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[[File:Bai Qi.jpg|thumb|right|230px|伊闕の戦いの秦軍総大将[[白起]]]]
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== 伊闕の戦い ==
== 伊闕の戦い ==

2021年3月28日 (日) 22:00時点における版

伊闕の戦い
戦争春秋戦国時代
年月日紀元前293年
場所伊闕
結果秦軍の戦勝
交戦勢力
魏軍韓軍東周軍 秦軍
指導者・指揮官
公孫喜 白起
戦力
25万人 12万人
損害
24万人 数万人
春秋戦国時代
春秋時代
戦国時代
秦の統一戦争
†はその国の滅亡 表示

伊闕の戦い(いけつのたたかい)は、の将軍白起の3国連合軍を破った戦い。連合軍の総大将公孫喜捕虜となった。秦軍は24万人の首級を挙げ、5つの城を取った。

背景

伊闕の戦いの秦軍総大将白起

紀元前296年の発案した斉・中山国合従軍が秦に侵攻した。秦は窮地を脱するために韓に武遂(現在の山西省臨汾市の南西)、魏に河外と封陵の地を割譲した[1]紀元前295年、趙の武霊王が餓死した。同年、昭襄王は趙出身の丞相楼緩を免官させ、魏冄を丞相とした。と友好関係を築き、楚から五万を援助された[2]紀元前294年諸侯に対する外交策略を変更した。斉の湣王祝弗の提言を聞き入れ、秦を支持しない孟嘗君を廃し、秦の五大夫呂礼中国語版を相とした。外交調整の後、秦と斉は友好関係になった[3]。斉は宋の攻略に、秦は合従軍による領土の割譲の屈辱を晴らすため韓と魏の戦争に専念し、領土を拡張した[1][4]。同年、昭襄王は向寿を総大将としてに出兵し、武始(現在の河北省邯鄲市武安市の南)を取り、左庶長の白起は新城(現在の河南省洛陽市伊川県の南西)を取った[5]

伊闕の戦い

紀元前293年、魏冄の推薦により白起は左更となった。同年、韓と魏は度重なる秦の侵攻に危機感を募らせ、同盟を組んだ[6]東周を同盟に引き込んで魏将の公孫喜が大将となって、伊闕で秦軍と対峙した。戦闘の中、秦軍の兵力は韓・魏軍の半分以下であった。連合軍は韓軍が最も弱く、魏軍が主攻を担うことを希望した。しかし、魏軍は韓軍の精鋭部隊に頼り、韓軍が先陣を切ることを希望した。秦軍の主将の白起は、韓と魏の連合軍の共同力の弱く、互いが先陣を切る気がなく推し合っている弱点を利用した。しかし、魏軍に対して兵力を集中させ、猛攻を仕掛けた。魏軍は戦敗し、その後韓軍も戦敗し、敗走した。秦軍は追撃し、大勝した。伊闕の戦いで秦軍は敵兵24万を斬首して、伊闕と五つの土城を得、総大将の公孫喜は捕虜となった。白起はこの功により国尉となった。同年,白起は韓・魏の伊闕の戦いの惨敗を利用して、兵を率いて黄河を渡河して、安邑(現在の山西省運城市夏県の北西)より東側の乾河などの広い領土を占領した[7][8][9][10][11]

影響

伊闕の戦いの大勝により、秦は韓と魏の両国を侵攻し続けた。紀元前292年、白起は大良造となり、軍を率いて魏を攻め魏城(現在の山西省運城市永済市の東)や垣邑(現在の山西省運城市垣曲県の南東)など大小62城を取った。紀元前291年、白起は韓を攻め宛(現在の河南省南陽市宛城区一帯)や葉(現在の河南省平頂山市葉県の南)を取った[12]紀元前290年、左更の司馬錯が魏の軹(現在の河南省済源市の南東)と韓の鄧(現在の河南省焦作市孟州市の西)を取り[13]、白起とともに垣邑を再び攻め落とした[14][15]。秦により次々と領土を奪われ魏と韓は和平を余儀なくされた。魏は河東郡の四百里、韓は武遂(現在の山西省臨汾市の南西)の地の二百里を割譲した[16]紀元前289年、秦は再び魏を攻めた。司馬錯は河雍(現在の河南省焦作市孟州市の西)[17]など河内郡の大小61城を取った[18]。白起は蒲阪(現在の山西省運城市永済市の北)と皮氏(現在の山西省運城市河津市の西)を取った[19]。秦の攻勢に直面し、魏は恵文王と趙の相国李兌中国語版に賄賂を送り、秦の侵攻に対する趙の援助を求めた[20]

