コンテンツにスキップ

「ノーサンバランド伯」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
Cewbot (会話 | 投稿記録)
m Bot作業依頼: クラクロフト貴族名鑑のリンク切れ修正 (www.cracroftspeerage.co.uk/online/content/) - log
7行目: 7行目:
[[パーシー家]]は家祖の{{仮リンク|ウィリアム・ド・パーシー|en|William de Percy}}{{small|(?-1096/9)}}以来、[[ノーサンバーランド (イングランド)|ノーサンバランド]]や[[ヨークシャー]]に広大な荘園を持ち、イングランド北東部の最有力の領主だった{{sfn|海保眞夫|1999|p=50}}。
[[パーシー家]]は家祖の{{仮リンク|ウィリアム・ド・パーシー|en|William de Percy}}{{small|(?-1096/9)}}以来、[[ノーサンバーランド (イングランド)|ノーサンバランド]]や[[ヨークシャー]]に広大な荘園を持ち、イングランド北東部の最有力の領主だった{{sfn|海保眞夫|1999|p=50}}。


{{仮リンク|ヘンリー・ド・パーシー (初代パーシー男爵)|label=ヘンリー・ド・パーシー|en|Henry de Percy, 1st Baron Percy}}<small>(1273–1314)</small>の代の[[1299年]][[2月6日]]に{{仮リンク|パーシー男爵|en|Baron Percy}}として議会招集令状を受けて[[イングランド貴族]]に列し<ref name="CP BP">{{Cite web |url=http://www.cracroftspeerage.co.uk/online/content/percy1299.htm|title=Percy, Baron (E, 1299 - 1406)|accessdate= 2020-5-14 |last= Heraldic Media Limited |work= [http://www.cracroftspeerage.co.uk/online/content/introduction.htm Cracroft's Peerage The Complete Guide to the British Peerage & Baronetage] |language= 英語 }}</ref>、[[1309年]]には{{仮リンク|ダラム司教|en|Bishop of Durham}}より[[アニック・カースル|アニック城]]を購入した。以降この城はパーシー家所有の城の中でももっとも有名なものとなる{{sfn|海保眞夫|1999|p=52}}。第4代パーシー男爵[[ヘンリー・パーシー (初代ノーサンバランド伯)|ヘンリー・パーシー]]<small>(1341–1408)</small>が、[[リチャード2世 (イングランド王)|リチャード2世]]即位直後の[[1377年]][[7月16日]]に[[ノーサンバランド伯|ノーサンバランド伯爵]]に叙位されたのがノーサンバランド伯爵パーシー家の始まりである<ref name="CP EN1377">{{Cite web |url=http://www.cracroftspeerage.co.uk/online/content/northumberland1377.htm|title=Northumberland, Earl of (E, 1377 - 1406)|accessdate= 2020-5-14 |last= Heraldic Media Limited |work= [http://www.cracroftspeerage.co.uk/online/content/introduction.htm Cracroft's Peerage The Complete Guide to the British Peerage & Baronetage] |language= 英語 }}</ref>。しかしリチャード2世はイングランド北部のパーシー家の勢力の大きさを好ましく思わず、北部においてパーシー家に次ぐ勢力である[[ネヴィル家]]やクリフォード家と均衡させようとしたり、パーシー家が代々継承してきた辺境警備長官の職を解くなどしたため、リチャード2世と対立を深め{{sfn|青山吉信(編)|1991| p=403}}、[[1399年]]の[[ヘンリー4世 (イングランド王)|ヘンリー4世]]による王位簒奪を支持し、[[ランカスター朝]]の樹立に貢献した{{sfn|松村赳|富田虎男|2000| p=573}}。しかしその後パーシー家はヘンリー4世とも対立し、3度にわたって反乱を起こした{{sfn|松村赳|富田虎男|2000| p=573}}。
{{仮リンク|ヘンリー・ド・パーシー (初代パーシー男爵)|label=ヘンリー・ド・パーシー|en|Henry de Percy, 1st Baron Percy}}<small>(1273–1314)</small>の代の[[1299年]][[2月6日]]に{{仮リンク|パーシー男爵|en|Baron Percy}}として議会招集令状を受けて[[イングランド貴族]]に列し<ref name="CP BP">{{Cite web |url=http://www.cracroftspeerage.co.uk/percy1299.htm|title=Percy, Baron (E, 1299 - 1406)|accessdate= 2020-5-14 |last= Heraldic Media Limited |work= [http://www.cracroftspeerage.co.uk/introduction.htm Cracroft's Peerage The Complete Guide to the British Peerage & Baronetage] |language= 英語 }}</ref>、[[1309年]]には{{仮リンク|ダラム司教|en|Bishop of Durham}}より[[アニック・カースル|アニック城]]を購入した。以降この城はパーシー家所有の城の中でももっとも有名なものとなる{{sfn|海保眞夫|1999|p=52}}。第4代パーシー男爵[[ヘンリー・パーシー (初代ノーサンバランド伯)|ヘンリー・パーシー]]<small>(1341–1408)</small>が、[[リチャード2世 (イングランド王)|リチャード2世]]即位直後の[[1377年]][[7月16日]]に[[ノーサンバランド伯|ノーサンバランド伯爵]]に叙位されたのがノーサンバランド伯爵パーシー家の始まりである<ref name="CP EN1377">{{Cite web |url=http://www.cracroftspeerage.co.uk/northumberland1377.htm|title=Northumberland, Earl of (E, 1377 - 1406)|accessdate= 2020-5-14 |last= Heraldic Media Limited |work= [http://www.cracroftspeerage.co.uk/introduction.htm Cracroft's Peerage The Complete Guide to the British Peerage & Baronetage] |language= 英語 }}</ref>。しかしリチャード2世はイングランド北部のパーシー家の勢力の大きさを好ましく思わず、北部においてパーシー家に次ぐ勢力である[[ネヴィル家]]やクリフォード家と均衡させようとしたり、パーシー家が代々継承してきた辺境警備長官の職を解くなどしたため、リチャード2世と対立を深め{{sfn|青山吉信(編)|1991| p=403}}、[[1399年]]の[[ヘンリー4世 (イングランド王)|ヘンリー4世]]による王位簒奪を支持し、[[ランカスター朝]]の樹立に貢献した{{sfn|松村赳|富田虎男|2000| p=573}}。しかしその後パーシー家はヘンリー4世とも対立し、3度にわたって反乱を起こした{{sfn|松村赳|富田虎男|2000| p=573}}。


