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「ステレグーシチイ (大型対潜艦)」の版間の差分

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== 関連項目 ==
== 関連項目 ==

2020年12月26日 (土) 00:15時点における最新版

ステレグーシチイ
Стерегущий
艦歴
起工 1964年7月26日 ジュダーノフ記念第190工場
進水 1966年2月20日
竣工 1966年12月21日
所属 ソ連海軍太平洋艦隊
ロシア海軍太平洋艦隊
退役 1993年6月30日
除籍 1994年2月11日
解体 1995年
要目
艦種 大型対潜艦
艦型 61号計画型
工場番号 755
排水量 基準排水量 3400 t
満載排水量 4390 t
全長 144 m / 132 m(水線長)
全幅 15.8 m / 14 m(水線長)
喫水 4.6 m / 4.6 m(水線長)
機関 COGAG機関M-3 2 基
ガスタービン機関M-8E 4 基
出力 72000 hp
52900 kWt
スクリュー 2 基
電源 ディーゼル発電機GTU-6 2 基
供給電力 52900 kWt
速力 35.5 kn
航続距離 3500 nm/18 kn(巡航速度)
3000 nm/23 kn
2600 nm/34 kn
行動期間 10 日間
乗員 士官 22 名
水兵 244 名
武装 艦対空ミサイル連装発射機ZIF-101 M-1「ヴォルナー」 2 基
艦対空ミサイルV-600(M-1) 32 発
76.2 mm連装両用AK-726 2 基
30 mm連装機関砲AK-230 4 基
5連装魚雷発射管PTA-53-61 1 基
12連装対ロケット弾発射機RBU-6000「スメールチ2」 2 基
対潜ロケット弾RGB-60(RBU-6000) 96 発
6連装対潜ロケット弾発射機RBU-1000「スメールチ3」 2 基
対潜ロケット弾RGB-10(RBU-1000) 14 発
機雷 20 発
指揮機 戦闘情報統禦装置「プランシェート61」
電探 汎用捜索電探MR-310「アンガラーA」 1 基
汎用捜索電探MR-500「クリーヴェル」 1 基
水上捜索電探「ヴォルガ」 2 基
射撃管制装置 射撃管制レーダー4R-90「ヤタガーン」(M-1用) 2 基
射撃管制レーダーMR-105「トゥレーリ」(火砲用) 2 基
ソナー 「チターン」
「ヴィーチェグダ」
電子戦装備 電子戦対抗装置「ザリーフ」
電子戦対抗装置「クラープ11」 2 基
電子戦対抗装置「クラープ12」 2 基
音響警備装置 2 基
測距儀 光学電子測距儀MT-45 3 基
通信 装備一式
IFF 装備一式
搭載機 Ka-25PLO 1 機

ステレグーシチイロシア語:Стерегущийスチリグーシイ)は、ソ連で建造された大型対潜艦(Большой противолодочный корабль)である。艦名は、「番をする」といった意味のロシア語の能動形動詞である。日露戦争で英雄的な戦闘ののち沈んだ水雷艇の艦名を受け継いだ名称である。

概要[編集]

建造[編集]

ステレグーシチイは、61号計画によって建造される10 隻目の艦艇として起工された。工場番号は755号艦であった。ステレグーシチイは、1964年7月9日ソ連海軍に登録された。

1964年7月26日にレニングラート(現サンクトペテルブルク)のA・A・ジュダーノフ記念第190造船工場(現在のセーヴェルナヤ・ヴェールフィ)で起工、1966年2月20日には進水、同年12月21日に竣工し、1967年1月7日付けで太平洋艦隊に配備された。

活動[編集]

1968年には、アジアから中東への往復航海を実施した。まず、3月17日から24日の間にはインドのマドラス(現チェンナイ)を訪問、続いて4月3日から4月6日の間にはボンベイ(現ムンバイ)を訪問した。そして、4月17日から24日にはソマリアモガディシオ5月11日から19日にはイラクウンム・カスルバスラ5月25日から6月2日にはパキスタンカラチ6月5日から6月9日にはイランバンダレ・アッバース、6月中に南イエメンアデン7月6日から11日にはスリランカコロンボを歴訪した。

1978年12月31日付けで戦列を外され、保管状態に置かれた。ソビエト連邦の崩壊に至ってもまだ繋留されたまま残存していたが、資金資産局への引渡しと解体・売却のため1993年6月30日付けで退役、1994年2月11日付けで除籍された。同年9月20日にはアメリカ合衆国企業へ売却され、その後、1995年に解体作業のためインドへ曳航された。

関連項目[編集]

外部リンク[編集]