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*「新・ミナミの帝王」新田会長役(関西テレビ) |
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*[[ドンウォリー!]] 第10話(フジテレビ、1998年) - 高校の先生 |
*[[ドンウォリー!]] 第10話(フジテレビ、1998年) - 高校の先生 |
2021年4月18日 (日) 07:15時点における版
パンチ さとう パンチ 佐藤 | |
---|---|
本名 | 佐藤 和弘 |
生年月日 | 1964年12月3日(59歳) |
出生地 | 日本・神奈川県川崎市中原区 |
国籍 | 日本 |
身長 | 177cm |
職業 | 元プロ野球選手・野球解説者・タレント・俳優 |
活動期間 | 1995年 - |
配偶者 | あり |
著名な家族 | 佐藤華純 (娘) |
事務所 | フリー |
公式サイト | https://ameblo.jp/punch-sato/ |
基本情報 | |
---|---|
国籍 | 日本 |
出身地 | 神奈川県川崎市中原区 |
生年月日 | 1964年12月3日(59歳) |
身長 体重 |
177 cm 78 kg |
選手情報 | |
投球・打席 | 右投左打 |
ポジション | 外野手、一塁手 |
プロ入り | 1989年 ドラフト1位 |
初出場 | 1990年4月8日 |
最終出場 | 1994年10月9日 |
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度) | |
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この表について
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パンチ佐藤(パンチさとう、1964年12月3日 - )は、神奈川県出身の元プロ野球選手(外野手・内野手、右投左打)、タレント、野球解説者。
本名および野球選手としての旧登録名は佐藤 和弘(さとう かずひろ)。プロ野球選手時代の髪型だったパンチパーマがトレードマークであり、芸名の由来ともなっている。
来歴
プロ入り前
川崎市立西中原中学校[1]、武相高校[2]から亜細亜大学に進み、同野球部に入部、最終年にはキャプテンも務めた[3](阿波野秀幸は大学の同期、与田剛は1年後輩にあたる)。東都大学リーグ通算86試合出場、274打数82安打、打率.299、5本塁打、42打点。ベストナイン3回。
卒業後は社会人野球の熊谷組に入社。俊足かつ強打の選手として知られ、第60回都市対抗野球大会(1989年)では大会史上2人目のサイクル安打を記録している。また、1988年・1989年と2年続けて社会人ベストナイン(外野手部門)に選出されている。
1989年のドラフト1位でオリックス・ブレーブスに入団。
オリックス時代
現役時代は愛嬌あるキャラクターで親しまれた反面、好不調の波が激しく、また守備面でも送球に難があることが弱点であった。1994年4月7日、新監督の仰木彬の発案で鈴木一朗とともに新しい登録名「パンチ」に変更[4]。心機一転したパンチは復活を目指すが、成績の下降には歯止めがかからず、仰木監督から戦力外通告を受け11月4日に引退を発表した[5]。
レギュラー定着とはならなかったが、男気あふれるキャラクターや「パンチ語録」で人気を博した。フジテレビ「プロ野球珍プレー・好プレー大賞」で度々取り上げられ話題になり、また任侠・男伊達の世界観を愛し、演歌好きでも知られた。かつてスーツの裏地に物々しい虎の刺繍をびっしり入れたこともあり、「いや、こういうのは女性の下着といっしょで自分で満足するもんですから」と言ったことがある。
引退後
タレントとしてスポーツバラエティ番組をはじめ、身体能力を活かした番組のほか、ドラマなどにも積極的に出演している。「探偵!ナイトスクープ」ではバッティングに悩む依頼人などに対して「チョコレート打法」や「桜島打法」を編み出して改善させている。両親が岩手県北上市出身だったため、パンチが子供の頃は北上・みちのく芸能まつりの時期などに一緒に里帰りしており、岩手での思い出も多い[6]。そのためか東北地方のローカル番組の準レギュラーやゲスト出演が見られる。