最初の反乱の[[1403年]]夏の{{仮リンク|シュルーズベリーの戦い|en|Battle of Shrewsbury}}において初代伯の息子で「ホットスパー(短気者)」の呼び名で知られる[[ヘンリー・パーシー (ホットスパー)|ヘンリー・パーシー]]{{small|(1364–1403)}}が戦死し、初代伯の弟である初代{{仮リンク|ウスター伯|en|Earl of Worcester}}{{仮リンク|トマス・パーシー (初代ウスター伯)|label=トマス・パーシー|en|Thomas Percy, 1st Earl of Worcester}}{{small|(1343–1403)}}も捕らえられて後に処刑されている{{sfn|青山吉信(編)|1991|pp=407}}。[[1405年]]に二度目の反乱を起こしたが、失敗してスコットランドへ亡命し{{sfn|青山吉信(編)|1991|pp=407}}、[[1406年]]に[[私権剥奪]]で爵位を剥奪されている<ref name="CP EN1377"/>。[[1408年]]に故郷に戻るも発見されて{{sfn|青山吉信(編)|1991|pp=407}}、{{仮リンク|ブラマム・ムーアの戦い|en|Battle of Bramham Moor}}で敗死した<ref name="CP EN1377"/>。パーシー家は滅亡こそしなかったが、この反乱が原因で以降イングランド北部における勢力は[[ネヴィル家]]に押され気味となる{{sfn|青山吉信(編)|1991|pp=407}}。
最初の反乱の[[1403年]]夏の{{仮リンク|シュルーズベリーの戦い|en|Battle of Shrewsbury}}において初代伯の息子で「ホットスパー(短気者)」の呼び名で知られる[[ヘンリー・パーシー (ホットスパー)|ヘンリー・パーシー]]{{small|(1364–1403)}}が戦死し、初代伯の弟である初代{{仮リンク|ウスター伯|en|Earl of Worcester}}{{仮リンク|トマス・パーシー (初代ウスター伯)|label=トマス・パーシー|en|Thomas Percy, 1st Earl of Worcester}}{{small|(1343–1403)}}も捕らえられて後に処刑されている{{sfn|青山吉信(編)|1991|pp=407}}。[[1405年]]に二度目の反乱を起こしたが、失敗してスコットランドへ亡命し{{sfn|青山吉信(編)|1991|pp=407}}、[[1406年]]に[[私権剥奪]]で爵位を剥奪されている<ref name="CP EN1377"/>。[[1408年]]に故郷に戻るも発見されて{{sfn|青山吉信(編)|1991|pp=407}}、{{仮リンク|ブラマム・ムーアの戦い|en|Battle of Bramham Moor}}で敗死した<ref name="CP EN1377"/>。パーシー家は滅亡こそしなかったが、この反乱が原因で以降イングランド北部における勢力は[[ネヴィル家]]に押され気味となる{{sfn|青山吉信(編)|1991|pp=407}}。


「ホットスパー」の息子である[[ヘンリー・パーシー (第2代ノーサンバランド伯)|ヘンリー・パーシー]]<small>(1394–1455)</small>は、[[1416年]]に領地と称号を回復した<ref name="CP EN1416">{{Cite web |url=http://www.cracroftspeerage.co.uk/online/content/northumberland1416.htm|title=Northumberland, Earl of (E, 1416 - 1537)|accessdate= 2020-5-14 |last= Heraldic Media Limited |work= [http://www.cracroftspeerage.co.uk/online/content/introduction.htm Cracroft's Peerage The Complete Guide to the British Peerage & Baronetage] |language= 英語 }}</ref>。ただ祖父の私権剥奪が議会によって取り消されたという証拠がないため<ref name="CP EN1377"/>、「2代ノーサンバランド伯」ではなく、改めて新規に「初代ノーサンバランド伯」に叙されたとみなす見解もある<ref name="CP EN1416"/>。彼は[[ヘンリー5世 (イングランド王)|ヘンリー5世]]に従って[[百年戦争]]に従軍してノルマンディー地方で戦い、[[1417年]]には北部に転じてスコットランド南部へ侵入した{{sfn|海保眞夫|1999|p=68}}。1422年にヘンリー5世が崩御した際にはその遺言執行人を務めている{{sfn|海保眞夫|1999|p=68}}。[[薔薇戦争]]の始まりである[[1455年]]の[[セント・オールバンズの戦い (1455年)|第一次セント・オールバンズの戦い]]にランカスター派([[ヘンリー6世 (イングランド王)|ヘンリー6世]]支持派)として参加したが、戦死した{{sfn|松村赳|富田虎男|2000| p=573}}{{sfn|海保眞夫|1999|p=68}}。
「ホットスパー」の息子である[[ヘンリー・パーシー (第2代ノーサンバランド伯)|ヘンリー・パーシー]]<small>(1394–1455)</small>は、[[1416年]]に領地と称号を回復した<ref name="CP EN1416">{{Cite web |url=http://www.cracroftspeerage.co.uk/northumberland1416.htm|title=Northumberland, Earl of (E, 1416 - 1537)|accessdate= 2020-5-14 |last= Heraldic Media Limited |work= [http://www.cracroftspeerage.co.uk/introduction.htm Cracroft's Peerage The Complete Guide to the British Peerage & Baronetage] |language= 英語 }}</ref>。ただ祖父の私権剥奪が議会によって取り消されたという証拠がないため<ref name="CP EN1377"/>、「2代ノーサンバランド伯」ではなく、改めて新規に「初代ノーサンバランド伯」に叙されたとみなす見解もある<ref name="CP EN1416"/>。彼は[[ヘンリー5世 (イングランド王)|ヘンリー5世]]に従って[[百年戦争]]に従軍してノルマンディー地方で戦い、[[1417年]]には北部に転じてスコットランド南部へ侵入した{{sfn|海保眞夫|1999|p=68}}。1422年にヘンリー5世が崩御した際にはその遺言執行人を務めている{{sfn|海保眞夫|1999|p=68}}。[[薔薇戦争]]の始まりである[[1455年]]の[[セント・オールバンズの戦い (1455年)|第一次セント・オールバンズの戦い]]にランカスター派([[ヘンリー6世 (イングランド王)|ヘンリー6世]]支持派)として参加したが、戦死した{{sfn|松村赳|富田虎男|2000| p=573}}{{sfn|海保眞夫|1999|p=68}}。


