表現を行ったこと、セックスを含むアシュラムの活動、各種の犯罪行為も誘引したこと等により、プネー市民のアシュラムへの感情、宗教界における評判は悪化し続けていた{{sfn|足沢|2000|p=77}}{{sfn|山下|2005|p=383}}。これに加えて、サニヤシンの間での[[薬物]]([[幻覚剤]])使用の疑惑がアシュラムの世評をさらに悪化させた<ref name="Paradise">Mitra, S., Draper, R., and Chengappa, R.: ''Rajneesh: Paradise lost'', in: ''India Today'', 15 December 1985</ref>。 |
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ラジニーシプーラム市と教団、関連団体の関係はかなり複雑で、ラジニーシのもとに構成された「ラジニーシ・エンパイア」は、非営利宗教財団であるラジニーシ国際財団(ラジニーシ・インターナショナル・ファウンデーション、RFI。目的:ラジニーシの教えの布教、本部:ラジニーシ市、ラジニーシが全額出資、理事長:シーラ)、ラジニーシ投資株式会社(RIC。本社:ラジニーシプーラム市、RFIが土地を現物出資し全株式を所有、代表取締役:シーラ)、ラジニーシ・ネオサンニヤーシンズ・インターナショナル・コミューン(教祖の教えの実践を目指した共有財産制に基づく宗教生活共同体。RFIがRICより[[リースバック]]を受けた資産を借り受けて運用)、ラジニーシプーラム市議会(コミューンがRFIからリースした資産の[[サブリース]]で構成)が中核となって構成され、財政関係・人的関係も非常に密接で重なり合っており、市の統治機構といち宗教団体に過ぎないラジニーシ教団の最高意思決定機関が完全に一体になっていた{{sfn|石村|1995|pp=349-352}}。 |
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セラピーの料金は西ヨーロッパの物価水準に合わせて設定されており、インドにおいては高額だった{{sfn|足沢|2000|p=75}}。アシュラムには実務に携わる上位のサニヤシンをようやく収容する程度の設備しかなく、一般信者は周囲のホテルや高級アパートに滞在していたが、これが弟子たちにとって大きな経済負担になり、第1期プネー当初に半分以下になっていたインド人サニヤシンのほとんどが去っていった{{sfn|足沢|2000|p=75}}。また、コレガオン・パーク地区は外国人の増加で家賃が急上昇し、欧米人のサニヤシンの中には、売春や麻薬の密売でインドに長期滞在する資金を捻出している疑いがある者もいた{{sfn|足沢|2000|p=75}}<ref name="JSG71">{{harvnb|Gordon|1987|p=71}}</ref><ref>{{harvnb|Sam|1997|pp=57–58, 80–83, 112–114}}</ref>。後に数人の人物が、オショー・ラジニーシは売春や麻薬の密売に直接的に関与してはいないものの、彼とダルシャンでそうした計画や活動について話し合い、祝福を受けたと語っている<ref name="JMF47">{{harvnb|Fox|2002|p=47}}</ref>。ムンバイの[[タージ・ホテルズ・リゾーツ&パレス|ホテル・タージ]]はサニヤシンの出入りを禁止しており、またプネー警察は、オショー・ラジニーシがアメリカに移った後、麻薬事件が激減したと報告している{{sfn|足沢|2000|p=75}}。 |
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[[File:1982 Osho driving.jpg|thumb|left|220px|ラジニーシが運転するロールスロイス]] |
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[[File:Air Rajneesh Big Muddy Ranch Airport Quackenbush.jpg|thumb|left|220px|ラジニーシプーラムに作られた空港(現ビッグマディランチ空港)。ラジニーシの自家用ジェット「エア・ラジニーシ」と書かれた[[コンベア240]]と[[ダグラス DC-3]]が停められている。]] |
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オショー=ラジニーシ運動には様々な著名人が関わり、運動はそれをアピールしているが、中でも特に有名な1970年代のインドの[[ヒンディー語]]映画界のスター{{仮リンク|ヴィノッド・カンナ|en|Vinod Khanna}}が、1974年に講話の音声テープをきっかけにアシュラムに出入りするようになった(後にアメリカに同行するために映画界からの引退し、その後復帰している){{sfn|Tiwary|2024|pp=152–188}}。インドの女優{{仮リンク|パルヴィーン・バビ|en|Parveen Babi}}や映画監督の{{仮リンク|マヘーシュ・バット|en|Mahesh Bhatt}}もオショー・ラジニーシの信奉者として知られていた<ref>{{Cite news|url=https://www.thequint.com/explainers/wild-wild-country-who-was-bhagwan-rajneesh-osho|title=The Glorious Rise & Scandalous Fall of 'Sex Guru' Osho|work=The Quint|access-date=3 August 2018|archive-url=https://web.archive.org/web/20180803194445/https://www.thequint.com/explainers/wild-wild-country-who-was-bhagwan-rajneesh-osho|archive-date=3 August 2018|url-status=live}}</ref>。(後にバビとバットは運動を離れ、インド人精神教師[[ジッドゥ・クリシュナムルティ]]の信奉者となった<ref>{{Cite web |date=2009-06-20 |title=THE MAN WHO REFUSED TO BE GOD|url=https://www.telegraphindia.com/opinion/the-man-who-refused-to-be-god/cid/621064|access-date=2024.12.15|author=Khushwant Singh|website=The Telegraph Online}}</ref><ref>{{Cite web |date=2015-04-07 |title=In Memory of the Woman Who Wanted Something Deeper than Success|url=https://www.newindianexpress.com/cities/bengaluru/2015/Apr/07/in-memory-of-the-woman-who-wanted-something-deeper-than-success-738976.html|access-date=2024.12.15|author=Khushwant Singh|website=The New Indian express}}</ref>。) |
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[[File:Rajneesh Buddhafield Transport Buses.jpg|thumb|left|220px|「ラジニーシ・ブッダフィールド・トランスポート」と書かれた黄色いバスの数々]] |
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プネーではサニヤシン達が、インドの様々な宗派のメンバーによるオショー・ラジニーシへの殺害予告の噂を流し、彼の精神的ストレスが増え健康状態がひどく悪化していると話していた{{sfn|Goldman|2014|pp=176–194}}。また、サニヤシンとアシュラムに反対するインド人との間で暴力事件が起きたという報告もあった{{sfn|Goldman|2014|pp=176–194}}。彼は1979年までに、世間の思い込みにうんざりし、健康状態も悪化し、講話の質は低下した<ref name="Aveling"/>。多くのオブザーバーは、彼の講話のスタイルが1970年代後半に変化し、知的な焦点が薄れ、聴衆に衝撃を与えたり楽しませることを目的とした[[エスニックジョーク]]や下品なジョークが増えたと指摘している<ref name="FF1-85">{{harvnb|FitzGerald|1986a|p=85}}</ref>。サニヤシンがダルシャンで質問をすることは奨励されなくなり、代わりに非常に演劇的な一連の「エネルギー・ダルシャン」が行われるようになった<ref name="Aveling"/>。アシュラムに来る西洋人の数は減少し、特にインド人の数は非常に減少した<ref name="Aveling"/>。 |
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アシュラムは1979年1月に「進化するスピリチュアルな共同体としてのアシュラムの総体的な[[コンテクスト]]の中で、暴力はその役割を全うした」という[[プレスリリース]]を発表し、グループセラピーでの暴力の終了が宣言された<ref name="JSG84">{{harvnb|Gordon|1987|p=84}}</ref>。1979年に、1968年の講義に基づく小冊子『セックスから超意識へ』が出版され、本書は世界中で大反響を呼び、彼の「セックス・グル」という評判を確固たるものにした{{sfn|Tiwary|2024|pp=152–188}}<ref name="HBU-2016-3"/>。1980年代からは、グループ・セラピーにおけるヌード、セックス、暴力は禁止されるようになった{{sfn|伊藤|2003|p=85}}。 |
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急激に成長した運動に対し、プネーのアシュラムは手狭だったため、彼はサニヤシンたちに自身とその教えを中心とする霊的・精神的共同体「ブッダフィールド」について語り、1970年代後半までに、もっと広い場所を探すよう命じた<ref name="FF1-85" />。インド各地のサニヤシンたちは土地を探し、グジャラート州カッチ県の1件、インド北部の山岳地帯の2件に目星をつけたが<ref name="FF1-85" />、インドのどの地方政府もコミューン設立を許可しなかった{{sfn|Goldman|2014|pp=176–194}}。アシュラムと[[モラルジー・デーサーイー]]首相の[[ジャナタ党]]政権との間の緊張は高まり、交渉は行き詰まり、移転拡大の計画は実行できなかった<ref name="FF1-85" />。土地利用の承認は拒否され、政府はアシュラム来訪を主な目的とする外国人観光客へのビザの発行を停止<ref name="FF1-85" /><ref>{{harvnb|Goldman|1991}}</ref>。1980年代には、プネー警察がアシュラムの不法滞在外国人の摘発を本格化した{{sfn|足沢|2000|p=77}}。摘発から逃れるために、当時インド滞在にビザが不要だったイギリス人サニヤシンと結婚してイギリスのパスポートを取得するサニヤシンもいた{{sfn|足沢|2000|p=77}}。 |
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インド政府は、オショー・ラジニーシ公認の売春、国際的な麻薬の密売、金の密輸、[[マネーロンダリング]]、脱税の疑いについて捜査した{{sfn|Goldman|2014|pp=176–194}}。サニヤシンたちはこれらの容疑のほとんどを常に否定してきたが、刑事捜査は運動と指導者たちにとって大きな障害になった{{sfn|Goldman|2014|pp=176–194}}。デーサーイー政権は、アシュラムが非営利団体であるにも関わらず約8千万ドルもの巨額の収入があることから、財務状況の調査を行い非課税資格を遡って取り消し、推定500万ドルの追徴課税を行った<ref name="LFC6364">{{harvnb|Carter|1990|pp=63–64}}</ref>{{sfn|伊藤|2003|p=75}}<ref name="HBU-2016-4"/><ref name="LFC6364"/>。オショー・ラジニーシがインドの様々な宗教指導者と対立してきたことが状況を悪化させ、1980年までにアシュラムは非常に問題視されるようになり、オショー・ラジニーシが[[インド国民会議]]派と1960年代から関係を持っていたにもかかわらず、同党の[[インディラ・ガンディー]]は政権復帰後にアシュラムのために仲裁することを拒んだ<ref name="LFC6364" />。1980年5月にオショー・ラジニーシは講演中に、ヒンドゥー教原理主義者の若者ヴィラス・トゥーペに命を狙われた<ref name="FF1-85" /><ref name="FF1-227">{{harvnb|FitzGerald|1986a|p=227}}</ref><ref name="retard">{{cite news |date=18 November 2002|url=http://timesofindia.indiatimes.com/articleshow/28605046.cms |title=First suicide squad was set up in Pune 2 years ago |newspaper=[[The Times of India]] |access-date=10 July 2011|url-status=unfit |archive-url=https://web.archive.org/web/20100819044604/http://timesofindia.indiatimes.com/articleshow/28605046.cms |archive-date=19 August 2010 |
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}}</ref>。トゥーペは、オショー・ラジニーシが[[CIA]]のエージェントだから攻撃したと主張している<ref name="retard" />(この暗殺未遂は演出されたものだという見解もある<ref name="Aveling"/>。)多宗教国家であるインドでは、宗教対立を引き起こしかねない「宗教的感情を踏みにじる意図で意図的かつ悪意に宗教または宗教の信仰を侮辱すること」は刑事犯罪であると法律で規定されており、政府はオショー・ラジニーシの動向を注視しており、彼の伝統宗教批判をこの法律に反するとして起訴の準備を進めた{{sfn|足沢|2000|p=77}}<ref>{{Cite web |date=2022.1.17 |title=Section 295. Injuring or defiling place of worship, with intent to insult the religion of any class.|url=https://www.indiacode.nic.in/show-data?abv=CG&statehandle=123456789/2490&actid=AC_CEN_5_23_00037_186045_1523266765688§ionId=46057§ionno=295&orderno=330&orgactid=AC_CG_61_334_00056_00056_1569320227809|access-date=2024.10.21|author= |website=INDIA CODE}}</ref>。 |
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;日本 |
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オショー・ラジニーシや[[ジッドゥ・クリシュナムルティ]]の書籍は日本でかなり出版されており、彼らをスピリチュアルな指導者と仰ぐ各々の教団やそのメンバーによって日本語に翻訳され、1970年代から継続して出版されている{{sfn|松本|2008|p=17}}。商業出版社から発売されているケースもあり、教団外にも一定の需要があったようである{{sfn|松本|2008|p=17}}。オショー・ラジニーシ(当時はバグワン・シュリ・ラジニーシ)は日本でも知られるようになり、若者を中心に信奉者が増えた{{sfn|井上|2019|p=26}}。1975年に日本でも講話録ニューズレターが発行された{{sfn|石村|1995|p=343}}。[[1977年]]に最初の邦訳講話録で、{{仮リンク|ティローパ|en|Tilopa}}による[[チベット密教]]の奥義{{仮リンク|マハームドラー|en|Mahamudra}}の教えやグルへの帰依{{sfn|足沢|2000|p=97}}について語った『存在の詩(うた)』が[[精神世界]]系の出版社[[めるくまーる]]より出版され、本書は1997年までの20年間だけでも、4万9千部売れた{{sfn|伊藤|1997}}という{{Refn|group="†"|なお翻訳家・著作家の[[吉福伸逸]]は、オショー・ラジニーシの思想は当初アメリカなどより日本の方が先行して広まっていたと述べており{{sfn|吉福|1987}}{{要ページ番号|date=2024年7月}}、それがアメリカの[[ニューエイジ]]/[[トランスパーソナル心理学|トランスパーソナル]]ムーブメントにおけるオショー・ラジニーシの引用の少なさを説明している、と考えている。引用例としては、例えばピーター・ラッセル 『グローバル・ブレイン』工作舎,1994年{{要ページ番号|date=2024年7月}}。}}。 |
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宗教学者の[[吉永進一]]によると、1960年代アメリカでの新しい霊性運動(当時は[[ニューエイジ]]という言葉はなく、[[オカルト]]やスピリチュアルといった言葉が一般的だった)に続き、日本でも1970年代半ばに、スプーン曲げの[[ユリ・ゲラー]]や[[古代宇宙飛行士説]]の[[エーリッヒ・フォン・デニケン]]、[[コリン・ウィルソン]]の『オカルト』等による[[オカルトブーム]]があり、当時はオショー=ラジニーシ運動のグループが新しい霊性運動の数少ない交流の拠点となっていた{{sfn|吉永|2002|p=172}}。吉永は、「ラジニーシの集団は[[対抗文化]]の名残を色濃く残していた」と述べている{{sfn|吉永|2002|p=172}}。社会学者の[[宮台真司]]は、日本ではカウンターカルチャー的なインドブームからオショー=ラジニーシ運動にスライドし、そこからさらに[[自己啓発セミナー]]に移行する人間が周囲には少なくなく、まさに「ポスト・カウンターカルチャー」と呼べる状況だったと語っている{{sfn|宮台|2008|p=440}}。[[アジア経済研究所]]の松本脩作は、「オーム(オウム)事件に象徴される日本社会内の既存宗教に入りきれない部分がこのような教団によって取り込まれているようである。」と評している{{sfn|松本|2008|p=17}}。 |
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===アメリカ オレゴン州 1981年 - 1985年 === |
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==== アメリカ到着 ==== |
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[[File:Osho Rajneesh 1.jpg|thumb|right|250px|1980年代]] |
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彼はインドという土地の神聖さを信じていると公言しており、インドという国への嫌悪感が増していたにもかかわらず、決して移住しないと決心していた{{sfn|Dempsey|2011|pp=76-107}}。しかし、プネーのアシュラムを取り巻く緊張の高まり、その活動への批判、インド当局による懲罰的措置の恐れから、1981年にアメリカに新しいコミューンを設立することを検討した<ref>{{harvnb|Wallis|1986|p=}}, reprinted in {{harvnb|Aveling|1999|p=147}}</ref><ref name="Lewis124">{{harvnb|Lewis|Petersen|2005|p=124}}</ref><ref>''Guru in Cowboy Country'', in: ''Asia Week'', 29 July 1983, pp. 26–36</ref>。スーザン・J・パーマーによると、アメリカへの移転は同国の[[就労権]]を持つシーラのプランだった<ref>{{harvnb|Palmer|1988|p=127}}, reprinted in{{harvnb|Aveling|1999|p=377}}</ref>{{sfn|足沢|2000|p=81}}。プネーの施設への一連の放火事件もあり、こうしたことからアメリカへの移転に向かった<ref name="HBU-2016-4"/>。なお、後に地元警察と{{仮リンク|刑事捜査課 (インド警察)|label=インド警察刑事捜査課|en|Criminal Investigation Department (India)}}は、放火事件は迫害の被害者というイメージ作りのための、教団内部による犯行の可能性が高いと結論付けている<ref name="HBU-2016-4"/>。 |
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1981年4月10日に、オショー・ラジニーシは15年近く毎日続けてきた講話を止めた<ref name="BM30-31"/><ref name=Joshi157-159/>。持病の喘息や糖尿病の悪化、腰を痛めたためとされるが、教団は言葉を使わずに彼の意思を理解できる弟子が十分増えたためと発表している{{sfn|伊藤|2003|p=75}}{{sfn|足沢|2000|p=78}}。彼は3年半の公の場での沈黙を自らに課し、講話に代わって、師と共に瞑想する{{仮リンク|サットサン|en|Satsang}}が行われ、「仏陀に帰依し奉る。[[法 (仏教)|法]]に帰依し奉る。[[僧]]に帰依し奉る」(「私は目覚めた者(ラジニーシ)に帰依する。私は目覚めた者のコミューンに帰依する。私は目覚めた者の究極の真理に帰依する」と解釈される)ガッチャミ(三帰依文)が唱えられ、[[ハリール・ジブラーン]]の『預言者』と[[イーシャー・ウパニシャッド]]も朗読された<ref name="BM30-31">{{harvnb|Mullan|1983|pp=30–31}}</ref><ref name=Joshi157-159>{{harvnb|Joshi|1982|pp=157–159}}</ref><ref name="Aveling"/>。アシュラムの運営とサニヤスを授与する権限は、長年教団のビジネスマネージャーであったマ・ヨーガ・ラクシュミー、senior English therapis のスワミ・アナンド・ティルタ、senior Indian scholar のスワミ・サティヤ・ヴェダントに委ねられた<ref name="Aveling"/>。同じ頃、マ・アナンド・シーラがラクシュミーに替わってオショー・ラジニーシの秘書となった<ref name=Gordon94>{{harvnb|Gordon|1987|pp=93–94}}</ref>。 |
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シーラとオショー・ラジニーシは1980年後半に、アメリカに新しいコミューンを設立するアイデアについて話し合い、彼が渡米に同意したのは1981年5月だった<ref name=Gordon94>{{harvnb|Gordon|1987|pp=93–94}}</ref>。同年6月1日、オショー・ラジニーシは40人の弟子と共に、表向きは医療目的で[[観光ビザ]]{{Refn|group="†"|サニヤシンのひとりに、伝説的な[[LSD (薬物)|LSD]]([[幻覚剤]])「オレンジ・サンシャイン」を製造した地下化学者[[ニコラス・サンド]]がおり、彼と共に「オレンジ・サンシャイン」を製造した{{仮リンク|ティム・スカリー|en|Tim Scully}}は、オショー・ラジニーシがアメリカのオレゴン州に移るための[[ビザ]]を用意したのはサンドだと述べている{{sfn|Dyck|Elcock|2023}}。}}を取得してアメリカに入った{{sfn|足沢|2000|p=78}}。これはプネーに残された弟子達には完全に秘密にされており、外務省専門調査員・インド文学研究者の[[足澤一成|足沢一成]]は、オショー・ラジニーシは出発直前の飛行機にロールス・ロイスで乗り付け、出国手続きやセキュリティーチェック等、出国に必要な工程を全て無視して強引に出国しており、彼への逮捕状が出るという情報を得ての逃亡であったと述べている{{sfn|足沢|2000|p=78}}。ニュージャージー州モントクレアのキップス・キャッスルにある教団のリトリート・センターで数か月過ごした<ref name="America">{{harvnb|Mistlberger|2010|p=[https://books.google.com/books?id=C6nUWy4UYocC&pg=PA88 88]}}</ref><ref name="NYT160981">{{Cite news|last=Geist |first=William E. |title=Cult in Castle Troubling Montclair |work=[[The New York Times]] |date=16 September 1981 |url=https://www.nytimes.com/1981/09/16/nyregion/cult-in-castle-troubling-montclair.html |access-date=27 November 2008 |url-status=unfit |archive-url=https://web.archive.org/web/20120423054925/http://www.nytimes.com/1981/09/16/nyregion/cult-in-castle-troubling-montclair.html |archive-date=23 April 2012 }}</ref>。 |
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オショー・ラジニーシは1981年初頭に[[椎間板ヘルニア]]と診断され、ロンドンから飛行機で駆けつけたセント・トーマス病院の筋骨格の専門医で硬膜外注射の専門家である{{仮リンク|ジェームズ・シリアックス|en|James Cyriax}}ら数名の医師による治療を受けた<ref name=Gordon94 /><ref name=Meredith308309 group="関係者" /><ref name="FF1-86">{{harvnb|FitzGerald|1986a|p=86}}</ref>。ラジニーシの元秘書のラクシュミーはジャーナリストの{{仮リンク|フランシス・フィッツジェラルド|en|Frances FitzGerald (journalist)}}に対し、「彼女(ラクシュミー)がラジニーシの求めに合った物件をインドで見つけることができなかったので、医療上の緊急事態が生じたことで主導権がシーラに渡った」と語っている<ref name="FF1-86" />。オショー・ラジニーシは教団運営の実権をシーラに委ねた{{sfn|伊藤|2003|p=75}}。シーラは公式声明で、オショー・ラジニーシがインドに留まると深刻な危険にさらされるが、手術が必要になればアメリカで適切な治療が受けられるだろうと述べた<ref name=Gordon94 /><ref name=Meredith308309 group="関係者">{{harvnb|Meredith|1988|pp=308–309}}</ref><ref name="JMF22">{{harvnb|Fox|2002|p=22}}</ref>。 |
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しかし、オショー・ラジニーシの病状は深刻だとされたにも関わらず、彼がアメリカ滞在中に教団外での治療を求めることはなかったため、移民帰化局は、最初から短期滞在ではなくアメリカに残留するつもりだったと判じた<ref name="FF1-86" />。彼は数年後に移民詐欺の罪を認めたが、渡米した際の最初のビザ申請書にアメリカ滞在について虚偽の記載をしたという容疑については、無罪を主張した<ref group="†">"His lawyers, however, were already negotiating with the United States Attorney's office and, on 14 November he returned to Portland and pleaded guilty to two felonies; making false statements to the immigration authorities in 1981 and concealing his intent to reside in the United States."(しかし、彼の弁護士はすでにアメリカ検察局と交渉しており、11月14日に彼はポートランドに戻り、1981年に移民当局に虚偽の陳述をしたことと、アメリカに居住する意図を隠したことの2つの重罪について有罪であると認めた。) ({{harvnb|FitzGerald|1986b|p=111}})</ref><ref group="†">"The Bhagwan may also soon need his voice to defend himself on charges he lied on his original temporary-visa application: if the immigration service proves he never intended to leave, the Bhagwan could be deported."(バグワンは、当初の短期滞在ビザの申請で嘘をついたという容疑について、すぐに弁明する必要に迫られるかもしれない。移民局が、バグワンが出国するつもりはなかったと証明すれば、バグワンは国外追放される可能性がある。) (''Newsweek'', [https://web.archive.org/web/20090710170848/http://www.nealkarlen.com/newsweek/bhagwan.shtml Bhagwan's Realm:] The Oregon cult with the leader with 90 golden Rolls-Royces, 3 December 1984, United States Edition, National Affairs Pg. 34, 1915 words, Neal Karlen with Pamela Abramson in Rajneeshpuram.)</ref><ref group="†">"Facing 35 counts of conspiring to violate immigration laws, the guru admitted two charges: lying about his reasons for settling in the U.S. and arranging sham marriages to help foreign disciples join him."(移民法違反の共謀罪35件に直面したグルは、アメリカに定住した理由について嘘をついたことと、外国人の弟子が運動に加わるのを助けるために偽装結婚を手配したことの2つの罪を認めた。) (American Notes, ''Time'', Monday, November 1985, available [http://www.time.com/time/magazine/article/0,9171,1050625-2,00.html here] {{Webarchive|url=https://web.archive.org/web/20090709072745/http://www.time.com/time/magazine/article/0,9171,1050625-2,00.html |date=9 July 2009 }})</ref>。 |
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師のそばで暮らすために全てを投げ打ってきたプネーのサニヤシン達は、師を追ってアメリカに移住するか、可能なら故郷に戻るしかなかったが、プネーのサニヤシンの80%以上はアメリカ出身ではなく、よってアメリカでの労働ビザを取得する資格がなかった<ref name="Aveling"/>。ジェームス・S・ゴードンは、サニヤシン達の混乱、悲嘆、怒り、当惑を描写しており、サニヤシンは世界中におそらく4万人いたが、ゴードンの研究によると、唐突なアメリカへの移転後に1万人から1万5千人が辞めている<ref name="Aveling"/>。残った人々は去った人々より従順だったと考えられる<ref name="Aveling"/>。 |
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==== ラジニーシプーラム設立 ==== |
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1981年6月13日、シーラの夫ジョン・シェルファーはオレゴン州の荒れ地を575万ドルで購入する売買契約書に署名し、数日後にその土地をアメリカの財団(教団組織)に譲渡した。その土地は64,229エーカー(東京23区の面積に相当)の牧場で、以前は「ビッグマディ農場」として知られ、[[ワスコ郡]]と[[ジェファーソン郡 (オレゴン州)|ジェファーソン郡]]にまたがっていた<ref name=Carter133>{{harvnb|Carter|1990|p=133}}</ref>{{sfn|伊藤|2003|p=76}}。土地は羊の過放牧で荒廃して何年も放置され、ほぼ完全に不毛の土地だった{{sfn|Dempsey|2011|pp=76-107}}。教団のアメリカでの活動のためにこの農場を見つけたのはシーラで、農場購入の際には、自分たち夫婦の引退後の生活のためだと説明していた{{sfn|足沢|2000|p=81}}。教団は土地の代金を不動産業者に払っていなかった{{sfn|足沢|2000|p=80}}。 |
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農場は「ラジニーシ農場(ランチョ・ラジニーシ)」と改名され、オショー・ラジニーシは8月29日にそこに移った<ref name=Carter136138>{{harvnb|Carter|1990|pp=136–138}}</ref>。ビッグマディ農場は農業用地に指定されており、農業以外の目的での利用はできず、移住者も10人に限定されていたが、教団はこれを無視して「ブッダフィールド」の建設を始め、[[トレーラーハウス]]を持ち込み、数百人のサニヤシンが違法に定住し、労働奉仕によって違法に施設の建設を行い、「ラジニーシ(満月の王)の聖なる都」を意味する「ラジニーシプーラム」を作っていった{{sfn|足沢|2000|pp=78-80}}<ref name="Gietz">{{harvnb|Gietz|2006}}</ref>{{sfn|Goldman|2014|pp=176–194}}。シーラは隣接するアンテロープ町の人々に、40人程度の小さな農業コミュニティを作るつもりだと説明していた<ref name="Aveling"/>。 |
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教団のオレゴンへの移転の決定は、牧場が比較的安価だったことと、この場所を選んだシーラが、オレゴン州の人は皆[[マリファナ]]を吸い、隣人に無頓着で寛容なリベラル派が占めていると勘違いしていたためだと巷で言われているが、ワスコ郡は彼女が想像するほど暢気な場所ではなかった{{sfn|Goldman|2014|pp=176–194}}。当初の地元コミュニティの反応は、牧場からの距離によって、敵対的なものから寛容なものまで様々だった<ref>{{harvnb|Abbott|1990|p=79}}</ref>。別の調査によると、この開発は間髪入れずに、政府、マスコミ、市民による地元、州、連邦の激しい反対を受けたと報道された<ref name="CL339341" />。農場がラジニーシ教団によって使われ、教団がメンバーによる百万都市建設を計画していることを知った地域住民や自然保護団体は、反対運動を開始した{{sfn|足沢|2000|p=79}}。教団がこの地に到着して1年の内に、オショー・ラジニーシとその信奉者たちは近隣住民との一連の法廷闘争に突入し、主な争点は土地利用に関するものだった<ref name="CL339341"/>。コミューンの指導者は妥協せず、地元住民への対応では性急な苛立った振る舞いを見せ<ref name=Abbot78 />、意識変容を目指すことを自負して優越的な態度で接した{{sfn|伊藤|2003|p=77}}。また要求を通すことに固執し、暗に脅迫したり、直接的に対立するような行動を取っていた<ref name=Abbot78 />。彼らが発表する計画の内容は何度も変更され、真意がどうであれ、多くの人には意図的な誤魔化しに見えた<ref name=Abbot78>{{harvnb|Abbott|1990|p=78}}</ref>。多くの地元民は、新しくやってきた型破りなコミュニティにかなり寛容であったという報告もあり、ラジニーシプーラムと地元住民の対立が本格化したのは、コミューンの違法な住民の爆発的増加のためではなく、土地の問題と、ラジニーシプーラムの境界外の不動産に対するサニヤシン達の野心のためであった{{sfn|Dempsey|2011|pp=76-107}}。 |
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[[File:Flags at entrance to Rajneeshpuram.jpg|thumb|right|200px|ラジニーシプーラムの入り口]] |
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[[File:ReservoirDedicationStone.jpg|thumb|right|200px|「バグワン・シュリ・ラジニーシ」に奉げられた石碑]] |
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[[File:Oregon Rajneeshpuram.jpg|thumb|right|220px|ラジニーシプーラム(1982年)]] |
[[File:Oregon Rajneeshpuram.jpg|thumb|right|220px|ラジニーシプーラム(1982年)]] |
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[[File:1983 festival at Rajneeshpuram.jpg|thumb|right|220px|ラジニーシプーラムでの祭りの様子(1983年)]] |
[[File:1983 festival at Rajneeshpuram.jpg|thumb|right|220px|ラジニーシプーラムでの祭りの様子(1983年)]] |
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[[File:Walt Whitman Grove.jpg|thumb|right|220px| |
[[File:Walt Whitman Grove.jpg|thumb|right|220px|ラジニーシプーラムに建設された三角屋根のゲストハウス]] |
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ラジニーシプーラム最盛期、ラジニーシは[[ロールス・ロイス]]に乗ってラジニーシプーラムを回り信者に顔見世をするようになり、この視察のためという名目で90台以上のロールス・ロイスを購入し、「ロールス・ロイスの第一人者」として有名になった{{sfn|足沢|2000|p=82}}。 |
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アメリカで教団の監督はシーラが行っており、彼女の元で教団はより閉鎖的になっていった{{sfn|足沢|2000|p=81}}。[[伊藤雅之]]は、運動は元々緩やかなネットワークだったが、オショー・ラジニーシ自身も閉鎖性・統制性が強まる流れを半ば容認する形で運動が展開し、組織の中央集権化と制度化の流れが進み、確固としたヒエラルキーを持つ宗教組織に変わっていったと述べている{{sfn|伊藤|1999|p=16}}{{sfn|伊藤|2003|p=76}}{{sfn|伊藤|2003|pp=81-82}}。1981年10月には、ビッグマディ農場はラジニーシプーラム市として法人化された<ref name="WRSP">{{Cite web |date=2022.1.17 |title=Osho/Rajneesh|url=https://wrldrels.org/2016/10/08/oshorajneesh/|access-date=2015.1.2|author= Marion Goldman|website=WRSP}}</ref> |
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ラジニーシは、「96台のロールスロイスが必要な理由など全くない。アメリカ全体にあらゆる超大金持ちのあいだに嫉妬をかきたて、もし彼らに十分な知性があったなら、私の敵になるよりはむしろ、私の所に来て自分の嫉妬を落とす方法を見つけようとしただろう。嫉妬こそが彼らの問題だ」と語った<ref>{{Cite book|author=マ・プレム・シュンニョ|title=和尚と過ごしたダイアモンドの日々|date=1994年9月21日|year=|publisher=和尚エンタープライスジャパン株式会社}}---p165-p166</ref>。 |
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1981年12月5日に「ラジニーシズム(Rajneeshism)」は組織的な宗教であると宣言され、1983年7月に出版された小冊子『ラジニーシズム : バグワン・シュリ・ラジ二ーシとその宗教の紹介』で彼の教えが経典化され、教団における聖職者の資格とガイドラインが規定された<ref name="Aveling"/>{{sfn|伊藤|2003|p=76}}。正式な教会構造には3つのカテゴリーの聖職者があり、朝夕にオショー・ラジニーシと教団への帰依を示すガッチャミ(三帰依文)を唱える儀式が行われ、このガッチャミも小冊子に収録されていた<ref name="Aveling"/>{{sfn|伊藤|2003|p=76}}。ガッチャミの儀式は各国の瞑想センターでも行われた{{sfn|伊藤|2003|p=76}}。 |
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信者たちは、永住者・長期滞在者・訪問者に、またセーフセックスのために部外者・エイズ検査済み・未検査者に分けられ、リストバンドをつけて管理された{{sfn|伊藤|1999|p=15}}{{sfn|足沢|2000|pp=81-82}}。体のいい強制労働収容所ではないかという批判があったが、ラジニーシ自身は、人類が滅亡するか、ブッダ(覚醒者)となり新たな存在として飛躍するかの分岐点にあたる偉大な実験であると考え、この共同体を覚醒のための共同体「ブッダフィールド」と呼んでいた{{sfn|Puttick|2009|p=268}}。 |
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教団は、非常に権威主義的で厳しく統制された、階層的で偏執的な組織になった<ref name="HBU-2016-4"/><ref name="Aveling"/>。ラジニーシプーラムのメンバーは、永住者、長期滞在者、訪問者に分かれていた{{sfn|伊藤|2003|p=70}}。プネーに引き続き非公式の階層構造もあり、永住者は、エリート(オショー・ラジニーシに近い)、技術専門家、「歩兵(単純労働者)」に分けられていた<ref name="Aveling"/>。訪問者は、部分的なインサイダーであるサニヤシン、シーカー(探求者)、アウトサイダー(観光客、侵入者、オレゴンのコミュニティ)という3つのグループがあった<ref name="Aveling"/>。オレゴンのサニヤシン達は各国の瞑想センターを訪ねては、ラジニーシプーラムへの寄付を強く求めるようになった{{sfn|伊藤|2003|p=77}}。オレゴン以外の世界中でも運動の中央集権化と標準化が進み、各国で独自に運営されていた瞑想センターを再編して各国に大規模なコミューンを作ることを求めた{{sfn|伊藤|2003|p=77}}。日本でも1985年には各地の瞑想センターが閉鎖され、約110人が個人財産を処分して東京に作られたコミューンで暮らし始めた{{sfn|伊藤|2003|p=77}}。瞑想センターと直接関わらないサニヤシンも少なくなかったが、「サレンダー(明け渡し)が足りない」と批判され、コミューンに早く入ることを求められ、コミットメントの足りない、運動のヒエラルキーの下位の存在と位置付けられるようになった{{sfn|伊藤|2003|p=77}}。このような動きに反発し、世界中で半数近くのメンバーが離脱したと言われる{{sfn|伊藤|2003|p=77}}。 |
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アメリカでラジニーシは、親しい弟子たちの小さな内部集団に囲まれ、また囲ませ、信者と距離を取ることで、親しみを抑制し、権威が高められた{{sfn|脇坂|2000}}。ペンシルバニア大学の[[伊藤雅之]]は、ラジニーシ自身も閉鎖性・統制性が強まる流れを半ば容認する形で、運動が展開していったと述べている{{sfn|伊藤|1999|p=16}}。[[File:Rajneesh City (Antelope).jpg|thumb|left|220px|「ラジニーシ市」の看板(1985年)]] |
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[[File:1982_Annual_Report_of_the_Community_Relations_Service.pdf|thumb|left|220px|ラジニーシ信者の地域社会局([[:en:Community Relations Service|Community Relations Service]])年報の写真、対立の様子。1982年]] |
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[[File:AntelopePlaque.jpg|thumb|left|220px|アンテロープ町の旗竿のベース部分に取り付けられたラジニーシ教団への抵抗運動の記念額。「1981 - 1985年のラジニーシ教団の侵略と占領に抵抗し、記憶に刻まれたこのコミュニティの人々に捧げる」と書かれている。]] |
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コミューンは、4,000人もの住民と15,000人もの訪問者があり、独自のインフラと独自の行政を持ち、警察機構さえも持つ、ほぼ自給自足のコミュニティ組織に発展した<ref name="Gietz"/>。ラジニーシプーラムは「砂漠をオアシスに変える」ことを目指しており、初年度に2,000万ドルから3,000万ドルを費やし、アメリカ史上最大の、最も発達した、最も裕福な宗教共同体の実験の1つとなった{{sfn|Dempsey|2011|pp=76-107}}。 教団は荒廃したラジニーシプーラムの土地の整備のために、作られて2年ほどで劇的な変化を遂げ、1980年代半ばの絶頂期には、アメリカで最も大きく、最も発展した、最も豊かな宗教共同体、共同体実験の1つとなった{{sfn|Dempsey|2011|pp=76-107}}{{sfn|Urban|2011|pp=369–382}}<ref name="HBU-2016-4"/>。節水、[[リサイクル]]、[[有機農業]]のプログラムを実施する非常に進歩的な社会実験として始まり、約2,700エーカーが耕作され、作物、ブドウ園、果樹園、ハーブ園、家畜の飼料が育てられ、鳥や動物も戻り始めた{{sfn|Dempsey|2011|pp=76-107}}{{sfn|Urban|2011|pp=369–382}}<ref name="HBU-2016-4"/>。ラジニーシプーラムの土地の開発計画には、節水、自給自足、環境に配慮した戦略が盛り込まれていた{{sfn|Dempsey|2011|pp=76-107}}。サニヤシン達は土地の浸食を食い止めるために何千本もの木を植え、土地の浸食を止め、小川の底を整え、水の流れを緩やかにするために140の[[砂防堰堤]]を造った{{sfn|Dempsey|2011|pp=76-107}}。グルジェフ・ダムは45エーカーのクリシュナムルティ湖を作り、3億5,000万ガロンの水を貯め、地下パイプで近隣の畑に送ることができた{{sfn|Dempsey|2011|pp=76-107}}。廃棄物の75%は敷地内のリサイクル工場で再利用された{{sfn|Dempsey|2011|pp=76-107}}。化学肥料の使用を最小限に抑えるために[[輪作]]を試み、農薬の必要性を減らすために野菜と花が交互に植えられていた{{sfn|Dempsey|2011|pp=76-107}}。農場、養鶏場、牧場があり、住民が食べる農産物、牛乳と卵のすべてを生産していた{{sfn|Dempsey|2011|pp=76-107}}。 |
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====ラジニーシ市の成立と対立の激化==== |
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1982年3月に一部の信者が隣接するアンテロープ町に移り、教団による乗っ取りを恐れた町民たちは町を廃止してワスコ郡の直轄地にしようと住民投票を行ったが、すでに信者の数が元々の住民の数を上回ってしまっており、乗っ取りを防ぐことはできなかった{{sfn|石村|1995|p=347}}。町名は「ラジニーシ市」に変えられ、ラジニーシプーラム市の姉妹都市とされ、首長・教育委員長などの要職が次々に信者に変わり、町全体で徹底した「ラジニーシ化」が進められた{{sfn|石村|1995|p=347}}。 |
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インドのアシュラムと同様に、ラジニーシプーラムでは、瞑想コース、食事、宿泊などが有料で提供される一方、若者たちは厳しく階層的に組織され、無給でコミューン建設の奉仕活動を行った<ref name="Gietz"/>。コミューン建設の奉仕活動は「ワーク」「礼拝(worship)」と呼ばれ、アメリカ時代の教団におけるサニヤシンたちの活動の中心となった{{sfn|足沢|2000|pp=78-79}}<ref name="Aveling"/>。長期にわたりワークを行った者のみ生活費を受け取る資格があり、サニヤシンにとってワークは生活のための仕事ではなく、瞑想であり、「それ自体が目的」であり、「自分自身と出会う機会」であると見なされていた<ref name="Gietz"/>。ラジニーシプーラムの土地の劇的な成果は、サニヤシンたちの常人離れした献身によるものであり、記者がコミューンのツアーガイドから聞いた話によると、サンニヤシン達は1日12時間から16時間、修行として、遊びとして、進んで働いていた{{sfn|Dempsey|2011|pp=76-107}}。週6日働き、日曜日だけは休みだったが、その日は会議が行われた{{sfn|Dempsey|2011|pp=76-107}}。 |
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地域の役所を教団内に移転したが、住民の出入りは制限し、こうした非教団員への差別行為を住民に何度も起訴され、裁判で負け続けた{{sfn|足沢|2000|pp=79-80}}。アメリカ以外の国籍の弟子たちは長期滞在のために、アメリカ国籍の弟子と偽装結婚するようになり、ラジニーシは自身の短期滞在ビザを宗教家のビザに切り替えるようアメリカ政府へ要求したが、叶わなかった{{sfn|足沢|2000|pp=79-80}}。 |
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サニヤシン達は近隣の人々と日常的交流のない孤立した生活を送っていた{{sfn|伊藤|2003|p=70}}。生活に必要なものはコミューン内で調達し、彼らは外部との接触を禁止され、手紙や電話は検閲されていたようであり、外部の情報は教団による公式発表だけだった{{sfn|足沢|2000|p=81}}。また、世界的なエイズの影響で、セックスの際には医療用ゴム手袋とコンドームの使用がルール化され、エイズ・テストが行われ、ラジニーシプーラムに来た者は、部外者・未テスト者・テスト済みというリストバンド着用が義務化された{{sfn|足沢|2000|p=82}}。教団にとって自由な性愛というテーマは重要であったと思われ、エイズをこれほど恐れても教団がセックスを捨てることはなかった{{sfn|足沢|2000|pp=92-93}}。 |
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教団は路上生活者を利用して票を確保し弟子を裁判官にしようとするなど、司法分野にも手を伸ばした{{sfn|足沢|2000|pp=80-81}}。 |
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メンバーはラジニーシプーラム以外にも、アシュラム、ベジタリアン・レストラン、ディスコ、および様々な小規模ビジネスを世界中に設立し、これらはすべて、100万ドル規模の組織であるラジニーシ・サービス・インターナショナルとして組織されていた<ref name="Gietz"/>。教団は、アメリカでの活動開始からわずか4年で事業として目覚ましい成功を収め、収益は約1億2千万ドルに上った{{sfn|Urban|2011|pp=369–382}}<ref name="HBU-2016-4"/>。 |
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教団の行動、特に新宗教団体による「門前町作り」は注目を集めて新聞やテレビで大きく取り上げられ、世論の反発は激しさを増し、ラジニーシ市にある教団所有のビルが爆破され、1983年7月にはポートランドのラジニーシのホテルが爆破された{{sfn|石村|1995|p=352}}。教団は、常駐警察もいなかった平和だった田舎にメンバーによる独自の警察を作って合法化し、機関銃などで武装し、熱心に武器を集めるようになった{{sfn|足沢|2000|pp=79-80}}{{sfn|伊藤|1999|p=16}}。 |
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[[File:Rajneesh City (Antelope).jpg|thumb|left|220px|「ラジニーシ市」の看板(1985年)]] |
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ラジニーシプーラム市の警察活動を含む自治体の様々な行政活動は、コーディネーターによって実質的に管理・運営されていた{{sfn|石村|1995|pp=348-349}}。ラジニーシプーラム市の市長はコミューン事務長、助役・出納長はコミューンの出納係、市議会議員は5名すべてサニヤシンであった{{sfn|石村|1995|pp=348-349}}。 |
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ラジニーシ教団について全米で放送され、オレゴン州政府の対応に注目が集まり、次第に州政府が対応せざるを得ない状況になっていった{{sfn|石村|1995|p=352}}。アメリカの憲法では、「宗教団体が自治体の形態をとる」ことは認められず、このような自治体に交付税、贈与税の交付を含む財政上の助成や補助を行うことは、納税者にとって信徒でもないのに献金を強要されるに等しく、違憲である{{sfn|石村|1995|pp=379-380}}。1984年3月、オレゴン州法務長官デイビット・B・フローンマイヤー([[:en:David B. Frohnmayer|David B. Frohnmayer]])は州を代表し、ラジニーシプーラム市及び同市の公務員及び住民等を被告とし、ラジニーシの宗教的基盤と市の運営の関係が[[アメリカ合衆国憲法修正第1条]]の国教樹立の禁止条例、[[政教分離]]原則に反しており、ラジニーシプーラム市の設立は無効であるとして訴えた{{sfn|Olsen|2018}}{{sfn|奥村|1996}}{{sfn|Manuto|1987}}{{sfn|石村|1995|p=352}}。 |
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[[File:Rajneesh Buddhafield Transport Buses.jpg|thumb|left|220px|「ラジニーシ・ブッダフィールド・トランスポート」と書かれた黄色いバスの数々]] |
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オショー・ラジニーシは沈黙を続けており、朝6時に起き、1時間半「風呂を楽しみ(enjoying the bathtub)」、仲間の所へ車で出かけ、昼食をとり、また寝て、起きて1時間車を運転し、「何もせず」座り、また風呂に入り、食事をし、秘書と会い、また寝る、というルーティーンを繰り返していた<ref name="Aveling"/>。絶えずビデオを観て、抗不安薬の[[ジアゼパム]]と[[亜酸化窒素]](笑気ガス)を大量に摂取した<ref name="Aveling"/>。アメリカでは、サニヤシンがオショー・ラジニーシに接見するダルシャンは中断され{{sfn|足沢|2000|p=91}}、「ワーク」を行うサニヤシン達の中には彼に直接接する機会がない事への不満が膨らんでいった{{sfn|足沢|2000|p=82}}。その解消のために、オショー・ラジニーシは[[ロールス・ロイス]]に乗って、視察の名目でラジニーシプーラム内を一周するようになり、教団はこのために次々ロールス・ロイスを購入し、アメリカ時代にオショー・ラジニーシが所有するロールス・ロイスは90台以上に及んだ{{sfn|足沢|2000|p=82}}。また宝石をちりばめた高級腕時計を何百本も所有していた<ref name="Aveling"/>。サニヤシンが彼に接する機会が全くなくなったことで、1982年からは第1期プネー時代からのメンバーはラジニーシプーラムを去り始めた{{sfn|足沢|2000|p=82}}。 |
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コミューンの活動は注目を集めて新聞やテレビで大きく取り上げられ、世論の反発は激しさを増した。地元住民との対立は激化し、双方の敵意はさらに深まり、その後数年間、ラジニーシプーラムはオレゴン州の住民の様々な連合から絶え間ない組織的圧力を受けた<ref name="CL339341"/><ref name="CNR215">{{harvnb|Carter|1987|p=}}, reprinted in {{harvnb|Aveling|1999|p=215}}</ref>。民間の非営利団体{{仮リンク|1000フレンズ・オブ・オレゴン|en|1000 Friends of Oregon}}がすぐに始められ、ラジニーシプーラムの法人化を無効にし建物や改築した設備を撤去させるために、その後6年間に渡って多くの訴訟・行政訴訟を起こした<ref name="CL339341" /><ref name=bend>{{cite web | url = https://www.scribd.com/doc/301352730/Grote-25-Dec-81-Bnd-Bull | title = 1000 Friends Challenges Rajneeshpuram Incorporation | publisher = Bend Bulletin | access-date = 6 March 2016 | archive-url = https://web.archive.org/web/20160307115032/https://www.scribd.com/doc/301352730/Grote-25-Dec-81-Bnd-Bull | archive-date = 7 March 2016 | url-status=live | df = dmy-all }}</ref><ref name="CNR215"/>。1000フレンズは公に、ラジニーシプーラム市を「解体」することを求め、1000フレンズの弁護士は、1000フレンズが勝利した場合、財団は「下水システムを撤去し、多くの建物を取り壊さざるを得なくなる」と述べた<ref name = marshall>{{cite journal |last= Sullivan |first= Edward|title= The Quiet Revolution Goes West: The Oregon Planning Program 1961–2011 |journal= Marshall Law Review |publisher= Marshall University|volume= 45 |pages= 362–364}}</ref><ref name="Abbot78"/>。 |
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隣町のアンテロープは人口約39人の田舎の村で、主に保守的な高齢者が住んでおり、郵便局、雑貨店とガソリンスタンドが一体となった店と、小学校があるだけだった<ref name="Aveling"/>。1982年3月に一部のサニヤシンがアンテロープ町に移り、教団による乗っ取りを恐れた町民たちは町を廃止して[[ワスコ郡]]の直轄地にしようと住民投票を行ったが、教団はアメリカ国籍を持つサニヤシン達を正式に住民登録し、すでにサニヤシンたちの数が元々の住民の数を上回っており、乗っ取りを防ぐことはできなかった{{sfn|石村|1995|p=347}}{{sfn|足沢|2000|p=79}}。1982年5月にアンテロープ町をラジニーシプーラム市に編入する決議がなされ<ref name="CL339341">{{harvnb|Latkin|1992|p=}}, reprinted in {{harvnb|Aveling|1999|pp=339–341}}</ref>、その後の数か月でラジニーシプーラムと地元住民たちの間の対立はエスカレートした{{sfn|Dempsey|2011|pp=76-107}}。サニヤシン達はアンテロープの住人を「田舎者」や「無知な老人」と公然と非難し、彼らの写真を撮り、町の集会をビデオに撮り、町の境界線を越えた車のナンバーを記録したが、これは嫌がらせだと捉えられていた{{sfn|Dempsey|2011|pp=76-107}}。土地利用や学校教育等に関する合意形成を試みていたサニヤシン達も、アンテロープの住人との約束を繰り返し破り、サニヤシンが支配する新しい市議会は、地元住民が承認しない都市改善のために年間1,200ドルの税金を課した{{sfn|Dempsey|2011|pp=76-107}}。こうしてアンテロープの元々の住民のほとんどは町を去ったが、ラジニーシプーラムのスポークスマンは、地元の敵意と住民の逃亡は偏見と宗教的不寛容によるものだと主張した{{sfn|Dempsey|2011|pp=76-107}}。 |
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====サルモネラ菌を使用したバイオテロ==== |
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シーラは[[サルモネラ菌]]を秘密裏に培養し、1984年に郡庁のあるザ・ダルズのレストランで10カ所のサラダバーにサルモネラ菌を噴霧し、751人が体調不良になり、45人が入院したが、事件当時は集団食中毒だと考えられていた。のちの警察の調査で教団の選挙妨害計画の実験、[[ラジニーシ教団によるバイオテロ|サルモネラ菌を使ったバイオテロ]]という結論が出ている{{sfn|足沢|2000|pp=80-81}}。この事件は近年のアメリカ史上最大の生物攻撃だと言われる{{sfn|アップス|2017}}。サルモネラ菌はラジニーシプーラムを視察に来た郡の委員二人にも使用されたという{{sfn|足沢|2000|pp=80-81}}。 |
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サニヤシン達はラジニーシプーラムの土地に様々な名前を付けることで入植者としての権利意識を示したが、アンテロープの町は、放棄されていたラジニーシプーラムとは異なり元々の住人がおり、命名行為は侵略的なものとなった{{sfn|Dempsey|2011|pp=76-107}}。サンニヤシン達は1984年にアンテロープ市議会を掌握し、多くの元々の住民が去った後、市議会はアンテロープの通りの名前を変更することを決議した{{sfn|Dempsey|2011|pp=76-107}}。もともと牧場主、インディアンの戦士、材木王にちなんで名付けられていた通りには、教団にとって重要な聖人や賢者の名前が付けられた{{sfn|Dempsey|2011|pp=76-107}}。そして1984年末までに、サンニヤシン達はアンテロープという町の名前自体をラジニーシに変えた{{sfn|Dempsey|2011|pp=76-107}}。ラジニーシプーラム市の姉妹都市とし、首長・教育委員長などの要職は次々にサニヤシンたちに変わり、町全体で徹底した「ラジニーシ化」が進められた{{sfn|石村|1995|p=347}}{{sfn|足沢|2000|p=79}}。アンテロープは元々常駐警察もいない、平和な田舎町だったが、教団はサニヤシン達による独自の警察組織を作ってそれを合法化し、機関銃等で武装した{{sfn|足沢|2000|p=79}}。地域の役所はラジニーシプーラム内に移転されたが、信者以外の地域住民がラジニーシプーラムに入る際には、特別な手続きが必要で、不便を強いられた住民は、こうした手続きを非教団員差別と受け止めた{{sfn|足沢|2000|p=80}}。住民はこれらの問題で何度も教団を起訴し、教団は敗訴し続けた{{sfn|足沢|2000|p=80}}。 |
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観光ビザで入国していたサニヤシン達は、滞在し続けるために、アメリカ国籍を持つサニヤシンと偽装結婚するようになった{{sfn|足沢|2000|p=80}}。政府は1982年にはこの問題の調査を始めており、100名ほどに国外退去を命じた{{sfn|足沢|2000|p=80}}。オショー・ラジニーシ自身のビザも短期滞在のためのもので、彼はそれを宗教家としてのビザに切り替えることをアメリカ政府に求めていたが、要求は拒否され、1983年に国外退去が命じられた{{sfn|足沢|2000|p=80}}。しかし、司法分野での経歴を持つサニヤシンが命令の不備を指摘し命令は無効になり、オショー・ラジニーシは引き続きアメリカに滞在することが可能になった{{sfn|足沢|2000|p=80}}。 |
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====FBIの捜査から逃亡、逮捕、国外追放へ==== |
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ラジニーシは再び講話を行うようになり、弟子たちに話すようになった{{sfn|足沢|2000|pp=82-83}}。その内容にはシーラ批判が含まれていたようである{{sfn|足沢|2000|pp=82-83}}。1985年にシーラはアメリカ政府による逮捕が確実という情報を受けて西ドイツに去り、ラジニーシは彼女が去った翌日記者会見を開き、シーラが数百万ドルを盗み、彼と数人のネオ・サンニヤーシン、地元の政治家を殺害しようと企てたと非難し、彼らは自分の信奉者ではなく旅の同行者に過ぎないと主張して、ラジニーシ運動のグルとしての役割を否定した{{sfn|Davisson|2013}}。 |
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==== 1984年のラジニーシ教団によるバイオテロ ==== |
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ラジニーシは活動の責任はすべてシーラにあるとインタビューなどで語っていた{{sfn|足沢|2000|pp=82-83}}。しかし、そう主張したからと言って、アメリカ政府の追及を逃れられるわけでもなく、ラジニーシも逮捕を予想して85年にアメリカ国外の南へ立とうとした{{sfn|足沢|2000|pp=82-83}}。インド脱出同様、同行する側近以外の信者は何も知らされなかった{{sfn|足沢|2000|pp=82-83}}。燃料補給に寄ったノース・カロライナ州の空港でラジニーシは逮捕された{{sfn|足沢|2000|pp=82-83}}。彼らは逮捕時に、6万ドルほどの現金と100万ドル相当の宝石、高級腕時計、拳銃を持っていた{{sfn|足沢|2000|pp=82-83}}。シーラは西ドイツで、シーラと対立していたラジニーシの主治医デヴァラジ(大量の薬物をラジニーシに処方していた人物)の殺人未遂・55億ドルの横領・近隣レストランでのサルモネラ菌の使用・ラジニーシとその世話人の部屋の盗聴・公共施設の放火・移民法違反の容疑で逮捕された{{sfn|足沢|2000|pp=82-83}}{{sfn|伊藤|1999|p=16}}。サルモネラ菌を使ったバイオテロ事件では、シーラとサルモネラ菌製造の中心だったマ・アーナンダ・プジャ(ダイアン・イヴォンヌ・オナン)が主犯として逮捕され、懲役20年の実刑判決を受け服役した{{sfn|James & Oroszi|2015|p=44}}。シーラはバイオテロ事件で有罪を認めている{{sfn|AP NEWS|1990}}。[[司法取引]]を行い、司法取引で偽装結婚教唆の罪を認め、ラジニーシはシーラが問われた殺人未遂等の容疑との関係は問われなかった{{sfn|足沢|2000|pp=82-83}}。弟子の多くはラジニーシ・プラム終焉で離れていった{{sfn|Puttick|2009|p=270}}。 |
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{{main|ラジニーシ教団によるバイオテロ事件}} |
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教団は司法分野に手を伸ばすことを試み、1984年のワスコ郡の裁判官任命選挙でサニヤシンを裁判官にしようと、投票させるためにアメリカの様々な都市から1000人以上のホームレスを集めてラジニーシプーラムに住まわせたが、選挙管理委員会はこれに対し、移住したホームレスが選挙後もラジニーシプーラムに定住するか確認する面接を行うと発表{{sfn|足沢|2000|pp=80-81}}。すると教団はホームレス達を周辺の町に放り出し、彼らの対処をオレゴン州に丸投げし、その一部は州の費用負担で元いた都市に戻った<ref name=Zaitz4>(15 April 2011) Les Zaitz. [https://web.archive.org/web/20110419014650/http://www.oregonlive.com/rajneesh/index.ssf/2011/04/part_four_paranoia_takes_hold.html Rajneeshee leaders see enemies everywhere as questions compound – Part 4 of 5], ''[[The Oregonian]]''. Retrieved 10 July 2011.</ref><ref name=Zaitz5>Les Zaitz. [https://web.archive.org/web/20110419004032/http://www.oregonlive.com/rajneesh/index.ssf/2011/04/part_five_utopian_dreams_die_i.html "Rajneeshees' Utopian dreams collapse as talks turn to murder – Part 5 of 5"], ''[[The Oregonian]]'', 14 April 2011.</ref>。1982年3月、地元住民は牧場の開発に反対するために「合憲な都市のための市民(Citizens for Constitutional Cities)」と呼ばれるグループを結成し<ref>{{Cite news |title=Fearing 'religious cities' group forms to monitor activities of commune |last=Hortsch |first=Dan |date=18 March 1982 |work=The Oregonian}}</ref>、「『エイリアン(余所者の)カルト」による侵略の脅威を『封じ込め、制御し、排除する』」住民発議([[発案|イニシアティブ]])の請願が知事に提出された<ref name = bend />。 |
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オレゴン州議会は、ラジニーシプーラム市の開発を遅らせ差し止めるための法案をいくつか可決し、その中には、法的地位が争われた都市への歳入分配基金の分配を停止する法案 HB 3080 も含まれていた。影響を受けたのはラジニーシプーラム市だけだった<ref name=shay>{{cite news | url = https://www.scribd.com/doc/301342590/Shay-TL-1985-Rjprm-Abuse-of-Power | title = Rajneeshpuram and the Abuse of Power | author = Theodore Shay | publisher = Scout Creek Press | access-date = 6 March 2016 | archive-url = https://web.archive.org/web/20160307115939/https://www.scribd.com/doc/301342590/Shay-TL-1985-Rjprm-Abuse-of-Power | archive-date = 7 March 2016 | url-status=live | df = dmy-all }}</ref>。オレゴン州知事のヴィック・アティエは1982年に、近隣住民から厭われているのだから、オレゴンから出て行くべきだと述べた<ref name=church>{{cite web| url = https://www.scribd.com/doc/301353732/Church-13-Mar-1982-Oregonian| title = Atiyeh Picks Antelopers over Interlopers| publisher = Bend Bulletin| access-date = 6 March 2016| archive-url = https://web.archive.org/web/20160307114001/https://www.scribd.com/doc/301353732/Church-13-Mar-1982-Oregonian| archive-date = 7 March 2016| url-status=live| df = dmy-all}}</ref>。1982年5月、マーク・ハットフィールド上院議員は ポートランドの移民局に電話し、移民局のメモには、上院議員がこの「カルト宗教」が「小さな農業の町の生活の在り方を危険にさらし、…公共の安全を脅かしている」ことに「非常に懸念している」と書かれていた<ref name="FF1-89">{{harvnb|FitzGerald|1986a|p=89}}</ref>。 |
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=== 世界を放浪 === |
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1985年にアメリカから国外追放されたあと、ラジニーシは新しい拠点を求めたが、世界各国の政府から危険人物と見なされ、20数か国で入国あるいは長期滞在を拒まれ、世界を転々とした{{sfn|足沢|2000|p=84}}{{sfn|豊島|1995|pp=46-47}}。この「ワールド・ツアー」で長期滞在が許されたのはウルグアイだけだが、それも厳しい制限付きでだった{{sfn|足沢|2000|p=84}}。 |
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教団内では周囲の社会への反感から、数年以内に破滅的な核戦争や地震が起こるといった[[終末論]]が説かれ、戦争に備えるとして、大量のライフルや機関銃が備えられた{{sfn|大田|2011|p=98}}。また、教団内にスパイがいるのではという疑いも膨らんでいき、信者の会話の盗聴も行われていた{{sfn|大田|2011|p=98}}。 |
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ニュースが全米で放送され、[[オレゴン州]]政府の対応に注目が集まり、しだいに州政府が対応せざるを得ない状況になっていった{{sfn|石村|1995|p=352}}。アメリカの憲法では、「宗教団体が自治体の形態をとる」ことは認められず、このような自治体に交付税、贈与税の交付を含む財政上の助成や補助を行うことは、納税者にとって信徒でもないのに献金を強要されるに等しく、違憲である{{sfn|石村|1995|pp=379-380}}。1984年3月、 {{仮リンク|オレゴン州司法長官|en|Oregon Attorney General}}の{{仮リンク|デイビッド・フロンメイヤー|en|David B. Frohnmayer}}は州を代表し、ラジニーシプーラム市及び同市の公務員及び住民等を被告とし、オショー・ラジニーシの宗教的基盤と市の運営の関係が[[アメリカ合衆国憲法修正第1条]]の国教樹立の禁止条例、[[政教分離]]原則に反しており、ラジニーシプーラム市の設立は無効であるとして訴えた<ref>{{Cite web |author=Hanna Brooks Olsen |coauthors= |date=2018-04-13 |url=https://www.good.is/features/what-happened-after-rajneeshpuram-wild-wild-country |title=Why Did America Forget About Rajneeshpuram?(なぜアメリカはラジニーシ・プラムを忘れてしまったのか?)|publisher = GOOD|accessdate=2020-05-16}}</ref>{{sfn|奥村|1996}}<ref>{{Cite web |author=Ron Manuto|coauthors= |date=1987 |url=https://eric.ed.gov/?id=ED280127|title=The Life and Death of Rajneeshpuram and the Still Lingering Dilemma of the Religion Clauses of the First Amendment.(ラジニーシ・プラムの誕生と終焉、および憲法修正1条の宗教条項の依然として続くジレンマ)|publisher =ERIC - Institute of Education Sciences|accessdate=2020-05-16}}</ref>{{sfn|石村|1995|p=352}}。裁判所は、市の資産は教団の財団によって所有され、管理されていると判断し、州に有利な判決を下した<ref name=Zaitz1>{{cite news|work=[[The Oregonian]] |date=14 April 2011 |url=http://www.oregonlive.com/rajneesh/index.ssf/2011/04/part_one_it_was_worse_than_we.html |title=5 years after Rajneeshee commune collapsed, truth spills out – Part 1 of 5 |publisher=Oregon Live |access-date=10 July 2011 |url-status=unfit |archive-url=https://web.archive.org/web/20120423142622/http://www.oregonlive.com/rajneesh/index.ssf/2011/04/part_one_it_was_worse_than_we.html |archive-date=23 April 2012 }}</ref>。裁判所は、違反を是正するために必要な「最も侵害の少ない手段」によって違反を是正することを求めるアメリカの憲法上の有力な判例を無視したが、ラジニーシプーラム市は、オショー・ラジニーシの移民訴訟の和解のためにこの判決に同意せざるを得なかった<ref name = Richardson>{{cite book | last= Richardson |first= James T. |date= 2004 |title= Regulating Religion, Case Studies from Around the Globe|page= 486 }}</ref>。 |
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=== インド 第2期プネー === |
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1987年になると、インド・プーナに運動の本拠地が復帰した<ref name=":4" />。活動のためにはプネーに戻るしかなかく、1987年1月に帰国したが、インド政府の監視下に置かれた{{sfn|足沢|2000|p=84}}{{sfn|豊島|1995|pp=46-47}}。 |
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教団は地元住民との度重なる裁判沙汰から、教団に有利な判決を出すため、法律改正を目指して政治進出を目論んだ{{sfn|大田|2011|p=98}}。1984年には、郡庁のあるザ・ダルズのレストランで2回にわたりサルモネラ菌が発見され、住民約750名が食中毒にかかったが(うち45名が入院。[[ラジニーシ教団によるバイオテロ事件]])、後に警察の調査で、教団による選挙妨害計画の一環であったと結論付けられている{{sfn|足沢|2000|p=81}}。オショー=ラジニーシ運動によるこの[[バイオテロ]]事件は、近年のアメリカ史上最大の生物兵器による攻撃だと言われる<ref>{{Cite web |author=ピーター・アップス|coauthors= |date=2017-04-22 |url=https://toyokeizai.net/articles/-/168851?page=3|title=核や化学兵器より「生物兵器」が恐ろしいワケ|publisher =東洋経済|accessdate=2020-05-15}}</ref>。このテロ事件は、反ラジニーシの有権者が投票に行けなくなるよう一時的に無力化するための、もっと大規模なテロの予行演習だった{{sfn|Goldman|2014|pp=176–194}}。サルモネラ菌はラジニーシプーラムに視察に来た郡に委員二人に対しても使用されたという{{sfn|足沢|2000|p=81}}。 |
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1987年、ラジニーシはエイズを危険な病気とみなし、アーシュラム来訪者の全てにエイズの陰性証明書が求められるようになった<ref>{{Cite book|title=I AM THE GATE 未知への扉|author =和尚ラジニーシ|date=|year=|publisher=めるくまーる}}</ref> |
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彼の宗教者としての立場に関し、政府の圧力が高まったため、オショー・ラジニーシは1984年10月30日に公の場で再び話し始め、最初は少数の弟子たちを前に、その後1985年7月には少し多い聴衆を前に話した<ref name="Aveling"/>。ラジニーシプーラムの支配権は表立って彼に移ったが、州と連邦の当局はシーラ、彼女の取り巻き、他のサニヤシン、そして彼に対する調査を続けた{{sfn|Goldman|2014|pp=176–194}}。彼は真の宗教の本質、自由、政治、そしてエイズによって今世紀末までに人類の大部分が死滅する可能性について語った<ref name="Aveling"/>。サニヤシン達に話した内容にはシーラへの批判も含まれていたようである{{sfn|足沢|2000|p=81}}。 |
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死の2年前の1988年、ラジニーシは病気で死にかけて、ゴータマ・ブッダ([[仏陀]])またはブッダ・マイトレーヤ([[弥勒菩薩]])の霊の「乗り物」になったとされる{{sfn|Osho World(1)|2020}}。この現象は、ゴータマ・ブッダの霊がゲストであり、ラジニーシがホストという関係で、ラジニーシはさまよえるゴータマ・ブッダの霊を受け入れ、ゴータマ・ブッダと議論し、ラジニーシの中毒の病状(毒による中毒症状だと考えていた)が完全に治ったのだという{{sfn|Osho World(1)|2020}}。ラジニーシは談話を再開し、仏教・神道に関係のある日本の霊能者石田かつえ(Osho Newsでは、彼女は日本中で有名な[[チャネラー]]([[霊媒]])であるとされている)が彼がゴータマ・ブッダまたはマイトレーヤ・ブッダの「乗り物」になるヴィジョン見たと話し、「バグワン」という尊称を醜い言葉だと完全に否定して、自らを「ゴータマ・ザ・ブッダ」または「最愛の友人」と呼ぶように要求し、さらに「マイトレーヤ・ザ・ブッダ」であると宣言して呼称を変えた{{sfn|Osho World(1)|2020}}。ラジニーシは、ゴータマ・ブッダは20世紀に適応できず去ったと発表すると、今度は「マイトレーヤ・ゾルバ・ザ・ブッダ」と名乗った{{sfn|Osho World(1)|2020}}。「ゾルバ」は、ギリシャの作家[[ニコス・カザンザキス]]の小説『[[その男ゾルバ]]』の登場人物から取ったもので{{sfn|Osho World(1)|2020}}{{sfn|Osho News|2015}}、「ゾルバ・ザ・ブッダ」とは、仏陀の静けさとギリシャのゾルバの世俗的な快楽を併せ持つ「新しい人間」なのだという{{sfn|Vivek|2020}}。 |
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1985年、プネー時代から付き従っていた数人の有力な古参のサニヤシンが離反し、当局と話し合いを始めた{{sfn|Goldman|2014|pp=176–194}}。1985年9月14日、マ・アナンド・シーラがラジニーシプーラムから逃亡し、翌日には他の10人の高官もそれに続いた<ref name="Aveling"/>。2日後にオショー・ラジニーシは大規模な記者会見を開き、シーラと彼女の仲間を「[[ファシスト]]集団」と非難し、「3回の毒殺未遂、ダレス(近くの町)でのサルモネラ食中毒、盗聴、盗聴室、コミューンに5500万ドルの負債を残した財政的虐待」などの一連の犯罪で彼女たちを告発し、地域社会をなだめようとした<ref name="Aveling"/>。FBIが介入し捜査を行い、彼女らがコミューン内外で数々の犯罪、不法行為を行ってきたことが明らかになった{{sfn|伊藤|2003|p=77}}。不法行為には、オショー・ラジニーシとその世話人の部屋の盗聴、教団の資産5500万ドルの横領、オショー・ラジニーシの主治医スワミ・デヴァラジ(ジョージ・メレディス)に対するヒ素による殺人未遂、近隣レストランでの[[サルモネラ菌]]混入による[[バイオテロ]]、教団に不利な裁判記録を隠滅するための公共施設の放火などが含まれていた{{sfn|伊藤|2003|p=70}}{{sfn|伊藤|2021|p=75}}。彼は9月26日にサニヤシンたちに赤い服と数珠の着用をやめるよう伝え、彼らはすぐにそれに従った<ref name="Aveling"/>。オショー・ラジニーシは全ての責任はシーラにあり、彼女が何をしていたのか知らなかったと主張した<ref name="Aveling"/>。 |
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1888年には[[禅]]に興味を集中するようになった。1989年2月から再び病気になり、弟子たちは彼をオショー・ラジニーシと呼ぶようになった{{sfn|Osho World(2)|2020}}。さらにラジニーシは尊称をオショー(Osho)に変えた。それまでラジニーシの名でブランド化されていた全てをオショーに変えるよう求め、ラジニーシ・インターナショナル・ファウンデーション改めオショー・インターナショナル・ファウンデーション(OSHO International Foundation)が、オショーやセラピー等を商標登録し直し、管理を行った{{sfn|OSHO International Foundation|2012}}。健康状態の悪化により1989年4月に談話を中止し、信者たちに詳細なデザインを渡して新しい大理石の寝室を作るように命じ、そこで短い期間過ごした{{sfn|Davisson|2013}}。ラジニーシは[[1990年]][[1月19日]]に死去した。 |
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シーラ達3名の高弟は、殺人未遂、殺人共謀、第一級の強姦(攻撃)容疑がもたれているが、それらはコミューンのサニヤシン達を服従させるために指導者達が行ったと考えられている{{sfn|櫻井|2003|p=101}}。シーラは逃亡先の旧西ドイツで、殺人未遂、サルモネラ菌の使用、盗聴、移民法違反の容疑で逮捕され、アメリカで服役した{{sfn|伊藤|2003|p=70}}{{sfn|足沢|2000|p=83}}。シーラは後に、オショー・ラジニーシを守るためだけに有罪を認めたと語っている{{sfn|Tiwary|2024|pp=152–188}}。 |
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===死後=== |
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[[File:Air Rajneesh Big Muddy Ranch Airport Quackenbush.jpg|thumb|right|220px|ラジニーシプーラムに作られた空港。「エア・ラジニーシ」と書かれた自家用ジェット。]] |
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[[ファイル:Osho_International_Meditation_Resort.jpg|thumb|right|280px|オショー・インターナショナル・ファウンデーションが運営する瞑想リゾート]] |
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FBIの捜査の結果、数十人のサニヤシンが郡大陪審の前で証言するよう召喚状を受け取り、彼も1985年10月6日に召喚状を受け取った{{sfn|Goldman|2014|pp=176–194}}。彼の逮捕状が準備されているという噂もあった{{sfn|Goldman|2014|pp=176–194}}。シーラが去った後にインタビュー等で教団の活動の責任はシーラにあると主張したが、それでアメリカ政府の追及から逃れることはできず、彼は逮捕を予測して1985年10月に、インド脱出時と同じく1000人以上いたサニヤシン達には何も告げずに、側近12名と共に小型ジェット機2機で南に向かった{{sfn|足沢|2000|pp=82-83}}。[[バミューダ島]]に向かう途中、10月28日に燃料補給に立ち寄った[[ノース・カロライナ州]]の空港でFBIがオショー・ラジニーシを逮捕し、逮捕時に一行は6万ドルほどの現金と100万ドル相当の宝石、拳銃を所持していた{{sfn|足沢|2000|pp=82-83}}。彼はオレゴン州に連行され、そこで弁護士が保釈金を支払いラジニーシプーラムに戻った{{sfn|Goldman|2004|pp=119–138}}。 |
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ラジニーシに後継者はおらず、プーナや世界各地の瞑想センターは弟子達が独自に運営している<ref name=":4">{{Cite book|title=現代宗教辞典|date=|year=|publisher=弘文堂|page=530}}</ref>。「インディアン・エクスプレス」誌が発行する雑誌「シチズン」によると、内部では多少の対立もあり、2000年時点で運営メンバーの半数がすでに入れ替わっている{{sfn|足沢|2000|pp=94-95}}。 |
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アメリカ政府は彼を確実に国外に追い出すことを望んでいたため、逮捕後に起訴された容疑は認めないが有罪を認める答弁を行う[[司法取引]]{{仮リンク|アルフォード・プリー|en|Alford plea}}が行われ<ref name=Latkin342>{{harvnb|Latkin|1992|p=}}, reprinted in{{harvnb|Aveling|1999|p=342}}</ref><ref>{{Cite news|title =Wasco County History|work=Oregon Historical County Records Guide|publisher =Oregon State Archives|url=https://sos.oregon.gov/archives/records/county/Pages/wasco-history.aspx|access-date=22 November 2007|archive-url=https://web.archive.org/web/20180612184622/https://sos.oregon.gov/archives/records/county/Pages/wasco-history.aspx|archive-date=12 June 2018|url-status=live}}</ref><ref>{{Cite news|title=Bhagwan Shree Rajneesh|work=Newsmakers 1990|pages=Issue 2|publisher=Gale Research|year=1990 }}</ref><ref name="Britannica"/>{{sfn|伊藤|2003|pp=84-87}}{{sfn|足沢|2000|pp=82-83}}、オショー・ラジニーシはシーラに問われた殺人未遂等の容疑との関係を問われることなく、告訴されていた34の罪状のうち移民管理局への偽証に関する2つの罪(移民法違反と偽装結婚教唆)を認めること、今後5年間アメリカに入国しないことを条件に、罰金40万ドルの判決と国外退去命令を受け、11月14日に出国した{{sfn|伊藤|2003|p=79}}{{sfn|足沢|2000|p=83}}。オショー・ラジニーシの弁護士は、判決を受け入れる選択を取ったのは、偽装結婚教唆の無罪を証明しようとすれば、法的な手続きが長引いてオショー・ラジニーシの生命と健康は脅かされるため、一部の罪状を認めて国外退去になったほうが良いと考えたためだと主張している<ref name=":13" group="関係者">{{Cite book|author=ヴァサント・ジョシ|translator=宮川義弘|title=異端の神秘家 OSHO・反逆の軌跡|date=|year=|publisher=市民出版社}}</ref>{{要ページ番号|date=2024年7月}}。教団の上層部20名以上が逮捕され、ラジニーシプーラムは閉鎖された{{sfn|足沢|2000|pp=83-84}}。宗教者としての彼のキャリアで最もネガティブな時であり、これは運動の崩壊や彼の指導者としての立場の喪失につながる可能性もあったが、ほとんどのサニヤシンはラジニーシプーラムを破滅に導いたのはシーラだと考え、誤った搾取的なやり方で彼と運動を脅かしたと非難した。 |
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コミューンは現在ではそのありかたをかなり変え、清潔な水とプール、美しい庭園を売りにする「瞑想をアトラクションとしたディズニーランド」といった施設になり、「[[クラブメッド|地中海クラブ]](クラブ・メディタレーニアン)」をもじって「クラブ・メディテーション」と名乗っている{{sfn|足沢|2000|pp=95-96}}。特に1990年代以降、瞑想キャンプを実施し、各地に瞑想ができる高級リゾートを作り、雑誌に広告を掲載するなど盛んにPRをおこない、インド人中間層の取り込みを図っているようである{{sfn|中島・外川・田中・小牧 |2015}}。3日~3か月の瞑想法、セラピー、ダンス、禅を標榜する極東武道、[[手かざし]]等のヒーリングなど200種類以上のコースが提供され、常時2000人以上のネオ・サンニヤーシンが集まり、コースに参加している{{sfn|足沢|2000|pp=95-96}}。教えられている手かざしの[[レイキ]]は日本発祥だが、ドイツ人レイキマスターでラジニーシの弟子の Himani H. Gerber が発展させ、ラジニーシが「オショー・ネオ・レイキ」という名前与えたものだという{{sfn|Klatt|20070|pp=119-120}}。 |
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=== 世界放浪と第2期プネー 1985年 – 1990年 === |
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アメリカから国外追放され、インドにすぐに戻ったが、インドではアシュラムの過去の財務状況についてさらなる調査が行われる可能性が高く、彼は短期間ネパールに移り、その後1986年1月から世界を放浪した<ref name="Aveling"/>。新しい拠点を求めたが、世界各国の政府から危険人物と見なされ、1986年7月にインドに戻るまでに21ヶ国で入国または長期滞在を拒否され、世界中を転々とした{{sfn|足沢|2000|p=84}}<ref name="Aveling"/>。教団はこの放浪を「ワールドツアー」と呼んでいる{{sfn|足沢|2000|p=84}}。滞在を試みたすべての国から締め出され、オショー・ラジニーシはギリシャで警察に捕らえられ、国外追放された<ref name="HBU-2016-5"/>。カナダと西ドイツへの入国も拒否された<ref name="HBU-2016-5"/>。長期滞在を許可したのは[[ウルグアイ]]だけだったが、ウルグアイは「いかなる人物、国家、宗教をも批判しないこと」「弟子と合流しないこと」を滞在の条件とした{{sfn|足沢|2000|p=84}}。ネパールとウルグアイには短期間滞在しただけで、最終的に「空港の拘置所で6か月間待機し、深夜に(ギリシャと同様に)警察の強制捜査を受けた後、バグワンはインドに帰国した。」<ref name="HBU-2016-5"/> |
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1985年11月にオショー・ラジニーシは、世界は「怪物アメリカを正しい立ち位置に戻す」必要があると宣言し、「アメリカを黙らせなければ、アメリカが世界を滅ぼすだろう」と述べた<ref name="HBU-2016-5"/>。その1年以内に、オレゴンの実験はアメリカだけでなく全世界に広がる、はるかに大規模で壮大な事業の始まりに過ぎないと発表し、世界の命運は自分たちが作るこの新しい共同体運動にかかっていると説いた<ref name="HBU-2016-5"/>。[[クレタ島]]に短期間滞在した際には、「レーガンとの公の対決」の準備ができていると宣言し、その後、自分と信奉者たちは「5年後にアメリカで共同体を立ち上げるが、それは砂漠ではなくワシントンになるだろう」と予言した<ref name="HBU-2016-5"/>。彼の意見では、彼が率いるコミュニティは、アメリカの個人主義と自由の理想、ソ連の秩序と共同体の結束の理想を組み合わせた、レーガン主義と共産主義の中間の道であり、1980年代の[[冷戦]]の二元論に代わる完全な選択肢であった<ref name="HBU-2016-5"/>。レーガン大統領と公の場で対決するという彼の計画が実現することはなかった<ref name="HBU-2016-5"/>。 |
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最終的に、運動の代表者がインド政府と交渉し、プネーに再び定住することができた{{sfn|Goldman|2014|pp=176–194}}。1986年7月にインドのムンバイに移り、1987年1月にプネーに戻り{{sfn|伊藤|2003|pp=79-80}}、プネーが再びに運動の本拠地になった<ref name=":4" />。彼は古いアシュラムに戻った後、心臓病と糖尿病で衰弱していき、日常の業務と連絡は主治医のアムリト(主治医のジョージ・メレディス、旧サニヤシン名スワミ・デヴァラジ)が行った<ref name="WRSP"/>。プネーへの移転は、教団にとって特別な場所への移転であり、これ以降に、名称の変更(バグワン・シュリ・ラジニーシからオショーへ、ラジニーシ運動からオショー運動へ)、リーダーシップ構造の再編成(「インナーサークル」の設立)、新しい実践と運動の展開のために教義を再構築することを成し遂げ、運動は自己変革に成功した{{sfn|Goldman|2014|pp=176–194}}。インドでは、初期のように実践 (瞑想、ワーク、ヨーロッパ人だけが参加するグループ・セラピー) を再び重視し、運動の成功を再定義した<ref name="Aveling"/>。サニヤシンたちは以前のような運動の緩やかなネットワークを重視し、教団が主導する組織的な動きを警戒するようになった{{sfn|伊藤|2003|pp=80-81}}。 |
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彼はインドに帰国以降、サニヤシン達に対し、自らが「友人」であり一宗教のリーダーではないと繰り返すようになった{{sfn|伊藤|2003|pp=80-81}}。プネー移転後の3年間ほぼ毎日の講話を行い、年間約1万人がアシュラムを訪れた{{sfn|伊藤|2003|p=80}}。1987年以降の講話のテーマはすべて禅語録から取られ、その影響か、この時期は日本人の訪問者が増加している{{sfn|伊藤|2003|p=80}}。宗教学者の{{仮リンク|マリオン・S・ゴールドマン|en|Marion S. Goldman}}は、オショー・ラジニーシと信奉者たちは、アメリカでの大失敗の原因はマ・アナンド・シーラとそのグループだとすることで変革を進め、この運動を、個人の成長と現世で達成感を得るための瞑想的アプローチをすべての人に提供する運動として位置付け直したと述べている{{sfn|Goldman|2014|pp=176–194}}。少数のメンバーの多額の献金と他の何百人もの信奉者たちの献身で資金ができると、アシュラムを瞑想リゾートに作り変え、運動は回復し始めた{{sfn|Goldman|2014|pp=176–194}}。インドでリメイクされた「オショー運動」は、多くの点で以前よりも人気を博し、プネーのセンターは、活気がありながらも素朴なアシュラムから、5つ星ホテル風高級国際リゾートへと変貌し、年配のサニヤシンたちはアシュラムを離れ、世界の他の地域へと出て行った<ref name="HBU-2016-5"/>。 |
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1987年1月に、オショー・ラジニーシはサニヤシンであることが一目わかる赤・オレンジ系統の衣装を廃止し、政治権力による弾圧から弟子たちを守るためだと述べている<ref name=":8" group="本人">{{Cite book|title=I AM THE GATE 未知への扉|author =和尚ラジニーシ|date=|year=|publisher=めるくまーる}}</ref>{{要ページ番号|date=2024年7月}}。 |
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1988年初頭にはすでに、何千人もの人々がワークショップに参加するためにプネーに来訪、再訪し、アシュラムは新しい世界中の利用者を収容するために、大規模で洗練された施設へと急速に拡張された<ref name="HBU-2016-5"/>。1988年7月に、オショー・ラジニーシはこの14年で初めて、夕方の講話の終わりに自ら瞑想を指導するようになり、「ミスティック・ローズ」という新しい瞑想テクニックを導入し<ref name=":9" group="関係者">{{Cite book|title=異端の神秘家 OSHO・反逆の軌跡|author=ヴァサント・ジョシ|translator=宮川義弘|date=2018年10月29日|year=|publisher=市民出版|page=385-387}}</ref>、同年5月には、無意味な音をただしゃべるジベリッシュと沈黙からなる新しい瞑想法「ノー・マインド」を導入した<ref name=":8" group="本人"/>。日本では1988年に、 Osho サクシン瞑想センターが設立されている{{sfn|井上|2019|p=26}}。 |
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1988年にオショー・ラジニーシは著作『''Jesus Crucified Again: This Time in Ronald Reagan’s America''(イエスは再び十字架に架けられた:今度は[[ロナルド・レーガン]]のアメリカで)』を出版し、アメリカに拘束されている間に[[タリウム]]を盛られた証拠を明らかにしたと主張し、「世界最強の国の政府が、一人の人間を恐れ、その人間を黙らせるために文字通り手段を選ばないほどだったのか」と驚いて見せた<ref name="HBU-2016-5"/>。この時期の他の著作でも、毒を盛られ、それはレーガン政権の司法長官{{仮リンク|エドウィン・ミース|en|Edwin Meese}}の策略で、ミースの目的はコミューンを破壊することだったと主張し、アメリカ追放後に健康状態が著しく悪化したことが毒を盛られた証拠だとした<ref name="HBU-2016-5"/>。彼はアメリカ政府がラジニーシプーラムを崩壊させるためだけに自分を逮捕したのだと繰り返し、彼が語る逮捕の「真相」や毒殺未遂という刑務所での「真相」を、ほとんどの信奉者は真実としてそのまま受け入れた{{sfn|伊藤|2003|p=92}}。 |
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1989年1月に、バグワンという称号は人間の性器を指す非常に醜い言葉だと拒否し、「冗談は終わった」と宣言してバグワンという称号をやめ、同じ講話で「私の体はゴータマ・ブッダ(釈迦)の乗り物となった」と主張した{{sfn|伊藤|2003|pp=80-81}}<ref name="HBU-2016-5"/><ref name="Aveling"/>。教団によると、1989年2月から再び病気になった<ref group="official">{{Cite web|和書|author= |coauthors= |date= |url=http://www.oshoworld.com/biography/innercontent.asp|title=Name-change to Osho|trans-title=Oshoへの改名|publisher = Osho World|accessdate=2020-05-30|url-status=dead|url-status-date=2024年7月}}</ref>。ゴータマ・ザ・ブッダ([[釈迦]])を名乗り(これは外部から猛烈な反感を買った{{sfn|Goldman|2014|pp=176–194}})、自分はマイトレーヤ([[弥勒菩薩]])であると言い、シュリ・ラジニーシ・ゾルバ・ザ・ブッダとも名乗り、1989年2月にオショー・ラジニーシを名乗った<ref name="HBU-2016-5"/>。和尚とは、日本の禅仏教の師に対する尊称である<ref name="Aveling"/>。12月30日に自分は仏陀ではあるが歴史上の仏陀ではないと発表し、彼が仏陀でありマイトレーヤ([[弥勒菩薩]])であることは、「日本の非常に有名な[[ヴォルヴァ|予言者]]であり[[預言者]]」の石田かつ江によって確認されたといい、『''No Mind: The Flowers of Eternity''』という本を「大いなる愛と祝福を込めて」彼女に捧げた<ref name="Aveling"/><ref name="HBU-2016-5"/>。 |
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コミュニティのリーダーシップにも重要な変化があり、オショー・ラジニーシは1989年に21人の弟子からなる「インナーサークル」と呼ばれる委員会を設立し、彼らが運営の実務を担った<ref name="HBU-2016-5"/>。インナーサークルのメンバーの数人がリーダーとして頭角を現し、議長のジェイエシュ(マイケル・オバーン)、副議長のアムリト(主治医のジョージ・メレディス、旧名スワミ・デヴァラジ)、書記のアナンドが権力の大部分を握った{{sfn|Goldman|2014|pp=176–194}}<ref name="HBU-2016-5"/>。彼らはより差別化された組織構造を作り上げ、ニューヨークとチューリッヒに法人を設立し、オショー・ラジニーシの著作を出版、配布した<ref name="WRSP"/>。 |