1995年は野球解説者として、フジテレビやニッポン放送のプロ野球中継に出演することもあった。
2005年9月には、自宅駐車場に不審者(覚醒剤所持者)が侵入している所を取り押さえ、地元・中原警察署から表彰を受けた。
2010年9月1日、小澤音楽事務所からスターヒルに所属事務所を移籍した。
2014年9月、翌年よりベースボール・チャレンジ・リーグに加入予定の武蔵ヒートベアーズの宣伝本部長に就任[7]。2015年10月1日、契約満了により退任した[8]。
2015年、アスリートとメールのやりとりなどができる有料会員制SNSサービス『athlete club(アスリートクラブ)』を月額10万円の会員費で開始した。[9]
2015年、「笠間サポーターズ」の第一号として登録された。 「笠間サポーターズ」とは茨城県にある笠間市を愛し、応援したいという気持ちを持つ個人や団体の方が登録できる制度のことで、パンチは年に数回その笠間市を訪れていて、そのことについてブログも更新している。
社会人・クラブチームでの現役復帰
2005年にタレント・萩本欽一が監督を務める社会人野球チーム・茨城ゴールデンゴールズに入団が決定したが、その直後に別のプロ野球経験者が入団することになり、プロ経験者登録枠の関係と「古巣に恩返しがしたい」ということから、1994年に休部した熊谷組野球部のOBで結成したクラブチーム・熊球クラブ(ゆうきゅう-)に加入した(登録名義は佐藤和弘。2008年をもって退団)。
現役時代の実績
強打の外野手として期待されたものの、打撃面では入団初年の打率.331を頂点に成績は尻すぼみ[10]。1994年、新監督に仰木が就任し、登録名を既にニックネームとして定着していた「パンチ」に、3年目の若手外野手の鈴木一朗も「イチロー」に変更した(このアイディアは打撃コーチの新井宏昌が提案し、仰木が承認した)。この際仰木らは、実際にはイチローひとりを売り出すために登録名変更を思い立ったものの、当時はまだ全国区ではなかったイチロー一人だけを改名した場合、イチローだけが目立ってかえって萎縮してしまうことを懸念していた。そこで仰木らは、既に全国区だったパンチにも改名を勧め「一緒に目立ってくれ」と頼み込み、こうして2人の登録名が変更されるに至った。
新たな登録名で心機一転したパンチは復活を目指し、手ごたえを感じつつあった1994年のシーズン終盤、仰木から直々に飲食に誘われ、期待の言葉をかけられると思っていたところ、直接引退勧告(戦力外通告)を受ける。「野球より芸能界の方が向いているのではないか」と見抜いており、仰木から戦力外を言い渡されると「どうしてですか? シーズン前には『期待している』って言ってくれたじゃないですか」と反論したが、仰木は「代打でなら使えるが、スタメンとして使うにはちょっと厳しいな。資産も多く持っているならいい、でも奥さんも子供もいる。お前はこのままプロ野球選手として食っていくよりも、芸能界でやっていった方がいいと思う」と諭した。「尊敬する仰木さん」にそこまで言われてしまっては仕方がないとあっさり納得し、「はい、分かりました。辞めます」と二つ返事で引退を決意した。
『マルコポロリ!』での本人の発言によれば、仰木はパンチの芸能界入りに道筋を立てるため、仰木自身のコネクションを利用して数多くの芸能事務所に声をかけたといい、引退会見の翌日にはやしきたかじんの事務所から早速オファーがあったという。
現役最終打席は1994年にグリーンスタジアム神戸で開催された対近鉄戦の代打出場。池上誠一から右中間への打球を放ち、ヘッドスライディングで三塁にまで到達した。片膝をついたまま渾身のガッツポーズをし、そしてベース上でじっと涙を堪えていた。
人物
プロ入り前
小学生時代のあだ名は「ザット」(“さとう”をもじって)。当時は両親が共働きで、帰ってくるのが遅いため、団地の前で日が暮れるまで素振りをしたという。