その息子の3代伯[[ヘンリー・パーシー (第3代ノーサンバランド伯)|ヘンリー・パーシー]]{{small|(1421-1461)}}もランカスター派としてヘンリー6世に仕え、[[1460年]]の[[ウェイクフィールドの戦い]]と[[1461年]]の[[セント・オールバンズの戦い (1461年)|第二次セント・オールバンズの戦い]]でヨーク派を撃破したが、同年[[タウトンの戦い]]で3人の弟とともに敗死した{{sfn|松村赳|富田虎男|2000| p=573}}{{sfn|海保眞夫|1999|p=68}}。死後、[[ヨーク朝|ヨーク派]]の[[エドワード4世 (イングランド王)|エドワード4世]]によって領地と爵位をはく奪され<ref name="CP EN1416"/>、ライバルのネヴィル家の一族である[[ジョン・ネヴィル (初代モンターギュ侯)|ジョン・ネヴィル]]が代わりにノーサンバランド伯に叙位された{{sfn|海保眞夫|1999|p=68}}。
その息子の3代伯[[ヘンリー・パーシー (第3代ノーサンバランド伯)|ヘンリー・パーシー]]{{small|(1421-1461)}}もランカスター派としてヘンリー6世に仕え、[[1460年]]の[[ウェイクフィールドの戦い]]と[[1461年]]の[[セント・オールバンズの戦い (1461年)|第二次セント・オールバンズの戦い]]でヨーク派を撃破したが、同年[[タウトンの戦い]]で3人の弟とともに敗死した{{sfn|松村赳|富田虎男|2000| p=573}}{{sfn|海保眞夫|1999|p=68}}。死後、[[ヨーク朝|ヨーク派]]の[[エドワード4世 (イングランド王)|エドワード4世]]によって領地と爵位をはく奪され<ref name="CP EN1416"/>、ライバルのネヴィル家の一族である[[ジョン・ネヴィル (初代モンターギュ侯)|ジョン・ネヴィル]]が代わりにノーサンバランド伯に叙位された{{sfn|海保眞夫|1999|p=68}}。
25行目: 25行目:
以降20年ほどノーサンバランド伯の称号はパーシー家を離れたが、その間に[[ジョン・ダドリー (初代ノーサンバーランド公)|ジョン・ダドリー]]が[[ノーサンバーランド公爵|ノーサンバランド公]]に叙せられている{{sfn|海保眞夫|1999|p=82}}。
以降20年ほどノーサンバランド伯の称号はパーシー家を離れたが、その間に[[ジョン・ダドリー (初代ノーサンバーランド公)|ジョン・ダドリー]]が[[ノーサンバーランド公爵|ノーサンバランド公]]に叙せられている{{sfn|海保眞夫|1999|p=82}}。


6代伯の甥トマス・パーシーは、[[カトリック教会|カトリック]]であったことから[[メアリー1世 (イングランド女王)|メアリー1世]]の寵遇を得{{sfn|松村赳|富田虎男|2000| p=573}}、[[1557年]][[4月30日]]にパーシー男爵、同年[[5月1日]]にノーサンバランド伯に叙位された。両爵位とも男子なき場合に弟{{仮リンク|ヘンリー・パーシー (第8代ノーサンバランド伯)|label=ヘンリー・パーシー|en|Henry Percy, 8th Earl of Northumberland}}を特別継承者とする規定があり、またノーサンバランド伯位については以前のノーサンバランド伯位の継承資格者も継承可能であり<ref name="CP EN1557">{{Cite web |url=http://www.cracroftspeerage.co.uk/online/content/northumberland1557.htm|title=Northumberland, Earl of (E, 1557 - 1670)|accessdate= 2016-6-17 |last= Heraldic Media Limited |work= [http://www.cracroftspeerage.co.uk/online/content/introduction.htm Cracroft's Peerage The Complete Guide to the British Peerage & Baronetage] |language= 英語 }}</ref>、7代伯爵の名乗りも許されていた{{sfn|海保眞夫|1999|p=82}}。しかしメアリー崩御後、[[プロテスタント]]化政策を推し進める[[エリザベス1世]]と対立を深め、[[1569年]]に同じく北部カトリック貴族の6代[[ウェストモーランド伯爵]][[チャールズ・ネヴィル (第6代ウェストモーランド伯)|チャールズ・ネヴィル]]とともに{{仮リンク|北部諸侯の乱|en|Rising of the North}}を起こしたが、失敗し、[[1572年]]に[[大逆罪 (イギリス)|大逆罪]]で処刑された。カトリックの殉教者と見なされ、後世カトリック教会から列福されている{{sfn|海保眞夫|1999|pp=82-83}}。
6代伯の甥トマス・パーシーは、[[カトリック教会|カトリック]]であったことから[[メアリー1世 (イングランド女王)|メアリー1世]]の寵遇を得{{sfn|松村赳|富田虎男|2000| p=573}}、[[1557年]][[4月30日]]にパーシー男爵、同年[[5月1日]]にノーサンバランド伯に叙位された。両爵位とも男子なき場合に弟{{仮リンク|ヘンリー・パーシー (第8代ノーサンバランド伯)|label=ヘンリー・パーシー|en|Henry Percy, 8th Earl of Northumberland}}を特別継承者とする規定があり、またノーサンバランド伯位については以前のノーサンバランド伯位の継承資格者も継承可能であり<ref name="CP EN1557">{{Cite web |url=http://www.cracroftspeerage.co.uk/northumberland1557.htm|title=Northumberland, Earl of (E, 1557 - 1670)|accessdate= 2016-6-17 |last= Heraldic Media Limited |work= [http://www.cracroftspeerage.co.uk/introduction.htm Cracroft's Peerage The Complete Guide to the British Peerage & Baronetage] |language= 英語 }}</ref>、7代伯爵の名乗りも許されていた{{sfn|海保眞夫|1999|p=82}}。しかしメアリー崩御後、[[プロテスタント]]化政策を推し進める[[エリザベス1世]]と対立を深め、[[1569年]]に同じく北部カトリック貴族の6代[[ウェストモーランド伯爵]][[チャールズ・ネヴィル (第6代ウェストモーランド伯)|チャールズ・ネヴィル]]とともに{{仮リンク|北部諸侯の乱|en|Rising of the North}}を起こしたが、失敗し、[[1572年]]に[[大逆罪 (イギリス)|大逆罪]]で処刑された。カトリックの殉教者と見なされ、後世カトリック教会から列福されている{{sfn|海保眞夫|1999|pp=82-83}}。