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1989年2月29日に弟子たちは彼をオショー(和尚、Osho)と呼ぶことに決め<ref name="Aveling"/>、しばらくの間はオショー・ラジニーシ(和尚ラジニーシ)として知られた<ref name=":8" group="本人"/>。 |
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1989年6月と7月に、独自のコースとワークショップを備えた学校「マルチバーシティ(マンモス大学)」を設立し、マルチバーシティには「Osho神秘スクール」、「Oshoアカデミー・オブ・クリエイティブ・アーツ」、「Oshoインターナショナル・アカデミー・オブ・ヒーリング・アーツ」、「Oshoセンター・フォー・トランスフォーメーション」、「Oshoスクール・フォー・センタリング」、「Osho スクール・オブ・禅・[[マーシャルアーツ]]」、「Oshoファカルティ・フォー・リベレーション」が含まれていた<ref name="HBU-2016-5"/>。提供されるコースは多岐にわたり、古代チベット僧の脈拍療法、[[前世療法|前世催眠]]トレーニング、視力改善、[[錬金術]]催眠療法、タントラのトレーニングまで、世界中のあらゆる場所・あらゆる時代に由来するとされるテクニックやアイデアが含まれていた<ref name="HBU-2016-5"/>。「Oshoスクール・オブ・ミュージック」では、彼のメソッドと様々な音楽の伝統を組み合わせたワークショップを提供した<ref name="HBU-2016-5"/>。 |
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1990年1月2週目に入ると肉体的に衰弱し<ref name=":9" group="関係者" />、1月19日には脈が不規則になった<ref name=":9" group="関係者" />。医師が心臓蘇生術を準備するべきか尋ねると、オショー・ラジニーシは「いや、ただ私を逝かせてほしい。存在がその時期を決める」と答えたとされ<ref name=":9" group="関係者" />、その後59歳で死去した{{sfn|伊藤|2003|p=81}}。遺体はオショー・ラジニーシの「旅立ち(死)」を「祝う」サニヤシンたちに送られ茶毘に付された。[[伊藤雅之]]は、死因を心臓発作と述べている{{sfn|伊藤|2003|p=81}}。サニヤシンたちは、彼はアメリカの刑務所に収監されていた間に受けた放射能中毒に苦しんでいたと主張し<ref name="Aveling"/>、教団は、彼の死はアメリカ政府が拘留中に食べ物に遅効性の毒を盛ったせいだと主張しているが、遺体はその日のうちに荼毘に付されており真偽は確認されていない{{sfn|足沢|2000|p=93}}。 |
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==コンテンツ== |
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オショー・ラジニーシは瞑想の分野で今も世界中で知られ、未だに出版されており、書籍には社会的、政治的な論評も含まれる{{sfn|Lewis|Petersen|2005|p=120}}。彼の本のほとんどは講話の録音を別の者が書き起こした講話録で<ref name="CNR">{{harvnb|Carter|1987|p=}}, reprinted in {{harvnb|Aveling|1999|pp=182, 189}}</ref>、講話の多くはサニヤシンたちが彼に質問するという内容である{{sfn|Tiwary|2024|pp=152–188}}。650冊以上の書籍が彼の作品とされ<ref name="Süss45">{{harvnb|Süss|1996|p=45}}</ref>、講話録は世界中30か国語以上で翻訳出版されている{{sfn|伊藤|2004|p=83}}。人間という存在の様々な側面に関する彼の見解が示されている<ref name="CNR" />。 |
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プネーの組織は長期にわたる訴訟に敗訴し、アメリカで「Osho」という商標は取り消されたが(後述)、彼の講話や瞑想ガイドをまとめた何千もの本の[[著作権]]は、スイスのチューリッヒにあるOSHOインターナショナル財団が依然として所有している(同財団はプネーのOSHOインターナショナル・メディテーション・リゾートと提携している){{sfn|Goldman|2014|pp=176–194}}。教団の収入のほとんどは出版物によるものである<ref name="WRSP"/>。 |
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== 呼称の変遷 == |
== 呼称の変遷 == |
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本名は、教団から出版された本ではラジニーシ・チャンドラ・モハン(モーハン・チャンドラ・ラジニーシ)とされているが、正しくはモーハン・チャンドラ・ジャインである<ref name=":8" group="本人"/>{{sfn|足沢|2000|p=72}}<ref name="Aveling">{{harvnb|Aveling|2018}}</ref>。「ジャイン」はジャイナ教の「ジャイナ」の現代インド語読みで[[ジャイナ教]]徒の姓、「モーハン」は「魅力的な」といった意味で、これが彼の名前、「チャンドラ」はミドルネームで「月」という意味で、インドの慣習では父親の名前である{{sfn|足沢|2000|p=72}}。「モーハン」も「チャンドラ」も、インドで一般的な名前であるが、子供時代のあだ名で「夜の夫」すなわち「月」を意味する「ラジニーシ」は、現代インドでは一般的な名前ではない{{sfn|足沢|2000|p=72}}。 |
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活動を始めた当初はアーチャリヤ・ラジニーシ(ラジニーシ先生)と呼ばれていた。「アーチャリヤ」は、彼の生家の宗教であるジャイナ教の伝統では、生徒に知恵を伝える教師であり、インド中で講演し信奉者を集めた時期に使われていた{{sfn|Tiwary|2024|pp=152–188}}。 |
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1966年に大学を退職して「思想演説家」として、「先生」という意味のタイトルを冠して「'''アーチャーリヤ・ラジニーシ'''」と名乗って活動を始めた{{sfn|足沢|2000|pp=72-74}}。70年に入ると活動は宗教色を帯び、71年には自分の尊称を「アーチャーリヤ」から「バグワン・シュリ」に変えた{{sfn|足沢|2000|pp=72-74}}。バグワーンは「栄光ある」という意味で神や釈迦の尊称、特に創造神[[ヴィシュヌ]]を指し、「シュリ」は「聖なる」という意味であり、この尊称はインドの人々からかなり反感を買うことになった{{sfn|足沢|2000|pp=72-74}}。 |
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1971年に名前を変え、「バグワン」を新しい称号として選び、バグワン・シュリ・ラジニーシ(Bhagwan Shree Rajneesh)を名乗り、15年間この名前を使用した{{sfn|伊藤|2003|p=72}}<ref name="HBU-2016-1"/>。[[バガヴァン|バグワン]](Bhagwan)はサンスクリット語の「bhagavat」{{Refn|group="†"|「bhagavat」は神の名前であり、仏教では仏陀の尊称、[[如来]]の10の尊称の一つであり、「世の中で最も尊い人」または「世に尊ばれる人」を意味し、漢語では「世尊」と訳される<ref>{{Kotobank|1=世尊}}</ref><ref>{{Cite web |url=https://www.nichirenlibrary.org/en/dic/Content/B/24 |title= bhagavat [世尊]|publisher=Nichiren Buddhism Library |date= |accessdate=2024-08-25}}</ref>。}}に由来し、「神聖な、栄光ある、尊敬すべき、神の」という意味で、神の伝統的な名前でもある<ref name="HBU-2016-1"/>。神や釈迦の尊称であり、ヒンドゥー教では特に創造神[[ヴィシュヌ]]を意味し、神や化身([[アヴァターラ]])を意味する言葉としても用いられる{{sfn|足沢|2000|p=74}}<ref name=":0">{{Cite book|last=Lochtefeld|first=James G.|url=https://www.worldcat.org/oclc/41612317|title=The illustrated encyclopedia of Hinduism|date=2002|publisher=Rosen|isbn=0-8239-2287-1|edition=1st|location=New York|pages=94|oclc=41612317}}</ref>。バグワンは、インドや南アジアの多くの地域では、霊的であり宗教的だが特定の神を崇拝しないヒンドゥー教徒にとっては、普遍的な神という抽象的な概念を意味している<ref name=":0" />。インドの伝統では、神性が顕在化している人間に対する尊敬の言葉として用いられ<ref>[https://dsal.uchicago.edu/cgi-bin/romadict.pl?query=bhagavan&display=simple&table=macdonell Macdonell Practical Sanskrit Dictionary] {{Webarchive|url=https://web.archive.org/web/20151017031501/http://dsal.uchicago.edu/cgi-bin/romadict.pl?query=bhagavan&display=simple&table=macdonell|date=17 October 2015}}. Retrieved 10 July 2011.</ref>、新宗教運動の研究者のスーザン・J・パーマーと{{仮リンク|デーヴィド・G・ブロムリー|en|David G. Bromley}}は、バグワンという称号の意味を「神の純粋な本質である祝福された者または自己実現者」と説明している{{sfn|Palmer|Bromley|2007|pp=135–158}}。 |
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死の2年前の1988年にラジニーシは、ゴータマ・ブッダ([[仏陀]])またはブッダ・マイトレーヤ([[弥勒菩薩]])の霊が体に入ったと考え「'''ゴータマ・ザ・ブッダ'''」を名乗り、「'''マイトレーヤ・ザ・ブッダ'''」「'''シュリ・ラジニーシ・ゾルバ・ザ・ブッダ'''」と次々に名を変えた{{sfn|Osho World(1)|2020}}{{sfn|Cawthorne|2020}}。 |
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「シュリ」は本質的には敬称であり、文字通り「光」や「輝き」を意味するが、高い地位、権力、威厳、または吉兆を意味する<ref name="HBU-2016-1"/>。 |
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ラジニーシが晩年興味を持ったテーマは[[禅]]であり、その禅の講話のことばから、死の前年の1989年には弟子たちが「'''オショー・ラジニーシ / 和尚ラジニーシ(Osho Rajneesh)'''」と呼ぶようになり、ラジニーシは[[禅宗]]の「[[和尚]]」から取り「'''オショー(Osho)'''」という尊称を名乗るようになった{{sfn|足沢|2000|p=84}}{{sfn|Osho World(2)|2020}}。この名称は生前ごく短期間しか使われていないが、死の前に商標等の権利関係は全てラジニーシからオショーに取り直されており、現在は著作も概ねオショー・ラジニーシかオショー名義で出版されている。 |
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彼は後に、この新しい称号の採用は、キリスト教徒、イスラム教徒、ヒンドゥー教徒といった既存宗教の信者達を挑発するためだと述べている<ref name="HBU-2016-1"/>。神の伝統的な名前を名乗ることで、その意味を根本的に変えると同時に、実のところ私たちは皆すでに祝福された者であり、「神々」であることを示唆した<ref name="HBU-2016-1"/>。また、生徒に教える教師という自身の役割を終わりにし、周囲に集まる人間を知識を求める人々から求道者へと入れ替える目的があり、それはうまくいったとも語っている<ref group="関係者">{{Cite book |first=Satya |last=Vedant |title=The awakened one: the life and work of Bhagwan Shree Rajneesh |date=1982 |publisher=Harper & Row |isbn=0-06-064205-X |location=San Francisco |pages=112–113 |oclc=8194778}}</ref>。 |
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アメリカのオレゴンのコミューンの崩壊をきっかけに、様々な称号を試していった<ref name="HBU-2016-5">{{harvnb|Urban|2016|pp=137–154}}</ref>。1989年1月に「バグワン」は世間に長きにわたり広まった冗談だったと説明してこの称号をやめ<ref name="Gietz"/>{{sfn|伊藤|2003|pp=80-81}}<ref name="HBU-2016-5"/>、一時的にゴータマ・ザ・ブッダを名乗り(ブッダという名前は外部から猛烈な反感を買った{{sfn|Goldman|2014|pp=176–194}})、1986年11月のラジニーシ新聞で「私のメッセージとゴータマ・ブッダのメッセージは非常に似ているため、彼は私の乗り物であったとも言えるし、私が彼の乗り物であるとも言える」と語ったが、その直後に自分はゴータマ・ブッダ自身ではなく、ブッダが将来(宇宙の終わり)にやってくると予言した彼の代表マイトレーヤ([[弥勒菩薩]])であり、自分はブッダの「友人」と呼ばれるべきだと説明した<ref name="HBU-2016-5"/>。シュリ・ラジニーシ・ゾルバ・ザ・ブッダとも名乗り、1989年2月にオショー・ラジニーシを名乗り、その後1989年9月には単にオショー(和尚、Osho)という称号を名乗った<ref name="HBU-2016-5"/>{{sfn|伊藤|2003|pp=80-81}}。(しばらくの間は オショー・ラジニーシ(和尚ラジニーシ)として知られた<ref name=":8" group="本人"/>)。 |
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==ラジニーシ運動の参加者== |
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オショー・ラジニーシのほぼすべてが論争を巻き起こしたが、オショーという名前も同様であった{{sfn|Goldman|2014|pp=176–194}}。オショーが選ばれた理由として宗教学者の[[伊藤雅之]]は、日本語の「和尚」から取られたとしている{{sfn|伊藤|2003|pp=80-81}}。教団は、オショーには「天から花を降らせる祝福された者」という意味もあると述べている{{sfn|Goldman|2014|pp=176–194}}。日本語に由来し、意識を拡大する者への深い感謝と尊敬を暗示していると書いている者もいる{{sfn|Goldman|2014|pp=176–194}}。広く解釈すれば、瞑想の尊敬される教師という意味にもなり得る{{sfn|Goldman|2014|pp=176–194}}。アメリカの宗教学の教授{{仮リンク|ヒュー・B・アーバン|en|Hugh Urban}}は、オショーが選ばれた理由として、第一に[[禅宗]]の僧侶の伝統的な称号であり、この時期の講話のほとんどを(彼の因習打破の教えに最も近い、相似の教えであったとも言える)禅に捧げていたこと、第二に、オショーという名前は「大洋のような感覚」と共鳴しており、これは神秘主義者が[[涅槃]]または無限への融解の体験を説明する際にも、フロイト主義者が子宮内の胎児の初期の状態を説明する際にも使われるフレーズであることを上げ、第三に、オショー・ラジニーシのコミュニティの法的な声明に基づくと、美的、商業的、マーケティング的な価値も考慮して選ばれたと考えざるを得ないと述べている<ref name="HBU-2016-5"/>。OSHOインターナショナル財団は、商標および著作権に関するウェブサイトのページで、名称の変更は、マスター{{Refn|group="†"|ニューエイジでは、悟りを開き、他の人を悟りに導く存在が「マスター」と呼ばれ、「マスター」との関わりが悟りへのプロセスに不可欠だと考えられ、ニューエイジャーは「マスター」との関わりを強く求めた{{sfn|Jacobs|2020|p=374}}。}})と、マスターに関連するすべての作品、財産、方法、および商品の「ブランド再構築(rebranding)」であるとはっきり述べている<ref name="HBU-2016-5"/>。宗教学者のマリオン・S・ゴールドマンも、Oshoへの名称変更は、運動のブランド再構築と、以前の困難からうまく距離を取る戦略の一環だったと述べている{{sfn|Goldman|2014|pp=176–194}}。 |
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弟子たちは、ラジニーシは覚醒者であり、自分たちを悟りに導くグルだと信じている{{sfn|Puttick|2009|p=269}}。1985年まで、弟子になるには、改名し、サフラン色のローブや赤系統の服を常に身に付け、首からはマラとよばれるラジニーシの写真のはいったロケットをつるした数珠をさげ、1日に1度は瞑想をすることが条件だった{{sfn|Puttick|2009|p=269}}{{sfn|伊藤|1997}}。現在でもネオ・サンニヤシンたちは、(生前はラジニーシから)サンスクリット語の名前サニヤス・ネーム(法名)を授かり、仲間同士その名前で呼びあっている{{sfn|伊藤|1997}}。講話録の翻訳者名にも、サニヤス・ネームが多くみられる。 |
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オショーという称号は今日、彼の人生の全ての時期に、当時使われていないという時代錯誤を無視して用いられている<ref name="Aveling"/>。学者のほとんどは、生前公的・法的に使われた名前([[:en:Legal name|Legal name]])である「ラジニーシ」と呼んでいる{{sfn|Tiwary|2024|pp=152–188}}。 |
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多くの女性信者は、女性を霊的に評価するラジニーシの教えは、「母性のもう一つの道の提示であり、女性に解放をもたらすもの」だと感じた{{sfn|Puttick|2009|pp=270-271}}。 |
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== 思想と活動 == |
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日本では、1997年当時で約3千人の信者がいると考えられ、東京をはじめ全国20数カ所の瞑想センターを拠点に活動を行い、インドでグループ・セラピーや、瞑想、コミューン活動に参加していた{{sfn|伊藤|1997}}。日本の信者へのインタビューによると、彼らはラジニーシ運動に参加する前、大部分が家族や友人との関係が希薄だった{{sfn|伊藤|1997}}。多くの人が講話録を通じてラジニーシに出会い、強烈な衝撃を受け、その後人生の転機(それ程深刻なものでないことが多い)に直面した際に教えを行動に生かすことで、ラジニーシやネオ・サンニヤシンたちへの信頼を深めている{{sfn|伊藤|1997}}。スピリチュアルな世界への能動的なコミットメント、積極的な行動力でインドまで赴き、集中的な瞑想やグループ・セラピーで、社会的なしがらみからの開放感、[[変性意識]]状態を経験することで、ラジニーシへの傾倒を深める、という[[イニシエーション]]への過程がうかがえる{{sfn|伊藤|1997}}。ラジニーシの開発した瞑想の集中的な実践や、泊りがけの数日間のグループ・セラピーを2~3か月間体験した後に、ネオ・サンニヤシンのイニシエーションを申請することが多かった{{sfn|伊藤|1997}}。 |
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[[ファイル:Osho Drive By.jpg|250px|サムネイル|ロールス・ロイスを運転するオショー・ラジニーシ]] |
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人間の究極的な目的は「悟り(enlightenment、光明)を得ること」で、真理の探究が第一の優先事項だとされた{{sfn|伊藤|2003|p=65}}<ref group="本人">{{Cite book|和書|translator=スワミ アナンド ソパン |author=和尚 |title=空っぽの鏡 |date=1992年11月30日 |publisher=壮神社 |page=p213}}</ref>。個々人の選択がその哲学の本質にあったが、覚者(悟りを開いた人)であるマスター(サッドグルまたは単にグル)は真剣な求道者が自身の本質を発見するよう助けることができるとしており<ref name="Aveling"/>、悟りの究極の自由に至るには、マスターである彼の教えに身を委ねる「明け渡し(サレンダー)」で[[自我]](エゴ)を消滅させることが必要とされた{{sfn|Goldman|2009|pp=311–327}}{{sfn|Goldman|2004|pp=119–138}}。(オショー・ラジニーシの死(1990年)の後の変革後は、「明け渡し」ではなく[[瞑想]]が悟りへの架け橋として定義され、瞑想に身を委ねることで自我が消滅するとされた{{sfn|Goldman|2009|pp=311–327}}{{sfn|Goldman|2004|pp=119–138}}。) |
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その教えは講話を通じて伝えられたが、学術的なものではなく、ジョークを交えて語られた<ref name="JMF1-2">{{harvnb|Fox|2002|pp=1–2}}</ref><ref name="BM1">{{harvnb|Mullan|1983|p=1}}</ref>。彼は覚者の伝統的なイメージとかけ離れた行動をとることを楽しみ、特に初期の講義は[[ユーモア]]があり、どんな事もシリアスに扱わないことで知られた<ref name="JMF6">{{harvnb|Fox|2002|p=6}}</ref><ref name="HBU-ZTB169" />。こうした振る舞いは、いかに気まぐれに見え受け入れがたいものであっても、人々を「(知的・理性的な)心(マインド)の超越」へと導く「変容のテクニック」であると説明された<ref name="JMF6" />。彼は体系だった教義を打ち立てることに関心があったわけではなく、自身のメッセージを「ある種の[[錬金術]]、変容の科学」と考えていた<ref name="Gietz"/>。その変容は、タントラの技法の助けを借りて到達するもので、自我と批判的思考の解体を目的としており、それは物事を「あるがままに」完全に受け入れることであり、絶対的な献身・専心である<ref name="Gietz"/>。個人の自我の放棄、個人の物質的自己と霊的自己の統合というテーマは、彼の哲学で最も重要なもので、その矛盾を含む語りの中で、驚くほど明確で一貫している{{sfn|Goldman|2004|pp=119–138}}。ヒュー・B・アーバンは、オショー・ラジニーシの哲学は因習を打破しようとするもので、折衷的でしばしば矛盾して見えるが、その核心にあるのは「ゾルバ・ザ・ブッダ」の理想であると述べている{{sfn|Urban|2022}}。「ゾルバ・ザ・ブッダ」は、、『[[その男ゾルバ]]』の主人公のギリシャ人ゾルバの物質主義と、仏陀の霊性が融合しており、官能とこの世の享楽を、この世ならぬ超越と結びつけることができる、完全に統合された人間とされる<ref name="HBU-2016-0">{{harvnb|Urban|2016|pp=1–24}}</ref>。オショー・ラジニーシは、他の宗教が物質的なものと霊的なものを分離しようとするのに対し、完全に悟りを開いた存在は、ゾルバの感覚的な享受と生への欲望と、[[仏陀]]の[[スピリチュアリティ]]と超越的な洞察力とを併せ持つと主張した{{sfn|Urban|2022}}。彼が説いた新しい理想の人間像は、世俗的なものと神聖なもの、科学的なものと神秘的なものを統合し、物質と魂の両方を全面的に支持する人間というもので、[[禅宗|禅]]、[[タントラ]]の伝統、繁栄(経済的成功)のスピリチュアリティが融合しており、そのビジョンは恵まれた立場の多くのアメリカ人を魅了した{{sfn|Goldman|2009|pp=311–327}}。 |
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1970年アーチャリヤ・ラジニーシだったときに書いた十戒があり、彼はいかなる種類の戒律にも反対していたため、これを書くのは困難だったと述べているが、それは次のようなものである{{sfn|Goldman|2004|pp=119–138}}。マリオン・S・ゴールドマンは、これらの戒律は、30年以上に渡り運動の基盤となってきた不変の教義であると述べている{{sfn|Goldman|2004|pp=119–138}}。彼の元の手紙では、3、7、9、10番下線が引かれている{{sfn|Goldman|2004|pp=119–138}}{{sfn|Goldman|2004|pp=119–138}}。 |
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メンバーには世代間ギャップがあり、日本でいう[[全共闘]]世代当たる政治闘争の世代のメンバーに対して、一回り下のメンバーは政治活動に興味はなく、「あの人たち、昔政治運動なんて馬鹿なことやったんだよね」という意識で見ている{{sfn|伊藤|1998|}}。さらに一回り下になると、上の世代に見られた「世の中の変革のためには、まず自分が変わらなければならない」といった問題意識はなく、かなり功利主義的にスピリチュアルな世界をとらえている{{sfn|伊藤|1998|}}。 |
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{{Quote| |
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# Never obey anyone's command unless it is coming from within you also.(自分の内側から発せられたものでない限り、誰の命令にも決して従ってはならない。) |
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# There is no God other than life itself.(生命そのもの以外に神は存在しない。) |
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# Truth is within you, do not search for it elsewhere.(真理は自分の中にある、他で探してはならない。) |
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# Love is prayer.(愛とは祈りである。) |
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# To become a nothingness is the door to truth. Nothingness itself is the means, the goal and attainment.(無になることは真理への扉である。無そのものが手段であり、目標であり、達成である。) |
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# Life is now and here.(人生は今ここにある。) |
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# Live wakefully.(目覚めて生きよ。) |
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# Do not swim—float.(泳ぐな、浮かべ。) |
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# Die each moment so that you can be new each moment.(毎瞬新しくなれるように、毎瞬死なねばならない。) |
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# Do not search. That which is, is. Stop and see.(探してはならない。あるものはある。立ち止まって見よ。){{sfn|Goldman|2004|pp=119–138}}|アーチャリヤ・ラジニーシ}} |
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彼は観念よりも経験を優先し、世界は対立物のダイナミックな相互関係と矛盾を具現していると信じていた{{sfn|Palmer|Bromley|2007|pp=135–158}}。全ての人間は生まれながらに神聖(divine)であり、本質的に悟りの能力を持つ仏陀(目覚めた人)であるが、人間は自分が仏陀であることを理解していない{{sfn|Palmer|Bromley|2007|pp=135–158}}<ref name="HBU-2016-1"/>。問題の原因は、生き残るのための機構である心(マインド)であり、人間は心を使って生存戦略を練る過程で、真の本質や真正の自己を表現することをやめてしまう{{sfn|Palmer|Bromley|2007|pp=135–158}}。その結果、人間は反応的で道具的な存在として生き、この生存戦略の一環として本当の感情を抑圧することになり、自ら作り上げた抑圧的で腐敗した制度に囚われてしまっているのだという{{sfn|Palmer|Bromley|2007|pp=135–158}}。人間は仏陀である自らを見失い、社会や宗教、教育による抑圧で狂っているため、揺さぶり、衝撃を与え、狂的なテクニックで狂気を浄化する必要があると考えた<ref name="HBU-2016-1"/>。本来の在り方から疎外された現代人は、{{仮リンク|限界経験|en|Limit-experience}}によってその窮屈な自我から解放され、全てが一つになった状態で悟りに達することができるとしており、そのために様々なグループ・セラピーや瞑想法が提供された<ref name="Gietz"/>{{sfn|足沢|2000|p=91}}。東洋の伝統だけでなく、ポスト・フロイト派の精神分析家[[ヴィルヘルム・ライヒ]]等、西洋の思想・セラピーも幅広く取り入れており<ref name="BM33">{{harvnb|Mullan|1983|p=33}}</ref><ref name="HBU-2016-2"/>(詳細は[[#影響を受けた思想・人物、類似性の分析]]を参照)、彼の教えは有力な西洋の教えによってフィルタリングされている<ref name="Aveling"/>。特に性と死への恐怖を克服する必要があるとされ、グループ・セラピーでは、性と死の領域を受け入れ超越する試みの一環として、自由な性愛、侵害行為、暴力の経験が実施されていた<ref name="Gietz"/>。エイズが流行して初めて、適切な防護策が重視されるようになり、自由な性愛の実践の重要性は徐々に低下した<ref name="Gietz"/>。 |
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日本での運動の参加者には、ラジニーシには興味があるが、他のメンバーは興味がないという人もおり、ネオ・サンニヤシンたちの熱狂的で宗教的な雰囲気には違和感や嫌悪感を覚えるという人もいる{{sfn|伊藤|1997}}。ラジニーシだけに興味があるという人は、教団を作り率いたラジニーシの行動や責任に関心はないようである。運動の参加者は、ラジニーシの存在や世界観に対する強い興味関心がまずあり、それに付随する形で他のメンバーとの関係を育てているようである{{sfn|伊藤|1997}}。 |
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1970年に行われた一連のヒンディー語の講話(『''In Search of the Miraculous''(奇跡を求めて)』)には、彼の講話全体の核となる基本テーマが見られ、それは「神とは人格(person)ではなくエネルギーである」「神とは存在そのものである」というものである<ref name="Aveling"/>。彼が言うエネルギーは、宇宙や人間の身体を含むあらゆるものに満ちており、神聖であると同時に「ごく当たり前のもの 」でもあるという<ref name="Aveling"/>。[[マインドフルネス]]を通してこのエネルギーへの意識を高め、自我と俗世の知識(慣習的な社会的行動のルールを含む)を克服することで、自分という存在のクオリティを変えることができるという<ref name="Aveling"/>。また初期の講話では、[[クンダリニー]]、[[シャクティーパット]](霊的エネルギーの授与)、[[チャクラ]]、5つの{{仮リンク|コーシャ (インド思想)|label=コーシャ|en|Kosha}}といった概念が強調されている<ref name="Aveling"/>。 |
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ラジニーシの死去後も講話の本は売れ続け、多くの信者・ファンがいる。書店では現在も、オショー・ラジニーシまたはオショー名義の講話の本や、彼の教えをコンセプトにしたタロットカードのデッキ「osho禅タロット」を買うことができる{{sfn|Olsen|2018}}。 |
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思想としては、多くの近現代インドの聖者と同様に[[一元論]]的な性格が強い{{sfn|山下|2005|p=383}}。何を悟るのかについてまとまった考えは示されていないが、足沢一成は、彼の「悟り」の構造はヒンドゥー教のアドヴァイタ・ヴェーダーンタ([[不二一元論]])と同じであり、その教えを総合的に見ると、「(仏陀の悟りのように)何らかの真理を知ることではなく、セックスにより個と個に一体感が生じるように『全体』である『エネルギー』が個に流れ込む状態そのものを経験することと言えるであろう。」と述べている{{sfn|足沢|2000|p=90}}。社会学者のルイス・F・カーターも彼の思想がアドヴァイタ・ヴェーダーンタに基づくと見ており、そこでは、分離し、二元的で、一時的なものに過ぎない人間の経験は、すべてが神聖で絶対的な価値を持ち、それ自体が終着点である宇宙意識(cosmic consciousness)のダンスや遊びの一種であると考えられている<ref name=Carter267>{{harvnb|Carter|1990|p=267}}</ref>。ただし、アドヴァイタ・ヴェーダーンタのように、この世を幻想([[マーヤー]])と拒絶することはなく、肯定した<ref name="Aveling"/>。彼の教えは、中世インドに始まる「伝統に反対する伝統」であり、無属性・無形の至高神あるいは究極的な真実在とグルへの強い信仰を中心とする[[バクティ]]の一種ニルグナ・バクティであるという見方もある<ref name="Aveling"/>{{sfn|橋本|1995|p=108}}。 |
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性を扱うタントラ的スピリチュアリティはニューエイジと[[自己啓発]]運動で広がっているが、現代のタントラの指導者の多くはラジニーシの弟子、孫弟子である{{sfn|Puttick|2009|pp=270-271}}。 |
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数多くの神秘主義文献の解釈を通じて、(一時的なものではない)永続的な悟りの重要な提唱者となったが、一方、努力や修行の段階を経ずに突然訪れる悟りを高く評価しており、「[[悟り]](enlightenment)は段階的なものだという伝統があるが、その伝統は実のところ真実ではない。それは人間の心(マインド)に対する哀れみから来た半面の真実にすぎない。悟りは突然であり、それ以外にはあり得ない」と述べている{{sfn|Jacobs|2020|pp=392-393}}。(1990年代には、こうした努力のいらない突然の悟りという概念が流行した{{sfn|Jacobs|2020|pp=392-393}}。) |
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==批評== |
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600冊近く出版された著書の中で(そのほとんどは彼の講話やイニシエーション・トークの記録)、ほとんどすべての主要な宗教的・哲学的伝統について論じており、それらは[[禅宗]]を主として混ざり合い、人生のあらゆる面を十分に楽しむようにという激励がスパイスとなっていた{{sfn|Goldman|2009|pp=311–327}}。ジャイナ教、ヒンドゥー教、[[カビール]]、[[バクティ]]詩人、[[タントリズム]]、[[ハシディズム]]、[[道教]]、[[シク教]]、イスラム教の[[スーフィズム]]、[[キリスト教]]の[[福音書]]、グノーシス派の[[トマスによる福音書]]、古代ギリシャの哲学者[[ヘラクレイトス]]、キリスト教神秘思想家の[[偽ディオニュシオス・ホ・アレオパギテース|ディオニュシウス・アレオパギタ]]や[[ハリール・ジブラーン]]、[[大乗仏教]]、[[禅宗]]の師、[[神智学]]の{{仮リンク|メイベル・コリンズ|en|Mabel Collins}}、[[ゲオルギイ・グルジエフ|グルジエフ]]、[[マルティン・ブーバー]]、[[ニーチェ]]、マルクスやフロイト、企業家の[[ヘンリー・フォード]]等の多様な伝統や東洋と西洋の様々な神秘主義者・哲学者等の教えを引用し、ヨーガや禅の伝統、[[ウパニシャッド]]や[[グル・グラント・サーヒブ]]などの聖典について語った<ref name="BM33" /><ref name="Gietz"/><ref name="Aveling"/>{{sfn|Goldman|2004|pp=119–138}}。彼の講話の内容は厳密なものではなく、学術的な発表ではなかった<ref name="Aveling"/>。若い頃に学んだ「彼らの談話を使い、彼らの言語を使い、彼らの聖典を使う」という原則を、自分のメッセージを伝える手段として用いていた<ref name="Aveling"/>。セックスというテーマが運動の普及の媒介になった{{sfn|Tiwary|2024|pp=152–188}}。講話で強調されるポイントは一定ではなく、時とともに変化し、[[パラドックス]]や逆説を大いに楽しんでいたため、全体的な内容を要約することは難しい<ref name="JMF2">{{harvnb|Fox|2002|p=1}}</ref>。講話で取り上げられる様々な宗教はそれぞれ独自の体系をもつため、題材が巧みに移り変わる彼の講話は、全体としてみると矛盾しており、講話ごとに彼の教えは異なるという印象を与える{{sfn|足沢|2000|p=86}}。彼自身こうした面に自覚的であり、悟りは語ることができないもので、宗教は隠喩によってのみ表現されうるため、講話を文字通りに受け取ると矛盾が生じると説明している{{sfn|足沢|2000|p=86}}。1970年代・1980年代には、彼とのつながりを保ち、究極の師として受け入れる弟子である限り、講話のどの部分を受け入れ、拒否するかは個人次第だった(現在では首尾一貫した瞑想がより重視されており、師弟関係の重要性は薄まっている)。 |
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西洋のアイデアも取り入れており、対立するものの統一という考え方は[[ヘラクレイトス]]を思わせ、無意識と神経のパターンの表出に行動を支配された機械として人間をとらえる考え方は、[[フロイト]]や[[グルジェフ]]と多くの共通点を持っている。ラジニーシの「新しい人間」というヴィジョンは、[[ニーチェ]]の「善悪の彼岸」を連想させる。性的欲求の抑圧に精神不調の原因を見出す考え方は[[ヴィルヘルム・ライヒ]]のライヒ派セラピーの影響があると思われ、性的解放に関する見解は[[D・H・ローレンス]]と比される{{sfn|足沢|2000|p=76}}{{sfn|Sinha|2015}}。 |
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ヒンドゥー教の分派ともいえる[[ジャイナ教]]徒として生まれ、自身の背景の多くを否定したが、ジャイナ教の影響がはっきり見られる{{sfn|Bruce|2017|pp=60–84}}<ref name="Aveling"/>。インドという土地の神聖さを信じていると公言していたが、これは正統派ヒンドゥー教徒の人々の見解と同じ考えであり、彼の思想としては珍しい{{sfn|Dempsey|2011|pp=76-107}}。[[マハトマ・ガンディー]]等の[[ヒンドゥー教]]の政治指導者を軽蔑し、仏陀やキリスト等の古の偉大な宗教指導者を称賛していたが、サニヤス、ダルシャン、アシュラムなどのヒンドゥー教用語を使用しており、これが彼の語りに秩序を与えている{{sfn|Bruce|2017|pp=60–84}}。 |
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支持者からは、自由と覚醒の中に生き続けることを教える<目覚めた者>、<光明を得た者>と呼ばれた<ref>{{Cite book|title=反逆のブッダ|author= ヴァサント・ジョシ|date=|year=1984|publisher=めるくまーる}}---p9</ref>。イギリスの「サンデータイムズ」の「二十世紀を作った千人」{{いつ|date = 2020年9月}}の一人と評された<ref name="OSHO2009">{{Cite book|title=神秘家の道|author=OSHO|date=|year=2009|publisher=市民出版社}}</ref>{{要ページ番号|date=2020年9月}}。 |
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=== 反社会主義・グローバル経済支持 === |
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エリザベス・パティックは、ラジニーシの性の教えはただの自由恋愛の免罪符ではなく、タントラを心理学と統合することで、現代の西洋人が受け入れ学べるものとして提示したと評価した{{sfn|Puttick|2009|pp=280-281}}。 |
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オショー・ラジニーシは高校時代に[[社会主義]]に深く興味を持っていたが、その後、経済システムとしての社会主義に次第に幻滅していった<ref name="HBU-2016-2"/>。1960年代後半までに彼の社会主義に対する疑念は、その知的基盤と、現代インドにおける社会的・経済的・倫理的影響に対する非常に厳しい批判に発展した<ref name="HBU-2016-2"/>。著書『''Beware of Socialism !''(社会主義に用心せよ!)』 (1978年)では包括的な社会主義批判が行われたが、1960年代後半から死去するまでの彼の講話全体に同様の見解が見られる<ref name="HBU-2016-2"/>。彼は社会主義を主に、貧しい持たざる者たちが、苦労して自らの力で豊かになった裕福で勤勉な人間に対して抱く嫉妬に基づくイデオロギーとみなし、非難した<ref name="HBU-2016-2"/>。 |
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オショー・ラジニーシは、社会主義は富を貧困者に分配するという「不自然な」試みに基づいているが、資本主義は、干渉的な国家や無能な官僚の介入なしに資本が成長する、社会主義よりはるかに「自然な」イデオロギーであると考え、経済成長の妨げは政府であり、政治家は経済成長の邪魔をする無能な「愚か者」の集まりに過ぎないと批判した。彼にとって、資本主義は自由に関するものであり、「資本主義は、あらゆる種類の人々に、人生のあらゆる過程において、成長し自分らしくあるための完全な自由を与える人道的なシステムである。…資本主義の終焉の鐘は、結局は人間自身の終焉の鐘となるかもしれない。」と語り、ロックフェラー家のような成功した資本家が残りの民衆に富を分配することで、真に公平で永続的な「社会主義」社会が創造されるとした<ref name="HBU-2016-2"/>。彼はインドにおけるアメリカ式資本主義の初期の提唱者であり、[[マハトマ・ガンディー]]の禁欲主義、質素さ、国家主義を否定し、「私にとって、アドルフ・ヒトラーはマハトマ・ガンディーほど危険ではない。アドルフ・ヒトラーはマハトマ・ガンディーほど暴力的ではない。」と語り、グローバル資本主義、物質主義、繁栄を支持する、一種の「反ガンディー」として活動した<ref name="HBU-2016-2"/>。 |
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[[グルジェフ]]とラジニーシの類似性は、多くの第三者や支持者によって指摘されている。アメリカの作家{{仮リンク|トム・ロビンス|en|Tom Robbins}}は、ラジニーシの公式サイト Osho.com に引用され続けている文章で、「ウィットと遊び心は非常に重要な悪の超越であり、私が思うに、オショーはこの一点に関して、同時代の誰よりも深い理解を持っていた。グルジェフの教えにはその要素があったが、過去50年でオショーほど遊び心と機知の価値を知っていた人はいない」と評し、彼の言葉は扇動的なだけでなく、支配欲の強い人々を脅かす真実性を持つがゆえに「イエス・キリスト以来、最も危険な男である」と称賛している{{sfn|Urban|2016|p=25}}{{sfn|Urban|2016|p=39}}。 |
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彼は同時代の他の国際的なグルにように、[[ヒンドゥー・ナショナリズム]]を主張したことは一度もなく、国際資本主義を信奉し、近代技術と西洋資本主義と共に、性欲と肉体的快楽を受け入れる、新しい種類の官能的なスピリチュアリティを主張した<ref name="HBU-2016-2">{{harvnb|Urban|2016|pp=49–75}}</ref>。 |
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===自我と心=== |
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インド思想史研究者の山下博司は、彼の教えは、インドの近現代の聖者の多くと同じく一元論的な性格が強く、内容自体はある意味で平凡であるが、多くの支持者を引き付け得たのは、語りの巧みさが関係しているのだろうと評している{{sfn|山下|2005|p=384}}。 |
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オショー・ラジニーシは、人間の究極的な目的である光明(悟り)を得た状態、「本来の自分」とは、人々の「真の個性」が全面的に開花し、自己が宇宙全体と一体化した意識状態であり、虚りの[[実存]]である人間の自我(ego)が最大の障害になるとする{{sfn|伊藤|2003|p=65}}。自我は教育、社会的条件づけ、[[社会化]]によって強まっていくと考え、親の教育や学校教育、道徳的、宗教的な教えなど全ての教育は、特定の信念体系や社会的役割を教え込み、人間を鋳型に嵌め込んでしまうと考えて、既存の教育全てを激しく批判した{{sfn|伊藤|2003|p=65}}。 |
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また、特に組織宗教やその指導者を激しく批判した{{sfn|伊藤|2003|p=65}}。批判のポイントは、従来の組織宗教の多くが彼岸(あの世、死後)での目的達成を掲げているため、生きることを全体的に享受しスピリチュアルな成長の機会とすることが妨げられること、オショー・ラジニーシは性的エネルギーを本来自己変容の機会であるとみなしているが、彼らはそれを否定し性をタブー化していること、権威主義的な宗教組織の制度が本来内なる体験から見いだされる宗教的エッセンスを見失わせることである{{sfn|伊藤|2003|p=65}}。 |
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[[伊藤雅之]]は、ラジニーシの書籍の内容と実際にやっていることには、ギャップがあると述べている{{sfn|伊藤|1998|}}。[[足澤一成|足沢一成]]は、ラジニーシの体制批判、「自然であること」の重視は、アメリカでの統制的な体制といささか矛盾するようだと述べている{{sfn|足沢|2000|pp=87-88}}。また、聖なるエネルギーに満ちたグルが弟子に「悟り」を与えることができ、それにはグルへの絶対服従が必要であると解釈できる考え方は、教団の閉鎖性や反社会性を増長させたと指摘している{{sfn|足沢|2000|p=89}}。 |
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オショー・ラジニーシは、固定された永続的な自己や[[アイデンティティ]]という考え自体に異議を唱え、絶えず移り変わるアイデンティティという逆説的な理想を掲げた<ref name="HBU-2016-1">{{harvnb|Urban|2016|pp=25–48}}</ref>。固まった考え方、正統性、そして何より宗教的教義に抵抗し、常に流動する「流動的な人間」である「新しい人間」の誕生を呼びかけた<ref name="HBU-2016-1"/>。光明(悟り)を得る妨げとなる自我を落とすためには、「いかなる価値判断もせずに自己の信念や思想、感情のパターンを見守り続けていくこと」が必要だとし、「過去や未来に煩わされることなく『いま、ここ』で覚醒する」ことを強調している{{sfn|伊藤|2003|pp=65-66}}。ニューエイジでは理性より感性が重視され、理性的な議論を積極的に行わない{{sfn|伊藤|2003|p=84}}。サニヤシン達も同様に、理性重視の「マインド」という言葉をしばしば否定的に用いる{{sfn|伊藤|2004|p=89}}。 |
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女性を「直観力、受容力、献身などの美徳」ゆえに霊的に優れていると考え、女性性の発達による霊性の向上を語ったが、女性に「古典的な女性性」を求めること自体が時代錯誤だという批判がある{{sfn|Puttick|2009|pp=270-271}}。 |
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また彼自体が、流動的で移り変わりやすく、時に矛盾した人物であり、その時々、それぞれの聴衆に合わせた複数のアイデンティティがあるかのように見え、伝記を再構成する上での難しさとなっている<ref name="HBU-2016-1"/>。初期の弟子たちは彼のことを、狂人、救済者、詐欺師、聖人の、移り気な混合体として表現した{{sfn|Goldman|2014|pp=176–194}}。 |
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ハノーバー医科大学のトルステン・パッシー医学博士によると、オショー・ラジニーシのコミュニティでは、[[幻覚剤]]の一種[[メチレンジオキシメタンフェタミン|MDMA]](通称エクスタシー)が、「社会規範の束縛からの解放」の手段として、また自己啓発の触媒として使われていた{{sfn|Passie|2023|pp=87–114}}。 |
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===揺さぶり、衝撃による目覚めの促進=== |
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真の「師」とは、弟子をいい気持ちにさせたり、すべての答えを与えたりする人ではなく、むしろ、混乱させ、自問自答させ、激しい内面の葛藤を引き起こす人物だと語り、人間はみな本質的に霊的であり、仏陀でさえあると繰り返し説き、「仏陀の仕事とは何か?私たちを揺さぶることだ。私たちが意識のある生活だと勘違いしている昏迷の状態から、私たちの本性である悟りの意識への、突如とした恍惚の気づきへと、私たちに衝撃を与えることだ。」と語った<ref name="HBU-2016-1"/>。人間は狂っているのだから、狂的なテクニックだけが、その平凡で快適な生活を揺さぶり、狂気の浄化を助けることができるとされた<ref name="HBU-2016-1"/>。 |
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=== 瞑想とセラピー === |
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瞑想を単なる修行としてではなく、全ての瞬間に維持すべき意識状態、信念と期待によって条件付けられた機械的な反応の眠りから人間を目覚めさせる完全な気づき(アウェアネス)として提示した<ref name=Wallis131>{{harvnb|Wallis|1986|p=}}, reprinted in {{harvnb|Aveling|1999|pp=130–133}}</ref><ref name="JMF4">{{harvnb|Fox|2002|p=4}}</ref>。彼は心理的・感情的パターンへの気づきのために、瞑想の準備段階として西洋の心理療法を採用した<ref name="JMF5" />。オショー=ラジニーシ運動における瞑想やグループ・セラピー([[集団心理療法]])の目的は、他のニューエイジの実践と同様に、「社会や文化の影響によって鋳型にはまってしまっている自己を解放し、瞬間、瞬間を覚醒して生きること」であるとされる{{sfn|伊藤|2004|p=89}}。 |
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オショー・ラジニーシはセラピーを瞑想に入る準備とし、各種セラピーを開発、導入した{{sfn|足沢|2000|p=76}}。彼が勧めたセラピーの大半は、1960年代から70年代に[[ヒューマンポテンシャル運動]]で開発されたものに由来しており、多くのセラピストが新しい可能性を求めてインドのアシュラムに集まりセラピーを行った{{sfn|伊藤|2003|p=67}}。直接肉体にアプローチするセラピー、幼少期の自分を再体験するセラピー、関係性や性のタブーを見つめなおすセラピーなど、様々なものが行われたが、伊藤雅之によると、セラピーの主要な目的は2つで、第1は「怒りや恐怖、嫉妬など抑圧された感情を見つめ、感情のブロックを取り除いてエネルギーが流れるようにすること」、第2は「『ありのままの自分』を受け入いれ、気づきを高めていくこと」である{{sfn|伊藤|2003|pp=67-68}}。 |
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意識変容を促進する手段として、オショー・ラジニーシは全部で100以上の瞑想技法を提案した<ref name=Wallis131 /><ref name="JMF4" />{{sfn|伊藤|2003|p=70}}。東洋の伝統では静かに座って思考を観照することが瞑想であったが、思考や感情をより観察しやすいように体の動きを瞑想の中に取り入れた{{sfn|伊藤|2003|p=70}}。その「アクティブ(動的な)瞑想」の技法は、静寂に至る身体活動の段階を特徴とする<ref name="JMF5">{{harvnb|Fox|2002|p=5}}</ref>。 |
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この中で最も有名なのは、1970年4月に提唱されたダイナミック瞑想で<ref name="JMF5" />、人間の習慣的な思考と行動のパターンに衝撃を与えるようにデザインされている<ref name="HBU-2016-2"/>。オショー・ラジニーシはセックスは悟りにつながると考えていたため、セックスはしばらくの間、ダイナミック瞑想の一環として日常的に行われていた{{sfn|Timalsina|2011}}。 |
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ダイナミック瞑想は今日にまでオショー=ラジニーシ運動の中核をなす実践法であり<ref name="HBU-ZTB172" />、彼の哲学と方法全体の一種の縮図だと言われている<ref name="HBU-ZTB172">{{harvnb|Urban|1996|p=172}}</ref>。「私のダイナミック瞑想の技法は、あなたの[[神経症]]をありのままに受け入れ、解放しようとするものである。この技法は基本的にカタルシスから始まる。隠されたものは何でも解放されなければならない。…あなたが 『意識的に狂気』にならない限り、決して正気になることはない。<ref name="HBU-2016-2"/>」この瞑想は人為的に混沌状態を引き起こすもので、オショー・ラジニーシは身体の不安やストレスを浄化すると主張した{{sfn|McDaniel|2004|pp=265–294}}。伝統的な静かな瞑想形式とは異なり、ダイナミック瞑想では[[カタルシス]]は、内面の混乱と動揺を取り除く準備段階であり、心を落ち着かせるためのものと見なさていた<ref name="Aveling"/>。 |
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参加者は激しく呼吸し、叫び、飛び跳ねて泡を吹き、そのあとに伝統的な静的な瞑想が行われた{{sfn|Bruce|2017|pp=60–84}}。この瞑想は目を閉じるか目隠しをした状態で行われ、5つの段階から成り、そのうちの4つは音楽を伴う<ref name="Gordon3-8">{{harvnb|Gordon|1987|pp=3–8}}</ref>。まず瞑想者は10分間、鼻からの速い呼吸を行う<ref name="Gordon3-8" />。後半の10分間は[[カタルシス]]を得るためのものである。「何が起きても、起こるままに任せなさい。…笑う、大声を出す、絶叫する、飛び跳ねる、揺れる、あなたがやりたいと感じたことは何でも、それをやりなさい!」<ref name="JMF5" /><ref name="Gordon3-8" />(この段階は、1970年に広く普及し始めた{{仮リンク|原初療法|en|Primal therapy}}によく似ている<ref name="HBU-2016-2"/>)。次に10分間、両手を上げてジャンプし、足裏が地面に着くたびにフー!と叫ぶ<ref name="Gordon3-8" /><ref name="MFLM35">{{harvnb|Osho|2004|p=35}}</ref>(「フー」はスーフィズムの言葉で、イスラム教の神の名前の1つで「彼」を意味する<ref name="HBU-2016-2"/>)。次の段階は沈黙であり、瞑想者は突然完全に動きを止め、15分間完全に動かずに、起こっていること全てを観察する<ref name="Gordon3-8" /><ref name="MFLM35" />(オショー・ラジニーシは、この段階がグルジエフに触発されたものだと認めている<ref name="HBU-2016-2"/>)。最後の段階は、15分間の踊りと祝賀である<ref name="Gordon3-8" /><ref name="MFLM35" />。 |
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クンダリーニ「シェイキング」瞑想やナーダブラーマ「ハミング」瞑想など、他の動的な瞑想技法も開発したが、これらの瞑想技法はある種の身体的な活動も含むものの、それほど動的なものではなかった<ref name="JMF5" />。彼はまた、弟子たちに無意味な音をただしゃべらせるジベリッシュ・セッションを主催したが、彼によれば、これは心のゴミを一掃し、リラックスさせるものである<ref>{{Cite web |date=30 October 2010 |first=Chaitanya|last=Keerti|title=It's all gibberish|url=https://timesofindia.indiatimes.com/speaking-tree/its-all-gibberish/articleshow/6836508.cms |access-date=1 May 2022 |website=The Times of India |language=en}}</ref><ref>{{Cite web |title=OSHO Gibberish Meditation |url=https://www.osho.com/meditation/osho-active-meditations/osho-gibberish-meditation |access-date=1 May 2022 |website=OSHO – Transform Yourself through the Science of Meditation}}</ref>。彼の後期の「瞑想療法」は数日間のセッションを必要とし、オショー・ミスティック・ローズは、1週間は毎日3時間笑い、2週目は毎日3時間泣き、3週目は3時間黙想することからなる<ref name="TLS198">{{harvnb|Aveling|1994|p=198}}</ref>。これらの「起こっていることを見ること」のプロセスは「気づき(アウェアネス)への跳躍」を可能にするという<ref name="JMF5" />。 |
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最初のインド時代のプネーのアシュラムでは、悟り(光明)を得る手助けとしてかなり実験的なセラピーが行われており、1970年代にアシュラムで行われたほぼ全てのセラピーは全裸になるよう求められ、[[エンカウンター・グループ]]の中では他の参加者への肉体的暴力が許されることもあり、怪我や骨折で病院に連れていかれた者もいたと言われ、[[タントラ]]・グループではセラピー内で相手を探しセックスすることが求められ、数日間のセラピーで複数の相手とセックスすることもありふれていたという{{sfn|伊藤|2003|pp=68-69}}。こうした実験的なセラピーの採用は、オショー=ラジニーシ運動の特徴となっており、他の成長センターで行われたセラピーとは大きく異なり、強烈なものだった{{sfn|伊藤|2003|p=68}}。母親が幹部で運動の中で育った{{仮リンク|ティム・ゲスト|en|Tim Guest}}は、グループ・セラピーでは、恋人が他の人とセックスしているのを眺め、自分の中に湧き上がる感情を観察することも人気の実践だったと語っており、嫉妬や怒りを感じたら、それは無執着を練習する絶好の機会とされた{{sfn|Bruce|2017|pp=60–84}}。 |
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マ・アナンド・シーラの説明によれば、プネーのアシュラムのセラピーでは、時に「本当に恐ろしいこともあった。骨折したり、目の周りに青あざができるのはよくあることだった」が、「参加は常に自発的だった」{{sfn|Lucia|2023|pp=375–395}}。それでも、こうしたセラピーは「西洋人」には有益だが、インド人には誤解されるだろうという共通認識があり、オショー・ラジニーシもこのことを認識しており、インド人の参加を禁止した{{sfn|Lucia|2023|pp=375–395}}。彼は最終的に「西洋の人々は非常に抑圧的な世界から来た。彼らのライフスタイルはインド人とは違う。考え方も違う。彼らにはアクティブなセラピーが必要だ。インド人にはもっと受動的で静かな瞑想が必要だ。」と説明し、これによりインド人サニヤシン達は、自分たちの方が西洋人より霊的・精神的に発達しているのだと思ったという{{sfn|Lucia|2023|pp=375–395}}。 |
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==== あらゆる境界の破壊 ==== |
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最初のプネーのアシュラムは徐々に暴力的、権威主義的になっていったが、オショー・ラジニーシはアシュラムにおける自由の欠如と暴力の容認について、あるサニヤシンから直接質問され、アシュラムは決して民主的なものではなく、極めて独裁的なもので、自分(オショー・ラジニーシ)が決めたことは絶対だとはっきり述べている(やり取りは1978年に教団の雑誌に掲載された)。彼はまた、こうしたグループ・セラピーの一部にある暴力や性的実験は、あらゆる境界を根本的に破壊し、完全な精神的解放をもたらすために必要だと説明し、アシュラムに残るかを去るか、何に参加するかは当人が選ぶことだと諭している<ref name="HBU-2016-3"/>。ティム・ゲストは、あらゆる境界を見つけて立ち向かい、そのためなら、泣いても叫んでも、喧嘩でもセックスでも、何をしても許されたと語っている<ref name="HBU-2016-2"/>。 |
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===タントラと性愛=== |
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ヒュー・B・アーバンによると、欧米で再解釈された現代の[[タントラ]]の世界的普及で最も大きな役割を果たしたのはオショー・ラジニーシである{{sfn|Urban|2022}}。彼はインドの因習的伝統や組織宗教に対する批判を行い、セックスが超意識に至る手段になりえると説いて議論を巻き起こし、身体を重視するホリスティックな教え、[[タントラ]]的な「悟り」とそこに至る方法を教えた{{sfn|Puttick|2009|p=268}}{{sfn|伊藤|1999|p=14}}。 |
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1968年の講義に基づく『''From Sex to Superconsciousness''(セックスから超意識へ)』はセックスをテーマにしており、1960年代後半以降の彼の講話には、性的なテーマが一貫して含まれている(現在の Osho出版社は、「''Sex Matters''(セックスの問題)」(2003年)、 「''The Science of Tantra''(タントラの科学)」 (2010年)、 「''Tantra: The Way of Acceptance''(タントラ:受容の道)」 (2011年)、『''Tantric Transformation: When Love Meets Meditation''(タントラ的変容:愛が瞑想と出会うとき)」(2012年) などの書籍やDVDとして、性的テーマを扱った講話を継続的に再パッケージし販売している。)<ref name="HBU-2016-3"/>。 |
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オショー・ラジニーシはカリフォルニアの[[エサレン協会]]などのニューエイジ・センターで広まっていたアメリカ風のタントラと性的解放の理想に強く影響を受け、[[ヒンドゥー教]]と仏教のタントラの側面を、アメリカのニューエイジ運動にあった現代の心理学、[[精神分析]]理論と技法と統合し、伝統的な南アジアのタントラを再定義し、性愛と性的快楽、[[オーガズム]](性的絶頂)の原始的な力を究極の神性の源、一種の「超意識」に変えることに主に焦点を当てた独自の「ネオタントラ」を創り出した{{sfn|Urban|2022}}{{sfn|Puttick|2009|pp=280-284}}。彼のネオタントラは性愛を奨励しており、それが愛と宗教的経験(スピリチュアルな目覚め)を生み出すと信じていた{{sfn|McDaniel|2004|pp=265–294}}。彼はタントラの伝統的なヨーガ的、禁欲的な側面に反対し、禁欲主義者は深刻な心理的問題を抱えた人々であると書き、「生命に対して非常に敵対的なもの、生命に対して非常に否定的なもの、生命に対して非常に拒否的なものが、人類の血の流れの中に入り込んでしまった。そしてそれは、いわゆる禁欲主義者たちを通して入ってきた。彼らはマゾヒストであり、自分自身を苦しめている。彼らの唯一の喜びは、より多くの不幸を作り出すことにある。」「最も偉大で最も知的な人々は、最も性的な人々である。愛のエネルギーは基本的に知性だからだ。愛することができなければ、あなたはどこか閉じていて、冷たく、流れることができない。」と説いた{{sfn|McDaniel|2004|pp=265–294}}。 |
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生命エネルギーそのものである性欲を結婚という社会制度や宗教的禁欲で抑圧すると、人間の意識は歪み、その能力の委縮につながると考えた{{sfn|大田|2011|pp=96-98}}。オショー・ラジニーシの考えでは、タントラ(ネオタントラ)とは、単なる肉体と精神の完全な統合への道ではなく、宇宙的な究極のオーガズムへの道でもなく、むしろ革命的でありうるスピリチュアルな道であり、組織的なヒエラルキーや確立された権威のない宗教というビジョン、個々の人間の至高の神性のみに基づく宗教のビジョンを提供するものでもある<ref name="HBU-2016-3"/>。オショー・ラジニーシは[[精神分析学]]の創始者[[ジークムント・フロイト]]や、[[ヴィルヘルム・ライヒ]]のようなポスト・フロイト派に倣い、セックスは「人間の最も強力な本能」であり、人間の本性における最も原動力であり、最も悪い神経症と最も崇高な霊的体験の両方の源であると繰り返し語った<ref name="HBU-2016-3"/>。「セックスはとても重要だ。なぜなら、自然全体がセックスを求めているからである。そうでなければ、人間は存在し続けることができないだろう。セックスが個人の意思によるものなら、地球上には誰も残らないだろう。セックスは非常に強迫観念的で、已むに已まれぬもので、性衝動が強烈なのは、自然全体がセックスを求めているからである。<ref name="HBU-2016-3"/>」セックスは人間の本性の中で最も深く激しい衝動であり、宗教者、政治家、支配者たちは、人間を従わせ、奴隷にするために、セックスを激しく抑圧してきたとし、タントラは、性欲を受け入れ解放する唯一のスピリチュアルな道であり、宗教的・政治的な支配を受けることのない非常に深い自由を人間にもたらすとした<ref name="HBU-2016-3"/>。 |
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オショー・ラジニーシの反社会主義的で資本主義推進的な尖った経済的理想と同じように、彼のタントラは、一種の激しい個人主義、反正統主義、そして利己主義に基づいている<ref name="HBU-2016-3"/>。人間は皆本質的に神聖な存在であるため、他の人を助けようとする前に、まず「完全に利己的になり」、自分自身を受け入れなければならず、そうして初めて利他的になれるとする<ref name="HBU-2016-3"/>。タントラは完全な自己受容の道であるとされ、彼のネオタントラの最終的な目標は、その人が完全に悟り、解放され、「神のような」存在になることである<ref name="HBU-2016-3"/>。性的欲望の解放を説き、むしろ制の快楽を徹底して享受して、それを崇高なレベルに引き上げるべきとした{{sfn|大田|2011|pp=96-98}}。官能と霊性・精神性は相反するものではなく、むしろ肉体的快楽はスピリチュアルな生活の一部になると教えられ、オショー・ラジニーシの共同体では、セックスだけではなく、音楽やマッサージ、女性の脚の間から熟したマンゴーを食べることまで、様々な官能的な活動を「意識的に」行うことが奨励された<ref name="HBU-2016-3"/>。 |
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一人のパートナーを持つことは、ただ束縛を増やすだけであり、神は何百万もの形で現れるのに、なぜ一人のパートナーに執着するのか、サニヤシンは一人のパートナーに執着してはいけないと説かれた{{sfn|McDaniel|2004|pp=265–294}}。コミューンでは女性も男性も、複数の異性と短期的・多元的な恋愛関係を持つことが奨励されていた{{sfn|Palmer|2009|pp=378–385}}。スーザン・J・パーマーは、これは共同体における愛のシェアと平等の理想を表現したものであり、情緒的でエロティックな感情は、カリスマによる共同体を流れるオショー・ラジニーシの「エネルギー」の通路であり、個人を悟りへと導くものだった、と説明している{{sfn|Palmer|2009|pp=378–385}}。 |
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1960年代から1970年代にかけて、タントラはカウンターカルチャーと[[性革命]]の重要な一部となり、 オショー・ラジニーシ等の有名なグルが「[[ネオタントラ]]」の実践を推進し始め{{sfn|Urban|2022}}、[[ニューエイジ]]と[[自己啓発]]運動の中で広まった{{sfn|Puttick|2009|pp=280-284}}。彼のような西洋人を弟子にしたインド人グルや、アメリカ人ヨーガ行者の{{仮リンク|ピエール・バーナード|en|Pierre Bernard (yogi)}}のような西洋のタントラ指導者は、セックスと瞑想を融合したエキゾチックでエロティックな慣習という西洋人的なタントラ文化のイメージにどちらも賛同している{{sfn|Timalsina|2011}}。 |
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オショー・ラジニーシが再定義した西洋タントラ(ネオタントラ)は、あらゆる宗教制度を否定し、タントラの文献に基づいておらず、タントラの文献と儀式自体も否定している{{sfn|McDaniel|2004|pp=265–294}}。本来のタントラのほとんどは規律ある瞑想と儀式を含むシステムだが、彼のネオタントラはあらゆる儀式に対する反逆に改変されている{{sfn|McDaniel|2004|pp=265–294}}。ヒュー・B・アーバンは、オショー・ラジニーシは、自身のネオタントラが、南アジアの伝統的なタントラの形態とほぼ共通点がなく、現代的な再解釈だということを認識していたようだと述べている<ref name="HBU-2016-3"/>。オーガズムの力を、スピリチュアルな体験を得るための最高の手段として利用していることが示唆されており、ネオタントラでは、タントラ的オーガズムの瞬間に、「統一された首尾一貫した自我」という幻想が消え去り、自己という虚構は生命エネルギーと欲望の戯れに満ちた流れであることが明らかになるとされる<ref name="HBU-2016-3"/>。こうしたネオタントラ的な性的オーガズムの理解は、[[ポストモダン]]における「主体の死」の極端な表現の一例となっている<ref name="HBU-2016-3"/>。 |
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=== 霊性・精神性と資本主義の統合 === |
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1970年代から80年代にかけて、世界経済と政治の支配的イデオロギーとして新自由主義への明確な転換があり、[[新自由主義]]は「あらゆるものの商品化」が特徴である<ref name="HBU-2016-0"/>。あらゆるものがオープンな市場で交換される商品とみなされる新自由主義には、スピリチュアリティ(霊性・精神性)も含まれる<ref name="HBU-2016-0"/>。20世紀後半のグローバル経済における新自由主義への変遷は、オショー=ラジニーシ運動の誕生とほぼ同時に起こった<ref name="HBU-2016-0"/>。スピリチュアリティの商品化自体は19世紀のアメリカですでに始まっていたが、1980年代の新自由主義の勝利とともに、文化のあらゆる側面に拡大して「あらゆるものの商品化」が起こり、世界的な現象となった<ref name="HBU-2016-0"/>。 |
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オショー・ラジニーシとその信奉者たちは、1960年代から1970年代にかけて台頭してきたグローバルな市場への賛同を、かなり明確に表明していた<ref name="HBU-2016-0"/>。プネーの初期のアシュラムが最も繁栄していた1978年には、オショー・ラジニーシはプネーのアシュラムについて、「ここは市場だ。市場にこれほど似た場所が他にあるだろうか。ヒマラヤのどこかにアシュラムを作ることもできただろう。…私は市場の一部であり続けたい。そしてこのアシュラムは、ほとんど市場の一部として運営されている。」と語っていた<ref name="HBU-2016-0"/>。彼は1980年代のラジニーシプーラムで資本主義と市場のレトリックをさらに大胆に用いており、ヒュー・B・アーバンは、「満足を売る」「悟りを売る」という彼の主張は、知的な思想、個人的な幸福、霊的・精神的な達成を含む「あらゆるものの商品化」としての新自由主義の典型であると述べている<ref name="HBU-2016-0"/>。マ・アーナンド・シーラは、「私たちの宗教はおそらく資本主義と宗教を統合した唯一の宗教です。…これは素晴らしいことです。うまくいっています。」と語っていた<ref name="HBU-2016-0"/>。 |
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=== 教えからの死・悪の排除 === |
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オショー・ラジニーシは、生にしがみついていれば死は死だが、生にしがみついていなければ、死は「かたちという監禁から自由」になることで、「大いなる喜びがある」と説いている<ref name="学会46" group="official"/>。サニヤシンが死んだとき、赤い花で飾り、セレブレーション(祝祭)を開催し、歌とダンスでお祭り騒ぎをする{{sfn|樫村|2002|p=122}}<ref name="学会46" group="official">{{harvnb|ラジニーシズム学会|1984|p=46}}</ref>。彼が「光明を得た」と宣言したサニヤシンの死は教団全体で祝われ、そうでない場合は友人と家族で祝う<ref name="学会46" group="official"/>。死のセレブレーションは、出席者にとって貴重な変容の可能性のある機会とされる<ref name="学会46" group="official"/>。 |
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社会学者の[[樫村愛子]]は、彼の教えの内部から死は完全に排除されていると評している{{sfn|樫村|2002|p=122}}。また、悪も排除されているとみなしている{{sfn|樫村|2000|p=124}}。 |
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===師弟関係=== |
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インドには{{仮リンク|グルと弟子の伝統|en|Guru–shishya tradition}}(グル・シッシャの伝統)があり、インドのほとんどの宗教的指導者は、グルとのつながりや、はるか過去に遡る神話的な系譜、[[シヴァ神]]、[[ヴィシュヌ神]]、女神などの神とのつながりによって自らを確立していたが、彼は師を持たないことを誇らしげに公言した最初の一人だった<ref name="HBU-2016-1"/>。自らを一種の「反グル」「グルを持たないグル」として、確固とした師の系譜を持たない、根本的に反権威主義的なメッセージを教える覚者として示した<ref name="HBU-2016-1"/>。 |
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オショー・ラジニーシは思想家からグルに転身したが、当初のインド人の弟子が実践した弟子の条件やグルへの帰依は、インドの宗教伝統に基づいたものだった{{sfn|伊藤|2003|p=72}}。 |
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オショー・ラジニーシはグルと弟子の一対一の師弟関係を肯定・強調し、それが光明(悟り)を得る手助けになると主張し、「サニヤシンがより『自分自身になる』道を開くため」とされた{{sfn|伊藤|2003|p=83}}{{sfn|伊藤|2003|p=66}}。 |
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{{Quote| |
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覚醒を得た者との接触がないかぎり<br> |
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あなたが成長することは不可能に近い<br> |
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道を知る者、道を旅して来た者<br> |
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行き着いた者と同行しないかぎり<br> |
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あなたが到達することは不可能に近い<br> |
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あなたが信頼でき自分を明け渡すことができる者に<br> |
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手を引かれてゆかないかぎり<br> |
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あなたはきまって道に迷う<br> |
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{{ruby|導師|マスター}}とは<br> |
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{{ruby|導師|マスター}}に自分を明け渡すことが保護になるような<br> |
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そんな磁力だ |
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<ref group="official">{{harvnb|ラジニーシズム学会|1984|p=5}}</ref>|バグワン・シュリ・ラジニーシ|The Book of Wisdom 第2巻 |
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}} |
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「光明を得た」存在が人々の意識変容を促すと説いたが{{sfn|伊藤|2003|p=66}}、彼が説く師弟関係はグルへの絶対帰依ではないとされる{{sfn|伊藤|2003|p=67}}。サニヤシンはそれぞれ少しずつ異なる霊的・精神的な道を歩まなければならないが、その個人的な探求には、彼の教えから各々のサニヤシンの心に直接届く目に見えない糸が絶対に必要であると、生涯に渡って主張していた{{sfn|Goldman|2004|pp=119–138}}。 |
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彼の弟子たちはサニヤシン(sannyasin)、ネオ・サニヤシンと呼ばれている{{sfn|伊藤|2003|p=66}}{{sfn|McDaniel|2004|pp=265–294}}。「サニヤシン」という語はもともと、インドの宗教的慣例に従って家庭と世俗を捨てた修行者のことだが、オショー・ラジニーシは世俗を離れるのではなく、現世肯定的なサニヤシンのあり方を強調した{{sfn|伊藤|2003|p=66}}。ネオ・サニヤシンは伝統的なサニヤシンのように厳格で人生を否定するような存在ではなく、むしろ「歓びに満ちた生き物、反逆者、踊り子」だった{{sfn|McDaniel|2004|pp=265–294}}。「サニヤシンになるということは、何か新たな信念体系を獲得することでもなければ、個人的な所有物を放棄することでも、また特定の人物に追従することでもない」とし、「明け渡し(サレンダー)」について、自我は観念にすぎないため、弟子は師に自我を明け渡すことで特定の何かを明け渡しているわけではなく、実際には存在しない、自分が持っていると思い込んでいるもの全てを明け渡していると説明している{{sfn|伊藤|2003|p=66}}。運動の他の物事同様に、「明け渡し」の意味をサニヤシンが自分なりに構築する余地はかなり与えられていた{{sfn|Goldman|2004|pp=119–138}}。 |
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1970年代後半から1980年代前半にかけて、サニヤシンとなった者は、オショー・ラジニーシを自分のスピリチュアルな師として認め、その教えへの帰依を誓い、サニヤシン名(全く新しい名前か、女性には「母」という意味の「マー」、男性には「主人」という意味の「スワミ」という接頭辞をつけた名前)をもらい、毎日1回瞑想し、赤とオレンジ(光の[[スペクトル]]の太陽の色、日の出の色)を身にまとい、ベジタリアンになり、彼の写真入りロケットをつけた108個の球の数珠(マーラー)を身につけることが求められた{{sfn|Goldman|2014|pp=176–194}}{{sfn|足沢|2000|p=73}}。こうした実践に加え、サニヤシンは彼との心と心のつながりを認める必要があった{{sfn|Goldman|2004|pp=119–138}}。サニヤシン名は最初、インドの言葉から取られていたが、後に世界中のあらゆる宗教から借用された{{sfn|足沢|2000|p=73}}。彼はネオ・サニヤシンにヒンドゥー教の伝統的なサニヤシン(出家者)の外見的な特徴を採用したが、これは「あらゆる伝統的な意識を破壊する」ことを意図したものであった<ref name="Aveling"/>。(とはいえ、彼の教えには明らかにヒンドゥー教的なものが残されている<ref name="Aveling"/>。) |
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運動が比較的小規模だった1974年以前は、オショー・ラジニーシは弟子達が宗教に対する多くのアプローチを探求し、彼の修行と他の修行を組み合わせることを奨励していた{{sfn|Goldman|2014|pp=176–194}}。彼らの元々の生活、元々のアイデンティティを放棄したり、以前の人間関係を犠牲にしたりすることなく、自分自身を変革することができるとされていた{{sfn|Goldman|2009|pp=311–327}}。運動が成長し、プネーのアシュラムに移ると、オショー・ラジニーシは悟りを開いたスピリチュアルな師の役割を担うようになり、サニヤシン達は他のスピリチュアルな道を放棄するよう求められるようになった{{sfn|Goldman|2014|pp=176–194}}。最も物議を醸した1976年から1986年までの10年間は、オショー・ラジニーシにのみ帰依することが求められた{{sfn|Goldman|2014|pp=176–194}}。 |
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サニヤシンたちは自身をヒンドゥー教徒だと思うことはなく、オショー・ラジニーシもそう勧めることはなかった<ref name="Aveling"/>。サニヤシンたちは、理想的にはオショー・ラジニーシの思想に服従する必要はないとされるため、彼らは「信者」と呼ばれることを嫌う{{sfn|伊藤|2003|p=66}}。伊藤雅之は、にもかかわらず、「その世界観を具現化するためのアシュラムや各種の活動のなかには、ラジニーシの教えと矛盾する内容もしばしばみられた。(中略)また、ラジニーシの支持者にも、ともするとラジニーシを教祖として崇拝し、その教えを絶対的なものとして盲信する傾向がみられた。」と指摘している{{sfn|伊藤|2003|p=83}}。 |
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オショー・ラジニーシの弟子たちは、自分たちを 「バグワンの恋人たち(lovers of Bhagwan)」と呼んでいだ{{sfn|Palmer|2009|pp=378–385}}。スーザン・J・パーマーは、スピリチュアルな探求と師の存在によって呼び起こされたサニヤシン達の心酔の感情は、性的な欲望やロマンチックな愛と結びついていたと述べている{{sfn|Palmer|2009|pp=378–385}}。サニヤシン達はオショー・ラジニーシを「覚者」として、「性を超越した存在」と捉えていたが、サニヤシンがイニシエーションの儀式で彼に「明け渡し」、彼のエネルギーを受け取る際の関係においては、男性として認識されていた{{sfn|Palmer|2009|pp=378–385}}。オショー・ラジニーシの女性の弟子にとって、「恋人」という役割は非常に重要で、1980年代には、献身的な弟子や「バグワンの恋人」になるためにはコミューンに住む必要があった{{sfn|Palmer|2009|pp=378–385}}。 |
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===終末的時代観・黙示録的ヴィジョン=== |
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1984年から1999年は、大規模自然災害と人災に満ちた人間にとって最も危険な時代にあり、旧約聖書のノアの[[大洪水]]以来の大規模洪水や、地震、火山爆発が起こり、核戦争に終わるような破滅的な戦争が起こり、ホロコースト(大破壊)が地球規模で起き、東京、ニューヨーク、サンフランシスコ、ロサンゼルス、ムンバイなどの都市は消滅すると予見した<ref name="学会56" group="official"/>。人間は核兵器による破壊、[[エイズ]]の大流行、人口過剰に脅かされた世界に生きていると考え、エイズが前例のない大惨事を引き起こし、人類の3分の2が死ぬが、サニヤシンだけが無傷で生き残ると予言した{{sfn|Palmer|Bromley|2007|pp=135–158}}。 |
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===人類の超人への進化=== |
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地球は愚かな人類をもはや許さず、人間は自殺するか、新しい人間に生まれ変わるかの瀬戸際にあると説いた<ref name="学会56" group="official">{{harvnb|ラジニーシズム学会|1984|pp=56-61}}</ref>。 |
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地球的規模の破滅から逃がれる可能性はなく、ラジニーシズムとは、この人類存亡のチャレンジを受けて立つものであり、意識の上での「量子的跳躍」を起こし、人間の意識を変容させ、[[ニーチェ]]が言う「[[超人]]」を生むために唯一世界的な努力をする、「意識の上での[[ノアの箱舟]]」を創る運動だとしている<ref name="学会56" group="official"/>。 |
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猿が飛躍して人間になったが、全ての猿が人間になったわけではなく、人類から超人への跳躍も同様であると考えた<ref name="学会56" group="official"/>。サニヤシンが全員ホロコーストを生き延びるとは限らないが、「絶対の保証をもって言える。生き残り生きのびるのは者たちはラジニーシィ(サニヤシン)であり、残りは猿でいるか、自殺するかのどちらかだと……。実のところ、残りはどうでもいい。」と語った<ref name="学会56" group="official"/>。 |
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===結婚・家族・産児制限=== |
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オショー・ラジニーシは、環境の調和、技術の進歩、厳格な出産制限、瞑想的な意識を特徴とする「女性のニューエイジ」を予言し、家族は本質的に[[機能不全家族|機能不全]]と破滅に陥りやすいと考えており、運動は常に子供を持つことに強く反対してきた{{sfn|Palmer|2009|pp=378–385}}<ref name="pike222">{{Harvnb|Pike|2007|p=222}}</ref>。 |
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伝統的な結婚というものは、悪い、息苦しい考えだと説かれた{{sfn|McDaniel|2004|pp=265–294}}。オショー・ラジニーシが結婚や子供を持つことを奨励していないことは広く知られていた<ref name="pike222"/>。彼は地球の人口は多すぎると考えており、人口過剰を理由に「20年間の絶対的な産児制限」を推奨し、悟りを得るために、「自分自身を産む」ために、独身で子供を持たないことが賢明だとしていた{{sfn|Palmer|2009|pp=378–385}}{{sfn|Bruce|2017|pp=60–84}}。 |
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多くのサニヤシンは、彼は優しく慈悲深い「理想的な父親」であると考えていたが、他のサニヤシンによると、彼はまた、父親としての否定的、権威主義的な側面をも表すこともあったという<ref name="pike"/>。 |
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===ジェンダー観、女性の評価・待遇=== |
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彼の神話学における大きな挑戦の1つが伝統的な性別役割であり、『''A New Vision of Women's Liberation''(邦題:ニュー・ウーマン誕生)』(1987年)で、サニヤシン達に[[ユダヤ教]]の伝承の[[リリス]]の軽妙なパロディを提供している{{sfn|Palmer|Bromley|2007|pp=135–158}}。彼が語るリリスは強く、反抗的で、アダムとは相容れず、対照的にイブは[[一夫一婦制]]によって奴隷状態に追いやられている{{sfn|Palmer|Bromley|2007|pp=135–158}}。彼はこの講話で正統的な神学と慣習的な性別役割に反対し、[[三位一体]]を「ゲイの男たちのクラブ」、結婚を「愛の墓場」と呼んでいる{{sfn|Palmer|Bromley|2007|pp=135–158}}。 |
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オショー・ラジニーシは、伝統的な性別役割の超越を訴え、女性も男性も、自身の女性的側面と男性的側面を融合させ、人生のあらゆる面で柔軟性を追求することを奨励した{{sfn|Goldman|2004|pp=119–138}}。理想的な人間は、見るからに男性的でも女性的でもないとされたが、彼は直感、表現力、感情性、自己認識、感受性といった伝統的な女性的特性に最も価値を置いていた{{sfn|Goldman|2004|pp=119–138}}。女性は生まれつきより大きな性的エネルギー([[シャクティ派|シャクティ]]、つまり女性の力)を持っているため、多くの点で本質的に男性よりも優れており、「女性は何度も[[オーガズム]]に達することができるが、男性はできない」という事実によって証明されるとした<ref name="HBU-2016-3"/>。彼の体系では女性は男性よりも霊的・精神的に優れているとみなされ{{sfn|Palmer|2009|pp=378–385}}、「直観力、受容力、献身などの美徳ゆえに、女性はより容易にグルに従い、瞑想の微妙なエネルギーに対して自らを開くことができる」とし、インドでは無知で不浄とされ、社会的にも霊的にも劣位に扱われる傾向のある女性を霊的に評価した{{sfn|Puttick|2009|pp=270-271}}。 |
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女性にこうした「女性らしさ」の特質を求めることは、「退行的で時代錯誤的」であるという批判もあった{{sfn|Puttick|2009|pp=270-271}}。母性のもう一つの道、女性に開放をもたらすものだと感じる女性も多かった{{sfn|Puttick|2009|pp=270-271}}。女性の時代が到来しようとしており、女性の自由は、西洋の「女性解放のような愚かな運動では実現できない」とし、女性の仏陀(目覚めた人)を数名でも創ることができれば女性はすべての束縛から解放されると語った<ref name="HBU-2016-3"/>。 |
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オショー・ラジニーシは、女性は帰依者としてだけでなく管理者と優秀だと考えたため、教団の重要な地位に多くの女性が付いており、これは他の宗教にはあまりみられない{{sfn|Puttick|2009|pp=270-271}}。 |
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男性には自身の女性的特質を育むよう諭し、女性が自信をもって積極的に行動すると称賛した{{sfn|Goldman|2004|pp=119–138}}。性同一性を放棄することなく、両性具有性に向かうよう奨励した{{sfn|Goldman|2004|pp=119–138}}。 |
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教団における女性については、[[#女性サニヤシンの多さと権力、ジェンダー]]を参照。 |
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=== 同性愛の否定 === |
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オショー・ラジニーシは、タントラは「無条件の自由」であり、性愛の革命的解放であると繰り返し宣言していたが、性のすべての在り方を受け入れていたわけではなく、特に同性愛については、不自然な[[性的倒錯|倒錯]]であり、宗教的抑圧の副産物であるとはっきり表現し、かなり強く声高に否定していた<ref name="HBU-2016-3"/>。「私は同性愛を倒錯と呼ぶ。…あなたの中には同性愛のための生物学的プログラムはない。あなたの精子の生物学的プログラムは異性愛である。私は単に、宗教の修道院で醜悪なプレッシャーを受けて同性愛が生じ、独身の清浄さの名の下に同性愛が強要されたという事実を開陳しているだけだ。」と語っている<ref name="HBU-2016-3">{{harvnb|Urban|2016|pp=76–100}}</ref>。 |
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=== 前世 === |
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オショー・ラジニーシは、自身のアイデンティティの中には、今の人生よりも前の、何世紀も前の過去生([[前世]])のものも含まれると語っている<ref name="HBU-2016-1"/>。700年前の前世があり、この時に悟り(enlightenment)をほぼ達成したが、悟りの境地に達する3日前に殺害されたと主張している{{sfn|Palmer|Bromley|2007|pp=135–158}}。 |
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=== 講話(プラヴァチャン) === |
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彼の書籍は、口頭での講話(プラヴァチャン)を他の者が書き起こしたものである{{sfn|Tiwary|2024|pp=152–188}}。「プラヴァチャン」という言葉はサンスクリット語に由来し、「説明または提唱する」を意味する{{sfn|Tiwary|2024|pp=152–188}}。これは口頭でのパフォーマンスであり、朗読、口頭指導、教授、説明、解釈が特徴である{{sfn|Tiwary|2024|pp=152–188}}。この慣習は、[[ヴェーダ]]の文献、ヒンドゥー教徒とジャイナ教徒のヴェーダ以降のシャーストラとスートラの文献、仏教の文献に由来する神聖な形式であり、教義の講釈と会話のシステムであると考えられる{{sfn|Tiwary|2024|pp=152–188}}。この慣習では、プラヴァチャナカラ (僧侶、学者、聖者) が、家庭や一般大衆に霊的な教えを説き解釈を示す{{sfn|Tiwary|2024|pp=152–188}}。プラヴァチャナカラは、厳しい苦行を行っており、それを通して得た聖典に関する知識と理解を持っていると考えられ、自分の主張や道徳的論点を補強する例として物語のエピソードがふんだんに盛り込まれる{{sfn|Tiwary|2024|pp=152–188}}。彼は、スーフィーについて話す時自分はスーフィーであり、禅の導師について話す時自分は禅の導師であり、これは講話ではなく[[コミュニオン]](宗教的・霊的な交わり)であると述べている<ref group="official">{{harvnb|ラジニーシズム学会|1984|pp=27-28}}</ref>。 |
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オショー・ラジニーシはジャイナ教の伝統を背景に持つため、信奉者や信奉者になる可能性のある人間への伝道に講話を行ったが、音声テープやビデオテープを使用することで、伝統的な講話の形式に手を加えている{{sfn|Tiwary|2024|pp=152–188}}。講話では頻繁にジェスチャーが行われた{{sfn|Tiwary|2024|pp=152–188}}。 |
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彼自身は、講話へのテクノロジーの利用について次のように述べている。「あなた方は精神的な(ghostly)声だけを聞くことになるだろう。私はメッセージを広めるために、映画、テレビ、ビデオテープ、(音声)テープ、あらゆる現代的な技術を使うつもりだ。私は20世紀に属しているのだ、完全に、心から。そして私はこの世紀を愛しており、現代的な技術に反対してはいない。私は科学とその技術を愛している。」{{sfn|Tiwary|2024|pp=152–188}} |
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=== ファッション・身だしなみ === |
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第1期のプネーでは、彼の外見は、インドの聖者を思わせる長い顎ひげを蓄えたものになり、カリスマ性を高めた{{sfn|Goldman|2014|pp=176–194}}。衣服は白の{{仮リンク|クルタ|en|Kurta}}・パジャマ(インド風のチュニックとズボン)というシンプルなものだったが、サニヤシン達は赤やオレンジのローブを着ており、アシュラムの他の全員と区別されていた{{sfn|Goldman|2014|pp=176–194}}{{sfn|Tiwary|2024|pp=152–188}}。 |
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ラジニーシプーラム時代(1980年代初頭)に講話の記録にビデオカメラが導入されると、服装は派手な黒・グレー・白・青のローブに替わり、ダイヤモンドをちりばめた帽子をかぶり、手首にはロレックスの腕時計を着けていた{{sfn|Tiwary|2024|pp=152–188}}。 |
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=== メディアの積極的利用 === |
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オショー・ラジニーシは世界中で信者を集めるために、メディアを積極的に利用した{{sfn|Tiwary|2024|pp=152–188}}。セックスというテーマが普及の媒介になったが、彼のスターとしての[[ペルソナ (心理学)|ペルソナ]]が運動を支えていた{{sfn|Tiwary|2024|pp=152–188}}。インドでは1980年代後半まで、国がテレビで宗教的なコンテンツを放送することを厳しく禁止していたため、宗教的なコンテンツに映像はなく、ラジオや音声テープという聴覚メディアのみ流通していた{{sfn|Tiwary|2024|pp=152–188}}。 |
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メディア研究者のイシタ・ティワリのサニヤシンへの聞き取りによると、オショー・ラジニーシはキャリアの初めから、自分の言葉を全て記録するよう命じていた{{sfn|Tiwary|2024|pp=152–188}}。講話を行う際、最初は録音装置が使われていたが、1980年代にビデオカメラに替わった{{sfn|Tiwary|2024|pp=152–188}}。講話は文字起こしされ、市場で書籍として販売された{{sfn|Tiwary|2024|pp=152–188}}。1970年代には音声テープが主流で、扱われるトピックは、宗教的正統性への攻撃から、社会主義、資本主義の利点、悟りとセックス、瞑想の実践まで多岐にわたった{{sfn|Tiwary|2024|pp=152–188}}。 |
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音声テープは運動の普及に重要な役割を果たした{{sfn|Tiwary|2024|pp=152–188}}。大量生産された講話の音声テープは、ヒンディー語と英語の両方があり、インドだけでなく世界中に出回り、彼のスター性を進展させた{{sfn|Tiwary|2024|pp=152–188}}。多くの信奉者は、オショー=ラジニーシ運動に参加した理由として講話の音声テープを挙げている{{sfn|Tiwary|2024|pp=152–188}}。イシタ・ティワリは、彼の声は心地よく、催眠的だと評している{{sfn|Tiwary|2024|pp=152–188}}。講話の観客の反応も録音されており、その殆どは笑い声である{{sfn|Tiwary|2024|pp=152–188}}。 |
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講話が録画されるようになると、彼の講話は、テーマから言葉使い、服装まで変わっていった{{sfn|Tiwary|2024|pp=152–188}}。録画の際の服装やカメラのフレームは事前に彼自身が決めており、撮影はプロのカメラマンのキャリアを持つドイツ人サニヤシンが行っていたという{{sfn|Tiwary|2024|pp=152–188}}。講話する上半身がクローズアップして映された、講話を聴く熱心な信者たちの反応を含むビデオは、ビデオ形式の{{仮リンク|ダルシャン|en|Darshan (Indian religions)}}(聖者に謁見しあやかる機会)となっている{{sfn|Tiwary|2024|pp=152–188}}。講話のビデオは[[VHS]]形式で制作・配布され、家庭のテレビで視聴されただけでなく、アシュラムや[[ロータリークラブ]]などでも上映された{{sfn|Tiwary|2024|pp=152–188}}。美的に作り上げられた講話ビデオは、彼にオーラを醸し出しただけでなく、運動内で共感の感覚を育み、連帯感を形成した{{sfn|Tiwary|2024|pp=152–188}}。 |
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講話をビデオカメラで撮影するようになると、それを意識して、彼のために赤いカーペットが敷かれ、ヘリコプターで上空からマリーゴールドの花が撒かれるなど、派手なパフォーマンスが行われた{{sfn|Tiwary|2024|pp=152–188}}。 |