パンチパーマにした理由は、社会人時代に坊主頭にしていた時、相手チームのボールを拾ってあげたところ、どうみても年下の選手から丁寧な「ありがとうございます」ではなく軽々しく「サンキュー」といわれたことに憤慨し、若く見られないために始めたものである。
熊谷組時代の1988年に、グリーンスタジアム神戸の完成記念試合(三菱重工神戸硬式野球部との練習試合)で、同球場初の本塁打を放った。両社がスタジアムの工事を請け負っていたことによる対戦で、試合終了後には、球場内のレストランで三菱重工神戸の選手と酒食を共にしたという[11]。
現役時代
ドラフト指名時には熊谷組の寮で当時の上田利治監督からの電話に「会社の方と相談して決める事ですけれども…自分の心はひとつです!!」と応え、入団当時から話題をさらった(その時の映像が2000年代中盤にリクルート「フロムエー」のCMでも使われた)。入団記者会見では契約金について「この1億円はプロで勝負させてもらう為のお金であり、手を出せないです」という発言で場内を驚かせた。また、セールスポイントについては「根性です」、どんな選手になりたいかとの問いには「グシャっとした当たりでもいいから塁に出られるバッターになりたい」と答えた。
入団後は守備走塁コーチの今津光男と二人三脚で有名だった。だが、今津コーチも単身赴任で合宿所に住んでいたことから、ただの「飲み友達」だったという話もあり、度々ネタにされていた。
福岡ドームでのホークス戦で、守備で悪送球をした際に、理由として「ついさっきまで稲荷寿司を素手で食べていて、手を拭かずに守備についた。油揚げの油が指についていた為、滑ってあんな送球をした」と弁解した。後に「ジャンクSPORTS」2002年11月19日放送分でもこの話を(多少形を変えて)披露している。
1994年の阪神とのオープン戦で代打出場した際に中田良弘から足にデッドボールを受け、その場にうつ伏せに倒れてしまい全く起き上がれなくなった。仰木監督は慌ててベンチを飛び出した瞬間、パンチが急に立ち上がり全力で一塁ベースに向かって走った為、それがパンチ特有の芸だと知るや仰木は大笑いをしながらベンチに戻った。ちなみにこの試合では仰木監督にピンマイクが付けられていて、代打のコールはもとより仰木の笑い声も中継されていた。
現役最後の年となった1994年の春のキャンプ中は意気込みが一段と強く、フジテレビ「プロ野球ニュース」のカメラの前で「今年、復活に賭ける男」と宣言。この年阪神から移籍した岡田彰布を見つけると「岡田さん、一緒に写って下さい。一緒にカメラの前で『今年、復活に賭ける』と言いましょう!」と力強く誘ったが、引きつった笑みを見せながらあからさまに嫌がる岡田に「復活って、俺はそうやが、お前、ええ時あったんか」と返された。なおも「いや、これでもお立ち台に立ったこともあるんです。今年にとにかく賭けてるんです。一緒に写りましょう!」と食い下がったが、岡田から「復活って、お前、何もないやないか」「一緒にすんなよ」と拒否され、吉兆とはいえない最後のシーズンの始まりであった。
この年のオリックス一軍外野陣はイチロー、田口壮、藤井康雄、本西厚博と名手が並び、パンチは中々出場機会が得られなかった(シーズン23試合出場、先発無し)。パンチはシーズン終盤に仰木に移籍を志願し、在京セリーグ3球団を中心にトレードを模索したが、話が纏まらず5年間で現役引退することになった[12]。
当時、グリーンスタジアム神戸の打席登場時の各選手のテーマ曲(出囃子)は、DJ KIMURAが選曲するアップテンポの曲で統一されていたが、パンチの場合のみ演歌であった。
森祇晶は自伝で「要領が良い、立ち回りが上手いだけで中身が全く無い選手」と大久保博元とともに半ば特定される形で非難している(刊行は佐藤の引退後)。
引退後
韓国に凝っており、週1度はテコンドーの道場に通い、韓国料理もかなりのペースで口にする(フジテレビ「ウチくる」{2005年秋に放送分}でもロケ地が韓国料理店だった)。しかしグルメ番組のレギュラーを持っているほど味にはうるさい反面、午後8時以降は食べ物を一切口にしないという体調管理を貫いている。