7代伯には男子がなく、弟の{{仮リンク|ヘンリー・パーシー (第8代ノーサンバランド伯)|label=ヘンリー・パーシー|en|Henry Percy, 8th Earl of Northumberland}}{{small|(1532–1585)}}が8代伯となった<ref name="CP EN1557"/>。彼は襲爵前にノーサンバランド州選挙区選出の[[庶民院 (イギリス)|庶民院]]議員を務めており、兄の反乱にも参加しなかったが、[[1571年]]に元[[スコットランド君主一覧|スコットランド女王]][[メアリー (スコットランド女王)|メアリー・ステュアート]]と共謀したとされ、ロンドン塔に送られた。獄中で襲爵し、[[1573年]]に釈放されるも[[1583年]]末に{{仮リンク|スロックモートン事件|en|Throckmorton Plot}}に連座して再度ロンドン塔に投獄され、[[1585年]]に自殺した(他殺説もあり){{sfn|松村赳|富田虎男|2000|pp=573-574}}{{sfn|海保眞夫|1999|p=83}}。
7代伯には男子がなく、弟の{{仮リンク|ヘンリー・パーシー (第8代ノーサンバランド伯)|label=ヘンリー・パーシー|en|Henry Percy, 8th Earl of Northumberland}}{{small|(1532–1585)}}が8代伯となった<ref name="CP EN1557"/>。彼は襲爵前にノーサンバランド州選挙区選出の[[庶民院 (イギリス)|庶民院]]議員を務めており、兄の反乱にも参加しなかったが、[[1571年]]に元[[スコットランド君主一覧|スコットランド女王]][[メアリー (スコットランド女王)|メアリー・ステュアート]]と共謀したとされ、ロンドン塔に送られた。獄中で襲爵し、[[1573年]]に釈放されるも[[1583年]]末に{{仮リンク|スロックモートン事件|en|Throckmorton Plot}}に連座して再度ロンドン塔に投獄され、[[1585年]]に自殺した(他殺説もあり){{sfn|松村赳|富田虎男|2000|pp=573-574}}{{sfn|海保眞夫|1999|p=83}}。
41行目: 41行目:


=== 1749年以降のノーサンバランド伯 (シーモア・パーシー家) ===
=== 1749年以降のノーサンバランド伯 (シーモア・パーシー家) ===
11代ノーサンバランド伯ジョスリン・パーシーは男子を残さなかったが、娘[[エリザベス・シーモア (サマセット公爵夫人)|エリザベス・パーシー]]{{small|(1667-1722)}}があり、[[アニック城]]をはじめとする北部イングランドの所領、サセックス州南部のペットワース荘園、ノーサンバランド・ハウスやサイオン・ハウスといったロンドンの邸宅などのノーサンバランド伯爵家の財産は彼女が相続していた{{sfn|海保眞夫|1999|p=95}}。彼女は[[1682年]]の三度目の結婚で第6代[[サマセット公]][[チャールズ・シーモア (第6代サマセット公)|チャールズ・シーモア]]と結婚し{{sfn|森護|1999|pp=66}}、2人の間の息子[[アルジャーノン・シーモア (第7代サマセット公)|アルジャーノン・シーモア]]は[[1748年]]に父の死で第7代サマセット公爵位を襲爵したが、男子がなかったので[[1749年]][[10月2日]]に彼の娘{{仮リンク|エリザベス・パーシー (ノーサンバランド公爵夫人)|label=エリザベス|en|Elizabeth Percy, Duchess of Northumberland}}の夫である第4代{{仮リンク|スミソン準男爵|lable=準男爵|en|Smithson baronets}}[[ヒュー・パーシー (初代ノーサンバランド公)|ヒュー・スミソン]]{{small|(1714頃-1786)}}を特別継承者とする[[グレートブリテン貴族]]'''ノーサンバランド伯爵'''位と'''ノーサンバランド州におけるワークワース城のワークワース男爵'''{{small|(Baron Warkworth, of Warkworth Castle in the County of Northumberland)}}に叙位された<ref name="CP DS">{{Cite web |url=http://www.cracroftspeerage.co.uk/online/content/somerset1546.htm|title=Somerset, Duke of (E, 1546/7)|accessdate= 2020-5-14|last= Heraldic Media Limited |work= [http://www.cracroftspeerage.co.uk/online/content/introduction.htm Cracroft's Peerage The Complete Guide to the British Peerage & Baronetage] |language= 英語 }}</ref><ref>{{Cite web |url= http://www.thepeerage.com/p1048.htm#i10474 |title=Algernon Seymour, 7th Duke of Somerset|accessdate= 2016-2-2 |last= Lundy |first= Darryl |work= [http://thepeerage.com/ thepeerage.com] |language= 英語 }}</ref>。
11代ノーサンバランド伯ジョスリン・パーシーは男子を残さなかったが、娘[[エリザベス・シーモア (サマセット公爵夫人)|エリザベス・パーシー]]{{small|(1667-1722)}}があり、[[アニック城]]をはじめとする北部イングランドの所領、サセックス州南部のペットワース荘園、ノーサンバランド・ハウスやサイオン・ハウスといったロンドンの邸宅などのノーサンバランド伯爵家の財産は彼女が相続していた{{sfn|海保眞夫|1999|p=95}}。彼女は[[1682年]]の三度目の結婚で第6代[[サマセット公]][[チャールズ・シーモア (第6代サマセット公)|チャールズ・シーモア]]と結婚し{{sfn|森護|1999|pp=66}}、2人の間の息子[[アルジャーノン・シーモア (第7代サマセット公)|アルジャーノン・シーモア]]は[[1748年]]に父の死で第7代サマセット公爵位を襲爵したが、男子がなかったので[[1749年]][[10月2日]]に彼の娘{{仮リンク|エリザベス・パーシー (ノーサンバランド公爵夫人)|label=エリザベス|en|Elizabeth Percy, Duchess of Northumberland}}の夫である第4代{{仮リンク|スミソン準男爵|lable=準男爵|en|Smithson baronets}}[[ヒュー・パーシー (初代ノーサンバランド公)|ヒュー・スミソン]]{{small|(1714頃-1786)}}を特別継承者とする[[グレートブリテン貴族]]'''ノーサンバランド伯爵'''位と'''ノーサンバランド州におけるワークワース城のワークワース男爵'''{{small|(Baron Warkworth, of Warkworth Castle in the County of Northumberland)}}に叙位された<ref name="CP DS">{{Cite web |url=http://www.cracroftspeerage.co.uk/somerset1546.htm|title=Somerset, Duke of (E, 1546/7)|accessdate= 2020-5-14|last= Heraldic Media Limited |work= [http://www.cracroftspeerage.co.uk/introduction.htm Cracroft's Peerage The Complete Guide to the British Peerage & Baronetage] |language= 英語 }}</ref><ref>{{Cite web |url= http://www.thepeerage.com/p1048.htm#i10474 |title=Algernon Seymour, 7th Duke of Somerset|accessdate= 2016-2-2 |last= Lundy |first= Darryl |work= [http://thepeerage.com/ thepeerage.com] |language= 英語 }}</ref>。


