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三宅正治

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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

みやけ まさはる
三宅 正治
プロフィール
愛称 まーくん、三宅ちゃん
出身地 日本の旗 日本 広島県広島市
生年月日 (1962-11-15) 1962年11月15日(62歳)
血液型 O型
最終学歴 早稲田大学商学部卒業
勤務局 フジテレビジョン
部署 編成制作局 アナウンス室[1]
職歴 役員待遇エグゼクティブアナウンサー(現職)
活動期間 1985年 -
ジャンル 情報
配偶者 既婚
公式サイト 三宅 正治
出演番組・活動
出演経歴 『スポーツ中継』(中央競馬プロ野球格闘技F1
すぽると!』(平日)
ジャンクSPORTS
プロ野球ニュース
クイズ!ヘキサゴン』(深夜時代)
めざましテレビ』ほか

三宅 正治(みやけ まさはる、1962年11月15日 - )は、フジテレビエグゼクティブアナウンサー

来歴・人物

広島県広島市出身。広島市立二葉中学校広島市立基町高等学校早稲田大学商学部卒業。1985年フジテレビにアナウンサーとして入社[注 1]

同期入社は軽部真一長野智子松田朋恵永麻理小田多恵子。日本テレビの船越雅史は大学の1年後輩にあたる。また福井謙二山中秀樹西山喜久恵とは同郷である。

フジテレビを志望した理由は「日本ダービーの実況がしたいから」であった。入社12年目にして達成し(1996年、優勝馬フサイチコンコルド)、以降2004年までは2002年を除いて毎年ダービーの実況を担当した。また、有馬記念の実況を2005年から2011年まで担当した[注 2]

もう1つ、アナウンサーとしての希望は、大ファンであるプロ野球広島東洋カープの日本一の瞬間を実況すること」。こちらは叶えられていない。

スポーツアナウンサーとしては競馬の他にもプロ野球、F1格闘技バレーボール全日本女子プロレス中継など幅広く実況を担当した。

F1においては1990年ベルギーグランプリから実況に参加。それまで、モナコ日本といったフジテレビにとって重要と位置づけられたグランプリレースは古舘伊知郎が実況を務めていたが、1992年モナコグランプリにおいて、出演の都合がつかなかった古舘に代わり、アイルトン・セナナイジェル・マンセルが死闘を繰り広げた、F1の歴史に残る名勝負と言われる決勝の実況を務めた。1994年サンマリノグランプリでは、ローランド・ラッツェンバーガーとセナが相次いで事故死した瞬間を実況することとなり、決勝レースの最後まで実況を務めたものの、日本への決勝レース中継は中断を余儀なくされ、現場のイモラ・サーキットからの生中継に切り替わり、解説の今宮純、ピットリポーターの川井一仁と3人でセナの事故死を伝えた。1994年日本グランプリを最後に降板した古舘に代わり、翌年(1995年)から5年間日本グランプリの実況を務めた。1999年日本グランプリを最後にF1の実況から降板した。

2004年アテネオリンピックにおいて、フジテレビを代表してジャパンコンソーシアムの一員としてテレビ中継の実況に参加、開会式(民放での録画放送)、柔道女子バレーボールの実況を務めた。柔道に関しては、道谷眞平と共に実況を務め、三宅が実況を務めた男女7階級のうち6階級で日本代表選手が決勝へ進出、野村忠宏阿武教子塚田真希をはじめ、金メダル4個・銀メダル2個の獲得の瞬間を実況した。また、柔道女子52kg以下級準決勝において、横澤由貴が残り1秒で袖釣込腰一本により劇的な逆転勝利・決勝進出を決めた瞬間を実況した。

2000年4月から『プロ野球ニュース』の総合司会を務め、2001年4月からの後継番組『すぽると!』でも引き続き総合司会を務めた。

『すぽると!』については、2006年10月から平井理央とのコンビ固定で月曜から金曜を担当していた。その後、2007年10月からは土曜を担当していた佐野瑞樹がニューヨーク支局へ勤務のため番組を降板、土曜を本田朋子と共に担当することになり、金曜の担当からは降りることになった。しかし、2008年4月から週末に渡辺和洋が復帰したため、半年で土曜の担当から金曜に復帰した。

2011年3月24日放送分を最後に、番組開始10周年を一つの節目として番組勇退を決定。『プロ野球ニュース』から加えて11年に渡るスポーツキャスターから引退し、中継・アナウンス部長活動に専念することとなった。

バラエティ番組に関しては、入社1年目(1985年)に放送を開始した『夕やけニャンニャン』金曜日にレギュラー出演、新人ながらも「アイドルを探せ!」等のコーナー司会を務めた経験があったが、2000年代に入るとバラエティ番組への出演も多くなり、『クイズ!ヘキサゴン』(深夜番組時代)の司会を務めたほか、『熱血!平成教育学院』、『ネプリーグ』にも出演した。後述の『めざましテレビ』担当以降は他のめざましファミリーと共に出演することも多くなっている。2009年には、アニメ『空中ブランコ』第4話で本人役として声のみの出演も行っている(エンディングでは「野球実況」とクレジット)。