フジテレビ「ジャンクSPORTS」に出演時、野球に関するうんちくを述べた後、同じく出演していた野村克也に「ねっ、そうですよね?」と同意を求めたところ、「オマエの話はみなデタラメや」と一喝されたことがある。同番組で浜田雅功に「漫談」と言われたこともある。
フジテレビ「めざましどようび」にてパンチが担当していた「朝刊スポーツパンチ」のコーナーでは、オープニングにサッカー、ゴルフ、フィギュアスケート、野球と色々なスポーツをするパンチのアニメーションが流れていたが、最後の野球では、左打者だったはずのパンチが右打席でボールを打っていた(結局コーナー終了まで、左打者への修正もしくは「※実際は左打ちです。」などの脚注付記は実施されなかった)。
関西テレビ「野球狂のネタ」では準レギュラーだが野球以外の話題が多い為、ますだおかだから野球ネタ切れ疑惑をかけられた。
上田・仰木への尊敬と土井正三との確執
パンチは上田利治と仰木彬を深く尊敬している一方で、上田と仰木の間にオリックス監督(ブルーウェーブの初代監督)を務めた土井正三に対してはどうしても尊敬の念が持てず、引退後に出演した「プロ野球ニュース」では、歴代の監督に感謝のメッセージを述べる際に「プロへの扉を開いてくれた上田監督、芸能界への扉を開いてくれた仰木監督、…途中何かありましたけども」と、土井にだけは感謝の念を述べなかった。また、パンチは自著でも土井のことを「土井監督」ではなく「D」とイニシャル(敬称なし)で書いている(該当箇所→『プロ野球・独断毒舌改造論』数か所、『プロ野球・独断毒舌改造論』の124ページ)。
後年のインタビューでは、土井が読売ジャイアンツの選手・コーチ時代(主にV9時代)の経験や厚遇を引き合いに出す一方で、オリックスの選手を自身とベテラン(阪急時代からの主力選手だった佐藤義則・松永浩美)しか知らずに監督を引き受けていたことを告白。土井の監督時代を、「球団も監督も何をやりたいのか分からない3年間で、みんな(ナイン)が上田の監督時代の采配と比べながら、土井の指示に仕方なく従っていた。オリックスがブレーブスからブルーウェーブになった途端、全部のネジがゆるんでしまった感じだった」と述懐している[11]。
上田・仰木は共々、明るい性格の選手が好きなタイプの監督である。パンチが引退後最初の仕事は、奇しくも日本ハムの監督に就任した上田へのインタビューだった。上田はインタビュー中、「パンチ、何で現役やめちゃうの?もったいない!もったいない!」と引退を惜しむ発言を繰り返し、パンチは終始恐縮していた。
ちなみに、タレント転身後の講演会や雑誌の対談などでは、土井監督時代の1993年6月12日にイチローが長岡市悠久山野球場の対近鉄戦で野茂から一軍公式戦初本塁打を放ったことを引き合いに出しながら、自身がその翌日に土井から二軍降格を命じられたことをしきりに語っている[13]。しかし実際には、直近に7試合連続で起用されたにもかかわらず(6試合でスタメン)、打率.200(20打数4安打)、出塁率.238、長打率.250と振るわなかったことで降格に至っている[14]。
人間関係
武相高校の先輩の東門明を尊敬し、プロ入りの際背番号を決めるときに45番を選んだ理由は東門が早稲田大学で着けていた背番号9にちなんでいる(4+5で9になる)。入団直後は9番が欲しかったものの、先輩の本西厚博が9番だったため、「本西さんから貰うわけにはいかない」として苦肉の策でこの番号になっている。
現役最終年の背番号90は45の2倍という意味もあるが9が入っているからという意味でもある(出典は竹書房刊「まんがパロ野球ニュース」のパンチの連載コーナー)。
発言
- ドラフト会議後の熊谷組野球部寮での取材に「『ちらーっと名前言わねぇかなー』なんて思いながら (テレビ中継を) 見てたんですよね。そしたら、ねぇ (ドラフト1位)。いやもう、おふくろは泣いちゃって、妹は『やめたらー』なんつってねぇ」「 (スポーツニュースで) ちゃんと紹介してくださいよ。その他のドラフト選手ですって字幕スーパーでピューッてのはやめてくださいよ」
- その後、上田監督から熊谷組寮に電話が入り「(送話口を手でふさがずに) 「上田監督だ!!、、、佐藤です、はじめまして (電話口で深々と礼) 。会社の方と相談して決めることですけれども、自分の心はひとつです!」