1750年2月に7代サマセット公が死去すると、特別継承者の規定に基づいてヒュー・スミソン準男爵が第2代ノーサンバランド伯と第2代ワークワース男爵を継承するとともに議会の議決によりパーシーに改姓した{{sfn|森護|1999|pp=70}}<ref name="thepeerage1">{{Cite web |url= http://www.thepeerage.com/p1048.htm#i10475 |title=Hugh Percy, 1st Duke of Northumberland|accessdate= 2016-2-1 |last= Lundy |first= Darryl |work= [http://thepeerage.com/ thepeerage.com] |language= 英語 }}</ref><ref name="CP DN1766">{{Cite web |url=http://www.cracroftspeerage.co.uk/online/content/northumberland1766.htm|title=Northumberland, Duke of (GB, 1766)|accessdate= 2016-2-2 |last= Heraldic Media Limited |work= [http://www.cracroftspeerage.co.uk/online/content/introduction.htm Cracroft's Peerage The Complete Guide to the British Peerage & Baronetage] |language= 英語 }}</ref>。このスミソン家はイングランド内戦の際に王党派に尽くした功績で王政復古後の1660年に準男爵に叙せられていた家柄でヨークシャーのスタニックに6000エーカーの土地を所有した中規模の地主だった{{sfn|海保眞夫|1999|p=107}}。彼はパーシーに改姓した後も[[トーリー党 (イギリス)|トーリー党]]の政治家として活躍し、[[1766年]][[10月22日]]には[[グレートブリテン貴族]]爵位'''[[ノーサンバーランド公爵]]'''に叙せられた<ref name="thepeerage1"/><ref name="CP DN1766"/>。
1750年2月に7代サマセット公が死去すると、特別継承者の規定に基づいてヒュー・スミソン準男爵が第2代ノーサンバランド伯と第2代ワークワース男爵を継承するとともに議会の議決によりパーシーに改姓した{{sfn|森護|1999|pp=70}}<ref name="thepeerage1">{{Cite web |url= http://www.thepeerage.com/p1048.htm#i10475 |title=Hugh Percy, 1st Duke of Northumberland|accessdate= 2016-2-1 |last= Lundy |first= Darryl |work= [http://thepeerage.com/ thepeerage.com] |language= 英語 }}</ref><ref name="CP DN1766">{{Cite web |url=http://www.cracroftspeerage.co.uk/northumberland1766.htm|title=Northumberland, Duke of (GB, 1766)|accessdate= 2016-2-2 |last= Heraldic Media Limited |work= [http://www.cracroftspeerage.co.uk/introduction.htm Cracroft's Peerage The Complete Guide to the British Peerage & Baronetage] |language= 英語 }}</ref>。このスミソン家はイングランド内戦の際に王党派に尽くした功績で王政復古後の1660年に準男爵に叙せられていた家柄でヨークシャーのスタニックに6000エーカーの土地を所有した中規模の地主だった{{sfn|海保眞夫|1999|p=107}}。彼はパーシーに改姓した後も[[トーリー党 (イギリス)|トーリー党]]の政治家として活躍し、[[1766年]][[10月22日]]には[[グレートブリテン貴族]]爵位'''[[ノーサンバーランド公爵]]'''に叙せられた<ref name="thepeerage1"/><ref name="CP DN1766"/>。


これ以降、ノーサンバランド伯爵位はノーサンバランド公爵位の従属爵位の一つとして現在まで続いている<ref name="CP DN1766"/>。以降は[[ノーサンバランド公爵]]を参照。
これ以降、ノーサンバランド伯爵位はノーサンバランド公爵位の従属爵位の一つとして現在まで続いている<ref name="CP DN1766"/>。以降は[[ノーサンバランド公爵]]を参照。

2020年12月4日 (金) 05:45時点における版

ノーサンバランド伯爵: Earl of Northumberland)は、イギリス伯爵位。

中世にノーサンバランドを中心とした北部イングランドを領したパーシー家の当主第3代パーシー男爵英語版ヘンリー・パーシー1377年イングランド貴族として叙位されたのに始まる。何度か剥奪と再授与を繰り返しながらパーシー家の世襲で続いたが、1670年に男子継承者がなくなって廃絶した。ついで1674年チャールズ2世私生児ジョージ・フィッツロイがイングランド貴族として叙され、1683年にはノーサンバランド公爵にも叙されたが、1716年に子供なく死去したことで廃絶した。ついでパーシー家の女系子孫にあたる第7代サマセット公爵アルジャーノン・シーモア1749年グレートブリテン貴族として叙位され、彼の死後は特別継承者の規定によりその娘婿である第4代準男爵英語版ヒュー・スミソンが継承し、パーシーと改姓した。さらに1766年にノーサンバランド公爵に叙された。以降2020年現在まで彼の子孫のパーシー家がノーサンバランド公爵位の従属爵位として継承を続けている。

歴史

1377年-1670年のノーサンバランド伯 (パーシー家)

パーシー家は家祖のウィリアム・ド・パーシー英語版(?-1096/9)以来、ノーサンバランドヨークシャーに広大な荘園を持ち、イングランド北東部の最有力の領主だった[1]