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サニヤシンたちは彼の教えを、書籍、小冊子、音声テープ、ビデオテープといったメディアを積極的に使って広め、彼の死後は映像を通じて帝国を築き上げた{{sfn|Tiwary|2024|pp=152–188}}。映像は当初ビデオテープ(VHS)だったが、現在(2024年時点)では映像はデジタル化され、テーマ別に編集されたものが字幕付きでインターネットで公開され、ウェブサイトや公式YouTubeチャンネルを通じて配信されている{{sfn|Tiwary|2024|pp=152–188}}。イシタ・ティワリは、オショー・ラジニーシの信奉者にとって、メディアの[[インフラストラクチャー]]と宗教のインフラストラクチャーは融合しており、亡きオショー・ラジニーシの映像の「(ヴァルター・ベンヤミンが言う)[[オーラ|アウラ]]」は、ベンヤミンが言うように複製によって消えておらず、複製され繰り返し視聴されることで持続・増殖していると評している{{sfn|Tiwary|2024|pp=152–188}}。 |
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=== 著作権・商標 === |
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オショー・ラジニーシ自身は1988年の講演で[[著作権]]と[[商標]]の問題にはっきり言及し、瞑想テクニックが著作権で保護されるという考えを否定し、インド人導師[[マハリシ・マヘーシュ・ヨーギー]]が広め、著作権で保護され商標登録されている[[超越瞑想]](TM)を取り上げ、西洋の企業および法的論理をインドのスピリチュアルな伝統に適用しようとする試みを批判した<ref name="HBU-2016-6"/>。 |
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「物は著作権で保護できるが、思考は著作権で保護できない。そして、瞑想は当然著作権で保護できない。それらは市場の物ではない。誰も何かを独占することはできない。しかし、おそらく西洋人は、客観的な商品と内なる経験の違いが理解できないのだろう。」「東洋では一万年もの間瞑想が行われてきたが、瞑想に商標を付ける人は誰もいない。そして何よりも、その『超越瞑想』は超越でも瞑想でもなく、単なる商標である。」<ref name="HBU-2016-6"/> |
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オショー・ラジニーシの死後の著作権・商標問題については、[[#死後の著作権・商標に関する法的紛争]]を参照。 |
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===オレゴンでの犯罪行為について=== |
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アメリカでの4年間でラジニーシプーラムは大きな成果を上げたが、大きな陰謀と犯罪の場となった{{sfn|Goldman|2014|pp=176–194}}。誰が誰に、何を、なぜ行ったのか、運動の内外で今も激しい議論が繰り広げられており、その中心のひとつが、オショー・ラジニーシが、個人秘書で高弟のマ・アーナンド・シーラが行った一連の陰謀と犯罪行為について知っていたか否かである{{sfn|Goldman|2014|pp=176–194}}。マリオン・S・ゴールドマンは、「すべての証拠は、シーラと彼女の小さなサークルだけがこれらの行為(反体制派のサニヤシンへの薬物投与、盗聴、放火、殺人未遂、ラジニーシ運動の資金の横領、住民をターゲットにしたバイオテロ攻撃)に直接関与していたことを示しているが、ラジニーシが彼女たちの犯罪行為を支持していたかどうかは、依然として論争が続いている(All evidence suggests that only Sheela and her small circle were directly responsible for these actions, but Rajneesh's support of their criminality remains in dispute.)」と述べている{{sfn|Goldman|2009|pp=311–327}}{{Refn|group="†"|[[防衛大学校]]教授の足達好正は、[[国防大学 (アメリカ合衆国)|アメリカ国防大学]]のカルス(Seth Carus)による20世紀に起こったテロリストや犯罪者による不法な[[生物剤]](生物兵器)の使用の研究を取り上げ、裁判記録やインタビューなどを通じて調査した詳細なケース・スタディの一つとしてラジニーシ教団によるバイオテロ事件を紹介し、「オレゴン州で実施された裁判記録、テロに関与した人物の証言を活用して、生物テロに至った全体像を明らかにした。ラジニーシの事例はバイオテロの分析では非常に有名であり、既にその動機など部分的にはよく知られていた。(中略)カルスは新たに、教祖ラジニーシの事件への関与、サルモネラ菌以外の生物テロ計画の存在などを明確にしている。本研究によると、教団幹部のシーラが計画を立案して、教祖のラジニーシに報告した時に、人々を傷つけないのが一番だが、何人か死んでも気にすることはないと教祖がコメントしたという。つまり、少なくともラジニーシは、サルモネラ菌散布を承知していた。また、特定が困難で、人を殺すことなく病気にする毒物としてサルモネラ菌が有効であると認識されていたこと、サルモネラ菌製造の中心的人物であるプジャ(Ma Anand Puja)がサルモネラ菌の散布以外にも齧歯動物を媒介とする伝染病を蔓延させるため死んだビーバーをダラスの水道システムに混入するアイデアを持っていたこと、肝炎やエイズウィルスの培養にも興味を有していたことを指摘した。」と述べている{{sfn|足達|2000|p=5}}。}}。精神科医で研究者のジェームス・S・ゴードンは、シーラが何をしていたか知らなかったというオショー・ラジニーシの主張を強く否定している<ref name="Aveling"/>。 |
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==セクシュアリティ== |
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オショー・ラジニーシは自伝的な発言を数多く残しているが、自身のセクシュアリティについて公に語ったことは一度もない<ref name="HBU-2016-3"/>。 |
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セクシュアリティに関する周囲の理解や証言は一様でない。21歳で悟りを開いてから一度もセックスしていないと信じる者もいれば、毎日2人以上の女性とセックスしていたという者もいる<ref name="HBU-2016-3"/>。女性の弟子たちが定期的にオショー・ラジニーシとの、性的な行為を伴うプライベートな、秘密の「特別な{{仮リンク|ダルシャン|en|Darshan (Indian religions)}}」に呼ばれ、これは彼女たちにとって名誉なことだったと回想する者もおり、多くの女性がこの「特別なダルシャン」の経験について語っているが、その内容は一様ではなく矛盾もある<ref name="HBU-2016-3"/>。セックス中に深い働きかけを受け内なるエネルギーを動かされたという者もいれば、彼のセックスは冷たい支配の道具だったという者もいた<ref name="HBU-2016-3"/>。 |
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ヒュー・B・アーバンは、彼が活発で乱交的な性生活を送っていたとしても、それはのゾルバ・ザ・ブッダやネオタントラの教えとは矛盾せず、単に論理的であると言え、彼の性的嗜好に関する周囲の様々な見解は、彼の教えや、「無宗教の宗教」の逆説的で時に矛盾する性質と一致すると述べている<ref name="HBU-2016-3"/>。 |
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== 受容と批評 == |
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オショー・ラジニーシは一般的に、20世紀にインドから現れたスピリチュアルな指導者の中で最も物議を醸した一人と考えられている<ref name=Mehta133>{{harvnb|Mehta|1993|p=133}}</ref><ref name="Chryss207-208">{{harvnb|Chryssides|1999|pp=207–208}}</ref>。 性的、感情的、霊的・精神的、組織的な解放というメッセージと、人を怒らせ感情を逆撫ですることを好んだことから、彼の人生は物議を醸すものになった<ref name="JMF7">{{harvnb|Fox|2002|p=7}}</ref>。 オショー・ラジニーシはインドでは「セックス・グル」、アメリカでは「[[ロールス・ロイス]]のグル」として知られるようになった<ref name="Gordon114">{{harvnb|Gordon|1987|p=114}}</ref>。 伝統的な[[ナショナリズム]]の概念を攻撃し、インドの初代首相[[ジャワハルラール・ネルー]]等の政治家に公然と軽侮の念を示し、[[マハトマ・ガンディー]]や[[マザー・テレサ]]など様々な宗教の指導者を批判し嘲笑ったが、こうしたアイコノクラスティック(偶像破壊的)な攻撃の対象となった人々は、オショー・ラジニーシの不遜さを耐えがたく感じた<ref>{{harvnb|Joshi|1982|p=1}}</ref><ref name=Mehta83>{{harvnb|Mehta|1993|p=83}}</ref>{{sfn|Urban|2022}}。セックス、結婚、家族、人間関係に関する彼の教えは伝統的な価値観と相容れず、世界中で多くの怒りと反感を呼んだ<ref name="NYT160981">{{Cite news|last=Geist |first=William E. |title=Cult in Castle Troubling Montclair |work=[[The New York Times]] |date=16 September 1981 |url=https://www.nytimes.com/1981/09/16/nyregion/cult-in-castle-troubling-montclair.html |access-date=27 November 2008 |url-status=unfit |archive-url=https://web.archive.org/web/20120423054925/http://www.nytimes.com/1981/09/16/nyregion/cult-in-castle-troubling-montclair.html |archive-date=23 April 2012 }}</ref><ref>{{harvnb|Joshi|1982|p=2}}</ref>。オショー=ラジニーシ運動は広く[[カルト]]と見なされていた。オショー・ラジニーシは「けばけばしく、とんでもなく贅沢に」暮らしていると見られていたが、一方で彼の弟子のほとんどは教団の外の友人や家族との関係を断ち切り、自分の金銭や財産のすべて、もしくはほとんどをオショー・ラジニーシのコミューンに寄付し、「最低水準の生活」を送っていたと思われる<ref name=Zaitz4>(15 April 2011) Les Zaitz. [https://web.archive.org/web/20110419014650/http://www.oregonlive.com/rajneesh/index.ssf/2011/04/part_four_paranoia_takes_hold.html Rajneeshee leaders see enemies everywhere as questions compound – Part 4 of 5], ''[[The Oregonian]]''. Retrieved 10 July 2011.</ref><ref name=Galanter>{{harvnb|Galanter|1989|pp=95–96, 102}}</ref>。 |
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===宗教学者等による学術的評価=== |
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彼の教えと運動は、宗教もしくは代替宗教とみなされており、[[井上順孝]]は「ラジニーシ運動は、ラジニーシ・チャンドラ・モハンによって創始されたインド系の宗教である」と述べており{{sfn|井上|2019|p=26}}、南アジアの研究者[[中島岳志]]は「オショー・ラジニーシ運動」を「新興ヒンドゥー教団」としている{{sfn|中島|2005|p=260}}。{{sfn|Bruce|2017|pp=60–84}}。{{仮リンク|クリストファー・パートリッジ|en|Christopher Partridge}}編集の『現代世界宗教事典—現代の新宗教、セクト、代替スピリチュアリティ』(2009年)では、「インドの宗教起源の新宗教、セクト、代替スピリチュアリティ」の項目に{{sfn|Puttick|2009}}、{{仮リンク|スティーブン・J・ハント|en|Stephen J. Hunt}}の著作『''Alternative Religions''(代替宗教)』(2003年)では、「[[シンクレティズム|混合主義]]の運動」の項目に置かれている{{sfn|Hunt|2003|p=viii}}。また、日本の図書館で広く使われる[[日本十進分類法]]第9版では、『存在の詩』(1977年)は「126.9 : [[インド哲学]].[[バラモン教]]」に分類されており、インドの宗教・哲学の伝統の流れに位置付けられている<ref>{{Cite web |date=|title=存在の詩(うた) : バグワン・シュリ・ラジニーシ講話録|url=https://ndlsearch.ndl.go.jp/books/R100000001-I04111000427724#bib |
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|access-date=2024.8.31|author= |website=国会図書館}}</ref>。ハリー・エーヴリングは、彼の教えは明らかにヒンドゥー教的であり、[[カビール]]や、彼がヒンディー語でしばしば感動的に語った{{仮リンク|サント (インドの宗教)|label=サント|en|Sant (religion)}}(聖賢詩人)たちの系譜に連なる、無形の神とグルへの強い信仰を中心とした一種のニルグナ・[[バクティ]](nirguṇa bhakti){{Refn|group="†"|ニルグナ・バクティとは、14-16世紀の非宗派的なサントたち(一部は表面的には非ヒンドゥー教徒・イスラーム教徒)が追及した至高の存在への観念であり、彼らは、物質的な現象世界の構成要素(グナ)を超えた、属性を持たない、言葉で表現できない、唯一絶対の至高の存在たる神あるいは究極的な真実在ニルグナがあり、それを追求する人間の心奥にもニルグナが本来的・普遍的に存在すると説いており、ニルグナ・バクティは、ニルグナを覚知し、それに自己の全存在を捧げるバクティである{{sfn|橋本|1995|p=108}}。}}であり、ニルグナ・バクティは、個人の「今ここ」での経験の神聖さを支持する、「あらゆる伝統に反対する」伝統であると述べている<ref name="Aveling"/>。 |
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オショー・ラジニーシの仕事に対する学術的な評価は様々である。ウダイ・メータ(Uday Mehta)は彼の[[禅宗|禅]]と[[大乗仏教]]の解釈には誤りがあると指摘し、「彼の教えには甚だしい矛盾と不整合があり、聞き手の『無知と騙されやすさ』を『悪用』している」と語った<ref name=Mehta>{{harvnb|Mehta|1993|p=151}}</ref>。 仏教学者の古田榮作は、彼の『[[法句経]](ダンマパダ)』の解説について、無我、無心が幸福へ、心、邪念が不幸という[[因果|報果]]につながるという捉え方には「少なからず反発を感じざるを得ない」とコメントしている{{sfn|古田|2009|p=35}}。社会学者のボブ・マラン(Bob Mullan)は1983年に、「偉大な伝統から真理、半面の真理(しか含まない言葉)、偶に誤り伝えられた事を借用している...多くの場合、口当たりがよく、不正確で、もっともらしく、極めて矛盾している」と書いた<ref name="BM48">{{harvnb|Mullan|1983|p=48}}</ref>。インドの思想・宗教の研修者の山下博司は、彼の思想は多くの近現代インドの聖者と同様に一元論的な性格が強く、「内容自体はある意味平凡なもの」と評している{{sfn|山下|2005|p=383}}。ヒュー・B・アーバンは、オショー・ラジニーシの教えは独創的でも特に深遠でもないと述べ、その内容の大半は様々な東洋と西洋の哲学から借用したものであると結論付けている<ref name="HBU-ZTB169">{{harvnb|Urban|1996|p=169}}</ref>。 一方、{{仮リンク|ジョージ・D・クリサイディス|en|George D. Chryssides}}は、オショー・ラジニーシは「アマチュア哲学者ではない」のだから、彼の教えが様々な宗教的教えの「[[ポプリ]](寄せ集め)」と評するのは残念なことだと考えた。彼はオショー・ラジニーシの学問的背景に注目し、「彼の教えを受け入れるかはともかく、他人の思想を解説することに関してはペテン師ではなかった」と述べている<ref name="Chryss207-208" />。クリサイディスは、オショー・ラジニーシを主に仏教の教師であるとみなし、独自の「[[ビート・ジェネレーション|ビート]]禅」を推進したと述べ<ref name="Chryss207-208">{{harvnb|Chryssides|1999|pp=207–208}}</ref>、その教えの非体系的で矛盾した過激な側面は、人々の変化を誘発しようとするものであり、主題の知的な理解を目的とした哲学の講義ではないと捉えている<ref name="Chryss207-208" />。アーバンもまた、「ラジニーシの大胆で時に衝撃的なテクニックの目的は、一種の催眠解除であり、しばしば矛盾や混乱を招くようなやり方で、私たちに衝撃を与えて目覚めさせることにある」と評している<ref name="HBU-2016-1"/>。足沢一成は、オショー・ラジニーシは「悟り」への道、方法は弟子それぞれで異なると考えていたようだが(サニヤシンが身につけた数珠には108個の球があり、彼はこれと同様に悟りに至る道も 108個あると語ることを好んだ{{sfn|Goldman|2004|pp=119–138}})、そうであるならダルシャンでのグルの適切な指導が重要ではないかと述べ、時代が下るにつれダルシャンが薄まっていったことを問題視している{{sfn|足沢|2000|p=91}}。ムンバイ時代は弟子一人一人とダルシャンが行われたが、プネー時代にはグループでのダルシャンになって重要性が薄まり、アメリカ時代には中断された{{sfn|足沢|2000|p=91}}。 |
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ボブ・マランは同様に、オショー・ラジニーシが西洋の[[カウンターカルチャー]]や[[ヒューマンポテンシャル運動]]を取り入れたことに関して、その視野の広さと想像力は誰に劣るものでもなく<ref name="BM48" />、発言の多くは非常に洞察的で感動的であり、時には奥深いと言えるかもしれないと認めているものの<ref name="BM32">{{harvnb|Mullan|1983|p=32}}</ref>、オショー・ラジニーシの思想は、愛と自由、今を生きる必要性、自己の重要性、「大丈夫だ」という感覚、人生の神秘性、楽しさという倫理、個々人の運命に対する自己責任論、恐怖と罪悪感とともに自我を捨てる必要性に焦点を当てた「カウンターカルチャー主義とポスト・カウンターカルチャー主義の思想の寄せ集め」だと理解していた<ref name="BM48-89-90">{{harvnb|Mullan|1983|pp=48, 89–90}}</ref>。ハリー・エーヴリングはマランの評に対し、彼の教えは間違いなくもっと複雑なものだと述べている<ref name="Aveling"/>。 |
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社会学者の[[樫村愛子]]は、オショー・ラジニーシや彼を原点とするニューエイジは、宗教的なセラピーで家庭での外傷などを扱っても、「ハイヤーセルフ」とされる[[無意識]]の絶対肯定に向かい、罪や罰を排除し、そうすることでより強力な人工的社会や人格を作ろうとしており、彼らのこうした死などの外傷(の表象)の対処は、現代社会・文化の中でも最も[[防衛機制|防衛]]的であると述べている{{sfn|樫村|2002|p=122}}。また樫村は、教えの内部から死や悪を排除する彼の教えを、絶対肯定宗教と評している{{sfn|樫村|2000|p=124}}{{sfn|樫村|2002|p=122}}。ヒュー・B・アーバンは、オショー・ラジニーシの思想の[[千年王国]]主義(至福千年信仰、来るべき理想社会の信念)の要素を分析し、ゾルバ・ザ・ブッタが作る新しい時代のヴィジョンを語る彼の言葉は、はっきりと千年王国主義的だと述べている{{sfn|Urban|2011|pp=369–382}}。 |
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社会学者の{{仮リンク|ベントン・ジョンソン|en|Benton Johnson}}は、超越瞑想の創始者の[[マハリシ・マヘーシュ・ヨーギー]]やオショー・ラジニーシなどの指導者は、インドの伝統的なグルというものを、心理的・宗教的カウンセラーにまで発展させたのではないかと考えている{{sfn|Goldman|2004|pp=119–138}}。ウダイ・メータは、オショー・ラジニーシが西洋人の弟子たちを魅了したことは、東洋の{{仮リンク|グルと弟子の伝統|en|Guru–shishya tradition}}(グル・シッシャの伝統)と西洋のヒューマンポテンシャル運動との間に哲学的な繋がりを築いた彼の社会実験に基づいていたと指摘しており<ref name=Mehta133 />、メータはこれを、聴衆の欲求を満たすためのオショー・ラジニーシの[[マーケティング戦略]]だとみなしている<ref name="HBU-ZTB169" />。ヒュー・B・アーバンもまた、オショー・ラジニーシがスピリチュアルな欲求と物質的な欲求との間の二項対立を否定し、後期資本主義の消費者文化に特徴的な身体と性愛への拘りを反映しており、当時の社会経済的な時勢に合わせているとみている<ref name=GIA183 />。宗教学者のジューン・マクダニエルは、「彼はタントラのマスターであり、セックスを弟子たちの瞑想とした。西洋人はセックスと金銭に最も関心があるため、西洋のタントラもセックスと金銭に重点を置くべきだと考えていた。」と評している{{sfn|McDaniel|2004|pp=265–294}}。 |
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L・カーターは「ラジニーシ運動は…イデオロギーの一貫性を主張していない」「信念、実践、団体のアイデンティティ、物理的な場所は、必要性と利便性に合わせてすぐに変更される可能性がある」と書いている<ref name="Aveling"/>。伊藤雅之は、オショー・ラジニーシと弟子たちが展開した運動の特徴として、「変化の激しさと一貫性の欠如」を挙げている{{sfn|伊藤|2003|p=70}}。マリオン・S・ゴールドマンは、運動はその発展の各段階で自らを再定義しており、包括性の初期から、1970年代半ばから1980年代の排他性へと移行し、21世紀には再び包括性へと戻ったと述べている{{sfn|Goldman|2004|pp=119–138}}。ゴールドマンは、運動の境界やサニヤシンになる基本的な方針すら柔軟だったのは、彼の哲学において自由な選択が非常に重要だったためだと指摘している{{sfn|Goldman|2004|pp=119–138}}。 |
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イギリスの宗教学教授{{仮リンク|ピーター・B・クラーク|en|Peter B. Clarke}}は、アメリカの心理学者[[アブラハム・マズロー]]とヒューマンポテンシャル運動によって定義された自己実現という意味では、大部分の参加者は進歩を感じたと述べている<ref name="Clarke432-433">{{harvnb|Clarke|2006|pp=432–433}}</ref>。 クラークは、オショー・ラジニーシが考案したセラピーのスタイルは、性愛を人生の神聖な一部としてリベラルに捉えており、他のセラピーの実践者や[[ニューエイジ]]のグループに影響を与えていることが分かったと述べている<ref name="Clarke432-433" />。しかしクラークは、オショー=ラジニーシ運動に参加した求道者たちの主な動機は「セラピーでもセックスでもなく、古典的な仏教の意味での[[悟り]]が開けるという期待」であったと考えている<ref name="Clarke466">{{harvnb|Clarke|2006|p=466}}</ref>。 |
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==== ポストモダンのグル ==== |
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[[ポストモダニズム]]は、目的、計画、決定性といった理想より、遊び、偶然、皮肉、不確定性を強調する点を特徴とし、この断片化、遊び、不確定性という特徴は、自己・主体という概念にまで及んでいる<ref name="HBU-2016-1"/>。ヒュー・B・アーバンは、このような人間像を理想としたオショー・ラジニーシは、おそらく20世紀初の「ポストモダンのグル」であると評しており<ref name="HBU-2016-1"/>、彼のレトリックは、[[ジル・ドゥルーズ]]、[[ミシェル・フーコー]]、[[ジャン=フランソワ・リオタール]]などのフランスの哲学者のレトリックとよく似ていると指摘している<ref name="HBU-2016-0"/>。 |
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オショー・ラジニーシが説いた独自のスピリチュアリティにおいて、ダンスは中心のひとつであり、ダンスが流れるような瞑想として完璧に行われると、踊り手の自我は[[フロー (心理学)|フロー]]体験に溶け込んで消え去り、ダンスだけが残るとされる<ref name="HBU-2016-5"/>。アーバンは、こうした理解は仏教の「[[無我]]」等の伝統的な宗教的概念とポストモダンの「主体の死」の巧みな融合となっている述べている<ref name="HBU-2016-5"/>。 |
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==== 影響を受けた思想・人物、類似性の分析 ==== |
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{{仮リンク|対立物の統一|en|Unity of opposites}}に対する彼の信念は[[ヘラクレイトス]]を思わせ、一方で、[[無意識]]の[[神経症]]的パターンに従って無力に行動する機械という人間の描写は、[[ジークムント・フロイト]]や[[ゲオルギイ・グルジエフ]]と多くの共通点を持っている<ref name="JMF2"/><ref>{{harvnb|Prasad|1978|pp=14–17}}</ref>。因習の縛りを超越した「新しい人間」というビジョンは、[[フリードリヒ・ニーチェ]]の『[[善悪の彼岸]]』を彷彿とさせ<ref name="CLFNR">{{harvnb|Carter|1987|p=}}, reprinted in {{harvnb|Aveling|1999|p=209}}</ref>、彼の[[性の革命|性的解放]]の促進は[[D・H・ロレンス]]と比較することができる<ref>{{harvnb|Carter|1990|p=50}}</ref>。そして彼の「ダイナミック(動的な)」瞑想は、[[ヴィルヘルム・ライヒ]]に負っている<ref name="Clarke433">{{harvnb|Clarke|2006|p=433}}</ref>。同時代の[[ジッドゥ・クリシュナムルティ]]はラジニーシを認めなかったが、両者の教えには明らかな類似点がある<ref name="JMF2"/>。 |
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生家の宗派の開祖である、[[ジャイナ教]][[ディガンバラ派]](裸行派)の一派で、[[マディヤ・プラデーシュ州]]を中心とするターラン・パンタ派の開祖である15世紀の{{仮リンク|ターラン・スヴァーミー|en|Taran Svami}}の影響を受けており{{sfn|堀田 |2017|p=31}}、ハリー・エーヴリングは、彼の核となる教えはターラン・スヴァーミーの洞察に触発されたものだと述べている<ref name="Aveling"/>。オショー・ラジニーシは、ターラン・スヴァーミーの著作『''Śūnyasvabhāva''(空の本質)』の意味を「悟れ!」、『''siddhisvabhāva''(究極の悟りの本質)』の意味を「空であれ!」と要約し、「この2つ(の本)には、(タランの)メッセージのすべてが詰まっている。1冊目は、あなたが誰であるか、つまり純粋な空を示している。2冊目は、それにどうやって到達するかであり、それは気づくことによってである。」と紹介している<ref name="Aveling"/>。 |
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オショー・ラジニーシの時に衝撃的な考えは、現代チベット仏教の[[チョギャム・トゥルンパ]]や、アメリカ人のグル{{仮リンク|アディ・ダ|en|Adi Da}}、同様に精神的なショックの戦術とユーモア・パロディ・自由な性的実験を組み合わせた他の現代の「狂気の智恵(crazy wisdom)」と呼ばれる師たちの教えと多くの共通点があるが、オショー・ラジニーシがこうした霊的指導者で最も重視していたのは、物議を醸した[[アルメニア]]出身の[[カリスマ]]的な神秘主義者[[ゲオルギイ・グルジエフ]]である<ref name="HBU-2016-1"/>。大きく影響を受けた人物としてオショー・ラジニーシが挙げたのは少数だが、グルジエフをお気に入りの一人としており、過激な因習打破の教え、宗教や政治の正統性を挑発することに一種の喜びを感じていたこと、教え・実践の折衷性、ほとんどの人間は半ば眠っており人生は機械的な反応に過ぎないという理解、身体と感覚に重点を置き肉体的実践を重視したこと、信者たちを揺さぶり衝撃を与えることで目覚めさせようとするスタイルなど、両者には多くの基本的な類似点がみられる<ref name="HBU-2016-1"/>。 |
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1970年に提唱されたダイナミック瞑想は<ref name="JMF5" />、インドとヨーロッパのテクニックを融合させたものであり、インドの瞑想法の一側面と、グルジエフ、ポスト・フロイト派の精神分析、[[エンカウンター・グループ]]、[[ニューエイジ]]のスピリチュアリティなど、「狂気の智恵(crazy wisdom)」の教師たちが持つ要素を組み合わせており、[[アーサー・ヤノフ]]の原初療法や[[ヴィルヘルム・ライヒ]]のライヒ療法などの西洋の心理技法に明らかに影響を受けている<ref name="HBU-2016-2"/>。オショー・ラジニーシは、[[ヒューマン・ポテンシャル運動]]、[[ニューエイジ]]の重要な発信源のひとつである[[エサレン協会]]から多くを学び、教団の活動にエンカウンター・グループや[[ゲシュタルト療法]]を取り入れている(エサレン協会の創始者の一人ディック・プライスもまた、彼の教えから大きく影響を受けている){{sfn|大田|2018|pp=63}}。 |
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カール=ペーター・ギーツは、西洋の心理学、特に[[人間性心理学]]と[[トランスパーソナル心理学]]の影響を指摘している<ref name="Gietz"/>。性的抑圧と社会的・政治的支配は密接に関係しており、従って性的解放が社会的・政治的変革の究極の源泉だとするオショー・ラジニーシの考えは、精神分析家で心理療法と代替医療における「身体ムーブメント」の最重要人物である[[ヴィルヘルム・ライヒ]]や、初期の[[ヘルベルト・マルクーゼ]]などの[[新フロイト派|ポスト・フロイト派]]の理論家たちの思想を明らかに反映している<ref name="HBU-2016-3"/>{{sfn|Urban|2022}}。教団で行われたグループ・セラピーには、性的欲求の抑圧に精神の不調の原因があると考えるライヒ派セラピーの影響がうかがわれる{{sfn|足沢|2000|p=75}}。 |
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ヒュー・B・アーバンは、彼の性愛に関する教えは、[[カーマ (ヒンドゥー教)|カーマ]](欲望、快楽、官能)に関する古いインドの見解と、フロイト以降の精神分析学の融合であると評している<ref name="HBU-2016-3"/>。オショー・ラジニーシの性愛の理解とタントラの再定義は、ライヒの研究に大きく依拠しており、[[クンダリニー]]は肉体に潜在する一種の原始的な性的エネルギーであるというオショー・ラジニーシの考えは、肉体を巡る生来の性的パワーであるオルゴン・エネルギーというライヒの概念と非常に似ている{{sfn|Urban|2022}}。彼が言う「[[シャクティ]]」は、ライヒの「オルゴン・エネルギー」のようなエネルギーであり、女神ではなく、彼のネオタントラに神は不在である{{sfn|McDaniel|2004|pp=265–294}}。オショー・ラジニーシはライヒのことを、東洋の源泉とは独立してタントラ・セックスの秘密を発見した一種の西洋のタントリカだと認識していた{{sfn|Urban|2022}}。オショー・ラジニーシとライヒの深いつながり、特にセックスに関する考え方は、一種のグローバルな拠点であった初期のプネーのコミュニティが持つ重要な特徴のひとつであり、1970年代の多くの西洋の求道者にとっての主な魅力でもあった<ref name="HBU-2016-3"/>。 |
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また、メディア研究者のイシタ・ティワリは、初期のプネー時代の運動は、チャック・デデリッヒの{{仮リンク|シナノン|en|Synanon}}(薬物リハビリテーション・プログラムから新宗教運動になり、{{仮リンク|攻撃療法|en|Attack therapy}}の一種「シナノン・ゲーム」を行った)、[[ジム・ジョーンズ]]の[[人民寺院]]、リチャード・コリエールの{{仮リンク|フィーリング・セラピー・センター|en|Center for Feeling Therapy}}(原初療法から派生した過激な心理療法コミュニティで、虐待的カルトと化し、心理学史における大スキャンダルとなった)といった1970年代に始まった他の運動や、1960年代に始まった[[チャールズ・マンソン]]の「ファミリー」の経験を反映していたと述べている{{sfn|Tiwary|2024|pp=152–188}}。 |
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==== 運動の変革と死後の驚くべき神格化 ==== |
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運動の変革はオショー・ラジニーシの生前から始まっており、マリオン・S・ゴールドマンは、オショー・ラジニーシとその信奉者たちが、運動の失敗の原因をマ・アナンド・シーラとその側近たちに押し付け、彼女たちを追放したことから変革が始まったと述べている{{sfn|Goldman|2014|pp=176–194}}。 |
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また伊藤は、インド帰国後の動きと最晩年の改名について、「光明(悟り)を得た」マスターと弟子であるサニヤシンは対等な関係ではなく、一般的な意味での友人関係は成立し得ないが、オショーへの改名には、インド帰国後にアシュラムの脱制度化・脱[[セクト]]化を進める中、権威主義的な意味合いや組織的な上下関係が含まれないようにという意図があったと解釈している{{sfn|伊藤|2003|pp=80-81}}。 |
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ヒュー・B・アーバンは2005年に、オショー・ラジニーシはインドへの帰国後、特に死後の数年間で「驚くべき[[神格化]]」を遂げたと述べており、100年以上前に[[マックス・ミュラー]]が「電流のように、東洋の思想が西洋に流れ、西洋の思想が東洋へと戻る世界規模の輪」と呼んだものの強烈な実例であると評した<ref name=GIA183>{{harvnb|Forsthoefel|Humes|2005|pp=181–185}}</ref>。教団がイメージの浄化・ブランド化のために行った対応については、[[#教えと歴史の再解釈と社会への適応の成功]]を参照。 |
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ピーター・B・クラークは、オショー・ラジニーシが「インド国内で重要な教師として見られる」ようになり、「20世紀の主要なスピリチュアル教師のひとりとみなされるようになり、自己啓発に基づく[[スピリチュアリティ]]の、『世界を(進んで)受け入れる』現在の傾向の最前線にいる」と述べている<ref name="Clarke432-433">{{harvnb|Clarke|2006|pp=432–433}}</ref>。 |
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===カリスマ的指導者としての評価=== |
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多くの評論家がオショー・ラジニーシの[[カリスマ]]性に言及している。イギリスの[[精神科医]]・[[精神分析]]家の{{仮リンク|アンソニー・ストア|en|Anthony Storr}}は、オショー・ラジニーシと[[グルジェフ]]を比較し、オショー・ラジニーシは「個人的に非常に印象的だった」「初めて彼を訪ねた人の多くは、自分の最も本質的な感情がすぐに理解され、判断されるのではなく受け入れられ、はっきりと歓迎されたと感じた。(オショー・ラジニーシは)エネルギーを発し、彼と接触した人々の隠れた可能性を目覚めさせるようだった」と述べた<ref name=Storr47>{{harvnb|Storr|1996|p=47}}</ref>。多くの弟子はオショー・ラジニーシの話を聞いて「彼に恋に落ちた」と述べている<ref name="SJP122">{{harvnb|Palmer|1988|p=122}}, reprinted in {{harvnb|Aveling|1999|p=368}}</ref><ref name="BM67">{{harvnb|Mullan|1983|p=67}}</ref>。スーザン・J・パーマーは、批評家でさえ彼の存在感を証言していると述べている<ref name="SJP122" />。精神科医で研究者のジェームス・S・ゴードン(James S. Gordon)は、通りすぎるロールス・ロイスの中からオショー・ラジニーシに一目見られただけで、なぜか自分が子供のように笑い、見知らぬ人と抱き合い、目に感謝の涙を浮かべたりしたと回想している<ref name=Gordon109>{{harvnb|Gordon|1987|p=109}}</ref>。山下博司は、彼が多くの信者を集めたのは、説諭の巧みさもあるのだろうと評している{{sfn|山下|2005|p=383}}。講演を聞いて圧倒された人もいれば、そうでない人もいた<ref name="Aveling"/>。ジャーナリストの{{仮リンク|フランシス・フィッツジェラルド|en|Frances FitzGerald (journalist)}}は、オショー・ラジニーシの話を直接聴いて素晴らしい講演者だと評価し、彼の著書を読んでもわからなかったコメディアンとしての才能と、聴衆に深い影響を与える彼のトークの[[催眠]]的な性質に驚きを示した<ref name="FF2-106">{{harvnb|FitzGerald|1986b|p=106}}</ref>。ヒュー・ミルン(スワミ・シヴァムルティ)は、1973年から1982年までプーナのアシュラムの警備隊のリーダーとして<ref>{{harvnb|Wallis|1986|p=159}}</ref>、またオショー・ラジニーシの個人的なボディーガードとして近しく働いたが<ref>{{harvnb|Clarke|1988|p=67}}</ref><ref>{{harvnb|Belfrage|1981|p=137}}</ref>、最初の出会いを振り返り、「プライバシーの侵害も感じず警戒心も湧かなかったが、まるで彼の魂がゆっくりと私の中に入り込み、一瞬のうちに重要な情報を伝えているかのようだった」と、二人の間に言葉以上のものが行き交ったという感覚が残ったと述べている<ref>{{harvnb|Milne|1986|p=48}}</ref>。ミルンはまた、オショー・ラジニーシのカリスマ的能力の別の側面にも注目し、「疑うことを知らない弟子を巧みに操る」人物であると述べている<ref>{{harvnb|Milne|1986|p=307}}</ref>。 |
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足沢一成は、彼はインド脱出時・アメリカ脱出時の2度弟子たちを放棄しているが、それでも常に教団には2000人を超える信者が集まったとそのカリスマ性の強さを指摘し、何が魅力であったかを次のように分析した{{sfn|足沢|2000|pp=91-93}}。欧米人の弟子達にとって、インドの伝統的な思想である[[不二一元論|アドヴァイタ・ヴェーダーンタ]]と同じ構造の「悟り」をインド人の彼が語ったことが魅力であったこと、講話ごとに教えが異なるように見え全体が理解しがたいことが、高い教育を受けた欧米人サニヤシンにはむしろ挑戦し甲斐があると感じられたこと、多種多様なセラピー・瞑想法を提供し「自然であること」を重視し、自由、特にセックスの自由を与えたことが、欧米人の弟子たちにとって魅力であったと述べている{{sfn|足沢|2000|pp=91-93}}。 |
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宗教学者のコリン・G・デンプシーは、サニヤシン達がラジニーシプーラムで長時間の重労働を進んで引き受けたのは、オショー・ラジニーシの強力な魅力の証しであると述べている{{sfn|Dempsey|2011|pp=76-107}}。デンプシーは、挑発的な哲学と機知で聴衆を魅了したインドとは異なり、彼は沈黙の誓いを立て、オレゴンでは最後の数か月まで公の場で話すことはなかったため、オレゴンでの運動の魅力を説明することは難しいが、住人が感じていた伝染するような喜びと、インドのグルの伝統や当時流行していた自己成長運動とサニヤシンを結び付ける彼の教えに関係しているようだと述べている{{sfn|Dempsey|2011|pp=76-107}}。デンプシーは、オショー・ラジニーシの世界観は経済的にも職業的にも成功している人々に特に魅力的に映ったようで、彼は、人は物質的な欲求が満たされれば、より効果的に彼の教えに「明け渡し」をすることができるため、恵まれた人々こそブッダフィールドに最も適していると考えていた、と評している{{sfn|Dempsey|2011|pp=76-107}}。 |
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ヒュー・B・アーバンは、オショー・ラジニーシは[[マックス・ウェーバー]]による、「本質的に非合理的で感情的な、並外れた[[超自然]]的な力、あるいは『恩寵(grace)』」を持つという、古典的なカリスマ的人物像に合致するように見えると述べた<ref name="HBU-ZTB168">{{harvnb|Urban|1996|p=168}}</ref>。オショー・ラジニーシはあらゆる合理的な法律や制度を否定し、あらゆる階層的権威を転覆すると主張する点で、ウェーバーの言う純粋なカリスマ的タイプに一致しているが、アーバンは、彼の主張が内包する絶対自由の展望は、コミューンにおける官僚的組織や制度的な統制に帰着したと述べている<ref name="HBU-ZTB168" />。 |
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一部の学者は、オショー・ラジニーシが[[ナルシシズム|自己愛的]]な人格を持っていた可能性を示唆している<ref>{{harvnb|Storr|1996|p=50}}</ref><ref>{{harvnb|Huth|1993|pp=204–226}}</ref><ref name=clarke />。[[オレゴン州立大学]]の宗教学名誉教授ロナルド・O・クラーク(Ronald O. Clarke)は、論文『''The Narcissistic Guru: Bhagwan Shree Rajneesh''(自己愛的なグル:バグワン・シュリ・ラジニーシのプロフィール)』の中で、オショー・ラジニーシが[[自己愛性パーソナリティ障害]]の典型的な特徴、たとえば、自分が重要で特別であるという[[誇大性|肥大した]]感覚、無限の成功の空想へのとらわれ、絶え間ない注目と賞賛を求めること、自尊心への脅威に対する一連の特徴的な反応、対人関係の障害、身だしなみへの執着と頻繁な言い逃れや完全な嘘、共感性の欠如といった特徴を全て示していると述べている<ref name=clarke />。オショー・ラジニーシが自著『''Glimpses of a Golden Childhood''(黄金の幼少期のひととき)』の中で語った、甘やかされて育った孤独で扱いにくい子供で、宗教家や教育者の権威に頻繁に挑戦していたという子供時代の誇らしげな回想を、クラークは「自己愛的なグル」と切り捨て、彼が過度の甘やかしをする祖父母のもとで育ったために、根本的な親のしつけ不足の影響を被ったのではないかと示唆した<ref name=clarke /><ref name="Aveling"/>。クラークは、オショー・ラジニーシが仏陀を自称したのは、自己愛性パーソナリティ障害に伴う妄想体系の一部であり、自我を手放したというより、むしろ自我の肥大の状態であると結論付けた<ref name=clarke>{{harvnb|Clarke|1988|p=}}, reprinted in {{harvnb|Aveling|1999|pp=55–89}}</ref>。彼は、アメリカでのサニヤシン達の犯罪やラジニーシプーラムの崩壊に自分にも責任があるかもしれないと認めることはなかった<ref name="Aveling"/>。 |
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=== 思想家・言論人としての広範な評価 === |
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ラジニーシの思想家、講演者としての資質については、様々な評価がある。著名な作家・歴史家でヒンドゥスタン・タイムズ紙の元編集者[[クシュワント・シン]]は、オショー・ラジニーシを「インドが生んだ最も独創的な思想家。最も博学で、明晰で、革新的」と評している<ref name=Bhawuk>{{harvnb|Bhawuk|2003|p=14}}</ref>。シンは、オショー・ラジニーシは「自由思想の[[不可知論]]者」であり、最も抽象的な概念を機知に富んだ逸話を交え易しい言葉で説明する能力を持ち、神々、預言者、聖典、宗教的慣習を嘲笑し、宗教にまったく新しい次元を与えたと考えている<ref>Khushwant Singh, writing in the ''Indian Express'', 25 December 1988, quoted e.g., [https://web.archive.org/web/20030523024043/http://www.indiaclub.com/Shop/SearchResults.asp?prodstock=11216 here]</ref>。ドイツの哲学者[[ペーター・スローターダイク]]はオショー・ラジニーシのサニヤシン(1978年から1980年までプネーのアシュラム在中)だったが、彼を「宗教の[[ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン|ウィトゲンシュタイン]]」と呼び、世界の諸宗教が行う言葉遊びの根本的な[[脱構築]]を行ったとみなし、20世紀の最も偉大な人物の一人に数えた<ref>{{harvnb|Sloterdijk|1996|p=105}}</ref><ref>[https://petersloterdijk.net/vita/ Peter Sloterdijk vita]. Retrieved 16 October 2019.</ref>。エリザベス・パティックは、オショー・ラジニーシは「霊性の本質を統合する哲学と雄弁の才能により、その知性の幅広さと奥深さを賞賛」されたと述べている{{sfn|Puttick|2009|p=270}}。 |
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1980年代初頭、一般紙では多くの論者がオショー・ラジニーシを否定的に見ていた<ref name="BM8-9" />。オーストラリアの批評家{{仮リンク|クライヴ・ジェイムズ|en|Clive James}}は彼を「バグウォッシュ」と軽蔑的に呼び、彼の講話を聴くことは、コインランドリーで洗濯物が回るのを何時間も眺めるようなものだと喩え<ref name="BM8-9">{{harvnb|Mullan|1983|pp=8–9}}</ref><ref name=Bagwash>James, Clive (9 August 1981). [https://web.archive.org/web/20101030143529/http://clivejames.com/books/glued/bagwash "The Bagwash Speaks"]. Retrieved 24 September 2011.</ref><ref>(9 June 2004). [https://web.archive.org/web/20080930104517/http://www.bbc.co.uk/programmes/b006mfx6 Time Shift: Gurus], [[BBC]]. Retrieved 15 July 2011.</ref>、「彼のようなタイプとしてはマシな例」ではあるが、「操られやすい者を操り、互いに操り合うよう仕向ける、虫の好かない奇人」であると述べた<ref name="BM8-9" /><ref name=Bagwash /><ref>"Adieu to God: Why Psychology Leads to Atheism" Mick Power. p114</ref>。バーナード・レヴィンはタイムズ紙にオショー・ラジニーシの講演に対する熱狂的な批評を書き、同じくタイムズ紙に寄稿しているドミニク・ウジャスティクはこれに応じて、プネーのアシュラムを訪問した際に聞いた講演は非常に低水準で、うんざりするほど繰り返しが多く、事実誤認が多いという意見を述べ、オショー・ラジニーシを取り巻く[[個人崇拝]]に不穏なものを感じると述べている<ref name="BM8-9" /><ref>(10 August 2004) [https://web.archive.org/web/20090621002100/http://www.telegraph.co.uk/news/obituaries/1469028/Bernard-Levin.html Obituary of Bernard Levin], ''[[The Daily Telegraph]]''. Retrieved 10 July 2011.</ref>。 |
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1970年代半ばに悟りを求めて運動に参加したインドの著名な映画監督{{仮リンク|マヘーシュ・バット|en|Mahesh Bhatt}}は、彼は偉大な成功物語の主人公で、根性があったが、結局のところ、単なる快楽の行商人、最高のエンターテイナーであり、信者を約束の地に連れて行ったが、彼らのために天国の扉を開くことはできなかった言葉の達人(wordsmith)だったと評している<ref name="print">{{Cite web |date=2018-04-04 |title=I was part of Osho’s spiritual whorehouse cult & flushed his mala in disgust: Mahesh Bhatt|url=https://theprint.in/opinion/wild-wild-country-demonises-osho-and-celebrates-his-fall-says-ex-follower-mahesh-bhatt/46845/|access-date=2024.12.15|author=Mahesh Bhatt|website=The Print}}</ref>。 |
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1990年1月にシアトル・ポスト・インテリジェンサー紙に寄稿したアメリカの作家{{仮リンク|トム・ロビンズ|en|Tom Robbins}}は、オショー・ラジニーシの著書を読んで、20世紀「最大のスピリチュアル教師」だと確信したと述べた。ロビンズは自分が弟子ではないと強調しながらも、さらに「悪質な[[プロパガンダ]]や偏った報告を多く読んだことで、ラジニーシは歴史上最も中傷された人物の一人ではないかと疑った」と語っている<ref name=Bhawuk />。{{仮リンク|ジャプジ|en|Japji Sahib}}として知られる[[シク教]]の経典のオショー・ラジニーシの解説は、インドの元大統領[[ギャーニー・ジャイル・シン]]によって、入手可能なものの中で最高であると称賛された<ref name="TJ" />。また、作家の{{仮リンク|ファルク・ドーンディ|en|Farrukh Dhondy}}は2011年にコラムの中で、映画スターの{{仮リンク|カビール・ベディ|en|Kabir Bedi}}がオショー・ラジニーシのファンであり、その著作を「彼が出会ったインド哲学の最も崇高な解釈」と見なしていると語った<ref name="TJ" />。 |
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ドーンディ自身はベディとは見解が異なると述べ、オショー・ラジニーシは「インドが生んだ最も賢く知的な[[信用詐欺]]師(confidence trickster)だ。彼のインドの文献の『解釈』は、特に幻滅した欧米人の一世代に向けられたもので、彼らは『ケーキを残しておき、かつ食べる(矛盾する二つのことを両立させ、いいとこ取りをする)』ことを望み(おそらく今も望んでいる)、そして同時に、古代の智恵と融合した科学的な知恵によればケーキを食べることが最高の美徳だ、と言い張っている。彼の講話は、[[アルトゥル・ショーペンハウアー|ショーペンハウアー]]の哲学や、[[シャンカラ]]の[[不二一元論|アドヴァイタ・ヴェーダーンタ]]の[[一元論]]的な根本原理を理解するのが難しい人々のために作られている。マスター・オショーがヴェーダーンタや、[[スピノザ]]、[[十字架のヨハネ|十字架の聖ヨハネ]]の真髄を読み、消化したことは大いにあり得るが、彼の『哲学』についての解説を読んでもそれは伝わってこない。そのテキストや講話は説教(訓話)でいっぱいで、日々の幸福や心の平穏へと導くものであるように思える。」と評している<ref>(25 April 2011) Farrukh Dhondy. [https://web.archive.org/web/20121022014849/http://www.hindustantimes.com/News-Feed/ColumnsOthers/God-knows/Article1-689600.aspx "God Knows"], ''Hindustan Times''. Retrieved 10 July 2011.</ref>。 |
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=== 教団におけるセラピーの機能 === |
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スーザン・J・パーマー(Susan J. Palmer)とフレデリック・バードは、ラジニーシプーラムの時代、こうしたセラピーは、儀式を通じて新しいメンバーの[[タブー]]意識を破壊し、新しい[[アイデンティティ]]を構築させ、コミューンの代替的な性倫理を教育し、メンバーをコミュニティに迎え入れる機能を持っていたと考えている<ref name="Palmer・Bird"/>。また、オショー=ラジニーシ運動に見られるエサレン風のヒューマニズムと東洋風のグル崇拝は両立し難いものだが、グループ・セラピーが、個人主義的な癒しの重視と、共同体的な信心重視の間の絶え間ない葛藤を解消する場になっていたとみている<ref name="Palmer・Bird">{{harvnb|Palmer|Bird|1992}}</ref>。伊藤雅之は初期のプネーのアシュラムで行われていたセラピーについて、「ORM(オショー=ラジニーシ運動)独自の新しい倫理観と関係性のパターンをメンバーに教育する機能を果たしていたと言えるだろう。」と述べており、サニヤシン達は「何の価値観ももたず瞬間瞬間をトータルに生きる」「自分自身になる」ことを求めていたが、メンバーが増え[[社会化]]が進んでいったアシュラムの中で、運動のライフスタイルを学び、身につけ、オショー・ラジニーシと彼の教団への[[コミットメント]]を深めていったと述べている{{sfn|伊藤|2003|p=75}}。 |
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=== 「本当の自分」 === |
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伊藤雅之は、オショー=ラジニーシ運動には、「『本当の自分』になることが、結果的に特定集団が求める人間像を体現してしまう」「特定集団が求める人間像を受動的に受け入れてしまう」というニューエイジ運動と同様のジレンマが見られ、サニヤシンの場合、「本当の自分」になっているかの判定基準はサニヤシン自身にではなく教団側にあり、「場合によっては運営スタッフに操作されていることに気づかず、『自分自身になる』道を自発的に模索していると考えやすい」と指摘している{{sfn|伊藤|2004|p=84}}。 |
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=== 物質主義の熱烈な支持とロールス・ロイス === |
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[[File:1982 Osho driving.jpg|thumb|left|220px|オショー・ラジニーシが運転する[[ロールス・ロイス]]]] |
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彼は世俗的なものと神的なものを統合した新しい人間というビジョン、ゾルバ・ザ・ブッダの理想に何度も立ち戻った{{sfn|Goldman|2004|pp=119–138}}。それはインドの神秘主義者の霊性を持ち、物質主義的な西洋人の生を受け入れる完璧な存在であった{{sfn|Goldman|2004|pp=119–138}}。[[禅宗|禅]]、[[タントラ]]の伝統、{{仮リンク|繁栄の神学|en|Prosperity theology}}の{{仮リンク|アイク牧師|en|Reverend Ike}}のメッセージがビジョンの中で融合しており、彼は明らかにこの理想を楽しんでいた{{sfn|Goldman|2004|pp=119–138}}。 |
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オショー・ラジニーシは後に、93台のロールスロイスという馬鹿げたコレクションは、太った国会議員や億万長者のテレビ[[伝道師]]に代表される、アメリカの政治や宗教生活にある物質主義への皮肉なパロディだったと振り返っている<ref name="HBU-2016-0"/>。「アメリカ人は自分たちが世界一の金持ちだと思っている。しかし、私が93台のロールスロイスを使った簡単なジョークを作っただけで、彼らのプライドはすっかり消え失せてしまった<ref name="HBU-2016-0"/>。大統領でさえ嫉妬し、知事も嫉妬し、聖職者も嫉妬した。...私はアメリカのプライドを壊した!93台のロールスロイスなど必要ない。これは悪ふざけだったのだ」<ref name="HBU-2016-0"/>。 |
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サニヤシンたちはロールス・ロイスのコレクションの背後にユーモアを読み取り、彼を賞賛していた{{sfn|Goldman|2004|pp=119–138}}。サニヤシンたちはまた、他の多くの宗教団体の熱心な信者が指導者の絢爛さを喜ばしく思うのと同様に、師の豪奢な格好をうれしく思っていた{{sfn|Goldman|2004|pp=119–138}}。 |
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彼の物質主義への熱烈な支持はアメリカのメディアを狂乱させ、当時のアメリカのほとんどの一般人は、ラジニーシプーラムの特徴として、何よりも彼のロールス・ロイスのコレクションを今でも記憶している{{sfn|Goldman|2004|pp=119–138}}。 |
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ヒュー・B・アーバンは、彼のロールス・ロイスのコレクションは、ただのジョークではなく、もっと複雑なものだが、彼独特のポストモダンの皮肉のセンス、遊び心、そして臆面もない消費主義が非常にはっきりと見られると述べている<ref name="HBU-2016-0"/>。マリオン・S・ゴールドマンは、ロールス・ロイスのコレクションは、彼の形而下の世界(物質世界)への支持と、アメリカ人の自動車崇拝に対する彼のひねりの両方を象徴していたと評している{{sfn|Goldman|2004|pp=119–138}}。彼が最初にロールス・ロイスを所有したのはインドで、インドにはイギリス領時代にまで遡る車と[[マハーラージャ|王族]]との結びつきの伝統があった{{sfn|Goldman|2004|pp=119–138}}。宗教学者のコリン・G・デンプシーは、オショー・ラジニーシは物質的な富を特に軽蔑せず、成熟した経済システムとしての資本主義を公然と支持しており、この人目を惹くロールスロイスの展示は、多くの点で彼の考え方と一致していると述べ、ロールス・ロイスは富裕と成功の象徴であり、より具体的には植民地時代の宗主国イギリスの象徴であると指摘している{{sfn|Dempsey|2011|pp=76-107}}。さらにデンプシーは、このロールス・ロイスのコレクションは、安価な労働力で一種の帝国を築いたグルと、土地を生き返らせた善良な入植農民というより、地元の土地の破壊者のように振舞うサニヤシンという舞台を整えることになったと分析している{{sfn|Dempsey|2011|pp=76-107}}。 |
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=== 思想・実践が含む危険性・暴力性について === |
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最初のプネーのアシュラムのモデルともなった[[エサレン協会]]の創始者のひとり{{仮リンク|ディック・プライス|en|Dick Price}}は、オショー・ラジニーシの著作を読んで熱狂的に傾倒し、オショー・ラジニーシからサニヤシン名をもらうほどだったが、2週間プネーに滞在して、対面セッション中に骨折や怪我を目撃し、アシュラムで起きている暴力行為に懸念と衝撃、恐怖を表明した<ref name="HBU-2016-3"/>。プライスはプネーで、参加者に「暴力を演じる(play at being violent)」(アメリカで実施されていたエンカウンターグループの規範)のではなく「暴力的になる(be violent)」ことが奨励されていることに気づき、「未熟なエサレン・[[ファシリテーター|グループリーダー]]たちが仕出かした最悪の過ち」と批判した<ref name=Carter62 />。またプライスは、グルに対する無条件の帰依は、エサレンの民主主義と反権威主義的リーダーシップへの取り組みと真逆であり、アシュラムの権威主義的な雰囲気を激しく嫌うと述べた<ref name="HBU-2016-3"/>。 |
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{{仮リンク|ヨーガのグルによる性的虐待|label=ヨーガにおける不適切な性的接触|en|Sexual abuse by yoga gurus}}に関する在野の研究者{{仮リンク|マシュー・レムスキー|en|Matthew Remski}}は、ドイツ人映画監督が隠しカメラで撮影したダイナミック・セラピーの様子(「{{仮リンク|ワイルド・ワイルド・カントリー|en|Wild Wild Country}}」第2話収録)について、スピリチュアルなカタルシスを装って正当化された身体的・性的暴力であると評している<ref name="Remski">{{Cite web |title=What that Rajneesh Documentary Leaves Out(ラジニーシのドキュメンタリーが省いたもの)|url=https://matthewremski.com/wordpress/what-that-rajneesh-documentary-leaves-out/|date=|access-date=2024.8.3|author= Matthew Remski|website=matthewremski.com}}</ref>。 |
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アバディーン大学の社会学教授スティーブ・ブルースは、指導者の一部は、性的パートナーに対する執着は克服すべき欠点であるという教えを、自分たちが搾取できる信者を増やす方法として、[[窃視症|覗き]]の口実として利用していたと指摘している{{sfn|Bruce|2017|pp=60–84}}。また、「こうした行為(教団内で未成年者が受けた性的行為。後述)の多くは、子供たちが(求められたことに)厭わず進んで応じたとしても、[[性的同意年齢]]をはるかに下回っていたという点で、明白に[[法定強姦]]であった。」と指摘し、こうした性的搾取の側面、特に子供たちの性的搾取は、オショー・ラジニーシの性的自由の教えと弟子たちの性への寛容さの邪悪な側面だと評している{{sfn|Bruce|2017|pp=60–84}}。 |
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==== グルへの「明け渡し」 ==== |
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彼は、グルは「全体」と結びつき「聖なるエネルギー」に満たされており、そのエネルギーを弟子に与えることができると述べている{{sfn|足沢|2000|p=89}}。足沢一成は、「これはグルが弟子に『悟り』を与えるというようにも理解でき、エゴがなければエネルギーが注ぎ込まれるということを考え合わせると、グルへの絶対服従を意味するものとなる。ラジニーシは、この絶対服従を『明け渡し』という言葉で表現している。しかし、この考え方が教団の閉鎖性や反社会性を増長させた要因ともなったであろう。」と分析している{{sfn|足沢|2000|p=89}}。 |
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ラジニーシプーラム時代には、「明け渡し」はサニヤシンが個人財産を放棄し教団に物・人を捧げることを正当化する理論として使われていた{{sfn|伊藤|2003|p=77}}。宗教学者の[[大田俊寛]]は、ラジニーシプーラムでのサニヤシンの労働は、コミューン以外に帰属先のない多くの者にとって「事実上強制的なもの」となったと述べている{{sfn|大田|2011|pp=96-98}}。 |
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==== 善悪の価値判断の相対化 ==== |
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伊藤雅之は、オショー・ラジニーシの世界観は[[ホーリズム|ホリスティック]](全体論的)であり、他のニューエイジの言説と同様に、「[[善悪]]の価値判断([[倫理]])を相対化する傾向」があると指摘している{{sfn|伊藤|2003|p=66}}。 |
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オショー・ラジニーシやニューエイジに見られる「いま、ここ」を重視し、善悪の判断基準を相対化する態度からは、自分の「瞬間、瞬間の行為が正しいかどうかを、既存の価値基準を使わずにいかに判断するのか」というジレンマが生じる{{sfn|伊藤|2003|pp=83-84}}。 |
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伊藤雅之は、「ラジニーシが掲げる『何の価値観ももたずに、いま、ここで覚醒する』という主張は、特定の規律や倫理的基準を与えず、むしろそれを否定する傾向にある。ということは、担い手たちが[[スピリチュアリティ]]を追求する際に、具体的に『何をするのが正しいのか』に関する一定の見解は与えられず、物事に対するさまざまな解釈を容認する結果となってしまう。ORM(オショー=ラジニーシ運動)の諸活動、特にオレゴン期の問題へのサニヤシンの判断力の欠如には、(社会的条件づけの結果である)既存の価値観に基づいて善悪を判断することへの躊躇が関連していたと思われる。元来は、社会からの拘束や罪悪感から個人を解放するために掲げられた『いま、ここを生きる』という理念も、特定の状況下においては逸脱的な行為を容認してしまう可能性を招くのである。」と指摘している{{sfn|伊藤|2003|p=84}}。少なくないサニヤシンが、マ・アナンド・シーラらオショー・ラジニーシの側近は意識レベルが高い、悟りに近い存在であると捉えていたが、事件後は等身大の人間として扱い、権力や金に目がくらんで罪を犯した等と理解するようになった{{sfn|伊藤|2003|p=90}}。 |
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伊藤は、オレゴンでの一連の事件に対する当時の日本人サニヤシンの態度は、「組織を疑いつつラジニーシを信頼するという状態にとどまり続けている者が多い」と述べ、オショー・ラジニーシが幹部らの犯罪に関与していた、または関与していなくても知っていた可能性が十分にある状況で、それでもサニヤシンが彼への信頼を失わなかった理由として、「ラジニーシが光明(悟り)を得たマスターであるという揺るぎのない確信」があり、悟った人を一般人が判断できないというロジック、悟った人の行動は自分の経験や価値観を超えている可能性があるという慮りを挙げている{{sfn|伊藤|2003|pp=93-95}}。伊藤が取材した日本人サニヤシン達は、彼が「マスター」という前提で、隠された意図があると考えてそれを探し、サニヤシンの学びのチャンスや戒めなどと解釈を行っている{{sfn|伊藤|2003|pp=99-100}}。こうした態度には「マスター」への強い感情的絆が伴っており、オショー・ラジニーシの導きで意識変容、自己変容を体験したと考えていることが大きい{{sfn|伊藤|2003|pp=93-95}}。伊藤は、オショー・ラジニーシを「計り知れない存在」と捉えることは、悟った人を一般常識や先入観で判断することを戒めてきた彼の講話の影響であり、「ORMでの経験を通じて体得した、サニヤシンの存在理由に関わる態度」だと指摘している{{sfn|伊藤|2003|pp=93-95}}。 |
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スピリチュアルな体験で深まったサニヤシン達のオショー・ラジニーシへの信頼、感情的絆は、他者への無関心な態度と裏表である{{sfn|伊藤|2003|pp=96-97}}。伊藤は、「当事者たちの個的なレベルにおいては自己変容したわけだし、事件のことは自分とは関係ない」というサニヤシンの論理について、「これは一般社会からすると脅威でもある」と述べている{{sfn|伊藤|2003|pp=96-97}}。 |
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ジャーナリストのフランシス・フィッツジェラルドは、個人的解放と人間的成長の場からの急速な軍事キャンプ化という教団の変化、幹部たちの数々の犯罪行為と逮捕、ラジニーシプーラムの解散、オショー・ラジニーシの国外追放は、ラジニーシプーラムに参加した多くのサニヤシン達の強い情愛の気持ちを減少させることはほぼなかったと指摘している{{sfn|ハーヴェイ|1997|p=91}}。 |
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=== オウム真理教への影響・類似の指摘 === |
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{{main|オウム真理教#ラジニーシ(Osho)}} |
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オウム真理教による[[地下鉄サリン事件]](1995年)以前にも、[[麻原彰晃]]とオショー・ラジニーシの共通性、麻原への影響が指摘されていた{{sfn|伊藤|2021|pp=75-76}}。宗教学者の[[島田裕巳]]は、オウム真理教の弟子たちが使うホーリーネームや麻原の服装や説法スタイル等、オショー・ラジニーシの影響がうかがわれる点が複数あることを指摘している{{sfn|伊藤|2021|pp=75-76}}。宗教学者のマルティン・レップは、麻原が[[阿含宗]]の会員だった1980年代前半、ラジニーシ運動が日本で活発に活動していたと述べ、麻原の長髪や出家信者のインド風の衣服({{仮リンク|クルタ|en|Kurta}})はインドの影響を示していると指摘している{{sfn|Repp|2014|pp=195–240}}。 |
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また、宗教学者の[[中沢新一]]は麻原と会った際に、「ラジニーシのようなタイプのラジカルな宗教家{{Refn|group="†"|「ああ、これで現代日本にも、ラジニーシのようなタイプのラジカルな宗教家が、はじめて出現することになったのだな、この人(麻原彰晃)はなにか新しいことをしでかす可能性を持った人かもしれないなと思った。」(中沢、1995年){{sfn|伊藤|2021|p=76}}}}」と評しており、伊藤雅之はこれを、中沢がオウム真理教の反社会性に気づいての人物評だとしている{{sfn|伊藤|2021|pp=75-76}}。 |
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伊藤雅之は地下鉄サリン事件について、[[ラジニーシ教団によるバイオテロ事件]]と類似した事件だと評している{{sfn|伊藤|2021|p=76}}。宗教学者[[大田俊寛]]は、「オウムについて多面的に考察するために参考となるようなケース」として「[[ラジニーシ教団によるバイオテロ事件|ラジニーシ教団のサルモネラ菌混入事件]]」を紹介しており<ref>{{Cite web |date=2022.3.30 |title=研究者には「オウムとは何だったのか」という問いに正面から答えることが求められている―宗教学者・大田俊寛氏インタビュー回答編 - BLOGOS編集部|url=https://news.livedoor.com/article/detail/22254236/|access-date=2024.11.02|author=BLOGOS|website=好書好日}}</ref>、「ラジニーシ教団の発展から崩壊に至るまでの経緯は、オウムのそれと類似した点を多く含んでおり、大変興味深い。同時にこのことは、オウムのような現象が、決して日本のみに見られる特殊なものではないということを示してもいるのだろう。」と述べている{{sfn|大田|2011|p=98}}。[[春秋社]]編集部は、ラジニーシ教団は「規模こそ小さいがオウム事件そっくりの軌跡をたどった」と述べている<ref>{{Cite web |date=2023.03.23 |title=旧統一教会問題であらためて問われる「カルト」:『オウム真理教の精神史』は「カルト」の発生源たる近代の闇を暴く|url=https://www.koubundou.co.jp/book/b156972.html |access-date=2024.11.02|author=春秋社編集部|website=好書好日}}</ref>。 |
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== 教団・サニヤシンについて == |
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2005年出版の[[井上順孝]] 編『現代宗教事典』(弘文堂)では、「ラジニーシ運動」という項目名となっている<ref>{{Cite web |date= |title=現代宗教事典|url=https://www.koubundou.co.jp/book/b156972.html|access-date=2024.11.02|author=|website=弘文堂}}</ref>。 |
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オショー・ラジニーシの弟子は、サニヤシン、ネオ・サニヤシン、ラジニーシーとも呼ばれ、オレンジ色や赤色の衣を着るルールだったため、「オレンジ・ピープル」とも呼ばれていた{{sfn|Goldman|2014|pp=176–194}}<ref>{{Cite web |date=2020.7.28|title=Australian Cults:The Grim, The Bad And The Ugly|url=https://au.rollingstone.com/culture/culture-features/australian-cults-the-rajneesh-movement-14899/|access-date=2024.9.5|author= Poppy Reid|website=Rolling Stone}}</ref>。ラジニーシプーラムの計画や、それに伴う強い世間の注目は、運動の人気を示しているかもしれないが、アメリカ以外の拠点はさほど大きくなく、イギリスの大きな都市のコミューンでも住人が500人を超えることはなかった{{sfn|Bruce|2017|pp=60–84}}。 |
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彼の教えは柔軟でポストモダン的であり、サニヤシンになるのは比較的簡単だった{{sfn|Goldman|2004|pp=119–138}}。1970年代には、プネーでサニヤシンになり、その後数年間プネーのアシュラムに住む者もいた{{sfn|Goldman|2004|pp=119–138}}。プネーに短期滞在したり、ラジニーシプーラムに滞在したり、また1982年まで活発だった都市部のラジニーシ・センターで短い儀式を行い、性急に運動に参加する人もいた{{sfn|Goldman|2004|pp=119–138}}。1970年代後半には、多くのサニヤシンは単にプネーの中央事務所にカードを送り、サニヤス(イニシエーション)を依頼し、新しい名前とラジニーシの写真が入ったロケットの付いた数珠を受け取って、運動に参加した{{sfn|Goldman|2004|pp=119–138}}。1970年代初頭から1990年にかけて、入信希望者はファーストネームを引き続き使うか(現在はそれに「マー」または「スワミ」を付ける)、彼から実際に授けられたわけではないにせよ、インスピレーションを受けた新しいヒンドゥー教風の名前を希望するかを申込書に記入した{{sfn|Goldman|2004|pp=119–138}}。 |
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サニヤシンはどこに住んでいても互いに頻繁に訪問し合い、集まり、瞑想するなどしている{{sfn|Goldman|2004|pp=119–138}}。時間とお金に余裕がある人はプネーの教団(リゾート)本部まで足を運ぶが、近年(2004年時点)は以前ほど頻繁な訪問は行われなくなってきている{{sfn|Goldman|2004|pp=119–138}}。 |
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ラジニーシプーラム崩壊後、オショー・ラジニーシへの帰依を捨て新しいスピリチュアルな道を模索する人々もいたが、大半の人は(少なくとも一時的には)、スピリチュアル・マスターが何らかの形で自分たちの未来を導いてくれるという揺るぎない信仰を持ち続けていた{{sfn|Goldman|2004|pp=119–138}}。非常に裕福なサニヤシンはユートピア建設に捧げた年月を気にもせず去っていったが、専門的な資格や技能を持たないサニヤシンは、履歴書に大きな空白を抱えて苦労することになった{{sfn|Goldman|2004|pp=119–138}}。恵まれた立場のサニヤシンがこうしたサニヤシン達を助け、仕事を紹介したり、時には就職先を提供することもあった{{sfn|Goldman|2004|pp=119–138}}。教団での経験が創造的な問題解決アプローチやプロセスと結果への関心を育み、仕事のスキルを高め成功した人も少なくない{{sfn|Goldman|2004|pp=119–138}}。 |
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ラジニーシプーラムの住人のほとんどは、オショー・ラジニーシからサニヤス(イニシエーション)を受けた時に精神的・霊的な問題は解決し、人生についての根本的な疑問の答えを見つけたと信じ続けていた{{sfn|Goldman|2004|pp=119–138}}。彼への帰依を棄てた人々でさえ、自分の人生に欠かせない重要な存在として、別れた元伴侶のように彼を思い続けていた{{sfn|Goldman|2004|pp=119–138}}。運動に参加した年月は帰依者の目標や世界の見方を根本的に変え、少なくとも2年間活発なメンバーだった人々は互いに似通っている{{sfn|Goldman|2004|pp=119–138}}。長期のメンバーは、熱心な宗教集団の一員として身につけた精神的な優先順位を変えることはめったになく、たとえ離脱したりグループが崩壊してもそれは変わらない{{sfn|Goldman|2004|pp=119–138}}。社会の主流派に近づいたとしても、活動で身につけたものの見方を持ち続けている{{sfn|Goldman|2004|pp=119–138}}。 |
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=== サニヤシンの属性・特徴 === |
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サニヤシンの初期の調査では、「平均的なラジニーシーは『中流階級』で、十分な教育を受け、専門資格を持ち、少なくとも一度は離婚し、『個人的な危機』を経験し、神秘主義、麻薬、政治、フェミニズムを経験し、『30代』で、要するに現代風にアレンジされたカウンターカルチャー主義者である」と示唆されている<ref name="Aveling"/>。 |
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ドイツの社会学者{{仮リンク|K・P・ホーン|en|Berthold K.P. Horn}}は、1979年から1980年アシュラムの人口構成に関する広範かつ詳細な調査データを提供しており、それによると、メンバーに占める女性の割合はわずかに高く、メンバーの大多数は26歳から35歳の間で、主に白人だった<ref name="Aveling"/>。インタビューを受けたドイツ人の大多数 (56%) は父親が大学学位を持っていたが、41%は労働者階級の出身であると述べていた<ref name="Aveling"/>。アメリカ人の81%は中流および上中流階級の家庭出身で、3分の2は高等教育を受けていた<ref name="Aveling"/>。宗教的には、ドイツ人の標本の38%がカトリック教育を受けており、21%がプロテスタント、39%が宗教教育を受けていないと述べており、キリスト教以外の伝統の出身者はわずか2%だった<ref name="Aveling"/>。アメリカ人の標本のうち、24%がカトリック、43%が非カトリックの伝統の中で育ち、特別な宗教教育を受けていない者はわずか8%だった<ref name="Aveling"/>。ドイツ人の3分の1、アメリカ人の半数以上が他の宗教団体と関わった経験があった<ref name="Aveling"/>。インドの宗教思想に精通している者はほとんどいなかったようである<ref name="Aveling"/>。 |
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彼らがラジニーシに惹かれた理由は多岐にわたり、一部は「探求心」、新しい意味を持つ別の生き方を求めることに関係する<ref name="Aveling"/>。長く続く「個人的な苦悩」や、従来の社会の価値観や慣習に対する幻滅がきっかけになることもあった<ref name="Aveling"/>。性に対する態度とコミュニティに特に感銘を受ける者もいた<ref name="Aveling"/>。多くはオショー・ラジニーシ自身が理由であり、彼の「カリスマ性」、彼の眼、彼の講話、彼のほんの一言といった、彼について知ったことの確認のためにやって来た<ref name="Aveling"/>。瞑想の経験に心を動かされ、自分自身をよりよく知りたいと思った者もいた<ref name="Aveling"/>。 |
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オショー・ラジニーシは西洋人が抱える問題について「西洋では、基本的な問題はどのようにコミュニケーションし、どのように関係を築くかである。多くの西洋人がここにいる。彼らがダルシャンで私のところに来るとき、彼らの問題は100パーセント人間関係の問題、つまりどのように関係を築くかという問題である」と述べており、西洋人サニヤシンの悩みを人間関係の問題だと考えていた<ref name="Aveling"/>。 |
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オレゴンのコミューンの住民の社会学的構成については様々な意見がある<ref name="Aveling"/>。ヒュー・ミルンは、1982年9月までに、以前のメンバーは「非常に若くて生意気なアメリカ人」に取って代わられたと述べており、彼らは教育水準が低く、旅行をしたことがなく、「最初のメンバーが抱いていたのと同じ考え」を持っていなかったとしている<ref name="Aveling"/>。しかしこの1年後、C・A・ラトキンらは、新しい「ユートピア」に住む人々の人口構成はインドのアシュラムのそれを再現していると示唆した<ref name="Aveling"/>。ラトキンらが1983年8月から10月にかけて行った調査によると、回答者の半数強が女性であり、平均年齢は約34歳、90%以上が白人で、宗教的背景はキリスト教とユダヤ教が過半数を占め (それぞれ57%、20%)、95%が高校を卒業しており、65%が大学を卒業していた<ref name="Aveling"/>。 |
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現在の勧誘の対象は、年長のサニヤシンの子供たちや、個人的な探求と、物質的なものと霊的・精神的なものの融合というメッセージに共鳴する、豊かな工業国の21歳から50歳までの人々である{{sfn|Goldman|2004|pp=119–138}}。 |
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=== 女性サニヤシンの多さと権力、ジェンダー === |
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この運動は女性がかなり多く、様々な推定によると、運動の初期の歴史において女性の割合は 3:1 から 3:2 の範囲で男性を上回っていた<ref name="HBU-2016-3"/>。インドのアシュラムでは、「パワーレディ」と呼ばれる女性の中核グループが執行部の地位を占めており、アメリカのラジニーシプーラムでは、女性が指導的地位の80パーセント以上を占め、彼女たちリーダーは「ママ」または「スーパーママ」と呼ばれ、マスコミはその権威構造を「マ・アルキー(ma-archy、マの政体)」と呼んでいた{{sfn|Palmer|2009|pp=378–385}}。マ・ヨーガ・ラクシュミーやマ・アナンド・シーラ等のパワフルな女性たちが重要な役割を果たし、彼女たちには、女性に対しては異例ともいえるスピリチュアルな権威が与えられており、オレゴン州のラジニーシプーラムのコミューンでは、オショー・ラジニーシが沈黙しシーラとその女性の仲間が運動の公的な代弁者となることを許可したため、少なくとも目に見える形では、ほとんど女性によって運営されていた<ref name="HBU-2016-3"/>。スーザン・J・パーマーは「母権制のユートピア的実験」と評している{{sfn|Palmer|2009|pp=378–385}}。とはいえ、教団トップのオショー・ラジニーシは男性であり、エリザベス・パティックが男性教祖の下の女性幹部について「男性の主人に絶対服従するという文脈において、女性にどこまで権限を与えるかという問題にすぎない」と指摘しているように、オショー=ラジニーシ運動で霊的・組織的指導者となった女性幹部たちにとって、あくまでオショー・ラジニーシが霊的なマスターであり続けた<ref name="pike">{{Harvnb|Pike|2007|pp=211–230}}</ref>。 |
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女性のサニヤシンは、妻や母親の役割を拒否する傾向がある{{sfn|Palmer|2009|pp=378–385}}。宗教学者の{{仮リンク|サラ・M・パイク|en|Sarah M. Pike}}によると、オショー=ラジニーシ運動に参加した親の中には、スピリチュアルな成長の方が重要なのだから、子供を残してアシュラムに入ることは正しい選択だと考える者もいた<ref name="pike223" />。 |
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パーマーは新宗教における性同一性を、相補的な性(Sex complementarity)、両極的な性(Sex polarity)、単一の性(Sex unity)に分類し、オショー=ラジニーシ運動における性同一性は、両極的な性であるとしている{{sfn|Palmer|2009|pp=378–385}}{{Refn|group="†"|両極的な性(Sex polarity)とは、女性と男性は霊的に別のもので、分離しており、一体となるべきではなく、一方の性の救済にとって他方の性は不可欠ではなく無関係であると考えるもので、一方の性がより純粋で、より知的で、より神に近いとみなされているため、性別による不平等が常態化する{{sfn|Palmer|2009|pp=378–385}}。}}。 |
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コミューンではジェンダー役割を逆転させる実験も行われており、男性は「優しい」または「美しい」と評され、女性的な資質を伸ばすよう奨励されたのに対し、女性は「強い」および「ダイナミック」であると称賛された{{sfn|Palmer|2009|pp=378–385}}。ラジニーシプーラムの建設中には、性別に基づく仕事の役割が交換され、女性は土木機械を操り、男性はひとり親が連れてきた子供たちの世話をし、キッチンを管理した{{sfn|Palmer|2009|pp=378–385}}。ユニセックスのファッション、香水、イヤリングが男女で共有され、トイレや寝室も男女共有だった{{sfn|Palmer|2009|pp=378–385}}。 |
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多くののラジニーシ運動の参加者にインタビューした社会学者マリオン・S・ゴールドマンは、ラージニーシ・プーラム崩壊の数年後に元メンバーに調査を行ったところ、女性たちはここでの経験を非常に高く評価していた<ref name="pike"/>。彼女たちの多くは運動から離脱していたが、参加していた時期は人生において重要なものだった考えており、子どもを持たないようにというオショー・ラジニーシの教えに従った女性たちに、後になってその選択を後悔することはほぼなく、「彼女たちは、母親になる運命ではなかったと信じており、現在の養子や姪、甥との問題について話す人もいた。子どもを持つことは自己実現を困難にする、というバグワンの多くの警告により、彼女たちのうち2人は20代、30代で中絶せざるを得なかった。…彼女たちの話には悲しいこともあったが、母親になることが自分にとって良いことだとは思っていなかった」<ref name="pike"/>。彼女たちは、オショー・ラジニーシが伝統的な性別役割の期待から解放してくれたと感謝しており、彼の励ましのおかげで、子どもを持たず、霊的・精神的な成長と自己実現を最優先にすることができたと考えている<ref name="pike"/>。 |
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=== サニヤシンのパートナー観 === |
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サニヤシンにとっての主要な関心は自己変容であるため、パートナーとの関係においても、相手を幸せにする、子供を産んで幸せな家庭を築くといった既存の価値観を理想とせず、その関係を通した自分自身の内的成長が重視され、こうした独特のパートナー観はセラピーを通して強化される{{sfn|伊藤|2004|pp=94-95}}。サニヤシンは、パートナーと一緒に暮らしながらも結婚しないライフスタイルが一般的である{{sfn|伊藤|2004|pp=94-95}}。オショー=ラジニーシ運動では、瞬間、瞬間を自分の感情に完全に正直に生きることが理想だと考えられ、たとえ恋人がいても、この瞬間に別の人に恋に落ちてもおかしくないので、長期的・永続的なパートナーとの関係性を重視しない{{sfn|伊藤|2004|pp=94-95}}。伊藤雅之は、長期的・永続的な関係性を重視しないことは、(生涯独身だった)オショー・ラジニーシの生き方と深い関連があるとしており{{sfn|伊藤|2004|pp=94-95}}、サニヤシンの間では、浮気をした人より、浮気されて嫉妬する人の方が、「関係性に執着している」として批判される傾向があるという{{sfn|伊藤|2004|pp=94-95}}。伊藤は、こうしたサニヤシンの価値観は一般的な日本人のものにも反するが、ニューエイジ思想一般ともやや異なるようだと述べている{{sfn|伊藤|2004|pp=94-95}}。 |
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=== 中絶・不妊手術の奨励 === |
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オショー・ラジニーシは、地球は人口過多のため厳格な産児制限をすべきで、スピリチュアルな成長のためにも子供を持つべきではないと考えており、アメリカのオレゴンやイギリスのコミューンで子供が生まれることはほとんどなく<ref name="pike224">{{Harvnb|Pike|2007|p=224}}</ref>、[[避妊]]、[[不妊手術]](断種)、[[中絶]]が受け入れられていた<ref name="pike223">{{Harvnb|Pike|2007|p=223}}</ref>。運動のメンバーは、性行為と生殖を切り離して考えており<ref name="pike"/>、プネーのアシュラムでは、指導者の間では不妊手術が一般的に行われており、特に男性は、手術による身体的負担が少ないため不妊手術が行われていた{{sfn|Palmer|2009|pp=378–385}}。妊娠中の女性は中絶するよう迫られ、不妊手術を受けることは、運動への帰依の証だった{{sfn|Bruce|2017|pp=60–84}}。活発な性生活を送る4000人の住民がいたラジニーシプーラムでは、設立から4年たっても一人の子供も生まれなかった{{sfn|Palmer|2009|pp=378–385}}。 |
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=== サニヤシン親子と子ども達 === |
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アメリカのラジニーシプーラムとイギリスのメディナの共同体では子供は生まれなかったが、親に連れてこられた子供たちが育てられていた<ref name="pike"/>。教団では共同育児が行われており、子供が望んでも母親のそばにいることはできなかった{{sfn|Bruce|2017|pp=60–84}}。親であるサニヤシン達は、共同体の中で親としての生活が楽になったと感じていた<ref name="pike"/>。中核メンバーは運動に完全にコミットすることが求められ、上級管理職の決定に従って世界中のあちこちに配置され、子供たちは親から引き離されていた{{sfn|Bruce|2017|pp=60–84}}。エリザベス・パティックは、彼女がインタビューした子供がいる男性サニヤシンは離婚しており、親権を持ったり定期的に子供と接触したりする者はいなかったと指摘している<ref name="pike"/>。 |
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社会学者のスティーブ・ブルースは、誰の証言でも同じく、子供たちはひどく[[ネグレクト]]されていたと述べている{{sfn|Bruce|2017|pp=60–84}}。 |
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また、アシュラムの学校では、一般的なカリキュラムを教えることや、生徒に正式な試験を受けさせることを拒んだため、彼らは大学進学や中流階級的なキャリアは望めず、コミューンの生活で得た個人のスキル(家屋の修理やマッサージ等)と自発性に頼って生きざるを得なかった{{sfn|Bruce|2017|pp=60–84}}。 |
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スティーブ・ブルースによると、幼少期の[[社会化]]のインパクトは大きく、教団内での厳しい成育環境にもかかわらず、彼らの多くは運動に近い信念や価値観を持ち続けている{{sfn|Bruce|2017|pp=60–84}}。 |
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==== 性的な環境、未成年者の性行為・児童性的虐待の報告 ==== |
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{{仮リンク|ティム・ゲスト|en|Tim Guest}}{{Refn|group="†"|ゲストは11歳の時に母に連れられて教団を出て一般社会で生活するようになったが、十代の頃は薬物の使用とアルコールの過剰摂取の深刻な問題を抱えていた<ref name="bedell">{{cite news | last =Bedell | first =Geraldine | title =The future was orange: Tim Guest's upbringing as a child of the Bhagwan Shree Rajneesh 'free love' movement in the Sixties left him anything but spiritually enlightened | work =[[:en:The Observer|The Observer]] | publisher =Guardian News and Media Limited | date =January 11, 2004 | url =https://www.theguardian.com/world/2004/jan/11/india.biography | access-date =2024-11-01 | url-status =live | archive-url =https://web.archive.org/web/20130827222953/http://www.theguardian.com/world/2004/jan/11/india.biography | archive-date =August 27, 2013 }}</ref>。[[モルヒネ]]の過剰摂取で34歳で死亡している<ref name="risingliterary">{{cite news | last = Simpson | first = Aislinn | author2 = Murray Wardrop | title = Rising literary star Tim Guest found dead in bed by new wife | work = [[The Daily Telegraph]] | date = August 6, 2009 | url = https://www.telegraph.co.uk/culture/books/5978364/Rising-literary-star-Tim-Guest-found-dead-in-bed-by-new-wife.html | access-date = 2024-11-01 | url-status = live | archive-url = https://web.archive.org/web/20100727045615/http://www.telegraph.co.uk/culture/books/5978364/Rising-literary-star-Tim-Guest-found-dead-in-bed-by-new-wife.html | archive-date = July 27, 2010 }}</ref>。}}の著作『''My Life in Orange: Growing Up with the Guru''({{仮リンク|オレンジでの私の人生|en|My Life in Orange}}:グルと共に育つということ)』{{Refn|group="†"|『オレンジでの私の人生』はイギリスの[[デヴォン]]にある運動の共同体で首つり自殺した子供の話で始まり、ゲストは作中で繰り返し、その子供は自分だったかもしれないと感じていると語っている<ref name="bedell"/>。}}は、母親が運動の幹部であった子供の立場からラジニーシ運動について詳細に記述した非常に優れた著書と評価されているが、10歳以下の児童が性行為を受けていたこと、自分が誰とセックスしたか子供同士で普通に話していたこと等を書いている{{Refn|group="†"|「That year, in the summer of 1984 at the Ranch, many of the Medina kids lost their virginity; boys and girls, ten years old, eight years old, in sweaty tents and A-frames, late at night and mid-afternoon, with adults and other children. I remember some of the kids—eight, nine, ten years old—arguing about who had fucked whom, who would or wouldn’t fuck them.(その年、1984年の夏、牧場(ラジニーシプーラム)で、メディナ(イギリスの主要なアシュラム)の子供たちの多くが処女を失った。10歳、8歳の少年少女が、汗臭いテントや三角屋根の家の中で、夜更けや昼下がりに処女を失ったのだ、大人たちや他の子供たちと一緒に。8歳、9歳、10歳の子供たちが、誰が誰と[[ファック]]したか、誰が自分とファックするかしないか、口論していたのを覚えている (Guest, My Life, 198–9){{sfn|Bruce|2017|pp=60–84}}。」}}。ラジニーシプーラムに連れてこられた子供たちは、周囲がセックスにあふれた環境で放置されることで、必然的に性的なことを探求する子供が多かったという<ref name="bedell"/>。また作中で比較的軽く扱ってはいるが、ラジニーシプーラムにおける未成年者への性的虐待も記録している{{sfn|Bruce|2017|pp=60–84}}。ゲストによると、14・15歳といった年頃の少女に対し、グループリーダーのサニヤシンがやって来てセックスの手ほどきをすることが多かった<ref name="bedell"/>{{Refn|group="†"|The Guardianのジャーナリストで著作家、編集者のジェラルディン・ベデルは、指導者のサニヤシンによる14・15歳の少女への性行為は、「もちろん、これは愛情を込めて、善意で行われた。」と述べ、あるレイプ被害者は、その恐怖に立ち向かうために再びレイプされ、「アシュラムで自分に起こったことが悪いことであるはずがない」と説明したと書いている<ref name="bedell"/>。}}。 |
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元サニヤシンの{{仮リンク|ジェーン・ストーク|en|Jane Stork}}は、自身の体験を語った2009年の著作『''Breaking the Spell: My Life as a Rajneeshee and the Long Journey Back to Freedom''({{仮リンク|呪縛を解く|en|Breaking the Spell (Stork book)}}:ラジニーシの弟子としての私の人生、そして自由への長い旅)』で、チャールズ・H・ターナー暗殺計画への関与、オショー・ラジニーシの主治医の殺人未遂への関与と共に、ラジニーシプーラムで子供たちが児童性的虐待を受けていた事を語っている<ref>{{Cite web |title=What Was the Rajneesh Movement?|url=https://www.learnreligions.com/the-real-rajneesh-cult-4165818|date=June 05, 2018|access-date=2024.8.22|author= Patti Wigington|website=Learn Religions}}</ref>。 |
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===幻覚剤との関わり=== |
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==== インドでの幻覚剤LSDの製造 ==== |
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伝説的な[[LSD (薬物)|LSD]]「オレンジ・サンシャイン」を大量に製造し、サイケデリック界で知られた地下化学者[[ニコラス・サンド]]{{Refn|group="†"|ニコラス・サンドの連れ合いもオショー・ラジニーシの信奉者で、サニヤシン名を名乗っている<ref name="Grimes"/>。}}は、オショー・ラジニーシの教えに魅了されプネーのアシュラムに入り、プラヴァシ(Pravasi)と名乗り、アシュラムの畑作りを手助けした<ref name="Grimes">{{Cite web |title=Nicholas Sand, Chemist Who Sought to Bring LSD to the World, Dies at 75|url=https://www.nytimes.com/2017/05/12/us/nicholas-sand-chemist-who-sought-to-bring-lsd-to-the-world-dies-at-75.html|date=2017.5.12|access-date=2024.9.2|author= William Grimes|website=New York Times}}</ref>{{sfn|Dyck|Elcock|2023}}。サンドはサニヤシンになってからインドにLSDを持ち込んだと語っており<ref>{{Cite web |title=Nicholas Sand, creator of famous Orange Sunshine LSD, dies|url=https://apnews.com/general-news-54c41cc24c7e499a8e1584ccad07e001|date=2017.5.17|access-date=2024.9.2|author=JOHN ROGERS|website=The Associated Press}}</ref>、彼がインドでの3年間で製造したLSDは数百万回分に及ぶ可能性が高い{{sfn|Dyck|Elcock|2023}}。 |
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サンドはオレゴン州への移動にも付き従い、ラジニーシプーラムの発展に関わった<ref name="Grimes"/>{{sfn|Dyck|Elcock|2023}}。 |
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====幻覚剤MDMAの国際的普及への関与==== |