- オリックス入団当時から間もなくして、彼の口からよく出てきた「ロサ・モタ」とは、ポルトガル出身の女子マラソン選手の第一人者で、1988年のソウル五輪女子マラソン金メダリストである。
- 「 (今の気持ちを) マラソンに例えると...」 (初めての春季キャンプを前にして) 「今ロサ・モタが、国立競技場のスタートラインに立って、手首足首を廻しているというところでしょうか」
- (初めての春季キャンプを終えて) 「マラソンで例えれば、ヨーイドンでスタートした直後にコケちゃったってやつですね…。肘も擦りむき、膝も擦りむいて、やっとのことで起き上がって国立競技場を一周して外へ出たら…、もうロサ・モタの姿が見えない……」
- その後、中日とのオープン戦で出塁した際、1塁ベース上で一塁手の落合博満に「初めまして。新人の佐藤です、よろしくお願いします。」と挨拶をしたら、すかさず落合に「今ロサ・モタはどこ走っているんだ?」と聞かれ、返答に困ったという。
- 「今日、新大阪の駅にこう足を置いた瞬間に、カーッとこのケツの穴が引き締まるような思いですね」
- (初めて本拠地のグランドを訪れた際に、場内アナウンス用のマイクを借りて) 「ブーマーに代わり、バッター佐藤!」
- 「毎日の健康状態は“ウンコ”で判断します」
- (ヒーローインタビューにて「今日集まってくださった2万7,000人のファンに、最後に一言お願いします」と大前一樹アナウンサーに振られ)「オリックス・ブルーウェーブ、並びにこの佐藤和弘のために、今日は12万5,000人のファンの皆様、ありがとうございました」
- オフに放送されたテレビ番組で本人は「嬉し涙でお客さんが大勢いるように見えた」と語っている。実際には当日行われた6試合の観客合計が12万5000人である。
- (「今日も帰って今津コーチと一杯やるのですか?」とヒーローインタビューで大前アナウンサーに聞かれ) 「そうですね、下痢するまで飲みたいです、今日は」
- 後に、これは当時付き合っていた彼女(現在の妻)が金網越しにインタビューを見ており、今津コーチではなくその彼女へ向けた言葉だったと話している[15]。
- 今津コーチ (当時一塁ベースコーチであった) は次の日の試合、プレイボールがかかる直前までトイレに入っており、試合開始が遅れた。
- ヒーローインタビューにて「僕にはレオ (西武ライオンズ) の尻尾 がまだ見えるんです」。後日、西武とのゲーム差が縮まったあとの試合では「(今は尻尾が) はっきり見えます!」。
- (2年目の春季キャンプで) 「去年はマラソンに例えましたけど、今年はお鍋に例えようと思うんですが……でも、いきなり監督にちくわとはんぺんがなかったよ、と言われました」
- (テレビ番組で憧れの山本譲二と共演した際に、緊張で汗をかきすぎて) 「パンツがケツに食い込んできました」。尚、これはOKが出て収録が止まった直後の発言だが、カメラは回っていたため後日、珍プレー番組で放送された。
詳細情報
年度別打撃成績
年 度 |
球 団 |
試 合 |
打 席 |
打 数 |
得 点 |
安 打 |
二 塁 打 |
三 塁 打 |
本 塁 打 |
塁 打 |
打 点 |
盗 塁 |
盗 塁 死 |
犠 打 |
犠 飛 |
四 球 |
敬 遠 |
死 球 |
三 振 |
併 殺 打 |
打 率 |
出 塁 率 |
長 打 率 |
O P S |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1990 | オリックス | 42 | 142 | 133 | 20 | 44 | 12 | 0 | 1 | 59 | 8 | 3 | 1 | 3 | 0 | 6 | 0 | 0 | 12 | 1 | .331 | .360 | .444 | .803 |
1991 | 46 | 72 | 65 | 5 | 15 | 3 | 0 | 2 | 24 | 12 | 0 | 1 | 1 | 2 | 4 | 1 | 0 | 8 | 0 | .231 | .268 | .369 | .637 | |