スポーツ実況降板・情報番組総合司会就任へ

2012年4月2日から、病気療養のため番組を降板することになった大塚範一の後任として『めざましテレビ』の2代目総合司会として登板。三宅にとって、情報番組への登板は入社以来これが初めてとなる[2]。これにより、共演が少なかった同期の軽部とはレギュラーで共演することとなった。

2012年3月12日にフジテレビアナウンス室公式サイト(アナマガ)内のスポーツアナウンサー共同ブログにおいて、スポーツ実況の第一線から卒業し、『めざましテレビ』に専念すると発表した[3]。そのため、実況アナウンサーとしては2011年12月25日放送の『みんなのKEIBA』(第56回有馬記念)の実況が最後となり、2012年3月18日放送の『みんなのKEIBA』にてフジテレビ賞スプリングステークス優勝騎手(ミルコ・デムーロ)インタビューを担当したのがスポーツアナウンサーとしての公式での最後の活動となった。スポーツ実況降板に合わせ、長年務めてきたJRA賞の選考委員・民放記者競馬クラブの会員も辞任した。ただし、スポーツ中継から完全に身を引いたわけではなく、『ダイヤモンドグローブスペシャル』(現FUJI BOXING)などでMCという形で出演することはある。

『めざましテレビ』登板後は、報道特別番組国政選挙衆議院議員総選挙参議院議員通常選挙)実施に伴う選挙特別番組も含む)の司会を担うこともある。

2017年11月15日の『めざましテレビ』放送終了後、急性胆管炎と診断され入院していたが、同年12月1日に退院し、同年12月11日に復帰した。

2022年11月に定年(60歳)を迎えたが、それを目前に控えた同年7月1日付の人事異動でエグゼクティブアナウンサー(役員待遇)となったため、現在も継続してフジテレビに在籍している。

2024年9月27日を持って12年半務めた『めざましテレビ』の総合司会を退任した(後任にはフジテレビ局次長の伊藤利尋が総合司会に就任した)[4]

趣味

アニメドラマ鑑賞が趣味で、アニメは週に20~30本、ドラマは週に15本程度見ている[5]。ライブ鑑賞も好きであり、アニソンシンガーを中心に年間40本参戦している[6]。 嫌いな食べ物はトマト[7]

競馬GI実況歴

1988年、25歳のときに安田記念でGI初実況を果たし、翌1989年にクラシック競走の1つである優駿牝馬(オークス)を実況。以降2011年まで、2002年を除き毎年GIの実況をこなし、上述の通り1996年には入社志望理由の一つだった東京優駿(日本ダービー)の実況を果した。