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幻覚剤の一種[[メチレンジオキシメタンフェタミン|MDMA]](通称エクスタシー)の1980年代初頭の国際的な普及は、オショー・ラジニーシの弟子たちの行動の結果であると考えられており、著作家のティム・ピルシャーは「薬物の有用性が弟子たちの間で広まるにつれて、80年代前半から中頃にはアメリカ全土、そしてその後は世界中に流通ネットワークが構築された」と述べている{{sfn|Passie|2023|pp=87–114}}。幻覚剤に関するヨーロッパの権威であるハノーバー医科大学のトルステン・パッシー医学博士によると、コミューン内でMDMAが治療目的や「スピリチュアルな」目的(例えば瞑想の補助)に使用されていたことが知られており、取材したサニヤシンの一人は、オショー・ラジニーシの弟子の何人かは、1979年にMDMAについて聞かされ、それが「ビジネス、セラピー、そして娯楽」に役立つ便利なツールであると気づいたという{{sfn|Passie|2023|pp=87–114}}。また、オショー・ラジニーシはサイケデリック薬(幻覚剤)に親しみがあり、それを使用したがっていたとも述べている{{sfn|Passie|2023|pp=87–114}}{{Refn|group="†"|ラジニーシの弟子の著作で、MDMAについて言及した箇所が2つある。ひとつはグルの秘書によるもので、1983年か1984年頃に、オショー・ラジニーシの「プライベート・ダルシャン」で虐待的な性的関係に身を置くようになったイギリス人女性の弟子ヴィヴェックが、心理的に不安定になり精神に異常をきたしたが、「新薬(new drug)」によって落ち着きを取り戻したことを書いたもので、オショー・ラジニーシが、この新薬「エクスタシー」が彼女を幸せにし穏やかにしてくれると述べたと、彼の言葉が引用されている。また、気分を変える陶酔薬エクスタシーが、資金集めの面談の前に金持ちのサニヤシンの飲み物にこっそり混入されたという、オショー・ラジニーシのボディーガードの言葉が引用されている。{{sfn|Passie|2023|pp=87–114}}}}。ジャーナリストのマシュー・コリンによる[[アシッド・ハウス]]とMDMAの歴史書『''Altered State''』には、「バグワン運動は起業家精神にあふれ、外向的だった…それは、その運動に惹かれた人々がエクスタシーを普及させただけでなく、アメリカ外への普及につながる流通システムを確立したことを意味する。」と書かれている <ref name="Hillier"/>。 |
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トルステン・パッシーがインタビューしたオショー・ラジニーシの信奉者のひとりは、弟子たちが1980年代初頭にMDMAの流通に関与し、特にヨーロッパ (スペインの[[イビサ島]]、オランダの[[アムステルダム]]など) での初期の流通は、オショー・ラジニーシの信奉者の何人かが共同で指揮していたとしており、これは麻薬の研究者アルノ・アデラーズの調査結果と一致している{{sfn|Passie|2023|pp=87–114}}。 |
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トルステン・パッシーは、MDMAの主な生産者の一人マイケル・クレッグが、「ラジニーシ・コネクション」を通じて流通に関与していたことは明らかだと述べ、クレッグ自身が1979年に初めてMDMAを使用し、それを宇宙的でスピリチュアルな体験と感じて熱狂し、これを広め世界を救うという使命に乗り出したと述べていることから、彼がオショー・ラジニーシのコミュニティにMDMAを紹介した一人であると推測している{{sfn|Passie|2023|pp=87–114}}。クレッグ自身はこれを否定し、彼の売人の何人かはサニヤシンだが偶然の出会いだとしている{{sfn|Passie|2023|pp=87–114}}。しかし、1970年代の学生時代にカトリックを捨てて以降「その後30年間、私は[[マハリシ・マヘーシュ・ヨーギー]]から{{仮リンク|ニサルガダッタ・マハラジ|label=グル・マハラジ|en|Nisargadatta Maharaj}}へとグルを渡り歩き、シュリ・バグワン・ラジニーシと何年も過ごした…」と述べており、ドラッグ推進者の[[リック・ドブリン]]に対しては自分は「ラジニーシのMDMA化学者」であると語っていた{{sfn|Passie|2023|pp=87–114}}。 |
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音楽家のジミ・フリッツは、ヨーロッパ全土にMDMAが広まる足がかりとなったスペインのイビサ島へのMDMAの最初の配送は、1985年にアメリカから来たオショー・ラジニーシの弟子によって行われたと指摘している{{sfn|Passie|2023|pp=87–114}}。イビサ島のMDMAシーンのディスコ{{仮リンク|アムネシア (ナイトクラブ)|label=アムネシア|en|Amnesia (nightclub)}}の人気DJだった{{仮リンク|アルフレド (DJ)|label=アルフレド|en|Alfredo Fiorito}}もオショー・ラジニーシの信奉者だった{{sfn|Passie|2023|pp=87–114}}。 |
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イビサ島の歴史書『''The White Island''』を書いたスティーブン・アームストロングは、「オレゴンの本部が崩壊し、世界規模の運動が崩壊したとき、イビサのサニヤシンの中には経済的な必要性から麻薬の取引を始めた者もいた。彼らが持っていたのは服とMDMAでいっぱいの戸棚だけだった」と語り、アームストロングは、彼らが行楽客にMDMAを売り始め、その客がアムネシアでのDJアルフレドのセットに頻繁に通うようになったと推測し、オショー=ラジニーシ運動がイビサ島でのMDMAの使用に大きく影響したと考えている<ref name="Hillier">{{Cite web |title=Did the Cult From ‘Wild Wild Country’ Introduce MDMA to Ibiza?(『ワイルド・ワイルド・カントリー』のカルトがイビサ島に MDMA を持ち込んだのか?)|url=https://www.vice.com/en/article/wild-wild-country-cult-mdma-ibiza/|date=2021.12.10|access-date=2024.8.29|author= David Hillier|website=VICE}}</ref>。イビサ島のサニヤシンを研究し、後に自身もサニヤシンになったトニー・ダンドレアは、オショー・ラジニーシが世界の夜の文化に与えた影響について執筆しており、オショー・ラジニーシは「イビサ島の60年代のカウンター・カルチャーと、(幻覚剤を使用する)90年代のエレクトロニック・ダンス・サブカルチャーをつなぐ重要な架け橋だった」と述べている<ref name="Hillier"/>。 |
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===ラジニーシプーラムの終焉の分析=== |
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1981年から1986年にかけて教団外の一般人のほとんどは、ラジニーシプーラムで流血の大惨事が起こると予想していたが、サニヤシン達の暴力が、大量殺人、集団自殺、大規模な集団攻撃にまでエスカレートすることはなかった{{sfn|Goldman|2009|pp=311–327}}。マリオン・S・ゴールドマンは、ラジニーシプーラムの状況が緊迫しながらも大惨事に至らなかった理由として、次の点を挙げている{{sfn|Goldman|2009|pp=311–327}}。 |
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* サニヤシンになるのは簡単で、家族や古い友人と絶縁する必要はなく、外部と遮断されていなかったこと{{sfn|Goldman|2009|pp=311–327}}。 |
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* サニヤシンは主に上流階級と中流階級の出身で、経済的資本だけでなく社会的資本と文化的資本を持ち、教育を受けた裕福な外部の人々と同じ言葉を話し、メディア等でうまく自己表現ができたこと{{sfn|Goldman|2009|pp=311–327}}。 |
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* オショー・ラジニーシは物質主義の喜びを受け入れ、資本主義を支持し、その教義は人生と生命に肯定的で、個人主義と自立を重んじ賛美していたこと{{sfn|Goldman|2009|pp=311–327}}。彼はエイズによる世界の終焉やラジニーシプーラムへの核攻撃など、時折悲惨な予言をし、[[黙示録]]的な未来像を語ったが、サニヤシン達は個人主義と自立の重視により、彼が語る[[終末論]]的な考えを拒否し、笑い飛ばすことさえできた{{sfn|Goldman|2009|pp=311–327}}{{sfn|脇坂|2000|p=48}}。 |
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* {{仮リンク|オレゴン州司法長官|en|Oregon Attorney General}}の{{仮リンク|デイビッド・フロンメイヤー|en|David B. Frohnmayer}}と彼の部下が、政教分離を規定する[[アメリカ合衆国憲法]]の{{仮リンク|宗教活動の自由条項|en|Free Exercise Clause}}を戦略の根拠とし、法に則った解決を図り、暴力の可能性を最小限に抑えるよう努め、過激な反対派の行動を抑えたこと{{sfn|Goldman|2009|pp=311–327}}。フロンメイヤー達の戦略は、教団に対する固定観念や恐怖に基づく公の介入や、一部の反対派グループや地元メディアが求めた非公式の反カルト攻撃を抑制し、オレゴン州は紛争が激化する中、ラジニーシプラムでの犯罪行為と民法違反の告発すべてに対し、法的解決を図るよう求めた{{sfn|Goldman|2009|pp=311–327}}。フロンメイヤー達はサニヤシンの市民的自由が尊重されるよう徹底し、影響力のある牧場主を説得して銃を銀行の金庫に仕舞わせ、現状を理解し妥協案を模索するサニヤシン達と協力した{{sfn|Goldman|2009|pp=311–327}}。 |
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===テロリズム研究=== |
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ラジニーシ教団によるバイオテロの事例は、テロリズム研究におけるバイオテロの分析では非常に有名である{{sfn|足達|2000|p=5}}。[[防衛大学校]]教授の足達好正は、[[CBRNE|CBRN]](化学兵器・[[生物兵器]]・放射能兵器・核兵器)[[テロリズム]]に関与した組織のひとつにラジニーシ教団を挙げ、「特性:[[カルト]]」「宗教的・世俗的区分:宗教的」と分類している{{sfn|足達|2000|p=137}}。テロリズム研究者の{{仮リンク|デイヴィッド・ラポポート|en|David C. Rapoport}}は、テロリストを世俗的組織と宗教的組織に分類し、CBRNテロリズムに関与した宗教的組織として、[[オウム真理教]]や[[クリスチャンアイデンティティー]]の反政府組織{{仮リンク|契約・剣・神の手|en|The Covenant, the Sword, and the Arm of the Lord}}(CSA)と共にラジニーシ教団をあげている{{sfn|足達|2000|p=126}}。 |
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===ニューエイジへの影響=== |
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1985年にラジニーシプーラムが崩壊した後、アメリカのサンニヤシンたちは、天候が良く、代替カルチャーが活発で多様なスピリチュアルの探求があり、自分たちの専門的なスキルやカウンターカルチャーの経験が評価される、寛容で美しい場所を求め、西海岸や南西部に引き寄せられた{{sfn|Goldman|2004|pp=119–138}}。現在、[[ニューエイジ]]運動が活発な[[アリゾナ州]][[セドナ (アリゾナ州) |セドナ]]のオショー・アカデミーや[[カリフォルニア州]][[マリン郡 (カリフォルニア州)|マリン郡]]のヴィハ瞑想センターの近くには、古参・新参を問わずサンニヤシンが大勢住んでいる{{sfn|Goldman|2004|pp=119–138}}。 |
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ニューエイジの様々な活動は、オショー=ラジニーシ運動の参加者が開始したり、何らかの形で関わっていることが多い{{sfn|樫村|2000|p=124}}。例えば日本の民間療法の[[霊術]]の一種で、海外のニューエイジャー等に人気となり日本に逆輸入された「[[手当て療法]]」の「[[レイキ]]」は、オショー=ラジニーシ運動や[[サイババ]]の信奉者が自分たちの信念体系を接合して新たなバリエーションを作っており、1980年代に日本に「レイキ」を持ち込んだのも、オショー=ラジニーシ運動のメンバーだと見られている{{sfn|平野|2011|pp=54-55}}。 |
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===宗教学的評価=== |
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宗教学者の[[大田俊寛]]は、エサレン協会と関係のあった「破滅的[[カルト]]」と称される団体のひとつとして「ラジニーシ教団」を挙げている{{sfn|大田|2018|pp=55}}。 |
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アメリカの宗教学の教授{{仮リンク|ヒュー・B・アーバン|en|Hugh Urban}}は、オショー=ラジニーシ運動は、西洋式のグローバリゼーションに対する単なる反応でも、偶然南アジアから生まれた世界的な運動でもなく、文化人類学者の[[アルジュン・アパドゥライ]]の言葉を借りれば、この運動は世界中から発信される、非常に複雑で流動的で、移り変わりの激しい、人、思想、資本のネットワークの[[トランスナショナルな関係|トランスナショナルな]]ネットワークの重要な「結節点(node)」として理解されるべきであり、明確に「ポストナショナルな運動」でもあると述べている<ref name="HBU-2016-0"/>。オショー=ラジニーシ運動は、流動的でトランスナショナルな組織と物質主義の熱心な支持により、現代のグローバル資本主義で進む「脱領土化」にも独自に適応しており、アーバンは、このような世界的でカリスマ的な宗教団体は、人々、思想、資本の複雑な世界的ネットワークの中の「[[菌糸]]の結び目(hyphal knots)」のようなものだと考えており、資源と情報の[[国民国家]]の境界を越えた循環において重要な役割を果たしていると分析している<ref name="HBU-2016-0"/>。 |
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==死後・レガシー== |
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オショー・ラジニーシには決まった後継者はなく、すべてのサニヤシンが後継者であるとされ、[[プネー]]や世界各地の瞑想センターは弟子達が独自に運営している<ref name=":4">{{Cite book|title=現代宗教辞典|date=|year=|publisher=弘文堂|page=530}}</ref>。運動の教義と実践は現在、広義の[[ヒューマンポテンシャル運動]]の一部となっている{{sfn|Goldman|2014|pp=176–194}}。 |
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===教えと歴史の再解釈と社会への適応の成功=== |
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国際的に物議を醸した約20年と、社会への適応を進めた約10年の後、オショー=ラジニーシ運動は[[新宗教]]の市場で地位を確立した{{sfn|Lewis|Petersen|2005|p=120}}。信奉者たちはオショー・ラジニーシの役割を再定義し、教えの中心要素を[[リフレーミング]](再構成)することで、部外者から問題視されることを避けた{{sfn|Lewis|Petersen|2005|p=120}}。オショー=ラジニーシ運動のピークは1970年代後半で、これ以降正式な会員数は減少しているが、運動の歴史の選択的な再解釈、教義の再構築、目的の再定義を通じて[[アイデンティティ]]を機敏に変革することで、アメリカを含め世界中に普及し、勢いのある文化的勢力となった{{sfn|Goldman|2014|pp=176–194}}。この運動は小規模だが国際的であり、アメリカ、ヨーロッパ、日本、オーストラリア、そして最近(2004年時点)ではイスラエルから裕福な求道者を惹きつけ続けている{{sfn|Goldman|2004|pp=119–138}}。運動の支持者たちは、自らを変革し、霊性・精神性と物質的快楽を統合する新しい意識を創造する試み続けている{{sfn|Goldman|2004|pp=119–138}}。 |
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オショー=ラジニーシ運動の指導者たちは、1980年代半ばには、成功とは20年以内に10万人が住む巨大なユートピア都市をオレゴンに建設することだと定義していたが、オショー・ラジニーシの死後、運動の中心目標の修正し、信者数の増加や共同体都市ではなく、世界的な文化的影響力で運動の成功を定義するようになった{{sfn|Goldman|2014|pp=176–194}}。マリオン・S・ゴールドマンは、「いま、ここを生きる」という中心的信条は、何世代にもわたって続くような安定し限定された運動としての発展を妨げたが、運動の流動性と、スピリチュアルな発達の基盤としての物質的幸福の重視は、より若く裕福なスピリチュアな求道者への訴求力を高めており、この運動の文化的影響力の拡大は、「インナーサークル」が、OSHOインターナショナル・メディテーション・リゾートが世界中のセンターと個々のクライエントの拠点となるヴィジョンを描いたことによると評している{{sfn|Goldman|2014|pp=176–194}}。再解釈された現在の運動のビジョンは、彼は組織化された宗教を創設するつもりはなく、その一員になることさえ望んでいなかったと語った講話を強調することで正当化されている{{sfn|Goldman|2004|pp=119–138}}。 |
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またゴールドマンは、過去1世紀にわたって、開祖の死を乗り越え、世間のマイナスの認識を変え、影響力を世界的に増大させることに成功した代替宗教はごくわずかで、特に小規模かつ白眼視された運動で、生き残り、世界的な文脈でスピリチュアルな文化的影響力を持つ勢力として成功したものはほとんどないが、オショー=ラジニーシ運動は稀有な例だと述べている{{sfn|Goldman|2014|pp=176–194}}。2000年にOSHOインターナショナル財団は伝記『''Autobiography of a Spiritually Incorrect Mystic''』を出版したが、ヒュー・B・アーバンによると、これはオショー・ラジニーシの生涯を現在の「オショー運動」の観点から編集し、再パッケージしたものである<ref name="HBU-2016-1"/>。メディア研究者のイシタ・ティワリは、オショー・ラジニーシはメディアを巧みに利用して帝国を拡大したが、彼の死後、信奉者たちもまたメディアを巧みに利用し、講話のビデオ、音声テープ、書籍を使って、物議を醸した彼の過去をごまかし、浄化されたイメージをブランド化し広めたと評している{{sfn|Tiwary|2024|pp=152–188}}。このイメージの浄化・ブランド化の事業には、特に講話のビデオ映像が欠かせないもので、映像の流通と販売は彼の遺産を存続させることに役立ち、書籍、音声コンテンツ、タロット・カードなどの商品の販売にも巧みに活用された{{sfn|Tiwary|2024|pp=152–188}}。インドのリゾート(アシュラム)への滞在者は減少し、滞在期間は短くなったが、リゾートが存続したこと自体が成功を示しており、商業出版社による「感情の健康」、「喜びと愛」といったキャッチーなタイトルの講話録の出版を通じて、広く一般大衆にアピールし、A・D・アンドレアによると、1990年から2005年の書籍の年間販売数は、17万部から250万部以上に増加した<ref name="Aveling"/>。 |
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現代における信奉者たちの語りでは、オショー・ラジニーシが初期の弟子たちに教えた瞑想と自己成長へのアプローチに焦点が当てられており、物議を醸した時代の教えやグルと弟子の関係の在り方は軽視されている{{sfn|Goldman|2014|pp=176–194}}。ラジニーシプーラム時代で残されているのは、特徴的なローブと帽子をまとったグルのイメージだけとなっており、販売される商品の表紙を飾っている{{sfn|Tiwary|2024|pp=152–188}}。 |
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現在の世界的な成功は、以前の紛争や論争を、重要でない、取るに足りない歴史として再定義したことが非常に大きい{{sfn|Goldman|2014|pp=176–194}}。公式ウェブサイトでは、運動に肯定的なメディア報道のみが強調されている{{sfn|Tiwary|2024|pp=152–188}}。ゴールドマンは、「Osho」への名称変更は、運動のブランド再構築と、以前の困難からうまく距離を取る戦略の一環だったと述べている{{sfn|Goldman|2014|pp=176–194}}。現在の教団には外部との対立を極力避ける姿勢が見られ、サニヤシンが着るローブの色もサフラン色から海老茶色(栗色)に替わり、プネー市中心部でローブを着用しないよう指導しており、また1994年・1995年頃まで多かったコレガオン・パーク地区での麻薬使用のあるパーティーも近年では報道されなくなっている{{sfn|足沢|2000|pp=93-94}}。 |
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公式サイトとYouTubeチャンネルで、講話はオリジナルの形では提供されておらず、テーマに応じて編集され、アピールしたい教えを凝縮した形となっている{{sfn|Tiwary|2024|pp=152–188}}。オンラインの講話アーカイブとOshoインターナショナル・メディテーション・リゾートの体験という2つの側面で、信奉者に向けてスピリチュアルなスペクタクルが提供されている{{sfn|Tiwary|2024|pp=152–188}}。イシタ・ティワリがリゾートに滞在した際、特に重要な夕方の時間には、ピラミッド型のブッタ・ホールで、ダンス、音楽と共に、講話のビデオが上映されたが、この毎夕のイベントは、オショー・ラジニーシが晩年に行った講話の時間の再現になっており、参加者が彼の存在を繰り返し感じ、彼の「アウラ」を辿り持続させるものとなっていると評している{{sfn|Tiwary|2024|pp=152–188}}。 |
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プネーの組織がオショー・ラジニーシとそのメッセージを非常にうまく主流化したことで、彼は危険なカリスマ的指導者から、説得力のあるスピリチュアルな教師として世間に受け取られるようになっている{{sfn|Goldman|2014|pp=176–194}}。インターネットの出現、Facebook、YouTubeといったサービスにより、運動の影響力は飛躍的に拡大した{{sfn|Goldman|2014|pp=176–194}}。2011年に著名なミュージシャンの[[レディー・ガガ]]が、彼の本を多く読んでおり、反抗に対する考え方を気に入っているとコメント{{Refn|group="†"|「Oh yes Osho I read a lot of Osho books and I have been reading a lot about [Osho’s views on] rebellion, which is my favorite so far. And how creativity is the greatest form of rebellion in life. It’s important to stand up for what you believe in and to fight for equality. Equality is one of the most important things in my life—social, political, economic equality—these are all things I fight for in my country as a citizen. So I read Osho because not only do I love his work and what he writes about, but I guess I am kind of an Indian hippie!(ええ、そう、オショー。私はオショーの本をたくさん読んでいて、(彼の) 「反抗」(に対する考え方)が一番気に入っています。そして、創造的なことは人生における最大の反抗であるということも。自分が信じることのために立ち上がり、平等のために戦うことは重要です。社会的、政治的、経済的な平等は、私の人生において非常に重要なことのひとつです-これらは全て、私が市民として自分の国で戦っていることです。だから、私がオショーの本を読むのは、彼の作品や彼が書いたものが好きというだけでなく、一種のインド人ヒッピーだと思うからなんです!)(Bhushan 2011)」{{sfn|Goldman|2014|pp=176–194}}}}しているが、特にメディアから非難は受けておらず、運動の巧みなマーケティング戦略が成功していることが分かる{{sfn|Goldman|2014|pp=176–194}}。 |
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また最近では、以前の「両極的な性(Sex polarity)」の性別観を捨て、男女という性別は互いに補い合うものだという、安定した男女関係を育みやすい伝統的価値観を支持する傾向が見られる{{sfn|Palmer|2009|pp=378–385}}。 |
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インドの地元最大の英語新聞『インディアン・エクスプレス』は長年教団を告発してきたが、教団が市民と対立しないよう行動を慎んでいるため、プネーの公序良俗を守るためにコミューンを告発するという記事は紙面には見られなくなってきている{{sfn|足沢|2000|p=94}}。足沢一成は、報道関係者の話によると、プネーのマスコミの教団への歩み寄りには、教団の自粛だけでなく、コミューンに集まる外国人が持つ広告やイベント企画の経験を利用したいという思惑があると述べている{{sfn|足沢|2000|p=94}}。観光資源のないプネーにとって、教団のリゾートは大きな外貨収入源になっている{{sfn|足沢|2000|p=94}}。 |
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===近年のオショー=ラジニーシ運動の構成=== |
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運動は世界的にゆるやかなネットワークを持ち、セラピー・センターはアメリカのアリゾナ州[[セドナ (アリゾナ州)|セドナ]]、出版物はドイツの[[ケルン]]、瞑想リゾートはインドのプネーにあり、OSHOインターナショナル財団系以外にも、インド人を中心とする組織オショー・ディアーナ・マンディール(ニューデリー)、その系統の[[リトリート (宗教上)|リトリート]]・センター、組織化に反対するグループや、プネーのコミュニティの在り方に異を唱え離脱した人々のグループ、「スピリチュアルな」側面を維持することに熱心なグループもあり、多中心的で対立しあう、複雑な構造となっている{{sfn|伊藤|2004|p=83}}<ref name="HBU-2016-6"/>。運動はかつて社会と緊張関係にあったが、現在の対立は主に運動内でのものである{{sfn|Goldman|2014|pp=176–194}}。 |
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彼という人物の扱いもグループによって異なり、オショー・ディヤーナ・マンディールは彼を明らかに尊敬し、彼の初期の教えも重視しているが、OSHOインターナショナル財団の指導者たちは、彼という具体的な人格ではなく、彼の哲学を熱心に宣伝した<ref name="WRSP"/>。最近の運動の熱心なメンバー達の問いは、オショー・ラジニーシが霊的・精神的指導者として、引き続きオショー=ラジニーシ運動の中心的存在であるべきか、彼自身がどの程度彼の教えに必要なのかというものである{{sfn|Goldman|2004|pp=119–138}}。 |
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オショー・ラジニーシの死後、個々人がアシュラムまたはコミューン([[インテンショナル・コミュニティ]])に所属しここでフルタイムで生活し人生を捧げるモデルは廃れ、世界各地のセンターや個人の家に半ば定期的に集まる分散型モデルに移行しており、これは大きな変化である<ref name="HBU-2016-6"/>。オショー・ラジニーシのメッセージに触発された小規模なインテンショナル・コミュニティやアシュラムは今もあるが、主流ではなく、数多くのセンターが世界中に点在する流動的で分散化された形が主であり、人々はセンターに短いスピリチュアルなリトリートを体験するためにやって来て、瞑想に取り組み、コースを受講し、日常に帰っていく<ref name="HBU-2016-6"/>。こうした緩やかなセンターのネットワークには、ドイツの Osho UTA、オランダの Osho Humaniversity、インドのジャバルプルの Osho Amritdham、ギリシャの Osho Afroz、ブラジルの Instituto Osho、カナダの Osho Madhuban、イギリスの Osho Leela、ロシアの Osho Work、イタリアの Osho Varazze、アリゾナ州セドナの Osho Academy、ベイエリアの Osho Viha 等がある<ref name="HBU-2016-6"/>。インドのデリーのオショー・ダーラの3人のサットグルの一人は、オショー・ラジニーシの弟で、瞑想キャンプを通過した全ての人にオショーの称号が与えられる<ref name="Aveling"/>。今日のアメリカにおける運動は、1980年代のオレゴンのコミューンとはほとんど似たところがない<ref name="HBU-2016-6"/>。 |
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現在(2004年時点)、若いサニヤシンの中には、運動を脱個人化し、オショー・ラジニーシの教えを前面に出し、彼のカリスマ教祖的アイデンティティを隠すよう主張する者もいる{{sfn|Goldman|2004|pp=119–138}}。彼らはリゾートを運営する現在の運動の指導者たちの存在意義に疑問を呈し、人間の自由を支持するより普遍的な運動にすることを提案しているが、他の多くの古参メンバーは抵抗している{{sfn|Goldman|2004|pp=119–138}}。 |
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===経済的価値の高い多国籍企業として=== |
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オショー・ラジニーシの思想と実践は、彼の死後グローバルに広がり続け、21世紀初頭までに、オショー=ラジニーシ運動は巨大で複雑で、極めて経済的価値の高い世界的組織に成長した<ref name="HBU-2016-6"/>。これはスピリチュアル運動であると同時に多国籍企業でもあった<ref name="HBU-2016-6"/>。 |
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オショー=ラジニーシ運動側の社会への歩み寄りもあり、北アメリカと西ヨーロッパの社会は、ヨーガや瞑想のようなスピリチュアルな主題にある程度順応的になっている{{sfn|Lewis|Petersen|2005|p=120}}。OSHOインターナショナル財団 (Osho International Foundation、OIF)は、[[IBM]]や[[BMW]]のような企業の顧客向けに[[ストレス管理]]セミナーを開催しており、アメリカでは年間1,500万ドルから4,500万ドルの収入があると報告されている(2000年)<ref>{{harvnb|Carrette|King|2004|p=154}}</ref><ref>{{harvnb|Heelas|1996|p=63}}</ref>。 |
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2000年に India Today は、「Osho Inc.」帝国には「80か国に750の瞑想センター、40か国語で出版された1500冊の本、音楽と説教のテープ400本、800点の署名入り絵画、10,000枚の写真、ダイヤモンドのローブとアクセサリー、ロールス・ロイスの艦隊と不動産」が含まれていると推定した<ref name="HBU-2016-6">{{harvnb|Urban|2016|pp=155–178}}</ref>。 |
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===信奉者の運動への排他的コミットメントの弱化=== |
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現代の信奉者は、OSHOインターナショナル・メディテーション・リゾートや関連センターで行われるサニヤス(イニシエーション)・セレモニーに参加してサニヤシン名をもらうことができるが、これはサニヤシンになるための条件ではなくなった。信奉者は、定期的にオショー・ラジニーシの瞑想を実践するという決意表明をするだけでよいが、稀に刺青を入れる等それ以上のことをする人もいる{{sfn|Goldman|2014|pp=176–194}}。 |
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彼の生前、「イニシエーションを受ける(サニヤス)」とは「彼の弟子になること」だったが、死後意味が変化し、「オショー・アカデミー・オブ・イニシエーション」が1991年に発行したサニヤシンの申込書では、「個々人が自分の人生に対する新たな決意をする機会」という意味合いが強まっており、参加者のオショー・ラジニーシへの排他的なコミットメントが弱まり、自己責任、自己判断による行動がより求められるようになっている{{sfn|伊藤|2003|pp=81-82}}。 |
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伊藤雅之はこうした状況を、サービス提供者はある程度組織性があるが、その受け手であるクライエントは組織性がなく関与も部分的で、他の宗教運動や組織に参加している場合もある「クライエント・カルト」と理解できるとしている{{sfn|伊藤|2003|pp=81-82}}。オショー・ラジニーシが多岐に渡る宗教伝統に言及し多様な実践を取り入れたこともあり、オショー=ラジニーシ運動の雑種性・折衷性は高く、当事者は他のニューエイジ系の本を読んだりワークショップに参加し自己流にスピリチュアリティをアレンジすることがほとんどで、彼らの思想や実践の雑種性はさらに高い{{sfn|伊藤|2004|p=83}}。 |
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社会学者のスティーブ・ブルースは、オショー・ラジニーシの教えがある程度の影響力を持ち続けているのは、信者に期待されるものが少なくなり、職業や家族を持つ一般人の生活改善に役立つものになったからで、多くのキリスト教の信者と同様に、信奉者の大半にとってオショー=ラジニーシ運動は、日常生活にほとんど影響を与えない余暇のレジャーとなっていると述べている{{sfn|Bruce|2017|pp=60–84}}。 |
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===OSHOインターナショナル・メディテーション・リゾート=== |
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[[ファイル:Osho_International_Meditation_Resort.jpg|thumb|right|280px|OSHOインターナショナル・メディテーション・リゾートのイメージ]] |
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インドの[[プネー]]のアシュラムは、サニヤシン達が長期的に住む共同体、堅固なコミュニティから、短期の訪問者が訪れ、教師さえ自由に出入りする観光リゾートへと変化し、より明確に国際的なビジネスへと進化した<ref name="HBU-2016-5"/>。現在はOSHOインターナショナル・メディテーション・リゾート(the Osho International Meditation Resort)というスピリチュアルなリゾート施設になっている<ref name="JMF41" /><ref name=":10" group="本人">{{Cite book|title=こころでからだの声を聴く: ボディ・マインド・バランシング|author=OSHO|translator=マ・アナンド・ムグダ |date=|year=|publisher=市民出版|page=243}}</ref>。この施設は「東洋の[[エサレン協会|エサレン]]」を称しており、幅広い伝統から取られた様々なスピリチュアルなテクニックを教え、美しいリゾート環境の中で自己を発見し、肉体と精神の欲求を統合するためのスピリチュアルなオアシス、「聖なる空間」であると宣伝している<ref name=GIA182-183>{{harvnb|Forsthoefel|Humes|2005|pp=182–183}}</ref>。足沢一成は、「瞑想をアトラクションとしたディズニーランド」と評しており、コミューン自身も「[[クラブメッド|クラブ・メディタレーニアン]](地中海クラブ)」をもじって「クラブ・メディテーション(瞑想クラブ)」を名乗っている{{sfn|足沢|2000|p=94}}。OSHOインターナショナル・メディテーション・リゾートは、Lifestyles of Health and Sustainability(LOHAS)として知られるリトリートと自己啓発プログラムの緩やかな世界的連合に加盟する数千のセンターの1つであり、毎年計30億ドル以上の収益を生み出している{{sfn|Goldman|2014|pp=176–194}}。 |
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ここでは占星術や[[フェルデンクライスメソッド|フェルデンクライス]]・ボディワーク、クリスタルエネルギー、[[鍼灸]]、ネオ禅、その他のニューエイジ活動など、さまざまな伝統から引き出されたスピリチュアルなテクニックが、ビュッフェのように取り揃えられ提供されている{{sfn|Urban|2011|pp=369–382}}。インドにあるが地域性を感じさせない脱土着化したスピリチュアル・リゾートになっており、入場者のほとんどは外国人である{{sfn|伊藤|2004|p=83}}。ヒュー・B・アーバンらが2011年から2013年に滞在した際にカウントしたところ、訪問者の約75%はインド人以外で、そのうち半数以上がヨーロッパ人、次いでアメリカ人、イギリス人、ブラジル人、イスラエル人、日本人で、インド人客はほぼ全員が裕福な中流階級と上流階級だった<ref name="HBU-2016-5"/>。報道によると、著名な訪問者には政治家やメディア関係者もおり<ref name="JMF41">{{harvnb|Fox|2002|p=41}}</ref>、Facebookの創設者[[マーク・ザッカーバーグ]]もこの施設を訪問したことがある{{sfn|Goldman|2014|pp=176–194}}。清掃員、用務員、食事サービス、ランドリースタッフなどの末端の労働者は100%南アジア人で、決して上流階級ではない<ref name="HBU-2016-5"/>。宿泊料や入場料、各種コースの料金は上昇し(宿泊料は5つ星ホテルに匹敵し、シーズン中はさらに高くなる)、高額な料金を払えない人は排除され宿泊者は減っていき、2016年時点で少数の富裕層向けの施設となっている<ref name="HBU-2016-5"/>。 |
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プネーの統治者グループのメンバーであっても、赤やオレンジ色のローブやオショー・ラジニーシの肖像が描かれたロケットを身につけていないが、リゾートの訪問者と居住者は、日中は栗色のローブ、夜の瞑想中はシンプルな白いローブを着用する必要があり、これは、親密なグループとして集まり、真剣に瞑想を追求する意思を示す手段となっている{{sfn|Goldman|2014|pp=176–194}}。彼の遺灰は生前の寝室に安置されており、ここは聖地とみなされ、一般公開され、彼を引き続き崇拝の対象とすべきか激しく議論が交わされてきた<ref name="Aveling"/>。 |
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マリオン・S・ゴールドマンは、訪問者は複数の新宗教と関わりがあると述べており、社会的・文化的・経済的資本を持つ特権的な人々が、Web上での世界的なスピリチュアル市場の活況にオショー・ラジニーシへの関心を刺激され集まってきている{{sfn|Goldman|2014|pp=176–194}}。彼らは時間とお金をかけてより豊かなスピリチュアル体験を追求し、人間の[[潜在能力 (能力開発)|潜在能力]]を最大限に発揮できる仲間・実践・教義を模索し様々に試す、「裕福な求道者」である{{sfn|Goldman|2014|pp=176–194}}。 |
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2013年現在、OSHOインターナショナル・メディテーション・リゾートは、到着時にすべての宿泊客に[[HIV]]、[[エイズ]]の検査を義務付けている<ref>{{cite web|url=http://www.osho.com/medresort/faqmedresort/faqmedresort.cfm|archive-url=https://web.archive.org/web/20130804093116/http://www.osho.com/medresort/faqmedresort/faqmedresort.cfm|archive-date=4 August 2013|title=FAQ's|work=Osho International Meditation Resort|access-date=24 March 2012|url-status=dead}}</ref>。かつてオショー=ラジニーシ運動は性欲とネオタントラの過激な実践を重んじ、エイズが流行してからは性衛生に非常に関心を持ち、メンバーに特別な「エイズキット」を配布していたが、リゾートにはこうした不安の名残りが今日も残っているためである<ref name="HBU-2016-5"/>。 |
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====宗教学者による批評==== |
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ヒュー・B・アーバンは、OSHOインターナショナル・メディテーション・リゾートでは、5つ星ホテル的な豪華な雰囲気の中で、世界中のあらゆる伝統から取られたスピリチュアルな実践が盛り合わせで提供されるが、官能的な意味でも商業的な意味でも「消費的」であり、感覚を愉しませる消費とスピリチュアルな消費のビジネスモデルの両方を称賛する新しいタイプの神聖な空間となっていると評し、「この身体そのものが仏陀である」「富はあらゆる面で人々を高め、あらゆる面で人生を豊かにすることができる完璧な手段である」というオショー・ラジニーシの見解と、「私はスピリチュアルな唯物主義者である」という宣言とがシームレスに融合していると述べている<ref name="HBU-2016-5"/>。 |
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アーバンによると、このリゾートはオショー・ラジニーシの「ゾルバ・ザ・ブッダ」の理想と共に、1990年代のグローバル資本主義の多くの側面、「[[新自由主義]]」とも呼ばれるものを体現しており、アーバンは、アシュラムの高級スピリチュアルリゾート化は単なる宗教的な「裏切り」や、商業主義と消費主義によるスピリチュアリティの乗っ取りではなく、後期資本主義とグローバルな新自由主義の文脈における「聖なる空間」そのものの、非常に興味深く複雑な再構築を象徴していると主張している<ref name="HBU-2016-5"/>。 |
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===現代のタントラへの影響=== |
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南アジアの伝統的な[[タントラ]]を再解釈し、東洋と西洋を複雑に融合させたオショー・ラジニーシの[[ネオタントラ]]は、1970年代以降、ヨーロッパとアメリカで人気のある{{仮リンク|性ヨーガ|en|Tantric sex}}(タントリック・セックス)のほぼすべてに多大な影響を与えた{{sfn|Urban|2022}}。ラジニーシ以降の(南アジアの伝統の外における)タントラの解釈は、「タントラ」という名称を使ってはいるが、伝統的なタントラとは全く異なる歴史と信仰体系を説いている{{sfn|McDaniel|2004|pp=265–294}}。これらのネオタントラの著者達は、歴史的なタントラの文献、禁欲的な儀式、瞑想の実践を否定し、伝統的なものとは全く異なる目的を掲げている{{sfn|McDaniel|2004|pp=265–294}}。 |
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現代のタントラは[[ニューエイジ]]と[[自己啓発]]運動の中で広まり、ネオタントラのセンターの設立者、現在活動しているタントラの指導者は、{{仮リンク|マーゴ・アーナンダ|en|Margot Anand}}等オショー・ラジニーシの弟子が多い{{sfn|Puttick|2009|pp=280-284}}。ネオタントラは現在、主に「スピリチュアルな[[性科学]]」の一種と考えられている{{sfn|Urban|2022}}。人気のある書籍の多くがオショー・ラジニーシの直接的な影響を認めているだけでなく、マーゴ・アーナンダの『''The Art of Sexual Ecstasy''(性的エクスタシーの技法)』(1990年)、訓練を受けた[[ヴィルヘルム・ライヒ|ライヒ]]派セラピストのアニーシャ・ディロン『''Tantric Pulsation''(タントラの鼓動)』(2005年)等の弟子の作品が多大な影響力を持つベストセラー作品となっている{{sfn|Urban|2022}}。また、タントラとヨーガに関する彼自身の書籍やDVDも世界中で売れ続けている{{sfn|Urban|2022}}。世界中で行われているオショー・ラジニーシの教えの実践の多くは、現在も[[ネオタントラ]]と性愛に大きく重きを置き続けている<ref name="HBU-2016-6"/>。 |
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=== ネオ・アドヴァイタ運動への影響 === |
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思想史家のバス・J・H・ジェイコブスや宗教学者のリーゼロッテ・フリスクは、1990年代初頭に出現した、人為的努力のいらない突然の悟りを中心テーマとする運動({{仮リンク|ネオ・アドヴァイタ|en|Neo-Advaita}}、非二元論運動として知られ、一部の学者は「サットサン・ネットワーク」と呼んでいる)の教師の大多数は、オショー・ラジニーシと何らかの形で関わりがあると指摘している{{sfn|Jacobs|2020|pp=392-393}}。ネオ・アドヴァイタ運動はサットサンズと呼ばれる交流イベントを中心に展開し、これはインド人グルのH・W・L・プーンジャ、通称{{仮リンク|パパジ|en|H. W. L. Poonja}}が行ったものに由来する{{sfn|Jacobs|2020|pp=392-393}}。悟りを開いた教師はサットサンズで、[[チベット仏教]]で「{{仮リンク|指摘による指導|en|Pointing-out instruction}}」(ngo sprod)と呼ばれる問答を参加者に行い、一連の質問、回答、ジョーク、コメントを通じて、参加者は自分がすでに悟りを開いていることに気付くよう巧みに説き伏せられる{{sfn|Jacobs|2020|pp=392-393}}。悟りはこのように当人の努力なしに即席で得られるため、ネオ・アドヴァイタ運動は膨大な数の悟りを開いた教師を生み出し、おそらくその結果、悟りという概念は総じて軽く見られるようになった{{sfn|Jacobs|2020|pp=392-393}}。 |
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サニヤシンのスワミ・プレム・パリトシュ(クリス・グレイ)は、オショー・ラジニーシの死後、多くのサニヤシンがパパジのもとに流れていったと述べ、彼の晩年の禅の教えとパパジのサットサンの類似性についてコメントしている{{sfn|Jacobs|2020|pp=392-393}}。バス・J・H・ジェイコブスは、オショー・ラジニーシの悪評のために関連が軽視されがちであるが、現代のネオ・アドヴァイタ運動の流行と、特別な手段や何年もの修行もなく悟るという「即時主義(immediatism)」の起源を理解するためには、そのつながりを調査する必要があると述べている{{sfn|Jacobs|2020|pp=392-393}}。 |
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===インドにおける受容=== |
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オショー・ラジニーシの教えは彼の生前、母国インドでは多くの人に歓迎されることはなかったが、死後インドの世論に変化が生じ{{sfn|Forsthoefel|Humes|2005|pp=181–183}}<ref name="TJ">[https://web.archive.org/web/20070927032356/http://law.incometaxindia.gov.in/DitTaxmann/IncomeTaxActs/2007ITAct/%5B2005%5D148TAXMAN0396(BOM).htm Bombay High Court tax judgment], sections 12–14. Retrieved 11 July 2011.</ref>、生前よりも死後の方が母国で称賛されている<ref name="HBU-TSSP">{{harvnb|Urban|2003|p=242}}</ref>。インドの都市部では近年新興のヒンドゥー教団の活動が活発化しており(2005年時点)、特に 1960年代後半以降に欧米の若者たちの一部で人気があったオショー・ラジニーシ運動や[[クリシュナ意識国際協会]]といった新興ヒンドゥー教団が急速にインドに逆輸入され、都市部で大きな影響力を持っている{{sfn|中島|2005|p=260}}。 |
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インドのある新聞は1991年に、インドの運命を最も変えた10人に[[仏陀]]や[[マハトマ・ガンディー]]といった人物と共に彼を入れており、その理由は「宗教性と画一主義の束縛から未来の世代の心を解放した」こととされた<ref name="JMF42">{{harvnb|Fox|2002|p=42}}</ref>。インディアン・エクスプレス紙に寄稿したコラムニストのタンウィール・アラムは、「故ラジニーシは、人間の幸福を破壊する社会の不条理を見事に表現した」と述べた<ref name="The Indian Express">{{cite news|url=http://www.indianexpress.com/news/bending-towards-justice/893156/ |first=Tanweer |last=Alam |title=Bending towards justice |date=29 December 2011 |newspaper=The Indian Express |access-date=4 January 2012 |url-status=unfit |archive-url=https://web.archive.org/web/20160921005125/http://www.indianexpress.com/news/bending-towards-justice/893156/ |archive-date=21 September 2016 }}</ref>。2006年の彼の生誕75周年記念の祝賀会で、インドの歌手ワシフッディン・ダガーは、彼の教えは「以前よりはるかに現在の社会に合っている」と述べた<ref>{{cite news|date=23 September 2006 |url=http://www.hindu.com/mp/2006/09/23/stories/2006092303060200.htm |title=In memoriam |access-date=11 July 2011 |location=Chennai, India |url-status=unfit |archive-url=https://web.archive.org/web/20111214104705/http://www.hindu.com/mp/2006/09/23/stories/2006092303060200.htm |work=The Hindu |archive-date=14 December 2011 }}</ref>。 |
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2011年に、オショー・ラジニーシの教えに関する全国セミナーが[[ジャバルプル]]のマンクンワルバイ女子大学の哲学科で開催された<ref name=Hitavada>"National seminar on 'Zorba the Buddha' inaugurated", ''The Hitavada'', 5 February 2011</ref>。このセミナーは大学助成委員会の[[ボーパール]]事務所が資金提供し、オショー・ラジニーシの「ゾルバ・ザ・ブッダ」の教えに焦点を当て、霊性・精神性と[[唯物論]]的・客観的なアプローチの調和を模索した<ref name=Hitavada />。 |
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===日本=== |
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アメリカのラジニーシプーラムで運動の中央集権化が進んだ時期には、日本でも1985年に各地の瞑想センターが閉鎖され、東京にコミューンが作られ、約110人が個人財産を処分して共同生活を行った{{sfn|伊藤|2003|p=77}}。 |
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1985年のラジニーシプーラム崩壊後、1988年に東京に Osho サクシン瞑想センターが開設され、これは2018年時点でも存在する{{sfn|井上|2019|p=26}}。瞑想や各種セミナーの開催、講話録の販売などが行われているが、オショー・ラジニーシの死後は、日本ではあまり活発な運動の活動はみられない{{sfn|井上|2019|p=26}}。プネーの教団(リゾート)は中央集権的に世界中の様々なグループを取りまとめており、日本のセンターは、ドイツ、イタリア、アメリカのセンターと同様に傘下のひとつである{{sfn|Goldman|2004|pp=119–138}}。日本のセンターを含めたこれらのグループは、それぞれのサニヤシンの霊的・精神的指導者、グルとしてのオショー・ラジニーシの役割を重視している{{sfn|Goldman|2004|pp=119–138}}。 |
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===その他の国での人気=== |
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ネパールでは、2008年1月時点で60のラジニーシ・センターがあり、45,000人近くの弟子が入門している<ref>{{cite news|work=Sudeshna Sarkar|date=19 January 2008|title=Osho rises from his ashes in Nepal|publisher=News Post India}}</ref>。 |
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イタリアでは2016年に「Le più belle frasi di Osho」と題された風刺的なFacebookページが開設され、オショー・ラジニーシの写真に国政についてのユーモラスなキャプションを付けた投稿を行い、フォロワーが100万人を超えて文化現象となり、投稿は全国紙やテレビで紹介もされた<ref>{{Cite web|date=31 December 2018|title=Interview with Federico Palmaroli at "Le più belle frasi di Osho"|url=https://the-shortlisted.co.uk/le-piu-belle-frasi-di-osho-federico-palmaroli-intervista/|website=The Shortlisted|language=en-GB|accessdate=2024-07-23|url-status=dead|url-status-date=2024-08-04}}</ref>。彼の本は200以上の出版社から60以上の言語で出版されており<ref>{{cite news|work=Shantanu Guha Ray |date=30 June 2007 |url=http://www.tehelka.com/story_main31.asp?filename=Ne300607Business_Of_the.asp |title=Business of the Gods |access-date=11 July 2011 |url-status=dead |archive-url=https://web.archive.org/web/20120419104750/http://www.tehelka.com/story_main31.asp?filename=Ne300607Business_Of_the.asp |archive-date=19 April 2012 }}</ref>、イタリアと韓国でベストセラーとなった<ref name="JMF42" /><ref>{{cite web|url=https://theprint.in/opinion/wild-wild-country-demonises-osho-and-celebrates-his-fall-says-ex-follower-mahesh-bhatt/46845/|title=I was part of Osho's spiritual whorehouse cult & flushed his mala in disgust|work=The Print|date=4 April 2018 |accessdate=2024.7.23}}</ref><ref>{{cite web|url=https://www.spotboye.com/bollywood/Bollywood-interviews/mahesh-bhatt-reminisces-i-was-instrumental-in-taking-vinod-khanna-to-rajneesh/5901d1658ce16f1a1ad328cb|title=Mahesh Bhatt Reminisces: I Was Instrumental In Taking Vinod Khanna To Rajneesh|work=Spotboye|accessdate=2024.7.23}}</ref>。 |
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===運動内部からの商業化・「インナー・サークル」への批判=== |
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プネーの指導者たち「インナー・サークル」はインド人ではなく、サニヤシンの中には、彼らが利益主導の商業主義に陥り、本当のコミューンから、裕福な観光客が数日リラックスするために訪れるだけの、西洋化された高級リゾートに変わってしまったと憤慨する人もいる<ref name="HBU-2016-6"/>。 |
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Oshoという名前、本、技法の権利は、インドからスイスのチューリッヒとアメリカのニューヨークに移されたが、インド人サニヤシンが増加する中で、インド人の中にはこうした動きにショックを受け、プネーのセンターを運営する非インド人達によってオショー=ラジニーシ運動が商業化され、西洋化され、インド人が除け者にされていると怒りを表す人も増えた<ref name="HBU-2016-6"/>。 |
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OSHOインターナショナル財団と対立団体の、Oshoという商標と彼の著作物に関する長年に渡る激しい法廷闘争や、OSHOインターナショナル・メディテーション・リゾートの経営陣による利益や土地の不正な移動の疑惑、プネーのアシュラムが(オショー・ラジニーシが批判した意味での)宗教化しているという批判、OSHOインターナショナル財団によるオショー・ラジニーシの遺言状の偽造の疑惑といった告発や訴訟は、インド国内だけでなく世界中のサニヤシンたちのスピリチュアルな生活や士気に影響を与え、プネーのアシュラムの雰囲気を大きく変えた<ref name="HBU-2016-6"/>。ヒュー・B・アーバンによると、長年サニヤシンである人々や、プネーのコミュニティのメンバーは、初期のアシュラムにあった熱狂的で遊び心のある混沌とした雰囲気は、国際的な系列ホテルに似た、新しい種類の怪しげな官僚主義に徐々に取って替わったと語っており、彼がインタビューした街で働く一般の人々も基本的に同意見である<ref name="HBU-2016-6"/>。 |
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複雑で激しい法的な争いは、21世紀のオショー=ラジニーシ運動の一部の勢いを削いだが、オショー・ラジニーシの遺産全体にとって重要なことだと考えている人は一部に留まり、ほとんどのサニヤシンは、オショー・ラジニーシのメッセージへの注目を邪魔する、退屈で、煩わしく、非常に恥ずかしいものだが、オショー・ラジニーシのメッセージとはほとんど関係がないと考えているようで、この運動に意味を見出し続けている<ref name="HBU-2016-6"/>。 |
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=== 死後の著作権・商標に関する法的紛争 === |
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オショー・ラジニーシの死後そのコミュニティは分裂していき、プネーを中心とし主に非インド人メンバーが率いるOSHOインターナショナル財団(OIF、現在の拠点はチューリッヒ)と、ニューデリーを中心とし主にインド人メンバーが率いるオショー・ディヤーナ・マンディール(Osho Dhyan Mandir)とそのウェブサイト Oshoworld.com を主とするライバルグループに分かれ、Oshoという名前の権利をめぐって大規模な法廷闘争が繰り広げられ、運動における国家主義的かつグローバルな緊張が浮き彫りになった<ref name="HBU-2016-6"/>。 |
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オショー・ラジニーシが生前、東洋のスピリチュアルな伝統である瞑想を[[著作権]]と[[商標]]で保護することを明確に否定したにもかかわらず、彼の死後すぐに彼が提唱した瞑想は著作権で保護され、使用権と利益をめぐる様々な争いにつながった<ref name="HBU-2016-6"/>。1992年以降、OSHOインターナショナル財団はOshoという名前に関連するすべての書籍、テープ、瞑想、その他の資料についてアメリカで商標登録を出願し始め、今日彼らは、オショー・ラジニーシの作品のすべての著作権と、さまざまな実践のすべての商標、デザイン、ロゴの唯一の登録された所有者であると主張し、この動きはオショー・ディヤーナ・マンディールを主とするライバルのオショー・グループとの一連の法的紛争につながった<ref name="HBU-2016-6"/>。 |
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OSHOインターナショナル財団は2000年にオショー・ディヤーナ・マンディールを相手取り、「Osho World(www.oshoworld.com)」というウェブサイトのドメイン名にOshoという名前を使用したことで訴えたが、これは、「Osho」という単語が個人名なのか、仏教の師を意味する日本語の一般的な称号なのか、また宗教的な称号自体が知的財産になり得るのかという、大きく根深い問題を提起することになった<ref name="HBU-2016-6"/>。オショー・ディヤーナ・マンディールは、瞑想を著作権で保護し商標登録することを否定したオショー・ラジニーシの言葉を引用し、宗教的思想を著作権で保護したり商標登録したりするという考えを否定したが、OSHOインターナショナル財団は、オショー・ラジニーシは頻繁に矛盾した発言をしており、この発言を彼の最終的な結論ということはできず、商標と著作権はオショー・ラジニーシの教えの濫用を防ぐためにあると反論した<ref name="HBU-2016-6"/>。 |
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この争いは全米仲裁フォーラム(NAF:The National Arbitration Forum)に持ち込まれた<ref name="HBU-2016-6"/>。全米仲裁フォーラムは、オショー・ラジニーシ自身は知的財産権問題にほとんど関心がなく、この称号を商業的利益のために利用していないと指摘し、団体がOshoのような名称を商標登録することを認めるとキリストや仏陀などの他の宗教の称号の商標登録にも道が開かれるとも述べ、オショー・ディヤーナ・マンディールに有利な判決を下した<ref name="HBU-2016-6"/>。 |
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この判決を受け、同年後半に、オショー・コミュニティ内の反体制派や、プネーのコミュニティの在り方を「攻撃的で支配的」だと批判し事実上追放された人々が、オショー・フレンズ・インターナショナル (Osho Friends International:OFI) という新しいグループを結成した<ref name="HBU-2016-6"/>。彼らはオショー・ラジニーシの教えの露骨な商業化を拒否し、その作品とテクニックは世界中で自由に利用できるべきだと主張し、彼のメッセージは全人類のためのもので、知的財産権の主張によって束縛されることはないと主張し、「OSHO : すべての人の生得権 - 誰の著作権でもない(OSHO: Everybody’s birthright—nobody’s copyright.)」をスローガンに掲げ、Oshoという名前の商標、オショー・クンダリニー瞑想やオショー・リバランシングなどの技法の商標取り消しのために、[[米国特許商標庁]] (USPTO) に請願書を提出した<ref name="HBU-2016-6"/>。米国特許商標庁は2009年、前述の超越瞑想(TM)を取り上げたオショー・ラジニーシの風刺的な批評を引用し、普及のためにメンバーが世界中にセンターを設立し、OSHOという名前を使用することをオショー・ラジニーシは許可していたと認め、OSHOインターナショナル財団に不利な判決を下し、Oshoという名前は一般的な形容詞であり、競合他社が自由に使用できるべきであると判断した<ref name="HBU-2016-6"/>。また米国特許商標庁は、{{仮リンク|ポール・ヒーラス|en|Paul Heelas}}の著書『''The New Age Movement''(ニューエイジ運動)』などの学術作品も調査し、学術界では「Osho」を「宗教的、瞑想的な運動であり、商標ではない。(religious and meditative movement and not as a trademark.)」一般的な意味で言及していると指摘している<ref name="HBU-2016-6"/>。 |
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しかし、OSHOインターナショナル財団は、アメリカの2つの主要団体の判決で否定されたにもかかわらず、 Oshoという名称、技法、関連する道具類の世界的な流通に対する権利を主張し続けている<ref name="HBU-2016-6"/>。Osho.comのWebサイトでは2016年時点で、著作権および商標権を変わらず維持しており、これらの判決はアメリカのみに影響し、Oshoという名称が引き続き保護されている他の国には影響しないと主張している<ref name="HBU-2016-6"/>。 |
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2009年の米国特許商標庁の判決から間もなくして、OSHOインターナショナル財団は、Oshoという名前とテクニックを宣伝する傘下外のグループのFacebookページに対し、著作権侵害でFacebookに告発しページを削除させることを繰り返した<ref name="HBU-2016-6"/>。サンフランシスコの独立系のオショー・センターはブログで、OSHOインターナショナル財団はアメリカでの敗訴の後、登録に反対するサニヤシンが十分にいない中国やベネズエラなどで商標を登録し、インターネットは全世界に広がっており、いくつかの地域で有効な商標登録があるのだからインターネット上のビジネス名にOSHOを使うことはできないと主張しており、また、Facebookは「Osho」を人物ではなく単に商標として扱っていると、OSHOインターナショナル財団の行いとFacebookの判断の不当さを訴えた<ref name="HBU-2016-6"/>。 |
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また、OSHOインターナショナル・メディテーション・リゾートの資産をめぐり、プネーのセンターを運営する少数のサニヤシン(主に非インド人)の経済的利益のために資産が売却・譲渡されているという多くの批判がある<ref name="HBU-2016-6"/>。 |
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==== OSHOインターナショナル財団による遺言状の偽造疑惑 ==== |
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2010年にオショー・ロータス・コミューン(ドイツ、ケルン。ヨーロッパ最大のオショー瞑想センターであるOsho UTA インスティテュートの親組織)は、欧州共同体商標意匠庁(OHIM:the Office for Harmonization in the International Market)に請願書を提出し、アメリカの局に倣ってOSHOインターナショナル財団の商標権の主張を無効とするよう求めた<ref name="HBU-2016-6"/>。オショー・ロータス・コミューンは、OSHOインターナショナル財団の主張はオショー・ラジニーシの遺産を守るためのものではなく、主に権力、すなわち彼の莫大で利益の多い遺産の支配に関するものであるとはっきり述べ、OSHOインターナショナル財団の主張は、オショー・ラジニーシの崇高な目的の中心である自由と、制度的および官僚的支配に対する彼の根本的な拒絶に真っ向から反していると主張した<ref name="HBU-2016-6"/>。 |
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これに対しOSHOインターナショナル財団は、商標の独占所有の主張を裏付けるために、1989年10月15日に署名されたオショー・ラジニーシの「遺言状」とされる文書と、弁護士による宣誓供述書を提出した<ref name="HBU-2016-6"/>。これは1ページに満たない非常に短い文書だったが、「私、オショーは、現在または将来私が所有するあらゆる形式のあらゆる権利、権原(所有権、出版権、関連する権利を含むが、これらに限定されない)を「ネオ・サニヤス・インターナショナル財団」に譲渡し、遺贈する。これには、現在または将来、あらゆる形式で公開される私のすべての作品が含まれる。(I, Osho … hereby devise and bequest any and all right, title in any form owned by me, now or in the future, including but not limited to all ownership, publishing or related rights, to all my work, published to date or in the future, in any form, to “Neo Sannyas International Foundation.“)」という文章が含まれていた<ref name="HBU-2016-6"/>。 |
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ネオ・サニヤス・インターナショナル財団は、OSHOインターナショナル財団(1990年)の前身であり、この文書が本物であれば、世界中のすべての オショー・ラジニーシの関連資料の権利がOSHOインターナショナル財団の単独管理下に移譲されることになる<ref name="HBU-2016-6"/>。しかしすぐに、この文章の署名が1976年の別の文書の署名と全く同じであるという疑惑が生じ、イタリアのボローニャ、オーランガバード、ニューデリーの複数の独立した専門家によって、顕微鏡レベルで精査され、「遺言状」の署名は1976年の手紙の署名と同じであると結論付けられ、それは文章が偽造であることを意味した<ref name="HBU-2016-6"/>。 |
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2013年12月、オショー・フレンズ・インターナショナルを代表しヨーゲッシュ・タッカーが、「遺言状」の署名は利権目的で偽造されたものであると主張し、告訴状を提出した<ref name="HBU-2016-6"/>。その直後、プネー警察はアシュラムの管理者に「遺言状」の原本を提出するよう求める通知を出したが、2014年1月、OSHOインターナショナル財団は「遺言状」をヨーロッパの裁判手続きから取り下げた<ref name="HBU-2016-6"/>。OSHOインターナショナル財団を批判する人々は、これは「遺言状」偽造のダメージを最小限にするための必死の行動で、これ自体が偽造の証拠であると見ている<ref name="HBU-2016-6"/>。現在多くの批評家は、「遺言状」は偽造されたものだと考えている<ref name="HBU-2016-6"/>。 |
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[[アメリカ合衆国連邦裁判所|アメリカ連邦裁判所]]はOSHOインターナショナル財団の控訴を棄却する命令を出し、これによりオショー・フレンズ・インターナショナル(Osho Friends International:OFI)との10年近くにおよんだ一連の法廷闘争は終わり、2009年1月にOSHOインターナショナル財団が保有するOshoという商標は、アメリカで無効となった<ref name="Osho"/>。プネーのOSHOインターナショナル・メディテーション・リゾートはこの判決に対してコメントは出さなかったが、ニューデリーのオショー・ワールド財団が発行する月刊誌「オショー・ワールド」の編集者スワミ・チャイタニヤ・キールティは、自分と世界中のオショー・ラジニーシの信者たちは喜んでいると語った<ref name="Osho"/>。 |
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== ダイナミック瞑想の医療的利用の検証 == |
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アメリカのダラスの精神科医Vyas, ''A''博士は、オショー・ラジニーシが編み出したダイナミック瞑想の臨床効果を調査するために、パイロットスタディを行い論文にまとめた。本研究は治験者が実際に瞑想を行い、ペアワイズ比較を用いて行われた。結論として、攻撃的行動、抑うつ状態、形質的危険性、感情的な疲労、役割の過負荷、心理的な緊張の大幅な減少が見られたと実証した。そして、心理療法として使用することができると示している。<ref>Kostas Andrea Fanti-編"[https://www.researchgate.net/profile/Rita-Damico-2/publication/288392197_Women_as_psychology_academics_The_case_of_Italy/links/5bf3d765a6fdcc3a8de38005/Women-as-psychology-academics-The-case-of-Italy.pdf Psychological Science: Research, Theory and Future Directions]" ATHENS INSTITUTE FOR EDUCATION AND RESEARCH(ATINER)、2007年</ref>{{信頼性要検証|date=2024-07}}ただし、この論文の出版元「ATHENS INSTITUTE FOR EDUCATION AND RESEARCH」は、[[ハゲタカジャーナル]]と呼ばれる出版社・学術誌のリスト「[[ビールのリスト]]」に掲載されている<ref>{{cite web |archive-url=https://web.archive.org/web/20170112125427/https://scholarlyoa.com/publishers/ |archive-date=2017-01-12 |url=http://scholarlyoa.com/publishers/ |title=List of Publishers: Potential, possible, or probable predatory scholarly open-access publishers |url-status=unfit ||author=[[ジェフリー・ビール]] |edition=last archived|access-date=2024.8.2}}</ref><ref>{{Cite web |date=|title=BEALL'S LIST OF POTENTIAL PREDATORY JOURNALS AND PUBLISHERS|url=https://beallslist.net/ |access-date=2024.8.2|author= |website=beallslist.net}}(匿名の後継者が管理)</ref>。 |
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2015年に21日間、ダイナミック瞑想の実験研究が行なわれた。インド、ラックナウで行われたこの研究は、20-50歳の健康なボランティア20名(男性14名、女性6名)が参加し(4名は健康上や一身上の理由で脱落)血漿コルチゾール値(ストレスに関与し、過度なストレスを受けると分泌量が増加し、抗ストレスホルモンとして恒常性の維持に不可欠な物質)を測定し、このアクティブ瞑想が抗ストレス効果を生み出すと結論づけた。健康なボランティアを対象に実施され、参加者数が16名と少ないことが指摘されており、ダイナミック瞑想のストレス解消効果をより実証するには、ストレスを抱えた人々を対象に、大人数が参加する研究をさらに行う必要がある<ref>{{Cite web |url=https://pmc.ncbi.nlm.nih.gov/articles/PMC5198312/ |title=Osho Dynamic Meditation’s Effect on Serum Cortisol Level |access-date=2024-10-25}}</ref>。 |
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==ドキュメンタリー== |
==ドキュメンタリー== |
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ラジニーシ |
オショー・ラジニーシ達の驚異的な成功と破滅を追った[[Netflix]]のドキュメンタリー・シリーズ「ワイルド・ワイルド・カントリー([[:en:Wild Wild Country|Wild Wild Country]])」(全6話)が、2018年に第70回[[エミー賞]]5部門にノミネートされ、米国内で注目を集めた<ref name="小池">{{Cite web|和書|author=小池かおる |coauthors= |date=2018-08-14 |url=https://moviewalker.jp/news/article/157752/ |title=大反響のNetflixドキュメンタリーと、カート・ラッセルの意外な関係|publisher = Movie Walker|accessdate=2020-04-30}}</ref>。オショー・ラジニーシの思想や教えには踏み込まず、関係者を追う形をとっている<ref name="小池"/>。映画製作者たちはアーカイブ映像をデジタル化し、ポートランドの地元ニュース局が撮影した映像、[[スーパー8mmフィルム]]、ホームビデオ映像を探し出し、全てを記録すべきだというオショー・ラジニーシの宣言を受けてサニヤシン達が撮影した、ラジニーシプーラムの生活を紹介する膨大な宣伝用映像も使われた{{sfn|Tiwary|2024|pp=152–188}} |
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映画とテレビを評価統計するサイト「Rotten Tomatoes」では、公開半年時点でのスコアは98%と高い<ref name="小池"/>。RogerEbert.comの評論家のニック・アレンは、本作を「善と悪の複雑な定義を観客に問いかける、奥深く魅惑的な作品」と絶賛した<ref name="小池"/>。{{仮リンク|ニュー ・リパブリック|en|The New Republic}}の編集長で、『''The Rajneesh Chronicles: The True Story of the Cult that Unleashed the First Act of Bioterrorism''(ラジニーシ黙示録:アメリカで最初のバイオテロを起こしたカルトの真実の物語)』の著者{{仮リンク|ウィン・マコーマック|en|Win McCormack}}は、この映画は、膨大な量のニュース映像アーカイブを調査、発見、選択し、一貫した枠組みに編集するという大変な仕事を成し遂げ、地域住民への詳細なインタビューを行い、可能な限り双方の代表者に意見を述べさせており、過去のプロパガンダ的な映画よりかなり良作だと評価している<ref name="McCormack"/>。 |
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一方マコーマックは、本作は教団が起こした問題と真の脅威の範囲に向き合うことには失敗していると評している<ref name="McCormack">{{Cite web |title=Outside the Limits of the Human Imagination(人間の想像力の限界を超えたもの)|url=https://newrepublic.com/article/147657/outside-limits-human-imagination |date=2018.3.27|access-date=2024.8.3|author= Win McCormack|website=The New Republic}}</ref>。マシュー・レムスキーは、田舎者対侵略者の戦いを描いたポップで魅力的な娯楽作品に過ぎず、「客観性」を称賛する多くのレビューがあるが、実際のところ問題の多くは取り上げられていないと述べている<ref name="Remski"/>。映画監督のマヘーシュ・バットは、この作品は、世界的に「セックス・グル」として知られる彼のような人物をあえて取り上げ、悪者に仕立て、その没落でお祭り騒ぎをしており、高尚な人物が矮小化し破滅する姿を楽しむという大衆の倒錯した喜びを満たす娯楽作品であり、善人を自認する人々の[[サディスティック]]な衝動に迎合していると感じたと述べている<ref name="print"/>。物議を醸した彼という人物に対して大胆な視点をとっておらず、大衆娯楽作品の肝である中流階級の価値観を支持し、擁護し、永続化に寄与していると評している<ref name="print"/>。 |
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== 日本語書籍 == |
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=== 講話録 === |
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OSHOインターナショナル財団は公式サイトで、本作で取り上げられたオショー・ラジニーシ達の破滅は、本質的にはオショー・ラジニーシのヴィジョンの妨害を目指すアメリカ政府の謀略によるもの等と反論し<ref name=":16" group="official">{{Cite web|和書|url=https://www.osho.com/ja/read-media-and-publishing/wild-wild-country-story-behind-story |title=ワイルド・ワイルド・カントリーの背後にあるストーリー |accessdate=2021年5月5日 |publisher=Osho International Foundation}}</ref>、ドキュメンタリー・シリーズ「''Osho: Priests and Politicians—The Mafia of the Soul''(聖職者たちと政治家たち 魂のマフィア)」を作成した{{sfn|Tiwary|2024|pp=152–188}}(YouTube配信、メンバー限定公開)。 |
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;バグワン・シュリ・ラジニーシ名義 |
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* 『存在の詩―バグワン・シュリ・ラジニーシ、[[タントラ]]を語る』スワミ・プレム・プラブッダ([[星川淳]])訳 ([[めるくまーる]]、1977年、ISBN 4-8397-0001-X) |
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==創作== |
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* 『究極の旅―バグワン・シュリ・ラジネーシ、禅の[[十牛図]]を語る』スワミ・プレム・プラブッダ訳 ([[めるくまーる]]、1978年、ISBN 4-8397-0002-8) |
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* インド系アメリカ人作家{{仮リンク|アヴニ・ドーシ|en|Avni Doshi}}のデビュー作で、2020年[[ブッカー賞]]最終候補作『{{仮リンク|母を燃やす|en|Girl in White Cotton}}』(''Burnt Sugar'')では、結婚しプネーで抑圧された生活を送っていたが自分の欲求に従って生きることを選びアシュラムに飛び込んだ母と、生後まもない頃に母にアシュラムに連れていかれ、ここで7歳まで母がいるのに世話をしてもらえない生活を強いられた娘の葛藤が描かれた<ref name="Hayakawa"/>。作者の母方の家族はオショー・ラジニーシのプネーのアシュラムと関係があり、本作はそれにインスピレーションを受けた<ref>{{Cite web |last=Hunt |first=Elle |date=28 July 2020 |title=Booker nominee Avni Doshi: 'Women feared my ambivalence towards motherhood' |url=http://www.theguardian.com/books/2020/jul/28/avni-doshi-women-feared-my-ambivalence-towards-motherhood-booker-prize-interview-burnt-sugar |access-date=2024.7.27 |website=The Guardian}}</ref>。ガーディアン紙は、アシュラムのグルのモデルはオショー・ラジニーシであると指摘している<ref name="Hayakawa">{{Cite web |date=2022.1.17 |title=1月19日発売『母を燃やす』(アヴニ・ドーシ/川副智子訳)の「訳者あとがき」を特別公開!|url=https://www.hayakawabooks.com/n/n684d7f5d4e5e |access-date=2024.7.27|author= Hayakawa Books & Magazines(β)(早川書房)|website=note}}</ref>。 |
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== 講話 == |
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=== 講話(えり抜き) === |
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{{Refbegin|3|font-size:50%;|}} |
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'''反社会主義・反ガンジー主義:''' |
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* ''The Mind of Acharya Rajneesh''<ref name="HBU-2016-2"/>(様々なヒンディー語の書籍より、1974年出版<ref name="BG1942–1974">{{Cite web|date=|title=Bibliography 1942 – 1974|url=https://oshosourcebook.com/bibliography-1942-1974/|access-date=2024.9.16|author= |website=OSHO Source BOOK}}</ref>) |
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* ''Beware of Socialism!''<ref name="HBU-2016-2"/>(1970年の講話、1978年年出版。ヒンディー語からの翻訳<ref name="BG1942–1974"/>) |
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'''セックス:''' |
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* ''From Sex to Superconsciousness''(1968年の講話、1969年ヒンディー語版出版、1970年[[グジャラート語]]版出版、1970年・1979年英語版出版)<ref name="BG1942–1974"/><ref name="HBU-2016-4"/> |
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'''[[瞑想]]の理論・テクニック:''' |
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* ''Meditation. The Art of Ecstasy''(1970年-1972年の講話、1976年出版。ヨーガ、混沌とした瞑想、マスターになるためのイニシエーション、光明、無欲への道としての完全な欲望、魂、LSDと瞑想、直感、悟り(Satori)と三昧の違い、性的エネルギーとクンダリニーの覚醒、人間の7重の身体、オリジナルの瞑想テクニックの要約<ref name="BG1942–1974"/>) |
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* ''The Book of the Secrets. Discourses on Vigyana Bhairava Tantra'', Vols. I – V (1972年-1973年の講話、1974年-1976年出版。ヒンドゥー教の[[シヴァ派#カシミール・シヴァ派|カシミール・シヴァ派]]の[[ビジュニャーナ・バイラヴァ・タントラ]](ヴィギャン・バイラヴ・タントラ)<ref name="BG1942–1974"/>{{Refn|group="†"|オショー・ラジニーシによるビジュニャーナ・バイラヴァ・タントラの膨大な解説は、[[サンスクリット語]]やカシミール・シヴァ派の専門家ではない東洋愛好家のアメリカ人詩人{{仮リンク|ポール・レップス|en|Paul Reps}}による英訳に基づく。}}) |
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* ''The Orange Book'' |
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* ''Meditation: The First and Last Freedom'' |
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* ''Learning to Silence the Mind'' |
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'''【仏教】''' |
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* ''The Dhammapada'' (Vols. I – X)([[法句経]]) |
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* ''The Discipline of Transcendence'' (Vols. I – IV) |
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* ''The Heart Sutra'' ([[般若心経]]) |
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* ''The Diamond Sutra'' ([[金剛般若経]]) |
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'''[[チベット密教]]のタントラ:''' |
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* ''The Tantra Vision''([[サラハ]]の詩) |
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* ''Tantra: The Supreme Understanding''({{仮リンク|ティローパ|en|Tilopa}}の{{仮リンク|マハームドラー|en|Mahamudra}}、グルへの帰依{{sfn|足沢|2000|p=97}}) |
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'''[[禅宗]]:''' |
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* ''Neither This nor That'' ([[僧璨]]の信心銘) |
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* ''No Water, No Moon'' |
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* ''Returning to the Source'' |
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* ''And the Flowers Showered'' |
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* ''The Grass Grows by Itself'' |
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* ''Nirvana: The Last Nightmare'' |
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* ''The Search. Bhagwan Shree Rajneesh talks on The Ten Bulls of Zen'' (1976年の講話、1977年出版<ref name="BG1974-1981"/>。''[[十牛図]]'') |
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* ''Dang dang doko dang'' |
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* ''Ancient Music in the Pines'' |
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* ''A Sudden Clash of Thunder'' |
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* ''Zen: The Path of Paradox'' |
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* ''This Very Body the Buddha'' ([[白隠慧鶴]]の座禅和讃) |
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'''【ヒンドゥー教】''' |
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* ''Yoga: The Alpha and the Omega'' Vols. I – X (1973年-1974年の講話、1976年出版。[[パタンジャリ]]の[[ヨーガ・スートラ]]<ref name="BG1942–1974"/>) |
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* ''Total of 91 separate discourses''({{仮リンク|アシュターヴァクラ・ギーター|en|Ashtavakra Gita}}) |
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'''[[ウパニシャッド]]'':''' |
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* ''I am That'' ([[イーシャー・ウパニシャッド]]) |
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* ''The Supreme Doctrine'' |
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* ''The Ultimate Alchemy'' Vols. I and II |
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* ''Vedanta: Seven Steps to Samadhi'' |
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'''改革者[[カビール]]:''' |
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* ''Ecstasy: The Forgotten Language'' |
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* ''The Divine Melody'' |
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* ''The Path of Love'' |
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'''【[[バウル (ベンガル)|バウル(ベンガルの吟遊詩人)]]】''' |
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* ''The Beloved'' |
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'''【シク教】''' |
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* ''The True Name''([[グル・ナーナク]]の『ジャプジ』とシク教) |
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'''【[[イスラム教]]の[[スーフィー]]】''' |
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* ''Until You Die'' |
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* ''Just Like That'' |
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* ''Unio Mystica'' Vols. I and II ([[サナーイー]]の詩) |
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'''【道教】''' |
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* ''Tao: The Three Treasures'' Vol I – IV (老子の[[老子道徳経]]) |
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* ''The Empty Boat'' ([[荘子 (書物)|荘子]]の物語) |
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* ''When the Shoe Fits'' (荘子の物語) |
|||
* ''The Secret of Secrets. Talks by Bhagwan Shree Rajneesh on The Secrets of the Golden Flower''(1978年の講話、1982年出版。{{仮リンク|太乙金華宗旨|zh|太乙金華宗旨}}<ref name="BG1974-1981">{{Cite web|date=|title=Poona One 1974 – 1981|url=https://oshosourcebook.com/bib_poona-one-1974-1981/|access-date=2024.9.16|author= |website=OSHO Source BOOK}}</ref>、反社会主義<ref name="HBU-2016-2"/>) |
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'''【ユダヤ教の[[ハシディズム]]】''' |
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* ''The True Sage'' |
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* ''The Art of Dying'' |
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'''【[[ギリシア哲学]]】''' |
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* ''The Hidden Harmony''([[ヘラクレイトス]]) |
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'''【[[キリスト教]]の[[イエス・キリスト|イエス]]】''' |
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* ''The Mustard Seed'' ([[トマスによる福音書]]) |
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* ''Come Follow Me'' Vols. I – IV |
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'''【近現代西洋哲学】''' |
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* ''Zarathustra. A God That Can Dance''(1987年の講話、1987年出版。[[フリードリヒ・ニーチェ|ニーチェ]]の『[[ツァラトゥストラかく語りき|ツァラトゥストラはこう語った]]』<ref name="PoonaTwo">{{Cite web|date=|title=Poona Two|url=https://oshosourcebook.com/bib_poona-two/|access-date=2024.9.16|author= |website=OSHO Source BOOK}}</ref>) |
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'''質問に基づいた講演:''' |
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* ''I Am the Gate'' |
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* ''The Way of the White Clouds'' |
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* ''The Silent Explosion'' |
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* ''Dimensions Beyond the Known'' |
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* ''Roots and Wings'' |
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* ''The Rebel'' |
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'''自身の幼年期について:''' |
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* ''Glimpses of a Golden Childhood. The Rebellious Childhood of a Great Enlightened One'' |
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'''''ダルシャンのインタビュー:''' |
