「朝鮮史 (歴史書)」の版間の差分
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*第4編 |
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2021年3月24日 (水) 22:28時点における版
朝鮮史(ちょうせんし)は、日本の朝鮮総督府が編纂した古代から1894年までの朝鮮半島の歴史書。全37巻。
概要
日韓併合直後より、日本側において朝鮮半島植民地化の正当性を示すために朝鮮半島の本格的な通史編纂を計画し、黒板勝美・三浦周行・今西龍らに検討させたのが始まりとされている[1]。
実際に計画が動き出したのは、1922年に中枢院の下に「朝鮮史編纂委員会」が設置され、1925年に勅令でこれを朝鮮史編修会に改組してから後のことになる。同会には今西龍や稲葉岩吉・末松保和・中村栄孝ら日本側の歴史学者のみならず、洪憙・李能和・崔南善・李丙燾ら朝鮮側の知識人・文化人も参加し、その数は合わせて41名にのぼる[2]。
1932年から刊行が開始され、1938年に本編の刊行が終わり、残された索引も1940年には完成した。朝鮮半島全域および日本・満州などに採訪して借用された資料は4,950点、そのうち重要なものを選んで作成した複本が1,623冊、本文・史料よりなる稿本は3,500冊にのぼる。実際に刊行されたのは稿本のうち史料を除いた部分にあたり、目録にあたる巻首1巻・本編35巻・索引1巻の計37巻である(史料のうち特に重要なものは別途『朝鮮史料叢刊』・『朝鮮史料集真』(写真集)として刊行された)。本編は全6編からなり、時代順に三国時代以前の「新羅統一以前」、新羅による半島統一後の「新羅統一時代」、高麗が支配した「高麗時代」、李氏朝鮮が支配した「朝鮮時代」(前期・中期・後期の全3編)という構成になっている。当時、日本で編纂事業が行われていた『大日本史料』・『大日本古文書』に倣って歴史的事項を日本語によってその概要を記し、それらを年月順に配列して史料典拠を付している。ただし、第1編だけは朝鮮半島・中国・日本を原文のまま収めている。 植民地支配という特殊な状況下において実証主義に徹した歴史書としての評価がある反面、現在の韓国では「植民支配」を代表する歴史書としての評価もなされ[3]、1894年(日清戦争)以後が編纂されなかったのは、現代(当時の日本による植民地統治)に支障があるためであった[4]という主張もされている。また、編纂に関わった朝鮮人の中には戦後、「親日派」として糾弾された者も存在する。
なお、編纂当時、朝鮮総督府および朝鮮史編修会が旧対馬藩主の宗家から購入した近世日朝関係史に関連する史料数万点(「対馬宗家文書」)が韓国側に接収され、現在もソウルの韓国国史編纂委員会が所蔵していると言われており、朝鮮王室儀軌など日本側に持ち出された文献の返還問題と並んで、現在も日韓間の大きな問題となっている[5]。
なお国立国会図書館近代デジタルライブラリーにて、全巻が閲覧可能である。
内容
脚注
- ^ 吉田「朝鮮史」『日本史大事典』
- ^ 田川「朝鮮史」『国史大辞典』
- ^ 並木「朝鮮史」『日本歴史大事典』
- ^ 朴「朝鮮史」『アジア歴史事典』
- ^ 例えば、韓国にも日本の古文書=返還は求めず-松本外相(2011年4月22日・時事通信)および日韓図書協定をめぐる自民党部会の要旨(2011年4月20日・産経新聞)
関連項目
参考文献
- 朴宗根「朝鮮史」『アジア歴史事典 6』(平凡社、1984年)
- 田川孝三「朝鮮史」(『国史大辞典 9』(吉川弘文館、1988年) ISBN 978-4-642-00509-8)
- 吉田光男「朝鮮史」(『日本史大事典 4』(平凡社、1993年) ISBN 978-4-582-13104-8)
- 並木真人「朝鮮史」(『日本歴史大事典 2』(小学館、2000年) ISBN 978-4-09-523002-3)