ヘンリー・ド・パーシー英語版(1273–1314)の代の1299年2月6日パーシー男爵英語版として議会招集令状を受けてイングランド貴族に列し[2]1309年にはダラム司教英語版よりアニック城を購入した。以降この城はパーシー家所有の城の中でももっとも有名なものとなる[3]。第4代パーシー男爵ヘンリー・パーシー(1341–1408)が、リチャード2世即位直後の1377年7月16日ノーサンバランド伯爵に叙位されたのがノーサンバランド伯爵パーシー家の始まりである[4]。しかしリチャード2世はイングランド北部のパーシー家の勢力の大きさを好ましく思わず、北部においてパーシー家に次ぐ勢力であるネヴィル家やクリフォード家と均衡させようとしたり、パーシー家が代々継承してきた辺境警備長官の職を解くなどしたため、リチャード2世と対立を深め[5]1399年ヘンリー4世による王位簒奪を支持し、ランカスター朝の樹立に貢献した[6]。しかしその後パーシー家はヘンリー4世とも対立し、3度にわたって反乱を起こした[6]

最初の反乱の1403年夏のシュルーズベリーの戦い英語版において初代伯の息子で「ホットスパー(短気者)」の呼び名で知られるヘンリー・パーシー(1364–1403)が戦死し、初代伯の弟である初代ウスター伯英語版トマス・パーシー英語版(1343–1403)も捕らえられて後に処刑されている[7]1405年に二度目の反乱を起こしたが、失敗してスコットランドへ亡命し[7]1406年私権剥奪で爵位を剥奪されている[4]1408年に故郷に戻るも発見されて[7]ブラマム・ムーアの戦い英語版で敗死した[4]。パーシー家は滅亡こそしなかったが、この反乱が原因で以降イングランド北部における勢力はネヴィル家に押され気味となる[7]

「ホットスパー」の息子であるヘンリー・パーシー(1394–1455)は、1416年に領地と称号を回復した[8]。ただ祖父の私権剥奪が議会によって取り消されたという証拠がないため[4]、「2代ノーサンバランド伯」ではなく、改めて新規に「初代ノーサンバランド伯」に叙されたとみなす見解もある[8]。彼はヘンリー5世に従って百年戦争に従軍してノルマンディー地方で戦い、1417年には北部に転じてスコットランド南部へ侵入した[9]。1422年にヘンリー5世が崩御した際にはその遺言執行人を務めている[9]薔薇戦争の始まりである1455年第一次セント・オールバンズの戦いにランカスター派(ヘンリー6世支持派)として参加したが、戦死した[6][9]

その息子の3代伯ヘンリー・パーシー(1421-1461)もランカスター派としてヘンリー6世に仕え、1460年ウェイクフィールドの戦い1461年第二次セント・オールバンズの戦いでヨーク派を撃破したが、同年タウトンの戦いで3人の弟とともに敗死した[6][9]。死後、ヨーク派エドワード4世によって領地と爵位をはく奪され[8]、ライバルのネヴィル家の一族であるジョン・ネヴィルが代わりにノーサンバランド伯に叙位された[9]

その息子のヘンリー・パーシー(1449–1489)は、最初エドワード4世によってロンドン塔に投獄されていたが[6][9]、エドワード4世とネヴィル家が不和になってきたことから[10]、ヨーク派に転じることで赦免され[6]1470年に爵位と領地をジョン・ネヴィルから取り戻し、式部卿に任命された[8]。以降エドワード4世に従って1475年のフランス遠征、1482年のスコットランド遠征に従軍した[9]1485年ボズワースの戦いではリチャード3世側で出陣したが、戦闘に参加せず[11]ヘンリー7世が即位した後、数カ月監禁されたが、年末に釈放された。その後1489年に新税の徴税でヨークシャーで暴動が起きた際に暴徒に殺害されている[12]

その息子の5代伯ヘンリー・アルジャーノン・パーシー英語版(1478–1527)は、ぜいたくな生活を送って多額の借金を残した。しかし久しぶりにベッドの上で死んだ当主となった[13]

その息子の6代伯ヘンリー・パーシー英語版(1502-1537)は、少年時代にはトマス・ウルジー枢機卿の宮殿で暮らしており[14]、襲爵前にアン・ブーリンと恋人となったが、ウルジー枢機卿から叱責され、父の5代ノーサンバランド伯からも廃嫡すると脅され、この恋を断念している[15]宗教改革に対する反発が原因で発生した1536年恩寵の巡礼には参加しなかったが、弟2人が参加し、長弟トマス・パーシー英語版は1537年に私権剥奪されて処刑された。6代伯もその翌年に死去した[16]

6代伯には子供がなく、自分の死後所領を王室に寄贈することを申し出ていたうえ[17]、相続人である弟トマス・パーシーは私権剥奪されていたため、その子(6代伯の甥)のトマス・パーシー(1528–1572)には継承資格がなかった。そのため6代伯の死とともにノーサンバランド伯は一度廃絶となった[8][18]。その所領も王室のものとなった[17]

以降20年ほどノーサンバランド伯の称号はパーシー家を離れたが、その間にジョン・ダドリーノーサンバランド公に叙せられている[19]

6代伯の甥トマス・パーシーは、カトリックであったことからメアリー1世の寵遇を得[6]1557年4月30日にパーシー男爵、同年5月1日にノーサンバランド伯に叙位された。両爵位とも男子なき場合に弟ヘンリー・パーシー英語版を特別継承者とする規定があり、またノーサンバランド伯位については以前のノーサンバランド伯位の継承資格者も継承可能であり[20]、7代伯爵の名乗りも許されていた[19]。しかしメアリー崩御後、プロテスタント化政策を推し進めるエリザベス1世と対立を深め、1569年に同じく北部カトリック貴族の6代ウェストモーランド伯爵チャールズ・ネヴィルとともに北部諸侯の乱英語版を起こしたが、失敗し、1572年大逆罪で処刑された。カトリックの殉教者と見なされ、後世カトリック教会から列福されている[21]

7代伯には男子がなく、弟のヘンリー・パーシー英語版(1532–1585)が8代伯となった[20]。彼は襲爵前にノーサンバランド州選挙区選出の庶民院議員を務めており、兄の反乱にも参加しなかったが、1571年に元スコットランド女王メアリー・ステュアートと共謀したとされ、ロンドン塔に送られた。獄中で襲爵し、1573年に釈放されるも1583年末にスロックモートン事件英語版に連座して再度ロンドン塔に投獄され、1585年に自殺した(他殺説もあり)[22][23]

その息子の9代伯ヘンリー・パーシー(1564–1632)は、エリザベス朝時代にレスター伯ロバート・ダドリーの指揮下でオランダで戦い[24]、1594年にはエリザベス1世からサイオン・ハウス英語版を与えられた[25]。しかしステュアート朝時代の1605年火薬陰謀事件に分流のトマス・パーシー英語版が加わったために関与を疑われてロンドン塔に投獄され、獄中で多くの客を招いて学者を集め歓談と数学研究に打ち込み、1621年の釈放後は引退したとされる[24][26]