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* ''Hammer on the Rock'' |
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* ''Above All, Don't Wobble'' |
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* ''Nothing to Lose but Your Head'' |
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* ''Be Realistic: Plan for a Miracle'' |
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* ''The Cypress in the Courtyard'' |
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* ''Get Out of Your Own Way'' |
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* ''Beloved of My Heart'' |
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* ''A Rose Is a Rose Is a Rose'' |
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* ''Dance Your Way to God'' |
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* ''The Passion for the Impossible'' |
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* ''The Great Nothing'' |
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* ''God Is Not for Sale'' |
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* ''The Shadow of the Whip'' |
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* ''Blessed Are the Ignorant'' |
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* ''The Buddha Disease'' |
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* ''Being in Love'' |
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{{Refend}} |
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=== 日本での出版 === |
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{{hidden begin |
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|title = |
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}} |
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{{百科事典的でない|date=2024年7月|type=PROMOTION|section=1}} |
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;バグワン・シュリ・ラジニーシ |
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* 『存在の詩―バグワン・シュリ・ラジニーシ、[[タントラ]]を語る』スワミ・プレム・プラブッダ訳([[星川淳]])訳 (めるくまーる、1977年、ISBN 4-8397-0001-X) |
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* 『究極の旅―バグワン・シュリ・ラジネーシ、禅の[[十牛図]]を語る』スワミ・プレム・プラブッダ訳 (めるくまーる、1978年、ISBN 4-8397-0002-8) |
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* 『草はひとりでに生える』マ・アナンド・ナルタン(中沢藤胡)訳(ふみくら書房、1978年) |
* 『草はひとりでに生える』マ・アナンド・ナルタン(中沢藤胡)訳(ふみくら書房、1978年) |
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* 『Tao 永遠の大河―バグワン・シュリ・ラジ |
* 『Tao 永遠の大河―バグワン・シュリ・ラジネーシ、[[老子]]を語る(1,2,3,4)』 スワミ・プレム・プラブッダ訳、めるくまーる、1979-1982年、河出書房新社、2014年) |
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* 『生命の歓喜―バグワン・シュリ・ラジ |
* 『生命の歓喜―バグワン・シュリ・ラジニーシとの対話 ダルシャン日誌』(ラジニーシ・パブリケーション・ジャパン、1980年) |
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* 『あなたが死ぬまでは』マ・アナンド・ナルタン訳 (ふみくら書房、1980年) |
* 『あなたが死ぬまでは』マ・アナンド・ナルタン訳 (ふみくら書房、1980年) |
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* 『[[般若心経]]―バグワン・シュリ・ラジニーシ、[[色即是空]]を語る』スワミ・プレム・プラブッダ訳 (めるくまーる、1980年) |
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** 『あなたが死ぬまでは』(和尚エンタープライズジャパン、1997年、ISBN 4-900612-23-5) |
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* 『マイウェイ―流れ行く白雲の道』マ・アナンド・ナルタン訳 (ラジニーシ・パブリケーション・ジャパン、1980年) |
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* 『[[般若心経]]―バグワン・シュリ・ラジ二ーシ、[[色即是空]]を語る』スワミ・プレム・プラブッダ訳 ([[めるくまーる]]、1980年) |
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* 『 |
* 『瞑想―祝祭の芸術』 スワミ・アナンド・ヴィラーゴ訳 (めるくまーる、1981年、ISBN 4-8397-0009-5) |
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* 『 |
* 『愛の[[錬金術]]―隠されてきたキリスト(上・下)』マ・アナンド・ナルタン訳(めるくまーる、1981年) |
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* 『愛の[[錬金術]]―隠されてきたキリスト(上・下)』マ・アナンド・ナルタン訳(めるくま-る、1981年) |
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* 『セックスから超意識へ』スワミ・アナンド・ニラーラ訳 (ラジニーシ・パブリケーションズ・ジャパン 1982年) |
* 『セックスから超意識へ』スワミ・アナンド・ニラーラ訳 (ラジニーシ・パブリケーションズ・ジャパン 1982年) |
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* 『虚空の舟―[[荘子]] (上・下)』マ・アナンド・ナルタン訳 (ラジニーシ・エンタープライズ・ジャパン 1982年) |
* 『虚空の舟―[[荘子]] (上・下)』マ・アナンド・ナルタン訳 (ラジニーシ・エンタープライズ・ジャパン 1982年) |
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* 『[[バウル (ベンガル)|バウル]]の愛の歌 (上・下)』スワミ・サンギート訳( |
* 『[[バウル (ベンガル)|バウル]]の愛の歌 (上・下)』スワミ・サンギート訳(めるくまーる 1983年・1984年) |
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* 『オレンジ・ブック―バグワン・シュリ・ラジニーシの瞑想テクニック』スワミ・トシ・ヒロ訳 (ホーリスティック・セラピー研究所、1984年) |
* 『オレンジ・ブック―バグワン・シュリ・ラジニーシの瞑想テクニック』スワミ・トシ・ヒロ訳 (ホーリスティック・セラピー研究所、1984年、めるくまーる、1995年) |
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** 『オレンジ・ブック』([[めるくまーる]]、1995年、ISBN 4-8397-0025-7) |
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* 『ダイヤモンド・スートラ-バグワン・シュリ・ラジニーシ[[金剛般若経]]を語る』スワミ・アナンド・ヴィラーゴ訳(瞑想社、1986年) |
* 『ダイヤモンド・スートラ-バグワン・シュリ・ラジニーシ[[金剛般若経]]を語る』スワミ・アナンド・ヴィラーゴ訳(瞑想社、1986年) |
||
* 『新人権宣言―バグワン・シュリ・ラジニーシ[[基本的人権]]を語る』スワミ・ヤスヒデ、スワミ・アナンド・ヴィラーゴ訳 (瞑想社、1986年) |
* 『新人権宣言―バグワン・シュリ・ラジニーシ[[基本的人権]]を語る』スワミ・ヤスヒデ、スワミ・アナンド・ヴィラーゴ訳 (瞑想社、1986年) |
||
* 『英知の辞典』スワミ・アナンド・ソパン( |
* 『英知の辞典』[[澤西康史|スワミ・アナンド・ソパン]] 訳(めるくまーる、1996年) |
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* 『魂への犯罪―バグワン・シュリ・ラジニーシ聖職者と政治家を語る』(イア・ラジニーシ・ネオ・サニヤス・コミューン、1987年) |
* 『魂への犯罪―バグワン・シュリ・ラジニーシ聖職者と政治家を語る』(イア・ラジニーシ・ネオ・サニヤス・コミューン、1987年) |
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* 『[[一休]]道歌 上』スワミ・アナンド・モンジュ訳 ( |
* 『[[一休宗純|一休]]道歌 上』スワミ・アナンド・モンジュ訳 (めるくまーる、1987年、ISBN 4-8397-0036-2) |
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* 『一休道歌 下』スワミ・アナンド・モンジュ訳 ( |
* 『一休道歌 下』スワミ・アナンド・モンジュ訳 (めるくまーる、1988年、ISBN 4-8397-0037-0) |
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* 『[[マイトレーヤ]]―バグワン・シュリ・ラジニーシ、ザ・ブッダ・ロード・マイトレーヤ』 スワミ・アナンド・ヴィラーゴ訳 (瞑想社、1988年) |
* 『[[弥勒菩薩|マイトレーヤ]]―バグワン・シュリ・ラジニーシ、ザ・ブッダ・ロード・マイトレーヤ』 スワミ・アナンド・ヴィラーゴ訳 (瞑想社、1988年) |
||
* 『大いなる挑戦―黄金の未来』創造的科学と芸術と意識の世界アカデミー日本準備委員会 監修(ラジニーシ・エンタープライズ・ジャパン、1988年) |
* 『大いなる挑戦―黄金の未来』創造的科学と芸術と意識の世界アカデミー日本準備委員会 監修(ラジニーシ・エンタープライズ・ジャパン、1988年) |
||
* 『ニュー・ウーマン誕生 : A new vision of women's liberation』(ラジニーシ・エンタープライズ・ジャパン、1988年) |
* 『ニュー・ウーマン誕生 : A new vision of women's liberation』(ラジニーシ・エンタープライズ・ジャパン、1988年) |
||
* 『信心銘』スワミ・パリトーショ訳 (禅文化研究所、1989年、ISBN 4-88182-073-7) |
* 『信心銘』スワミ・パリトーショ訳 (禅文化研究所、1989年、ISBN 4-88182-073-7) |
||
* 『ゴールデン・チャイルドフッド―光輝の年代 |
* 『ゴールデン・チャイルドフッド―光輝の年代 シュリ・ラジニーシ幼年期を語る』スワミ・パリトーショ訳 (ラジニーシ・エンタープライズ・ジャパン、1989年) |
||
* 『新人類―未来への唯一の希望』 スワミ・パリトーショ、スワミ・キャル訳 (瞑想社、1989年) |
* 『新人類―未来への唯一の希望』 スワミ・パリトーショ、スワミ・キャル訳 (瞑想社、1989年) |
||
* 『アイ・アム・ザ・ゲート 秘儀伝授と弟子の意味』 武捨宏昭訳 (パブフル、2020年) |
* 『アイ・アム・ザ・ゲート 秘儀伝授と弟子の意味』 武捨宏昭訳 (パブフル、2020年) |
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;OSHO |
;OSHOラジニーシ |
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* 『ア・カップ・オブ・ティー―オショー・ラジニーシ初期書簡集』スワミ・プレム・プラブッダ、スワミ・アナンド・ソパン訳 ( |
* 『ア・カップ・オブ・ティー―オショー・ラジニーシ初期書簡集』スワミ・プレム・プラブッダ、スワミ・アナンド・ソパン訳 (めるくまーる、1989年) |
||
* 『死・終わりなき生―オショー・ラジニーシ講話録』(講談社、1989年、ISBN 4-06-203569-3) |
* 『死・終わりなき生―オショー・ラジニーシ講話録』(講談社、1989年、ISBN 4-06-203569-3) |
||
* 『モジュッド : 説明できない生を生きた人―和尚[[スーフィー]]を語る』マ・アンタール・コマルタ編、スワミ・アナンド・ニラーラ訳(和尚エンタープライズジャパン、1990年) |
|||
* 『[[ニーチェ]]―和尚ラジニーシ、ニーチェを語る』スワミ・アナンド・ニサルガム、[[小森健太朗]]訳 (全国エルピー・プル狂連、1990年) |
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* 『[[坐禅]]和讃―和尚ラジニーシ、[[白隠禅師]]を語る』スワミ・プレム・ラジャ、スワミ・アナンド・ヴィラーゴ訳 (瞑想社、1990年) |
* 『[[坐禅]]和讃―和尚ラジニーシ、[[白隠禅師]]を語る』スワミ・プレム・ラジャ、スワミ・アナンド・ヴィラーゴ訳 (瞑想社、1990年) |
||
* 『 |
* 『[[臨済録]]』スワミ・アナンド・モンジュ訳 (めるくまーる、1991年、ISBN 4-8397-0061-3) |
||
* 『 |
* 『未知への扉―和尚、秘教グループを語る』 スワミ・アナンド・モンジュ訳 (瞑想社、1992年) |
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;和尚/Osho/和尚 |
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* 『モジュッド 説明できない生を生きた人』マ・アンタール・コマルタ編、スワミ・アナンド・ニラーラ訳(和尚エンタープライズジャパン、1990年) |
|||
* 『反逆のスピリット』スワミ・デヴァ・マジュヌ、マ・デヴァ・ヨーコ他訳 (めるくまーる、1990年、ISBN 4-8397-0057-5) |
|||
* 『狂人ノート』マ・アナンド・ナルタン訳、マ・アナンド・プシュポ編 (和尚エンタープライズジャパン、1991年、ISBN 4-900612-08-1) |
* 『狂人ノート』マ・アナンド・ナルタン訳、マ・アナンド・プシュポ編 (和尚エンタープライズジャパン、1991年、ISBN 4-900612-08-1) |
||
* 『私が愛した本〛スワミ・パリトーショ訳 |
* 『私が愛した本〛スワミ・パリトーショ訳 (Oshoエンタープライズジャパン、1992年) |
||
* 『空っぽの鏡・[[馬祖道一|馬祖]]』(壮神社、1992年、ISBN 4-915906-01-9) |
* 『空っぽの鏡・[[馬祖道一|馬祖]]』([[壮神社]]、1992年、ISBN 4-915906-01-9) |
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* 『 |
* 『マイウェイ―流れ行く白雲の道』(和尚エンタープライズジャパン、1992年) |
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* 『 |
* 『[[道元]]―その探求と悟りの足跡』和尚 講話、スワミ・アンタール・ガータサンサ訳 (和尚エンタープライズジャパン、1992年) |
||
* 『タントラ―セックス、愛、そして瞑想への道』 スワミ・アナンド・チダカッシュ訳 (和尚コーシャ瞑想センター、1992年) |
* 『神秘の次元』(日本ヴォーグ社、1992年) |
||
* 『タントラ―セックス、愛、そして瞑想への道』 和尚 講話、スワミ・アナンド・チダカッシュ訳 (和尚コーシャ瞑想センター、1992年) |
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* 『新瞑想法入門 |
* 『新瞑想法入門』スワミ・デヴァ・マジュヌ訳 (瞑想社、1993年、ISBN 4-8397-0070-2) |
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* 『これこれ千回もこれ―[[禅]]のまさに真髄』 |
* 『これこれ千回もこれ―[[禅]]{{要曖昧さ回避|date=2024年6月}}のまさに真髄』和尚 講話、スワミ・アナンド・ソパン訳 (和尚エンタープライズジャパン、1993年) |
||
* 『内なる宇宙の発見―呼吸・夢の超越・やすらぎ <タントラ秘宝の書1>」スワミ・アドヴァイト・パルヴァ(田中ぱるば)訳 ( |
* 『内なる宇宙の発見―呼吸・夢の超越・やすらぎ <タントラ秘宝の書1>」スワミ・アドヴァイト・パルヴァ(田中ぱるば)訳 (市民出版社、1993年) |
||
* 『[[秘教]]の心理学』スワミ・プレム・ヴィシュダ訳 (瞑想社、1994年) |
* 『[[秘教]]の心理学』スワミ・プレム・ヴィシュダ訳 (瞑想社、1994年) |
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* 『生・愛・笑い』(めるくまーる、1994年、ISBN 4-8397-0049-4) |
* 『生・愛・笑い』(めるくまーる、1994年、ISBN 4-8397-0049-4) |
||
* 『ノーマインド―永遠の花々』スワミ・アドヴァイト・パルヴァ訳、スワミ・アナンド・ソパン照校 (壮神社、1994年、ISBN 4-915906-11-6) |
* 『ノーマインド―永遠の花々』スワミ・アドヴァイト・パルヴァ訳、スワミ・アナンド・ソパン照校 (壮神社、1994年、ISBN 4-915906-11-6) |
||
* 『源泉への道―中心へ向かう・ハートの開発 <タントラ秘宝の書2>」スワミ・アドヴァイト・パルヴァ訳 ( |
* 『源泉への道―中心へ向かう・ハートの開発 <タントラ秘宝の書2>」スワミ・アドヴァイト・パルヴァ訳 (市民出版社、1994年) |
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* 『[[第三の眼]]―見る技法・ブッダの愛 <タントラ秘宝の書3>」スワミ・アドヴァイト・パルヴァ訳 ( |
* 『[[第三の眼]]{{要曖昧さ回避|date=2024年6月}}―見る技法・ブッダの愛 <タントラ秘宝の書3>」スワミ・アドヴァイト・パルヴァ訳 (市民出版社、1994年) |
||
* 『[[ダンマパダ]]』 沢西康史訳(瞑想社、1994年) |
* 『[[ダンマパダ]]』 沢西康史訳(瞑想社、1994年) |
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* 『[[ボーディダルマ]]』( |
* 『[[ボーディダルマ]]』(めるくまーる、1994年、ISBN 4-8397-0079-6) |
||
* 『沈黙の音―音を対象とした瞑想技法 <タントラ秘宝の書4>」スワミ・アドヴァイト・パルヴァ訳 ( |
* 『沈黙の音―音を対象とした瞑想技法 <タントラ秘宝の書4>」スワミ・アドヴァイト・パルヴァ訳 (市民出版社、1995年) |
||
* 『愛の円環―宇宙的オーガズム <タントラ秘宝の書5>」スワミ・アドヴァイト・パルヴァ訳 ( |
* 『愛の円環―宇宙的オーガズム <タントラ秘宝の書5>」スワミ・アドヴァイト・パルヴァ訳 (市民出版社、1995年) |
||
* 『TAO―[[老子]]の道〈上〉』( |
* 『TAO―[[老子]]の道〈上〉』(めるくまーる、1995年、ISBN 4-8397-0081-8) |
||
* 『TAO―老子の道〈下〉』( |
* 『TAO―老子の道〈下〉』(めるくまーる、1995年、ISBN 4-8397-0082-6) |
||
* 『覚醒の深みへ―エネルギーの上昇 <タントラ秘宝の書6>」スワミ・アドヴァイト・パルヴァ訳 ( |
* 『覚醒の深みへ―エネルギーの上昇 <タントラ秘宝の書6>」スワミ・アドヴァイト・パルヴァ訳 (市民出版社、1995年) |
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* 『光と闇の瞑想―存在への回帰 <タントラ秘宝の書7>」スワミ・アドヴァイト・パルヴァ訳 ( |
* 『光と闇の瞑想―存在への回帰 <タントラ秘宝の書7>」スワミ・アドヴァイト・パルヴァ訳 (市民出版社、1996年) |
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* 『覚醒の炎 < |
* 『奇跡の探求―覚醒の炎 <和尚初期瞑想キャンプの講話1>』 Oshoサクシン瞑想センター訳(市民出版社 1996年) |
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* 『存在とひとつに― |
* 『存在とひとつに―ヴィギャン・バイラヴ・タントラ <タントラ秘宝の書8>」スワミ・アドヴァイト・パルヴァ訳 (市民出版社、1997年) |
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* 『生の神秘-ヴィギャン・バイラヴ・タントラ <タントラ秘宝の書9>」スワミ・アドヴァイト・パルヴァ訳 ( |
* 『生の神秘-ヴィギャン・バイラヴ・タントラ <タントラ秘宝の書9>」スワミ・アドヴァイト・パルヴァ訳 (市民出版社、1997年) |
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* 『空の哲学-ヴィギャン・バイラヴ・タントラ <タントラ秘宝の書10>」スワミ・アドヴァイト・パルヴァ訳 ( |
* 『空の哲学-ヴィギャン・バイラヴ・タントラ <タントラ秘宝の書10>」スワミ・アドヴァイト・パルヴァ訳 (市民出版社、1998年) |
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* 『[[イーシャー・ウパニシャッド|イーシャ・ウパニシャッド]]―存在の鼓動』スワミ・ボーディ・マニッシュ訳 ( |
* 『禅宣言』(市民出版社、1998年) |
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* 『[[イーシャー・ウパニシャッド|イーシャ・ウパニシャッド]]―存在の鼓動』スワミ・ボーディ・マニッシュ訳 (市民出版社、1998年、ISBN 4-88178-165-0) |
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* 『七身体の神秘 < |
* 『奇跡の探求―七身体の神秘 <和尚初期瞑想キャンプの講話2>』和尚 講話、和尚サクシン瞑想センター訳 (市民出版社、1998年) |
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* 『知恵の種子』(市民出版社、1999年、ISBN 4-88178-171-5) |
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** 『七つの[[チャクラ]]の神秘 <奇跡の探求 : 和尚初期瞑想キャンプの講話2>』和尚サクシン瞑想センター訳 ([[市民出版社]]、2016年) |
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* 『私の愛するインド―輝ける黄金の断章』 スワミ・プレム・グンジャ訳、マ・ジヴァン・アナンディ照校 ( |
* 『私の愛するインド―輝ける黄金の断章』 スワミ・プレム・グンジャ訳、マ・ジヴァン・アナンディ照校 (市民出版社、1999年) |
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* 『知恵の種子』( |
* 『知恵の種子』(市民出版社、1999年、ISBN 4-88178-171-5) |
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* 『無水無月』( |
* 『無水無月』(市民出版社、1999年、ISBN 4-88178-167-7) |
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* 『[[:zh:太乙金華宗旨|黄金の華の秘密]]』( |
* 『[[:zh:太乙金華宗旨|黄金の華の秘密]]』(めるくまーる、1999年、ISBN 4-8397-0099-0) |
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* 『ユニオ・ミスティカ』 (市民出版社、1999年) |
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* 『夜眠る前に贈る言葉』 (市民出版社、1999年) |
* 『夜眠る前に贈る言葉』 (市民出版社、1999年) |
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* 『タントラの変容―[[サラハ]]の王の歌』( |
* 『タントラの変容―[[サラハ]]の王の歌〈タントラ・ヴィジョン2〉』和尚 講話、マ・アムリッタ・テジャス 訳(市民出版社、2000年、ISBN 4-88178-177-4) |
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* 『隠された神秘』( |
* 『隠された神秘』(市民出版社、2000年、ISBN 4-88178-174-X) |
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* 『朝の目覚めに贈る言葉』 ( |
* 『朝の目覚めに贈る言葉』 (市民出版社、2000年) |
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* 『エンライトメント―神秘家・[[:en:Ashtavakra|アシュタヴァクラ]] : ただひとつの変革』スワミ・アンタール・ソハン訳 ([[市民出版社]]、2003年) |
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;Osho |
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* 『インナー・ジャーニー―内なる旅』マ・アナンド・ムグダ訳 ([[市民出版社]]、2005年) |
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* 『 |
* 『朝の目覚めに贈る言葉』 (市民出版社、2000年) |
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* 『 |
* 『死のアート』 (市民出版社、2001年) |
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* 『エンライトメント―神秘家・[[:en:Ashtavakra|アシュタヴァクラ]] ただひとつの変革』スワミ・アンタール・ソハン訳 (市民出版社、2003年) |
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* 『魂の科学-[[パタンジャリ]]の[[ヨーガ・スートラ]]』 [[澤西康史|沢西康史]]訳 (LAF瞑想社、2007年) |
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* 『 |
* 『シャワリング・ウィズアウト・クラウズ (市民出版社、2003年) |
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* 『永久の哲学1』 (市民出版社、2004年) |
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* 『神秘家の道-珠玉の質疑応答録』 スワミ・パリトーショ訳、スワミ・アドヴァイト・パルヴァ, マ・ギャン・シディカ照校 ([[市民出版社]]、2009年) |
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* 『 |
* 『ラスト・モーニング・スター』 (市民出版社、2004年) |
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* 『 |
* 『インナー・ジャーニー―内なる旅』マ・アナンド・ムグダ訳 (市民出版社、2005年) |
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* 『 |
* 『そして花々が降りそそぐ』 マ・プレム・プラバヒ、Oshoサクシン瞑想センター訳(市民出版社、2005年) |
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* 『究極の錬金術 1―古代の奥義書[[ウパニシャッド]]を語る』 スワミ・ボーディ・イシュワラ訳 (市民出版社、2006年) |
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* 『Courage 勇気』 [[山川紘矢]]・[[山川亜希子]]訳 ([[KADOKAWA]]、2014年) |
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* 『 |
* 『永久の哲学2―[[黄金の詩|ピュタゴラスの黄金詩]]2』(市民出版社、2006年) |
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* 『サラハの歌<タントラ・ヴィジョン1>』(市民出版社、2006年) |
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* 『Intution 直観』 [[山川紘矢]]・[[山川亜希子]]訳 (Kadokawa、2016年) |
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* 『 |
* 『究極の錬金術 2―人間―永遠と永遠の架け橋』 スワミ・ボーディ・イシュワラ訳 (市民出版社、2008年) |
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* 『魂の科学-[[パタンジャリ]]の[[ヨーガ・スートラ]]』 [[澤西康史]]訳 (LAF瞑想社、2007年) |
|||
* 『こころでからだの声を聴く―ボディ・マインド・バランシング』 マ・アナンド・ムグダ訳 (市民出版社、2007年) |
|||
* 『神秘家の道-珠玉の質疑応答録』 スワミ・パリトーショ訳、スワミ・アドヴァイト・パルヴァ, マ・ギャン・シディカ照校 (市民出版社、2009年) |
|||
* 『探求の詩』 (市民出版社、2011年) |
|||
* 『魂のヨーガ』 (市民出版社、2012年) |
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* 『アティーシャの知恵の書 上』 (市民出版社、2012年) |
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* 『アティーシャの知恵の書 下』 (市民出版社、2013年) |
|||
* 『愛の道-神秘家・[[カビール]]を語る』 スワミ・プレム・グンジャ訳、マ・アナンド・ムグダ, マ・ギャン・プーナム照校(市民出版社、2013年) |
|||
* 『Joy 喜び』 [[山川紘矢]]・[[山川亜希子]]訳 (角川書店、2013年) |
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* 『草はひとりでに生える』(OEJブックス、2013年) |
|||
* 『究極の旅』(河出書房新社、2013年) |
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* 『死ぬこと生きること』 スワミ・ボーディ・デヴァヤナ(宮川義弘)訳、マ・アナンド・ムグダ、マ・ギャン・シディカ照校(市民出版社、2014年) |
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* 『存在とひとつに―ヴィギャン・バイラヴ・タントラ <タントラ秘宝の書8>』スワミ・アドヴァイト・パルヴァ訳 (市民出版社、1014年) |
|||
* 『炎の伝承1』(市民出版社、2014年) |
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* 『Courage 勇気』 山川紘矢・山川亜希子訳 ([[KADOKAWA]]、2014年) |
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* 『死について41の答え』OSHO 講話ほか 伊藤アジータ 訳、スワミ・アナンド・ニラーラ 照校 (OEJブックス 出版、めるくまーる 発売、2015年) |
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* 『炎の伝承2』(市民出版社、2015年) |
|||
* 『愛の円環―宇宙的オーガズム <タントラ秘宝の書5>』スワミ・アドヴァイト・パルヴァ訳 (市民出版社、2015年) |
|||
* 『内なる宇宙の発見―ヴィギャン・バイラヴ・タントラ <タントラ秘宝の書1>』スワミ・アドヴァイト・パルヴァ訳 (市民出版社、1015年) |
|||
* 『真理の泉』 スワミ・ボーディ・デヴァヤナ訳(市民出版社、2016年) |
|||
* 『奇跡の探求2』(市民出版社、2016年) |
|||
* 『Intuition 直観』 山川紘矢・山川亜希子訳 (KADOKAWA、2016年) |
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* 『瞑想の道』(市民出版社、2017年) |
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* 『Creativity 創造性』 山川紘矢・山川亜希子訳 (KADOKAWA、2017年) |
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* 『夜眠る前に贈る言葉』 (市民出版社、2018 年) |
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* 『朝の目覚めに贈る言葉』 (市民出版社、2018年) |
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* 『ブッダ―最大の奇跡 <超越の道シリーズ1>』 スワミ・ボーディ・デヴァヤナ訳、マ・ギャン・プーナム照校(市民出版社、2019年) |
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* 『瞑想録―静寂の言葉』 中原邦彦・庄司純訳 (季節社、2019年) |
* 『瞑想録―静寂の言葉』 中原邦彦・庄司純訳 (季節社、2019年) |
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* 『あなたの魂を照らす60の物語』 Amy Okudaira訳 ([[大和書房]]、2019年) |
* 『あなたの魂を照らす60の物語』 Amy Okudaira訳 ([[大和書房]]、2019年) |
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* 『心理学を超えて1』 スワミ・ボーディ・デヴァヤナ訳 ( |
* 『心理学を超えて1』 スワミ・ボーディ・デヴァヤナ訳 (市民出版社、2019年) |
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* 『存在の詩 TANTRA THE SUPREME UNDERSTANDING』新装復刊 OSHO [[星川淳]]訳 2020年 |
* 『存在の詩 TANTRA THE SUPREME UNDERSTANDING』新装復刊 OSHO [[星川淳]]訳 2020年 めるくまーる) |
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* 『心理学を超えて 2 』(市民出版社、2020年) |
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* 『新瞑想法入門』(市民出版社、2021年) |
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=== 解説 === |
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* [[玉川信明]]著 『和尚の超宗教的世界 [[トランスパーソナル心理学]]との相対関係』(社会評論社、2001年) |
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* [[玉川信明]]著 『和尚、禅を語る』(社会評論社、2002年) |
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* [[玉川信明]]編著 『和尚、性愛を語る』 (社会評論社、2003年) |
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* [[玉川信明]]編著 『和尚、聖典を語る』 (社会評論社、2003年) |
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=== 雑誌 === |
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* 『Rajneesh times international(ラジニーシ・タイムズ・インターナショナル)』イア・ラジニーシ・ネオ・サニヤス・コミューン株式会社 編、イア・ラジニーシ・ネオ・サニヤス・コミューン、Vol.1(20 Dec. 1987)~15号(1 Oct. 1989) |
|||
* 『Osho times international(和尚タイムズ・インターナショナル)』 和尚ジャパン 編、イア・ラジニーシ・ネオ・サニヤス・コミューン (16号-17号) → 和尚イア・ネオ・サニヤス・コミューン (18/19号-88号) → オージェーインスティテュート (89号-95号)、刊行終了 |
|||
* 月刊「ムー」1983年9月号 No.34、10月号 No.35、学習研究社「OSHO、秘教グループを語る」スワミ・アナンド・モンジュ訳 |
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== 脚注 == |
== 脚注 == |
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===注釈=== |
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{{Reflist|group=†}} |
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=== |
===出典=== |
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{{Reflist|2}} |
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==== 一次資料 ==== |
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===== 本人著作 ===== |
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===== 自社資料 ===== |
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===== 関係者 ===== |
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== 参考文献 == |
== 参考文献 == |
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;書籍・論文 |
;書籍・論文 |
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*{{cite book|author =Ishita Tiwary|editor=|title=Video Culture in India: The Analog Era(インドのビデオ文化:アナログ時代)|section=The Afterlives of the Video Pravachana: The Cult of Rajneeshees(プラヴァチャンのビデオの死後の生: ラジニーシの信奉者たちのカルト)|publisher= Oxford University Press|pages =152–188|ISSN =|date=2024|doi=10.1093/9780198913252.003.0005|ref = {{SfnRef|Tiwary|2024}}}} |
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* {{Cite book|author =Hugh B. Urban |chapter= |title =Zorba the Buddha Sex, Spirituality, and Capitalism in the Global Osho Movement|publisher=University of California Press|year=2016|url=https://content.ucpress.edu/chapters/12984.ch01.pdf|ref={{Harvid|Urban|2016 }} }} |
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* |
*{{cite book|author =Torsten Passie|editor=|title=The History of MDMA(MDMAの歴史)|publisher= Oxford University Press|pages =87–114|ISSN =|date=2023|doi=10.1093/oso/9780198867364.003.0007|ref = {{SfnRef|Passie|2023}}}} |
||
*{{cite book|author =[[:en:Erika Dyck|Erika Dyck]]|author2 =Chris Elcock|editor=|title=Expanding Mindscapes(マインドスケープの拡張)|section=Conclusion: The Future of Psychedelic History(結び:サイケデリックの歴史の未来|publisher= The MIT Press|pages =491-494|ISSN =|date=2023|doi=10.7551/mitpress/14417.003.0029|ref = {{SfnRef|Dyck|Elcock|2023}}}} |
|||
* {{Cite book|others=Larry C. James, Terry L. Oroszi 編集|chapter= |title =Weapons of Mass Psychological Destruction and the People Who Use Them (Practical and Applied Psychology) (大量心理破壊兵器とそれを使う人々(実用・応用心理学)) |publisher=Praeger Pub Text|year=2015|ref={{Harvid|James & Oroszi|2015}} }} |
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*{{cite book|author =Amanda Lucia|editor=Knut A. Jacobsen|title=Hindu Diasporas(ヒンドゥー教徒のディアスポラ)|section=Persistent Fictions: Race and the Global Gurus of the Long Twentieth Century(しつこいフィクション:人種とグローバルなグルの長い20世紀)|publisher= Oxford University Press|pages =227–236|ISSN =|date=2023|doi=10.1093/oso/9780198867692.003.0017|ref = {{SfnRef|Lucia|2023}}}} |
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* {{Cite journal |和書 |author = 中島岳志, 外川昌彦, 田中雅一, 小牧幸代|title =現代インドにおける宗教事情|date =2015 |publisher =文化庁|journal = 海外の宗教事情に関する調査報告書 |url =https://www.bunka.go.jp/tokei_hakusho_shuppan/tokeichosa/shumu_kaigai/pdf/h17kaigai.pdf |volume = |pages =251-290 |ref={{Harvid|中島・外川・田中・小牧 |2015}} }} |
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* |
*{{cite book|author =Hugh B. Urban|editor=Richard K. Payne, Glen A. Hayes|title=The Oxford Handbook of Tantric Studies (In Progress)(オックスフォードハンドブック タントラ研究)|section=Modernity and Neo-Tantra (近代性とネオタントラ)|publisher= Oxford University Press|pages =|ISSN =|date=2022|doi=10.1093/oxfordhb/9780197549889.013.12|ref = {{SfnRef|Urban|2022}}}} |
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* |
*{{Cite book|和書 |author=伊藤雅之|title=現代スピリチュアリティ文化論―ヨーガ、マインドフルネスからポジティブ心理学まで |year=2021|publisher=明石書店|ref={{Harvid|伊藤|2021}}}} |
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* {{Cite journal||author =Bas J.H. Jacobs|editor=|title=Getting off the Wheel: A Conceptual History of the New Age Concept of Enlightenment(輪から降りる:エンライトメント(悟り)というニューエイジの概念の[[概念史]])|url=|journal=Numen |issn= |publisher=Brill |year=2020-06-04|volume=67|pages=373–401|doi=10.1163/15685276-12341588|ref={{Harvid|Jacobs|2020}} }} |
|||
* {{Cite book|author=Andrew R. Fuller|chapter= |title =Psychology and Religion: Classical Theorists and Contemporary Developments, Fourth Edition(心理学と宗教:古典理論家と現代の発展、第4版) |publisher=Rowman & Littlefield Publishers|year=2007|ref={{Harvid|Fuller|2007}} }} |
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* {{Cite journal|和書 |author=大田俊寛|title=社会心理学の「精神操作」幻想ーグループ・ダイナミックスからマインド・コントロールへ|url=http://waza-sophia.la.coocan.jp/data/nennpou/nennpou85.pdf|journal=身心変容技法研究 |issn= |publisher=上智大学グリーフケア研究所身心変容技法研究会|year=2018|volume=8|pages=|crid=|ref={{Harvid|大田|2018}} }} |
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* {{Cite book|author=William R. Clark |chapter= |title =Bracing for Armageddon?: The Science and Politics of Bioterrorism in America(ハルマゲドンへの備え?:アメリカのバイオテロの科学と政治) |publisher= Oxford Univ Pr on Demand|year=2008|ref={{Harvid|Clark|2008}} }} |
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* {{Citation |last=Aveling|first=Harry|title=Bhagwan Shree Rajneesh/Osho|publisher=Brill|journal=Brill's Encyclopedia of Hinduism Online |date=2018-5-29|url=|doi=10.1163/2212-5019_BEH_COM_9000000228|access-date=2024-9-29|ref=harv}} |
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* {{Cite book|author=Andrew R. Fuller|chapter= |title =Psychology and Religion: Classical Theorists and Contemporary Developments, Fourth Edition(心理学と宗教:古典理論家と現代の発展、第4版) |publisher=Rowman & Littlefield Publishers|year=2007|ref={{Harvid|Fuller|2007}} }} |
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*{{cite book|author =Steve Bruce|editor=|title=Secular Beats Spiritual: The Westernization of the Easternization of the West(俗なものが霊性に打ち勝つ:西洋における東洋化の西洋化)|section=Yogins and Yoga(ヨーギン達とヨーガ)|publisher= Oxford University Press|pages =60–84|ISSN =|date=2017|doi=10.1093/oso/9780198805687.003.0003|ref = {{SfnRef|Bruce|2017}}}} |
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* {{Cite book ja-jp |editor=|chapter= |title =ヒンドゥー教の事典 |publisher=東京堂出版 |year=2005}} |
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* {{Cite journal|和書|author=堀田和義|title=ジャイナ教と仏教(10)ジャイナ教はなぜ分裂したのか? : 教団分裂とその後の展開|url=|journal=春秋|issn= |publisher=春秋社 |year=2017-01|volume=585|pages=28-31|crid=1520010380386835968|ref={{Harvid|堀田|2017}} }} |
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**{{Cite journal|和書|ref={{Harvid|山下|2005}} |author |author=山下博司 執筆 |title=第5章 ヒンドゥー教と近・現代世界}} |
|||
* {{Citation |last=Urban |first=Hugh B. |title=Zorba the Buddha: "Sex, Spirituality, and Capitalism in the Global Osho Movement" |publisher=University of California Press |year=2016|doi=10.1525/california/9780520286665.001.0001 |location=Berkeley, CA |ref=harv}} |
|||
* {{Cite book|others=Russ Kick(編集)、Neil Gaiman・Richard Dawkins(協力)|chapter= |title =Everything You Know About God Is Wrong: The Disinformation Guide to Religion(あなたが神について知っていることは全て間違い:宗教の偽情報ガイド)|publisher=Disinformation Co|year=2007|ref={{Harvid|Kick|2007}} }} |
|||
* {{Cite journal|和書|author=足達好正|title=CBRNテロリズム論|date=2000-03-31|publisher=防衛大学校|journal=グローバルセキュリティ研究叢書|crid=1050566774826247808|url=http://nda-repository.nda.ac.jp/dspace/handle/11605/153|volume=2|pages=|ref={{Harvid|足達|2000}}}} |
|||
* {{Cite book|和書 |author=[[井上順孝]] 執筆|others=宗教情報リサーチセンター編・井上順孝責任編集 |title=日本における外来宗教の広がり―21世紀の展開を中心に|chapter=グローバル化する世界と外来宗教の日本での展開|url=https://www.rirc.or.jp/20th/Rirc20th_inbound2_Inoue.pdf|publisher=宗教情報リサーチセンター|year=2019|ref={{Harvid|井上|2019}}}} |
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*{{cite book|editor=James R. Lewis, Jesper Aa. Petersen|title=Controversial New Religions (2nd edn)(物議を醸す新宗教 第二版)|publisher= Oxford University Press|pages =|ISSN =|date=2014}} |
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**{{cite book|author =Marion S. Goldman|section=11 Controversy, Cultural Influence, and the Osho/Rajneesh Movement(論争、文化的影響、そしてオショー/ラジニーシ運動)|pages =|doi=10.1093/acprof:osobl/9780199315314.003.0012|ref = {{SfnRef|Goldman|2014}}}} |
|||
**{{cite book|author =Martin Repp|section=12 Aum Shinrikyo and the Aum Incident: A Critical Introduction(オウム真理教とオウム事件:批判的序論)|doi=10.1093/acprof:osobl/9780199315314.003.0013|ref = {{SfnRef|Repp|2014}}}} |
|||
*{{Cite journal |author =Sthaneshwar Timalsina|title = Encountering the Other: Tantra in the Cross-cultural Context|volume =4 |issue = 3|journal =The Journal of Hindu Studies|publisher =Oxford University Press|date =2011.08|pages =274–289|doi =10.1093/jhs/hir033|ref = {{SfnRef|Timalsina|2011}}}} |
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* {{Citation |last=Mistlberger |first=P.T. |title=The Three Dangerous Magi: Osho, Gurdjieff, Crowley |publisher=O Books |pages=713 |url=https://books.google.com/books?id=C6nUWy4UYocC |isbn=978-1-84694-435-2 |year=2010 |access-date=12 July 2011|ref=harv}} |
|||
* {{Cite journal|和書|author=平野直子|title=「近代」というカテゴリにおける「普遍」と「個別」 -手当て療法「レイキ」の80年史を事例として-|url=|journal=早稲田大学大学院文学研究科紀要. 第1分冊, 哲学 東洋哲学 心理学 社会学 教育学|issn= |publisher=早稲田大学大学院文学研究科|year=2011-02-26|volume=56|pages=47-61|crid=1050282677456721664|ref={{Harvid|平野|2011}} }} |
|||
* {{Cite book|和書|author=[[大田俊寛]]|title =オウム真理教の精神史: ロマン主義・全体主義・原理主義 |publisher=春秋社|year=2011|ref={{Harvid|大田|2011}} }} |
|||
*{{Cite journal |author =Sthaneshwar Timalsina|title = Encountering the Other: Tantra in the Cross-cultural Context|volume =4 |issue = 3|journal =The Journal of Hindu Studies|publisher =Oxford University Press|date =2011.08|pages =274–289|doi =10.1093/jhs/hir033|ref = {{SfnRef|Timalsina|2011}}}} |
|||
*{{cite book|author =Corinne G. Dempsey|editor=|title=Bringing the Sacred Down to Earth: Adventures in Comparative Religion(神聖なものを地上にもたらす:比較宗教の冒険)|section=3 Making and Staking Sacred Terrain: Rajneeshee and Diasporic Hindu Settlers and Unsettlers(聖地の創造と確保:ラジニーシの信者と離散ヒンズー教徒の入植者と移住者)|publisher= Oxford University Press|pages =76–107|date=2011|doi=10.1093/acprof:oso/9780199860333.003.0004|ref = {{SfnRef|Dempsey|2011}}}} |
|||
*{{cite book|author =Hugh B. Urban|editor=Catherine Wessinger|title=The Oxford Handbook of Millennialism(オックスフォードハンドブック 千年王国主義)|section=Millenarian Elements in the Hindu Religious Traditions(ヒンドゥー教の宗教的伝統における千年王国の要素)|publisher= Oxford University Press|pages =369–382|date=2011|doi=10.1093/oxfordhb/9780195301052.003.0019|ref = {{SfnRef|Urban|2011}}}} |
|||
*{{cite book|author =Marion S. Goldman|editor=James R. Lewis|title=Violence and New Religious Movements(暴力と新宗教運動)|section=15 Cultural Capital, Social Networks, and Collective Violence at Rajneeshpuram(ラジニーシプーラムにおける文化資本、社会的ネットワーク、集団的暴力)|publisher= Oxford University Press|pages =307–324|date=2011|doi=10.1093/acprof:oso/9780199735631.003.0015|ref = {{SfnRef|Urban|2011}}}} |
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*{{cite book|editor=James R. Lewis|author =Susan J. Palmer|section=16 Women in New Religious Movements(新宗教運動における女性)|title=The Oxford Handbook of New Religious Movements(オックスフォードハンドブック 新宗教)|publisher= Oxford University Press|doi=10.1093/oxfordhb/9780195369649.003.0017|page=378–385|ref = {{SfnRef|Palmer|2009}}}} |
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* {{Cite journal|author=Marion S. Goldman|title=Averting Apocalypse at Rajneeshpuram(ラジニーシプーラムにおける大惨事の回避)|date=2009.8.25|publisher=|journal=Sociology of Religion |doi=10.1093/socrel/srp036|volume=70|pages=311–327|ref={{Harvid|Goldman|2009}}}} |
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*{{cite book|author =Susan J. Palmer|author2 =David G. Bromley |editor=David G. Bromley|title=Teaching New Religious Movements(新宗教運動の指導)|section=Deliberate Heresies: New Religious Myths and Rituals as Critiques(意図的な異端:新宗教の神話と儀式論)|publisher= Oxford University Press|pages =135–158|date=2007|doi=10.1093/acprof:oso/9780195177299.003.0007|ref = {{SfnRef|Palmer|Bromley|2007}}}} |
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* {{cite book|last=FitzGerald |first=Frances |title=Rajneeshpuram |magazine=[[The New Yorker]] |date=22 September 1986 |url=http://www.newyorker.com/archive/1986/09/22/1986_09_22_046_TNY_CARDS_000347358 |access-date=12 July 2011|ref = {{SfnRef|FitzGerald|1986a}}}} |
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* {{cite book|last=FitzGerald |first=Frances|title=Rajneeshpuram |magazine=The New Yorker |date=29 September 1986 |url=http://www.newyorker.com/archive/1986/09/29/1986_09_29_083_TNY_CARDS_000345867 |access-date=12 July 2011|ref = {{SfnRef|FitzGerald|1986b}}}} |
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* {{Cite book|和書 |author=Elizabeth Puttick 執筆|editor={{仮リンク|クリストファー・パートリッジ|en|Christopher Partridge}} |others=井上順孝 監訳、井上順孝・井上まどか・冨澤かな・宮坂清 訳 |title=現代世界宗教事典—現代の新宗教、セクト、代替スピリチュアリティ|publisher=悠書館|year=2009|ref={{Harvid|Puttick|2009}}}} |
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* {{Cite journal|和書 |author=古田榮作|title=『ダンマパダ』と教育|url=|journal=大手前大学論集|issn= |publisher=大手前大学|year=2009-03-31|volume=9|pages=29-46|crid=1050282813505492096|ref={{Harvid|古田|2009}} }} |
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* {{Cite journal|和書|author=[[宮台真司]]|title=宗教者が平和運動を行う意味-グローバル化と善悪の不透明化|journal=現代宗教研究 / 日蓮宗現代宗教研究所 編|issn= |publisher=日蓮宗宗務院|year=2008-03|volume=42|pages=424-480|url=https://genshu.nichiren.or.jp/genshu-web-tools/media.php?file=/media/shoho42-26.pdf&type=G&prt=1101|crid=1524232505193679744|ref={{Harvid|宮台|2008}} }} |
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* {{Citation |last=Pike |first=Sarah M. |contribution=Gender in New Religions |year=2007 |title=Teaching new religious movements |editor-last=Bromley |editor-first=David G. |publisher=Oxford University Press US |isbn=978-0195177299|ref=harv}} |
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* {{Cite journal|和書 |author=松本脩作|title=明治以後のインドに関する邦文文献について : 『インド書誌』編纂にまつわるいくつかのこと|url=https://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/85120/1/ade_38_3.pdf|journal=経済資料研究 |issn= |publisher=経済資料協議会|year=2008-10-25|volume=38 |pages=3-24|crid=1050001202063108736|ref={{Harvid|松本|2008}}}} |
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* {{cite book |last=Chryssides |first=George D. |date=1999 |title=Exploring New Religions |chapter=New Forms of Buddhism: Osho/Rajneesh |chapter-url=https://books.google.com/books?id=S4_rodMYMygC&pg=PA206 |location=[[London]] and [[New York City|New York]] |publisher=[[:en:Continuum International Publishing Group|Continuum International]] |series=Issues in Contemporary Religion |pages=206–214 |doi=10.2307/3712544 |jstor=3712544 |isbn=9780826459596 |oclc=436090427 |s2cid=143265918}} |
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* {{Citation |last=Clarke |first=Peter B. |title=Encyclopedia of New Religious Movements |publisher=[[Routledge]] |isbn=978-0-415-45383-7 |year=2006|ref=harv}} |
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* {{Citation |last=Gietz|first=Karl-Peter |title=Osho Movement|publisher=Brill|journal=The Brill Dictionary of Religion Online|date=2006-09-19|url=|doi=10.1163/1872-5287_bdr_COM_00331|access-date=2024-9-29|ref=harv}} |
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* {{Cite book|editor1-last=Forsthoefel |editor1-first=Thomas A. |editor2-last=Humes |editor2-first=Cynthia Ann |title=Gurus in America |place=Albany, NY |publisher=State University of New York Press |year=2005 |isbn=0-7914-6574-8|ref={{Harvid|Forsthoefel|Humes|2005}}}} |
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* {{Citation |editor1-last=Lewis |editor1-first=James R. |editor2-last=Petersen |editor2-first=Jesper Aagaard |title=Controversial New Religions |place=New York |publisher=Oxford University Press |year=2005 |isbn=0-19-515682-X|ref={{Harvid|Lewis|Petersen|2005}}}} |
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* {{Cite book|和書 |author=橋本泰元|author2=宮本久義|author3=山下博司|title=ヒンドゥー教の事典|section=ヒンドゥー教と近・現代社会|publisher=東京堂出版|year=2005|ref={{Harvid|山下|2005}}}} |
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* {{Cite book|和書 |author=[[中島岳志]] 執筆|others= |title=海外の宗教事情に関する調査報告書|chapter= 都市部におけるヒンドゥーの現在|url=https://www.bunka.go.jp/tokei_hakusho_shuppan/tokeichosa/shumu_kaigai/pdf/h17kaigai.pdf|publisher=文化庁|year=2005|ref={{Harvid|中島|2005}}}} |
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* {{Citation |last1=Carrette |first1=Jeremy |last2=King |first2=Richard |title=Selling Spirituality: The Silent Takeover of Religion |place=New York |publisher=Routledge |year=2004 |isbn=0-415-30209-9|ref=harv}} |
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*{{Cite book|和書 |author=伊藤雅之|title=スピリチュアリティの社会学―現代世界の宗教性の探求 |chapter=第4章 グローバル文化とローカル性の〈あいだ〉―和尚ラジニーシ・ムーブメントの事例―|series=世界思想ゼミナール|editor=伊藤雅之、樫尾直樹、弓山達也|date=|year=2004|publisher=世界思想社教学社|ref={{Harvid|伊藤|2004}}}} |
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*{{cite book|author =June McDaniel|editor=|title=Offering Flowers, Feeding Skulls: Popular Goddess Worship in West Bengal(花を捧げ、頭蓋骨を供える:西ベンガルで人気の女神崇拝)|section=Shaktism and the Modern West Kundalini Vacations and Tantric Honeymoons(シャクティズムと現代西洋のクンダリニー・バケーションとハネムーン)|publisher= Oxford University Press|pages =265–294|date=2007|doi=10.1093/acprof:oso/9780195167900.003.0006|ref = {{SfnRef|McDaniel|2004}}}} |
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*{{cite book|editor=James R. Lewis, Jesper Aagaard Petersen|title=Controversial New Religions (1st edn)(物議を醸す新宗教 第一版)|publisher= Oxford University Press|author =Marion S. Goldman|section=6 When Leaders Dissolve: Considering Controversy and Stagnation in the Osho Rajneesh Movement(指導者が溶解するとき:オショー・ラジニーシ運動における論争と停滞について考える)|date =2004|pages =119–138|doi=10.1093/019515682X.003.0006|ref = {{SfnRef|Goldman|2004}}}} |
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*{{Cite book|和書 |author=伊藤雅之|title=現代社会とスピリチュアリティ―現代人の宗教意識の社会学的探究 |series=愛知学院大学文学会叢書|date=|year=2003|publisher=渓水社|ref={{Harvid|伊藤|2003}}}} |
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* {{Cite journal|和書|author=櫻井義秀|authorlink=櫻井義秀|title=「マインド・コントロール」論争と裁判 : 「強制的説得」と「不法行為責任」をめぐって|url=https://eprints.lib.hokudai.ac.jp/dspace/bitstream/2115/34042/1/109_PL59-175.pdf|journal=北海道大学文学研究科紀要 |issn= |publisher=北海道大学文学研究科 |year=2003-02-28|volume=109|pages=59-175|crid=1050845763926530816|ref={{Harvid|櫻井|2003}} }} |
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*{{cite book|author =Stephen J. Hunt|editor=|title=Alternative Religions|section=|publisher= Ashgate Pub Ltd|page =|ISSN =|date=2003|doi=|ref = {{SfnRef|Hunt|2003}}}} |
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* {{Citation |last=Urban |first=Hugh B. |title=Tantra: Sex, Secrecy, Politics, and Power in the Study of Religion |publisher=University of California Press |year=2003 |location=Berkeley, CA |isbn=0-520-23656-4|ref=harv}} |
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* {{Citation |last=Bhawuk |first=Dharm P. S. |title=Culture's influence on creativity: the case of Indian spirituality |journal=International Journal of Intercultural Relations |volume=27 |issue=1 |pages=1–22 |year=2003 |doi=10.1016/S0147-1767(02)00059-7|ref=harv}} |
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* {{Citation |last=Fox |first=Judith M. |title=Osho Rajneesh – Studies in Contemporary Religion Series, No. 4 |publisher=Signature Books |year=2002 |location=Salt Lake City |isbn=1-56085-156-2|ref=harv}} |
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*{{Cite book|和書 |author=[[吉永進一]]|editor=[[樫尾直樹]]|title=スピリチュアリティを生きる: 新しい絆を求めて |series=せりかクリティク|date=|year=2002|publisher=せりか書房|ref={{Harvid|吉永|2002}}}} |
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* {{Cite journal|和書 |author=樫村愛子|title=映画表現に見る現代社会の危機-ノワールとポストコロニアル(1)|url=https://leo.aichi-u.ac.jp/ic/aic/civilization21/files/conts009/kashimura.pdf|journal=文明21 |issn= |publisher=愛知大学国際コミュニケーション学会|year=2002-10|volume=9 |pages=113-124|crid=1050001337718677888|ref={{Harvid|樫村|2002}} }} |
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* {{Cite journal|和書 |author=樫村愛子|title=ラカン派社会学から見た「オウム真理教」|url=https://leo.aichi-u.ac.jp/ic/aic/civilization21/files/conts004/kashimura.pdf|journal=文明21 |issn= |publisher=愛知大学国際コミュニケーション学会|year=2000-03|volume=4|pages=115-127|crid=1050282812695381248|ref={{Harvid|樫村|2000}} }} |
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* {{Cite book|和書|author=足沢一成|editor=[[島岩]]、[[坂田貞二]]|chapter=ラジニーシ教団 教団の形成・外部社会との対立・対立の回避 |title =聖者たちのインド |publisher=春秋社|year=2000|ref={{Harvid|足沢|2000}} }} |
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* {{Cite journal|和書|author=脇坂有希|title=オウム真理教・「人類最終戦争」への道 ―その成立から崩壊まで―|date=2000-03-31|publisher=長崎大学教育学部政治学研究室|journal=架橋|url=https://nagasaki-u.repo.nii.ac.jp/records/8294|crid=1050850247216866432|volume=1|pages=1-79|ref={{Harvid|脇坂|2000}}}} |
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* {{cite book |last=Chryssides |first=George D.|date=1999 |title=Exploring New Religions |chapter=New Forms of Buddhism: Osho/Rajneesh |chapter-url=https://books.google.com/books?id=S4_rodMYMygC&pg=PA206 |location=London and New York |publisher=Continuum International Publishing Group|Continuum International |series=Issues in Contemporary Religion |pages=206–214 |doi=10.2307/3712544 |jstor=3712544 |isbn=9780826459596 |oclc=436090427 |s2cid=143265918|ref=harv}} |
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* {{Citation |last=Carter |first=Lewis F. |title=The 'New Renunciates' of Bhagwan Shree Rajneesh: Observations and Identification of Problems of Interpreting New Religious Movements |journal=Journal for the Scientific Study of Religion |volume=26 |issue=2 |pages=148–172 |year=1987 |doi=10.2307/1385791 |jstor=1385791}}, reprinted in {{harvnb|Aveling|1999|pp=175–218|ref=harv}} |
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* {{Citation |editor-last=Aveling |editor-first=Harry |title=Osho Rajneesh and His Disciples: Some Western Perceptions |publisher=Motilal Banarsidass |location=Delhi |isbn=81-208-1599-8 |year=1999|ref=harv}}. (Includes studies by Susan J. Palmer, Lewis F. Carter, Roy Wallis, Carl Latkin, Ronald O. Clarke and others previously published in various academic journals.) |
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* {{Cite journal|和書|author=伊藤雅之 |title=2.和尚ラジニーシ・ムーブメントの3様相 : 世界観、組織、担い手のダイナミクス(II「精神世界」の「社会性」を透視する,ワークショップ(1)精神世界の構図2-精神世界の「社会性」を透視する-) |url=https://doi.org/10.20594/religionandsociety.4.Suppl_13 |journal=宗教と社会 |issn=1342-4726 |publisher=「宗教と社会」学会 |year=1999 |volume=4 |pages=13-18 |naid=110007653802 |doi=10.20594/religionandsociety.4.Suppl_13|ref={{Harvid|伊藤|1999}} }} |
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* {{Cite journal|和書|author=伊藤雅之 |title=ニューエイジの実践に関する歴史的考察--和尚ラジニーシ・ムーブメントの制度化と脱制度化|url=https://jpars.org/data/files/digital-archive/322.pdf|journal=宗教研究 |issn= |publisher=日本宗教学会 |year=1999 |volume=73 |pages=747-771 |crid=1520290884014191616}} |
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* {{Citation |last=Clarke |first=Ronald O. |title=The Narcissistic Guru: A Profile of Bhagwan Shree Rajneesh |journal=Free Inquiry |issue=Spring 1988 |pages=33–35, 38–45 |year=1988|ref=harv}}, reprinted in {{harvnb|Aveling|1999|pp=55–89|ref=harv}} |
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* {{Citation |last=Latkin |first=Carl A. |title=Seeing Red: A Social-Psychological Analysis |journal=Sociological Analysis |volume=53 |issue=3 |pages=257–271 |year=1992 |doi=10.2307/3711703 |jstor=3711703}}, reprinted in {{harvnb|Aveling|1999|pp=337–361|ref=harv}} |
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* {{Citation |last=Wallis |first=Roy |title=Religion as Fun? The Rajneesh Movement |journal=Sociological Theory, Religion and Collective Action |pages=191–224 |publisher=Queen's University, Belfast |year=1986}}, reprinted in {{harvnb|Aveling|1999|pp=129–161|ref=harv}} |
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*現代宗教学辞典、井上順考 編、弘文堂 |
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* {{Cite journal |和書 |author =伊藤雅之|title = イニシエーションまでの過程 和尚ラジニーシ・ムーブメントの場合|date = 1997 |publisher = ソシオロゴス編集委員会|journal = ソシオロゴス|url =http://www.l.u-tokyo.ac.jp/~slogos/archive/21/itom1997.pdf |format=PDF |naid = 40004382348|volume = 21|pages = 59-78|ref={{Harvid|伊藤|1997}} }} |
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* {{Cite journal|和書|author=デイヴィド・ハーヴェイ|others=中島弘二 訳|title=空間から場所へ、そして再び : ポストモダニティの条件に関する省察|url=https://www.lit.osaka-cu.ac.jp/geo/pdf/space02/05harvey.pdf |journal=空間・社会・地理思想 |issn= |publisher=大阪市立大学文学部 |year=1997 |volume=2 |pages=79-97|crid=1050001202453586560|ref={{Harvid|ハーヴェイ|1997}} }} |
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* {{Cite journal|和書|author=奥村文男|title=憲法20条1項の「政治上の権力」の意味について|date=1996|publisher=関西法政治学研究会|journal=憲法論叢|url=https://doi.org/10.20691/houseiken.3.0_53|doi=10.20691/houseiken.3.0_53|naid=110002283612|volume=3|pages=53-69|ref={{Harvid|奥村|1996}}}} |
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* {{Citation |last=Sloterdijk |first=Peter |title=Selbstversuch: Ein Gespräch mit Carlos Oliveira |publisher=Carl Hanser Verlag |location=München, Wien |isbn=3-446-18769-3 |year=1996 |language=de|ref=harv}} |
|||
* {{Citation |last=Süss |first=Joachim |title=Bhagwans Erbe: Die Osho-Bewegung heute |publisher=Claudius Verlag |location=Munich |isbn=3-532-64010-4 |year=1996 |language=de|ref=harv}} |
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* {{Citation |last=Heelas |first=Paul |title=The New Age Movement: Religion, Culture and Society in the Age of Postmodernity |publisher=Wiley-Blackwell |location=Oxford |isbn=0-631-19332-4 |year=1996|ref=harv}} |
|||
* {{Citation |last=Urban |first=Hugh B. |title=Zorba The Buddha: Capitalism, Charisma and the Cult of Bhagwan Shree Rajneesh |journal=Religion |volume=26 |issue=2 |pages=161–182 |year=1996 |doi=10.1006/reli.1996.0013|ref=harv}} |
|||
* {{Citation |last=Storr |first=Anthony |title=Feet of Clay – A Study of Gurus |publisher=[[HarperCollins]] |location=London |isbn=0-00-255563-8 |year=1996|ref=harv}} |
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* {{Cite book|和書|author=石村耕治|chapter=宗教集団による自治体支配の法的問題 -ラジニーシプラム市事件を素材として- |title =アメリカ連邦税財政法の構造 |publisher=法律文化社|year=1995|ref={{Harvid|石村|1995}} }} |
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* {{Cite book|和書 |author=豊島泰国 執筆|others=増田秀光・山本尚幸 編集デスク |title=ヒンドゥー教の本|publisher=学習研究社|year=1995|ref={{Harvid|豊島|1995}}}} |
* {{Cite book|和書 |author=豊島泰国 執筆|others=増田秀光・山本尚幸 編集デスク |title=ヒンドゥー教の本|publisher=学習研究社|year=1995|ref={{Harvid|豊島|1995}}}} |
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* {{Cite journal|和書 |author=橋本泰元|title=カビールの伝記とその意味|url=|journal=東洋学論叢|issn= |publisher=東洋大学文学部|year=1995-03|volume=9|pages=109-89|crid=1050845763791656704|ref={{Harvid|橋本|1995}}}} |
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* {{Cite book ja-jp |author=[[足澤一成|足沢一成]]|editor=[[島岩]]、[[坂田貞二]]|chapter=ラジニーシ教団 教団の形成・外部社会との対立・対立の回避 |title =聖者たちのインド |publisher=春秋社|year=2000|ref={{Harvid|足沢|2000}} }} |
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* {{Citation |last=Aveling |first=Harry |title=The Laughing Swamis |publisher=Motilal Banarsidass|location=Delhi |isbn=81-208-1118-6 |year=1994|ref=harv}} |
|||
* {{Cite book ja-jp |author=杉本良男|editor=島岩、坂田貞二|chapter=インドの聖者と政治 |title =聖者たちのインド |publisher=春秋社|year=2000|ref={{Harvid|杉本|2000}} }} |
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* {{Citation |last=Mehta |first=Gita |title=Karma Cola: Marketing the Mystic East |publisher=Vintage |location=New York |isbn=0-679-75433-4 |year=1994|ref=harv}} |
|||
* {{Cite journal|和書|author=[[伊藤雅之]] |title=2.和尚ラジニーシ・ムーブメントの3様相 : 世界観、組織、担い手のダイナミクス(II「精神世界」の「社会性」を透視する,ワークショップ(1)精神世界の構図2-精神世界の「社会性」を透視する-) |url=https://doi.org/10.20594/religionandsociety.4.Suppl_13 |journal=宗教と社会 |issn=1342-4726 |publisher=「宗教と社会」学会 |year=1999 |volume=4 |pages=13-18 |naid=110007653802 |doi=10.20594/religionandsociety.4.Suppl_13|ref={{Harvid|伊藤|1999}} }} |
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* {{Cite journal |和書 |author =[[伊藤雅之]] 他|title =IV 全体討議の概要(ワークショップ(1)「精神世界」の構図-現代社会と現代人の意識を理解する手がかりとして-)|date = 1998 |url=https://doi.org/10.20594/religionandsociety.3.Suppl_35 |DOI=10.20594/religionandsociety.3.Suppl_35 |publisher = 「宗教と社会」学会|journal = 宗教と社会 |naid=110007653784 |volume = 3|pages = 35-42|ref={{Harvid|伊藤|1998}} }} |
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* {{Cite journal |和書 |author =[[伊藤雅之]]|title = イニシエーションまでの過程 和尚ラジニーシ・ムーブメントの場合|date = 1997 |publisher = ソシオロゴス編集委員会|journal = ソシオロゴス|url =http://www.l.u-tokyo.ac.jp/~slogos/archive/21/itom1997.pdf |format=PDF |naid = 40004382348|volume = 21|pages = 59-78|ref={{Harvid|伊藤|1997}} }} |
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* {{Cite journal |和書 |author = 奥村文男|title = 憲法20条1項の「政治上の権力」の意味について|date = 1996 |publisher = 関西法政治学研究会|journal = 憲法論叢 |url=https://doi.org/10.20691/houseiken.3.0_53 |doi=10.20691/houseiken.3.0_53|naid =110002283612 |volume = 3|pages = 53-69|ref={{Harvid|奥村|1996}} }} |
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* {{Cite book ja-jp |author=石村耕治|chapter=宗教集団による自治体支配の法的問題 -ラジニーシプラム市事件を素材として- |title =アメリカ連邦税財政法の構造 |publisher=法律文化社|year=1995|ref={{Harvid|石村|1995}} }} |
|||
* {{Cite book|author=A. R. Desai |others= |title=Modern Godmen in India: A Sociological Appraisal (Role of Religion in Indian Society Series) (インドの現代のゴッドマン:社会学的評価(インド社会における宗教の役割シリーズ))|publisher=South Asia Books|year=1993|ref={{Harvid|Desai|1993}}}} |
* {{Cite book|author=A. R. Desai |others= |title=Modern Godmen in India: A Sociological Appraisal (Role of Religion in Indian Society Series) (インドの現代のゴッドマン:社会学的評価(インド社会における宗教の役割シリーズ))|publisher=South Asia Books|year=1993|ref={{Harvid|Desai|1993}}}} |
||
* {{Citation |last=Huth |first=Fritz-Reinhold |title=Das Selbstverständnis des Bhagwan Shree Rajneesh in seinen Reden über Jesus |publisher=Verlag Peter Lang GmbH (Studia Irenica, vol. 36) |location=Frankfurt am Main |isbn=3-631-45987-4 |year=1993 |language=de|ref=harv}} |
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* {{Cite book ja-jp |author=[[吉福伸逸]]|chapter= |title =トランスパーソナルとは何か |publisher=春秋社|year=1987|ref={{Harvid|吉福|1987}} }} |
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* {{Citation |last=Mehta |first=Uday |title=Modern Godmen in India: A Sociological Appraisal |publisher=Popular Prakashan |location=Mumbai |isbn=81-7154-708-7 |year=1993|ref=harv}} |
|||
* {{Cite journal |和書 |author =沼田健哉|title = 深層心理学と宗教|date =1982 |publisher = 桃山学院大学総合研究所|journal = 桃山学院大学社会学論集|url=http://id.nii.ac.jp/1420/00005397/ |naid = 110004701350 |volume=15 |issue=2 |pages=221-239 |ref={{Harvid|沼田1982}} }} |
|||
* {{Citation |last1=Palmer |first1=Susan J.|last2=Bird|first2= Frederick|title=Therapy, Charisma and Social Control in the Rajneesh Movement|journal=Sociological Analysis|volume=53 |issue= |pages=S71-S85 |year=1992 |doi=10.2307/3711252|ref=harv}} |
|||
* 中川吉晴「OSHO『存在の詩』バグワン・シュリ・ラジニーシ、タントラを語る」 「サンガジャパン」Vol.23 収録 サンガ 2016 p133-p142 |
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* {{Citation |last=Mangalwadi |first=Vishal |title=The World of Gurus |place=Chicago |publisher=Cornerstone Press |year=1992 |isbn=0-940895-03-X|ref=harv}} |
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* {{Citation |
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* {{Citation |editor-last=Galanter |editor-first=Marc |author-link=Marc Galanter (psychiatrist) |title=Cults and New Religious Movements: A Report of the American Psychiatric Association |publisher=American Psychiatric Publishers |isbn=0-89042-212-5 |year=1989}} |
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| last =Mullan |