西周国

伊闕の戦いの後、秦は西周国に攻撃する機会を得た。西周の公子周最が李兌に派遣した使者が「今、秦が魏を破って周を攻めようとしています。これこそ趙にとっては勢力拡大の機会です。まず、趙は秦が攻めようとしている西周を守るのが何よりです。ここにおいては、双方とも魏を攻めないことにしましょう。すると、秦は周を攻めても土地は手に入らず、しばらく経つと疲弊して、撤退するでしょう。秦はまだ魏とは講和を結んでおりません。そこで、秦は周から軍を引けば、また魏を攻めて、両国とも疲弊します。もしも、秦と魏が講和を結ぶならば、趙はその仲介役を果たし、両国間における趙の勢力は重くなりましょう。どちらになっても趙の勢力はより大きくなるはずです」と説いた[21]。西周君は周足を使者として秦に派遣し[22]、自身は魏の昭王に援助を求めた。しかし、昭王は上党郡の危急を理由に援助を拒んだ。西周君在回国途中路過魏国的梁囿,十分喜愛。大臣綦毋恢指出魏国的温囿不比梁囿差,並向西周君自薦説不但能得到魏国的援助,還能得到温囿。綦毋恢游説魏昭王指出魏国如不援助西周,那西周将投靠秦国,如此両国合兵進囲南陽太行山以南),将切断韓・魏両国通往上党郡的要道。如魏王答応派3万人幇助西周駐守辺境,並将温囿以毎年120金的価格租給西周君,那西周便不会投靠秦国。如此既可保証上党郡的安全,也可通過租借温囿多獲得40金的租金。魏昭王采納綦毋恢的建議,派芒卯献出温囿,又答応派兵幇助西周駐守辺境[23]。西周国は外交活動により、秦は西周国の攻略に失敗した。

秦は伊闕の戦いの後、伊闕に駐留した。昭王は公孫衍を使者として和平した。有人建議魏昭王加封竇屡関内侯,譲竇屡出使趙国割譲少量土地賄賂趙国的奉陽君李兌,譲李兌従中調停引起秦国内部争執,如此魏国也可少割土地[10]。西周大臣綦毋恢也勧説公孫衍不要多割地給秦国,因如両国議和成功,魏国就会得到秦国的支持;如両国議和失敗就会重新開戦,多割地属毫無意義之挙[24]

韓と東周国

紀元前290年、韓の成陽君中国語版と東周君が秦に来朝し、和を求めた[25]。しかし、秦は韓に進行していたため成陽君は韓に帰国できず、に亡命した[26]