10代伯アルジャーノン・パーシー(1602–1668)は、清教徒革命前夜の頃、チャールズ1世に厚遇され、枢密顧問官や海軍司令長官やスコットランド遠征軍司令官に任命された。しかし議会派王党派内戦が起きると議会派に味方し、それを知ったチャールズ1世は「私は奴に情婦のごとく阿ったのに、奴は裏切った」と怒りを露わにしていたという。伯は父を無実で投獄したステュアート朝が今更すり寄ってきたところで恩義など一切感じていなかったといわれる[27]。議会派に転じたとはいえ、貴族である以上共和国政界での活躍は限界もあり、穏健派として行動し、議会派と国王の和睦に努め国王処刑に反対したが、革命の進行に伴い引退した。王政復古後には枢密院に復帰したが、1668年に死去した[24][28]

その息子の11代伯ジョスリン(1644–1670)は襲爵後わずか2年で25歳にして死去[28]。生存している男子は亡く彼の死去と共に爵位は廃絶した[20][29]

11代伯の死去の翌年の1671年にダブリン市のトランク製造業者ジェイムズ・パーシーという男が8代伯の五男リチャード・パーシーの曽孫を名乗って貴族院に12代ノーサンバランド伯爵位を請求した。11代伯の未亡人エリザベス英語版が抗議し、結局貴族院は1672年にジェイムズ・パーシーの請求を根拠なしとして退けた。その後もジェイムズは6代伯の弟インジェルラム・パーシーの子孫と主張して王座裁判所に申し立てているが、やはり敗訴している。インジェルラムは生涯独身で子供はなかった[30]

1674年-1716年のノーサンバランド伯 (フィッツロイ家)

1674年10月1日チャールズ2世の私生児であるジョージ・フィッツロイがイングランド貴族爵位コーンウォール州におけるファルマス子爵(Viscount Falmouth in the county of Cornwall)や、同ヨーク州におけるポンテフラクト男爵(Baron of Pontefract in the county of York)とともにノーサンバランド伯に叙せられた。続いて1683年にはイングランド貴族ノーサンバランド公に列せられるが、1716年に突然死去した。フィッツロイには嫡子がいなかったため、爵位は彼一代で消滅した[31][32]

1749年以降のノーサンバランド伯 (シーモア・パーシー家)

11代ノーサンバランド伯ジョスリン・パーシーは男子を残さなかったが、娘エリザベス・パーシー(1667-1722)があり、アニック城をはじめとする北部イングランドの所領、サセックス州南部のペットワース荘園、ノーサンバランド・ハウスやサイオン・ハウスといったロンドンの邸宅などのノーサンバランド伯爵家の財産は彼女が相続していた[33]。彼女は1682年の三度目の結婚で第6代サマセット公チャールズ・シーモアと結婚し[34]、2人の間の息子アルジャーノン・シーモア1748年に父の死で第7代サマセット公爵位を襲爵したが、男子がなかったので1749年10月2日に彼の娘エリザベス英語版の夫である第4代スミソン準男爵英語版ヒュー・スミソン(1714頃-1786)を特別継承者とするグレートブリテン貴族ノーサンバランド伯爵位とノーサンバランド州におけるワークワース城のワークワース男爵(Baron Warkworth, of Warkworth Castle in the County of Northumberland)に叙位された[35][36]

1750年2月に7代サマセット公が死去すると、特別継承者の規定に基づいてヒュー・スミソン準男爵が第2代ノーサンバランド伯と第2代ワークワース男爵を継承するとともに議会の議決によりパーシーに改姓した[37][38][39]。このスミソン家はイングランド内戦の際に王党派に尽くした功績で王政復古後の1660年に準男爵に叙せられていた家柄でヨークシャーのスタニックに6000エーカーの土地を所有した中規模の地主だった[40]。彼はパーシーに改姓した後もトーリー党の政治家として活躍し、1766年10月22日にはグレートブリテン貴族爵位ノーサンバーランド公爵に叙せられた[38][39]

これ以降、ノーサンバランド伯爵位はノーサンバランド公爵位の従属爵位の一つとして現在まで続いている[39]。以降はノーサンバランド公爵を参照。

歴代ノーサンバランド伯一覧

ノーサンバランド伯(パーシー家 1377年)

ノーサンバランド伯(パーシー家 1416年再創設)

ノーサンバランド伯(ネヴィル家 1464年創設)

  • ノーサンバランド伯ジョン・ネヴィル (1431–1471) 1470年にパーシー家に返還、代わりにモンターギュ侯爵。1471年剥奪

ノーサンバランド伯(パーシー家 1470年再創設)

ノーサンバランド伯(パーシー家 1557年再創設)

ノーサンバランド伯(パーシー家 1572年再創設)

ノーサンバランド伯(フィッツロイ家 1674年創設)

ノーサンバランド伯(シーモア・パーシー家 1749年創設)

系図

 
ウィリアム・ド・パーシー
(1096没)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
レニエ家
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ウィリアム・ド・パーシー
(1175没)
 
 
 
 
 
ジョフロワ1世
下ロレーヌ公
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
アグネス
 
ジョスラン・ド・ルーヴァン
 
アデライザ
=英王ヘンリー1世
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ブラバント公
 
 
 
 
リチャード・ド・パーシー
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
3代パーシー男爵
ヘンリー
 
メアリー
(3代ランカスター伯ヘンリー
 
2代ネヴィル男爵英語版
ラルフ・ネヴィル英語版
(1291頃-1367)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
1397年ウスター伯英語版
 
1377年ノーサンバランド伯
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
初代ウスター伯
トマス英語版
(1343–1403)
 
初代ノーサンバランド伯
ヘンリー
(1341-1408)
 
マーガレット・ネヴィル
(1329-1372)
 
3代ネヴィル男爵
ジョン・ネヴィル英語版
(1340頃-1388)
 
 
 
廃絶
 
1405年私権剥奪
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
1397年ウェストモーランド伯
 
 
 
 
 
 
 
ヘンリー
(ホットスパー)
(1364-1403)
 
 
 