1992 | 35 | 43 | 37 | 2 | 6 | 0 | 0 | 0 | 6 | 4 | 0 | 0 | 0 | 2 | 3 | 0 | 1 | 2 | 1 | .162 | .233 | .162 | .395 | |
1993 | 3 | 3 | 3 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 | .000 | .000 | .000 | .000 | |
1994 | 23 | 22 | 22 | 2 | 6 | 0 | 1 | 0 | 8 | 2 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 | .273 | .273 | .364 | .636 | |
通算:5年 | 149 | 282 | 260 | 29 | 71 | 15 | 1 | 3 | 97 | 26 | 3 | 2 | 4 | 4 | 13 | 1 | 1 | 24 | 2 | .273 | .306 | .373 | .679 |
記録
- 初出場:1990年4月8日、対ロッテオリオンズ1回戦(阪急西宮球場)、8回裏に小川博文の代打で出場
- 初打席:同上、8回裏に村田兆治の前に三振
- 初安打・初打点:1990年4月11日、対福岡ダイエーホークス2回戦(グリーンスタジアム神戸)、7回裏に熊野輝光の代打・高橋智の代打として出場、井上祐二から右前適時打
- 初先発出場:1990年8月23日、対日本ハムファイターズ21回戦(阪急西宮球場)、7番・一塁手として先発出場
- 初本塁打:1990年10月5日、対ロッテオリオンズ25回戦(川崎球場)、7回表に井辺康二から右越ソロ
背番号
- 45 (1990年 - 1993年)
- 90 (1994年)
登録名
- 佐藤 和弘(さとう かずひろ、1990年 - 1994年4月6日)
- パンチ(1994年4月7日 - 11月4日)
関連情報
出演
テレビ
- ニッポン放送ショウアップナイター(ニッポン放送。1995年)
- BASEBALL SPECIAL〜野球道〜(フジテレビ。同局のプロ野球中継の現行タイトル。1995年に解説者として出演)
- プロ野球ニュース(フジテレビ・1995年4月 - 1997年3月)
- めざましどようび(フジテレビ)
- 恋する陪審員(フジテレビ)
- ぶらり途中下車の旅 『都営バス・王78系統』編(1997年、日本テレビ)
- 所的蛇足講座(福岡放送)
- クロノス(フジテレビ)
- めざましテレビ公認 わがまま!気まま!旅気分(BSフジ FNS各局制作)
- ハピふる!(2008年9月まで、フジテレビ)
- 世の中面白研究所(2008年3月 - 、NHKラジオ第1放送)- 研究員として不定期出演
- 住まい自分流 〜DIY入門〜(2008年4月 - 2009年3月、NHK教育)
- パンチ佐藤の国際スポーツ警察負けたら逮捕じゃ!(テレビ神奈川)
- 住まい自分流アルファ(2009年4月 - 、NHK教育テレビ)
- きらめきいっぱいさいたま市(2009年4月 - 2011年3月、テレビ埼玉)
- 食爛漫!味づくし 感動の旅(パワーテレビジョン)
- スポルたん!LIVE(仙台放送、準レギュラー)
- ひるまにあん(テレビ朝日系列東北6局ブロックネット、準レギュラー)
- ジャンクSPORTS(フジテレビ)
- 食探訪記 パンチ佐藤の美味いぞニッポン!(Twellv)
- とうほく元気です!TV(テレビ朝日系列東北6局ブロックネット)2012年4月7日 -
- 一度は行きたい!にっぽん露天風呂の旅(パワーテレビジョン制作)
- パンチ佐藤のニッポン元気ふれあい旅(2013年2月 - 、スカイ・A sports+)
- 福岡夢実現バラエティー 頑張るキミに花束を!(福岡放送)
- パンチ佐藤の初売りダイナマイト(2011年12月 - 毎年年末の宮城県限定の特番、東日本放送)
ドラマ
- 山村美紗サスペンス「名探偵キャサリン」シリーズ(TBSテレビ)
- フォトグラファー桜井美由紀 「夜の虹」(TBSテレビ)