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* {{Citation |last=Carter |first=Lewis F. |title=Charisma and Control in Rajneeshpuram: A Community without Shared Values |publisher=[[Cambridge University Press]] |location=Cambridge |isbn=0-521-38554-7 |year=1990|ref=harv}} |
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| first =Bob |
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* {{Citation |last=Palmer |first=Susan J.|title=Charisma and Abdication: A Study of the Leadership of Bhagwan Shree Rajneesh |journal=Sociological Analysis |volume=49 |issue=2 |pages=119–135 |year=1988 |doi=10.2307/3711009 |jstor=3711009 |s2cid=67776207 }}, reprinted in {{harvnb|Aveling|1999|pp=363–394|ref=harv}} |
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| title =Life as Laughter: Following Bhagwan Shree Rajneesh |
|||
* {{Citation |last=Goldman |first=Marion S. |title=Reviewed Work(s): Charisma and Control in Rajneeshpuram: The Role of Shared Values in the Creation of a Community by Lewis F. Carter |journal=Journal for the Scientific Study of Religion |volume=30 |issue=4 |pages=557–558 |year=1991 |doi=10.2307/1387299 |jstor=1387299|ref=harv}} |
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| publisher =[[Routledge]] & Kegan Paul Books Ltd |
|||
* {{Citation |last=Abbott |first=Carl |title=Utopia and Bureaucracy: The Fall of Rajneeshpuram, Oregon |journal=The Pacific Historical Review |volume=59 |issue=1 |pages=77–103 |year=1990 |url=http://pdxscholar.library.pdx.edu/cgi/viewcontent.cgi?article=1039&context=usp_fac |doi=10.2307/3640096 |jstor=3640096|ref=harv}} |
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| location =London, Boston, Melbourne and Henley |
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* {{Cite book|和書|author=[[吉福伸逸]]|chapter= |title =トランスパーソナルとは何か |publisher=春秋社|year=1987|ref={{Harvid|吉福|1987}} }} |
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| isbn =0-7102-0043-9 |
|||
* {{Citation |last=Gordon |first=James S. |title=The Golden Guru |publisher=The Stephen Greene Press |location=Lexington, MA |isbn=0-8289-0630-0 |year=1987 |url-access=registration |url=https://archive.org/details/goldengurustrang0000gord|ref=harv}} |
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| year =1983 |
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* {{Citation| last =Mullan| first =Bob| title =Life as Laughter: Following Bhagwan Shree Rajneesh| publisher =[[Routledge]] & Kegan Paul Books Ltd| location =London, Boston, Melbourne and Henley| isbn =0-7102-0043-9| year =1983|postscript=<!--None-->|ref=harv}} |
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|postscript=<!--None-->}}. |
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* {{Citation |last=Belfrage |first=Sally |title=Flowers of Emptiness: Reflections on an Ashram |publisher=[[Doubleday (publisher)|Doubleday]] |year=1981 |location=New York, NY |isbn=0-385-27162-X|ref=harv}} |
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* {{Citation |last=Maslin |first=Janet |title=Ashram (1981) Life at an Ashram, Search for Inner Peace (movie review) |newspaper=[[The New York Times]] |date=13 November 1981 |url=https://www.nytimes.com/1981/11/13/movies/life-at-an-ashram-search-for-inner-peace.html |access-date=12 July 2011|ref=harv}} |
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* {{Citation |last=Prasad |first=Ram Chandra |title=Rajneesh: The Mystic of Feeling |publisher=Motilal Banarsidass |year=1978 |location=Delhi |isbn=0-89684-023-9|ref=harv}} |
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;ウェブ |
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* {{Cite web |author=小池かおる |coauthors= |date=2018-08-14 |url=https://movie.walkerplus.com/news/article/157752/ |title=大反響のNetflixドキュメンタリーと、カート・ラッセルの意外な関係|publisher = Movie Walker|accessdate=2020-04-30|ref={{Harvid|小池|2018}} }} |
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* {{Cite web |author=オレゴン州連邦地方裁判所 |coauthors= |date=1990 |url=https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Criminal_trial_testimony_of_Rajneesh_member_Ava_Avalos.pdf|title=Criminal trial testimony of Rajneesh member Ava Avalos(ラジニーシ教団構成員アヴァ・アヴァロス刑事裁判証言)|publisher = Wikimedia Commons|accessdate=2020-05-12|ref={{Harvid|オレゴン州連邦地方裁判所|1990}} }} |
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* {{Cite web |author=Ron Manuto|coauthors= |date=1987 |url=https://eric.ed.gov/?id=ED280127|title=The Life and Death of Rajneeshpuram and the Still Lingering Dilemma of the Religion Clauses of the First Amendment.(ラジニーシ・プラムの誕生と終焉、および憲法修正1条の宗教条項の依然として続くジレンマ)|publisher =ERIC - Institute of Education Sciences|accessdate=2020-05-16|ref={{Harvid|Manuto|1987}} }} |
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* {{Cite web |other=ロナルド・レーガン記念図書館([[:en:Ronald Reagan Presidential Library and Museum|Ronald Reagan Presidential Library and Museum]]) |coauthors= |date=|url=https://www.reaganlibrary.gov/sites/default/files/digitallibrary/smof/counsel/willkie/oa10636/40-611-72012394-OA10636-001-2019.pdf|title=Ronald Reagan Presidential Library Digital Library Collections. WLW/Rajneesh Times (1) Box: OA 10636|publisher = ロナルド・レーガン記念図書館|accessdate=2020-09-21|ref={{Harvid|ロナルド・レーガン記念図書館}} }} |
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== 関連文献 == |
== 関連文献 == |
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*ヴァサント・ジョシ『異端の神秘家 OSHO・反逆の軌跡』宮川義弘 訳 [[市民出版社]] 2018年 |
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;書籍 |
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* |
*{{Cite book|和書|author=ナルタン(日家ふじ子) |title =自分という名の迷宮 インナーラビリンス|publisher= めるくまーる|year=2016 |ref=}} |
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*マックス・ブレッカー『OSHO:アメリカへの道 - 砂漠の実験都市ラジニーシプーラムの誕生と崩壊の真相』「OSHOアメリカへの道」プロジェクト訳、和尚アートユニティ 出版、めるくまーる 発売、2005年 |
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* {{Cite book|author=Jane Stork|chapter= |title =[[:en:Breaking the Spell: My Life as a Rajneeshee and the Long Journey Back to Freedom|Breaking The Spell : My Life As A Rajneeshee, And The Long Journey Back To Freedom]](呪縛からの解放:ラージニーシ教団員としての私の人生、そして自由への長い旅) |publisherCreateSpace Independent Publishing Platform|year=2009 |ref={{Harvid|Stork|2009}} }} |
|||
* {{Citation |last=Osho |title=Meditation: the first and last freedom |publisher=St. Martin's Griffin |isbn=978-0-312-33663-9 |year=2004|ref=harv}} |
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* {{Cite book|author=Oliver Klatt|chapter= |title =Reiki Systems of the World: One Heart - many Beats(世界のレイキシステム:たくさんの鼓動を打つひとつのハート) |publisher=Lotus Pr|year=2007|ref={{Harvid|Klatt|2007}} }} |
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* {{Citation |last=Osho |title=Autobiography of a Spiritually Incorrect Mystic |publisher=St. Martin's Griffin |year=2000 |location=New York, NY |isbn=0-312-25457-1|ref=harv}} |
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* マックス・ブレッカー『Osho アメリカへの道-砂漠の実験都市ラジニーシプーラムの誕生と崩壊の真相』「OSHOアメリカへの道」プロジェクト訳、めるくまーる、2005年 |
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* {{Citation |last=Sam |title=Life of Osho |publisher=Sannyas |year=1997 |location=London |url=http://www.enlightenedbeings.com/pdf/life_of_osho.pdf |access-date=12 July 2011 |url-status=live |archive-url=https://web.archive.org/web/20120321124111/http://www.enlightenedbeings.com/pdf/life_of_osho.pdf |archive-date=21 March 2012}}. |
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* マ・プレム・シュンニョ『和尚と過ごしたダイアモンドの日々』 マ・プレム・ソナ訳、和尚エンタープライズ・ジャパン、1994年 |
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*マ・プレム・シュンニョ『和尚と過ごしたダイアモンドの日々: ザ・ニュー・ダイアモンド・スートラ』 マ・プレム・ソナ訳、和尚エンタープライズジャパン、1994年 |
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* ヒュー・ミルン『ラジニーシ ― 堕ちた神』 鴫沢立也訳、第三書館、1991年(再版) |
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* {{Citation |last=Meredith |first=George |title=Bhagwan: The Most Godless Yet the Most Godly Man |publisher=Rebel Publishing House |year=1988 |location=Pune|ref=harv}} |
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**ラジニーシの側近でのち離反した人物の回想録。ブレッカー『Osho アメリカへの道』によると本書は名誉毀損で訴えられている{{誰|date=2020年10月|title=誰によって何が名誉棄損と訴えられ、裁判の結果はどうだったのかが必要。}}。足沢一成によると、ラジニーシの実像およびアーシュラムの内情については信憑性が高いと評価され、多くのラジニーシ運動の研究で参考にされている。(足沢,2000年) |
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* {{Citation |last=Bhagwan Shree Rajneesh |title=Glimpses of a Golden Childhood |publisher=Rajneesh Foundation International |location=Rajneeshpuram |isbn=0-88050-715-2 |year=1985 |ref={{sfnref|Osho|1985}} }} |
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* ヴァサント・ジョシ『反逆のブッダ バグワン・シュリ・ラジニーシの軌跡』スワミ・プレム・プラブッダ訳、めるくまーる、1984年 |
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* {{Citation |last=Milne |first=Hugh |title=Bhagwan: The God That Failed |publisher=Caliban Books |year=1986 |location=London |isbn=1-85066-006-9|ref=harv}} |
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** ヴァサント・ジョシ『異端の神秘家OSHO・反逆の軌跡』宮川義弘 市民出版社 2018年 |
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** ヒュー・ミルン『ラジニーシ ― 堕ちた神』 鴫沢立也訳、[[第三書館]] 、1991年(再版)ラジニーシの側近でのち離反した人物の回想録。「ラジニーシの実像およびアーシュラムの内情については信憑性が高いと思われる。(足沢 2000年 p.97)」 |
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* {{Cite book|和書 |author=和尚|others=スワミ・プレム・プラブッダ, スワミ・アナンド・ソパン 訳 |title=ア・カップ・オブ・ティー オショー・ラジニーシ初期書簡集|publisher=めるくまーる|year=1995|ref={{Harvid|和尚|1995}}}} |
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* {{Citation |last=Joshi |first=Vasant |title=The Awakened One |publisher=Harper and Row |location=San Francisco, CA |isbn=0-06-064205-X |year=1982}} |
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*日家ふじ子『自分という名の迷宮 インナーラビリンス』めるくまーる、2016年 |
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**ヴァサント・ジョシ『反逆のブッダ バグワン・シュリ・ラジニーシの軌跡』スワミ・プレム・プラブッダ訳、めるくまーる、1984年 |
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*{{Citation|和書|author=|others=マ・アナンド・ナルタン 訳、マ・ヨガ・プラティマ 監修 |editor=ラジニーシズム学会|title =ラジニーシズム : バグワン・シュリ・ラジ二ーシとその宗教の紹介|publisher= ラジニーシ・ファンデーション・インターナショナル 発行、株式会社めるくまーる 発売)|year=1984|ref={{sfnref|ラジニーシズム学会|1984}} }} |
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;解説 |
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;ウェブ |
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* [[玉川信明]]著 『和尚の超宗教的世界 [[トランスパーソナル心理学]]との相対関係』([[社会評論社]]、2001年) |
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* {{Cite web |author= |coauthors= |date= |url=http://www.oshoworld.com/biography/innercontent.asp|title=Osho is recognised as Maitreya Buddha, and changes his name(オショーはマイトレーヤ・ブッダであるとされ、名前を変えた)|publisher = Osho World|accessdate=2020-05-30|ref={{Harvid|Osho World(1)|2020}} }} |
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* 玉川信明著 『和尚、禅を語る』(社会評論社、2002年) |
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* {{Cite web |author= |coauthors= |date= |url=http://www.oshoworld.com/biography/innercontent.asp|title=Name-change to Osho(オショーへの改名)|publisher = Osho World|accessdate=2020-05-30|ref={{Harvid|Osho World(2)|2020}} }} |
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* 玉川信明編著 『和尚、性愛を語る』 (社会評論社、2003年) |
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* {{Cite web |author= |coauthors= |date= |url=https://www.osho.com/ja/highlights-of-oshos-world/who-osho#|title=Osho とはどんな人ですか?|publisher = OSHO International Foundation|accessdate=2020-05-17|ref={{Harvid|OIF(1)|2020}} }} |
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* 玉川信明編著 『和尚、聖典を語る』 (社会評論社、2003年) |
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* {{Cite web |author= |coauthors= |date= |url=https://www.osho.com/ja/read-media-and-publishing/wild-wild-country-story-behind-story|title=ワイルド・ワイルド・カントリー ストーリーの背後にあるストーリー|publisher = OSHO International Foundation|accessdate=2020-06-04|ref={{Harvid|OIF(2)|2020}} }} |
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* {{Cite web |author= |coauthors= |date= |url=https://www.sannyas.wiki/index.php?title=From_Bhagwan_to_Osho:_The_story|title=From Bhagwan to Osho: The story(バグワンからオショーへ:その経緯)|publisher = The Sannyas Wiki|accessdate=2020-05-30|ref={{Harvid|The Sannyas Wiki|2020}} }} |
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* {{Cite web |author=Ma Vivek |coauthors= |date= |url=https://www.medibreath.net/en-GB/links/about-osho-31678355|title=ABOUT OSHO(オショーについて)|publisher = MediBreath|accessdate=2020-06-01|ref={{Harvid|Vivek|2020}} }} |
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;雑誌 |
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* {{Cite web |author= |coauthors= |date=2015-07-07 |url=https://www.oshonews.com/2015/07/07/gyan-sharno-katsue-ishida/|title=Gyan Sharno (Katsue Ishida)(ギャン・シャルノ(石田かつえ))|publisher = Osho News|accessdate=2020-05-30|ref={{Harvid|Osho News|2015}} }} |
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* 『Rajneesh times international(ラジニーシ・タイムズ・インターナショナル)』イア・ラジニーシ・ネオ・サニヤス・コミューン株式会社 編、イア・ラジニーシ・ネオ・サニヤス・コミューン、Vol.1(20 Dec. 1987)~15号(1 Oct. 1989) |
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* {{Cite web |coauthors= |date=2012-02-20 |url=https://web.archive.org/web/20120220235038/http://www.osho.info/trademark_information.asp|title= |
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* 『Osho times international(和尚タイムズ・インターナショナル)』 和尚ジャパン 編、イア・ラジニーシ・ネオ・サニヤス・コミューン (16号-17号) → Oshoイア・ネオ・サニヤス・コミューン (18/19号-88号) → オージェーインスティテュート (89号-95号)、刊行終了 |
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Trademark Information - OSHO Trademarks(商標情報 - OSHO 商標)|publisher = OSHO International Foundation|accessdate=2020-05-13|ref={{Harvid|OSHO International Foundation|2012}} }} |
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* 月刊「ムー」1983年9月号 No.34、10月号 No.35、学習研究社「OSHO、秘教グループを語る」スワミ・アナンド・モンジュ訳 |
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==関連項目== |
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*{{仮リンク|バイロン対ラジニーシ財団裁判|en|Byron v. Rajneesh Foundation International}} |
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* [[ラジニーシ教団によるバイオテロ]] |
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== 外部リンク == |
== 外部リンク == |
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* [http://oshosearch.net/Convert/Mahasattva_Veeren_Speaks.html Message to Seekers(Disclaimer!!)] |
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* [https://www.osho.com/ja/read/osho/vision Oshoのヴィジョン] OSHO International Foundation(日本語) |
* [https://www.osho.com/ja/read/osho/vision Oshoのヴィジョン] OSHO International Foundation(日本語) |
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* [https://oshoworld.com/ oshoworld.com](英語) |
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* [http://www.oregonlive.com/tv/2018/03/netflix_documentary_on_rajnees.html Netflix documentary on Rajneeshees in Oregon revisits an amazing, enraging true story] Netflix |
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* {{YouTube time|bn6YhQuaE9M|ラジニーシプーラムの様子|time=20m50s}} |
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{{Normdaten}} |
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{{Authority control}} |
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{{新宗教}} |
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{{DEFAULTSORT:おしよお}} |
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{{デフォルトソート:はくわん しゆり らしにし}} |
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[[Category:新宗教の開祖]] |
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[[Category:神秘思想家]] |
[[Category:神秘思想家]] |
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[[Category:インドの宗教家]] |
[[Category:インドの宗教家]] |
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[[Category:オショー=ラジニーシ運動]] |
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[[Category:ヒューマン・ポテンシャル運動]] |
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[[Category:現代インドの哲学者]] |
[[Category:現代インドの哲学者]] |
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[[Category:ヒンドゥー教系新宗教]] |
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[[Category:自動車収集家]] |
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[[Category:ニューエイジに関連する人物]] |
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[[Category:精神世界・スピリチュアル系の著作家]] |
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[[Category:マディヤ・プラデーシュ州出身の人物]] |
[[Category:マディヤ・プラデーシュ州出身の人物]] |
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[[Category:プネー出身の人物]] |
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[[Category:1931年生]] |
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[[Category:1990年没]] |
[[Category:1990年没]] |
2024年12月15日 (日) 06:02時点における最新版
オショー・ラジニーシ | |
---|---|
生誕 |
チャンドラ・モハン・ジャイン 1931年12月11日 イギリス領インド帝国 ボーパール藩王国 |
死没 |
1990年1月19日(58歳没) インド・プネー |
国籍 | インド |
別名 | アーチャリヤ・ラジニーシ、バグワン・シュリ・ラジニーシ、シュリ・ラジニーシ、ゴータマ・ザ・ブッダ、シュリ・ラジニーシ・ゾルバ・ザ・ブッダ、オショー・ラジニーシ(和尚ラジニーシ)、オショー(和尚、Osho) |
職業 | インドのゴッドマン[1]、哲学者、神秘主義者、オショー=ラジニーシ運動の創始者[2] |
活動期間 | 1972年~1990年 |
オショー・ラジニーシ(Osho Rajneesh、和尚ラジニーシ)、アーチャリヤ・ラジニーシ(Acharya Rajneesh、ラジニーシ先生)[3]、バグワン・シュリ・ラジニーシ(Bhagwan Shree Rajneesh)[† 1][2](誕生時 チャンドラ・モハン・ジャイン(Chandra Mohan Jain)1931年12月11日 - 1990年1月19日)は、インドのゴッドマン[1]、哲学者、神秘主義者、新宗教運動もしくは代替宗教運動のオショー=ラジニーシ運動(ORM:Osho Rajneesh Movement、ラジニーシ運動)、ラジニーシズムの創始者[2][4][5][official 1]。オショー(Osho、和尚)とも。彼がオショー・ラジニーシまたはオショーに改名したのは最晩年である。便宜的に記事内ではオショー・ラジニーシと表記する。
彼と、彼が率いた教団・運動について述べる。
概要
[編集]東洋の神秘主義・個々人の勤行・性的自由を折衷的に説いたインドのスピリチュアル指導者である[6]。新宗教運動の指導者として生涯物議を醸した人物で、組織化された宗教を否定し[7][2][8]、霊的経験はいかなる宗教教義の体系にもまとめ上げることはできないと主張した[6]。グルとして多くの弟子を取り、人間の霊的な面を体験できるよう設計したダイナミック瞑想と呼ばれる独自の瞑想を教えた[6]。伝統的な禁欲的な修行を否定し、サンニヤーサ(放棄)の考えを禁欲主義ではなく無執着の観点から再解釈し、信奉者たちに、この世に執着することなくこの世を完全に生きることを提唱した[6]。性欲を受け入れ解放し人間に深い自由をもたらす唯一のスピリチュアルな道としてタントラを推奨し、タントラを性にフォーカスして再解釈し(ネオタントラ)[9]、セックスが超意識に至る手段になりえると説いた[10]。性愛に対して革新的な態度を表明したことで[11]、1960年代後半にインドで論争を巻き起こし、「セックス・グル」として知られるようになった[2][12][13]。
青年期にインドで活動する様々な宗教者を訪ねては洞察を得て、ジャバルプール大学で哲学を学び、1960年に同大学で教えるようになり、教授になった[14][6]。1953年に21歳でスピリチュアルな目覚め(宗教的経験)をして悟りを得たと語っており[6][15]、大学で数年間活動した後、1966年にジャバルプール大学の職を辞め、インド中を旅し、インド各地で講話(プラヴァチャン、口頭でのパフォーマンス)を始め[14]、主流宗教の正統性や[2][16][17][11]、主流の政治イデオロギーやマハトマ・ガンディーの正統性を声高に批判する人物として知られるようになった[18][19][20]。ジャイナ教、ヒンドゥー教、ユダヤ教のハシディズム、タントラ、道教、イスラム教のスーフィズム、キリスト教、仏教などの主要な伝統宗教、多様な東洋や西洋の神秘家、ウパニシャッドやシク教等の聖典について語り[21]、すべての組織宗教は形骸化しているとして痛烈に攻撃し、宗教的戒律は人間を鋳型にはめてしまうものだと非難した[14]。彼はイギリスからの独立を果たした20世紀のインドにおいて、最も論争の的になった人物であると言われる[22]。
1970年にムンバイに滞在し、弟子達(ネオ・サニヤシンまたはサニヤシンとして知られる)に教えるようになった[2]。この時期、ラジニーシは自身のスピリチュアルな教えを広げ、世界中の宗教的伝統、神秘主義者、バクティ詩人、哲学者たちの著作について幅広くコメントした。1974年にプネーに移転してアシュラム(道場)を設立、欧米人の弟子がますます増え、アシュラムではヒューマン・ポテンシャル運動発の方法を取り入れた多様な個人セラピーやグループ・セラピー、ニューエイジのヒーリングの多様なプログラムが提供された[23][24][6][25]。西洋の先進的なセラピーと東洋の修行法を並列的に扱って統合し、数多くのセラピーや瞑想法を創始し、精神世界のカリスマ的存在として多くの欧米人、特に先進資本主義国の若者を引き付けた[10][26][27]。運動の中心はカウンターカルチャーの影響を受けた西洋人になり、以降オショー=ラジニーシ運動はニューエイジの文脈で見られている[27]。欧米人の参加者が増えたことで、彼らがもたらしたヒッピー文化を色濃く反映していった[27]。
アシュラムでは悟りを目指してかなり実験的なセラピーが行われており、1970年代にアシュラムで行われたほぼ全てのセラピーでは全裸になることが求められ、グループ・セラピーでは暴力が許されることもあり、セックスも行われていた[28]。こうしたグループ・セラピーにおけるヌード、セックス、暴力は、オショー=ラジニーシ運動の評判を悪化させ[29]、1980年代半ばまで運動は乱交で悪名高かった[30]。著しいメンバーの増加でオショー・ラジニーシは少数の弟子以外と個人的に接することが難しくなり、アシュラムの制度化が加速し、健康状態の悪化もあり、1970年代中頃から組織運営から徐々に身を引き、数人の西洋人サニヤシンが中心となって運営した[31]。オショー・ラジニーシの偶像破壊的な教えやヒンドゥー教に対する度重なる攻撃、アシュラムでのラディカルで強烈な実験等により、インド社会・インド政府との軋轢は激しくなっていった[32][33]。オショー=ラジニーシ運動は、設立後数年で世界中から何千人もの信者を集め、何百万ドルもの資産を蓄えた[33]。1970年代後半になると、モラルジー・デーサーイー首相のジャナタ党政権と運動との間には緊張が生じ、アシュラムの発展は抑制され、非営利団体であるにも関わらず約8千万ドルもの巨額の収入があることから、政府は財務状況の調査を行い非課税資格を取り消し、推定500万ドルの追徴課税を行った[32][27][33]。1970年代後半が運動のピークで、これ以降正式な会員数は減少している[34]。
1981年に活動の中心をアメリカに移し、オショー・ラジニーシらはオレゴン州ワスコ郡アンテロープ近郊に移住し、廃墟だった牧場を購入し、砂漠の只中に巨大なユートピア共同体ラジニーシプーラム建設を計画した[6][33]。1980年代からは、グループ・セラピーにおけるヌード、セックス、暴力は禁止されるようになった[29]。
プネーのアシュラムではスピリチュアリティとグローバル資本主義の融合が見られたが、こうした宗教とビジネスの融合は、アメリカでさらに大胆に推し進められた[33]。オショー=ラジニーシ運動はスピリチュアルで商業的な企業へと急速に発展し、(表向きは教団から独立した)世界各地の多数の宗教的・世俗的企業が相互に結び付いた、広大で流動的、柔軟なネットワークからなる複雑な企業の複合体となった[33]。1983年の教団の小冊子では、オショー=ラジニーシ運動の教えは「ラジニーシズム」と呼ばれ、弟子たちがオショー・ラジニーシの教えを正確に反映することを目指し現在進行形で創る「宗教」であるとされた[official 2]
ラジニーシプーラムは有機農業などを行う先進的な社会実験として始まり、活動開始からわずか4年で事業としては目覚ましい成功を収めたが[35][33]、近隣の地方自治体と対立し、次第に全体主義的な特徴を持つようになり、厳しく統制された非常に偏執的なコミュニティになり、多くの犯罪行為に手を染め、短期間で壊滅した[33][36]。運動は元々緩やかなネットワークだったが、オショー・ラジニーシ自身もその流れを容認する形で、組織の中央集権化と制度化の流れが進み、確固としたヒエラルキーを持つ宗教組織に変わっていった[36][37]。
ラジニーシプーラムの永住者は全ての財産をコミューンに寄付し、長期滞在者はコミューンにお金を払い、様々な労働に励み、近隣住民と日常的に交流のない孤立した生活を送った[36]。オショー・ラジニーシの急進的な世界観だけでなく、メンバーが周辺住民に対し意識変容を目指すことを自負して上から目線で接したこと、近隣のアンテロープの町を実質的に乗っ取りラジニーシプーラム市に組み込んだこと、司法分野への進出を試み、全米から1500名のホームレスを集め選挙工作をしようとしたこと等から、地元住民とのトラブルが絶えなかった[38][39]。オショー=ラジニーシ運動は世界的に中央集権化と標準化が進められ、各国に大きなコミューンが作られ、オレゴンのスタッフから各地のメンバーにラジニーシプーラムへの寄付が強く求められた[38]。コミューンに参加せず社会生活を送っていた者は教団ヒエラルキーの下位に置かれ、「明け渡し(サレンダー)が足りない」と批判され、世界中で半数近くがこの時期に運動から離脱している[38]。
ラジニーシプーラムはワスコ郡の住民や州政府と対立し、コミューン建設や継続的な開発に関する法廷闘争が相次いで拡大は阻害された。オショー・ラジニーシの個人秘書マ・アナンド・シーラ達側近の高弟たちは、1984年にワスコ郡の選挙結果を望むようにしようと、サルモネラ菌を地元のレストランに散布して集団食中毒を起こし(アメリカ初のバイオテロであるラジニーシ教団によるバイオテロ事件。被害者約750名、うち45名が入院)、1985年にチャールズ・H・ターナー連邦弁護士に対する暗殺計画を立て(未遂に終わった)、オショー・ラジニーシの主治医スワミ・デヴァラジ(ジョージ・メレディス)の殺人未遂を行い、既知のものでは最大の違法盗聴事件や、教団に不利な裁判記録を隠滅するための公共施設の放火、麻薬の密輸、アメリカにおける最大の移民詐欺事件などの数々の犯罪行為を行った[40][6][41][42]。オショー・ラジニーシは1985年に地元当局にシーラ達側近に対する捜査を求め、その後、シーラを含むアシュラムの弟子数名に有罪判決が下された[40][6]。1985年に彼は司法取引を行い、別の移民詐欺の容疑でアメリカから国外に追放された[43][44][45][6][46]。その後21カ国に入国を拒否され、世界を放浪した[47]。ラジニーシプーラムの成功と破滅は、高尚な人物が矮小化し没落する物語として、長い間一般大衆の娯楽となってきた[48]。
最終的に1986年にインドのムンバイに戻り、弟子の家に6ヶ月間滞在し講話を再開した後、1987年1月にプネーに戻り、アシュラムを復活させた[49][50]。インド帰国後は、サニヤシンのグルへの無条件の服従や全面的コミットメントの傾向を解消し、宗教の脱制度化を進める方向に転換していき、オショー=ラジニーシ運動のセクト的な特徴は徐々に薄れ、アメリカ時代の中央集権的な体制・大規模な国際的コミューンから、小規模なグループが各国に点在し各瞑想センターが独自に展開する、初期のインド時代と似た状況に変わっていった[51]。
プネーのアシュラムは1980年代後半から1990年代前半にかけて大きく変化し、共同体的な雰囲気を持つ素朴なアシュラムから、多くの短期滞在者を受け入れる瞑想と自己発見のための高級リゾート、多様なサービスを提供する世界的なスピリチュアル・センターへと急速に変化・拡大し、年配のサニヤシンたちはアシュラムを離れ、世界の他の地域へと散って行った[30]。コミュニティのリーダーシップにも重要な変化があり、オショー・ラジニーシは1989年に、ジェイエシュ(マイケル・オバーン)、アムリト(ジョージ・メレディス、旧サニヤシン名スワミ・デヴァラジ)、アナンドを中心とする21人の弟子からなる「インナーサークル」と呼ばれる委員会を設立し、彼らが運営の実務を担った[30]。彼はインナーサークルの活動を推進し、自身の思想を普及させ、統治機構を発展させた[52]。
オショー・ラジニーシはプネーのアシュラムで1990年に死去した。死後信奉者たちは、彼が政府の陰謀の犠牲者だという確信を持ち、その無実を主張し、運動を継続した[6]。彼の死後運動は安定し、数年間で彼は「驚くべき神格化」を遂げ、人気を高めたと言われる[53][54][35][52]。
世界中で行われているオショー・ラジニーシの教えの実践の多くは、現在もネオタントラと性愛に重点を置き続けている[55]。彼の教えは欧米のニューエイジの思想に影響を与えた[56][57]。
プネーのアシュラムは現在、OSHOインターナショナル・メディテーション・リゾートとして知られる[58]。宿泊料や各種コースの料金は上昇し、宿泊者の数は減っていき、2016年時点で少数の富裕層向けの施設となっている[30]。プネーのOSHOインターナショナル・メディテーション・リゾートと、彼の著作権を管理し講話録を出版するOSHOインターナショナル財団は提携関係にある[34]。プネーのリゾートは今日非常に人気があり、毎年何十万人もの訪問者があり、講話録も世界中で大量に出版され続けている[59]。
彼の死以降、運動は何度も自ら再定義を繰り返し、より包括的な方向へ進んでいった[52]。運動は彼の役割を再定義し、悟りへの架け橋を「オショー・ラジニーシの教えへの『明け渡し(サレンダー)』で自我(エゴ)を消滅させること」から「瞑想で自我を消滅させること」に変更する等、教えの中心要素をリフレーミング(再構成)し、運動の目的を再定義し、運動の歴史を選択的に再解釈して過去の悪評や問題から距離を取ることで、部外者から問題視されることを避け、勢いのある文化的勢力となった[60][34][61]。1970年代後半以降、運動は会員数、資産の蓄積、社会的影響力という点で成功してはいないが、現在はプネーの教団(リゾート)を中核に、関連センター、運動とつながりのある自己啓発ビジネス、彼の影響を受けたスピリチュアル教師、スピリチュアル市場の顧客の輪が広がっている[52]。彼の死後、運動の権威はプネーの教団(リゾート)から分散した。アシュラムやコミューンでフルタイムで生活し人生を捧げるスタイルは廃れ、世界各地に緩やかにつながるセンターが点在し、センターや個人の家に集まる分散型モデルに移行した[55]。21世紀初頭時点で、60か国以上に約750のセンターがあった[6]。人々はプネーのリゾートや各地のセンターで短期間スピリチュアルなリトリートを体験し、日常に帰っていく[55]。
運動の中でも、彼という人間と彼の教えの扱いには温度差がある[62]。OSHOインターナショナル財団は、彼という人格ではなくその哲学を熱心に宣伝しているが、彼という人間に強い敬意を持つグループもあり、最近の熱心なメンバーには、運動の中心的存在として彼が引き続き必要なのか疑問を持つ人もいる[62][52]。
運動は自らの成功を、規模や人数ではなく世界規模の文化的影響力と解釈するようになり[52]、再構築された教えは人々を引きつけ、インターネット上でコミュニケーションが続けられ、プネーの教団(リゾート)は運動に資金提供する何千人もの顧客を引き付けた[52]。運動は裕福で才能のあるメンバーを集めることに成功しており、特権階級のサニヤシン達は社会に影響力を持ち、運動は激しい政治的弾圧を受けることなく真面目に受け止められ、国際的に活動し続けている[52]。現在世界中で活動しているサニヤシンと献身的な参与者は8,000人未満だが、洗練されたコンピューター・ネットワークで結びつき、幅広い市場の神秘主義の消費者にスピリチュアルな商品を届け、小グループで定期的に集まっているため、その数よりも大きな影響力を持ち続けている[52]。
オショー・ラジニーシは生前、インドのスピリチュアルな伝統である瞑想に著作権や商標を適用し独占しようとすることを批判したが、彼の死後、彼の瞑想や著作(講演録)は速やかに著作権で保護され、「Osho」は商標登録され、使用権と利益をめぐる様々な争いにつながった[55]。OSHOインターナショナル財団(OSHO International Foundation、OSHOインターナショナル・ファウンデーション。旧ラジニーシ・インターナショナル財団)が、関連するすべての知的財産権の保有を主張し管理していたが[63][64]、1990年代後半には、対立する派閥がオショー・ラジニーシの著作物に対するOSHOインターナショナル財団の著作権の保有と、資料の出版や再版に対するロイヤルティー(使用料)請求の有効性に異議を唱えた[60][65][66]。オショー・フレンズ・インターナショナル(Osho Friends International:OFI)がOSHOインターナショナル財団を訴え、このアメリカでの法廷闘争は10年近くに及んだが、OSHOインターナショナル財団が提出したオショー・ラジニーシの遺言状に偽造の疑いが生じ、遺言状は取り下げられ、控訴は棄却[67][55]。2009年1月に、OSHOインターナショナル財団がアメリカで保有していたOshoという商標は無効となった[67]。今日多くのサニヤシンは、インナーサークル、特にジェイエシュとアムリト(ジョージ・メレディス)に対し、彼らがオショー・ラジニーシの遺産を単なるビジネスと化し、共同体の富を私利私欲のために流用していると激しく非難している[30]。こうした批判や告発、訴訟は、インド国内だけでなく世界中のサニヤシンたちのスピリチュアルな生活や士気に影響を与えており、プネーのアシュラム(リゾート)やその周辺の街の雰囲気は、かつての陽気で祝祭的なものから著しく悪化したと言われるが、彼のメッセージとはほとんど関係がない問題だと考える信奉者もかなり多い[55]。
来歴
[編集]幼少期・青年期: 1931年-1950年
[編集]オショー・ラジニーシは1931年12月11日に、中央インドのマディヤ・プラデーシュ州ラーイセーン県のクチワダという小さな村で、ジャイナ教徒の布商人の11人兄弟の長男チャンドラ・モハン・ジャインとして生まれ、ラジニーシというあだ名で呼ばれていた[68][69][70][71][72][73]。彼は病弱な子供で、天然痘と喘息で死にかけたことがあった[70]。生家の宗教はジャイナ教の小宗派ターラン・パンタ派で、この宗派は、16世紀のディガンバラ派(裸行派)の出家者で、偶像崇拝を否定し、無形の神(アートマン)への個々人の深い帰依を説いた開祖ターラン・スヴァーミーにちなんで名付けられた[74]。ジャイナ教は仏教と密接な関係のあるインドの宗教であり、そのため彼は、インド社会の主流であるヒンドゥー教の枠組みの外で、様々な哲学を統合する伝統の中で育った[52]。
両親バブラル・ジャイナとサラスワティ・ジャイナは、彼が8歳になるまで母方の祖父母と一緒に暮らすことを許し[75]、彼自身の説明によると、祖母は彼に最大限の自由を与え、教育や制約を押し付けず気楽に育ててくれたため、これが彼の成長に大きな影響を与えたという[本人 1]。祖母は彼を「ラージャ」(王様)と呼び、王様のように扱われていた[69][74]。
7歳の時に祖父が亡くなり、両親と一緒に暮らすためにガダルワラへ移った[71][76]。祖父の死は深い心の傷となり、死に魅了され、幼少期から青年期にかけて死への執着が続いた[76][77]。子供時代、他者が死に直面するのを観察することに魅了されていたと言われ、死にゆく人と共に過ごしたり、火葬場に向かう葬列に付いていったり、また、危険な洪水の川に飛び込むなど、自身を命の危険にさらしたことも知られている[69][70]。のちに、前世でほぼ悟り(enlightenment)に達していたが、現世では完全な悟りを開く7年前の14歳の時に、初めて悟りを体験したと主張している[78]。
1947年には愛する幼なじみのガールフレンドが腸チフスで死去し、数年間深い鬱状態に陥った[69][70][76][77]。
彼は自身の子ども時代を、甘やかされ、孤独で、気難しい子供だったと誇らしげに語っており、宗教的、教育的な人物の権威に頻繁に挑戦していたという[74]。伝記作家のヴァサント・ジョシによると、「彼の学校時代は、あらゆる権威に対する反抗の時期であり、ギャングを組織して村を恐怖に陥れ、他人を命の危険に誘導したり追い込むような、無謀な『実験』を行っていたと語られている。」[69]。学校では、彼は才能豊かで反抗的な生徒であり、討論が上手だと評判だった[79]。伝統的な宗教に批判的になり、呼吸の制御、ヨーガの練習、瞑想、断食、オカルト、催眠など、意識を拡張するための多くの方法に興味を持っており、ヴァサント・ジョシによると、幼い頃から幅広く本を読み、少年時代にはスポーツもしていたが、主に読書を好んでいた[関係者 1]。カール・マルクスとフリードリヒ・エンゲルスの共産主義の本に興味を持ち、共産主義者とみなされて退学の脅しを受けた。ヴァサント・ジョシによると、彼は友人の助けを借りて、共産主義の本をメインにした小さな図書館を作った。また叔父のアムリトラルによれば、共産主義イデオロギーと宗教への反対について定期的に議論する若者のグループも結成した[関係者 1]。
彼は後に次のように語っている。「私は幼いころから共産主義に興味を持っていた。共産主義の文献…私の図書館の蔵書で欠けているものはなかっただろう。1950年以前の本には、すべて署名と日付を記した。私にとって知的世界への最初の入り口だったので、細かいところまで鮮明に思い出される。最初は共産主義に深く興味を持っていたが、それが死に体であることがわかり、アナキズムに興味を持つようになった。アナキズムもロシアの現象だった。クロポトキン公子、バクーニン、レフ・トルストイ。この3人はみなアナキストだった。世界には国家も政府も存在しない。」[80]
短い間社会主義に関わり、インド国民軍、民族義勇団という2つのインド民族主義組織に参加したが[79][81][82]、形式的な規律、イデオロギー、システムに従うことができなかったため、これらの組織での活動は短期間で終わった[83]。
大学時代・講演活動:1951年-1970年
[編集]19歳でジャバプールのヒトカリニ大学(Hitkarini College)で学び始めたが、講師と衝突した後すぐにD・N・ジャイナ教大学(D. N. Jain College)に転校した[69]。大学では哲学を専攻したが[84]、彼自身が後に回想しているように、たとえ戯れにでも、問題を引き起こしたり、教官に論争を吹っ掛けることに必然性を感じており、非常に問題児だったようである[69]。好んで場を掻き乱すため、授業には出ずに試験を受けることだけを求められ、空いた時間を使って地元の新聞社で編集助手として数ヶ月働いた[85]。生家の宗教であるジャイナ教ターラン・パンタ派のコミュニティが毎年ジャバルプールで開催するサルヴァ・ダルマ・サムメラン(すべての信仰の会合)で演説するようになり、1951年から1968年まで参加した[86]。両親からは結婚するよう言われていたが、逆らっていた[87]。
後に1971年にグルとして活動をするようになってから、独立後インド社会が様々な社会的・宗教的対立に苦しんでいた1950年代初頭の1953年、大学時代に、彼の最初の大きなスピリチュアルな変容があり、悟りを開いたと語っており、それは次のようなものである。彼自身が語るところによると、クリシュナ、仏陀、マハーヴィーラ、イエス・キリスト、ヴェーダ、コーランなど、どの教えも確かな根拠を与えてくれるものとは思えず、彼はスピリチュアルな危機、一種の「魂の闇夜」の中で精神的な迷路に陥った[69]。本人曰く「気が狂ったも同然」「完全な暗闇」の状態となり、何日も空腹や渇きを感じることもなく、朝夕5マイルから10マイルも走り続け、困惑した両親は、アーユルヴェーダ医や宗教家などの元に連れて行った[69]。彼はついに完全な絶望に陥り、あきらめて激しい肉体的苦行をやめ、それから7日目の1953年3月21日、ジャバルプールのバーンヴァルタルの庭園の樹の下に座っている時に悟りの体験があり、エネルギーがあらゆるところから湧き上がり、彼の中で弾け、気が狂いそうな至福に浸るエクスタシーの体験をし、仏陀が言う無我、自我の喪失・自己の消滅、再生を体験したという[69][88]。伊藤雅之は、「人間の意識の最終的な段階に達し光明(悟り)を得たという」と表現している[68]。
この体験の後も学業を続け、1955年にD.N.ジャイン・カレッジで哲学の学士号を取得した後、サガル大学に入学し1957年に哲学の修士号を取得した。ラーイプルのサンスクリット・カレッジで哲学を教え始めたが、すでに物議を醸す人物として広く知られており、「生徒の道徳、人格、宗教を破壊する」等と批判され、同僚の教師や上司を敵に回したが、むしろ「危険な男」というイメージを積極的に受け入れ、過激で挑発的で因習を打破する、斬新で独創的な教師としてふるまい活動した[69]。彼の講義が大きな論争を巻き起こしたため、1958年にジャバルプール大学の哲学教授となった[34]。1960年に教授に昇進[19]。人気教師となり、田舎町での不十分な教育というハンデを克服した非常に知的な人物だと仲間から認められていた[89]。
大学の仕事と並行して、インド全土を巡って講義を始め、挑発的で物議を醸す面白い講師というスタイルを磨き、欧米で台頭していたカウンターカルチャー運動を反映し、独自のインド版カウンターカルチャー革命、因習打破の教えを作っていった[69]。彼の発言は物議を醸したが、裕福な商人や実業家を含む多くの忠実な支持者を獲得することにもなった[79][90]。彼らはスピリチュアルな発達や日常生活に関する個別相談を行い寄付をした[34]。インドでは学識ある人や聖職者に個人的に相談しアドバイスを求めることは一般的なことだが、彼のクライエントの急激な増加は、並外れたスピリチュアル・セラピストだったことを示唆している[34]。スピリチュアルな指導者としての役割を示すアーチャリヤ(教師または教授)・ラジニーシ(子どもの頃のあだ名)という名前を使い始め、講演、瞑想キャンプの開催、裕福なクライエントのカウンセリングで生計を立て[34]、その活動は雪だるま式に拡大していった[90]。
1964年に、ラジャスタンの丘陵地帯にあるムチャラ・マハヴィールで、朝と夕方の瞑想、講話、質疑応答のセッションで構成された最初の10日間の瞑想キャンプ(リトリート)を開催し続いて、全国各地でさらに多くのキャンプが開催された[74]。1965年には、4人の裕福なジャイナ教徒の商人によって、ムンバイに「生命覚醒センター」が設立され、彼の説教ツアーやキャンプを企画し、その教えを雑誌、パンフレット、ヒンディー語の講話やその英訳の小冊子といった形で宣伝した[74][34]。運動は当時、生命覚醒運動(Jivan Jagruti Andolan)として知られていた[本人 2]。
またこの頃に、初期の弟子の中で最も重要な人物ラクシュミー・タカルシ・クルワ(マ・ヨーガ・ラクシュミー)が加わった[69]。彼女は、インドの初代首相ジャワハルラール・ネルーや、四代目首相のモラルジ・デサイ、その他の政治家と密接な関係を持つ国民会議党の大物支持者の年若い娘で、広い人脈を持っており、講演するオショー・ラジニーシに一目惚れした様で、最初の本当の「グルーピー」だった[69]。彼女は組織のトップと個人秘書を兼ねたビジネスマネージャーとなった[34]。初期のもう一人の重要人物が、アメリカのニュージャージー州の学校に通い、裕福なアメリカ人の夫がいたシーラ・パテル(のちマ・アナンド・シーラ)で、夫も運動に加わったため、多額の資金を運動にもたらした[69]。
オショー・ラジニーシは高校時代に社会主義に興味を持っていたが、経済システムとしての社会主義に次第に幻滅していき、1960年代後半までに、社会主義の知的基盤と、現代インドにおける社会主義の社会的・経済的・倫理的影響に対する非常に厳しい批判、マハトマ・ガンディーへの批判、反ガンジー主義に発展した[91]。彼の経済への態度は、グローバル資本主義の積極的推進・反社会主義であった[91]。1969年の講演では、社会主義は資本主義の究極の結果であると言え、資本主義そのものが社会主義をもたらす革命だと語っている[92]。インドでは社会主義は避けられないが、50年後、60年後、70年後には、インドはまず富の創出に力を注ぐべきだと確信していると述べた[93]。社会主義は貧困だけを社会化すると主張し、マハトマ・ガンディーを貧困を崇拝するマゾヒスト反動主義者と評した[79][20]。インドが後進国から脱却するために必要なのは、資本主義、科学、近代技術、そして避妊であると語った[79]。彼は資本主義と社会主義を正反対のシステムとは考えず、どの国も資本主義経済をまず構築するべきで、そうせずに社会主義を語るのは悲惨なことだと考えていた[92]。
インドの正統派の宗教は空虚な儀式で満たされ、地獄行きの恐怖と祝福の約束で信者を抑圧していると批判し[79][20]、全ての組織化された宗教は物質世界を拒否するという点で死んでおり、生命を否定し、倒錯していると非難するようになった[70]。インド各地で講演し、「すべての行為や感情を抑圧することなく、ありのままの自分を受け入れ、瞬間、瞬間をトータルに覚醒することが必要である」と説き、全ての組織宗教を激しく批判した[84]。
彼は規模の大小を問わずどこでも講演を行い、5-10万人の聴衆相手に話したこともあると主張している[74]。生家の宗教であるジャイナ教に反発し、その禁欲的な伝統をマゾヒスティックと呼び、ジャイナ教が性欲を抑圧していると考え、性欲の重要性を強調した[70]。彼の公開講座はより過激になり、主流の政治や宗教を批判し、よりオープンで自由な性愛を提唱した[34]。講演者として広く知られるようになり、しばしば物議を醸した[74]。1966年に物議を醸す講演ツアーを行った後、1966年に大学当局の求めでジャバルプール大学の職を辞した[19]。ハリー・エーヴリングは、副学長が辞職を求めた理由は、彼が頻繁に仕事を休んでいたためだろうと述べている[74]。
セックスが超意識に至る手段になりえると主張し、1968年の一連の講演(後に『セックスから超意識へ』というタイトルで出版)で、セックスをより自由に受け入れるよう呼びかけてヒンドゥー教の指導者を憤慨させ、インドのマスコミから「セックス・グル」として知られるようになった[13][11][84]。この講演は性の「神的な」性質に焦点を当てており、彼の悪名を高めたが、内容は箍の外れた官能への誘いというわけではなく、セックスは「愛の出発点」であり、自己超越の最初の片鱗だということをオープンに正直に受け入れるべきだと主張し、セックスを不届きな「罪」の行為として非難することに反対した[74]。1960年代後半以降の彼の講話には性的なテーマが一貫して含まれており、セックスというテーマは挑発的で独自性があり、新たな信者を引き寄せるポイントとなった[94]。また、瞑想の実践や、音声テープ・ビデオの講話の重要なテーマになった[94]。
インド哲学の要素と、ポスト・フロイト派の精神分析、生体エネルギー論、西洋の神秘家・哲学者ゲオルギイ・グルジエフの折衷的な神秘主義等といったヨーロッパの心理学から導入したアイデアの融合をさらに進めていき[69]、1960年代後半までに、人間が自分の身体的、霊的・精神的、感情的なプロセスを観察することを容易にするアクティブな瞑想エクササイズとして、ダイナミック瞑想のシステムを開発し始めた[70][34]。
1969年に第2回世界ヒンドゥー会議に招かれた際に、一部のヒンドゥー教指導者の懸念にもかかわらず、「人生を無意味で悲惨なものと考え、生命への憎悪を教える宗教は、真の宗教ではない。宗教は人生を楽しむ方法を示す芸術領域(アート)である」と発言して再び物議を醸した[95]。ヒンドゥー教の下層カーストのシュードラと女性の扱いを動物の扱いと比し[96]、上位カーストのバラモンを利己心で動いているとみなし、ヒンドゥー教の尊敬される最高指導者であるプリーのシャンカラ・アーチャリヤを挑発した[95]。シャンカラ・アーチャリヤは講演を中止させようとしたが叶わなかった[95]。
彼の教えはほとんどのインド人にとって非常にショッキングだったが、一部の人にとってはかなり魅力的だった[84]。口コミや、時折メディアで彼の才能に触れられたことで、1960年代後半から1970年代前半に、欧米人が彼の瞑想キャンプにやって来るようになった[34]。
ムンバイ: 1970年 – 1974年
[編集]1970年頃まで、オショー=ラジニーシ運動はさほど組織化されておらず、彼は一思想家であり、講演を聞きに来る人も弟子ではなく聴衆だったと言える[84]。1970年代から活動が宗教的色彩を帯びるようになり、思想家・講演者からグルへと移行し、聴衆の一部が弟子になり、正式にイニシエーションを授けて出家させ、弟子を取るようになった[84][97]。
1970年初頭の公開瞑想イベントで、非常に速い呼吸と音楽とダンスによる祝祭を伴うダイナミック瞑想を、始めて披露した[98][99]。6月末にジャバルプールを離れ、ムンバイに向かい[100]、1970年9月26日に最初の弟子を取り、彼がネオ・サニヤシンと呼ぶ弟子たちの集団を作っていった[101]。マ・ヨーガ・ラクシュミーが彼が定住するための資金を集め[79]、1970年12月にムンバイのウッドランズ・アパートに移り、そこで講演を行った[100]。彼はめったに旅をしなくなり、公開の集会で話すこともなくなった[100]。
1971年にアーチャリヤの称号を止め、「バグワン」という称号に変え、「バグワン ・シュリ・ラジニーシ」と名乗り、約20年前の1953年3月21日に、光明(enlightenment)を成就させる真の「悟り(satori)」の深遠な無を体験したと公言した[34][102][103]。「バグワン」は神や釈迦の尊称であり、悟りを開いた者や目覚めた者、神と一体化した人を意味し、ヒンドゥー教では特に創造神ヴィシュヌを意味し、「シュリ」は「聖なる」という意味であり、この新しい名称はインドの人々に衝撃を与え、反感を買うことになり、インド人の弟子の一部は去っていった[103][34][74]。
彼のサニヤシンたちは、禁欲的な生活ではなく祝祭的な生活を送ることが奨励されていた[104]。彼自身は崇拝対象ではなく、「花が開くように促す太陽」、つまり触媒であるとされていた[104]。この時期のダルシャンでは、オショー・ラジニーシ自身がおのおのの弟子に修行内容を指示し、弟子からの質問に答えていた[105]。
ラクシュミーのビジネスセンスとシーラのコネクションにより、オショー・ラジニーシは裕福なインド人だけでなく、インドのスピリチュアリティ・西洋の心理学・体制への攻撃などをミックスした彼の教えを新鮮に感じる欧米の観光客も引きつけるようになった[69]。当時アメリカは、まだベトナム戦争の反戦デモの渦中にあり、1960年代のカウンターカルチャーは終焉を迎えつつあり、彼の教えは他のインド系新宗教運動(クリシュナ意識国際協会や超越瞑想運動など)と同様に、サイケデリック・ドラッグや過激な政治運動、その他のカウンターカルチャーの思想を試して飽き足らず、もっと永続的な自己変革の形を模索していた若者達に特にアピールした[69]。当時の運動は、裕福なインド人ビジネスマンと、長髪でみすぼらしい服装のヒッピーやニューエイジャーが混ざり合っていた[69]。西洋人の訪問者に対して、故郷に戻って「バグワンについてのニュースを広める」よう奨励した[74]。
1971年に初めて英語で著作『I am the Gate』が出版された[34]。ハーパー・アンド・ローなどの有名な西洋の出版社が講話の一部を翻訳し出版した[34]。より多くの欧米人が弟子になり、公式の組織が作られた[34]。欧米からの訪問者は彼のボンベイのアパートに集まり、彼は海外からの訪問者の何人かに西ヨーロッパとアメリカに瞑想センターを作らせ、西洋とのネットワークを構築した[34]。こうした瞑想センターを通じてオショー・ラジニーシを知った欧米人たちが、インドに集まるようになった[103]。
オショー=ラジニーシは、イニシエーションを受けた西洋人の弟子たちに、しばしばヒンドゥー教で崇拝される神々の名前を与え、これはサニヤス (放棄の誓い) を立て、グルに自身を明け渡し、過去を捨てることによる心理的、霊的・精神的な再生を意味した[52][34]。また、この頃ボンベイでは、すべての弟子にインドの伝統的な聖者の色であるサフラン・オレンジのローブを着させ、自身の写真入りロケットをつるした数珠を身につけさせたが、神々の名前と聖者の衣装というインスタントな神聖さは、その自由奔放な政治的・性的哲学と相まって、地元住民の深い怒りを買った[34][106]。ムンバイ時代は瞑想のための独自の施設はなく、サニヤシン達は海岸で瞑想を行っていたが、彼らは「体内のエネルギーの流れを妨げる」として下着の着用が禁じられており、聖者の色のローブを着て、下着もつけずに海岸で叫んだり飛び跳ねたりする様は、地元の人々にとってヒンドゥー教への侮辱に感じられた[103]。一方で、インド人訪問者の数を上回り始めていた欧米人の訪問者たちを魅了した[34]。彼の過激な教えとその評判、インドの慣習を軽んじる何百人もの特権的な欧米人の弟子たちの存在は、地域との間に緊張を生んだが、緊張が高まることで内部の連帯が生じ、ひとつの運動として形成されていった[34]。
ムンバイ在住時に、糖尿病、喘息、および多くのアレルギーを発症した[107]。
第1期プネー 1974年 – 1981年
[編集]1974年にボンベイの南東100マイルにある高原都市プネーに本部を移した[34]。ギリシャの海運会社の相続人キャサリン・ヴェニゼロス(マ・ヨーガ・ムクタ)の多大な支援と、長年のインド人の弟子からの追加の財政支援を受け、オショー・ラジニーシは郊外のエリート街コレガオン・パーク地区に隣接する不動産を取得し、2万平方メートルの敷地をもつシュリ・ラジニーシ・アシュラムを作った[34][106][94]。講話は定期的に録音され、後にはビデオ録画され、書籍化され、世界中で販売され、これまでよりはるかに多くの聴衆に講話を届けることができるようになり、西洋からの訪問者の数は急増した[108]。1975年に数人のヒューマンポテンシャル運動のセラピストが到着した後、アシュラムでは瞑想に加えグループ・セラピー(集団精神療法)が増えていき[23][24]、これがアシュラムの主な収入源になった[109][110]。
ムンバイでは彼に簡単に会うことができたが、プネーではこれをやめ、彼はほとんどの時間を自分の宿舎で過ごすようになった[74]。弟子の数が増えたため、ムンバイ時代のような一対一のダルシャンは行われなくなり、グループ単位になった[105]。午前中に講話の場所に車で出向き、夕方にはダルシャン(謁見)で小グループに会うために現れた[74]。ダルシャンでは、弟子にサニヤス(イニシエーション)を与え、サニヤシンや訪問者それぞれと話し[108][111][74]、サニヤシンの書面による質問に答えた[34]。ほとんどのサニヤシンは日常的に彼に会うことはできなくなったが、アシュラムのいたるところに写真が貼られ、一般のサニヤシンが時折偶然会うことができたという噂が広まり、アシュラムのいたるところに彼の姿が見られた[34]。夕方のダルシャンが象徴的な親近感を醸し出しており[34]、サニヤシンたちは出立時や帰国時、また私生活に関して等、グルに質問したいことがある際にダルシャンを受けに来た[108][111]。重要な訪問者や旅立つサニヤシンに小さな木箱や衣服を贈呈する習慣も、生活の中でオショー・ラジニーシの存在を継続的に感じさせた[34]。ムンバイ時代からの弟子には、直接の対話の時間が減少したことに不満を覚える者も出てきた[105]。
1975年頃から英語での講話が増え、アシュラムにグループセラピー(集団心理療法)を取り入れ始めた[112]。1975年4月に、自己認識を育む方法としてエンカウンター・グループとアーサー・ヤノフの原初療法の提供が始まり、すぐにボディワーク、グループセラピー、幼少期の探求、潜在意識への働きかけ、ヴィパッサナーや座禅などの集中的な瞑想実践を含む幅広い実践が提供されるようになった[74]。
プネーのアシュラムは、感情を掻き立てる狂乱のカーニバルのような雰囲気に包まれており、エキサイティングで強烈な場所だとみられていた[108][113][114]。一日は午前6時にダイナミック瞑想で始まり[115][111]、午前8時からオショー・ラジニーシがアシュラムの「ブッダホール」講堂で60分から90分の講話を行い、宗教的な書物について解説したり、訪問者や弟子からの質問に答えたりした[108][111]。1981年まで、ヒンディー語と英語の一連の講話が交互に行われていた[116]。日中はさまざまな瞑想やセラピーが行われ、その強烈さはオショー・ラジニーシのスピリチュアルなエネルギー「ブッダフィールド」によると考えられていた[113]。
開設から5年間でアシュラムは成長し、スピリチュアルな師として数千人を前に講義できる瞑想ホール、小規模な講堂、ヒューマンポテンシャル運動のグループ・セラピーのための施設、診療所、衣類・ジュエリー・陶芸・オーガニック化粧品等の家内工業、レストラン、商店、教室、定住しているサニヤシン用の住宅が設けられた[34]。演劇、音楽、無言劇(マイム)の公演も行うようになった[108][110]。教団の建物は、ジーザス(イエス)・ハウス、チャンツー(荘子)・ホール、ラオツー(老子)・ハウス、クリシュナ・ハウス、ブッダ・ホールといった名前が付けられていた[105]。アシュラムは、グループ・セラピーと個人セラピーの料金、部屋代と食事代、書籍の販売、講演会の入場料から、毎月10万-20万ドルの安定した収入を得ていた[74]。
インドを旅していた欧米のヒッピーや、日本でいう精神世界の探究者たちがオショー・ラジニーシと出会って惹きつけられ、続いてヒューマン・ポテンシャル運動にかかわっていたセラピストたちがスピリチュアリティの新たな発展を求めて集まるようになり、欧米人のサニヤシンが大部分を占めるようになっていった[106]。この頃からアシュラムの公式発表と現実の差が大きくなっていき、弟子の正確な数も把握しにくいが、各種調査の共通する概算では、少なくとも年間25,000人以上がアシュラムを訪問し、常時3,000人ほどが長期滞在していたといわれ、弟子たちの個人情報も制限されていたため実態はつかみにくいが、ドイツ人、イギリス人、アメリカ人が全体の半数以上を占めていた様である[105]。第1期プネーで、オショー・ラジニーシの周辺にはコミューン的な状況が生まれた[10]。裕福な弟子、才能のある弟子がグルの最も近くに位置し、運動は明らかに階層化されていた[34]。
彼の元に集まるセラピストが増加するにつれ、今度は新しい心理学の流れに興味を持つ者の訪問も増え、様々なセラピーの一大実験場と化していった[31]。オショー・ラジニーシは、ニューエイジャーの興味をそそる幅広い物事、セラピー、啓示に対して驚くほどオープンで、ヨーロッパとアメリカのセラピー関係者のサニヤシンは、エンカウンター・グループ、原初療法、ゲシュタルト療法、アレクサンダー・ローウェンとジョン・ピエラコスのバイオエナジェティクス、ロルフィング、ヨーガ、空手、太極拳、タロット占いまで、あらゆるものをもたらし、オショー・ラジニーシは「メソッドを持つすべての人」にピリチュアルな活動の場を提供した[117][† 2]。
訪問者はオショー・ラジニーシに相談するか、自分の好みに応じて参加するセラピーを選択した[119]。当時、悟りに至る手助けとして行われたセラピーはかなり激しいもので、セラピーでは全裸になることが求められ、アシュラムの初期のグループ・セラピーのいくつか、例えばエンカウンターグループ等の実験的なものでは、ある程度の肉体的暴力も許されており、参加者同士のセックスも行われていた[28][120][121]。セラピーの詳細は外部に公開されていなかったが、ヌードやセックスを含むことは一般にも知られており、「フリーセックスと瞑想の宗教」と呼ばれていた[105]。この頃は、地元の精神病院に収容されるサニヤシンも多かった[122]。
エンカウンターグループのセッション中での負傷について、錯綜した報告が報道され始めた[123][124][125]。オショー・ラジニーシのラディカルな思想や実験的なアシュラムは、多くの人々、特に先進資本主義国の若者を惹きつけたが、インド社会と運動の軋轢も激しさを増していった[27]。
運動がピークを迎えた1976年頃には、年間3万人近くの西洋人がアシュラムを訪れ、世界規模の運動には2万5千人以上のサニヤシンが参加していた[34]。当時の講話の聴衆は主にヨーロッパ人とアメリカ人だった[126][127]。
1976年か1977年以降、運動の勧誘は停滞し、多くのサニヤシンが運動を去った[34]。アメリカのスピリチュアル市場・自己実現の市場では競争が激化しており、欧米の経済は縮小し、エサレン協会の創始者のひとりディック・プライスのように、ヒューマンポテンシャル運動の有力者の中には、オショー・ラジニーシのグループ・セラピーにおける暴力を公然と非難した者もいた[34]。プライスは木製の武器を持った参加者たちと8時間部屋に閉じ込められ、腕を骨折してアシュラムから出てきたという[128]。エサレンの同僚バーナード・ガンサーはプネーでもっと上手く過ごし、瞑想とグループセラピーの写真と叙情的な文章を収録した『Dying for Enlightenment』という本を書いた[128]。
数ヶ月の瞑想とセラピーを「卒業」したサニヤシンはアシュラムで働くことを志願でき、その環境は、ロシアの神秘家ゲオルギイ・グルジエフが1930年代にフランスで率いたコミュニティを意識的にモデルにしたものだった[129]。グルジエフから取り入れた重要な特徴は、過酷な無給労働と不快な性格の監督者であり、どちらも自己観察と超越の機会を刺激するように設計されていた[129]。多くの弟子は何年もそこに留まることを選んだ[129]。
オショー・ラジニーシの伝統宗教批判、聖者の色のローブを身にまとったサニヤシン達が市街で抱き合うなど、インドの公序良俗に反するあけすけな愛情表現を行ったこと、セックスを含むアシュラムの活動、各種の犯罪行為も誘引したこと等により、プネー市民のアシュラムへの感情、宗教界における評判は悪化し続けていた[122][130]。これに加えて、サニヤシンの間での薬物(幻覚剤)使用の疑惑がアシュラムの世評をさらに悪化させた[131]。
セラピーの料金は西ヨーロッパの物価水準に合わせて設定されており、インドにおいては高額だった[105]。アシュラムには実務に携わる上位のサニヤシンをようやく収容する程度の設備しかなく、一般信者は周囲のホテルや高級アパートに滞在していたが、これが弟子たちにとって大きな経済負担になり、第1期プネー当初に半分以下になっていたインド人サニヤシンのほとんどが去っていった[105]。また、コレガオン・パーク地区は外国人の増加で家賃が急上昇し、欧米人のサニヤシンの中には、売春や麻薬の密売でインドに長期滞在する資金を捻出している疑いがある者もいた[105][132][133]。後に数人の人物が、オショー・ラジニーシは売春や麻薬の密売に直接的に関与してはいないものの、彼とダルシャンでそうした計画や活動について話し合い、祝福を受けたと語っている[134]。ムンバイのホテル・タージはサニヤシンの出入りを禁止しており、またプネー警察は、オショー・ラジニーシがアメリカに移った後、麻薬事件が激減したと報告している[105]。
オショー=ラジニーシ運動には様々な著名人が関わり、運動はそれをアピールしているが、中でも特に有名な1970年代のインドのヒンディー語映画界のスターヴィノッド・カンナが、1974年に講話の音声テープをきっかけにアシュラムに出入りするようになった(後にアメリカに同行するために映画界からの引退し、その後復帰している)[94]。インドの女優パルヴィーン・バビや映画監督のマヘーシュ・バットもオショー・ラジニーシの信奉者として知られていた[135]。(後にバビとバットは運動を離れ、インド人精神教師ジッドゥ・クリシュナムルティの信奉者となった[136][137]。)
プネーではサニヤシン達が、インドの様々な宗派のメンバーによるオショー・ラジニーシへの殺害予告の噂を流し、彼の精神的ストレスが増え健康状態がひどく悪化していると話していた[34]。また、サニヤシンとアシュラムに反対するインド人との間で暴力事件が起きたという報告もあった[34]。彼は1979年までに、世間の思い込みにうんざりし、健康状態も悪化し、講話の質は低下した[74]。多くのオブザーバーは、彼の講話のスタイルが1970年代後半に変化し、知的な焦点が薄れ、聴衆に衝撃を与えたり楽しませることを目的としたエスニックジョークや下品なジョークが増えたと指摘している[138]。サニヤシンがダルシャンで質問をすることは奨励されなくなり、代わりに非常に演劇的な一連の「エネルギー・ダルシャン」が行われるようになった[74]。アシュラムに来る西洋人の数は減少し、特にインド人の数は非常に減少した[74]。
アシュラムは1979年1月に「進化するスピリチュアルな共同体としてのアシュラムの総体的なコンテクストの中で、暴力はその役割を全うした」というプレスリリースを発表し、グループセラピーでの暴力の終了が宣言された[139]。1979年に、1968年の講義に基づく小冊子『セックスから超意識へ』が出版され、本書は世界中で大反響を呼び、彼の「セックス・グル」という評判を確固たるものにした[94][9]。1980年代からは、グループ・セラピーにおけるヌード、セックス、暴力は禁止されるようになった[29]。
急激に成長した運動に対し、プネーのアシュラムは手狭だったため、彼はサニヤシンたちに自身とその教えを中心とする霊的・精神的共同体「ブッダフィールド」について語り、1970年代後半までに、もっと広い場所を探すよう命じた[138]。インド各地のサニヤシンたちは土地を探し、グジャラート州カッチ県の1件、インド北部の山岳地帯の2件に目星をつけたが[138]、インドのどの地方政府もコミューン設立を許可しなかった[34]。アシュラムとモラルジー・デーサーイー首相のジャナタ党政権との間の緊張は高まり、交渉は行き詰まり、移転拡大の計画は実行できなかった[138]。土地利用の承認は拒否され、政府はアシュラム来訪を主な目的とする外国人観光客へのビザの発行を停止[138][140]。1980年代には、プネー警察がアシュラムの不法滞在外国人の摘発を本格化した[122]。摘発から逃れるために、当時インド滞在にビザが不要だったイギリス人サニヤシンと結婚してイギリスのパスポートを取得するサニヤシンもいた[122]。
インド政府は、オショー・ラジニーシ公認の売春、国際的な麻薬の密売、金の密輸、マネーロンダリング、脱税の疑いについて捜査した[34]。サニヤシンたちはこれらの容疑のほとんどを常に否定してきたが、刑事捜査は運動と指導者たちにとって大きな障害になった[34]。デーサーイー政権は、アシュラムが非営利団体であるにも関わらず約8千万ドルもの巨額の収入があることから、財務状況の調査を行い非課税資格を遡って取り消し、推定500万ドルの追徴課税を行った[32][27][33][32]。オショー・ラジニーシがインドの様々な宗教指導者と対立してきたことが状況を悪化させ、1980年までにアシュラムは非常に問題視されるようになり、オショー・ラジニーシがインド国民会議派と1960年代から関係を持っていたにもかかわらず、同党のインディラ・ガンディーは政権復帰後にアシュラムのために仲裁することを拒んだ[32]。1980年5月にオショー・ラジニーシは講演中に、ヒンドゥー教原理主義者の若者ヴィラス・トゥーペに命を狙われた[138][141][142]。トゥーペは、オショー・ラジニーシがCIAのエージェントだから攻撃したと主張している[142](この暗殺未遂は演出されたものだという見解もある[74]。)多宗教国家であるインドでは、宗教対立を引き起こしかねない「宗教的感情を踏みにじる意図で意図的かつ悪意に宗教または宗教の信仰を侮辱すること」は刑事犯罪であると法律で規定されており、政府はオショー・ラジニーシの動向を注視しており、彼の伝統宗教批判をこの法律に反するとして起訴の準備を進めた[122][143]。
- 日本
オショー・ラジニーシやジッドゥ・クリシュナムルティの書籍は日本でかなり出版されており、彼らをスピリチュアルな指導者と仰ぐ各々の教団やそのメンバーによって日本語に翻訳され、1970年代から継続して出版されている[144]。商業出版社から発売されているケースもあり、教団外にも一定の需要があったようである[144]。オショー・ラジニーシ(当時はバグワン・シュリ・ラジニーシ)は日本でも知られるようになり、若者を中心に信奉者が増えた[4]。1975年に日本でも講話録ニューズレターが発行された[145]。1977年に最初の邦訳講話録で、ティローパによるチベット密教の奥義マハームドラーの教えやグルへの帰依[146]について語った『存在の詩(うた)』が精神世界系の出版社めるくまーるより出版され、本書は1997年までの20年間だけでも、4万9千部売れた[147]という[† 3]。
宗教学者の吉永進一によると、1960年代アメリカでの新しい霊性運動(当時はニューエイジという言葉はなく、オカルトやスピリチュアルといった言葉が一般的だった)に続き、日本でも1970年代半ばに、スプーン曲げのユリ・ゲラーや古代宇宙飛行士説のエーリッヒ・フォン・デニケン、コリン・ウィルソンの『オカルト』等によるオカルトブームがあり、当時はオショー=ラジニーシ運動のグループが新しい霊性運動の数少ない交流の拠点となっていた[149]。吉永は、「ラジニーシの集団は対抗文化の名残を色濃く残していた」と述べている[149]。社会学者の宮台真司は、日本ではカウンターカルチャー的なインドブームからオショー=ラジニーシ運動にスライドし、そこからさらに自己啓発セミナーに移行する人間が周囲には少なくなく、まさに「ポスト・カウンターカルチャー」と呼べる状況だったと語っている[150]。アジア経済研究所の松本脩作は、「オーム(オウム)事件に象徴される日本社会内の既存宗教に入りきれない部分がこのような教団によって取り込まれているようである。」と評している[144]。
アメリカ オレゴン州 1981年 - 1985年
[編集]アメリカ到着
[編集]彼はインドという土地の神聖さを信じていると公言しており、インドという国への嫌悪感が増していたにもかかわらず、決して移住しないと決心していた[112]。しかし、プネーのアシュラムを取り巻く緊張の高まり、その活動への批判、インド当局による懲罰的措置の恐れから、1981年にアメリカに新しいコミューンを設立することを検討した[151][152][153]。スーザン・J・パーマーによると、アメリカへの移転は同国の就労権を持つシーラのプランだった[154][155]。プネーの施設への一連の放火事件もあり、こうしたことからアメリカへの移転に向かった[33]。なお、後に地元警察とインド警察刑事捜査課は、放火事件は迫害の被害者というイメージ作りのための、教団内部による犯行の可能性が高いと結論付けている[33]。
1981年4月10日に、オショー・ラジニーシは15年近く毎日続けてきた講話を止めた[156][157]。持病の喘息や糖尿病の悪化、腰を痛めたためとされるが、教団は言葉を使わずに彼の意思を理解できる弟子が十分増えたためと発表している[27][158]。彼は3年半の公の場での沈黙を自らに課し、講話に代わって、師と共に瞑想するサットサンが行われ、「仏陀に帰依し奉る。法に帰依し奉る。僧に帰依し奉る」(「私は目覚めた者(ラジニーシ)に帰依する。私は目覚めた者のコミューンに帰依する。私は目覚めた者の究極の真理に帰依する」と解釈される)ガッチャミ(三帰依文)が唱えられ、ハリール・ジブラーンの『預言者』とイーシャー・ウパニシャッドも朗読された[156][157][74]。アシュラムの運営とサニヤスを授与する権限は、長年教団のビジネスマネージャーであったマ・ヨーガ・ラクシュミー、senior English therapis のスワミ・アナンド・ティルタ、senior Indian scholar のスワミ・サティヤ・ヴェダントに委ねられた[74]。同じ頃、マ・アナンド・シーラがラクシュミーに替わってオショー・ラジニーシの秘書となった[159]。
シーラとオショー・ラジニーシは1980年後半に、アメリカに新しいコミューンを設立するアイデアについて話し合い、彼が渡米に同意したのは1981年5月だった[159]。同年6月1日、オショー・ラジニーシは40人の弟子と共に、表向きは医療目的で観光ビザ[† 4]を取得してアメリカに入った[158]。これはプネーに残された弟子達には完全に秘密にされており、外務省専門調査員・インド文学研究者の足沢一成は、オショー・ラジニーシは出発直前の飛行機にロールス・ロイスで乗り付け、出国手続きやセキュリティーチェック等、出国に必要な工程を全て無視して強引に出国しており、彼への逮捕状が出るという情報を得ての逃亡であったと述べている[158]。ニュージャージー州モントクレアのキップス・キャッスルにある教団のリトリート・センターで数か月過ごした[161][162]。
オショー・ラジニーシは1981年初頭に椎間板ヘルニアと診断され、ロンドンから飛行機で駆けつけたセント・トーマス病院の筋骨格の専門医で硬膜外注射の専門家であるジェームズ・シリアックスら数名の医師による治療を受けた[159][関係者 2][163]。ラジニーシの元秘書のラクシュミーはジャーナリストのフランシス・フィッツジェラルドに対し、「彼女(ラクシュミー)がラジニーシの求めに合った物件をインドで見つけることができなかったので、医療上の緊急事態が生じたことで主導権がシーラに渡った」と語っている[163]。オショー・ラジニーシは教団運営の実権をシーラに委ねた[27]。シーラは公式声明で、オショー・ラジニーシがインドに留まると深刻な危険にさらされるが、手術が必要になればアメリカで適切な治療が受けられるだろうと述べた[159][関係者 2][164]。
しかし、オショー・ラジニーシの病状は深刻だとされたにも関わらず、彼がアメリカ滞在中に教団外での治療を求めることはなかったため、移民帰化局は、最初から短期滞在ではなくアメリカに残留するつもりだったと判じた[163]。彼は数年後に移民詐欺の罪を認めたが、渡米した際の最初のビザ申請書にアメリカ滞在について虚偽の記載をしたという容疑については、無罪を主張した[† 5][† 6][† 7]。
師のそばで暮らすために全てを投げ打ってきたプネーのサニヤシン達は、師を追ってアメリカに移住するか、可能なら故郷に戻るしかなかったが、プネーのサニヤシンの80%以上はアメリカ出身ではなく、よってアメリカでの労働ビザを取得する資格がなかった[74]。ジェームス・S・ゴードンは、サニヤシン達の混乱、悲嘆、怒り、当惑を描写しており、サニヤシンは世界中におそらく4万人いたが、ゴードンの研究によると、唐突なアメリカへの移転後に1万人から1万5千人が辞めている[74]。残った人々は去った人々より従順だったと考えられる[74]。
ラジニーシプーラム設立
[編集]1981年6月13日、シーラの夫ジョン・シェルファーはオレゴン州の荒れ地を575万ドルで購入する売買契約書に署名し、数日後にその土地をアメリカの財団(教団組織)に譲渡した。その土地は64,229エーカー(東京23区の面積に相当)の牧場で、以前は「ビッグマディ農場」として知られ、ワスコ郡とジェファーソン郡にまたがっていた[165][36]。土地は羊の過放牧で荒廃して何年も放置され、ほぼ完全に不毛の土地だった[112]。教団のアメリカでの活動のためにこの農場を見つけたのはシーラで、農場購入の際には、自分たち夫婦の引退後の生活のためだと説明していた[155]。教団は土地の代金を不動産業者に払っていなかった[166]。
農場は「ラジニーシ農場(ランチョ・ラジニーシ)」と改名され、オショー・ラジニーシは8月29日にそこに移った[167]。ビッグマディ農場は農業用地に指定されており、農業以外の目的での利用はできず、移住者も10人に限定されていたが、教団はこれを無視して「ブッダフィールド」の建設を始め、トレーラーハウスを持ち込み、数百人のサニヤシンが違法に定住し、労働奉仕によって違法に施設の建設を行い、「ラジニーシ(満月の王)の聖なる都」を意味する「ラジニーシプーラム」を作っていった[168][59][34]。シーラは隣接するアンテロープ町の人々に、40人程度の小さな農業コミュニティを作るつもりだと説明していた[74]。
教団のオレゴンへの移転の決定は、牧場が比較的安価だったことと、この場所を選んだシーラが、オレゴン州の人は皆マリファナを吸い、隣人に無頓着で寛容なリベラル派が占めていると勘違いしていたためだと巷で言われているが、ワスコ郡は彼女が想像するほど暢気な場所ではなかった[34]。当初の地元コミュニティの反応は、牧場からの距離によって、敵対的なものから寛容なものまで様々だった[169]。別の調査によると、この開発は間髪入れずに、政府、マスコミ、市民による地元、州、連邦の激しい反対を受けたと報道された[170]。農場がラジニーシ教団によって使われ、教団がメンバーによる百万都市建設を計画していることを知った地域住民や自然保護団体は、反対運動を開始した[171]。教団がこの地に到着して1年の内に、オショー・ラジニーシとその信奉者たちは近隣住民との一連の法廷闘争に突入し、主な争点は土地利用に関するものだった[170]。コミューンの指導者は妥協せず、地元住民への対応では性急な苛立った振る舞いを見せ[172]、意識変容を目指すことを自負して優越的な態度で接した[38]。また要求を通すことに固執し、暗に脅迫したり、直接的に対立するような行動を取っていた[172]。彼らが発表する計画の内容は何度も変更され、真意がどうであれ、多くの人には意図的な誤魔化しに見えた[172]。多くの地元民は、新しくやってきた型破りなコミュニティにかなり寛容であったという報告もあり、ラジニーシプーラムと地元住民の対立が本格化したのは、コミューンの違法な住民の爆発的増加のためではなく、土地の問題と、ラジニーシプーラムの境界外の不動産に対するサニヤシン達の野心のためであった[112]。
アメリカで教団の監督はシーラが行っており、彼女の元で教団はより閉鎖的になっていった[155]。伊藤雅之は、運動は元々緩やかなネットワークだったが、オショー・ラジニーシ自身も閉鎖性・統制性が強まる流れを半ば容認する形で運動が展開し、組織の中央集権化と制度化の流れが進み、確固としたヒエラルキーを持つ宗教組織に変わっていったと述べている[173][36][37]。1981年10月には、ビッグマディ農場はラジニーシプーラム市として法人化された[62]
1981年12月5日に「ラジニーシズム(Rajneeshism)」は組織的な宗教であると宣言され、1983年7月に出版された小冊子『ラジニーシズム : バグワン・シュリ・ラジ二ーシとその宗教の紹介』で彼の教えが経典化され、教団における聖職者の資格とガイドラインが規定された[74][36]。正式な教会構造には3つのカテゴリーの聖職者があり、朝夕にオショー・ラジニーシと教団への帰依を示すガッチャミ(三帰依文)を唱える儀式が行われ、このガッチャミも小冊子に収録されていた[74][36]。ガッチャミの儀式は各国の瞑想センターでも行われた[36]。
教団は、非常に権威主義的で厳しく統制された、階層的で偏執的な組織になった[33][74]。ラジニーシプーラムのメンバーは、永住者、長期滞在者、訪問者に分かれていた[68]。プネーに引き続き非公式の階層構造もあり、永住者は、エリート(オショー・ラジニーシに近い)、技術専門家、「歩兵(単純労働者)」に分けられていた[74]。訪問者は、部分的なインサイダーであるサニヤシン、シーカー(探求者)、アウトサイダー(観光客、侵入者、オレゴンのコミュニティ)という3つのグループがあった[74]。オレゴンのサニヤシン達は各国の瞑想センターを訪ねては、ラジニーシプーラムへの寄付を強く求めるようになった[38]。オレゴン以外の世界中でも運動の中央集権化と標準化が進み、各国で独自に運営されていた瞑想センターを再編して各国に大規模なコミューンを作ることを求めた[38]。日本でも1985年には各地の瞑想センターが閉鎖され、約110人が個人財産を処分して東京に作られたコミューンで暮らし始めた[38]。瞑想センターと直接関わらないサニヤシンも少なくなかったが、「サレンダー(明け渡し)が足りない」と批判され、コミューンに早く入ることを求められ、コミットメントの足りない、運動のヒエラルキーの下位の存在と位置付けられるようになった[38]。このような動きに反発し、世界中で半数近くのメンバーが離脱したと言われる[38]。
コミューンは、4,000人もの住民と15,000人もの訪問者があり、独自のインフラと独自の行政を持ち、警察機構さえも持つ、ほぼ自給自足のコミュニティ組織に発展した[59]。ラジニーシプーラムは「砂漠をオアシスに変える」ことを目指しており、初年度に2,000万ドルから3,000万ドルを費やし、アメリカ史上最大の、最も発達した、最も裕福な宗教共同体の実験の1つとなった[112]。 教団は荒廃したラジニーシプーラムの土地の整備のために、作られて2年ほどで劇的な変化を遂げ、1980年代半ばの絶頂期には、アメリカで最も大きく、最も発展した、最も豊かな宗教共同体、共同体実験の1つとなった[112][35][33]。節水、リサイクル、有機農業のプログラムを実施する非常に進歩的な社会実験として始まり、約2,700エーカーが耕作され、作物、ブドウ園、果樹園、ハーブ園、家畜の飼料が育てられ、鳥や動物も戻り始めた[112][35][33]。ラジニーシプーラムの土地の開発計画には、節水、自給自足、環境に配慮した戦略が盛り込まれていた[112]。サニヤシン達は土地の浸食を食い止めるために何千本もの木を植え、土地の浸食を止め、小川の底を整え、水の流れを緩やかにするために140の砂防堰堤を造った[112]。グルジェフ・ダムは45エーカーのクリシュナムルティ湖を作り、3億5,000万ガロンの水を貯め、地下パイプで近隣の畑に送ることができた[112]。廃棄物の75%は敷地内のリサイクル工場で再利用された[112]。化学肥料の使用を最小限に抑えるために輪作を試み、農薬の必要性を減らすために野菜と花が交互に植えられていた[112]。農場、養鶏場、牧場があり、住民が食べる農産物、牛乳と卵のすべてを生産していた[112]。
インドのアシュラムと同様に、ラジニーシプーラムでは、瞑想コース、食事、宿泊などが有料で提供される一方、若者たちは厳しく階層的に組織され、無給でコミューン建設の奉仕活動を行った[59]。コミューン建設の奉仕活動は「ワーク」「礼拝(worship)」と呼ばれ、アメリカ時代の教団におけるサニヤシンたちの活動の中心となった[174][74]。長期にわたりワークを行った者のみ生活費を受け取る資格があり、サニヤシンにとってワークは生活のための仕事ではなく、瞑想であり、「それ自体が目的」であり、「自分自身と出会う機会」であると見なされていた[59]。ラジニーシプーラムの土地の劇的な成果は、サニヤシンたちの常人離れした献身によるものであり、記者がコミューンのツアーガイドから聞いた話によると、サンニヤシン達は1日12時間から16時間、修行として、遊びとして、進んで働いていた[112]。週6日働き、日曜日だけは休みだったが、その日は会議が行われた[112]。
サニヤシン達は近隣の人々と日常的交流のない孤立した生活を送っていた[68]。生活に必要なものはコミューン内で調達し、彼らは外部との接触を禁止され、手紙や電話は検閲されていたようであり、外部の情報は教団による公式発表だけだった[155]。また、世界的なエイズの影響で、セックスの際には医療用ゴム手袋とコンドームの使用がルール化され、エイズ・テストが行われ、ラジニーシプーラムに来た者は、部外者・未テスト者・テスト済みというリストバンド着用が義務化された[175]。教団にとって自由な性愛というテーマは重要であったと思われ、エイズをこれほど恐れても教団がセックスを捨てることはなかった[176]。
メンバーはラジニーシプーラム以外にも、アシュラム、ベジタリアン・レストラン、ディスコ、および様々な小規模ビジネスを世界中に設立し、これらはすべて、100万ドル規模の組織であるラジニーシ・サービス・インターナショナルとして組織されていた[59]。教団は、アメリカでの活動開始からわずか4年で事業として目覚ましい成功を収め、収益は約1億2千万ドルに上った[35][33]。
ラジニーシプーラム市の警察活動を含む自治体の様々な行政活動は、コーディネーターによって実質的に管理・運営されていた[177]。ラジニーシプーラム市の市長はコミューン事務長、助役・出納長はコミューンの出納係、市議会議員は5名すべてサニヤシンであった[177]。
オショー・ラジニーシは沈黙を続けており、朝6時に起き、1時間半「風呂を楽しみ(enjoying the bathtub)」、仲間の所へ車で出かけ、昼食をとり、また寝て、起きて1時間車を運転し、「何もせず」座り、また風呂に入り、食事をし、秘書と会い、また寝る、というルーティーンを繰り返していた[74]。絶えずビデオを観て、抗不安薬のジアゼパムと亜酸化窒素(笑気ガス)を大量に摂取した[74]。アメリカでは、サニヤシンがオショー・ラジニーシに接見するダルシャンは中断され[178]、「ワーク」を行うサニヤシン達の中には彼に直接接する機会がない事への不満が膨らんでいった[175]。その解消のために、オショー・ラジニーシはロールス・ロイスに乗って、視察の名目でラジニーシプーラム内を一周するようになり、教団はこのために次々ロールス・ロイスを購入し、アメリカ時代にオショー・ラジニーシが所有するロールス・ロイスは90台以上に及んだ[175]。また宝石をちりばめた高級腕時計を何百本も所有していた[74]。サニヤシンが彼に接する機会が全くなくなったことで、1982年からは第1期プネー時代からのメンバーはラジニーシプーラムを去り始めた[175]。
コミューンの活動は注目を集めて新聞やテレビで大きく取り上げられ、世論の反発は激しさを増した。地元住民との対立は激化し、双方の敵意はさらに深まり、その後数年間、ラジニーシプーラムはオレゴン州の住民の様々な連合から絶え間ない組織的圧力を受けた[170][179]。民間の非営利団体1000フレンズ・オブ・オレゴンがすぐに始められ、ラジニーシプーラムの法人化を無効にし建物や改築した設備を撤去させるために、その後6年間に渡って多くの訴訟・行政訴訟を起こした[170][180][179]。1000フレンズは公に、ラジニーシプーラム市を「解体」することを求め、1000フレンズの弁護士は、1000フレンズが勝利した場合、財団は「下水システムを撤去し、多くの建物を取り壊さざるを得なくなる」と述べた[181][172]。
隣町のアンテロープは人口約39人の田舎の村で、主に保守的な高齢者が住んでおり、郵便局、雑貨店とガソリンスタンドが一体となった店と、小学校があるだけだった[74]。1982年3月に一部のサニヤシンがアンテロープ町に移り、教団による乗っ取りを恐れた町民たちは町を廃止してワスコ郡の直轄地にしようと住民投票を行ったが、教団はアメリカ国籍を持つサニヤシン達を正式に住民登録し、すでにサニヤシンたちの数が元々の住民の数を上回っており、乗っ取りを防ぐことはできなかった[182][171]。1982年5月にアンテロープ町をラジニーシプーラム市に編入する決議がなされ[170]、その後の数か月でラジニーシプーラムと地元住民たちの間の対立はエスカレートした[112]。サニヤシン達はアンテロープの住人を「田舎者」や「無知な老人」と公然と非難し、彼らの写真を撮り、町の集会をビデオに撮り、町の境界線を越えた車のナンバーを記録したが、これは嫌がらせだと捉えられていた[112]。土地利用や学校教育等に関する合意形成を試みていたサニヤシン達も、アンテロープの住人との約束を繰り返し破り、サニヤシンが支配する新しい市議会は、地元住民が承認しない都市改善のために年間1,200ドルの税金を課した[112]。こうしてアンテロープの元々の住民のほとんどは町を去ったが、ラジニーシプーラムのスポークスマンは、地元の敵意と住民の逃亡は偏見と宗教的不寛容によるものだと主張した[112]。
サニヤシン達はラジニーシプーラムの土地に様々な名前を付けることで入植者としての権利意識を示したが、アンテロープの町は、放棄されていたラジニーシプーラムとは異なり元々の住人がおり、命名行為は侵略的なものとなった[112]。サンニヤシン達は1984年にアンテロープ市議会を掌握し、多くの元々の住民が去った後、市議会はアンテロープの通りの名前を変更することを決議した[112]。もともと牧場主、インディアンの戦士、材木王にちなんで名付けられていた通りには、教団にとって重要な聖人や賢者の名前が付けられた[112]。そして1984年末までに、サンニヤシン達はアンテロープという町の名前自体をラジニーシに変えた[112]。ラジニーシプーラム市の姉妹都市とし、首長・教育委員長などの要職は次々にサニヤシンたちに変わり、町全体で徹底した「ラジニーシ化」が進められた[182][171]。アンテロープは元々常駐警察もいない、平和な田舎町だったが、教団はサニヤシン達による独自の警察組織を作ってそれを合法化し、機関銃等で武装した[171]。地域の役所はラジニーシプーラム内に移転されたが、信者以外の地域住民がラジニーシプーラムに入る際には、特別な手続きが必要で、不便を強いられた住民は、こうした手続きを非教団員差別と受け止めた[166]。住民はこれらの問題で何度も教団を起訴し、教団は敗訴し続けた[166]。
観光ビザで入国していたサニヤシン達は、滞在し続けるために、アメリカ国籍を持つサニヤシンと偽装結婚するようになった[166]。政府は1982年にはこの問題の調査を始めており、100名ほどに国外退去を命じた[166]。オショー・ラジニーシ自身のビザも短期滞在のためのもので、彼はそれを宗教家としてのビザに切り替えることをアメリカ政府に求めていたが、要求は拒否され、1983年に国外退去が命じられた[166]。しかし、司法分野での経歴を持つサニヤシンが命令の不備を指摘し命令は無効になり、オショー・ラジニーシは引き続きアメリカに滞在することが可能になった[166]。
1984年のラジニーシ教団によるバイオテロ
[編集]教団は司法分野に手を伸ばすことを試み、1984年のワスコ郡の裁判官任命選挙でサニヤシンを裁判官にしようと、投票させるためにアメリカの様々な都市から1000人以上のホームレスを集めてラジニーシプーラムに住まわせたが、選挙管理委員会はこれに対し、移住したホームレスが選挙後もラジニーシプーラムに定住するか確認する面接を行うと発表[39]。すると教団はホームレス達を周辺の町に放り出し、彼らの対処をオレゴン州に丸投げし、その一部は州の費用負担で元いた都市に戻った[183][184]。1982年3月、地元住民は牧場の開発に反対するために「合憲な都市のための市民(Citizens for Constitutional Cities)」と呼ばれるグループを結成し[185]、「『エイリアン(余所者の)カルト」による侵略の脅威を『封じ込め、制御し、排除する』」住民発議(イニシアティブ)の請願が知事に提出された[180]。
オレゴン州議会は、ラジニーシプーラム市の開発を遅らせ差し止めるための法案をいくつか可決し、その中には、法的地位が争われた都市への歳入分配基金の分配を停止する法案 HB 3080 も含まれていた。影響を受けたのはラジニーシプーラム市だけだった[186]。オレゴン州知事のヴィック・アティエは1982年に、近隣住民から厭われているのだから、オレゴンから出て行くべきだと述べた[187]。1982年5月、マーク・ハットフィールド上院議員は ポートランドの移民局に電話し、移民局のメモには、上院議員がこの「カルト宗教」が「小さな農業の町の生活の在り方を危険にさらし、…公共の安全を脅かしている」ことに「非常に懸念している」と書かれていた[188]。
教団内では周囲の社会への反感から、数年以内に破滅的な核戦争や地震が起こるといった終末論が説かれ、戦争に備えるとして、大量のライフルや機関銃が備えられた[189]。また、教団内にスパイがいるのではという疑いも膨らんでいき、信者の会話の盗聴も行われていた[189]。
ニュースが全米で放送され、オレゴン州政府の対応に注目が集まり、しだいに州政府が対応せざるを得ない状況になっていった[190]。アメリカの憲法では、「宗教団体が自治体の形態をとる」ことは認められず、このような自治体に交付税、贈与税の交付を含む財政上の助成や補助を行うことは、納税者にとって信徒でもないのに献金を強要されるに等しく、違憲である[191]。1984年3月、 オレゴン州司法長官のデイビッド・フロンメイヤーは州を代表し、ラジニーシプーラム市及び同市の公務員及び住民等を被告とし、オショー・ラジニーシの宗教的基盤と市の運営の関係がアメリカ合衆国憲法修正第1条の国教樹立の禁止条例、政教分離原則に反しており、ラジニーシプーラム市の設立は無効であるとして訴えた[192][193][194][190]。裁判所は、市の資産は教団の財団によって所有され、管理されていると判断し、州に有利な判決を下した[195]。裁判所は、違反を是正するために必要な「最も侵害の少ない手段」によって違反を是正することを求めるアメリカの憲法上の有力な判例を無視したが、ラジニーシプーラム市は、オショー・ラジニーシの移民訴訟の和解のためにこの判決に同意せざるを得なかった[196]。
