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== 経歴 ==
== 経歴 ==
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[[1928年]]に[[日本統治時代の朝鮮|日本統治下の]][[咸鏡北道 (日本統治時代)|咸鏡北道]]に生まれた<ref name="encykorea"/>。[[1949年]]に[[ソ連]]の[[モスクワ国際関係大学]]に留学し<ref name="encykorea"/>、[[1950年]]に中央保安幹部学校を卒業した<ref name="encykorea"/>。[[1954年]]に[[朝鮮労働党]]に入党し<ref name="encykorea"/>、労働課長に就いた<ref name="encykorea"/>。[[1956年]]に[[朝鮮労働党対外連絡部]]所属で[[東ドイツ]]大使館に赴任し<ref name="encykorea"/>、工作活動に従事した<ref name="encykorea"/>。[[1958年]]に帰国し<ref name="encykorea"/>、[[外務省 (朝鮮民主主義人民共和国)|外務省]]参事官、副局長、第1局長を経て<ref name="encykorea"/>、[[1964年]]に[[板門店]]の[[板門店#「軍事停戦委員会」|軍事停戦委員会]]首席代表に就任した<ref name="encykorea"/>。[[1972年]]に[[最高人民会議]]第5期代議員<ref name="encykorea"/>、[[1974年]]に[[朝鮮労働党中央委員会]]委員候補に選出された<ref name="encykorea"/>。[[1973年]]に中将に昇進し<ref name="encykorea"/>[[朝鮮人民軍]]の思想教育を担当する[[人民武力部]]宣伝部長に就き<ref name="sankei20150811"/>{{Refnest|韓国民族文化大百科事典には[[1974年]][[8月]]ルーマニア大使、[[12月]]にマルタ大使兼任<ref name="encykorea"/>|group="注"}}、[[1977年]]に[[李勇武]]の後任として、人民武力部副部長に就任した<ref name="sankei20150811"/>。その後、[[金正日]]の側近として正日のライバルであった[[呉振宇]]人民武力部長の執務室に盗聴器を仕掛けていたことが発覚し<ref name="sankei20150811"/>、[[金日成]][[朝鮮民主主義人民共和国主席|主席]]によって解任された<ref name="sankei20150811"/>。[[1987年]]に[[キューバ]]の[[フィデル・カストロ]][[キューバの国家元首|国家評議会議長]]から大使を交代するように要求され<ref name="encykorea"/>、正日の計らいもありキューバ大使に栄転した<ref name="encykorea"/><ref name="sankei20150811"/>。[[1983年]]からメキシコ大使を兼任した<ref name="encykorea"/>。[[1985年]]に上将に昇進した<ref name="encykorea"/>。[[ソビエト邦の崩壊]]後の[[1992年]]に「米国に亡命準備をしておくと良いだろう。」と発言したことが保衛部要員から本国に報告された<ref name="encykorea"/>。その後平壌に召喚され<ref name="encykorea"/>、[[北朝鮮クーデター陰謀事件]]に関与したとして炭坑で革命家教育を受けた<ref name="encykorea"/>。[[1995年]]に呉振宇の葬儀委員会委員として中央に復帰した<ref name="encykorea"/>。


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2020年12月26日 (土) 01:17時点における版

朴重国
박중국
生年月日 1928年
出生地 大日本帝国の旗 日本統治下朝鮮咸鏡北道
没年月日 (1996-10-06) 1996年10月6日(68歳没)
死没地 朝鮮民主主義人民共和国の旗 朝鮮民主主義人民共和国
出身校 モスクワ国際関係大学
中央保安幹部学校
所属政党 朝鮮労働党の旗 朝鮮労働党

当選回数 4回
在任期間 1972年12月 - 1977年11月
1982年11月 - 1996年10月6日
最高指導者 金日成1948年 - 1994年
金正日(1994年 - 2011年

その他の職歴
朝鮮民主主義人民共和国の旗 人民武力部副部長
1977年10月 - 不明)
朝鮮労働党の旗 朝鮮労働党中央委員会委員候補
1974年8月 - 1996年10月6日
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朴重国
各種表記
ハングル 박중국
漢字 朴重國
発音 パク・チョングク
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朴 重国(パク・チョングク、朝鮮語: 박중국1928年 - 1996年10月6日)は、朝鮮民主主義人民共和国軍人外交官政治家軍事停戦委員会首席代表、朝鮮労働党中央委員会委員候補、人民武力部副部長、キューバ大使などを歴任。朝鮮人民軍における軍事称号(階級)は上将。金正日総書記の側近として[1]、正日の出生地を白頭山密営に書き換えた[2]

経歴

1928年日本統治下の咸鏡北道に生まれた[2]1949年ソ連モスクワ国際関係大学に留学し[2]1950年に中央保安幹部学校を卒業した[2]1954年朝鮮労働党に入党し[2]、労働課長に就いた[2]1956年朝鮮労働党対外連絡部所属で東ドイツ大使館に赴任し[2]、工作活動に従事した[2]1958年に帰国し[2]外務省参事官、副局長、第1局長を経て[2]1964年板門店軍事停戦委員会首席代表に就任した[2]1972年最高人民会議第5期代議員[2]1974年朝鮮労働党中央委員会委員候補に選出された[2]1973年に中将に昇進し[2]朝鮮人民軍の思想教育を担当する人民武力部宣伝部長に就き[1][注 1]1977年李勇武の後任として、人民武力部副部長に就任した[1]。その後、金正日の側近として正日のライバルであった呉振宇人民武力部長の執務室に盗聴器を仕掛けていたことが発覚し[1]金日成主席によって解任された[1]1987年キューバフィデル・カストロ国家評議会議長から大使を交代するように要求され[2]、正日の計らいもありキューバ大使に栄転した[2][1]1983年からメキシコ大使を兼任した[2]1985年に上将に昇進した[2]ソビエト連邦の崩壊後の1992年に「米国に亡命準備をしておくと良いだろう。」と発言したことが保衛部要員から本国に報告された[2]。その後平壌に召喚され[2]北朝鮮クーデター陰謀事件に関与したとして炭坑で革命家教育を受けた[2]1995年に呉振宇の葬儀委員会委員として中央に復帰した[2]

1996年10月6日に持病のため、死去[2]愛国烈士陵に埋葬された[2]

脚注

  1. ^ a b c d e f 李相哲 (2015年8月11日). “【秘録金正日(37)】軍楽団女性らと放蕩の限り…盗聴見破られ、軍掌握にも失敗”. 産経新聞 (産経新聞社). https://www.sankei.com/premium/news/150811/prm1508110003-n2.html 2020年7月14日閲覧。 
  2. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y 박중국(朴重國)韓国民族文化大百科事典

注釈

  1. ^ 韓国民族文化大百科事典には1974年8月ルーマニア大使、12月にマルタ大使兼任[2]