- 金田一耕助の傑作推理 幽霊座(TBSテレビ)
- 「新・ミナミの帝王」新田会長役(関西テレビ)
- ドンウォリー! 第10話(フジテレビ、1998年) - 高校の先生
- ドラゴン青年団(毎日放送) - 本人役
- ヨメ代行はじめました。(関西テレビ) - 常連客
- 牙狼-GARO- 〜闇を照らす者〜(テレビ東京) - ロックな運転手
- 侵略!ガルパンダZ(2016年、TOKYO MX、サンテレビ) - 犯弛監督 役
映画
- ガラスのヒール レースクイーンの女神たち The Movie(2006年 監督:川村浩之) - 伊藤刑事
- それでもヤクザはやってくる(2007年 監督:高瀬将嗣) - 金沢
- デメキング(2009年 監督:寺内康太郎) - 高校教師
- ハードライフ 紫の青春 恋と喧嘩と特攻服(2010年制作、2011年春公開)- 高橋邦夫(主演・高橋すえこの父)
- 夕の江の街に(2012年6月2日公開 監督:星野義幸) - タムラ
- グッモーエビアン!(2012年12月15日公開)
- ダイヤモンド(オールインエンタテインメント、2013年8月3日公開)[16] - 大上
- サイコギャンブラー破滅的遊戯(2014年4月23日、監督:山本淳一) - 久住
Vシネマ
- 筋モンリーグ 野球篇(2006年) - 元 水龍会組員 佐藤吉孝
CM
- ジャスコ 全館バーゲン(1992年)
- アース製薬(2003年)
- 車内(クルマ)のニオイとり
- おそとでノーマット
- リクルート「フロム・エー」(2003年)
- ミスター通商(2006年)
- NBCユニバーサル・エンターテイメントジャパン「fripSide×angela/The end of escape」(2016年)
- 田清魚店(岩手県限定・2018年)
ラジオ
著書
- 『パンチ佐藤の迷語録人生』(サンマーク出版, 1992年4月)ISBN 4763190334
- 『プロ野球・独断毒舌改造論』(ラインブックス, 1995年5月)ISBN 4847012348
脚注
- ^ この地縁で、同中学校と同じ中原区内の等々力陸上競技場を本拠地とするJリーグクラブ、川崎フロンターレから依頼され、同チームがJ2所属だった2003年の本拠地開幕戦(3月22日、第2節の湘南ベルマーレ戦)で始球式を行った。出典:川崎フロンターレ公式サイト「フロンターレ日記」2012年2月13日、「開幕戦始球式」。
- ^ 同期の井口竜也は1982年のドラフトで横浜大洋ホエールズから6位指名を受けたが、入団せず日本鋼管に進んだ。
- ^ “#1613 今は昔? ブリキ軍団 ♪”. パンチ佐藤オフィシャルブログ「パンチ佐藤の一日一膳」 (2012年6月19日). 2017年8月24日閲覧。
- ^ 朝日新聞東京本社版1994年4月8日付朝刊27面
- ^ 日めくりプロ野球、11月4日、1994年(平6)、お声かからず・・・“パンチ”佐藤和弘、5年で引退
- ^ 仙台放送『スポルたん!LIVE』2010年8月7日放送回での発言より。
- ^ パンチ佐藤さん、新球団・武蔵HB宣伝本部長に 熊谷市長を表敬 - 埼玉新聞(47NEWS)2014年9月9日
- ^ パンチ佐藤 宣伝本部長 退任のお知らせ - 武蔵ヒートベアーズ(2015年10月1日)
- ^ business.nikkeibp.co.jp/article/opinion/20150602/283804/
- ^ 入団した1990年はブーマー・ウェルズがケガで離脱していた為、村上信一と共に一塁手として出場する事が多かった。土井監督時代は一塁手にケルビン・トーベ、外野手に高橋智などがレギュラーに定着し出番が無くなった。
- ^ a b 『ベースボールマガジン』2020年7月号「パンチ佐藤が語るアーリー・オリックス監督論」pp.57 - 58
- ^ 【11月4日】1994年(平6) お声かからず…“パンチ”佐藤和弘、5年で引退
- ^ http://www.news-postseven.com/archives/20160326_394392.html
- ^ 【パンチ佐藤】イチロー選手から仰木監督まで…裏話炸裂!