教団は地元住民との度重なる裁判沙汰から、教団に有利な判決を出すため、法律改正を目指して政治進出を目論んだ[189]。1984年には、郡庁のあるザ・ダルズのレストランで2回にわたりサルモネラ菌が発見され、住民約750名が食中毒にかかったが(うち45名が入院。ラジニーシ教団によるバイオテロ事件)、後に警察の調査で、教団による選挙妨害計画の一環であったと結論付けられている[155]。オショー=ラジニーシ運動によるこのバイオテロ事件は、近年のアメリカ史上最大の生物兵器による攻撃だと言われる[197]。このテロ事件は、反ラジニーシの有権者が投票に行けなくなるよう一時的に無力化するための、もっと大規模なテロの予行演習だった[34]。サルモネラ菌はラジニーシプーラムに視察に来た郡に委員二人に対しても使用されたという[155]。
彼の宗教者としての立場に関し、政府の圧力が高まったため、オショー・ラジニーシは1984年10月30日に公の場で再び話し始め、最初は少数の弟子たちを前に、その後1985年7月には少し多い聴衆を前に話した[74]。ラジニーシプーラムの支配権は表立って彼に移ったが、州と連邦の当局はシーラ、彼女の取り巻き、他のサニヤシン、そして彼に対する調査を続けた[34]。彼は真の宗教の本質、自由、政治、そしてエイズによって今世紀末までに人類の大部分が死滅する可能性について語った[74]。サニヤシン達に話した内容にはシーラへの批判も含まれていたようである[155]。
1985年、プネー時代から付き従っていた数人の有力な古参のサニヤシンが離反し、当局と話し合いを始めた[34]。1985年9月14日、マ・アナンド・シーラがラジニーシプーラムから逃亡し、翌日には他の10人の高官もそれに続いた[74]。2日後にオショー・ラジニーシは大規模な記者会見を開き、シーラと彼女の仲間を「ファシスト集団」と非難し、「3回の毒殺未遂、ダレス(近くの町)でのサルモネラ食中毒、盗聴、盗聴室、コミューンに5500万ドルの負債を残した財政的虐待」などの一連の犯罪で彼女たちを告発し、地域社会をなだめようとした[74]。FBIが介入し捜査を行い、彼女らがコミューン内外で数々の犯罪、不法行為を行ってきたことが明らかになった[38]。不法行為には、オショー・ラジニーシとその世話人の部屋の盗聴、教団の資産5500万ドルの横領、オショー・ラジニーシの主治医スワミ・デヴァラジ(ジョージ・メレディス)に対するヒ素による殺人未遂、近隣レストランでのサルモネラ菌混入によるバイオテロ、教団に不利な裁判記録を隠滅するための公共施設の放火などが含まれていた[68][41]。彼は9月26日にサニヤシンたちに赤い服と数珠の着用をやめるよう伝え、彼らはすぐにそれに従った[74]。オショー・ラジニーシは全ての責任はシーラにあり、彼女が何をしていたのか知らなかったと主張した[74]。
シーラ達3名の高弟は、殺人未遂、殺人共謀、第一級の強姦(攻撃)容疑がもたれているが、それらはコミューンのサニヤシン達を服従させるために指導者達が行ったと考えられている[42]。シーラは逃亡先の旧西ドイツで、殺人未遂、サルモネラ菌の使用、盗聴、移民法違反の容疑で逮捕され、アメリカで服役した[68][198]。シーラは後に、オショー・ラジニーシを守るためだけに有罪を認めたと語っている[94]。
FBIの捜査の結果、数十人のサニヤシンが郡大陪審の前で証言するよう召喚状を受け取り、彼も1985年10月6日に召喚状を受け取った[34]。彼の逮捕状が準備されているという噂もあった[34]。シーラが去った後にインタビュー等で教団の活動の責任はシーラにあると主張したが、それでアメリカ政府の追及から逃れることはできず、彼は逮捕を予測して1985年10月に、インド脱出時と同じく1000人以上いたサニヤシン達には何も告げずに、側近12名と共に小型ジェット機2機で南に向かった[199]。バミューダ島に向かう途中、10月28日に燃料補給に立ち寄ったノース・カロライナ州の空港でFBIがオショー・ラジニーシを逮捕し、逮捕時に一行は6万ドルほどの現金と100万ドル相当の宝石、拳銃を所持していた[199]。彼はオレゴン州に連行され、そこで弁護士が保釈金を支払いラジニーシプーラムに戻った[52]。
アメリカ政府は彼を確実に国外に追い出すことを望んでいたため、逮捕後に起訴された容疑は認めないが有罪を認める答弁を行う司法取引アルフォード・プリーが行われ[43][200][201][6][46][199]、オショー・ラジニーシはシーラに問われた殺人未遂等の容疑との関係を問われることなく、告訴されていた34の罪状のうち移民管理局への偽証に関する2つの罪(移民法違反と偽装結婚教唆)を認めること、今後5年間アメリカに入国しないことを条件に、罰金40万ドルの判決と国外退去命令を受け、11月14日に出国した[202][198]。オショー・ラジニーシの弁護士は、判決を受け入れる選択を取ったのは、偽装結婚教唆の無罪を証明しようとすれば、法的な手続きが長引いてオショー・ラジニーシの生命と健康は脅かされるため、一部の罪状を認めて国外退去になったほうが良いと考えたためだと主張している[関係者 3][要ページ番号]。教団の上層部20名以上が逮捕され、ラジニーシプーラムは閉鎖された[203]。宗教者としての彼のキャリアで最もネガティブな時であり、これは運動の崩壊や彼の指導者としての立場の喪失につながる可能性もあったが、ほとんどのサニヤシンはラジニーシプーラムを破滅に導いたのはシーラだと考え、誤った搾取的なやり方で彼と運動を脅かしたと非難した。
世界放浪と第2期プネー 1985年 – 1990年
[編集]アメリカから国外追放され、インドにすぐに戻ったが、インドではアシュラムの過去の財務状況についてさらなる調査が行われる可能性が高く、彼は短期間ネパールに移り、その後1986年1月から世界を放浪した[74]。新しい拠点を求めたが、世界各国の政府から危険人物と見なされ、1986年7月にインドに戻るまでに21ヶ国で入国または長期滞在を拒否され、世界中を転々とした[204][74]。教団はこの放浪を「ワールドツアー」と呼んでいる[204]。滞在を試みたすべての国から締め出され、オショー・ラジニーシはギリシャで警察に捕らえられ、国外追放された[30]。カナダと西ドイツへの入国も拒否された[30]。長期滞在を許可したのはウルグアイだけだったが、ウルグアイは「いかなる人物、国家、宗教をも批判しないこと」「弟子と合流しないこと」を滞在の条件とした[204]。ネパールとウルグアイには短期間滞在しただけで、最終的に「空港の拘置所で6か月間待機し、深夜に(ギリシャと同様に)警察の強制捜査を受けた後、バグワンはインドに帰国した。」[30]
1985年11月にオショー・ラジニーシは、世界は「怪物アメリカを正しい立ち位置に戻す」必要があると宣言し、「アメリカを黙らせなければ、アメリカが世界を滅ぼすだろう」と述べた[30]。その1年以内に、オレゴンの実験はアメリカだけでなく全世界に広がる、はるかに大規模で壮大な事業の始まりに過ぎないと発表し、世界の命運は自分たちが作るこの新しい共同体運動にかかっていると説いた[30]。クレタ島に短期間滞在した際には、「レーガンとの公の対決」の準備ができていると宣言し、その後、自分と信奉者たちは「5年後にアメリカで共同体を立ち上げるが、それは砂漠ではなくワシントンになるだろう」と予言した[30]。彼の意見では、彼が率いるコミュニティは、アメリカの個人主義と自由の理想、ソ連の秩序と共同体の結束の理想を組み合わせた、レーガン主義と共産主義の中間の道であり、1980年代の冷戦の二元論に代わる完全な選択肢であった[30]。レーガン大統領と公の場で対決するという彼の計画が実現することはなかった[30]。
最終的に、運動の代表者がインド政府と交渉し、プネーに再び定住することができた[34]。1986年7月にインドのムンバイに移り、1987年1月にプネーに戻り[205]、プネーが再びに運動の本拠地になった[206]。彼は古いアシュラムに戻った後、心臓病と糖尿病で衰弱していき、日常の業務と連絡は主治医のアムリト(主治医のジョージ・メレディス、旧サニヤシン名スワミ・デヴァラジ)が行った[62]。プネーへの移転は、教団にとって特別な場所への移転であり、これ以降に、名称の変更(バグワン・シュリ・ラジニーシからオショーへ、ラジニーシ運動からオショー運動へ)、リーダーシップ構造の再編成(「インナーサークル」の設立)、新しい実践と運動の展開のために教義を再構築することを成し遂げ、運動は自己変革に成功した[34]。インドでは、初期のように実践 (瞑想、ワーク、ヨーロッパ人だけが参加するグループ・セラピー) を再び重視し、運動の成功を再定義した[74]。サニヤシンたちは以前のような運動の緩やかなネットワークを重視し、教団が主導する組織的な動きを警戒するようになった[51]。
彼はインドに帰国以降、サニヤシン達に対し、自らが「友人」であり一宗教のリーダーではないと繰り返すようになった[51]。プネー移転後の3年間ほぼ毎日の講話を行い、年間約1万人がアシュラムを訪れた[207]。1987年以降の講話のテーマはすべて禅語録から取られ、その影響か、この時期は日本人の訪問者が増加している[207]。宗教学者のマリオン・S・ゴールドマンは、オショー・ラジニーシと信奉者たちは、アメリカでの大失敗の原因はマ・アナンド・シーラとそのグループだとすることで変革を進め、この運動を、個人の成長と現世で達成感を得るための瞑想的アプローチをすべての人に提供する運動として位置付け直したと述べている[34]。少数のメンバーの多額の献金と他の何百人もの信奉者たちの献身で資金ができると、アシュラムを瞑想リゾートに作り変え、運動は回復し始めた[34]。インドでリメイクされた「オショー運動」は、多くの点で以前よりも人気を博し、プネーのセンターは、活気がありながらも素朴なアシュラムから、5つ星ホテル風高級国際リゾートへと変貌し、年配のサニヤシンたちはアシュラムを離れ、世界の他の地域へと出て行った[30]。
1987年1月に、オショー・ラジニーシはサニヤシンであることが一目わかる赤・オレンジ系統の衣装を廃止し、政治権力による弾圧から弟子たちを守るためだと述べている[本人 3][要ページ番号]。
1988年初頭にはすでに、何千人もの人々がワークショップに参加するためにプネーに来訪、再訪し、アシュラムは新しい世界中の利用者を収容するために、大規模で洗練された施設へと急速に拡張された[30]。1988年7月に、オショー・ラジニーシはこの14年で初めて、夕方の講話の終わりに自ら瞑想を指導するようになり、「ミスティック・ローズ」という新しい瞑想テクニックを導入し[関係者 4]、同年5月には、無意味な音をただしゃべるジベリッシュと沈黙からなる新しい瞑想法「ノー・マインド」を導入した[本人 3]。日本では1988年に、 Osho サクシン瞑想センターが設立されている[4]。
1988年にオショー・ラジニーシは著作『Jesus Crucified Again: This Time in Ronald Reagan’s America(イエスは再び十字架に架けられた:今度はロナルド・レーガンのアメリカで)』を出版し、アメリカに拘束されている間にタリウムを盛られた証拠を明らかにしたと主張し、「世界最強の国の政府が、一人の人間を恐れ、その人間を黙らせるために文字通り手段を選ばないほどだったのか」と驚いて見せた[30]。この時期の他の著作でも、毒を盛られ、それはレーガン政権の司法長官エドウィン・ミースの策略で、ミースの目的はコミューンを破壊することだったと主張し、アメリカ追放後に健康状態が著しく悪化したことが毒を盛られた証拠だとした[30]。彼はアメリカ政府がラジニーシプーラムを崩壊させるためだけに自分を逮捕したのだと繰り返し、彼が語る逮捕の「真相」や毒殺未遂という刑務所での「真相」を、ほとんどの信奉者は真実としてそのまま受け入れた[208]。
1989年1月に、バグワンという称号は人間の性器を指す非常に醜い言葉だと拒否し、「冗談は終わった」と宣言してバグワンという称号をやめ、同じ講話で「私の体はゴータマ・ブッダ(釈迦)の乗り物となった」と主張した[51][30][74]。教団によると、1989年2月から再び病気になった[official 3]。ゴータマ・ザ・ブッダ(釈迦)を名乗り(これは外部から猛烈な反感を買った[34])、自分はマイトレーヤ(弥勒菩薩)であると言い、シュリ・ラジニーシ・ゾルバ・ザ・ブッダとも名乗り、1989年2月にオショー・ラジニーシを名乗った[30]。和尚とは、日本の禅仏教の師に対する尊称である[74]。12月30日に自分は仏陀ではあるが歴史上の仏陀ではないと発表し、彼が仏陀でありマイトレーヤ(弥勒菩薩)であることは、「日本の非常に有名な予言者であり預言者」の石田かつ江によって確認されたといい、『No Mind: The Flowers of Eternity』という本を「大いなる愛と祝福を込めて」彼女に捧げた[74][30]。
コミュニティのリーダーシップにも重要な変化があり、オショー・ラジニーシは1989年に21人の弟子からなる「インナーサークル」と呼ばれる委員会を設立し、彼らが運営の実務を担った[30]。インナーサークルのメンバーの数人がリーダーとして頭角を現し、議長のジェイエシュ(マイケル・オバーン)、副議長のアムリト(主治医のジョージ・メレディス、旧名スワミ・デヴァラジ)、書記のアナンドが権力の大部分を握った[34][30]。彼らはより差別化された組織構造を作り上げ、ニューヨークとチューリッヒに法人を設立し、オショー・ラジニーシの著作を出版、配布した[62]。
1989年2月29日に弟子たちは彼をオショー(和尚、Osho)と呼ぶことに決め[74]、しばらくの間はオショー・ラジニーシ(和尚ラジニーシ)として知られた[本人 3]。
1989年6月と7月に、独自のコースとワークショップを備えた学校「マルチバーシティ(マンモス大学)」を設立し、マルチバーシティには「Osho神秘スクール」、「Oshoアカデミー・オブ・クリエイティブ・アーツ」、「Oshoインターナショナル・アカデミー・オブ・ヒーリング・アーツ」、「Oshoセンター・フォー・トランスフォーメーション」、「Oshoスクール・フォー・センタリング」、「Osho スクール・オブ・禅・マーシャルアーツ」、「Oshoファカルティ・フォー・リベレーション」が含まれていた[30]。提供されるコースは多岐にわたり、古代チベット僧の脈拍療法、前世催眠トレーニング、視力改善、錬金術催眠療法、タントラのトレーニングまで、世界中のあらゆる場所・あらゆる時代に由来するとされるテクニックやアイデアが含まれていた[30]。「Oshoスクール・オブ・ミュージック」では、彼のメソッドと様々な音楽の伝統を組み合わせたワークショップを提供した[30]。
1990年1月2週目に入ると肉体的に衰弱し[関係者 4]、1月19日には脈が不規則になった[関係者 4]。医師が心臓蘇生術を準備するべきか尋ねると、オショー・ラジニーシは「いや、ただ私を逝かせてほしい。存在がその時期を決める」と答えたとされ[関係者 4]、その後59歳で死去した[209]。遺体はオショー・ラジニーシの「旅立ち(死)」を「祝う」サニヤシンたちに送られ茶毘に付された。伊藤雅之は、死因を心臓発作と述べている[209]。サニヤシンたちは、彼はアメリカの刑務所に収監されていた間に受けた放射能中毒に苦しんでいたと主張し[74]、教団は、彼の死はアメリカ政府が拘留中に食べ物に遅効性の毒を盛ったせいだと主張しているが、遺体はその日のうちに荼毘に付されており真偽は確認されていない[210]。
コンテンツ
[編集]オショー・ラジニーシは瞑想の分野で今も世界中で知られ、未だに出版されており、書籍には社会的、政治的な論評も含まれる[60]。彼の本のほとんどは講話の録音を別の者が書き起こした講話録で[211]、講話の多くはサニヤシンたちが彼に質問するという内容である[94]。650冊以上の書籍が彼の作品とされ[212]、講話録は世界中30か国語以上で翻訳出版されている[213]。人間という存在の様々な側面に関する彼の見解が示されている[211]。
プネーの組織は長期にわたる訴訟に敗訴し、アメリカで「Osho」という商標は取り消されたが(後述)、彼の講話や瞑想ガイドをまとめた何千もの本の著作権は、スイスのチューリッヒにあるOSHOインターナショナル財団が依然として所有している(同財団はプネーのOSHOインターナショナル・メディテーション・リゾートと提携している)[34]。教団の収入のほとんどは出版物によるものである[62]。
呼称の変遷
[編集]本名は、教団から出版された本ではラジニーシ・チャンドラ・モハン(モーハン・チャンドラ・ラジニーシ)とされているが、正しくはモーハン・チャンドラ・ジャインである[本人 3][214][74]。「ジャイン」はジャイナ教の「ジャイナ」の現代インド語読みでジャイナ教徒の姓、「モーハン」は「魅力的な」といった意味で、これが彼の名前、「チャンドラ」はミドルネームで「月」という意味で、インドの慣習では父親の名前である[214]。「モーハン」も「チャンドラ」も、インドで一般的な名前であるが、子供時代のあだ名で「夜の夫」すなわち「月」を意味する「ラジニーシ」は、現代インドでは一般的な名前ではない[214]。
活動を始めた当初はアーチャリヤ・ラジニーシ(ラジニーシ先生)と呼ばれていた。「アーチャリヤ」は、彼の生家の宗教であるジャイナ教の伝統では、生徒に知恵を伝える教師であり、インド中で講演し信奉者を集めた時期に使われていた[94]。
1971年に名前を変え、「バグワン」を新しい称号として選び、バグワン・シュリ・ラジニーシ(Bhagwan Shree Rajneesh)を名乗り、15年間この名前を使用した[106][69]。バグワン(Bhagwan)はサンスクリット語の「bhagavat」[† 8]に由来し、「神聖な、栄光ある、尊敬すべき、神の」という意味で、神の伝統的な名前でもある[69]。神や釈迦の尊称であり、ヒンドゥー教では特に創造神ヴィシュヌを意味し、神や化身(アヴァターラ)を意味する言葉としても用いられる[103][217]。バグワンは、インドや南アジアの多くの地域では、霊的であり宗教的だが特定の神を崇拝しないヒンドゥー教徒にとっては、普遍的な神という抽象的な概念を意味している[217]。インドの伝統では、神性が顕在化している人間に対する尊敬の言葉として用いられ[218]、新宗教運動の研究者のスーザン・J・パーマーとデーヴィド・G・ブロムリーは、バグワンという称号の意味を「神の純粋な本質である祝福された者または自己実現者」と説明している[78]。
「シュリ」は本質的には敬称であり、文字通り「光」や「輝き」を意味するが、高い地位、権力、威厳、または吉兆を意味する[69]。
彼は後に、この新しい称号の採用は、キリスト教徒、イスラム教徒、ヒンドゥー教徒といった既存宗教の信者達を挑発するためだと述べている[69]。神の伝統的な名前を名乗ることで、その意味を根本的に変えると同時に、実のところ私たちは皆すでに祝福された者であり、「神々」であることを示唆した[69]。また、生徒に教える教師という自身の役割を終わりにし、周囲に集まる人間を知識を求める人々から求道者へと入れ替える目的があり、それはうまくいったとも語っている[関係者 5]。
アメリカのオレゴンのコミューンの崩壊をきっかけに、様々な称号を試していった[30]。1989年1月に「バグワン」は世間に長きにわたり広まった冗談だったと説明してこの称号をやめ[59][51][30]、一時的にゴータマ・ザ・ブッダを名乗り(ブッダという名前は外部から猛烈な反感を買った[34])、1986年11月のラジニーシ新聞で「私のメッセージとゴータマ・ブッダのメッセージは非常に似ているため、彼は私の乗り物であったとも言えるし、私が彼の乗り物であるとも言える」と語ったが、その直後に自分はゴータマ・ブッダ自身ではなく、ブッダが将来(宇宙の終わり)にやってくると予言した彼の代表マイトレーヤ(弥勒菩薩)であり、自分はブッダの「友人」と呼ばれるべきだと説明した[30]。シュリ・ラジニーシ・ゾルバ・ザ・ブッダとも名乗り、1989年2月にオショー・ラジニーシを名乗り、その後1989年9月には単にオショー(和尚、Osho)という称号を名乗った[30][51]。(しばらくの間は オショー・ラジニーシ(和尚ラジニーシ)として知られた[本人 3])。
オショー・ラジニーシのほぼすべてが論争を巻き起こしたが、オショーという名前も同様であった[34]。オショーが選ばれた理由として宗教学者の伊藤雅之は、日本語の「和尚」から取られたとしている[51]。教団は、オショーには「天から花を降らせる祝福された者」という意味もあると述べている[34]。日本語に由来し、意識を拡大する者への深い感謝と尊敬を暗示していると書いている者もいる[34]。広く解釈すれば、瞑想の尊敬される教師という意味にもなり得る[34]。アメリカの宗教学の教授ヒュー・B・アーバンは、オショーが選ばれた理由として、第一に禅宗の僧侶の伝統的な称号であり、この時期の講話のほとんどを(彼の因習打破の教えに最も近い、相似の教えであったとも言える)禅に捧げていたこと、第二に、オショーという名前は「大洋のような感覚」と共鳴しており、これは神秘主義者が涅槃または無限への融解の体験を説明する際にも、フロイト主義者が子宮内の胎児の初期の状態を説明する際にも使われるフレーズであることを上げ、第三に、オショー・ラジニーシのコミュニティの法的な声明に基づくと、美的、商業的、マーケティング的な価値も考慮して選ばれたと考えざるを得ないと述べている[30]。OSHOインターナショナル財団は、商標および著作権に関するウェブサイトのページで、名称の変更は、マスター[† 9])と、マスターに関連するすべての作品、財産、方法、および商品の「ブランド再構築(rebranding)」であるとはっきり述べている[30]。宗教学者のマリオン・S・ゴールドマンも、Oshoへの名称変更は、運動のブランド再構築と、以前の困難からうまく距離を取る戦略の一環だったと述べている[34]。
オショーという称号は今日、彼の人生の全ての時期に、当時使われていないという時代錯誤を無視して用いられている[74]。学者のほとんどは、生前公的・法的に使われた名前(Legal name)である「ラジニーシ」と呼んでいる[94]。
思想と活動
[編集]人間の究極的な目的は「悟り(enlightenment、光明)を得ること」で、真理の探究が第一の優先事項だとされた[220][本人 4]。個々人の選択がその哲学の本質にあったが、覚者(悟りを開いた人)であるマスター(サッドグルまたは単にグル)は真剣な求道者が自身の本質を発見するよう助けることができるとしており[74]、悟りの究極の自由に至るには、マスターである彼の教えに身を委ねる「明け渡し(サレンダー)」で自我(エゴ)を消滅させることが必要とされた[61][52]。(オショー・ラジニーシの死(1990年)の後の変革後は、「明け渡し」ではなく瞑想が悟りへの架け橋として定義され、瞑想に身を委ねることで自我が消滅するとされた[61][52]。)
その教えは講話を通じて伝えられたが、学術的なものではなく、ジョークを交えて語られた[221][222]。彼は覚者の伝統的なイメージとかけ離れた行動をとることを楽しみ、特に初期の講義はユーモアがあり、どんな事もシリアスに扱わないことで知られた[223][224]。こうした振る舞いは、いかに気まぐれに見え受け入れがたいものであっても、人々を「(知的・理性的な)心(マインド)の超越」へと導く「変容のテクニック」であると説明された[223]。彼は体系だった教義を打ち立てることに関心があったわけではなく、自身のメッセージを「ある種の錬金術、変容の科学」と考えていた[59]。その変容は、タントラの技法の助けを借りて到達するもので、自我と批判的思考の解体を目的としており、それは物事を「あるがままに」完全に受け入れることであり、絶対的な献身・専心である[59]。個人の自我の放棄、個人の物質的自己と霊的自己の統合というテーマは、彼の哲学で最も重要なもので、その矛盾を含む語りの中で、驚くほど明確で一貫している[52]。ヒュー・B・アーバンは、オショー・ラジニーシの哲学は因習を打破しようとするもので、折衷的でしばしば矛盾して見えるが、その核心にあるのは「ゾルバ・ザ・ブッダ」の理想であると述べている[225]。「ゾルバ・ザ・ブッダ」は、、『その男ゾルバ』の主人公のギリシャ人ゾルバの物質主義と、仏陀の霊性が融合しており、官能とこの世の享楽を、この世ならぬ超越と結びつけることができる、完全に統合された人間とされる[226]。オショー・ラジニーシは、他の宗教が物質的なものと霊的なものを分離しようとするのに対し、完全に悟りを開いた存在は、ゾルバの感覚的な享受と生への欲望と、仏陀のスピリチュアリティと超越的な洞察力とを併せ持つと主張した[225]。彼が説いた新しい理想の人間像は、世俗的なものと神聖なもの、科学的なものと神秘的なものを統合し、物質と魂の両方を全面的に支持する人間というもので、禅、タントラの伝統、繁栄(経済的成功)のスピリチュアリティが融合しており、そのビジョンは恵まれた立場の多くのアメリカ人を魅了した[61]。
1970年アーチャリヤ・ラジニーシだったときに書いた十戒があり、彼はいかなる種類の戒律にも反対していたため、これを書くのは困難だったと述べているが、それは次のようなものである[52]。マリオン・S・ゴールドマンは、これらの戒律は、30年以上に渡り運動の基盤となってきた不変の教義であると述べている[52]。彼の元の手紙では、3、7、9、10番下線が引かれている[52][52]。
- Never obey anyone's command unless it is coming from within you also.(自分の内側から発せられたものでない限り、誰の命令にも決して従ってはならない。)
- There is no God other than life itself.(生命そのもの以外に神は存在しない。)
- Truth is within you, do not search for it elsewhere.(真理は自分の中にある、他で探してはならない。)
- Love is prayer.(愛とは祈りである。)
- To become a nothingness is the door to truth. Nothingness itself is the means, the goal and attainment.(無になることは真理への扉である。無そのものが手段であり、目標であり、達成である。)
- Life is now and here.(人生は今ここにある。)
- Live wakefully.(目覚めて生きよ。)
- Do not swim—float.(泳ぐな、浮かべ。)
- Die each moment so that you can be new each moment.(毎瞬新しくなれるように、毎瞬死なねばならない。)
- Do not search. That which is, is. Stop and see.(探してはならない。あるものはある。立ち止まって見よ。)[52]
—アーチャリヤ・ラジニーシ
彼は観念よりも経験を優先し、世界は対立物のダイナミックな相互関係と矛盾を具現していると信じていた[78]。全ての人間は生まれながらに神聖(divine)であり、本質的に悟りの能力を持つ仏陀(目覚めた人)であるが、人間は自分が仏陀であることを理解していない[78][69]。問題の原因は、生き残るのための機構である心(マインド)であり、人間は心を使って生存戦略を練る過程で、真の本質や真正の自己を表現することをやめてしまう[78]。その結果、人間は反応的で道具的な存在として生き、この生存戦略の一環として本当の感情を抑圧することになり、自ら作り上げた抑圧的で腐敗した制度に囚われてしまっているのだという[78]。人間は仏陀である自らを見失い、社会や宗教、教育による抑圧で狂っているため、揺さぶり、衝撃を与え、狂的なテクニックで狂気を浄化する必要があると考えた[69]。本来の在り方から疎外された現代人は、限界経験によってその窮屈な自我から解放され、全てが一つになった状態で悟りに達することができるとしており、そのために様々なグループ・セラピーや瞑想法が提供された[59][178]。東洋の伝統だけでなく、ポスト・フロイト派の精神分析家ヴィルヘルム・ライヒ等、西洋の思想・セラピーも幅広く取り入れており[227][91](詳細は#影響を受けた思想・人物、類似性の分析を参照)、彼の教えは有力な西洋の教えによってフィルタリングされている[74]。特に性と死への恐怖を克服する必要があるとされ、グループ・セラピーでは、性と死の領域を受け入れ超越する試みの一環として、自由な性愛、侵害行為、暴力の経験が実施されていた[59]。エイズが流行して初めて、適切な防護策が重視されるようになり、自由な性愛の実践の重要性は徐々に低下した[59]。
1970年に行われた一連のヒンディー語の講話(『In Search of the Miraculous(奇跡を求めて)』)には、彼の講話全体の核となる基本テーマが見られ、それは「神とは人格(person)ではなくエネルギーである」「神とは存在そのものである」というものである[74]。彼が言うエネルギーは、宇宙や人間の身体を含むあらゆるものに満ちており、神聖であると同時に「ごく当たり前のもの 」でもあるという[74]。マインドフルネスを通してこのエネルギーへの意識を高め、自我と俗世の知識(慣習的な社会的行動のルールを含む)を克服することで、自分という存在のクオリティを変えることができるという[74]。また初期の講話では、クンダリニー、シャクティーパット(霊的エネルギーの授与)、チャクラ、5つのコーシャといった概念が強調されている[74]。
思想としては、多くの近現代インドの聖者と同様に一元論的な性格が強い[130]。何を悟るのかについてまとまった考えは示されていないが、足沢一成は、彼の「悟り」の構造はヒンドゥー教のアドヴァイタ・ヴェーダーンタ(不二一元論)と同じであり、その教えを総合的に見ると、「(仏陀の悟りのように)何らかの真理を知ることではなく、セックスにより個と個に一体感が生じるように『全体』である『エネルギー』が個に流れ込む状態そのものを経験することと言えるであろう。」と述べている[228]。社会学者のルイス・F・カーターも彼の思想がアドヴァイタ・ヴェーダーンタに基づくと見ており、そこでは、分離し、二元的で、一時的なものに過ぎない人間の経験は、すべてが神聖で絶対的な価値を持ち、それ自体が終着点である宇宙意識(cosmic consciousness)のダンスや遊びの一種であると考えられている[229]。ただし、アドヴァイタ・ヴェーダーンタのように、この世を幻想(マーヤー)と拒絶することはなく、肯定した[74]。彼の教えは、中世インドに始まる「伝統に反対する伝統」であり、無属性・無形の至高神あるいは究極的な真実在とグルへの強い信仰を中心とするバクティの一種ニルグナ・バクティであるという見方もある[74][230]。
数多くの神秘主義文献の解釈を通じて、(一時的なものではない)永続的な悟りの重要な提唱者となったが、一方、努力や修行の段階を経ずに突然訪れる悟りを高く評価しており、「悟り(enlightenment)は段階的なものだという伝統があるが、その伝統は実のところ真実ではない。それは人間の心(マインド)に対する哀れみから来た半面の真実にすぎない。悟りは突然であり、それ以外にはあり得ない」と述べている[231]。(1990年代には、こうした努力のいらない突然の悟りという概念が流行した[231]。)
600冊近く出版された著書の中で(そのほとんどは彼の講話やイニシエーション・トークの記録)、ほとんどすべての主要な宗教的・哲学的伝統について論じており、それらは禅宗を主として混ざり合い、人生のあらゆる面を十分に楽しむようにという激励がスパイスとなっていた[61]。ジャイナ教、ヒンドゥー教、カビール、バクティ詩人、タントリズム、ハシディズム、道教、シク教、イスラム教のスーフィズム、キリスト教の福音書、グノーシス派のトマスによる福音書、古代ギリシャの哲学者ヘラクレイトス、キリスト教神秘思想家のディオニュシウス・アレオパギタやハリール・ジブラーン、大乗仏教、禅宗の師、神智学のメイベル・コリンズ、グルジエフ、マルティン・ブーバー、ニーチェ、マルクスやフロイト、企業家のヘンリー・フォード等の多様な伝統や東洋と西洋の様々な神秘主義者・哲学者等の教えを引用し、ヨーガや禅の伝統、ウパニシャッドやグル・グラント・サーヒブなどの聖典について語った[227][59][74][52]。彼の講話の内容は厳密なものではなく、学術的な発表ではなかった[74]。若い頃に学んだ「彼らの談話を使い、彼らの言語を使い、彼らの聖典を使う」という原則を、自分のメッセージを伝える手段として用いていた[74]。セックスというテーマが運動の普及の媒介になった[94]。講話で強調されるポイントは一定ではなく、時とともに変化し、パラドックスや逆説を大いに楽しんでいたため、全体的な内容を要約することは難しい[232]。講話で取り上げられる様々な宗教はそれぞれ独自の体系をもつため、題材が巧みに移り変わる彼の講話は、全体としてみると矛盾しており、講話ごとに彼の教えは異なるという印象を与える[233]。彼自身こうした面に自覚的であり、悟りは語ることができないもので、宗教は隠喩によってのみ表現されうるため、講話を文字通りに受け取ると矛盾が生じると説明している[233]。1970年代・1980年代には、彼とのつながりを保ち、究極の師として受け入れる弟子である限り、講話のどの部分を受け入れ、拒否するかは個人次第だった(現在では首尾一貫した瞑想がより重視されており、師弟関係の重要性は薄まっている)。
ヒンドゥー教の分派ともいえるジャイナ教徒として生まれ、自身の背景の多くを否定したが、ジャイナ教の影響がはっきり見られる[117][74]。インドという土地の神聖さを信じていると公言していたが、これは正統派ヒンドゥー教徒の人々の見解と同じ考えであり、彼の思想としては珍しい[112]。マハトマ・ガンディー等のヒンドゥー教の政治指導者を軽蔑し、仏陀やキリスト等の古の偉大な宗教指導者を称賛していたが、サニヤス、ダルシャン、アシュラムなどのヒンドゥー教用語を使用しており、これが彼の語りに秩序を与えている[117]。
反社会主義・グローバル経済支持
[編集]オショー・ラジニーシは高校時代に社会主義に深く興味を持っていたが、その後、経済システムとしての社会主義に次第に幻滅していった[91]。1960年代後半までに彼の社会主義に対する疑念は、その知的基盤と、現代インドにおける社会的・経済的・倫理的影響に対する非常に厳しい批判に発展した[91]。著書『Beware of Socialism !(社会主義に用心せよ!)』 (1978年)では包括的な社会主義批判が行われたが、1960年代後半から死去するまでの彼の講話全体に同様の見解が見られる[91]。彼は社会主義を主に、貧しい持たざる者たちが、苦労して自らの力で豊かになった裕福で勤勉な人間に対して抱く嫉妬に基づくイデオロギーとみなし、非難した[91]。
オショー・ラジニーシは、社会主義は富を貧困者に分配するという「不自然な」試みに基づいているが、資本主義は、干渉的な国家や無能な官僚の介入なしに資本が成長する、社会主義よりはるかに「自然な」イデオロギーであると考え、経済成長の妨げは政府であり、政治家は経済成長の邪魔をする無能な「愚か者」の集まりに過ぎないと批判した。彼にとって、資本主義は自由に関するものであり、「資本主義は、あらゆる種類の人々に、人生のあらゆる過程において、成長し自分らしくあるための完全な自由を与える人道的なシステムである。…資本主義の終焉の鐘は、結局は人間自身の終焉の鐘となるかもしれない。」と語り、ロックフェラー家のような成功した資本家が残りの民衆に富を分配することで、真に公平で永続的な「社会主義」社会が創造されるとした[91]。彼はインドにおけるアメリカ式資本主義の初期の提唱者であり、マハトマ・ガンディーの禁欲主義、質素さ、国家主義を否定し、「私にとって、アドルフ・ヒトラーはマハトマ・ガンディーほど危険ではない。アドルフ・ヒトラーはマハトマ・ガンディーほど暴力的ではない。」と語り、グローバル資本主義、物質主義、繁栄を支持する、一種の「反ガンディー」として活動した[91]。
彼は同時代の他の国際的なグルにように、ヒンドゥー・ナショナリズムを主張したことは一度もなく、国際資本主義を信奉し、近代技術と西洋資本主義と共に、性欲と肉体的快楽を受け入れる、新しい種類の官能的なスピリチュアリティを主張した[91]。
自我と心
[編集]オショー・ラジニーシは、人間の究極的な目的である光明(悟り)を得た状態、「本来の自分」とは、人々の「真の個性」が全面的に開花し、自己が宇宙全体と一体化した意識状態であり、虚りの実存である人間の自我(ego)が最大の障害になるとする[220]。自我は教育、社会的条件づけ、社会化によって強まっていくと考え、親の教育や学校教育、道徳的、宗教的な教えなど全ての教育は、特定の信念体系や社会的役割を教え込み、人間を鋳型に嵌め込んでしまうと考えて、既存の教育全てを激しく批判した[220]。
また、特に組織宗教やその指導者を激しく批判した[220]。批判のポイントは、従来の組織宗教の多くが彼岸(あの世、死後)での目的達成を掲げているため、生きることを全体的に享受しスピリチュアルな成長の機会とすることが妨げられること、オショー・ラジニーシは性的エネルギーを本来自己変容の機会であるとみなしているが、彼らはそれを否定し性をタブー化していること、権威主義的な宗教組織の制度が本来内なる体験から見いだされる宗教的エッセンスを見失わせることである[220]。
オショー・ラジニーシは、固定された永続的な自己やアイデンティティという考え自体に異議を唱え、絶えず移り変わるアイデンティティという逆説的な理想を掲げた[69]。固まった考え方、正統性、そして何より宗教的教義に抵抗し、常に流動する「流動的な人間」である「新しい人間」の誕生を呼びかけた[69]。光明(悟り)を得る妨げとなる自我を落とすためには、「いかなる価値判断もせずに自己の信念や思想、感情のパターンを見守り続けていくこと」が必要だとし、「過去や未来に煩わされることなく『いま、ここ』で覚醒する」ことを強調している[234]。ニューエイジでは理性より感性が重視され、理性的な議論を積極的に行わない[235]。サニヤシン達も同様に、理性重視の「マインド」という言葉をしばしば否定的に用いる[236]。
また彼自体が、流動的で移り変わりやすく、時に矛盾した人物であり、その時々、それぞれの聴衆に合わせた複数のアイデンティティがあるかのように見え、伝記を再構成する上での難しさとなっている[69]。初期の弟子たちは彼のことを、狂人、救済者、詐欺師、聖人の、移り気な混合体として表現した[34]。
ハノーバー医科大学のトルステン・パッシー医学博士によると、オショー・ラジニーシのコミュニティでは、幻覚剤の一種MDMA(通称エクスタシー)が、「社会規範の束縛からの解放」の手段として、また自己啓発の触媒として使われていた[237]。
揺さぶり、衝撃による目覚めの促進
[編集]真の「師」とは、弟子をいい気持ちにさせたり、すべての答えを与えたりする人ではなく、むしろ、混乱させ、自問自答させ、激しい内面の葛藤を引き起こす人物だと語り、人間はみな本質的に霊的であり、仏陀でさえあると繰り返し説き、「仏陀の仕事とは何か?私たちを揺さぶることだ。私たちが意識のある生活だと勘違いしている昏迷の状態から、私たちの本性である悟りの意識への、突如とした恍惚の気づきへと、私たちに衝撃を与えることだ。」と語った[69]。人間は狂っているのだから、狂的なテクニックだけが、その平凡で快適な生活を揺さぶり、狂気の浄化を助けることができるとされた[69]。
瞑想とセラピー
[編集]瞑想を単なる修行としてではなく、全ての瞬間に維持すべき意識状態、信念と期待によって条件付けられた機械的な反応の眠りから人間を目覚めさせる完全な気づき(アウェアネス)として提示した[238][239]。彼は心理的・感情的パターンへの気づきのために、瞑想の準備段階として西洋の心理療法を採用した[240]。オショー=ラジニーシ運動における瞑想やグループ・セラピー(集団心理療法)の目的は、他のニューエイジの実践と同様に、「社会や文化の影響によって鋳型にはまってしまっている自己を解放し、瞬間、瞬間を覚醒して生きること」であるとされる[236]。
オショー・ラジニーシはセラピーを瞑想に入る準備とし、各種セラピーを開発、導入した[241]。彼が勧めたセラピーの大半は、1960年代から70年代にヒューマンポテンシャル運動で開発されたものに由来しており、多くのセラピストが新しい可能性を求めてインドのアシュラムに集まりセラピーを行った[25]。直接肉体にアプローチするセラピー、幼少期の自分を再体験するセラピー、関係性や性のタブーを見つめなおすセラピーなど、様々なものが行われたが、伊藤雅之によると、セラピーの主要な目的は2つで、第1は「怒りや恐怖、嫉妬など抑圧された感情を見つめ、感情のブロックを取り除いてエネルギーが流れるようにすること」、第2は「『ありのままの自分』を受け入いれ、気づきを高めていくこと」である[242]。
意識変容を促進する手段として、オショー・ラジニーシは全部で100以上の瞑想技法を提案した[238][239][68]。東洋の伝統では静かに座って思考を観照することが瞑想であったが、思考や感情をより観察しやすいように体の動きを瞑想の中に取り入れた[68]。その「アクティブ(動的な)瞑想」の技法は、静寂に至る身体活動の段階を特徴とする[240]。
この中で最も有名なのは、1970年4月に提唱されたダイナミック瞑想で[240]、人間の習慣的な思考と行動のパターンに衝撃を与えるようにデザインされている[91]。オショー・ラジニーシはセックスは悟りにつながると考えていたため、セックスはしばらくの間、ダイナミック瞑想の一環として日常的に行われていた[243]。
ダイナミック瞑想は今日にまでオショー=ラジニーシ運動の中核をなす実践法であり[244]、彼の哲学と方法全体の一種の縮図だと言われている[244]。「私のダイナミック瞑想の技法は、あなたの神経症をありのままに受け入れ、解放しようとするものである。この技法は基本的にカタルシスから始まる。隠されたものは何でも解放されなければならない。…あなたが 『意識的に狂気』にならない限り、決して正気になることはない。[91]」この瞑想は人為的に混沌状態を引き起こすもので、オショー・ラジニーシは身体の不安やストレスを浄化すると主張した[70]。伝統的な静かな瞑想形式とは異なり、ダイナミック瞑想ではカタルシスは、内面の混乱と動揺を取り除く準備段階であり、心を落ち着かせるためのものと見なさていた[74]。
参加者は激しく呼吸し、叫び、飛び跳ねて泡を吹き、そのあとに伝統的な静的な瞑想が行われた[117]。この瞑想は目を閉じるか目隠しをした状態で行われ、5つの段階から成り、そのうちの4つは音楽を伴う[245]。まず瞑想者は10分間、鼻からの速い呼吸を行う[245]。後半の10分間はカタルシスを得るためのものである。「何が起きても、起こるままに任せなさい。…笑う、大声を出す、絶叫する、飛び跳ねる、揺れる、あなたがやりたいと感じたことは何でも、それをやりなさい!」[240][245](この段階は、1970年に広く普及し始めた原初療法によく似ている[91])。次に10分間、両手を上げてジャンプし、足裏が地面に着くたびにフー!と叫ぶ[245][246](「フー」はスーフィズムの言葉で、イスラム教の神の名前の1つで「彼」を意味する[91])。次の段階は沈黙であり、瞑想者は突然完全に動きを止め、15分間完全に動かずに、起こっていること全てを観察する[245][246](オショー・ラジニーシは、この段階がグルジエフに触発されたものだと認めている[91])。最後の段階は、15分間の踊りと祝賀である[245][246]。
クンダリーニ「シェイキング」瞑想やナーダブラーマ「ハミング」瞑想など、他の動的な瞑想技法も開発したが、これらの瞑想技法はある種の身体的な活動も含むものの、それほど動的なものではなかった[240]。彼はまた、弟子たちに無意味な音をただしゃべらせるジベリッシュ・セッションを主催したが、彼によれば、これは心のゴミを一掃し、リラックスさせるものである[247][248]。彼の後期の「瞑想療法」は数日間のセッションを必要とし、オショー・ミスティック・ローズは、1週間は毎日3時間笑い、2週目は毎日3時間泣き、3週目は3時間黙想することからなる[249]。これらの「起こっていることを見ること」のプロセスは「気づき(アウェアネス)への跳躍」を可能にするという[240]。
最初のインド時代のプネーのアシュラムでは、悟り(光明)を得る手助けとしてかなり実験的なセラピーが行われており、1970年代にアシュラムで行われたほぼ全てのセラピーは全裸になるよう求められ、エンカウンター・グループの中では他の参加者への肉体的暴力が許されることもあり、怪我や骨折で病院に連れていかれた者もいたと言われ、タントラ・グループではセラピー内で相手を探しセックスすることが求められ、数日間のセラピーで複数の相手とセックスすることもありふれていたという[28]。こうした実験的なセラピーの採用は、オショー=ラジニーシ運動の特徴となっており、他の成長センターで行われたセラピーとは大きく異なり、強烈なものだった[250]。母親が幹部で運動の中で育ったティム・ゲストは、グループ・セラピーでは、恋人が他の人とセックスしているのを眺め、自分の中に湧き上がる感情を観察することも人気の実践だったと語っており、嫉妬や怒りを感じたら、それは無執着を練習する絶好の機会とされた[117]。
マ・アナンド・シーラの説明によれば、プネーのアシュラムのセラピーでは、時に「本当に恐ろしいこともあった。骨折したり、目の周りに青あざができるのはよくあることだった」が、「参加は常に自発的だった」[251]。それでも、こうしたセラピーは「西洋人」には有益だが、インド人には誤解されるだろうという共通認識があり、オショー・ラジニーシもこのことを認識しており、インド人の参加を禁止した[251]。彼は最終的に「西洋の人々は非常に抑圧的な世界から来た。彼らのライフスタイルはインド人とは違う。考え方も違う。彼らにはアクティブなセラピーが必要だ。インド人にはもっと受動的で静かな瞑想が必要だ。」と説明し、これによりインド人サニヤシン達は、自分たちの方が西洋人より霊的・精神的に発達しているのだと思ったという[251]。
あらゆる境界の破壊
[編集]最初のプネーのアシュラムは徐々に暴力的、権威主義的になっていったが、オショー・ラジニーシはアシュラムにおける自由の欠如と暴力の容認について、あるサニヤシンから直接質問され、アシュラムは決して民主的なものではなく、極めて独裁的なもので、自分(オショー・ラジニーシ)が決めたことは絶対だとはっきり述べている(やり取りは1978年に教団の雑誌に掲載された)。彼はまた、こうしたグループ・セラピーの一部にある暴力や性的実験は、あらゆる境界を根本的に破壊し、完全な精神的解放をもたらすために必要だと説明し、アシュラムに残るかを去るか、何に参加するかは当人が選ぶことだと諭している[9]。ティム・ゲストは、あらゆる境界を見つけて立ち向かい、そのためなら、泣いても叫んでも、喧嘩でもセックスでも、何をしても許されたと語っている[91]。
タントラと性愛
[編集]ヒュー・B・アーバンによると、欧米で再解釈された現代のタントラの世界的普及で最も大きな役割を果たしたのはオショー・ラジニーシである[225]。彼はインドの因習的伝統や組織宗教に対する批判を行い、セックスが超意識に至る手段になりえると説いて議論を巻き起こし、身体を重視するホリスティックな教え、タントラ的な「悟り」とそこに至る方法を教えた[10][84]。
1968年の講義に基づく『From Sex to Superconsciousness(セックスから超意識へ)』はセックスをテーマにしており、1960年代後半以降の彼の講話には、性的なテーマが一貫して含まれている(現在の Osho出版社は、「Sex Matters(セックスの問題)」(2003年)、 「The Science of Tantra(タントラの科学)」 (2010年)、 「Tantra: The Way of Acceptance(タントラ:受容の道)」 (2011年)、『Tantric Transformation: When Love Meets Meditation(タントラ的変容:愛が瞑想と出会うとき)」(2012年) などの書籍やDVDとして、性的テーマを扱った講話を継続的に再パッケージし販売している。)[9]。
オショー・ラジニーシはカリフォルニアのエサレン協会などのニューエイジ・センターで広まっていたアメリカ風のタントラと性的解放の理想に強く影響を受け、ヒンドゥー教と仏教のタントラの側面を、アメリカのニューエイジ運動にあった現代の心理学、精神分析理論と技法と統合し、伝統的な南アジアのタントラを再定義し、性愛と性的快楽、オーガズム(性的絶頂)の原始的な力を究極の神性の源、一種の「超意識」に変えることに主に焦点を当てた独自の「ネオタントラ」を創り出した[225][252]。彼のネオタントラは性愛を奨励しており、それが愛と宗教的経験(スピリチュアルな目覚め)を生み出すと信じていた[70]。彼はタントラの伝統的なヨーガ的、禁欲的な側面に反対し、禁欲主義者は深刻な心理的問題を抱えた人々であると書き、「生命に対して非常に敵対的なもの、生命に対して非常に否定的なもの、生命に対して非常に拒否的なものが、人類の血の流れの中に入り込んでしまった。そしてそれは、いわゆる禁欲主義者たちを通して入ってきた。彼らはマゾヒストであり、自分自身を苦しめている。彼らの唯一の喜びは、より多くの不幸を作り出すことにある。」「最も偉大で最も知的な人々は、最も性的な人々である。愛のエネルギーは基本的に知性だからだ。愛することができなければ、あなたはどこか閉じていて、冷たく、流れることができない。」と説いた[70]。
生命エネルギーそのものである性欲を結婚という社会制度や宗教的禁欲で抑圧すると、人間の意識は歪み、その能力の委縮につながると考えた[253]。オショー・ラジニーシの考えでは、タントラ(ネオタントラ)とは、単なる肉体と精神の完全な統合への道ではなく、宇宙的な究極のオーガズムへの道でもなく、むしろ革命的でありうるスピリチュアルな道であり、組織的なヒエラルキーや確立された権威のない宗教というビジョン、個々の人間の至高の神性のみに基づく宗教のビジョンを提供するものでもある[9]。オショー・ラジニーシは精神分析学の創始者ジークムント・フロイトや、ヴィルヘルム・ライヒのようなポスト・フロイト派に倣い、セックスは「人間の最も強力な本能」であり、人間の本性における最も原動力であり、最も悪い神経症と最も崇高な霊的体験の両方の源であると繰り返し語った[9]。「セックスはとても重要だ。なぜなら、自然全体がセックスを求めているからである。そうでなければ、人間は存在し続けることができないだろう。セックスが個人の意思によるものなら、地球上には誰も残らないだろう。セックスは非常に強迫観念的で、已むに已まれぬもので、性衝動が強烈なのは、自然全体がセックスを求めているからである。[9]」セックスは人間の本性の中で最も深く激しい衝動であり、宗教者、政治家、支配者たちは、人間を従わせ、奴隷にするために、セックスを激しく抑圧してきたとし、タントラは、性欲を受け入れ解放する唯一のスピリチュアルな道であり、宗教的・政治的な支配を受けることのない非常に深い自由を人間にもたらすとした[9]。
オショー・ラジニーシの反社会主義的で資本主義推進的な尖った経済的理想と同じように、彼のタントラは、一種の激しい個人主義、反正統主義、そして利己主義に基づいている[9]。人間は皆本質的に神聖な存在であるため、他の人を助けようとする前に、まず「完全に利己的になり」、自分自身を受け入れなければならず、そうして初めて利他的になれるとする[9]。タントラは完全な自己受容の道であるとされ、彼のネオタントラの最終的な目標は、その人が完全に悟り、解放され、「神のような」存在になることである[9]。性的欲望の解放を説き、むしろ制の快楽を徹底して享受して、それを崇高なレベルに引き上げるべきとした[253]。官能と霊性・精神性は相反するものではなく、むしろ肉体的快楽はスピリチュアルな生活の一部になると教えられ、オショー・ラジニーシの共同体では、セックスだけではなく、音楽やマッサージ、女性の脚の間から熟したマンゴーを食べることまで、様々な官能的な活動を「意識的に」行うことが奨励された[9]。
一人のパートナーを持つことは、ただ束縛を増やすだけであり、神は何百万もの形で現れるのに、なぜ一人のパートナーに執着するのか、サニヤシンは一人のパートナーに執着してはいけないと説かれた[70]。コミューンでは女性も男性も、複数の異性と短期的・多元的な恋愛関係を持つことが奨励されていた[254]。スーザン・J・パーマーは、これは共同体における愛のシェアと平等の理想を表現したものであり、情緒的でエロティックな感情は、カリスマによる共同体を流れるオショー・ラジニーシの「エネルギー」の通路であり、個人を悟りへと導くものだった、と説明している[254]。
1960年代から1970年代にかけて、タントラはカウンターカルチャーと性革命の重要な一部となり、 オショー・ラジニーシ等の有名なグルが「ネオタントラ」の実践を推進し始め[225]、ニューエイジと自己啓発運動の中で広まった[252]。彼のような西洋人を弟子にしたインド人グルや、アメリカ人ヨーガ行者のピエール・バーナードのような西洋のタントラ指導者は、セックスと瞑想を融合したエキゾチックでエロティックな慣習という西洋人的なタントラ文化のイメージにどちらも賛同している[243]。
オショー・ラジニーシが再定義した西洋タントラ(ネオタントラ)は、あらゆる宗教制度を否定し、タントラの文献に基づいておらず、タントラの文献と儀式自体も否定している[70]。本来のタントラのほとんどは規律ある瞑想と儀式を含むシステムだが、彼のネオタントラはあらゆる儀式に対する反逆に改変されている[70]。ヒュー・B・アーバンは、オショー・ラジニーシは、自身のネオタントラが、南アジアの伝統的なタントラの形態とほぼ共通点がなく、現代的な再解釈だということを認識していたようだと述べている[9]。オーガズムの力を、スピリチュアルな体験を得るための最高の手段として利用していることが示唆されており、ネオタントラでは、タントラ的オーガズムの瞬間に、「統一された首尾一貫した自我」という幻想が消え去り、自己という虚構は生命エネルギーと欲望の戯れに満ちた流れであることが明らかになるとされる[9]。こうしたネオタントラ的な性的オーガズムの理解は、ポストモダンにおける「主体の死」の極端な表現の一例となっている[9]。
霊性・精神性と資本主義の統合
[編集]1970年代から80年代にかけて、世界経済と政治の支配的イデオロギーとして新自由主義への明確な転換があり、新自由主義は「あらゆるものの商品化」が特徴である[226]。あらゆるものがオープンな市場で交換される商品とみなされる新自由主義には、スピリチュアリティ(霊性・精神性)も含まれる[226]。20世紀後半のグローバル経済における新自由主義への変遷は、オショー=ラジニーシ運動の誕生とほぼ同時に起こった[226]。スピリチュアリティの商品化自体は19世紀のアメリカですでに始まっていたが、1980年代の新自由主義の勝利とともに、文化のあらゆる側面に拡大して「あらゆるものの商品化」が起こり、世界的な現象となった[226]。
オショー・ラジニーシとその信奉者たちは、1960年代から1970年代にかけて台頭してきたグローバルな市場への賛同を、かなり明確に表明していた[226]。プネーの初期のアシュラムが最も繁栄していた1978年には、オショー・ラジニーシはプネーのアシュラムについて、「ここは市場だ。市場にこれほど似た場所が他にあるだろうか。ヒマラヤのどこかにアシュラムを作ることもできただろう。…私は市場の一部であり続けたい。そしてこのアシュラムは、ほとんど市場の一部として運営されている。」と語っていた[226]。彼は1980年代のラジニーシプーラムで資本主義と市場のレトリックをさらに大胆に用いており、ヒュー・B・アーバンは、「満足を売る」「悟りを売る」という彼の主張は、知的な思想、個人的な幸福、霊的・精神的な達成を含む「あらゆるものの商品化」としての新自由主義の典型であると述べている[226]。マ・アーナンド・シーラは、「私たちの宗教はおそらく資本主義と宗教を統合した唯一の宗教です。…これは素晴らしいことです。うまくいっています。」と語っていた[226]。
教えからの死・悪の排除
[編集]オショー・ラジニーシは、生にしがみついていれば死は死だが、生にしがみついていなければ、死は「かたちという監禁から自由」になることで、「大いなる喜びがある」と説いている[official 4]。サニヤシンが死んだとき、赤い花で飾り、セレブレーション(祝祭)を開催し、歌とダンスでお祭り騒ぎをする[255][official 4]。彼が「光明を得た」と宣言したサニヤシンの死は教団全体で祝われ、そうでない場合は友人と家族で祝う[official 4]。死のセレブレーションは、出席者にとって貴重な変容の可能性のある機会とされる[official 4]。
社会学者の樫村愛子は、彼の教えの内部から死は完全に排除されていると評している[255]。また、悪も排除されているとみなしている[256]。
師弟関係
[編集]インドにはグルと弟子の伝統(グル・シッシャの伝統)があり、インドのほとんどの宗教的指導者は、グルとのつながりや、はるか過去に遡る神話的な系譜、シヴァ神、ヴィシュヌ神、女神などの神とのつながりによって自らを確立していたが、彼は師を持たないことを誇らしげに公言した最初の一人だった[69]。自らを一種の「反グル」「グルを持たないグル」として、確固とした師の系譜を持たない、根本的に反権威主義的なメッセージを教える覚者として示した[69]。
オショー・ラジニーシは思想家からグルに転身したが、当初のインド人の弟子が実践した弟子の条件やグルへの帰依は、インドの宗教伝統に基づいたものだった[106]。
オショー・ラジニーシはグルと弟子の一対一の師弟関係を肯定・強調し、それが光明(悟り)を得る手助けになると主張し、「サニヤシンがより『自分自身になる』道を開くため」とされた[257][258]。
覚醒を得た者との接触がないかぎり
[official 5]
あなたが成長することは不可能に近い
道を知る者、道を旅して来た者
行き着いた者と同行しないかぎり
あなたが到達することは不可能に近い
あなたが信頼でき自分を明け渡すことができる者に
手を引かれてゆかないかぎり
あなたはきまって道に迷う
導師 とは
導師 に自分を明け渡すことが保護になるような
そんな磁力だ—バグワン・シュリ・ラジニーシ、The Book of Wisdom 第2巻
「光明を得た」存在が人々の意識変容を促すと説いたが[258]、彼が説く師弟関係はグルへの絶対帰依ではないとされる[25]。サニヤシンはそれぞれ少しずつ異なる霊的・精神的な道を歩まなければならないが、その個人的な探求には、彼の教えから各々のサニヤシンの心に直接届く目に見えない糸が絶対に必要であると、生涯に渡って主張していた[52]。
彼の弟子たちはサニヤシン(sannyasin)、ネオ・サニヤシンと呼ばれている[258][70]。「サニヤシン」という語はもともと、インドの宗教的慣例に従って家庭と世俗を捨てた修行者のことだが、オショー・ラジニーシは世俗を離れるのではなく、現世肯定的なサニヤシンのあり方を強調した[258]。ネオ・サニヤシンは伝統的なサニヤシンのように厳格で人生を否定するような存在ではなく、むしろ「歓びに満ちた生き物、反逆者、踊り子」だった[70]。「サニヤシンになるということは、何か新たな信念体系を獲得することでもなければ、個人的な所有物を放棄することでも、また特定の人物に追従することでもない」とし、「明け渡し(サレンダー)」について、自我は観念にすぎないため、弟子は師に自我を明け渡すことで特定の何かを明け渡しているわけではなく、実際には存在しない、自分が持っていると思い込んでいるもの全てを明け渡していると説明している[258]。運動の他の物事同様に、「明け渡し」の意味をサニヤシンが自分なりに構築する余地はかなり与えられていた[52]。
1970年代後半から1980年代前半にかけて、サニヤシンとなった者は、オショー・ラジニーシを自分のスピリチュアルな師として認め、その教えへの帰依を誓い、サニヤシン名(全く新しい名前か、女性には「母」という意味の「マー」、男性には「主人」という意味の「スワミ」という接頭辞をつけた名前)をもらい、毎日1回瞑想し、赤とオレンジ(光のスペクトルの太陽の色、日の出の色)を身にまとい、ベジタリアンになり、彼の写真入りロケットをつけた108個の球の数珠(マーラー)を身につけることが求められた[34][97]。こうした実践に加え、サニヤシンは彼との心と心のつながりを認める必要があった[52]。サニヤシン名は最初、インドの言葉から取られていたが、後に世界中のあらゆる宗教から借用された[97]。彼はネオ・サニヤシンにヒンドゥー教の伝統的なサニヤシン(出家者)の外見的な特徴を採用したが、これは「あらゆる伝統的な意識を破壊する」ことを意図したものであった[74]。(とはいえ、彼の教えには明らかにヒンドゥー教的なものが残されている[74]。)
運動が比較的小規模だった1974年以前は、オショー・ラジニーシは弟子達が宗教に対する多くのアプローチを探求し、彼の修行と他の修行を組み合わせることを奨励していた[34]。彼らの元々の生活、元々のアイデンティティを放棄したり、以前の人間関係を犠牲にしたりすることなく、自分自身を変革することができるとされていた[61]。運動が成長し、プネーのアシュラムに移ると、オショー・ラジニーシは悟りを開いたスピリチュアルな師の役割を担うようになり、サニヤシン達は他のスピリチュアルな道を放棄するよう求められるようになった[34]。最も物議を醸した1976年から1986年までの10年間は、オショー・ラジニーシにのみ帰依することが求められた[34]。
サニヤシンたちは自身をヒンドゥー教徒だと思うことはなく、オショー・ラジニーシもそう勧めることはなかった[74]。サニヤシンたちは、理想的にはオショー・ラジニーシの思想に服従する必要はないとされるため、彼らは「信者」と呼ばれることを嫌う[258]。伊藤雅之は、にもかかわらず、「その世界観を具現化するためのアシュラムや各種の活動のなかには、ラジニーシの教えと矛盾する内容もしばしばみられた。(中略)また、ラジニーシの支持者にも、ともするとラジニーシを教祖として崇拝し、その教えを絶対的なものとして盲信する傾向がみられた。」と指摘している[257]。
オショー・ラジニーシの弟子たちは、自分たちを 「バグワンの恋人たち(lovers of Bhagwan)」と呼んでいだ[254]。スーザン・J・パーマーは、スピリチュアルな探求と師の存在によって呼び起こされたサニヤシン達の心酔の感情は、性的な欲望やロマンチックな愛と結びついていたと述べている[254]。サニヤシン達はオショー・ラジニーシを「覚者」として、「性を超越した存在」と捉えていたが、サニヤシンがイニシエーションの儀式で彼に「明け渡し」、彼のエネルギーを受け取る際の関係においては、男性として認識されていた[254]。オショー・ラジニーシの女性の弟子にとって、「恋人」という役割は非常に重要で、1980年代には、献身的な弟子や「バグワンの恋人」になるためにはコミューンに住む必要があった[254]。
終末的時代観・黙示録的ヴィジョン
[編集]1984年から1999年は、大規模自然災害と人災に満ちた人間にとって最も危険な時代にあり、旧約聖書のノアの大洪水以来の大規模洪水や、地震、火山爆発が起こり、核戦争に終わるような破滅的な戦争が起こり、ホロコースト(大破壊)が地球規模で起き、東京、ニューヨーク、サンフランシスコ、ロサンゼルス、ムンバイなどの都市は消滅すると予見した[official 6]。人間は核兵器による破壊、エイズの大流行、人口過剰に脅かされた世界に生きていると考え、エイズが前例のない大惨事を引き起こし、人類の3分の2が死ぬが、サニヤシンだけが無傷で生き残ると予言した[78]。
人類の超人への進化
[編集]地球は愚かな人類をもはや許さず、人間は自殺するか、新しい人間に生まれ変わるかの瀬戸際にあると説いた[official 6]。
地球的規模の破滅から逃がれる可能性はなく、ラジニーシズムとは、この人類存亡のチャレンジを受けて立つものであり、意識の上での「量子的跳躍」を起こし、人間の意識を変容させ、ニーチェが言う「超人」を生むために唯一世界的な努力をする、「意識の上でのノアの箱舟」を創る運動だとしている[official 6]。
猿が飛躍して人間になったが、全ての猿が人間になったわけではなく、人類から超人への跳躍も同様であると考えた[official 6]。サニヤシンが全員ホロコーストを生き延びるとは限らないが、「絶対の保証をもって言える。生き残り生きのびるのは者たちはラジニーシィ(サニヤシン)であり、残りは猿でいるか、自殺するかのどちらかだと……。実のところ、残りはどうでもいい。」と語った[official 6]。
結婚・家族・産児制限
[編集]オショー・ラジニーシは、環境の調和、技術の進歩、厳格な出産制限、瞑想的な意識を特徴とする「女性のニューエイジ」を予言し、家族は本質的に機能不全と破滅に陥りやすいと考えており、運動は常に子供を持つことに強く反対してきた[254][259]。
伝統的な結婚というものは、悪い、息苦しい考えだと説かれた[70]。オショー・ラジニーシが結婚や子供を持つことを奨励していないことは広く知られていた[259]。彼は地球の人口は多すぎると考えており、人口過剰を理由に「20年間の絶対的な産児制限」を推奨し、悟りを得るために、「自分自身を産む」ために、独身で子供を持たないことが賢明だとしていた[254][117]。
多くのサニヤシンは、彼は優しく慈悲深い「理想的な父親」であると考えていたが、他のサニヤシンによると、彼はまた、父親としての否定的、権威主義的な側面をも表すこともあったという[260]。
ジェンダー観、女性の評価・待遇
[編集]彼の神話学における大きな挑戦の1つが伝統的な性別役割であり、『A New Vision of Women's Liberation(邦題:ニュー・ウーマン誕生)』(1987年)で、サニヤシン達にユダヤ教の伝承のリリスの軽妙なパロディを提供している[78]。彼が語るリリスは強く、反抗的で、アダムとは相容れず、対照的にイブは一夫一婦制によって奴隷状態に追いやられている[78]。彼はこの講話で正統的な神学と慣習的な性別役割に反対し、三位一体を「ゲイの男たちのクラブ」、結婚を「愛の墓場」と呼んでいる[78]。
オショー・ラジニーシは、伝統的な性別役割の超越を訴え、女性も男性も、自身の女性的側面と男性的側面を融合させ、人生のあらゆる面で柔軟性を追求することを奨励した[52]。理想的な人間は、見るからに男性的でも女性的でもないとされたが、彼は直感、表現力、感情性、自己認識、感受性といった伝統的な女性的特性に最も価値を置いていた[52]。女性は生まれつきより大きな性的エネルギー(シャクティ、つまり女性の力)を持っているため、多くの点で本質的に男性よりも優れており、「女性は何度もオーガズムに達することができるが、男性はできない」という事実によって証明されるとした[9]。彼の体系では女性は男性よりも霊的・精神的に優れているとみなされ[254]、「直観力、受容力、献身などの美徳ゆえに、女性はより容易にグルに従い、瞑想の微妙なエネルギーに対して自らを開くことができる」とし、インドでは無知で不浄とされ、社会的にも霊的にも劣位に扱われる傾向のある女性を霊的に評価した[261]。
女性にこうした「女性らしさ」の特質を求めることは、「退行的で時代錯誤的」であるという批判もあった[261]。母性のもう一つの道、女性に開放をもたらすものだと感じる女性も多かった[261]。女性の時代が到来しようとしており、女性の自由は、西洋の「女性解放のような愚かな運動では実現できない」とし、女性の仏陀(目覚めた人)を数名でも創ることができれば女性はすべての束縛から解放されると語った[9]。
オショー・ラジニーシは、女性は帰依者としてだけでなく管理者と優秀だと考えたため、教団の重要な地位に多くの女性が付いており、これは他の宗教にはあまりみられない[261]。
男性には自身の女性的特質を育むよう諭し、女性が自信をもって積極的に行動すると称賛した[52]。性同一性を放棄することなく、両性具有性に向かうよう奨励した[52]。
教団における女性については、#女性サニヤシンの多さと権力、ジェンダーを参照。
同性愛の否定
[編集]オショー・ラジニーシは、タントラは「無条件の自由」であり、性愛の革命的解放であると繰り返し宣言していたが、性のすべての在り方を受け入れていたわけではなく、特に同性愛については、不自然な倒錯であり、宗教的抑圧の副産物であるとはっきり表現し、かなり強く声高に否定していた[9]。「私は同性愛を倒錯と呼ぶ。…あなたの中には同性愛のための生物学的プログラムはない。あなたの精子の生物学的プログラムは異性愛である。私は単に、宗教の修道院で醜悪なプレッシャーを受けて同性愛が生じ、独身の清浄さの名の下に同性愛が強要されたという事実を開陳しているだけだ。」と語っている[9]。
前世
[編集]オショー・ラジニーシは、自身のアイデンティティの中には、今の人生よりも前の、何世紀も前の過去生(前世)のものも含まれると語っている[69]。700年前の前世があり、この時に悟り(enlightenment)をほぼ達成したが、悟りの境地に達する3日前に殺害されたと主張している[78]。
講話(プラヴァチャン)
[編集]彼の書籍は、口頭での講話(プラヴァチャン)を他の者が書き起こしたものである[94]。「プラヴァチャン」という言葉はサンスクリット語に由来し、「説明または提唱する」を意味する[94]。これは口頭でのパフォーマンスであり、朗読、口頭指導、教授、説明、解釈が特徴である[94]。この慣習は、ヴェーダの文献、ヒンドゥー教徒とジャイナ教徒のヴェーダ以降のシャーストラとスートラの文献、仏教の文献に由来する神聖な形式であり、教義の講釈と会話のシステムであると考えられる[94]。この慣習では、プラヴァチャナカラ (僧侶、学者、聖者) が、家庭や一般大衆に霊的な教えを説き解釈を示す[94]。プラヴァチャナカラは、厳しい苦行を行っており、それを通して得た聖典に関する知識と理解を持っていると考えられ、自分の主張や道徳的論点を補強する例として物語のエピソードがふんだんに盛り込まれる[94]。彼は、スーフィーについて話す時自分はスーフィーであり、禅の導師について話す時自分は禅の導師であり、これは講話ではなくコミュニオン(宗教的・霊的な交わり)であると述べている[official 7]。
オショー・ラジニーシはジャイナ教の伝統を背景に持つため、信奉者や信奉者になる可能性のある人間への伝道に講話を行ったが、音声テープやビデオテープを使用することで、伝統的な講話の形式に手を加えている[94]。講話では頻繁にジェスチャーが行われた[94]。
彼自身は、講話へのテクノロジーの利用について次のように述べている。「あなた方は精神的な(ghostly)声だけを聞くことになるだろう。私はメッセージを広めるために、映画、テレビ、ビデオテープ、(音声)テープ、あらゆる現代的な技術を使うつもりだ。私は20世紀に属しているのだ、完全に、心から。そして私はこの世紀を愛しており、現代的な技術に反対してはいない。私は科学とその技術を愛している。」[94]
ファッション・身だしなみ
[編集]第1期のプネーでは、彼の外見は、インドの聖者を思わせる長い顎ひげを蓄えたものになり、カリスマ性を高めた[34]。衣服は白のクルタ・パジャマ(インド風のチュニックとズボン)というシンプルなものだったが、サニヤシン達は赤やオレンジのローブを着ており、アシュラムの他の全員と区別されていた[34][94]。
ラジニーシプーラム時代(1980年代初頭)に講話の記録にビデオカメラが導入されると、服装は派手な黒・グレー・白・青のローブに替わり、ダイヤモンドをちりばめた帽子をかぶり、手首にはロレックスの腕時計を着けていた[94]。
メディアの積極的利用
[編集]オショー・ラジニーシは世界中で信者を集めるために、メディアを積極的に利用した[94]。セックスというテーマが普及の媒介になったが、彼のスターとしてのペルソナが運動を支えていた[94]。インドでは1980年代後半まで、国がテレビで宗教的なコンテンツを放送することを厳しく禁止していたため、宗教的なコンテンツに映像はなく、ラジオや音声テープという聴覚メディアのみ流通していた[94]。
メディア研究者のイシタ・ティワリのサニヤシンへの聞き取りによると、オショー・ラジニーシはキャリアの初めから、自分の言葉を全て記録するよう命じていた[94]。講話を行う際、最初は録音装置が使われていたが、1980年代にビデオカメラに替わった[94]。講話は文字起こしされ、市場で書籍として販売された[94]。1970年代には音声テープが主流で、扱われるトピックは、宗教的正統性への攻撃から、社会主義、資本主義の利点、悟りとセックス、瞑想の実践まで多岐にわたった[94]。
音声テープは運動の普及に重要な役割を果たした[94]。大量生産された講話の音声テープは、ヒンディー語と英語の両方があり、インドだけでなく世界中に出回り、彼のスター性を進展させた[94]。多くの信奉者は、オショー=ラジニーシ運動に参加した理由として講話の音声テープを挙げている[94]。イシタ・ティワリは、彼の声は心地よく、催眠的だと評している[94]。講話の観客の反応も録音されており、その殆どは笑い声である[94]。
講話が録画されるようになると、彼の講話は、テーマから言葉使い、服装まで変わっていった[94]。録画の際の服装やカメラのフレームは事前に彼自身が決めており、撮影はプロのカメラマンのキャリアを持つドイツ人サニヤシンが行っていたという[94]。講話する上半身がクローズアップして映された、講話を聴く熱心な信者たちの反応を含むビデオは、ビデオ形式のダルシャン(聖者に謁見しあやかる機会)となっている[94]。講話のビデオはVHS形式で制作・配布され、家庭のテレビで視聴されただけでなく、アシュラムやロータリークラブなどでも上映された[94]。美的に作り上げられた講話ビデオは、彼にオーラを醸し出しただけでなく、運動内で共感の感覚を育み、連帯感を形成した[94]。
講話をビデオカメラで撮影するようになると、それを意識して、彼のために赤いカーペットが敷かれ、ヘリコプターで上空からマリーゴールドの花が撒かれるなど、派手なパフォーマンスが行われた[94]。
サニヤシンたちは彼の教えを、書籍、小冊子、音声テープ、ビデオテープといったメディアを積極的に使って広め、彼の死後は映像を通じて帝国を築き上げた[94]。映像は当初ビデオテープ(VHS)だったが、現在(2024年時点)では映像はデジタル化され、テーマ別に編集されたものが字幕付きでインターネットで公開され、ウェブサイトや公式YouTubeチャンネルを通じて配信されている[94]。イシタ・ティワリは、オショー・ラジニーシの信奉者にとって、メディアのインフラストラクチャーと宗教のインフラストラクチャーは融合しており、亡きオショー・ラジニーシの映像の「(ヴァルター・ベンヤミンが言う)アウラ」は、ベンヤミンが言うように複製によって消えておらず、複製され繰り返し視聴されることで持続・増殖していると評している[94]。
著作権・商標
[編集]オショー・ラジニーシ自身は1988年の講演で著作権と商標の問題にはっきり言及し、瞑想テクニックが著作権で保護されるという考えを否定し、インド人導師マハリシ・マヘーシュ・ヨーギーが広め、著作権で保護され商標登録されている超越瞑想(TM)を取り上げ、西洋の企業および法的論理をインドのスピリチュアルな伝統に適用しようとする試みを批判した[55]。
「物は著作権で保護できるが、思考は著作権で保護できない。そして、瞑想は当然著作権で保護できない。それらは市場の物ではない。誰も何かを独占することはできない。しかし、おそらく西洋人は、客観的な商品と内なる経験の違いが理解できないのだろう。」「東洋では一万年もの間瞑想が行われてきたが、瞑想に商標を付ける人は誰もいない。そして何よりも、その『超越瞑想』は超越でも瞑想でもなく、単なる商標である。」[55]
オショー・ラジニーシの死後の著作権・商標問題については、#死後の著作権・商標に関する法的紛争を参照。
オレゴンでの犯罪行為について
[編集]アメリカでの4年間でラジニーシプーラムは大きな成果を上げたが、大きな陰謀と犯罪の場となった[34]。誰が誰に、何を、なぜ行ったのか、運動の内外で今も激しい議論が繰り広げられており、その中心のひとつが、オショー・ラジニーシが、個人秘書で高弟のマ・アーナンド・シーラが行った一連の陰謀と犯罪行為について知っていたか否かである[34]。マリオン・S・ゴールドマンは、「すべての証拠は、シーラと彼女の小さなサークルだけがこれらの行為(反体制派のサニヤシンへの薬物投与、盗聴、放火、殺人未遂、ラジニーシ運動の資金の横領、住民をターゲットにしたバイオテロ攻撃)に直接関与していたことを示しているが、ラジニーシが彼女たちの犯罪行為を支持していたかどうかは、依然として論争が続いている(All evidence suggests that only Sheela and her small circle were directly responsible for these actions, but Rajneesh's support of their criminality remains in dispute.)」と述べている[61][† 10]。精神科医で研究者のジェームス・S・ゴードンは、シーラが何をしていたか知らなかったというオショー・ラジニーシの主張を強く否定している[74]。
セクシュアリティ
[編集]オショー・ラジニーシは自伝的な発言を数多く残しているが、自身のセクシュアリティについて公に語ったことは一度もない[9]。
セクシュアリティに関する周囲の理解や証言は一様でない。21歳で悟りを開いてから一度もセックスしていないと信じる者もいれば、毎日2人以上の女性とセックスしていたという者もいる[9]。女性の弟子たちが定期的にオショー・ラジニーシとの、性的な行為を伴うプライベートな、秘密の「特別なダルシャン」に呼ばれ、これは彼女たちにとって名誉なことだったと回想する者もおり、多くの女性がこの「特別なダルシャン」の経験について語っているが、その内容は一様ではなく矛盾もある[9]。セックス中に深い働きかけを受け内なるエネルギーを動かされたという者もいれば、彼のセックスは冷たい支配の道具だったという者もいた[9]。
ヒュー・B・アーバンは、彼が活発で乱交的な性生活を送っていたとしても、それはのゾルバ・ザ・ブッダやネオタントラの教えとは矛盾せず、単に論理的であると言え、彼の性的嗜好に関する周囲の様々な見解は、彼の教えや、「無宗教の宗教」の逆説的で時に矛盾する性質と一致すると述べている[9]。
受容と批評
[編集]オショー・ラジニーシは一般的に、20世紀にインドから現れたスピリチュアルな指導者の中で最も物議を醸した一人と考えられている[263][264]。 性的、感情的、霊的・精神的、組織的な解放というメッセージと、人を怒らせ感情を逆撫ですることを好んだことから、彼の人生は物議を醸すものになった[265]。 オショー・ラジニーシはインドでは「セックス・グル」、アメリカでは「ロールス・ロイスのグル」として知られるようになった[266]。 伝統的なナショナリズムの概念を攻撃し、インドの初代首相ジャワハルラール・ネルー等の政治家に公然と軽侮の念を示し、マハトマ・ガンディーやマザー・テレサなど様々な宗教の指導者を批判し嘲笑ったが、こうしたアイコノクラスティック(偶像破壊的)な攻撃の対象となった人々は、オショー・ラジニーシの不遜さを耐えがたく感じた[267][268][225]。セックス、結婚、家族、人間関係に関する彼の教えは伝統的な価値観と相容れず、世界中で多くの怒りと反感を呼んだ[162][269]。オショー=ラジニーシ運動は広くカルトと見なされていた。オショー・ラジニーシは「けばけばしく、とんでもなく贅沢に」暮らしていると見られていたが、一方で彼の弟子のほとんどは教団の外の友人や家族との関係を断ち切り、自分の金銭や財産のすべて、もしくはほとんどをオショー・ラジニーシのコミューンに寄付し、「最低水準の生活」を送っていたと思われる[183][270]。
宗教学者等による学術的評価
[編集]彼の教えと運動は、宗教もしくは代替宗教とみなされており、井上順孝は「ラジニーシ運動は、ラジニーシ・チャンドラ・モハンによって創始されたインド系の宗教である」と述べており[4]、南アジアの研究者中島岳志は「オショー・ラジニーシ運動」を「新興ヒンドゥー教団」としている[5]。[117]。クリストファー・パートリッジ編集の『現代世界宗教事典—現代の新宗教、セクト、代替スピリチュアリティ』(2009年)では、「インドの宗教起源の新宗教、セクト、代替スピリチュアリティ」の項目に[271]、スティーブン・J・ハントの著作『Alternative Religions(代替宗教)』(2003年)では、「混合主義の運動」の項目に置かれている[272]。また、日本の図書館で広く使われる日本十進分類法第9版では、『存在の詩』(1977年)は「126.9 : インド哲学.バラモン教」に分類されており、インドの宗教・哲学の伝統の流れに位置付けられている[273]。ハリー・エーヴリングは、彼の教えは明らかにヒンドゥー教的であり、カビールや、彼がヒンディー語でしばしば感動的に語ったサント(聖賢詩人)たちの系譜に連なる、無形の神とグルへの強い信仰を中心とした一種のニルグナ・バクティ(nirguṇa bhakti)[† 11]であり、ニルグナ・バクティは、個人の「今ここ」での経験の神聖さを支持する、「あらゆる伝統に反対する」伝統であると述べている[74]。
オショー・ラジニーシの仕事に対する学術的な評価は様々である。ウダイ・メータ(Uday Mehta)は彼の禅と大乗仏教の解釈には誤りがあると指摘し、「彼の教えには甚だしい矛盾と不整合があり、聞き手の『無知と騙されやすさ』を『悪用』している」と語った[274]。 仏教学者の古田榮作は、彼の『法句経(ダンマパダ)』の解説について、無我、無心が幸福へ、心、邪念が不幸という報果につながるという捉え方には「少なからず反発を感じざるを得ない」とコメントしている[275]。社会学者のボブ・マラン(Bob Mullan)は1983年に、「偉大な伝統から真理、半面の真理(しか含まない言葉)、偶に誤り伝えられた事を借用している...多くの場合、口当たりがよく、不正確で、もっともらしく、極めて矛盾している」と書いた[276]。インドの思想・宗教の研修者の山下博司は、彼の思想は多くの近現代インドの聖者と同様に一元論的な性格が強く、「内容自体はある意味平凡なもの」と評している[130]。ヒュー・B・アーバンは、オショー・ラジニーシの教えは独創的でも特に深遠でもないと述べ、その内容の大半は様々な東洋と西洋の哲学から借用したものであると結論付けている[224]。 一方、ジョージ・D・クリサイディスは、オショー・ラジニーシは「アマチュア哲学者ではない」のだから、彼の教えが様々な宗教的教えの「ポプリ(寄せ集め)」と評するのは残念なことだと考えた。彼はオショー・ラジニーシの学問的背景に注目し、「彼の教えを受け入れるかはともかく、他人の思想を解説することに関してはペテン師ではなかった」と述べている[264]。クリサイディスは、オショー・ラジニーシを主に仏教の教師であるとみなし、独自の「ビート禅」を推進したと述べ[264]、その教えの非体系的で矛盾した過激な側面は、人々の変化を誘発しようとするものであり、主題の知的な理解を目的とした哲学の講義ではないと捉えている[264]。アーバンもまた、「ラジニーシの大胆で時に衝撃的なテクニックの目的は、一種の催眠解除であり、しばしば矛盾や混乱を招くようなやり方で、私たちに衝撃を与えて目覚めさせることにある」と評している[69]。足沢一成は、オショー・ラジニーシは「悟り」への道、方法は弟子それぞれで異なると考えていたようだが(サニヤシンが身につけた数珠には108個の球があり、彼はこれと同様に悟りに至る道も 108個あると語ることを好んだ[52])、そうであるならダルシャンでのグルの適切な指導が重要ではないかと述べ、時代が下るにつれダルシャンが薄まっていったことを問題視している[178]。ムンバイ時代は弟子一人一人とダルシャンが行われたが、プネー時代にはグループでのダルシャンになって重要性が薄まり、アメリカ時代には中断された[178]。
ボブ・マランは同様に、オショー・ラジニーシが西洋のカウンターカルチャーやヒューマンポテンシャル運動を取り入れたことに関して、その視野の広さと想像力は誰に劣るものでもなく[276]、発言の多くは非常に洞察的で感動的であり、時には奥深いと言えるかもしれないと認めているものの[277]、オショー・ラジニーシの思想は、愛と自由、今を生きる必要性、自己の重要性、「大丈夫だ」という感覚、人生の神秘性、楽しさという倫理、個々人の運命に対する自己責任論、恐怖と罪悪感とともに自我を捨てる必要性に焦点を当てた「カウンターカルチャー主義とポスト・カウンターカルチャー主義の思想の寄せ集め」だと理解していた[278]。ハリー・エーヴリングはマランの評に対し、彼の教えは間違いなくもっと複雑なものだと述べている[74]。
社会学者の樫村愛子は、オショー・ラジニーシや彼を原点とするニューエイジは、宗教的なセラピーで家庭での外傷などを扱っても、「ハイヤーセルフ」とされる無意識の絶対肯定に向かい、罪や罰を排除し、そうすることでより強力な人工的社会や人格を作ろうとしており、彼らのこうした死などの外傷(の表象)の対処は、現代社会・文化の中でも最も防衛的であると述べている[255]。また樫村は、教えの内部から死や悪を排除する彼の教えを、絶対肯定宗教と評している[256][255]。ヒュー・B・アーバンは、オショー・ラジニーシの思想の千年王国主義(至福千年信仰、来るべき理想社会の信念)の要素を分析し、ゾルバ・ザ・ブッタが作る新しい時代のヴィジョンを語る彼の言葉は、はっきりと千年王国主義的だと述べている[35]。
社会学者のベントン・ジョンソンは、超越瞑想の創始者のマハリシ・マヘーシュ・ヨーギーやオショー・ラジニーシなどの指導者は、インドの伝統的なグルというものを、心理的・宗教的カウンセラーにまで発展させたのではないかと考えている[52]。ウダイ・メータは、オショー・ラジニーシが西洋人の弟子たちを魅了したことは、東洋のグルと弟子の伝統(グル・シッシャの伝統)と西洋のヒューマンポテンシャル運動との間に哲学的な繋がりを築いた彼の社会実験に基づいていたと指摘しており[263]、メータはこれを、聴衆の欲求を満たすためのオショー・ラジニーシのマーケティング戦略だとみなしている[224]。ヒュー・B・アーバンもまた、オショー・ラジニーシがスピリチュアルな欲求と物質的な欲求との間の二項対立を否定し、後期資本主義の消費者文化に特徴的な身体と性愛への拘りを反映しており、当時の社会経済的な時勢に合わせているとみている[279]。宗教学者のジューン・マクダニエルは、「彼はタントラのマスターであり、セックスを弟子たちの瞑想とした。西洋人はセックスと金銭に最も関心があるため、西洋のタントラもセックスと金銭に重点を置くべきだと考えていた。」と評している[70]。
L・カーターは「ラジニーシ運動は…イデオロギーの一貫性を主張していない」「信念、実践、団体のアイデンティティ、物理的な場所は、必要性と利便性に合わせてすぐに変更される可能性がある」と書いている[74]。伊藤雅之は、オショー・ラジニーシと弟子たちが展開した運動の特徴として、「変化の激しさと一貫性の欠如」を挙げている[68]。マリオン・S・ゴールドマンは、運動はその発展の各段階で自らを再定義しており、包括性の初期から、1970年代半ばから1980年代の排他性へと移行し、21世紀には再び包括性へと戻ったと述べている[52]。ゴールドマンは、運動の境界やサニヤシンになる基本的な方針すら柔軟だったのは、彼の哲学において自由な選択が非常に重要だったためだと指摘している[52]。
イギリスの宗教学教授ピーター・B・クラークは、アメリカの心理学者アブラハム・マズローとヒューマンポテンシャル運動によって定義された自己実現という意味では、大部分の参加者は進歩を感じたと述べている[280]。 クラークは、オショー・ラジニーシが考案したセラピーのスタイルは、性愛を人生の神聖な一部としてリベラルに捉えており、他のセラピーの実践者やニューエイジのグループに影響を与えていることが分かったと述べている[280]。しかしクラークは、オショー=ラジニーシ運動に参加した求道者たちの主な動機は「セラピーでもセックスでもなく、古典的な仏教の意味での悟りが開けるという期待」であったと考えている[129]。
ポストモダンのグル
[編集]ポストモダニズムは、目的、計画、決定性といった理想より、遊び、偶然、皮肉、不確定性を強調する点を特徴とし、この断片化、遊び、不確定性という特徴は、自己・主体という概念にまで及んでいる[69]。ヒュー・B・アーバンは、このような人間像を理想としたオショー・ラジニーシは、おそらく20世紀初の「ポストモダンのグル」であると評しており[69]、彼のレトリックは、ジル・ドゥルーズ、ミシェル・フーコー、ジャン=フランソワ・リオタールなどのフランスの哲学者のレトリックとよく似ていると指摘している[226]。
オショー・ラジニーシが説いた独自のスピリチュアリティにおいて、ダンスは中心のひとつであり、ダンスが流れるような瞑想として完璧に行われると、踊り手の自我はフロー体験に溶け込んで消え去り、ダンスだけが残るとされる[30]。アーバンは、こうした理解は仏教の「無我」等の伝統的な宗教的概念とポストモダンの「主体の死」の巧みな融合となっている述べている[30]。
影響を受けた思想・人物、類似性の分析
[編集]対立物の統一に対する彼の信念はヘラクレイトスを思わせ、一方で、無意識の神経症的パターンに従って無力に行動する機械という人間の描写は、ジークムント・フロイトやゲオルギイ・グルジエフと多くの共通点を持っている[232][281]。因習の縛りを超越した「新しい人間」というビジョンは、フリードリヒ・ニーチェの『善悪の彼岸』を彷彿とさせ[282]、彼の性的解放の促進はD・H・ロレンスと比較することができる[283]。そして彼の「ダイナミック(動的な)」瞑想は、ヴィルヘルム・ライヒに負っている[284]。同時代のジッドゥ・クリシュナムルティはラジニーシを認めなかったが、両者の教えには明らかな類似点がある[232]。
生家の宗派の開祖である、ジャイナ教ディガンバラ派(裸行派)の一派で、マディヤ・プラデーシュ州を中心とするターラン・パンタ派の開祖である15世紀のターラン・スヴァーミーの影響を受けており[285]、ハリー・エーヴリングは、彼の核となる教えはターラン・スヴァーミーの洞察に触発されたものだと述べている[74]。オショー・ラジニーシは、ターラン・スヴァーミーの著作『Śūnyasvabhāva(空の本質)』の意味を「悟れ!」、『siddhisvabhāva(究極の悟りの本質)』の意味を「空であれ!」と要約し、「この2つ(の本)には、(タランの)メッセージのすべてが詰まっている。1冊目は、あなたが誰であるか、つまり純粋な空を示している。2冊目は、それにどうやって到達するかであり、それは気づくことによってである。」と紹介している[74]。
オショー・ラジニーシの時に衝撃的な考えは、現代チベット仏教のチョギャム・トゥルンパや、アメリカ人のグルアディ・ダ、同様に精神的なショックの戦術とユーモア・パロディ・自由な性的実験を組み合わせた他の現代の「狂気の智恵(crazy wisdom)」と呼ばれる師たちの教えと多くの共通点があるが、オショー・ラジニーシがこうした霊的指導者で最も重視していたのは、物議を醸したアルメニア出身のカリスマ的な神秘主義者ゲオルギイ・グルジエフである[69]。大きく影響を受けた人物としてオショー・ラジニーシが挙げたのは少数だが、グルジエフをお気に入りの一人としており、過激な因習打破の教え、宗教や政治の正統性を挑発することに一種の喜びを感じていたこと、教え・実践の折衷性、ほとんどの人間は半ば眠っており人生は機械的な反応に過ぎないという理解、身体と感覚に重点を置き肉体的実践を重視したこと、信者たちを揺さぶり衝撃を与えることで目覚めさせようとするスタイルなど、両者には多くの基本的な類似点がみられる[69]。
1970年に提唱されたダイナミック瞑想は[240]、インドとヨーロッパのテクニックを融合させたものであり、インドの瞑想法の一側面と、グルジエフ、ポスト・フロイト派の精神分析、エンカウンター・グループ、ニューエイジのスピリチュアリティなど、「狂気の智恵(crazy wisdom)」の教師たちが持つ要素を組み合わせており、アーサー・ヤノフの原初療法やヴィルヘルム・ライヒのライヒ療法などの西洋の心理技法に明らかに影響を受けている[91]。オショー・ラジニーシは、ヒューマン・ポテンシャル運動、ニューエイジの重要な発信源のひとつであるエサレン協会から多くを学び、教団の活動にエンカウンター・グループやゲシュタルト療法を取り入れている(エサレン協会の創始者の一人ディック・プライスもまた、彼の教えから大きく影響を受けている)[286]。
カール=ペーター・ギーツは、西洋の心理学、特に人間性心理学とトランスパーソナル心理学の影響を指摘している[59]。性的抑圧と社会的・政治的支配は密接に関係しており、従って性的解放が社会的・政治的変革の究極の源泉だとするオショー・ラジニーシの考えは、精神分析家で心理療法と代替医療における「身体ムーブメント」の最重要人物であるヴィルヘルム・ライヒや、初期のヘルベルト・マルクーゼなどのポスト・フロイト派の理論家たちの思想を明らかに反映している[9][225]。教団で行われたグループ・セラピーには、性的欲求の抑圧に精神の不調の原因があると考えるライヒ派セラピーの影響がうかがわれる[105]。
ヒュー・B・アーバンは、彼の性愛に関する教えは、カーマ(欲望、快楽、官能)に関する古いインドの見解と、フロイト以降の精神分析学の融合であると評している[9]。オショー・ラジニーシの性愛の理解とタントラの再定義は、ライヒの研究に大きく依拠しており、クンダリニーは肉体に潜在する一種の原始的な性的エネルギーであるというオショー・ラジニーシの考えは、肉体を巡る生来の性的パワーであるオルゴン・エネルギーというライヒの概念と非常に似ている[225]。彼が言う「シャクティ」は、ライヒの「オルゴン・エネルギー」のようなエネルギーであり、女神ではなく、彼のネオタントラに神は不在である[70]。オショー・ラジニーシはライヒのことを、東洋の源泉とは独立してタントラ・セックスの秘密を発見した一種の西洋のタントリカだと認識していた[225]。オショー・ラジニーシとライヒの深いつながり、特にセックスに関する考え方は、一種のグローバルな拠点であった初期のプネーのコミュニティが持つ重要な特徴のひとつであり、1970年代の多くの西洋の求道者にとっての主な魅力でもあった[9]。
また、メディア研究者のイシタ・ティワリは、初期のプネー時代の運動は、チャック・デデリッヒのシナノン(薬物リハビリテーション・プログラムから新宗教運動になり、攻撃療法の一種「シナノン・ゲーム」を行った)、ジム・ジョーンズの人民寺院、リチャード・コリエールのフィーリング・セラピー・センター(原初療法から派生した過激な心理療法コミュニティで、虐待的カルトと化し、心理学史における大スキャンダルとなった)といった1970年代に始まった他の運動や、1960年代に始まったチャールズ・マンソンの「ファミリー」の経験を反映していたと述べている[94]。
運動の変革と死後の驚くべき神格化
[編集]運動の変革はオショー・ラジニーシの生前から始まっており、マリオン・S・ゴールドマンは、オショー・ラジニーシとその信奉者たちが、運動の失敗の原因をマ・アナンド・シーラとその側近たちに押し付け、彼女たちを追放したことから変革が始まったと述べている[34]。
また伊藤は、インド帰国後の動きと最晩年の改名について、「光明(悟り)を得た」マスターと弟子であるサニヤシンは対等な関係ではなく、一般的な意味での友人関係は成立し得ないが、オショーへの改名には、インド帰国後にアシュラムの脱制度化・脱セクト化を進める中、権威主義的な意味合いや組織的な上下関係が含まれないようにという意図があったと解釈している[51]。
ヒュー・B・アーバンは2005年に、オショー・ラジニーシはインドへの帰国後、特に死後の数年間で「驚くべき神格化」を遂げたと述べており、100年以上前にマックス・ミュラーが「電流のように、東洋の思想が西洋に流れ、西洋の思想が東洋へと戻る世界規模の輪」と呼んだものの強烈な実例であると評した[279]。教団がイメージの浄化・ブランド化のために行った対応については、#教えと歴史の再解釈と社会への適応の成功を参照。
ピーター・B・クラークは、オショー・ラジニーシが「インド国内で重要な教師として見られる」ようになり、「20世紀の主要なスピリチュアル教師のひとりとみなされるようになり、自己啓発に基づくスピリチュアリティの、『世界を(進んで)受け入れる』現在の傾向の最前線にいる」と述べている[280]。
カリスマ的指導者としての評価
[編集]多くの評論家がオショー・ラジニーシのカリスマ性に言及している。イギリスの精神科医・精神分析家のアンソニー・ストアは、オショー・ラジニーシとグルジェフを比較し、オショー・ラジニーシは「個人的に非常に印象的だった」「初めて彼を訪ねた人の多くは、自分の最も本質的な感情がすぐに理解され、判断されるのではなく受け入れられ、はっきりと歓迎されたと感じた。(オショー・ラジニーシは)エネルギーを発し、彼と接触した人々の隠れた可能性を目覚めさせるようだった」と述べた[287]。多くの弟子はオショー・ラジニーシの話を聞いて「彼に恋に落ちた」と述べている[288][289]。スーザン・J・パーマーは、批評家でさえ彼の存在感を証言していると述べている[288]。精神科医で研究者のジェームス・S・ゴードン(James S. Gordon)は、通りすぎるロールス・ロイスの中からオショー・ラジニーシに一目見られただけで、なぜか自分が子供のように笑い、見知らぬ人と抱き合い、目に感謝の涙を浮かべたりしたと回想している[290]。山下博司は、彼が多くの信者を集めたのは、説諭の巧みさもあるのだろうと評している[130]。講演を聞いて圧倒された人もいれば、そうでない人もいた[74]。ジャーナリストのフランシス・フィッツジェラルドは、オショー・ラジニーシの話を直接聴いて素晴らしい講演者だと評価し、彼の著書を読んでもわからなかったコメディアンとしての才能と、聴衆に深い影響を与える彼のトークの催眠的な性質に驚きを示した[291]。ヒュー・ミルン(スワミ・シヴァムルティ)は、1973年から1982年までプーナのアシュラムの警備隊のリーダーとして[292]、またオショー・ラジニーシの個人的なボディーガードとして近しく働いたが[293][294]、最初の出会いを振り返り、「プライバシーの侵害も感じず警戒心も湧かなかったが、まるで彼の魂がゆっくりと私の中に入り込み、一瞬のうちに重要な情報を伝えているかのようだった」と、二人の間に言葉以上のものが行き交ったという感覚が残ったと述べている[295]。ミルンはまた、オショー・ラジニーシのカリスマ的能力の別の側面にも注目し、「疑うことを知らない弟子を巧みに操る」人物であると述べている[296]。
足沢一成は、彼はインド脱出時・アメリカ脱出時の2度弟子たちを放棄しているが、それでも常に教団には2000人を超える信者が集まったとそのカリスマ性の強さを指摘し、何が魅力であったかを次のように分析した[297]。欧米人の弟子達にとって、インドの伝統的な思想であるアドヴァイタ・ヴェーダーンタと同じ構造の「悟り」をインド人の彼が語ったことが魅力であったこと、講話ごとに教えが異なるように見え全体が理解しがたいことが、高い教育を受けた欧米人サニヤシンにはむしろ挑戦し甲斐があると感じられたこと、多種多様なセラピー・瞑想法を提供し「自然であること」を重視し、自由、特にセックスの自由を与えたことが、欧米人の弟子たちにとって魅力であったと述べている[297]。
宗教学者のコリン・G・デンプシーは、サニヤシン達がラジニーシプーラムで長時間の重労働を進んで引き受けたのは、オショー・ラジニーシの強力な魅力の証しであると述べている[112]。デンプシーは、挑発的な哲学と機知で聴衆を魅了したインドとは異なり、彼は沈黙の誓いを立て、オレゴンでは最後の数か月まで公の場で話すことはなかったため、オレゴンでの運動の魅力を説明することは難しいが、住人が感じていた伝染するような喜びと、インドのグルの伝統や当時流行していた自己成長運動とサニヤシンを結び付ける彼の教えに関係しているようだと述べている[112]。デンプシーは、オショー・ラジニーシの世界観は経済的にも職業的にも成功している人々に特に魅力的に映ったようで、彼は、人は物質的な欲求が満たされれば、より効果的に彼の教えに「明け渡し」をすることができるため、恵まれた人々こそブッダフィールドに最も適していると考えていた、と評している[112]。
ヒュー・B・アーバンは、オショー・ラジニーシはマックス・ウェーバーによる、「本質的に非合理的で感情的な、並外れた超自然的な力、あるいは『恩寵(grace)』」を持つという、古典的なカリスマ的人物像に合致するように見えると述べた[298]。オショー・ラジニーシはあらゆる合理的な法律や制度を否定し、あらゆる階層的権威を転覆すると主張する点で、ウェーバーの言う純粋なカリスマ的タイプに一致しているが、アーバンは、彼の主張が内包する絶対自由の展望は、コミューンにおける官僚的組織や制度的な統制に帰着したと述べている[298]。
一部の学者は、オショー・ラジニーシが自己愛的な人格を持っていた可能性を示唆している[299][300][301]。オレゴン州立大学の宗教学名誉教授ロナルド・O・クラーク(Ronald O. Clarke)は、論文『The Narcissistic Guru: Bhagwan Shree Rajneesh(自己愛的なグル:バグワン・シュリ・ラジニーシのプロフィール)』の中で、オショー・ラジニーシが自己愛性パーソナリティ障害の典型的な特徴、たとえば、自分が重要で特別であるという肥大した感覚、無限の成功の空想へのとらわれ、絶え間ない注目と賞賛を求めること、自尊心への脅威に対する一連の特徴的な反応、対人関係の障害、身だしなみへの執着と頻繁な言い逃れや完全な嘘、共感性の欠如といった特徴を全て示していると述べている[301]。オショー・ラジニーシが自著『Glimpses of a Golden Childhood(黄金の幼少期のひととき)』の中で語った、甘やかされて育った孤独で扱いにくい子供で、宗教家や教育者の権威に頻繁に挑戦していたという子供時代の誇らしげな回想を、クラークは「自己愛的なグル」と切り捨て、彼が過度の甘やかしをする祖父母のもとで育ったために、根本的な親のしつけ不足の影響を被ったのではないかと示唆した[301][74]。クラークは、オショー・ラジニーシが仏陀を自称したのは、自己愛性パーソナリティ障害に伴う妄想体系の一部であり、自我を手放したというより、むしろ自我の肥大の状態であると結論付けた[301]。彼は、アメリカでのサニヤシン達の犯罪やラジニーシプーラムの崩壊に自分にも責任があるかもしれないと認めることはなかった[74]。
思想家・言論人としての広範な評価
[編集]ラジニーシの思想家、講演者としての資質については、様々な評価がある。著名な作家・歴史家でヒンドゥスタン・タイムズ紙の元編集者クシュワント・シンは、オショー・ラジニーシを「インドが生んだ最も独創的な思想家。最も博学で、明晰で、革新的」と評している[302]。シンは、オショー・ラジニーシは「自由思想の不可知論者」であり、最も抽象的な概念を機知に富んだ逸話を交え易しい言葉で説明する能力を持ち、神々、預言者、聖典、宗教的慣習を嘲笑し、宗教にまったく新しい次元を与えたと考えている[303]。ドイツの哲学者ペーター・スローターダイクはオショー・ラジニーシのサニヤシン(1978年から1980年までプネーのアシュラム在中)だったが、彼を「宗教のウィトゲンシュタイン」と呼び、世界の諸宗教が行う言葉遊びの根本的な脱構築を行ったとみなし、20世紀の最も偉大な人物の一人に数えた[304][305]。エリザベス・パティックは、オショー・ラジニーシは「霊性の本質を統合する哲学と雄弁の才能により、その知性の幅広さと奥深さを賞賛」されたと述べている[306]。
1980年代初頭、一般紙では多くの論者がオショー・ラジニーシを否定的に見ていた[307]。オーストラリアの批評家クライヴ・ジェイムズは彼を「バグウォッシュ」と軽蔑的に呼び、彼の講話を聴くことは、コインランドリーで洗濯物が回るのを何時間も眺めるようなものだと喩え[307][308][309]、「彼のようなタイプとしてはマシな例」ではあるが、「操られやすい者を操り、互いに操り合うよう仕向ける、虫の好かない奇人」であると述べた[307][308][310]。バーナード・レヴィンはタイムズ紙にオショー・ラジニーシの講演に対する熱狂的な批評を書き、同じくタイムズ紙に寄稿しているドミニク・ウジャスティクはこれに応じて、プネーのアシュラムを訪問した際に聞いた講演は非常に低水準で、うんざりするほど繰り返しが多く、事実誤認が多いという意見を述べ、オショー・ラジニーシを取り巻く個人崇拝に不穏なものを感じると述べている[307][311]。
1970年代半ばに悟りを求めて運動に参加したインドの著名な映画監督マヘーシュ・バットは、彼は偉大な成功物語の主人公で、根性があったが、結局のところ、単なる快楽の行商人、最高のエンターテイナーであり、信者を約束の地に連れて行ったが、彼らのために天国の扉を開くことはできなかった言葉の達人(wordsmith)だったと評している[48]。
1990年1月にシアトル・ポスト・インテリジェンサー紙に寄稿したアメリカの作家トム・ロビンズは、オショー・ラジニーシの著書を読んで、20世紀「最大のスピリチュアル教師」だと確信したと述べた。ロビンズは自分が弟子ではないと強調しながらも、さらに「悪質なプロパガンダや偏った報告を多く読んだことで、ラジニーシは歴史上最も中傷された人物の一人ではないかと疑った」と語っている[302]。ジャプジとして知られるシク教の経典のオショー・ラジニーシの解説は、インドの元大統領ギャーニー・ジャイル・シンによって、入手可能なものの中で最高であると称賛された[312]。また、作家のファルク・ドーンディは2011年にコラムの中で、映画スターのカビール・ベディがオショー・ラジニーシのファンであり、その著作を「彼が出会ったインド哲学の最も崇高な解釈」と見なしていると語った[312]。
ドーンディ自身はベディとは見解が異なると述べ、オショー・ラジニーシは「インドが生んだ最も賢く知的な信用詐欺師(confidence trickster)だ。彼のインドの文献の『解釈』は、特に幻滅した欧米人の一世代に向けられたもので、彼らは『ケーキを残しておき、かつ食べる(矛盾する二つのことを両立させ、いいとこ取りをする)』ことを望み(おそらく今も望んでいる)、そして同時に、古代の智恵と融合した科学的な知恵によればケーキを食べることが最高の美徳だ、と言い張っている。彼の講話は、ショーペンハウアーの哲学や、シャンカラのアドヴァイタ・ヴェーダーンタの一元論的な根本原理を理解するのが難しい人々のために作られている。マスター・オショーがヴェーダーンタや、スピノザ、十字架の聖ヨハネの真髄を読み、消化したことは大いにあり得るが、彼の『哲学』についての解説を読んでもそれは伝わってこない。そのテキストや講話は説教(訓話)でいっぱいで、日々の幸福や心の平穏へと導くものであるように思える。」と評している[313]。
教団におけるセラピーの機能
[編集]スーザン・J・パーマー(Susan J. Palmer)とフレデリック・バードは、ラジニーシプーラムの時代、こうしたセラピーは、儀式を通じて新しいメンバーのタブー意識を破壊し、新しいアイデンティティを構築させ、コミューンの代替的な性倫理を教育し、メンバーをコミュニティに迎え入れる機能を持っていたと考えている[314]。また、オショー=ラジニーシ運動に見られるエサレン風のヒューマニズムと東洋風のグル崇拝は両立し難いものだが、グループ・セラピーが、個人主義的な癒しの重視と、共同体的な信心重視の間の絶え間ない葛藤を解消する場になっていたとみている[314]。伊藤雅之は初期のプネーのアシュラムで行われていたセラピーについて、「ORM(オショー=ラジニーシ運動)独自の新しい倫理観と関係性のパターンをメンバーに教育する機能を果たしていたと言えるだろう。」と述べており、サニヤシン達は「何の価値観ももたず瞬間瞬間をトータルに生きる」「自分自身になる」ことを求めていたが、メンバーが増え社会化が進んでいったアシュラムの中で、運動のライフスタイルを学び、身につけ、オショー・ラジニーシと彼の教団へのコミットメントを深めていったと述べている[27]。
「本当の自分」
[編集]伊藤雅之は、オショー=ラジニーシ運動には、「『本当の自分』になることが、結果的に特定集団が求める人間像を体現してしまう」「特定集団が求める人間像を受動的に受け入れてしまう」というニューエイジ運動と同様のジレンマが見られ、サニヤシンの場合、「本当の自分」になっているかの判定基準はサニヤシン自身にではなく教団側にあり、「場合によっては運営スタッフに操作されていることに気づかず、『自分自身になる』道を自発的に模索していると考えやすい」と指摘している[315]。
物質主義の熱烈な支持とロールス・ロイス
[編集]彼は世俗的なものと神的なものを統合した新しい人間というビジョン、ゾルバ・ザ・ブッダの理想に何度も立ち戻った[52]。それはインドの神秘主義者の霊性を持ち、物質主義的な西洋人の生を受け入れる完璧な存在であった[52]。禅、タントラの伝統、繁栄の神学のアイク牧師のメッセージがビジョンの中で融合しており、彼は明らかにこの理想を楽しんでいた[52]。
オショー・ラジニーシは後に、93台のロールスロイスという馬鹿げたコレクションは、太った国会議員や億万長者のテレビ伝道師に代表される、アメリカの政治や宗教生活にある物質主義への皮肉なパロディだったと振り返っている[226]。「アメリカ人は自分たちが世界一の金持ちだと思っている。しかし、私が93台のロールスロイスを使った簡単なジョークを作っただけで、彼らのプライドはすっかり消え失せてしまった[226]。大統領でさえ嫉妬し、知事も嫉妬し、聖職者も嫉妬した。...私はアメリカのプライドを壊した!93台のロールスロイスなど必要ない。これは悪ふざけだったのだ」[226]。
サニヤシンたちはロールス・ロイスのコレクションの背後にユーモアを読み取り、彼を賞賛していた[52]。サニヤシンたちはまた、他の多くの宗教団体の熱心な信者が指導者の絢爛さを喜ばしく思うのと同様に、師の豪奢な格好をうれしく思っていた[52]。
彼の物質主義への熱烈な支持はアメリカのメディアを狂乱させ、当時のアメリカのほとんどの一般人は、ラジニーシプーラムの特徴として、何よりも彼のロールス・ロイスのコレクションを今でも記憶している[52]。
ヒュー・B・アーバンは、彼のロールス・ロイスのコレクションは、ただのジョークではなく、もっと複雑なものだが、彼独特のポストモダンの皮肉のセンス、遊び心、そして臆面もない消費主義が非常にはっきりと見られると述べている[226]。マリオン・S・ゴールドマンは、ロールス・ロイスのコレクションは、彼の形而下の世界(物質世界)への支持と、アメリカ人の自動車崇拝に対する彼のひねりの両方を象徴していたと評している[52]。彼が最初にロールス・ロイスを所有したのはインドで、インドにはイギリス領時代にまで遡る車と王族との結びつきの伝統があった[52]。宗教学者のコリン・G・デンプシーは、オショー・ラジニーシは物質的な富を特に軽蔑せず、成熟した経済システムとしての資本主義を公然と支持しており、この人目を惹くロールスロイスの展示は、多くの点で彼の考え方と一致していると述べ、ロールス・ロイスは富裕と成功の象徴であり、より具体的には植民地時代の宗主国イギリスの象徴であると指摘している[112]。さらにデンプシーは、このロールス・ロイスのコレクションは、安価な労働力で一種の帝国を築いたグルと、土地を生き返らせた善良な入植農民というより、地元の土地の破壊者のように振舞うサニヤシンという舞台を整えることになったと分析している[112]。
思想・実践が含む危険性・暴力性について
[編集]最初のプネーのアシュラムのモデルともなったエサレン協会の創始者のひとりディック・プライスは、オショー・ラジニーシの著作を読んで熱狂的に傾倒し、オショー・ラジニーシからサニヤシン名をもらうほどだったが、2週間プネーに滞在して、対面セッション中に骨折や怪我を目撃し、アシュラムで起きている暴力行為に懸念と衝撃、恐怖を表明した[9]。プライスはプネーで、参加者に「暴力を演じる(play at being violent)」(アメリカで実施されていたエンカウンターグループの規範)のではなく「暴力的になる(be violent)」ことが奨励されていることに気づき、「未熟なエサレン・グループリーダーたちが仕出かした最悪の過ち」と批判した[128]。またプライスは、グルに対する無条件の帰依は、エサレンの民主主義と反権威主義的リーダーシップへの取り組みと真逆であり、アシュラムの権威主義的な雰囲気を激しく嫌うと述べた[9]。
ヨーガにおける不適切な性的接触に関する在野の研究者マシュー・レムスキーは、ドイツ人映画監督が隠しカメラで撮影したダイナミック・セラピーの様子(「ワイルド・ワイルド・カントリー」第2話収録)について、スピリチュアルなカタルシスを装って正当化された身体的・性的暴力であると評している[316]。
アバディーン大学の社会学教授スティーブ・ブルースは、指導者の一部は、性的パートナーに対する執着は克服すべき欠点であるという教えを、自分たちが搾取できる信者を増やす方法として、覗きの口実として利用していたと指摘している[117]。また、「こうした行為(教団内で未成年者が受けた性的行為。後述)の多くは、子供たちが(求められたことに)厭わず進んで応じたとしても、性的同意年齢をはるかに下回っていたという点で、明白に法定強姦であった。」と指摘し、こうした性的搾取の側面、特に子供たちの性的搾取は、オショー・ラジニーシの性的自由の教えと弟子たちの性への寛容さの邪悪な側面だと評している[117]。