初代ウェストモーランド伯
4代ネヴィル男爵
ラルフ・ネヴィル
(1364頃-1425)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
1416年ノーサンバランド伯再興
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
2代ノーサンバランド伯
ヘンリー
(1394-1455)
 
 
 
5代ソールズベリー伯
リチャード・ネヴィル
(1400-1460)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
1464年ノーサンバランド伯
1470年モンターギュ侯
 
 
 
 
 
 
 
3代ノーサンバランド伯
ヘンリー
(1421-1461)
 
 
 
初代モンターギュ侯
初代ノーサンバランド伯
ジョン・ネヴィル
(1431-1471)
 
 
 
 
 
 
 
1461年没収
 
 
 
1470年ノーサンバランド伯返還
1471年剥奪
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
1470年ノーサンバランド伯再興
 
 
 
 
 
 
 
4代ノーサンバランド伯
ヘンリー
(1449-1489)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
5代ノーサンバランド伯
ヘンリー・アルジャーノン英語版
(1478-1527)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
6代ノーサンバランド伯
ヘンリー英語版
(1502-1537)
 
トマス英語版
(1504頃-1537)
 
 
 
 
 
 
死後廃絶
 
処刑・私権剥奪
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
1557年/1572年ノーサンバランド伯再興
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
7代ノーサンバランド伯
トマス
(1528-1572)
 
8代ノーサンバランド伯
ヘンリー英語版
(1532-1585)
 
 
 
 
 
 
 
 
1571年私権剥奪
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
9代ノーサンバランド伯
ヘンリー
(1564-1632)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
10代ノーサンバランド伯
アルジャーノン
(1602-1668)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
11代ノーサンバランド伯
ジョスリン
(1644-1670)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
死後廃絶
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
6代サマセット公
チャールズ・シーモア
(1662-1748)
 
エリザベス
(1667-1722)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
1722年パーシー男爵英語版
1749年ノーサンバランド伯
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
7代サマセット公
初代ノーサンバランド伯
初代パーシー男爵

アルジャーノン・シーモア
(1684 – 1750)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
1766年ノーサンバランド公
 
 
 
 
 
 
 
 
 
2代パーシー女男爵
エリザベス英語版
(1716-1776)
 
初代ノーサンバーランド公
2代ノーサンバランド伯
ヒュー・パーシー
(1714 – 1786)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ノーサンバーランド公
 

脚注

注釈

出典

  1. ^ 海保眞夫 1999, p. 50.
  2. ^ Heraldic Media Limited. “Percy, Baron (E, 1299 - 1406)” (英語). Cracroft's Peerage The Complete Guide to the British Peerage & Baronetage. 2020年5月14日閲覧。
  3. ^ 海保眞夫 1999, p. 52.
  4. ^ a b c d Heraldic Media Limited. “Northumberland, Earl of (E, 1377 - 1406)” (英語). Cracroft's Peerage The Complete Guide to the British Peerage & Baronetage. 2020年5月14日閲覧。
  5. ^ 青山吉信(編) 1991, p. 403.
  6. ^ a b c d e f g 松村赳 & 富田虎男 2000, p. 573.
  7. ^ a b c d 青山吉信(編) 1991, pp. 407.
  8. ^ a b c d e Heraldic Media Limited. “Northumberland, Earl of (E, 1416 - 1537)” (英語). Cracroft's Peerage The Complete Guide to the British Peerage & Baronetage. 2020年5月14日閲覧。
  9. ^ a b c d e f g 海保眞夫 1999, p. 68.
  10. ^ 海保眞夫 1999, p. 69.
  11. ^ 海保眞夫 1999, p. 70.
  12. ^ 海保眞夫 1999, pp. 71–72.
  13. ^ 海保眞夫 1999, p. 78.
  14. ^ 海保眞夫 1999, pp. 80.
  15. ^ 海保眞夫 1999, p. 79.
  16. ^ 海保眞夫 1999, pp. 79–80.
  17. ^ a b 海保眞夫 1999, p. 81.
  18. ^ Lundy, Darryl. “Henry Percy, 5th Earl of Northumberland” (英語). thepeerage.com. 2016年10月20日閲覧。
  19. ^ a b 海保眞夫 1999, p. 82.
  20. ^ a b c Heraldic Media Limited. “Northumberland, Earl of (E, 1557 - 1670)” (英語). Cracroft's Peerage The Complete Guide to the British Peerage & Baronetage. 2016年6月17日閲覧。
  21. ^ 海保眞夫 1999, pp. 82–83.
  22. ^ 松村赳 & 富田虎男 2000, pp. 573–574.
  23. ^ 海保眞夫 1999, p. 83.
  24. ^ a b c 松村赳 & 富田虎男 2000, p. 574.
  25. ^ 海保眞夫 1999, p. 53.
  26. ^ 海保眞夫 1999, pp. 83–84.
  27. ^ 海保眞夫 1999, pp. 84–85.
  28. ^ a b 海保眞夫 1999, p. 86.
  29. ^ Lundy, Darryl. “Joceline Percy, 5th Earl of Northumberland” (英語). thepeerage.com. 2016年9月20日閲覧。
  30. ^ 海保眞夫 1999, p. 87.
  31. ^ Stephen, Leslie, ed. (1889). "Fitzroy, George (1665-1716)" . Dictionary of National Biography (英語). Vol. 19. London: Smith, Elder & Co.
  32. ^ Lundy, Darryl. “George FitzRoy, 1st Duke of Northumberland” (英語). thepeerage.com. 2016年2月5日閲覧。
  33. ^ 海保眞夫 1999, p. 95.
  34. ^ 森護 1999, pp. 66.
  35. ^ Heraldic Media Limited. “Somerset, Duke of (E, 1546/7)” (英語). Cracroft's Peerage The Complete Guide to the British Peerage & Baronetage. 2020年5月14日閲覧。
  36. ^ Lundy, Darryl. “Algernon Seymour, 7th Duke of Somerset” (英語). thepeerage.com. 2016年2月2日閲覧。
  37. ^ 森護 1999, pp. 70.
  38. ^ a b Lundy, Darryl. “Hugh Percy, 1st Duke of Northumberland” (英語). thepeerage.com. 2016年2月1日閲覧。
  39. ^ a b c Heraldic Media Limited. “Northumberland, Duke of (GB, 1766)” (英語). Cracroft's Peerage The Complete Guide to the British Peerage & Baronetage. 2016年2月2日閲覧。
  40. ^ 海保眞夫 1999, p. 107.

参考文献

関連項目