- ^ BsTV 2013/9/3
- ^ “劇場公開作品|オールイン エンタテインメント”. オールイン エンタテインメント 2017年5月9日閲覧。
関連項目
外部リンク
- 個人年度別成績 パンチ - NPB.jp 日本野球機構
- 選手の各国通算成績 Baseball-Reference (Japan)
- パンチ佐藤オフィシャルブログ「パンチ佐藤の一日一膳」 - Ameba Blog
- パンチ佐藤 プロフィール(講演依頼.com)
- ウノとパンチの今日もどこかでDYNAMITE!! - YouTubeチャンネル
期間 | 月 | 火 | 水 | 木 | 金 | 土 | 日 | |
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1976.4 | 1977.9 | 佐々木信也 | 土居まさる | |||||
1977.10 | 1977.12 | はらたいら | ||||||
1978.1 | 1980.3 | 押阪忍 | ||||||
1980.4 | 1983.9 | みのもんた | ||||||
1983.10 | 1985.9 | 佐々木信也 | みのもんた | 佐々木信也 | ||||
1985.10 | 1986.3 | 佐々木信也 | みのもんた | |||||
1986.4 | 1988.3 | みのもんた、大島智子 | ||||||
1988.4 | 1991.3 | 野崎昌一、須田珠理 | 中井美穂 大矢明彦、平松政次、谷沢健一 | |||||
1991.4 | 1992.3 | 野崎昌一、石川小百合 | ||||||
1992.4 | 1992.10 | 中井美穂 | 田尾安志、石川小百合 | 中井美穂 | ||||
1992.11 | 1993.3 | 田尾安志、小島奈津子 | ||||||
1993.4 | 1994.3 | 田尾安志 森口博子 |
中井美穂 | 森脇健児 関根潤三 八木亜希子 | ||||
1994.4 | 1995.3 | 福井謙二、志岐幸子 | (『スポーツWAVE』に内包) | |||||
1995.4 | 1996.3 | 福井謙二、久保恵子 | パンチ佐藤 中村江里子 |
田尾安志 陣内貴美子 斎藤英津子 | ||||
1996.4 | 1997.3 | 福井謙二 西山喜久恵 |
福井謙二 木佐彩子 |
パンチ佐藤 西山喜久恵 |
田尾安志 西山喜久恵 | |||
1997.4 | 1997.9 | 福井謙二、西山喜久恵 | 木佐彩子 | (放送なし) | ||||
1997.10 | 1998.3 | 木佐彩子 | ||||||
1998.4 | 1999.3 | 福井謙二 木佐彩子 |
福井謙二 西山喜久恵 |
長嶋一茂、中村江里子 | ||||
1999.4 | 2000.3 | 木佐彩子 | 長嶋一茂、荒瀬詩織 | |||||
2000.4 | 2001.3 | 三宅正治 宇田麻衣子 |
三宅正治 荒瀬詩織 |
田尾安志、大久保博元 大橋マキ |