グルへの「明け渡し」
[編集]彼は、グルは「全体」と結びつき「聖なるエネルギー」に満たされており、そのエネルギーを弟子に与えることができると述べている[317]。足沢一成は、「これはグルが弟子に『悟り』を与えるというようにも理解でき、エゴがなければエネルギーが注ぎ込まれるということを考え合わせると、グルへの絶対服従を意味するものとなる。ラジニーシは、この絶対服従を『明け渡し』という言葉で表現している。しかし、この考え方が教団の閉鎖性や反社会性を増長させた要因ともなったであろう。」と分析している[317]。
ラジニーシプーラム時代には、「明け渡し」はサニヤシンが個人財産を放棄し教団に物・人を捧げることを正当化する理論として使われていた[38]。宗教学者の大田俊寛は、ラジニーシプーラムでのサニヤシンの労働は、コミューン以外に帰属先のない多くの者にとって「事実上強制的なもの」となったと述べている[253]。
善悪の価値判断の相対化
[編集]伊藤雅之は、オショー・ラジニーシの世界観はホリスティック(全体論的)であり、他のニューエイジの言説と同様に、「善悪の価値判断(倫理)を相対化する傾向」があると指摘している[258]。
オショー・ラジニーシやニューエイジに見られる「いま、ここ」を重視し、善悪の判断基準を相対化する態度からは、自分の「瞬間、瞬間の行為が正しいかどうかを、既存の価値基準を使わずにいかに判断するのか」というジレンマが生じる[318]。
伊藤雅之は、「ラジニーシが掲げる『何の価値観ももたずに、いま、ここで覚醒する』という主張は、特定の規律や倫理的基準を与えず、むしろそれを否定する傾向にある。ということは、担い手たちがスピリチュアリティを追求する際に、具体的に『何をするのが正しいのか』に関する一定の見解は与えられず、物事に対するさまざまな解釈を容認する結果となってしまう。ORM(オショー=ラジニーシ運動)の諸活動、特にオレゴン期の問題へのサニヤシンの判断力の欠如には、(社会的条件づけの結果である)既存の価値観に基づいて善悪を判断することへの躊躇が関連していたと思われる。元来は、社会からの拘束や罪悪感から個人を解放するために掲げられた『いま、ここを生きる』という理念も、特定の状況下においては逸脱的な行為を容認してしまう可能性を招くのである。」と指摘している[235]。少なくないサニヤシンが、マ・アナンド・シーラらオショー・ラジニーシの側近は意識レベルが高い、悟りに近い存在であると捉えていたが、事件後は等身大の人間として扱い、権力や金に目がくらんで罪を犯した等と理解するようになった[319]。
伊藤は、オレゴンでの一連の事件に対する当時の日本人サニヤシンの態度は、「組織を疑いつつラジニーシを信頼するという状態にとどまり続けている者が多い」と述べ、オショー・ラジニーシが幹部らの犯罪に関与していた、または関与していなくても知っていた可能性が十分にある状況で、それでもサニヤシンが彼への信頼を失わなかった理由として、「ラジニーシが光明(悟り)を得たマスターであるという揺るぎのない確信」があり、悟った人を一般人が判断できないというロジック、悟った人の行動は自分の経験や価値観を超えている可能性があるという慮りを挙げている[320]。伊藤が取材した日本人サニヤシン達は、彼が「マスター」という前提で、隠された意図があると考えてそれを探し、サニヤシンの学びのチャンスや戒めなどと解釈を行っている[321]。こうした態度には「マスター」への強い感情的絆が伴っており、オショー・ラジニーシの導きで意識変容、自己変容を体験したと考えていることが大きい[320]。伊藤は、オショー・ラジニーシを「計り知れない存在」と捉えることは、悟った人を一般常識や先入観で判断することを戒めてきた彼の講話の影響であり、「ORMでの経験を通じて体得した、サニヤシンの存在理由に関わる態度」だと指摘している[320]。
スピリチュアルな体験で深まったサニヤシン達のオショー・ラジニーシへの信頼、感情的絆は、他者への無関心な態度と裏表である[322]。伊藤は、「当事者たちの個的なレベルにおいては自己変容したわけだし、事件のことは自分とは関係ない」というサニヤシンの論理について、「これは一般社会からすると脅威でもある」と述べている[322]。
ジャーナリストのフランシス・フィッツジェラルドは、個人的解放と人間的成長の場からの急速な軍事キャンプ化という教団の変化、幹部たちの数々の犯罪行為と逮捕、ラジニーシプーラムの解散、オショー・ラジニーシの国外追放は、ラジニーシプーラムに参加した多くのサニヤシン達の強い情愛の気持ちを減少させることはほぼなかったと指摘している[323]。
オウム真理教への影響・類似の指摘
[編集]オウム真理教による地下鉄サリン事件(1995年)以前にも、麻原彰晃とオショー・ラジニーシの共通性、麻原への影響が指摘されていた[324]。宗教学者の島田裕巳は、オウム真理教の弟子たちが使うホーリーネームや麻原の服装や説法スタイル等、オショー・ラジニーシの影響がうかがわれる点が複数あることを指摘している[324]。宗教学者のマルティン・レップは、麻原が阿含宗の会員だった1980年代前半、ラジニーシ運動が日本で活発に活動していたと述べ、麻原の長髪や出家信者のインド風の衣服(クルタ)はインドの影響を示していると指摘している[325]。
また、宗教学者の中沢新一は麻原と会った際に、「ラジニーシのようなタイプのラジカルな宗教家[† 12]」と評しており、伊藤雅之はこれを、中沢がオウム真理教の反社会性に気づいての人物評だとしている[324]。
伊藤雅之は地下鉄サリン事件について、ラジニーシ教団によるバイオテロ事件と類似した事件だと評している[326]。宗教学者大田俊寛は、「オウムについて多面的に考察するために参考となるようなケース」として「ラジニーシ教団のサルモネラ菌混入事件」を紹介しており[327]、「ラジニーシ教団の発展から崩壊に至るまでの経緯は、オウムのそれと類似した点を多く含んでおり、大変興味深い。同時にこのことは、オウムのような現象が、決して日本のみに見られる特殊なものではないということを示してもいるのだろう。」と述べている[189]。春秋社編集部は、ラジニーシ教団は「規模こそ小さいがオウム事件そっくりの軌跡をたどった」と述べている[328]。
教団・サニヤシンについて
[編集]2005年出版の井上順孝 編『現代宗教事典』(弘文堂)では、「ラジニーシ運動」という項目名となっている[329]。
オショー・ラジニーシの弟子は、サニヤシン、ネオ・サニヤシン、ラジニーシーとも呼ばれ、オレンジ色や赤色の衣を着るルールだったため、「オレンジ・ピープル」とも呼ばれていた[34][330]。ラジニーシプーラムの計画や、それに伴う強い世間の注目は、運動の人気を示しているかもしれないが、アメリカ以外の拠点はさほど大きくなく、イギリスの大きな都市のコミューンでも住人が500人を超えることはなかった[117]。
彼の教えは柔軟でポストモダン的であり、サニヤシンになるのは比較的簡単だった[52]。1970年代には、プネーでサニヤシンになり、その後数年間プネーのアシュラムに住む者もいた[52]。プネーに短期滞在したり、ラジニーシプーラムに滞在したり、また1982年まで活発だった都市部のラジニーシ・センターで短い儀式を行い、性急に運動に参加する人もいた[52]。1970年代後半には、多くのサニヤシンは単にプネーの中央事務所にカードを送り、サニヤス(イニシエーション)を依頼し、新しい名前とラジニーシの写真が入ったロケットの付いた数珠を受け取って、運動に参加した[52]。1970年代初頭から1990年にかけて、入信希望者はファーストネームを引き続き使うか(現在はそれに「マー」または「スワミ」を付ける)、彼から実際に授けられたわけではないにせよ、インスピレーションを受けた新しいヒンドゥー教風の名前を希望するかを申込書に記入した[52]。
サニヤシンはどこに住んでいても互いに頻繁に訪問し合い、集まり、瞑想するなどしている[52]。時間とお金に余裕がある人はプネーの教団(リゾート)本部まで足を運ぶが、近年(2004年時点)は以前ほど頻繁な訪問は行われなくなってきている[52]。
ラジニーシプーラム崩壊後、オショー・ラジニーシへの帰依を捨て新しいスピリチュアルな道を模索する人々もいたが、大半の人は(少なくとも一時的には)、スピリチュアル・マスターが何らかの形で自分たちの未来を導いてくれるという揺るぎない信仰を持ち続けていた[52]。非常に裕福なサニヤシンはユートピア建設に捧げた年月を気にもせず去っていったが、専門的な資格や技能を持たないサニヤシンは、履歴書に大きな空白を抱えて苦労することになった[52]。恵まれた立場のサニヤシンがこうしたサニヤシン達を助け、仕事を紹介したり、時には就職先を提供することもあった[52]。教団での経験が創造的な問題解決アプローチやプロセスと結果への関心を育み、仕事のスキルを高め成功した人も少なくない[52]。
ラジニーシプーラムの住人のほとんどは、オショー・ラジニーシからサニヤス(イニシエーション)を受けた時に精神的・霊的な問題は解決し、人生についての根本的な疑問の答えを見つけたと信じ続けていた[52]。彼への帰依を棄てた人々でさえ、自分の人生に欠かせない重要な存在として、別れた元伴侶のように彼を思い続けていた[52]。運動に参加した年月は帰依者の目標や世界の見方を根本的に変え、少なくとも2年間活発なメンバーだった人々は互いに似通っている[52]。長期のメンバーは、熱心な宗教集団の一員として身につけた精神的な優先順位を変えることはめったになく、たとえ離脱したりグループが崩壊してもそれは変わらない[52]。社会の主流派に近づいたとしても、活動で身につけたものの見方を持ち続けている[52]。
サニヤシンの属性・特徴
[編集]サニヤシンの初期の調査では、「平均的なラジニーシーは『中流階級』で、十分な教育を受け、専門資格を持ち、少なくとも一度は離婚し、『個人的な危機』を経験し、神秘主義、麻薬、政治、フェミニズムを経験し、『30代』で、要するに現代風にアレンジされたカウンターカルチャー主義者である」と示唆されている[74]。
ドイツの社会学者K・P・ホーンは、1979年から1980年アシュラムの人口構成に関する広範かつ詳細な調査データを提供しており、それによると、メンバーに占める女性の割合はわずかに高く、メンバーの大多数は26歳から35歳の間で、主に白人だった[74]。インタビューを受けたドイツ人の大多数 (56%) は父親が大学学位を持っていたが、41%は労働者階級の出身であると述べていた[74]。アメリカ人の81%は中流および上中流階級の家庭出身で、3分の2は高等教育を受けていた[74]。宗教的には、ドイツ人の標本の38%がカトリック教育を受けており、21%がプロテスタント、39%が宗教教育を受けていないと述べており、キリスト教以外の伝統の出身者はわずか2%だった[74]。アメリカ人の標本のうち、24%がカトリック、43%が非カトリックの伝統の中で育ち、特別な宗教教育を受けていない者はわずか8%だった[74]。ドイツ人の3分の1、アメリカ人の半数以上が他の宗教団体と関わった経験があった[74]。インドの宗教思想に精通している者はほとんどいなかったようである[74]。
彼らがラジニーシに惹かれた理由は多岐にわたり、一部は「探求心」、新しい意味を持つ別の生き方を求めることに関係する[74]。長く続く「個人的な苦悩」や、従来の社会の価値観や慣習に対する幻滅がきっかけになることもあった[74]。性に対する態度とコミュニティに特に感銘を受ける者もいた[74]。多くはオショー・ラジニーシ自身が理由であり、彼の「カリスマ性」、彼の眼、彼の講話、彼のほんの一言といった、彼について知ったことの確認のためにやって来た[74]。瞑想の経験に心を動かされ、自分自身をよりよく知りたいと思った者もいた[74]。
オショー・ラジニーシは西洋人が抱える問題について「西洋では、基本的な問題はどのようにコミュニケーションし、どのように関係を築くかである。多くの西洋人がここにいる。彼らがダルシャンで私のところに来るとき、彼らの問題は100パーセント人間関係の問題、つまりどのように関係を築くかという問題である」と述べており、西洋人サニヤシンの悩みを人間関係の問題だと考えていた[74]。
オレゴンのコミューンの住民の社会学的構成については様々な意見がある[74]。ヒュー・ミルンは、1982年9月までに、以前のメンバーは「非常に若くて生意気なアメリカ人」に取って代わられたと述べており、彼らは教育水準が低く、旅行をしたことがなく、「最初のメンバーが抱いていたのと同じ考え」を持っていなかったとしている[74]。しかしこの1年後、C・A・ラトキンらは、新しい「ユートピア」に住む人々の人口構成はインドのアシュラムのそれを再現していると示唆した[74]。ラトキンらが1983年8月から10月にかけて行った調査によると、回答者の半数強が女性であり、平均年齢は約34歳、90%以上が白人で、宗教的背景はキリスト教とユダヤ教が過半数を占め (それぞれ57%、20%)、95%が高校を卒業しており、65%が大学を卒業していた[74]。
現在の勧誘の対象は、年長のサニヤシンの子供たちや、個人的な探求と、物質的なものと霊的・精神的なものの融合というメッセージに共鳴する、豊かな工業国の21歳から50歳までの人々である[52]。
女性サニヤシンの多さと権力、ジェンダー
[編集]この運動は女性がかなり多く、様々な推定によると、運動の初期の歴史において女性の割合は 3:1 から 3:2 の範囲で男性を上回っていた[9]。インドのアシュラムでは、「パワーレディ」と呼ばれる女性の中核グループが執行部の地位を占めており、アメリカのラジニーシプーラムでは、女性が指導的地位の80パーセント以上を占め、彼女たちリーダーは「ママ」または「スーパーママ」と呼ばれ、マスコミはその権威構造を「マ・アルキー(ma-archy、マの政体)」と呼んでいた[254]。マ・ヨーガ・ラクシュミーやマ・アナンド・シーラ等のパワフルな女性たちが重要な役割を果たし、彼女たちには、女性に対しては異例ともいえるスピリチュアルな権威が与えられており、オレゴン州のラジニーシプーラムのコミューンでは、オショー・ラジニーシが沈黙しシーラとその女性の仲間が運動の公的な代弁者となることを許可したため、少なくとも目に見える形では、ほとんど女性によって運営されていた[9]。スーザン・J・パーマーは「母権制のユートピア的実験」と評している[254]。とはいえ、教団トップのオショー・ラジニーシは男性であり、エリザベス・パティックが男性教祖の下の女性幹部について「男性の主人に絶対服従するという文脈において、女性にどこまで権限を与えるかという問題にすぎない」と指摘しているように、オショー=ラジニーシ運動で霊的・組織的指導者となった女性幹部たちにとって、あくまでオショー・ラジニーシが霊的なマスターであり続けた[260]。
女性のサニヤシンは、妻や母親の役割を拒否する傾向がある[254]。宗教学者のサラ・M・パイクによると、オショー=ラジニーシ運動に参加した親の中には、スピリチュアルな成長の方が重要なのだから、子供を残してアシュラムに入ることは正しい選択だと考える者もいた[331]。
パーマーは新宗教における性同一性を、相補的な性(Sex complementarity)、両極的な性(Sex polarity)、単一の性(Sex unity)に分類し、オショー=ラジニーシ運動における性同一性は、両極的な性であるとしている[254][† 13]。
コミューンではジェンダー役割を逆転させる実験も行われており、男性は「優しい」または「美しい」と評され、女性的な資質を伸ばすよう奨励されたのに対し、女性は「強い」および「ダイナミック」であると称賛された[254]。ラジニーシプーラムの建設中には、性別に基づく仕事の役割が交換され、女性は土木機械を操り、男性はひとり親が連れてきた子供たちの世話をし、キッチンを管理した[254]。ユニセックスのファッション、香水、イヤリングが男女で共有され、トイレや寝室も男女共有だった[254]。
多くののラジニーシ運動の参加者にインタビューした社会学者マリオン・S・ゴールドマンは、ラージニーシ・プーラム崩壊の数年後に元メンバーに調査を行ったところ、女性たちはここでの経験を非常に高く評価していた[260]。彼女たちの多くは運動から離脱していたが、参加していた時期は人生において重要なものだった考えており、子どもを持たないようにというオショー・ラジニーシの教えに従った女性たちに、後になってその選択を後悔することはほぼなく、「彼女たちは、母親になる運命ではなかったと信じており、現在の養子や姪、甥との問題について話す人もいた。子どもを持つことは自己実現を困難にする、というバグワンの多くの警告により、彼女たちのうち2人は20代、30代で中絶せざるを得なかった。…彼女たちの話には悲しいこともあったが、母親になることが自分にとって良いことだとは思っていなかった」[260]。彼女たちは、オショー・ラジニーシが伝統的な性別役割の期待から解放してくれたと感謝しており、彼の励ましのおかげで、子どもを持たず、霊的・精神的な成長と自己実現を最優先にすることができたと考えている[260]。
サニヤシンのパートナー観
[編集]サニヤシンにとっての主要な関心は自己変容であるため、パートナーとの関係においても、相手を幸せにする、子供を産んで幸せな家庭を築くといった既存の価値観を理想とせず、その関係を通した自分自身の内的成長が重視され、こうした独特のパートナー観はセラピーを通して強化される[332]。サニヤシンは、パートナーと一緒に暮らしながらも結婚しないライフスタイルが一般的である[332]。オショー=ラジニーシ運動では、瞬間、瞬間を自分の感情に完全に正直に生きることが理想だと考えられ、たとえ恋人がいても、この瞬間に別の人に恋に落ちてもおかしくないので、長期的・永続的なパートナーとの関係性を重視しない[332]。伊藤雅之は、長期的・永続的な関係性を重視しないことは、(生涯独身だった)オショー・ラジニーシの生き方と深い関連があるとしており[332]、サニヤシンの間では、浮気をした人より、浮気されて嫉妬する人の方が、「関係性に執着している」として批判される傾向があるという[332]。伊藤は、こうしたサニヤシンの価値観は一般的な日本人のものにも反するが、ニューエイジ思想一般ともやや異なるようだと述べている[332]。
中絶・不妊手術の奨励
[編集]オショー・ラジニーシは、地球は人口過多のため厳格な産児制限をすべきで、スピリチュアルな成長のためにも子供を持つべきではないと考えており、アメリカのオレゴンやイギリスのコミューンで子供が生まれることはほとんどなく[333]、避妊、不妊手術(断種)、中絶が受け入れられていた[331]。運動のメンバーは、性行為と生殖を切り離して考えており[260]、プネーのアシュラムでは、指導者の間では不妊手術が一般的に行われており、特に男性は、手術による身体的負担が少ないため不妊手術が行われていた[254]。妊娠中の女性は中絶するよう迫られ、不妊手術を受けることは、運動への帰依の証だった[117]。活発な性生活を送る4000人の住民がいたラジニーシプーラムでは、設立から4年たっても一人の子供も生まれなかった[254]。
サニヤシン親子と子ども達
[編集]アメリカのラジニーシプーラムとイギリスのメディナの共同体では子供は生まれなかったが、親に連れてこられた子供たちが育てられていた[260]。教団では共同育児が行われており、子供が望んでも母親のそばにいることはできなかった[117]。親であるサニヤシン達は、共同体の中で親としての生活が楽になったと感じていた[260]。中核メンバーは運動に完全にコミットすることが求められ、上級管理職の決定に従って世界中のあちこちに配置され、子供たちは親から引き離されていた[117]。エリザベス・パティックは、彼女がインタビューした子供がいる男性サニヤシンは離婚しており、親権を持ったり定期的に子供と接触したりする者はいなかったと指摘している[260]。
社会学者のスティーブ・ブルースは、誰の証言でも同じく、子供たちはひどくネグレクトされていたと述べている[117]。
また、アシュラムの学校では、一般的なカリキュラムを教えることや、生徒に正式な試験を受けさせることを拒んだため、彼らは大学進学や中流階級的なキャリアは望めず、コミューンの生活で得た個人のスキル(家屋の修理やマッサージ等)と自発性に頼って生きざるを得なかった[117]。
スティーブ・ブルースによると、幼少期の社会化のインパクトは大きく、教団内での厳しい成育環境にもかかわらず、彼らの多くは運動に近い信念や価値観を持ち続けている[117]。
性的な環境、未成年者の性行為・児童性的虐待の報告
[編集]ティム・ゲスト[† 14]の著作『My Life in Orange: Growing Up with the Guru(オレンジでの私の人生:グルと共に育つということ)』[† 15]は、母親が運動の幹部であった子供の立場からラジニーシ運動について詳細に記述した非常に優れた著書と評価されているが、10歳以下の児童が性行為を受けていたこと、自分が誰とセックスしたか子供同士で普通に話していたこと等を書いている[† 16]。ラジニーシプーラムに連れてこられた子供たちは、周囲がセックスにあふれた環境で放置されることで、必然的に性的なことを探求する子供が多かったという[334]。また作中で比較的軽く扱ってはいるが、ラジニーシプーラムにおける未成年者への性的虐待も記録している[117]。ゲストによると、14・15歳といった年頃の少女に対し、グループリーダーのサニヤシンがやって来てセックスの手ほどきをすることが多かった[334][† 17]。
元サニヤシンのジェーン・ストークは、自身の体験を語った2009年の著作『Breaking the Spell: My Life as a Rajneeshee and the Long Journey Back to Freedom(呪縛を解く:ラジニーシの弟子としての私の人生、そして自由への長い旅)』で、チャールズ・H・ターナー暗殺計画への関与、オショー・ラジニーシの主治医の殺人未遂への関与と共に、ラジニーシプーラムで子供たちが児童性的虐待を受けていた事を語っている[336]。
幻覚剤との関わり
[編集]インドでの幻覚剤LSDの製造
[編集]伝説的なLSD「オレンジ・サンシャイン」を大量に製造し、サイケデリック界で知られた地下化学者ニコラス・サンド[† 18]は、オショー・ラジニーシの教えに魅了されプネーのアシュラムに入り、プラヴァシ(Pravasi)と名乗り、アシュラムの畑作りを手助けした[337][160]。サンドはサニヤシンになってからインドにLSDを持ち込んだと語っており[338]、彼がインドでの3年間で製造したLSDは数百万回分に及ぶ可能性が高い[160]。
サンドはオレゴン州への移動にも付き従い、ラジニーシプーラムの発展に関わった[337][160]。
幻覚剤MDMAの国際的普及への関与
[編集]幻覚剤の一種MDMA(通称エクスタシー)の1980年代初頭の国際的な普及は、オショー・ラジニーシの弟子たちの行動の結果であると考えられており、著作家のティム・ピルシャーは「薬物の有用性が弟子たちの間で広まるにつれて、80年代前半から中頃にはアメリカ全土、そしてその後は世界中に流通ネットワークが構築された」と述べている[237]。幻覚剤に関するヨーロッパの権威であるハノーバー医科大学のトルステン・パッシー医学博士によると、コミューン内でMDMAが治療目的や「スピリチュアルな」目的(例えば瞑想の補助)に使用されていたことが知られており、取材したサニヤシンの一人は、オショー・ラジニーシの弟子の何人かは、1979年にMDMAについて聞かされ、それが「ビジネス、セラピー、そして娯楽」に役立つ便利なツールであると気づいたという[237]。また、オショー・ラジニーシはサイケデリック薬(幻覚剤)に親しみがあり、それを使用したがっていたとも述べている[237][† 19]。ジャーナリストのマシュー・コリンによるアシッド・ハウスとMDMAの歴史書『Altered State』には、「バグワン運動は起業家精神にあふれ、外向的だった…それは、その運動に惹かれた人々がエクスタシーを普及させただけでなく、アメリカ外への普及につながる流通システムを確立したことを意味する。」と書かれている [339]。
トルステン・パッシーがインタビューしたオショー・ラジニーシの信奉者のひとりは、弟子たちが1980年代初頭にMDMAの流通に関与し、特にヨーロッパ (スペインのイビサ島、オランダのアムステルダムなど) での初期の流通は、オショー・ラジニーシの信奉者の何人かが共同で指揮していたとしており、これは麻薬の研究者アルノ・アデラーズの調査結果と一致している[237]。
トルステン・パッシーは、MDMAの主な生産者の一人マイケル・クレッグが、「ラジニーシ・コネクション」を通じて流通に関与していたことは明らかだと述べ、クレッグ自身が1979年に初めてMDMAを使用し、それを宇宙的でスピリチュアルな体験と感じて熱狂し、これを広め世界を救うという使命に乗り出したと述べていることから、彼がオショー・ラジニーシのコミュニティにMDMAを紹介した一人であると推測している[237]。クレッグ自身はこれを否定し、彼の売人の何人かはサニヤシンだが偶然の出会いだとしている[237]。しかし、1970年代の学生時代にカトリックを捨てて以降「その後30年間、私はマハリシ・マヘーシュ・ヨーギーからグル・マハラジへとグルを渡り歩き、シュリ・バグワン・ラジニーシと何年も過ごした…」と述べており、ドラッグ推進者のリック・ドブリンに対しては自分は「ラジニーシのMDMA化学者」であると語っていた[237]。
音楽家のジミ・フリッツは、ヨーロッパ全土にMDMAが広まる足がかりとなったスペインのイビサ島へのMDMAの最初の配送は、1985年にアメリカから来たオショー・ラジニーシの弟子によって行われたと指摘している[237]。イビサ島のMDMAシーンのディスコアムネシアの人気DJだったアルフレドもオショー・ラジニーシの信奉者だった[237]。
イビサ島の歴史書『The White Island』を書いたスティーブン・アームストロングは、「オレゴンの本部が崩壊し、世界規模の運動が崩壊したとき、イビサのサニヤシンの中には経済的な必要性から麻薬の取引を始めた者もいた。彼らが持っていたのは服とMDMAでいっぱいの戸棚だけだった」と語り、アームストロングは、彼らが行楽客にMDMAを売り始め、その客がアムネシアでのDJアルフレドのセットに頻繁に通うようになったと推測し、オショー=ラジニーシ運動がイビサ島でのMDMAの使用に大きく影響したと考えている[339]。イビサ島のサニヤシンを研究し、後に自身もサニヤシンになったトニー・ダンドレアは、オショー・ラジニーシが世界の夜の文化に与えた影響について執筆しており、オショー・ラジニーシは「イビサ島の60年代のカウンター・カルチャーと、(幻覚剤を使用する)90年代のエレクトロニック・ダンス・サブカルチャーをつなぐ重要な架け橋だった」と述べている[339]。
ラジニーシプーラムの終焉の分析
[編集]1981年から1986年にかけて教団外の一般人のほとんどは、ラジニーシプーラムで流血の大惨事が起こると予想していたが、サニヤシン達の暴力が、大量殺人、集団自殺、大規模な集団攻撃にまでエスカレートすることはなかった[61]。マリオン・S・ゴールドマンは、ラジニーシプーラムの状況が緊迫しながらも大惨事に至らなかった理由として、次の点を挙げている[61]。
- サニヤシンになるのは簡単で、家族や古い友人と絶縁する必要はなく、外部と遮断されていなかったこと[61]。
- サニヤシンは主に上流階級と中流階級の出身で、経済的資本だけでなく社会的資本と文化的資本を持ち、教育を受けた裕福な外部の人々と同じ言葉を話し、メディア等でうまく自己表現ができたこと[61]。
- オショー・ラジニーシは物質主義の喜びを受け入れ、資本主義を支持し、その教義は人生と生命に肯定的で、個人主義と自立を重んじ賛美していたこと[61]。彼はエイズによる世界の終焉やラジニーシプーラムへの核攻撃など、時折悲惨な予言をし、黙示録的な未来像を語ったが、サニヤシン達は個人主義と自立の重視により、彼が語る終末論的な考えを拒否し、笑い飛ばすことさえできた[61][340]。
- オレゴン州司法長官のデイビッド・フロンメイヤーと彼の部下が、政教分離を規定するアメリカ合衆国憲法の宗教活動の自由条項を戦略の根拠とし、法に則った解決を図り、暴力の可能性を最小限に抑えるよう努め、過激な反対派の行動を抑えたこと[61]。フロンメイヤー達の戦略は、教団に対する固定観念や恐怖に基づく公の介入や、一部の反対派グループや地元メディアが求めた非公式の反カルト攻撃を抑制し、オレゴン州は紛争が激化する中、ラジニーシプラムでの犯罪行為と民法違反の告発すべてに対し、法的解決を図るよう求めた[61]。フロンメイヤー達はサニヤシンの市民的自由が尊重されるよう徹底し、影響力のある牧場主を説得して銃を銀行の金庫に仕舞わせ、現状を理解し妥協案を模索するサニヤシン達と協力した[61]。
テロリズム研究
[編集]ラジニーシ教団によるバイオテロの事例は、テロリズム研究におけるバイオテロの分析では非常に有名である[262]。防衛大学校教授の足達好正は、CBRN(化学兵器・生物兵器・放射能兵器・核兵器)テロリズムに関与した組織のひとつにラジニーシ教団を挙げ、「特性:カルト」「宗教的・世俗的区分:宗教的」と分類している[341]。テロリズム研究者のデイヴィッド・ラポポートは、テロリストを世俗的組織と宗教的組織に分類し、CBRNテロリズムに関与した宗教的組織として、オウム真理教やクリスチャンアイデンティティーの反政府組織契約・剣・神の手(CSA)と共にラジニーシ教団をあげている[342]。
ニューエイジへの影響
[編集]1985年にラジニーシプーラムが崩壊した後、アメリカのサンニヤシンたちは、天候が良く、代替カルチャーが活発で多様なスピリチュアルの探求があり、自分たちの専門的なスキルやカウンターカルチャーの経験が評価される、寛容で美しい場所を求め、西海岸や南西部に引き寄せられた[52]。現在、ニューエイジ運動が活発なアリゾナ州セドナのオショー・アカデミーやカリフォルニア州マリン郡のヴィハ瞑想センターの近くには、古参・新参を問わずサンニヤシンが大勢住んでいる[52]。
ニューエイジの様々な活動は、オショー=ラジニーシ運動の参加者が開始したり、何らかの形で関わっていることが多い[256]。例えば日本の民間療法の霊術の一種で、海外のニューエイジャー等に人気となり日本に逆輸入された「手当て療法」の「レイキ」は、オショー=ラジニーシ運動やサイババの信奉者が自分たちの信念体系を接合して新たなバリエーションを作っており、1980年代に日本に「レイキ」を持ち込んだのも、オショー=ラジニーシ運動のメンバーだと見られている[343]。
宗教学的評価
[編集]宗教学者の大田俊寛は、エサレン協会と関係のあった「破滅的カルト」と称される団体のひとつとして「ラジニーシ教団」を挙げている[344]。
アメリカの宗教学の教授ヒュー・B・アーバンは、オショー=ラジニーシ運動は、西洋式のグローバリゼーションに対する単なる反応でも、偶然南アジアから生まれた世界的な運動でもなく、文化人類学者のアルジュン・アパドゥライの言葉を借りれば、この運動は世界中から発信される、非常に複雑で流動的で、移り変わりの激しい、人、思想、資本のネットワークのトランスナショナルなネットワークの重要な「結節点(node)」として理解されるべきであり、明確に「ポストナショナルな運動」でもあると述べている[226]。オショー=ラジニーシ運動は、流動的でトランスナショナルな組織と物質主義の熱心な支持により、現代のグローバル資本主義で進む「脱領土化」にも独自に適応しており、アーバンは、このような世界的でカリスマ的な宗教団体は、人々、思想、資本の複雑な世界的ネットワークの中の「菌糸の結び目(hyphal knots)」のようなものだと考えており、資源と情報の国民国家の境界を越えた循環において重要な役割を果たしていると分析している[226]。
死後・レガシー
[編集]オショー・ラジニーシには決まった後継者はなく、すべてのサニヤシンが後継者であるとされ、プネーや世界各地の瞑想センターは弟子達が独自に運営している[206]。運動の教義と実践は現在、広義のヒューマンポテンシャル運動の一部となっている[34]。
教えと歴史の再解釈と社会への適応の成功
[編集]国際的に物議を醸した約20年と、社会への適応を進めた約10年の後、オショー=ラジニーシ運動は新宗教の市場で地位を確立した[60]。信奉者たちはオショー・ラジニーシの役割を再定義し、教えの中心要素をリフレーミング(再構成)することで、部外者から問題視されることを避けた[60]。オショー=ラジニーシ運動のピークは1970年代後半で、これ以降正式な会員数は減少しているが、運動の歴史の選択的な再解釈、教義の再構築、目的の再定義を通じてアイデンティティを機敏に変革することで、アメリカを含め世界中に普及し、勢いのある文化的勢力となった[34]。この運動は小規模だが国際的であり、アメリカ、ヨーロッパ、日本、オーストラリア、そして最近(2004年時点)ではイスラエルから裕福な求道者を惹きつけ続けている[52]。運動の支持者たちは、自らを変革し、霊性・精神性と物質的快楽を統合する新しい意識を創造する試み続けている[52]。
オショー=ラジニーシ運動の指導者たちは、1980年代半ばには、成功とは20年以内に10万人が住む巨大なユートピア都市をオレゴンに建設することだと定義していたが、オショー・ラジニーシの死後、運動の中心目標の修正し、信者数の増加や共同体都市ではなく、世界的な文化的影響力で運動の成功を定義するようになった[34]。マリオン・S・ゴールドマンは、「いま、ここを生きる」という中心的信条は、何世代にもわたって続くような安定し限定された運動としての発展を妨げたが、運動の流動性と、スピリチュアルな発達の基盤としての物質的幸福の重視は、より若く裕福なスピリチュアな求道者への訴求力を高めており、この運動の文化的影響力の拡大は、「インナーサークル」が、OSHOインターナショナル・メディテーション・リゾートが世界中のセンターと個々のクライエントの拠点となるヴィジョンを描いたことによると評している[34]。再解釈された現在の運動のビジョンは、彼は組織化された宗教を創設するつもりはなく、その一員になることさえ望んでいなかったと語った講話を強調することで正当化されている[52]。
またゴールドマンは、過去1世紀にわたって、開祖の死を乗り越え、世間のマイナスの認識を変え、影響力を世界的に増大させることに成功した代替宗教はごくわずかで、特に小規模かつ白眼視された運動で、生き残り、世界的な文脈でスピリチュアルな文化的影響力を持つ勢力として成功したものはほとんどないが、オショー=ラジニーシ運動は稀有な例だと述べている[34]。2000年にOSHOインターナショナル財団は伝記『Autobiography of a Spiritually Incorrect Mystic』を出版したが、ヒュー・B・アーバンによると、これはオショー・ラジニーシの生涯を現在の「オショー運動」の観点から編集し、再パッケージしたものである[69]。メディア研究者のイシタ・ティワリは、オショー・ラジニーシはメディアを巧みに利用して帝国を拡大したが、彼の死後、信奉者たちもまたメディアを巧みに利用し、講話のビデオ、音声テープ、書籍を使って、物議を醸した彼の過去をごまかし、浄化されたイメージをブランド化し広めたと評している[94]。このイメージの浄化・ブランド化の事業には、特に講話のビデオ映像が欠かせないもので、映像の流通と販売は彼の遺産を存続させることに役立ち、書籍、音声コンテンツ、タロット・カードなどの商品の販売にも巧みに活用された[94]。インドのリゾート(アシュラム)への滞在者は減少し、滞在期間は短くなったが、リゾートが存続したこと自体が成功を示しており、商業出版社による「感情の健康」、「喜びと愛」といったキャッチーなタイトルの講話録の出版を通じて、広く一般大衆にアピールし、A・D・アンドレアによると、1990年から2005年の書籍の年間販売数は、17万部から250万部以上に増加した[74]。
現代における信奉者たちの語りでは、オショー・ラジニーシが初期の弟子たちに教えた瞑想と自己成長へのアプローチに焦点が当てられており、物議を醸した時代の教えやグルと弟子の関係の在り方は軽視されている[34]。ラジニーシプーラム時代で残されているのは、特徴的なローブと帽子をまとったグルのイメージだけとなっており、販売される商品の表紙を飾っている[94]。
現在の世界的な成功は、以前の紛争や論争を、重要でない、取るに足りない歴史として再定義したことが非常に大きい[34]。公式ウェブサイトでは、運動に肯定的なメディア報道のみが強調されている[94]。ゴールドマンは、「Osho」への名称変更は、運動のブランド再構築と、以前の困難からうまく距離を取る戦略の一環だったと述べている[34]。現在の教団には外部との対立を極力避ける姿勢が見られ、サニヤシンが着るローブの色もサフラン色から海老茶色(栗色)に替わり、プネー市中心部でローブを着用しないよう指導しており、また1994年・1995年頃まで多かったコレガオン・パーク地区での麻薬使用のあるパーティーも近年では報道されなくなっている[345]。
公式サイトとYouTubeチャンネルで、講話はオリジナルの形では提供されておらず、テーマに応じて編集され、アピールしたい教えを凝縮した形となっている[94]。オンラインの講話アーカイブとOshoインターナショナル・メディテーション・リゾートの体験という2つの側面で、信奉者に向けてスピリチュアルなスペクタクルが提供されている[94]。イシタ・ティワリがリゾートに滞在した際、特に重要な夕方の時間には、ピラミッド型のブッタ・ホールで、ダンス、音楽と共に、講話のビデオが上映されたが、この毎夕のイベントは、オショー・ラジニーシが晩年に行った講話の時間の再現になっており、参加者が彼の存在を繰り返し感じ、彼の「アウラ」を辿り持続させるものとなっていると評している[94]。
プネーの組織がオショー・ラジニーシとそのメッセージを非常にうまく主流化したことで、彼は危険なカリスマ的指導者から、説得力のあるスピリチュアルな教師として世間に受け取られるようになっている[34]。インターネットの出現、Facebook、YouTubeといったサービスにより、運動の影響力は飛躍的に拡大した[34]。2011年に著名なミュージシャンのレディー・ガガが、彼の本を多く読んでおり、反抗に対する考え方を気に入っているとコメント[† 20]しているが、特にメディアから非難は受けておらず、運動の巧みなマーケティング戦略が成功していることが分かる[34]。
また最近では、以前の「両極的な性(Sex polarity)」の性別観を捨て、男女という性別は互いに補い合うものだという、安定した男女関係を育みやすい伝統的価値観を支持する傾向が見られる[254]。
インドの地元最大の英語新聞『インディアン・エクスプレス』は長年教団を告発してきたが、教団が市民と対立しないよう行動を慎んでいるため、プネーの公序良俗を守るためにコミューンを告発するという記事は紙面には見られなくなってきている[346]。足沢一成は、報道関係者の話によると、プネーのマスコミの教団への歩み寄りには、教団の自粛だけでなく、コミューンに集まる外国人が持つ広告やイベント企画の経験を利用したいという思惑があると述べている[346]。観光資源のないプネーにとって、教団のリゾートは大きな外貨収入源になっている[346]。
近年のオショー=ラジニーシ運動の構成
[編集]運動は世界的にゆるやかなネットワークを持ち、セラピー・センターはアメリカのアリゾナ州セドナ、出版物はドイツのケルン、瞑想リゾートはインドのプネーにあり、OSHOインターナショナル財団系以外にも、インド人を中心とする組織オショー・ディアーナ・マンディール(ニューデリー)、その系統のリトリート・センター、組織化に反対するグループや、プネーのコミュニティの在り方に異を唱え離脱した人々のグループ、「スピリチュアルな」側面を維持することに熱心なグループもあり、多中心的で対立しあう、複雑な構造となっている[213][55]。運動はかつて社会と緊張関係にあったが、現在の対立は主に運動内でのものである[34]。
彼という人物の扱いもグループによって異なり、オショー・ディヤーナ・マンディールは彼を明らかに尊敬し、彼の初期の教えも重視しているが、OSHOインターナショナル財団の指導者たちは、彼という具体的な人格ではなく、彼の哲学を熱心に宣伝した[62]。最近の運動の熱心なメンバー達の問いは、オショー・ラジニーシが霊的・精神的指導者として、引き続きオショー=ラジニーシ運動の中心的存在であるべきか、彼自身がどの程度彼の教えに必要なのかというものである[52]。
オショー・ラジニーシの死後、個々人がアシュラムまたはコミューン(インテンショナル・コミュニティ)に所属しここでフルタイムで生活し人生を捧げるモデルは廃れ、世界各地のセンターや個人の家に半ば定期的に集まる分散型モデルに移行しており、これは大きな変化である[55]。オショー・ラジニーシのメッセージに触発された小規模なインテンショナル・コミュニティやアシュラムは今もあるが、主流ではなく、数多くのセンターが世界中に点在する流動的で分散化された形が主であり、人々はセンターに短いスピリチュアルなリトリートを体験するためにやって来て、瞑想に取り組み、コースを受講し、日常に帰っていく[55]。こうした緩やかなセンターのネットワークには、ドイツの Osho UTA、オランダの Osho Humaniversity、インドのジャバルプルの Osho Amritdham、ギリシャの Osho Afroz、ブラジルの Instituto Osho、カナダの Osho Madhuban、イギリスの Osho Leela、ロシアの Osho Work、イタリアの Osho Varazze、アリゾナ州セドナの Osho Academy、ベイエリアの Osho Viha 等がある[55]。インドのデリーのオショー・ダーラの3人のサットグルの一人は、オショー・ラジニーシの弟で、瞑想キャンプを通過した全ての人にオショーの称号が与えられる[74]。今日のアメリカにおける運動は、1980年代のオレゴンのコミューンとはほとんど似たところがない[55]。
現在(2004年時点)、若いサニヤシンの中には、運動を脱個人化し、オショー・ラジニーシの教えを前面に出し、彼のカリスマ教祖的アイデンティティを隠すよう主張する者もいる[52]。彼らはリゾートを運営する現在の運動の指導者たちの存在意義に疑問を呈し、人間の自由を支持するより普遍的な運動にすることを提案しているが、他の多くの古参メンバーは抵抗している[52]。
経済的価値の高い多国籍企業として
[編集]オショー・ラジニーシの思想と実践は、彼の死後グローバルに広がり続け、21世紀初頭までに、オショー=ラジニーシ運動は巨大で複雑で、極めて経済的価値の高い世界的組織に成長した[55]。これはスピリチュアル運動であると同時に多国籍企業でもあった[55]。
オショー=ラジニーシ運動側の社会への歩み寄りもあり、北アメリカと西ヨーロッパの社会は、ヨーガや瞑想のようなスピリチュアルな主題にある程度順応的になっている[60]。OSHOインターナショナル財団 (Osho International Foundation、OIF)は、IBMやBMWのような企業の顧客向けにストレス管理セミナーを開催しており、アメリカでは年間1,500万ドルから4,500万ドルの収入があると報告されている(2000年)[347][348]。
2000年に India Today は、「Osho Inc.」帝国には「80か国に750の瞑想センター、40か国語で出版された1500冊の本、音楽と説教のテープ400本、800点の署名入り絵画、10,000枚の写真、ダイヤモンドのローブとアクセサリー、ロールス・ロイスの艦隊と不動産」が含まれていると推定した[55]。
信奉者の運動への排他的コミットメントの弱化
[編集]現代の信奉者は、OSHOインターナショナル・メディテーション・リゾートや関連センターで行われるサニヤス(イニシエーション)・セレモニーに参加してサニヤシン名をもらうことができるが、これはサニヤシンになるための条件ではなくなった。信奉者は、定期的にオショー・ラジニーシの瞑想を実践するという決意表明をするだけでよいが、稀に刺青を入れる等それ以上のことをする人もいる[34]。
彼の生前、「イニシエーションを受ける(サニヤス)」とは「彼の弟子になること」だったが、死後意味が変化し、「オショー・アカデミー・オブ・イニシエーション」が1991年に発行したサニヤシンの申込書では、「個々人が自分の人生に対する新たな決意をする機会」という意味合いが強まっており、参加者のオショー・ラジニーシへの排他的なコミットメントが弱まり、自己責任、自己判断による行動がより求められるようになっている[37]。
伊藤雅之はこうした状況を、サービス提供者はある程度組織性があるが、その受け手であるクライエントは組織性がなく関与も部分的で、他の宗教運動や組織に参加している場合もある「クライエント・カルト」と理解できるとしている[37]。オショー・ラジニーシが多岐に渡る宗教伝統に言及し多様な実践を取り入れたこともあり、オショー=ラジニーシ運動の雑種性・折衷性は高く、当事者は他のニューエイジ系の本を読んだりワークショップに参加し自己流にスピリチュアリティをアレンジすることがほとんどで、彼らの思想や実践の雑種性はさらに高い[213]。
社会学者のスティーブ・ブルースは、オショー・ラジニーシの教えがある程度の影響力を持ち続けているのは、信者に期待されるものが少なくなり、職業や家族を持つ一般人の生活改善に役立つものになったからで、多くのキリスト教の信者と同様に、信奉者の大半にとってオショー=ラジニーシ運動は、日常生活にほとんど影響を与えない余暇のレジャーとなっていると述べている[117]。
OSHOインターナショナル・メディテーション・リゾート
[編集]インドのプネーのアシュラムは、サニヤシン達が長期的に住む共同体、堅固なコミュニティから、短期の訪問者が訪れ、教師さえ自由に出入りする観光リゾートへと変化し、より明確に国際的なビジネスへと進化した[30]。現在はOSHOインターナショナル・メディテーション・リゾート(the Osho International Meditation Resort)というスピリチュアルなリゾート施設になっている[349][本人 5]。この施設は「東洋のエサレン」を称しており、幅広い伝統から取られた様々なスピリチュアルなテクニックを教え、美しいリゾート環境の中で自己を発見し、肉体と精神の欲求を統合するためのスピリチュアルなオアシス、「聖なる空間」であると宣伝している[54]。足沢一成は、「瞑想をアトラクションとしたディズニーランド」と評しており、コミューン自身も「クラブ・メディタレーニアン(地中海クラブ)」をもじって「クラブ・メディテーション(瞑想クラブ)」を名乗っている[346]。OSHOインターナショナル・メディテーション・リゾートは、Lifestyles of Health and Sustainability(LOHAS)として知られるリトリートと自己啓発プログラムの緩やかな世界的連合に加盟する数千のセンターの1つであり、毎年計30億ドル以上の収益を生み出している[34]。
ここでは占星術やフェルデンクライス・ボディワーク、クリスタルエネルギー、鍼灸、ネオ禅、その他のニューエイジ活動など、さまざまな伝統から引き出されたスピリチュアルなテクニックが、ビュッフェのように取り揃えられ提供されている[35]。インドにあるが地域性を感じさせない脱土着化したスピリチュアル・リゾートになっており、入場者のほとんどは外国人である[213]。ヒュー・B・アーバンらが2011年から2013年に滞在した際にカウントしたところ、訪問者の約75%はインド人以外で、そのうち半数以上がヨーロッパ人、次いでアメリカ人、イギリス人、ブラジル人、イスラエル人、日本人で、インド人客はほぼ全員が裕福な中流階級と上流階級だった[30]。報道によると、著名な訪問者には政治家やメディア関係者もおり[349]、Facebookの創設者マーク・ザッカーバーグもこの施設を訪問したことがある[34]。清掃員、用務員、食事サービス、ランドリースタッフなどの末端の労働者は100%南アジア人で、決して上流階級ではない[30]。宿泊料や入場料、各種コースの料金は上昇し(宿泊料は5つ星ホテルに匹敵し、シーズン中はさらに高くなる)、高額な料金を払えない人は排除され宿泊者は減っていき、2016年時点で少数の富裕層向けの施設となっている[30]。
プネーの統治者グループのメンバーであっても、赤やオレンジ色のローブやオショー・ラジニーシの肖像が描かれたロケットを身につけていないが、リゾートの訪問者と居住者は、日中は栗色のローブ、夜の瞑想中はシンプルな白いローブを着用する必要があり、これは、親密なグループとして集まり、真剣に瞑想を追求する意思を示す手段となっている[34]。彼の遺灰は生前の寝室に安置されており、ここは聖地とみなされ、一般公開され、彼を引き続き崇拝の対象とすべきか激しく議論が交わされてきた[74]。
マリオン・S・ゴールドマンは、訪問者は複数の新宗教と関わりがあると述べており、社会的・文化的・経済的資本を持つ特権的な人々が、Web上での世界的なスピリチュアル市場の活況にオショー・ラジニーシへの関心を刺激され集まってきている[34]。彼らは時間とお金をかけてより豊かなスピリチュアル体験を追求し、人間の潜在能力を最大限に発揮できる仲間・実践・教義を模索し様々に試す、「裕福な求道者」である[34]。
2013年現在、OSHOインターナショナル・メディテーション・リゾートは、到着時にすべての宿泊客にHIV、エイズの検査を義務付けている[350]。かつてオショー=ラジニーシ運動は性欲とネオタントラの過激な実践を重んじ、エイズが流行してからは性衛生に非常に関心を持ち、メンバーに特別な「エイズキット」を配布していたが、リゾートにはこうした不安の名残りが今日も残っているためである[30]。
宗教学者による批評
[編集]ヒュー・B・アーバンは、OSHOインターナショナル・メディテーション・リゾートでは、5つ星ホテル的な豪華な雰囲気の中で、世界中のあらゆる伝統から取られたスピリチュアルな実践が盛り合わせで提供されるが、官能的な意味でも商業的な意味でも「消費的」であり、感覚を愉しませる消費とスピリチュアルな消費のビジネスモデルの両方を称賛する新しいタイプの神聖な空間となっていると評し、「この身体そのものが仏陀である」「富はあらゆる面で人々を高め、あらゆる面で人生を豊かにすることができる完璧な手段である」というオショー・ラジニーシの見解と、「私はスピリチュアルな唯物主義者である」という宣言とがシームレスに融合していると述べている[30]。
アーバンによると、このリゾートはオショー・ラジニーシの「ゾルバ・ザ・ブッダ」の理想と共に、1990年代のグローバル資本主義の多くの側面、「新自由主義」とも呼ばれるものを体現しており、アーバンは、アシュラムの高級スピリチュアルリゾート化は単なる宗教的な「裏切り」や、商業主義と消費主義によるスピリチュアリティの乗っ取りではなく、後期資本主義とグローバルな新自由主義の文脈における「聖なる空間」そのものの、非常に興味深く複雑な再構築を象徴していると主張している[30]。
現代のタントラへの影響
[編集]南アジアの伝統的なタントラを再解釈し、東洋と西洋を複雑に融合させたオショー・ラジニーシのネオタントラは、1970年代以降、ヨーロッパとアメリカで人気のある性ヨーガ(タントリック・セックス)のほぼすべてに多大な影響を与えた[225]。ラジニーシ以降の(南アジアの伝統の外における)タントラの解釈は、「タントラ」という名称を使ってはいるが、伝統的なタントラとは全く異なる歴史と信仰体系を説いている[70]。これらのネオタントラの著者達は、歴史的なタントラの文献、禁欲的な儀式、瞑想の実践を否定し、伝統的なものとは全く異なる目的を掲げている[70]。
現代のタントラはニューエイジと自己啓発運動の中で広まり、ネオタントラのセンターの設立者、現在活動しているタントラの指導者は、マーゴ・アーナンダ等オショー・ラジニーシの弟子が多い[252]。ネオタントラは現在、主に「スピリチュアルな性科学」の一種と考えられている[225]。人気のある書籍の多くがオショー・ラジニーシの直接的な影響を認めているだけでなく、マーゴ・アーナンダの『The Art of Sexual Ecstasy(性的エクスタシーの技法)』(1990年)、訓練を受けたライヒ派セラピストのアニーシャ・ディロン『Tantric Pulsation(タントラの鼓動)』(2005年)等の弟子の作品が多大な影響力を持つベストセラー作品となっている[225]。また、タントラとヨーガに関する彼自身の書籍やDVDも世界中で売れ続けている[225]。世界中で行われているオショー・ラジニーシの教えの実践の多くは、現在もネオタントラと性愛に大きく重きを置き続けている[55]。
ネオ・アドヴァイタ運動への影響
[編集]思想史家のバス・J・H・ジェイコブスや宗教学者のリーゼロッテ・フリスクは、1990年代初頭に出現した、人為的努力のいらない突然の悟りを中心テーマとする運動(ネオ・アドヴァイタ、非二元論運動として知られ、一部の学者は「サットサン・ネットワーク」と呼んでいる)の教師の大多数は、オショー・ラジニーシと何らかの形で関わりがあると指摘している[231]。ネオ・アドヴァイタ運動はサットサンズと呼ばれる交流イベントを中心に展開し、これはインド人グルのH・W・L・プーンジャ、通称パパジが行ったものに由来する[231]。悟りを開いた教師はサットサンズで、チベット仏教で「指摘による指導」(ngo sprod)と呼ばれる問答を参加者に行い、一連の質問、回答、ジョーク、コメントを通じて、参加者は自分がすでに悟りを開いていることに気付くよう巧みに説き伏せられる[231]。悟りはこのように当人の努力なしに即席で得られるため、ネオ・アドヴァイタ運動は膨大な数の悟りを開いた教師を生み出し、おそらくその結果、悟りという概念は総じて軽く見られるようになった[231]。
サニヤシンのスワミ・プレム・パリトシュ(クリス・グレイ)は、オショー・ラジニーシの死後、多くのサニヤシンがパパジのもとに流れていったと述べ、彼の晩年の禅の教えとパパジのサットサンの類似性についてコメントしている[231]。バス・J・H・ジェイコブスは、オショー・ラジニーシの悪評のために関連が軽視されがちであるが、現代のネオ・アドヴァイタ運動の流行と、特別な手段や何年もの修行もなく悟るという「即時主義(immediatism)」の起源を理解するためには、そのつながりを調査する必要があると述べている[231]。
インドにおける受容
[編集]オショー・ラジニーシの教えは彼の生前、母国インドでは多くの人に歓迎されることはなかったが、死後インドの世論に変化が生じ[351][312]、生前よりも死後の方が母国で称賛されている[53]。インドの都市部では近年新興のヒンドゥー教団の活動が活発化しており(2005年時点)、特に 1960年代後半以降に欧米の若者たちの一部で人気があったオショー・ラジニーシ運動やクリシュナ意識国際協会といった新興ヒンドゥー教団が急速にインドに逆輸入され、都市部で大きな影響力を持っている[5]。
インドのある新聞は1991年に、インドの運命を最も変えた10人に仏陀やマハトマ・ガンディーといった人物と共に彼を入れており、その理由は「宗教性と画一主義の束縛から未来の世代の心を解放した」こととされた[352]。インディアン・エクスプレス紙に寄稿したコラムニストのタンウィール・アラムは、「故ラジニーシは、人間の幸福を破壊する社会の不条理を見事に表現した」と述べた[353]。2006年の彼の生誕75周年記念の祝賀会で、インドの歌手ワシフッディン・ダガーは、彼の教えは「以前よりはるかに現在の社会に合っている」と述べた[354]。
2011年に、オショー・ラジニーシの教えに関する全国セミナーがジャバルプルのマンクンワルバイ女子大学の哲学科で開催された[355]。このセミナーは大学助成委員会のボーパール事務所が資金提供し、オショー・ラジニーシの「ゾルバ・ザ・ブッダ」の教えに焦点を当て、霊性・精神性と唯物論的・客観的なアプローチの調和を模索した[355]。
日本
[編集]アメリカのラジニーシプーラムで運動の中央集権化が進んだ時期には、日本でも1985年に各地の瞑想センターが閉鎖され、東京にコミューンが作られ、約110人が個人財産を処分して共同生活を行った[38]。
1985年のラジニーシプーラム崩壊後、1988年に東京に Osho サクシン瞑想センターが開設され、これは2018年時点でも存在する[4]。瞑想や各種セミナーの開催、講話録の販売などが行われているが、オショー・ラジニーシの死後は、日本ではあまり活発な運動の活動はみられない[4]。プネーの教団(リゾート)は中央集権的に世界中の様々なグループを取りまとめており、日本のセンターは、ドイツ、イタリア、アメリカのセンターと同様に傘下のひとつである[52]。日本のセンターを含めたこれらのグループは、それぞれのサニヤシンの霊的・精神的指導者、グルとしてのオショー・ラジニーシの役割を重視している[52]。
その他の国での人気
[編集]ネパールでは、2008年1月時点で60のラジニーシ・センターがあり、45,000人近くの弟子が入門している[356]。
イタリアでは2016年に「Le più belle frasi di Osho」と題された風刺的なFacebookページが開設され、オショー・ラジニーシの写真に国政についてのユーモラスなキャプションを付けた投稿を行い、フォロワーが100万人を超えて文化現象となり、投稿は全国紙やテレビで紹介もされた[357]。彼の本は200以上の出版社から60以上の言語で出版されており[358]、イタリアと韓国でベストセラーとなった[352][359][360]。
運動内部からの商業化・「インナー・サークル」への批判
[編集]プネーの指導者たち「インナー・サークル」はインド人ではなく、サニヤシンの中には、彼らが利益主導の商業主義に陥り、本当のコミューンから、裕福な観光客が数日リラックスするために訪れるだけの、西洋化された高級リゾートに変わってしまったと憤慨する人もいる[55]。
Oshoという名前、本、技法の権利は、インドからスイスのチューリッヒとアメリカのニューヨークに移されたが、インド人サニヤシンが増加する中で、インド人の中にはこうした動きにショックを受け、プネーのセンターを運営する非インド人達によってオショー=ラジニーシ運動が商業化され、西洋化され、インド人が除け者にされていると怒りを表す人も増えた[55]。
OSHOインターナショナル財団と対立団体の、Oshoという商標と彼の著作物に関する長年に渡る激しい法廷闘争や、OSHOインターナショナル・メディテーション・リゾートの経営陣による利益や土地の不正な移動の疑惑、プネーのアシュラムが(オショー・ラジニーシが批判した意味での)宗教化しているという批判、OSHOインターナショナル財団によるオショー・ラジニーシの遺言状の偽造の疑惑といった告発や訴訟は、インド国内だけでなく世界中のサニヤシンたちのスピリチュアルな生活や士気に影響を与え、プネーのアシュラムの雰囲気を大きく変えた[55]。ヒュー・B・アーバンによると、長年サニヤシンである人々や、プネーのコミュニティのメンバーは、初期のアシュラムにあった熱狂的で遊び心のある混沌とした雰囲気は、国際的な系列ホテルに似た、新しい種類の怪しげな官僚主義に徐々に取って替わったと語っており、彼がインタビューした街で働く一般の人々も基本的に同意見である[55]。
複雑で激しい法的な争いは、21世紀のオショー=ラジニーシ運動の一部の勢いを削いだが、オショー・ラジニーシの遺産全体にとって重要なことだと考えている人は一部に留まり、ほとんどのサニヤシンは、オショー・ラジニーシのメッセージへの注目を邪魔する、退屈で、煩わしく、非常に恥ずかしいものだが、オショー・ラジニーシのメッセージとはほとんど関係がないと考えているようで、この運動に意味を見出し続けている[55]。
死後の著作権・商標に関する法的紛争
[編集]オショー・ラジニーシの死後そのコミュニティは分裂していき、プネーを中心とし主に非インド人メンバーが率いるOSHOインターナショナル財団(OIF、現在の拠点はチューリッヒ)と、ニューデリーを中心とし主にインド人メンバーが率いるオショー・ディヤーナ・マンディール(Osho Dhyan Mandir)とそのウェブサイト Oshoworld.com を主とするライバルグループに分かれ、Oshoという名前の権利をめぐって大規模な法廷闘争が繰り広げられ、運動における国家主義的かつグローバルな緊張が浮き彫りになった[55]。
オショー・ラジニーシが生前、東洋のスピリチュアルな伝統である瞑想を著作権と商標で保護することを明確に否定したにもかかわらず、彼の死後すぐに彼が提唱した瞑想は著作権で保護され、使用権と利益をめぐる様々な争いにつながった[55]。1992年以降、OSHOインターナショナル財団はOshoという名前に関連するすべての書籍、テープ、瞑想、その他の資料についてアメリカで商標登録を出願し始め、今日彼らは、オショー・ラジニーシの作品のすべての著作権と、さまざまな実践のすべての商標、デザイン、ロゴの唯一の登録された所有者であると主張し、この動きはオショー・ディヤーナ・マンディールを主とするライバルのオショー・グループとの一連の法的紛争につながった[55]。
OSHOインターナショナル財団は2000年にオショー・ディヤーナ・マンディールを相手取り、「Osho World(www.oshoworld.com)」というウェブサイトのドメイン名にOshoという名前を使用したことで訴えたが、これは、「Osho」という単語が個人名なのか、仏教の師を意味する日本語の一般的な称号なのか、また宗教的な称号自体が知的財産になり得るのかという、大きく根深い問題を提起することになった[55]。オショー・ディヤーナ・マンディールは、瞑想を著作権で保護し商標登録することを否定したオショー・ラジニーシの言葉を引用し、宗教的思想を著作権で保護したり商標登録したりするという考えを否定したが、OSHOインターナショナル財団は、オショー・ラジニーシは頻繁に矛盾した発言をしており、この発言を彼の最終的な結論ということはできず、商標と著作権はオショー・ラジニーシの教えの濫用を防ぐためにあると反論した[55]。
この争いは全米仲裁フォーラム(NAF:The National Arbitration Forum)に持ち込まれた[55]。全米仲裁フォーラムは、オショー・ラジニーシ自身は知的財産権問題にほとんど関心がなく、この称号を商業的利益のために利用していないと指摘し、団体がOshoのような名称を商標登録することを認めるとキリストや仏陀などの他の宗教の称号の商標登録にも道が開かれるとも述べ、オショー・ディヤーナ・マンディールに有利な判決を下した[55]。
この判決を受け、同年後半に、オショー・コミュニティ内の反体制派や、プネーのコミュニティの在り方を「攻撃的で支配的」だと批判し事実上追放された人々が、オショー・フレンズ・インターナショナル (Osho Friends International:OFI) という新しいグループを結成した[55]。彼らはオショー・ラジニーシの教えの露骨な商業化を拒否し、その作品とテクニックは世界中で自由に利用できるべきだと主張し、彼のメッセージは全人類のためのもので、知的財産権の主張によって束縛されることはないと主張し、「OSHO : すべての人の生得権 - 誰の著作権でもない(OSHO: Everybody’s birthright—nobody’s copyright.)」をスローガンに掲げ、Oshoという名前の商標、オショー・クンダリニー瞑想やオショー・リバランシングなどの技法の商標取り消しのために、米国特許商標庁 (USPTO) に請願書を提出した[55]。米国特許商標庁は2009年、前述の超越瞑想(TM)を取り上げたオショー・ラジニーシの風刺的な批評を引用し、普及のためにメンバーが世界中にセンターを設立し、OSHOという名前を使用することをオショー・ラジニーシは許可していたと認め、OSHOインターナショナル財団に不利な判決を下し、Oshoという名前は一般的な形容詞であり、競合他社が自由に使用できるべきであると判断した[55]。また米国特許商標庁は、ポール・ヒーラスの著書『The New Age Movement(ニューエイジ運動)』などの学術作品も調査し、学術界では「Osho」を「宗教的、瞑想的な運動であり、商標ではない。(religious and meditative movement and not as a trademark.)」一般的な意味で言及していると指摘している[55]。
しかし、OSHOインターナショナル財団は、アメリカの2つの主要団体の判決で否定されたにもかかわらず、 Oshoという名称、技法、関連する道具類の世界的な流通に対する権利を主張し続けている[55]。Osho.comのWebサイトでは2016年時点で、著作権および商標権を変わらず維持しており、これらの判決はアメリカのみに影響し、Oshoという名称が引き続き保護されている他の国には影響しないと主張している[55]。
2009年の米国特許商標庁の判決から間もなくして、OSHOインターナショナル財団は、Oshoという名前とテクニックを宣伝する傘下外のグループのFacebookページに対し、著作権侵害でFacebookに告発しページを削除させることを繰り返した[55]。サンフランシスコの独立系のオショー・センターはブログで、OSHOインターナショナル財団はアメリカでの敗訴の後、登録に反対するサニヤシンが十分にいない中国やベネズエラなどで商標を登録し、インターネットは全世界に広がっており、いくつかの地域で有効な商標登録があるのだからインターネット上のビジネス名にOSHOを使うことはできないと主張しており、また、Facebookは「Osho」を人物ではなく単に商標として扱っていると、OSHOインターナショナル財団の行いとFacebookの判断の不当さを訴えた[55]。
また、OSHOインターナショナル・メディテーション・リゾートの資産をめぐり、プネーのセンターを運営する少数のサニヤシン(主に非インド人)の経済的利益のために資産が売却・譲渡されているという多くの批判がある[55]。
OSHOインターナショナル財団による遺言状の偽造疑惑
[編集]2010年にオショー・ロータス・コミューン(ドイツ、ケルン。ヨーロッパ最大のオショー瞑想センターであるOsho UTA インスティテュートの親組織)は、欧州共同体商標意匠庁(OHIM:the Office for Harmonization in the International Market)に請願書を提出し、アメリカの局に倣ってOSHOインターナショナル財団の商標権の主張を無効とするよう求めた[55]。オショー・ロータス・コミューンは、OSHOインターナショナル財団の主張はオショー・ラジニーシの遺産を守るためのものではなく、主に権力、すなわち彼の莫大で利益の多い遺産の支配に関するものであるとはっきり述べ、OSHOインターナショナル財団の主張は、オショー・ラジニーシの崇高な目的の中心である自由と、制度的および官僚的支配に対する彼の根本的な拒絶に真っ向から反していると主張した[55]。
これに対しOSHOインターナショナル財団は、商標の独占所有の主張を裏付けるために、1989年10月15日に署名されたオショー・ラジニーシの「遺言状」とされる文書と、弁護士による宣誓供述書を提出した[55]。これは1ページに満たない非常に短い文書だったが、「私、オショーは、現在または将来私が所有するあらゆる形式のあらゆる権利、権原(所有権、出版権、関連する権利を含むが、これらに限定されない)を「ネオ・サニヤス・インターナショナル財団」に譲渡し、遺贈する。これには、現在または将来、あらゆる形式で公開される私のすべての作品が含まれる。(I, Osho … hereby devise and bequest any and all right, title in any form owned by me, now or in the future, including but not limited to all ownership, publishing or related rights, to all my work, published to date or in the future, in any form, to “Neo Sannyas International Foundation.“)」という文章が含まれていた[55]。
ネオ・サニヤス・インターナショナル財団は、OSHOインターナショナル財団(1990年)の前身であり、この文書が本物であれば、世界中のすべての オショー・ラジニーシの関連資料の権利がOSHOインターナショナル財団の単独管理下に移譲されることになる[55]。しかしすぐに、この文章の署名が1976年の別の文書の署名と全く同じであるという疑惑が生じ、イタリアのボローニャ、オーランガバード、ニューデリーの複数の独立した専門家によって、顕微鏡レベルで精査され、「遺言状」の署名は1976年の手紙の署名と同じであると結論付けられ、それは文章が偽造であることを意味した[55]。
2013年12月、オショー・フレンズ・インターナショナルを代表しヨーゲッシュ・タッカーが、「遺言状」の署名は利権目的で偽造されたものであると主張し、告訴状を提出した[55]。その直後、プネー警察はアシュラムの管理者に「遺言状」の原本を提出するよう求める通知を出したが、2014年1月、OSHOインターナショナル財団は「遺言状」をヨーロッパの裁判手続きから取り下げた[55]。OSHOインターナショナル財団を批判する人々は、これは「遺言状」偽造のダメージを最小限にするための必死の行動で、これ自体が偽造の証拠であると見ている[55]。現在多くの批評家は、「遺言状」は偽造されたものだと考えている[55]。
アメリカ連邦裁判所はOSHOインターナショナル財団の控訴を棄却する命令を出し、これによりオショー・フレンズ・インターナショナル(Osho Friends International:OFI)との10年近くにおよんだ一連の法廷闘争は終わり、2009年1月にOSHOインターナショナル財団が保有するOshoという商標は、アメリカで無効となった[67]。プネーのOSHOインターナショナル・メディテーション・リゾートはこの判決に対してコメントは出さなかったが、ニューデリーのオショー・ワールド財団が発行する月刊誌「オショー・ワールド」の編集者スワミ・チャイタニヤ・キールティは、自分と世界中のオショー・ラジニーシの信者たちは喜んでいると語った[67]。
ダイナミック瞑想の医療的利用の検証
[編集]アメリカのダラスの精神科医Vyas, A博士は、オショー・ラジニーシが編み出したダイナミック瞑想の臨床効果を調査するために、パイロットスタディを行い論文にまとめた。本研究は治験者が実際に瞑想を行い、ペアワイズ比較を用いて行われた。結論として、攻撃的行動、抑うつ状態、形質的危険性、感情的な疲労、役割の過負荷、心理的な緊張の大幅な減少が見られたと実証した。そして、心理療法として使用することができると示している。[361][信頼性要検証]ただし、この論文の出版元「ATHENS INSTITUTE FOR EDUCATION AND RESEARCH」は、ハゲタカジャーナルと呼ばれる出版社・学術誌のリスト「ビールのリスト」に掲載されている[362][363]。
2015年に21日間、ダイナミック瞑想の実験研究が行なわれた。インド、ラックナウで行われたこの研究は、20-50歳の健康なボランティア20名(男性14名、女性6名)が参加し(4名は健康上や一身上の理由で脱落)血漿コルチゾール値(ストレスに関与し、過度なストレスを受けると分泌量が増加し、抗ストレスホルモンとして恒常性の維持に不可欠な物質)を測定し、このアクティブ瞑想が抗ストレス効果を生み出すと結論づけた。健康なボランティアを対象に実施され、参加者数が16名と少ないことが指摘されており、ダイナミック瞑想のストレス解消効果をより実証するには、ストレスを抱えた人々を対象に、大人数が参加する研究をさらに行う必要がある[364]。
ドキュメンタリー
[編集]オショー・ラジニーシ達の驚異的な成功と破滅を追ったNetflixのドキュメンタリー・シリーズ「ワイルド・ワイルド・カントリー(Wild Wild Country)」(全6話)が、2018年に第70回エミー賞5部門にノミネートされ、米国内で注目を集めた[365]。オショー・ラジニーシの思想や教えには踏み込まず、関係者を追う形をとっている[365]。映画製作者たちはアーカイブ映像をデジタル化し、ポートランドの地元ニュース局が撮影した映像、スーパー8mmフィルム、ホームビデオ映像を探し出し、全てを記録すべきだというオショー・ラジニーシの宣言を受けてサニヤシン達が撮影した、ラジニーシプーラムの生活を紹介する膨大な宣伝用映像も使われた[94]
映画とテレビを評価統計するサイト「Rotten Tomatoes」では、公開半年時点でのスコアは98%と高い[365]。RogerEbert.comの評論家のニック・アレンは、本作を「善と悪の複雑な定義を観客に問いかける、奥深く魅惑的な作品」と絶賛した[365]。ニュー ・リパブリックの編集長で、『The Rajneesh Chronicles: The True Story of the Cult that Unleashed the First Act of Bioterrorism(ラジニーシ黙示録:アメリカで最初のバイオテロを起こしたカルトの真実の物語)』の著者ウィン・マコーマックは、この映画は、膨大な量のニュース映像アーカイブを調査、発見、選択し、一貫した枠組みに編集するという大変な仕事を成し遂げ、地域住民への詳細なインタビューを行い、可能な限り双方の代表者に意見を述べさせており、過去のプロパガンダ的な映画よりかなり良作だと評価している[366]。
一方マコーマックは、本作は教団が起こした問題と真の脅威の範囲に向き合うことには失敗していると評している[366]。マシュー・レムスキーは、田舎者対侵略者の戦いを描いたポップで魅力的な娯楽作品に過ぎず、「客観性」を称賛する多くのレビューがあるが、実際のところ問題の多くは取り上げられていないと述べている[316]。映画監督のマヘーシュ・バットは、この作品は、世界的に「セックス・グル」として知られる彼のような人物をあえて取り上げ、悪者に仕立て、その没落でお祭り騒ぎをしており、高尚な人物が矮小化し破滅する姿を楽しむという大衆の倒錯した喜びを満たす娯楽作品であり、善人を自認する人々のサディスティックな衝動に迎合していると感じたと述べている[48]。物議を醸した彼という人物に対して大胆な視点をとっておらず、大衆娯楽作品の肝である中流階級の価値観を支持し、擁護し、永続化に寄与していると評している[48]。
OSHOインターナショナル財団は公式サイトで、本作で取り上げられたオショー・ラジニーシ達の破滅は、本質的にはオショー・ラジニーシのヴィジョンの妨害を目指すアメリカ政府の謀略によるもの等と反論し[official 8]、ドキュメンタリー・シリーズ「Osho: Priests and Politicians—The Mafia of the Soul(聖職者たちと政治家たち 魂のマフィア)」を作成した[94](YouTube配信、メンバー限定公開)。
創作
[編集]- インド系アメリカ人作家アヴニ・ドーシのデビュー作で、2020年ブッカー賞最終候補作『母を燃やす』(Burnt Sugar)では、結婚しプネーで抑圧された生活を送っていたが自分の欲求に従って生きることを選びアシュラムに飛び込んだ母と、生後まもない頃に母にアシュラムに連れていかれ、ここで7歳まで母がいるのに世話をしてもらえない生活を強いられた娘の葛藤が描かれた[367]。作者の母方の家族はオショー・ラジニーシのプネーのアシュラムと関係があり、本作はそれにインスピレーションを受けた[368]。ガーディアン紙は、アシュラムのグルのモデルはオショー・ラジニーシであると指摘している[367]。
講話
[編集]講話(えり抜き)
[編集]反社会主義・反ガンジー主義:
- The Mind of Acharya Rajneesh[91](様々なヒンディー語の書籍より、1974年出版[369])
- Beware of Socialism![91](1970年の講話、1978年年出版。ヒンディー語からの翻訳[369])
セックス:
瞑想の理論・テクニック:
- Meditation. The Art of Ecstasy(1970年-1972年の講話、1976年出版。ヨーガ、混沌とした瞑想、マスターになるためのイニシエーション、光明、無欲への道としての完全な欲望、魂、LSDと瞑想、直感、悟り(Satori)と三昧の違い、性的エネルギーとクンダリニーの覚醒、人間の7重の身体、オリジナルの瞑想テクニックの要約[369])
- The Book of the Secrets. Discourses on Vigyana Bhairava Tantra, Vols. I – V (1972年-1973年の講話、1974年-1976年出版。ヒンドゥー教のカシミール・シヴァ派のビジュニャーナ・バイラヴァ・タントラ(ヴィギャン・バイラヴ・タントラ)[369][† 21])
- The Orange Book
- Meditation: The First and Last Freedom
- Learning to Silence the Mind
【仏教】
- The Dhammapada (Vols. I – X)(法句経)
- The Discipline of Transcendence (Vols. I – IV)
- The Heart Sutra (般若心経)
- The Diamond Sutra (金剛般若経)
チベット密教のタントラ:
禅宗:
- Neither This nor That (僧璨の信心銘)
- No Water, No Moon
- Returning to the Source
- And the Flowers Showered
- The Grass Grows by Itself
- Nirvana: The Last Nightmare
- The Search. Bhagwan Shree Rajneesh talks on The Ten Bulls of Zen (1976年の講話、1977年出版[370]。十牛図)
- Dang dang doko dang
- Ancient Music in the Pines
- A Sudden Clash of Thunder
- Zen: The Path of Paradox
- This Very Body the Buddha (白隠慧鶴の座禅和讃)
【ヒンドゥー教】
- Yoga: The Alpha and the Omega Vols. I – X (1973年-1974年の講話、1976年出版。パタンジャリのヨーガ・スートラ[369])
- Total of 91 separate discourses(アシュターヴァクラ・ギーター)
- I am That (イーシャー・ウパニシャッド)
- The Supreme Doctrine
- The Ultimate Alchemy Vols. I and II
- Vedanta: Seven Steps to Samadhi
改革者カビール:
- Ecstasy: The Forgotten Language
- The Divine Melody
- The Path of Love
- The Beloved
【シク教】
- The True Name(グル・ナーナクの『ジャプジ』とシク教)
- Until You Die
- Just Like That
- Unio Mystica Vols. I and II (サナーイーの詩)
【道教】
- Tao: The Three Treasures Vol I – IV (老子の老子道徳経)
- The Empty Boat (荘子の物語)
- When the Shoe Fits (荘子の物語)
- The Secret of Secrets. Talks by Bhagwan Shree Rajneesh on The Secrets of the Golden Flower(1978年の講話、1982年出版。太乙金華宗旨[370]、反社会主義[91])
【ユダヤ教のハシディズム】
- The True Sage
- The Art of Dying
【ギリシア哲学】
- The Hidden Harmony(ヘラクレイトス)
- The Mustard Seed (トマスによる福音書)
- Come Follow Me Vols. I – IV
【近現代西洋哲学】
- Zarathustra. A God That Can Dance(1987年の講話、1987年出版。ニーチェの『ツァラトゥストラはこう語った』[371])
質問に基づいた講演:
- I Am the Gate
- The Way of the White Clouds
- The Silent Explosion
- Dimensions Beyond the Known
- Roots and Wings
- The Rebel
自身の幼年期について:
- Glimpses of a Golden Childhood. The Rebellious Childhood of a Great Enlightened One
ダルシャンのインタビュー:
- Hammer on the Rock
- Above All, Don't Wobble
- Nothing to Lose but Your Head
- Be Realistic: Plan for a Miracle
- The Cypress in the Courtyard
- Get Out of Your Own Way
- Beloved of My Heart
- A Rose Is a Rose Is a Rose
- Dance Your Way to God
- The Passion for the Impossible
- The Great Nothing
- God Is Not for Sale
- The Shadow of the Whip
- Blessed Are the Ignorant
- The Buddha Disease
- Being in Love
日本での出版
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- バグワン・シュリ・ラジニーシ
- 『存在の詩―バグワン・シュリ・ラジニーシ、タントラを語る』スワミ・プレム・プラブッダ訳(星川淳)訳 (めるくまーる、1977年、ISBN 4-8397-0001-X)
- 『究極の旅―バグワン・シュリ・ラジネーシ、禅の十牛図を語る』スワミ・プレム・プラブッダ訳 (めるくまーる、1978年、ISBN 4-8397-0002-8)
- 『草はひとりでに生える』マ・アナンド・ナルタン(中沢藤胡)訳(ふみくら書房、1978年)
- 『Tao 永遠の大河―バグワン・シュリ・ラジネーシ、老子を語る(1,2,3,4)』 スワミ・プレム・プラブッダ訳、めるくまーる、1979-1982年、河出書房新社、2014年)
- 『生命の歓喜―バグワン・シュリ・ラジニーシとの対話 ダルシャン日誌』(ラジニーシ・パブリケーション・ジャパン、1980年)
- 『あなたが死ぬまでは』マ・アナンド・ナルタン訳 (ふみくら書房、1980年)
- 『般若心経―バグワン・シュリ・ラジニーシ、色即是空を語る』スワミ・プレム・プラブッダ訳 (めるくまーる、1980年)
- 『マイウェイ―流れ行く白雲の道』マ・アナンド・ナルタン訳 (ラジニーシ・パブリケーション・ジャパン、1980年)
- 『瞑想―祝祭の芸術』 スワミ・アナンド・ヴィラーゴ訳 (めるくまーる、1981年、ISBN 4-8397-0009-5)
- 『愛の錬金術―隠されてきたキリスト(上・下)』マ・アナンド・ナルタン訳(めるくまーる、1981年)
- 『セックスから超意識へ』スワミ・アナンド・ニラーラ訳 (ラジニーシ・パブリケーションズ・ジャパン 1982年)
- 『虚空の舟―荘子 (上・下)』マ・アナンド・ナルタン訳 (ラジニーシ・エンタープライズ・ジャパン 1982年)
- 『バウルの愛の歌 (上・下)』スワミ・サンギート訳(めるくまーる 1983年・1984年)
- 『オレンジ・ブック―バグワン・シュリ・ラジニーシの瞑想テクニック』スワミ・トシ・ヒロ訳 (ホーリスティック・セラピー研究所、1984年、めるくまーる、1995年)
- 『ダイヤモンド・スートラ-バグワン・シュリ・ラジニーシ金剛般若経を語る』スワミ・アナンド・ヴィラーゴ訳(瞑想社、1986年)
- 『新人権宣言―バグワン・シュリ・ラジニーシ基本的人権を語る』スワミ・ヤスヒデ、スワミ・アナンド・ヴィラーゴ訳 (瞑想社、1986年)
- 『英知の辞典』スワミ・アナンド・ソパン 訳(めるくまーる、1996年)
- 『魂への犯罪―バグワン・シュリ・ラジニーシ聖職者と政治家を語る』(イア・ラジニーシ・ネオ・サニヤス・コミューン、1987年)
- 『一休道歌 上』スワミ・アナンド・モンジュ訳 (めるくまーる、1987年、ISBN 4-8397-0036-2)
- 『一休道歌 下』スワミ・アナンド・モンジュ訳 (めるくまーる、1988年、ISBN 4-8397-0037-0)
- 『マイトレーヤ―バグワン・シュリ・ラジニーシ、ザ・ブッダ・ロード・マイトレーヤ』 スワミ・アナンド・ヴィラーゴ訳 (瞑想社、1988年)
- 『大いなる挑戦―黄金の未来』創造的科学と芸術と意識の世界アカデミー日本準備委員会 監修(ラジニーシ・エンタープライズ・ジャパン、1988年)
- 『ニュー・ウーマン誕生 : A new vision of women's liberation』(ラジニーシ・エンタープライズ・ジャパン、1988年)
- 『信心銘』スワミ・パリトーショ訳 (禅文化研究所、1989年、ISBN 4-88182-073-7)
- 『ゴールデン・チャイルドフッド―光輝の年代 シュリ・ラジニーシ幼年期を語る』スワミ・パリトーショ訳 (ラジニーシ・エンタープライズ・ジャパン、1989年)
- 『新人類―未来への唯一の希望』 スワミ・パリトーショ、スワミ・キャル訳 (瞑想社、1989年)
- 『アイ・アム・ザ・ゲート 秘儀伝授と弟子の意味』 武捨宏昭訳 (パブフル、2020年)
- OSHOラジニーシ
- 『ア・カップ・オブ・ティー―オショー・ラジニーシ初期書簡集』スワミ・プレム・プラブッダ、スワミ・アナンド・ソパン訳 (めるくまーる、1989年)
- 『死・終わりなき生―オショー・ラジニーシ講話録』(講談社、1989年、ISBN 4-06-203569-3)
- 『坐禅和讃―和尚ラジニーシ、白隠禅師を語る』スワミ・プレム・ラジャ、スワミ・アナンド・ヴィラーゴ訳 (瞑想社、1990年)
- 『臨済録』スワミ・アナンド・モンジュ訳 (めるくまーる、1991年、ISBN 4-8397-0061-3)
- 『未知への扉―和尚、秘教グループを語る』 スワミ・アナンド・モンジュ訳 (瞑想社、1992年)
- 和尚/Osho/和尚
- 『モジュッド 説明できない生を生きた人』マ・アンタール・コマルタ編、スワミ・アナンド・ニラーラ訳(和尚エンタープライズジャパン、1990年)
- 『反逆のスピリット』スワミ・デヴァ・マジュヌ、マ・デヴァ・ヨーコ他訳 (めるくまーる、1990年、ISBN 4-8397-0057-5)
- 『狂人ノート』マ・アナンド・ナルタン訳、マ・アナンド・プシュポ編 (和尚エンタープライズジャパン、1991年、ISBN 4-900612-08-1)
- 『私が愛した本〛スワミ・パリトーショ訳 (Oshoエンタープライズジャパン、1992年)
- 『空っぽの鏡・馬祖』(壮神社、1992年、ISBN 4-915906-01-9)
- 『マイウェイ―流れ行く白雲の道』(和尚エンタープライズジャパン、1992年)
- 『道元―その探求と悟りの足跡』和尚 講話、スワミ・アンタール・ガータサンサ訳 (和尚エンタープライズジャパン、1992年)
- 『神秘の次元』(日本ヴォーグ社、1992年)
- 『タントラ―セックス、愛、そして瞑想への道』 和尚 講話、スワミ・アナンド・チダカッシュ訳 (和尚コーシャ瞑想センター、1992年)
- 『新瞑想法入門』スワミ・デヴァ・マジュヌ訳 (瞑想社、1993年、ISBN 4-8397-0070-2)
- 『これこれ千回もこれ―禅[要曖昧さ回避]のまさに真髄』和尚 講話、スワミ・アナンド・ソパン訳 (和尚エンタープライズジャパン、1993年)
- 『内なる宇宙の発見―呼吸・夢の超越・やすらぎ <タントラ秘宝の書1>」スワミ・アドヴァイト・パルヴァ(田中ぱるば)訳 (市民出版社、1993年)
- 『秘教の心理学』スワミ・プレム・ヴィシュダ訳 (瞑想社、1994年)
- 『生・愛・笑い』(めるくまーる、1994年、ISBN 4-8397-0049-4)
- 『ノーマインド―永遠の花々』スワミ・アドヴァイト・パルヴァ訳、スワミ・アナンド・ソパン照校 (壮神社、1994年、ISBN 4-915906-11-6)
- 『源泉への道―中心へ向かう・ハートの開発 <タントラ秘宝の書2>」スワミ・アドヴァイト・パルヴァ訳 (市民出版社、1994年)
- 『第三の眼[要曖昧さ回避]―見る技法・ブッダの愛 <タントラ秘宝の書3>」スワミ・アドヴァイト・パルヴァ訳 (市民出版社、1994年)
- 『ダンマパダ』 沢西康史訳(瞑想社、1994年)
- 『ボーディダルマ』(めるくまーる、1994年、ISBN 4-8397-0079-6)
- 『沈黙の音―音を対象とした瞑想技法 <タントラ秘宝の書4>」スワミ・アドヴァイト・パルヴァ訳 (市民出版社、1995年)
- 『愛の円環―宇宙的オーガズム <タントラ秘宝の書5>」スワミ・アドヴァイト・パルヴァ訳 (市民出版社、1995年)
- 『TAO―老子の道〈上〉』(めるくまーる、1995年、ISBN 4-8397-0081-8)
- 『TAO―老子の道〈下〉』(めるくまーる、1995年、ISBN 4-8397-0082-6)
- 『覚醒の深みへ―エネルギーの上昇 <タントラ秘宝の書6>」スワミ・アドヴァイト・パルヴァ訳 (市民出版社、1995年)
- 『光と闇の瞑想―存在への回帰 <タントラ秘宝の書7>」スワミ・アドヴァイト・パルヴァ訳 (市民出版社、1996年)
- 『奇跡の探求―覚醒の炎 <和尚初期瞑想キャンプの講話1>』 Oshoサクシン瞑想センター訳(市民出版社 1996年)
- 『存在とひとつに―ヴィギャン・バイラヴ・タントラ <タントラ秘宝の書8>」スワミ・アドヴァイト・パルヴァ訳 (市民出版社、1997年)
- 『生の神秘-ヴィギャン・バイラヴ・タントラ <タントラ秘宝の書9>」スワミ・アドヴァイト・パルヴァ訳 (市民出版社、1997年)
- 『空の哲学-ヴィギャン・バイラヴ・タントラ <タントラ秘宝の書10>」スワミ・アドヴァイト・パルヴァ訳 (市民出版社、1998年)
- 『禅宣言』(市民出版社、1998年)
- 『イーシャ・ウパニシャッド―存在の鼓動』スワミ・ボーディ・マニッシュ訳 (市民出版社、1998年、ISBN 4-88178-165-0)
- 『奇跡の探求―七身体の神秘 <和尚初期瞑想キャンプの講話2>』和尚 講話、和尚サクシン瞑想センター訳 (市民出版社、1998年)
- 『知恵の種子』(市民出版社、1999年、ISBN 4-88178-171-5)
- 『私の愛するインド―輝ける黄金の断章』 スワミ・プレム・グンジャ訳、マ・ジヴァン・アナンディ照校 (市民出版社、1999年)
- 『知恵の種子』(市民出版社、1999年、ISBN 4-88178-171-5)
- 『無水無月』(市民出版社、1999年、ISBN 4-88178-167-7)
- 『黄金の華の秘密』(めるくまーる、1999年、ISBN 4-8397-0099-0)
- 『ユニオ・ミスティカ』 (市民出版社、1999年)
- 『夜眠る前に贈る言葉』 (市民出版社、1999年)
- 『タントラの変容―サラハの王の歌〈タントラ・ヴィジョン2〉』和尚 講話、マ・アムリッタ・テジャス 訳(市民出版社、2000年、ISBN 4-88178-177-4)
- 『隠された神秘』(市民出版社、2000年、ISBN 4-88178-174-X)
- 『朝の目覚めに贈る言葉』 (市民出版社、2000年)
- Osho
- 『朝の目覚めに贈る言葉』 (市民出版社、2000年)
- 『死のアート』 (市民出版社、2001年)
- 『エンライトメント―神秘家・アシュタヴァクラ ただひとつの変革』スワミ・アンタール・ソハン訳 (市民出版社、2003年)
- 『シャワリング・ウィズアウト・クラウズ (市民出版社、2003年)
- 『永久の哲学1』 (市民出版社、2004年)
- 『ラスト・モーニング・スター』 (市民出版社、2004年)
- 『インナー・ジャーニー―内なる旅』マ・アナンド・ムグダ訳 (市民出版社、2005年)
- 『そして花々が降りそそぐ』 マ・プレム・プラバヒ、Oshoサクシン瞑想センター訳(市民出版社、2005年)
- 『究極の錬金術 1―古代の奥義書ウパニシャッドを語る』 スワミ・ボーディ・イシュワラ訳 (市民出版社、2006年)
- 『永久の哲学2―ピュタゴラスの黄金詩2』(市民出版社、2006年)
- 『サラハの歌<タントラ・ヴィジョン1>』(市民出版社、2006年)
- 『究極の錬金術 2―人間―永遠と永遠の架け橋』 スワミ・ボーディ・イシュワラ訳 (市民出版社、2008年)
- 『魂の科学-パタンジャリのヨーガ・スートラ』 澤西康史訳 (LAF瞑想社、2007年)
- 『こころでからだの声を聴く―ボディ・マインド・バランシング』 マ・アナンド・ムグダ訳 (市民出版社、2007年)
- 『神秘家の道-珠玉の質疑応答録』 スワミ・パリトーショ訳、スワミ・アドヴァイト・パルヴァ, マ・ギャン・シディカ照校 (市民出版社、2009年)
- 『探求の詩』 (市民出版社、2011年)
- 『魂のヨーガ』 (市民出版社、2012年)
- 『アティーシャの知恵の書 上』 (市民出版社、2012年)
- 『アティーシャの知恵の書 下』 (市民出版社、2013年)
- 『愛の道-神秘家・カビールを語る』 スワミ・プレム・グンジャ訳、マ・アナンド・ムグダ, マ・ギャン・プーナム照校(市民出版社、2013年)
- 『Joy 喜び』 山川紘矢・山川亜希子訳 (角川書店、2013年)
- 『草はひとりでに生える』(OEJブックス、2013年)
- 『究極の旅』(河出書房新社、2013年)
- 『死ぬこと生きること』 スワミ・ボーディ・デヴァヤナ(宮川義弘)訳、マ・アナンド・ムグダ、マ・ギャン・シディカ照校(市民出版社、2014年)
- 『存在とひとつに―ヴィギャン・バイラヴ・タントラ <タントラ秘宝の書8>』スワミ・アドヴァイト・パルヴァ訳 (市民出版社、1014年)
- 『炎の伝承1』(市民出版社、2014年)
- 『Courage 勇気』 山川紘矢・山川亜希子訳 (KADOKAWA、2014年)
- 『死について41の答え』OSHO 講話ほか 伊藤アジータ 訳、スワミ・アナンド・ニラーラ 照校 (OEJブックス 出版、めるくまーる 発売、2015年)
- 『炎の伝承2』(市民出版社、2015年)
- 『愛の円環―宇宙的オーガズム <タントラ秘宝の書5>』スワミ・アドヴァイト・パルヴァ訳 (市民出版社、2015年)
- 『内なる宇宙の発見―ヴィギャン・バイラヴ・タントラ <タントラ秘宝の書1>』スワミ・アドヴァイト・パルヴァ訳 (市民出版社、1015年)
- 『真理の泉』 スワミ・ボーディ・デヴァヤナ訳(市民出版社、2016年)
- 『奇跡の探求2』(市民出版社、2016年)
- 『Intuition 直観』 山川紘矢・山川亜希子訳 (KADOKAWA、2016年)
- 『瞑想の道』(市民出版社、2017年)
- 『Creativity 創造性』 山川紘矢・山川亜希子訳 (KADOKAWA、2017年)
- 『夜眠る前に贈る言葉』 (市民出版社、2018 年)
- 『朝の目覚めに贈る言葉』 (市民出版社、2018年)
- 『ブッダ―最大の奇跡 <超越の道シリーズ1>』 スワミ・ボーディ・デヴァヤナ訳、マ・ギャン・プーナム照校(市民出版社、2019年)
- 『瞑想録―静寂の言葉』 中原邦彦・庄司純訳 (季節社、2019年)
- 『あなたの魂を照らす60の物語』 Amy Okudaira訳 (大和書房、2019年)
- 『心理学を超えて1』 スワミ・ボーディ・デヴァヤナ訳 (市民出版社、2019年)
- 『存在の詩 TANTRA THE SUPREME UNDERSTANDING』新装復刊 OSHO 星川淳訳 2020年 めるくまーる)
- 『心理学を超えて 2 』(市民出版社、2020年)
- 『新瞑想法入門』(市民出版社、2021年)
脚注
[編集]注釈
[編集]- ^ バグワン・シュリ・ラジネーシとも。
- ^ 吉福伸逸は、オショー・ラジニーシのグループは、トランスパーソナル心理学、ニューサイエンス、ヒューマン・ポテンシャル運動、ホリステッィク・ヘルス運動に関連した宗教のなかで、最もニューエイジ的な感性に近いグループで、あれだけの実験を提供したグループは他になく、当時は初期のエサレン協会のような活気があったと述べている[118]。
- ^ なお翻訳家・著作家の吉福伸逸は、オショー・ラジニーシの思想は当初アメリカなどより日本の方が先行して広まっていたと述べており[148][要ページ番号]、それがアメリカのニューエイジ/トランスパーソナルムーブメントにおけるオショー・ラジニーシの引用の少なさを説明している、と考えている。引用例としては、例えばピーター・ラッセル 『グローバル・ブレイン』工作舎,1994年[要ページ番号]。
- ^ サニヤシンのひとりに、伝説的なLSD(幻覚剤)「オレンジ・サンシャイン」を製造した地下化学者ニコラス・サンドがおり、彼と共に「オレンジ・サンシャイン」を製造したティム・スカリーは、オショー・ラジニーシがアメリカのオレゴン州に移るためのビザを用意したのはサンドだと述べている[160]。
- ^ "His lawyers, however, were already negotiating with the United States Attorney's office and, on 14 November he returned to Portland and pleaded guilty to two felonies; making false statements to the immigration authorities in 1981 and concealing his intent to reside in the United States."(しかし、彼の弁護士はすでにアメリカ検察局と交渉しており、11月14日に彼はポートランドに戻り、1981年に移民当局に虚偽の陳述をしたことと、アメリカに居住する意図を隠したことの2つの重罪について有罪であると認めた。) (FitzGerald 1986b, p. 111)
- ^ "The Bhagwan may also soon need his voice to defend himself on charges he lied on his original temporary-visa application: if the immigration service proves he never intended to leave, the Bhagwan could be deported."(バグワンは、当初の短期滞在ビザの申請で嘘をついたという容疑について、すぐに弁明する必要に迫られるかもしれない。移民局が、バグワンが出国するつもりはなかったと証明すれば、バグワンは国外追放される可能性がある。) (Newsweek, Bhagwan's Realm: The Oregon cult with the leader with 90 golden Rolls-Royces, 3 December 1984, United States Edition, National Affairs Pg. 34, 1915 words, Neal Karlen with Pamela Abramson in Rajneeshpuram.)
- ^ "Facing 35 counts of conspiring to violate immigration laws, the guru admitted two charges: lying about his reasons for settling in the U.S. and arranging sham marriages to help foreign disciples join him."(移民法違反の共謀罪35件に直面したグルは、アメリカに定住した理由について嘘をついたことと、外国人の弟子が運動に加わるのを助けるために偽装結婚を手配したことの2つの罪を認めた。) (American Notes, Time, Monday, November 1985, available here Archived 9 July 2009 at the Wayback Machine.)
- ^ 「bhagavat」は神の名前であり、仏教では仏陀の尊称、如来の10の尊称の一つであり、「世の中で最も尊い人」または「世に尊ばれる人」を意味し、漢語では「世尊」と訳される[215][216]。
- ^ ニューエイジでは、悟りを開き、他の人を悟りに導く存在が「マスター」と呼ばれ、「マスター」との関わりが悟りへのプロセスに不可欠だと考えられ、ニューエイジャーは「マスター」との関わりを強く求めた[219]。
- ^ 防衛大学校教授の足達好正は、アメリカ国防大学のカルス(Seth Carus)による20世紀に起こったテロリストや犯罪者による不法な生物剤(生物兵器)の使用の研究を取り上げ、裁判記録やインタビューなどを通じて調査した詳細なケース・スタディの一つとしてラジニーシ教団によるバイオテロ事件を紹介し、「オレゴン州で実施された裁判記録、テロに関与した人物の証言を活用して、生物テロに至った全体像を明らかにした。ラジニーシの事例はバイオテロの分析では非常に有名であり、既にその動機など部分的にはよく知られていた。(中略)カルスは新たに、教祖ラジニーシの事件への関与、サルモネラ菌以外の生物テロ計画の存在などを明確にしている。本研究によると、教団幹部のシーラが計画を立案して、教祖のラジニーシに報告した時に、人々を傷つけないのが一番だが、何人か死んでも気にすることはないと教祖がコメントしたという。つまり、少なくともラジニーシは、サルモネラ菌散布を承知していた。また、特定が困難で、人を殺すことなく病気にする毒物としてサルモネラ菌が有効であると認識されていたこと、サルモネラ菌製造の中心的人物であるプジャ(Ma Anand Puja)がサルモネラ菌の散布以外にも齧歯動物を媒介とする伝染病を蔓延させるため死んだビーバーをダラスの水道システムに混入するアイデアを持っていたこと、肝炎やエイズウィルスの培養にも興味を有していたことを指摘した。」と述べている[262]。
- ^ ニルグナ・バクティとは、14-16世紀の非宗派的なサントたち(一部は表面的には非ヒンドゥー教徒・イスラーム教徒)が追及した至高の存在への観念であり、彼らは、物質的な現象世界の構成要素(グナ)を超えた、属性を持たない、言葉で表現できない、唯一絶対の至高の存在たる神あるいは究極的な真実在ニルグナがあり、それを追求する人間の心奥にもニルグナが本来的・普遍的に存在すると説いており、ニルグナ・バクティは、ニルグナを覚知し、それに自己の全存在を捧げるバクティである[230]。
- ^ 「ああ、これで現代日本にも、ラジニーシのようなタイプのラジカルな宗教家が、はじめて出現することになったのだな、この人(麻原彰晃)はなにか新しいことをしでかす可能性を持った人かもしれないなと思った。」(中沢、1995年)[326]
- ^ 両極的な性(Sex polarity)とは、女性と男性は霊的に別のもので、分離しており、一体となるべきではなく、一方の性の救済にとって他方の性は不可欠ではなく無関係であると考えるもので、一方の性がより純粋で、より知的で、より神に近いとみなされているため、性別による不平等が常態化する[254]。
- ^ ゲストは11歳の時に母に連れられて教団を出て一般社会で生活するようになったが、十代の頃は薬物の使用とアルコールの過剰摂取の深刻な問題を抱えていた[334]。モルヒネの過剰摂取で34歳で死亡している[335]。
- ^ 『オレンジでの私の人生』はイギリスのデヴォンにある運動の共同体で首つり自殺した子供の話で始まり、ゲストは作中で繰り返し、その子供は自分だったかもしれないと感じていると語っている[334]。
- ^ 「That year, in the summer of 1984 at the Ranch, many of the Medina kids lost their virginity; boys and girls, ten years old, eight years old, in sweaty tents and A-frames, late at night and mid-afternoon, with adults and other children. I remember some of the kids—eight, nine, ten years old—arguing about who had fucked whom, who would or wouldn’t fuck them.(その年、1984年の夏、牧場(ラジニーシプーラム)で、メディナ(イギリスの主要なアシュラム)の子供たちの多くが処女を失った。10歳、8歳の少年少女が、汗臭いテントや三角屋根の家の中で、夜更けや昼下がりに処女を失ったのだ、大人たちや他の子供たちと一緒に。8歳、9歳、10歳の子供たちが、誰が誰とファックしたか、誰が自分とファックするかしないか、口論していたのを覚えている (Guest, My Life, 198–9)[117]。」
- ^ The Guardianのジャーナリストで著作家、編集者のジェラルディン・ベデルは、指導者のサニヤシンによる14・15歳の少女への性行為は、「もちろん、これは愛情を込めて、善意で行われた。」と述べ、あるレイプ被害者は、その恐怖に立ち向かうために再びレイプされ、「アシュラムで自分に起こったことが悪いことであるはずがない」と説明したと書いている[334]。
- ^ ニコラス・サンドの連れ合いもオショー・ラジニーシの信奉者で、サニヤシン名を名乗っている[337]。
- ^ ラジニーシの弟子の著作で、MDMAについて言及した箇所が2つある。ひとつはグルの秘書によるもので、1983年か1984年頃に、オショー・ラジニーシの「プライベート・ダルシャン」で虐待的な性的関係に身を置くようになったイギリス人女性の弟子ヴィヴェックが、心理的に不安定になり精神に異常をきたしたが、「新薬(new drug)」によって落ち着きを取り戻したことを書いたもので、オショー・ラジニーシが、この新薬「エクスタシー」が彼女を幸せにし穏やかにしてくれると述べたと、彼の言葉が引用されている。また、気分を変える陶酔薬エクスタシーが、資金集めの面談の前に金持ちのサニヤシンの飲み物にこっそり混入されたという、オショー・ラジニーシのボディーガードの言葉が引用されている。[237]
- ^ 「Oh yes Osho I read a lot of Osho books and I have been reading a lot about [Osho’s views on] rebellion, which is my favorite so far. And how creativity is the greatest form of rebellion in life. It’s important to stand up for what you believe in and to fight for equality. Equality is one of the most important things in my life—social, political, economic equality—these are all things I fight for in my country as a citizen. So I read Osho because not only do I love his work and what he writes about, but I guess I am kind of an Indian hippie!(ええ、そう、オショー。私はオショーの本をたくさん読んでいて、(彼の) 「反抗」(に対する考え方)が一番気に入っています。そして、創造的なことは人生における最大の反抗であるということも。自分が信じることのために立ち上がり、平等のために戦うことは重要です。社会的、政治的、経済的な平等は、私の人生において非常に重要なことのひとつです-これらは全て、私が市民として自分の国で戦っていることです。だから、私がオショーの本を読むのは、彼の作品や彼が書いたものが好きというだけでなく、一種のインド人ヒッピーだと思うからなんです!)(Bhushan 2011)」[34]
- ^ オショー・ラジニーシによるビジュニャーナ・バイラヴァ・タントラの膨大な解説は、サンスクリット語やカシミール・シヴァ派の専門家ではない東洋愛好家のアメリカ人詩人ポール・レップスによる英訳に基づく。
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関連文献
[編集]- ヴァサント・ジョシ『異端の神秘家 OSHO・反逆の軌跡』宮川義弘 訳 市民出版社 2018年
- ナルタン(日家ふじ子)『自分という名の迷宮 インナーラビリンス』めるくまーる、2016年。
- マックス・ブレッカー『OSHO:アメリカへの道 - 砂漠の実験都市ラジニーシプーラムの誕生と崩壊の真相』「OSHOアメリカへの道」プロジェクト訳、和尚アートユニティ 出版、めるくまーる 発売、2005年
- Osho (2004), Meditation: the first and last freedom, St. Martin's Griffin, ISBN 978-0-312-33663-9
- Osho (2000), Autobiography of a Spiritually Incorrect Mystic, New York, NY: St. Martin's Griffin, ISBN 0-312-25457-1
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- マ・プレム・シュンニョ『和尚と過ごしたダイアモンドの日々: ザ・ニュー・ダイアモンド・スートラ』 マ・プレム・ソナ訳、和尚エンタープライズジャパン、1994年
- Meredith, George (1988), Bhagwan: The Most Godless Yet the Most Godly Man, Pune: Rebel Publishing House
- Bhagwan Shree Rajneesh (1985), Glimpses of a Golden Childhood, Rajneeshpuram: Rajneesh Foundation International, ISBN 0-88050-715-2
- Milne, Hugh (1986), Bhagwan: The God That Failed, London: Caliban Books, ISBN 1-85066-006-9
- ヒュー・ミルン『ラジニーシ ― 堕ちた神』 鴫沢立也訳、第三書館 、1991年(再版)ラジニーシの側近でのち離反した人物の回想録。「ラジニーシの実像およびアーシュラムの内情については信憑性が高いと思われる。(足沢 2000年 p.97)」
- Joshi, Vasant (1982), The Awakened One, San Francisco, CA: Harper and Row, ISBN 0-06-064205-X
- ヴァサント・ジョシ『反逆のブッダ バグワン・シュリ・ラジニーシの軌跡』スワミ・プレム・プラブッダ訳、めるくまーる、1984年
- ラジニーシズム学会 編『ラジニーシズム : バグワン・シュリ・ラジ二ーシとその宗教の紹介』マ・アナンド・ナルタン 訳、マ・ヨガ・プラティマ 監修、ラジニーシ・ファンデーション・インターナショナル 発行、株式会社めるくまーる 発売)、1984年。
- 解説
- 玉川信明著 『和尚の超宗教的世界 トランスパーソナル心理学との相対関係』(社会評論社、2001年)
- 玉川信明著 『和尚、禅を語る』(社会評論社、2002年)
- 玉川信明編著 『和尚、性愛を語る』 (社会評論社、2003年)
- 玉川信明編著 『和尚、聖典を語る』 (社会評論社、2003年)
- 雑誌
- 『Rajneesh times international(ラジニーシ・タイムズ・インターナショナル)』イア・ラジニーシ・ネオ・サニヤス・コミューン株式会社 編、イア・ラジニーシ・ネオ・サニヤス・コミューン、Vol.1(20 Dec. 1987)~15号(1 Oct. 1989)
- 『Osho times international(和尚タイムズ・インターナショナル)』 和尚ジャパン 編、イア・ラジニーシ・ネオ・サニヤス・コミューン (16号-17号) → Oshoイア・ネオ・サニヤス・コミューン (18/19号-88号) → オージェーインスティテュート (89号-95号)、刊行終了
- 月刊「ムー」1983年9月号 No.34、10月号 No.35、学習研究社「OSHO、秘教グループを語る」スワミ・アナンド・モンジュ訳
関連項目
[編集]外部リンク
[編集]- Oshoのヴィジョン OSHO International Foundation(日本語)
- oshoworld.com(英語)