脚注

  1. ^ a b 島崎晋 (2019年3月). 《春秋戦国の英傑たち》71p. 双葉社. ISBN 9784575457889 
  2. ^ 史記・巻五・秦本紀》:(秦昭襄王)十二年,楼緩免,穣侯魏厓為相。予楚粟五万石。
  3. ^ 《戦国策・巻一・東周策・斉聴祝弗》:逐周最、聴祝弗、相呂礼者,欲深取秦也。
  4. ^ 楊寛 (1955年9月). 《戦国史》第153~154頁. 上海人民出版社 
  5. ^ 《史記・巻五・秦本紀》:(秦昭襄王)十三年,向寿伐韓,取武始。左庶長白起攻新城。
  6. ^ 島崎晋 (2019年3月). 《春秋戦国の英傑たち》72p. 双葉社. ISBN 9784575457889 
  7. ^ 《史記・巻七十二・穣侯列伝》:昭王十四年,魏厓挙白起,使代向寿将而攻韓、魏,敗之伊闕,斬首二十四万,虜魏将公孫喜。
  8. ^ 《史記・巻七十三・白起王翦列伝》:其明年,白起為左更,攻韓、魏于伊闕,斬首二十四万,又虜其将公孫喜,抜五城。起遷為国尉。渉河取韓安邑以東,到乾河。
  9. ^ 《戦国策・巻三十三・中山策・昭王既息民繕兵》:伊闕之戦,韓孤顧魏,不欲先用其衆。魏恃韓之鋭,欲推以為鋒。二軍争便之利不同,是臣得設疑兵,以待韓陣,専軍併鋭,触魏之不意。魏軍既敗,韓軍自潰,乗勝逐北,以是之故能立功。
  10. ^ a b 《戦国策・巻二十二・魏策一・秦敗東周》:秦敗東周,与魏戦于伊闕,殺犀武。魏令公孫衍乗勝而留于境,請卑辞割地,以講于秦。為竇屡謂魏王曰:“臣不知衍之所以聴于秦之少多,然而臣能半衍之割,而令秦講于王。”王曰:“奈何?”対曰:“王不若与竇屡関内侯,而令趙。王重其行而厚奉之。因揚言曰:聞周、魏令竇屡以割魏于奉陽君,而聴秦矣。夫周君、竇屡、奉陽君之与穣侯,貿首之仇也。今行和者,竇屡也;制割者,奉陽君也。太后恐其不因竇侯也,而欲敗之,必以少割請合于王,而和于東周与魏也。”
  11. ^ 《睡虎地秦簡・編年紀》:(秦昭襄王)十三年、十四年,攻伊闕。
  12. ^ 《史記・巻五・秦本紀》:(秦昭襄王)十五年,大良造白起攻魏,取垣,復予之。(次年),攻韓,取宛、葉。
  13. ^ 《史記・巻五・秦本紀》:(秦昭襄王)十七年,左更錯取軹、鄧。
  14. ^ 《睡虎地秦簡・編年紀》:(秦昭襄王)十七年,攻垣、軹。
  15. ^ 《史記・巻七十三・白起王翦列伝》:起与客卿錯攻垣城,抜之。
  16. ^ 《史記・巻十五・六国年表》:(秦昭襄王)十七年,魏入河東四百里。(韓僖王)六年,(韓)与秦武遂地方二百里。
  17. ^ 《史記・巻五・秦本紀》:(秦昭襄王)十八年,錯攻…河雍,決橋取之。
  18. ^ 《史記・巻十五・六国年表》:(秦昭襄王)十八年,客卿錯撃魏,至軹,取城大小六十一。
  19. ^ 《史記・巻五・秦本紀》:秦攻垣及蒲阪、皮氏。
  20. ^ 《戦国策・巻二十四・魏策三・奉陽君約魏》:奉陽君約魏,魏王将封其子,謂魏王曰:“王嘗身済漳,朝邯鄲,抱葛孽、陰、成以為趙養邑,而趙無為王有也。王能又封其子河陽、姑蔑乎?”
  21. ^ 《戦国策・巻二・西周策・秦攻魏将犀武軍于伊闕》
  22. ^ 《戦国策・巻二・西周策・犀武敗》:犀武敗,周使周足之秦。
  23. ^ 《戦国策・巻二・西周策・秦攻魏将犀武軍于伊闕》:犀武敗于伊闕,周君之魏求救,魏王以上党之急辞之。周君反,見梁囿而楽之也。綦毋恢謂周君曰:“温囿不下此,而又近。臣能為君取之。”反見魏王,王曰:“周君怨寡人乎?”対曰:“不怨。且誰怨王?臣為王有患也。周君,謀主也。而設以国為王捍秦,而王無之捍也,臣見其必以国事秦也秦悪塞外之兵与周之衆,以攻南陽,而両上党絶矣。”魏王曰:“然則奈何?”綦毋恢曰:“周君形不小利,事秦而好小利。今王許戍三万人与温囿,周君得以為辞于父兄百姓,而私温囿以為楽,必不合于秦。臣嘗聞温囿之利,歳八十金,周君得温囿,其以事王者歳百二十金,是上党無患而贏四十金。”魏王因使孟卯致温囿于周君,而許之戍也。
  24. ^ 。《戦国策・巻二十二・魏策一・魏令公孫衍請和于秦》:魏令公孫衍請和于秦,綦毋恢教之語曰:“無多割。曰,和成,国有固有秦重和,以与王遇;和不成,則後必莫能以魏合与秦者矣。”
  25. ^ 《史記・巻五・秦本紀》:(秦昭襄王)十七年,成陽君入朝,及東周君来朝。
  26. ^ 《戦国策・巻五・秦策三・五国罷成皋》:成陽君以王之故,窮而局于斉。