実況コレクション

  • 「平成5年に全国で生まれたサラブレッドの数、10,256頭、そして、栄えある日本ダービーに出場できたのは、わずかに17頭[注 3]。2400mの果てにある、たった一つの栄光を目指して間もなくスタートの時を迎えます」(1996年日本ダービー)
  • 「先頭はサクラスピードオー、サクラスピードオー1馬身のリード、1馬身のリード!さらにその後ろから3番のダンスインザダーク来た!ダンスインザダーク、フサイチコンコルド!外目を突いて10番のイシノサンデーがやって来た!先頭はしかし、先頭はしかし、ダンスインザダーク、外からフサイチ、外からフサイチ、外からフサイチコンコルド、ダンスインザダーク、内のほうからメイショウジェニエ、先頭はダンスインザダークか、コンコルドだ!コンコルドだ、外から音速の末脚が炸裂する!フサイチコンコルド!!勝ったのはフサイチコンコルド、そして2着にダンスインザダーク!今、今、ひとつの競馬の常識が覆された!フサイチコンコルド、なんとわずか3戦目でダービー制覇!今、大きな音を立てて競馬界を支配していた常識が崩れ落ちます。まさに日本のラムタラ!わずか3戦目でダービー制覇!いや、しかし、驚きました」(同上)
  • 「平成6年に日本で生まれたサラブレッドの総数はおよそ9800頭。この中からダービーに進むことができたのはたった18頭です。第64回日本ダービー、その18頭をすばらしい青空と、そして、柔らかな風が包んでいます」(1997年日本ダービー)
  • 「さあ、4コーナーをカーブして直線コース、先頭はサニーブライアン、サニーブライアン依然として先頭だ!フジヤマビザン、そして、そしてマチカネフクキタル、その間に苦しい位置サイレンススズカ、さあ外目を突いてエアガッツメジロブライト、さらに、シルクジャスティスも飛んできているが、先頭は残り200(m)、坂を上がって、サニーブライアン先頭!サニーブライアン先頭だ!外からシルクジャスティス、シルクジャスティス、間を割ってランニングゲイルも来た!サニーブライアンだ!サニーブライアンだ!これはもう、フロックでもなんでもない!二冠達成!!これはもう、フロックでもなんでもない!サニーブライアン堂々と二冠達成です!!勝ちタイムは2分25秒9!上がりの3ハロン、35秒1!この上がりでは後ろの馬は届かない!!」(同上)
  • 「さあ、先頭はサイレンススズカ、サイレンススズカ、依然として4馬身のリードムチが入った左ムチ、河内(洋)の左ムチが入っている、内からヤシマソブリン、さらにその内からジェニュイン、外からエアグルーヴ、エアグルーヴも来ているロイヤルタッチ、外からエアグルーヴが来た、エアグルーヴが来たあーっ!残り200(m)、残り200!先頭はサイレンススズカ、バブル(ガムフェロー)をかわした、バブルをかわした、エアグルーヴか?エアグルーヴか?内からバブル!内からバブル!内からバブル!バブルかエアか!?バブルかエアか!?エアグルーヴ〜!!恐ろしい馬です!恐ろしい馬だ!!バブルガムフェローをかわした!15頭の男馬を蹴散らした、エアグルーヴと武豊!これが女馬の走りでしょうか。ねじ伏せました!力でねじ伏せた、エアグルーヴと武豊!」(1997年天皇賞・秋)
  • 「さあグラスワンダーが早くも4番手、外目を突いて、さあ、どこまで千切るんだグラスワンダー!4コーナーをカーブして直線コース、先頭はマウントアラタいっぱいになったか、マイネルラヴ先頭か、外からグラスワンダー、グラスワンダー、内からフィガロ、内からフィガロ、(福永)祐一も来た、祐一も来た、しかしグラスワンダーだ、グラスワンダー先頭、グラスワンダー先頭!そしてマイネルラヴが2番手粘っている、マイネル粘っている、(フィガロ鞍上の)祐一が3番手、しかし、勝ったのはグラスワンダーだ!やっぱり強いグラスワンダー!これが新しい栗毛の怪物!勝ちタイムがなんと、1分、33秒6!!見たかこのタイム!マルゼンスキーの再来です!勝ちタイム1分33秒6、レコードタイム!」(1997年朝日杯3歳ステークス)
  • 「さあ先頭はキングヘイロー、右鞭が入った、セイウンスカイ、セイウンスカイがここで、満を持して先頭に立った!キングヘイローは下がっていく!その後ろから間を割ってスペシャルウィークやってきた!間を割ってスペシャルウィーク!スペシャルウィークと、そしてセイウンスカイだ、あっという間だ、並ばない、並ばない!あっという間にかわした、あっという間にかわした!スペシャルウィーク、スペシャルウィーク!外から、外から飛んでくる、16番のボールドエンペラー、ボールドエンペラー、セイウンスカイ、ダイワスペリアー、インコースからメジロランバート、夢を掴んだ武豊!!ついに夢を掴みました、武豊、スペシャルウィーク!このガッツポーズ、このガッツポーズ!最後まで残っていた夢、日本ダービー制覇!その夢を今つかんだ武豊とスペシャルウイーク!」(1998年日本ダービー・武豊が自身初の日本ダービー制覇)
  • 「先頭はエルコンドル(パサー)、エルコンドル!エアグルーヴ来た!エルコンドル、スペシャルウイーク、エルコンドルだ、エルコンドルだ、エルコンドルパサー、スペシャルウイーク、エアグルーヴ、日本馬が上位独占!先頭は、エルコンドルパサァー!!(中略)2400(m)文句なし!マイラーと呼んだのは誰だ?エルコンドルパサー、2400文句なし!」(1998年ジャパンカップ)
  • 「先頭はナリタトップロード、外からアドマイヤ!外からアドマイヤ!ナリタトップロード、アドマイヤ、テイエムオペラオー、アドマイヤだあーっ!!!アドマイヤベガです!母ベガの2冠達成から6年、またもその息子が輝く一等星に!アドマイヤベガ!!史上初の日本ダービー連覇、武豊、アドマイヤベガです!豊が信じたこの末脚、豊が信じたこの強さ、やはりこの大一番、アドマイヤベガです!」(1999年日本ダービー、武豊が史上初の日本ダービー連覇を達成)
  • 「さあ500m直線コース、生涯一度の夢舞台、残り400!栄光まで400!ジョウテンブレーブ先頭、ジョウテンブレーブ先頭か、外からは、懸命に、アタラクシア、あるいは、エアシャカールエアシャカール、アグネスフライト来たあーっ!外からアグネス(フライト)、外からアグネス!しかし、エアシャカール、エアシャカール、豊だ!アグネス、河内(洋)の夢も飛んできている!エアシャカールかエアシャカールか、それともアグネスか、アグネスか、河内の夢か、(武)豊の意地か、どっちだぁ!!エアシャカールか、アグネスフライトか!豊の(ダービー)V3か、河内洋、悲願のダービー初制覇か!素晴らしい競馬です!武豊、河内洋、師弟コンビの一騎打ち!外から河内、内で豊!」(2000年日本ダービー)
  • クロフネは、クロフネは伸びない!クロフネ伸びない!ジャングルポケットダンツフレーム、インコースからは、インコースからはダンシングカラーも伸びてきている!先頭は、しかし、ジャングルだ!ジャングルだ!ジャングルポケット、ダンツフレーム、ダンツフレーム2番手!そしてその後ろからボーンキング追い込んで来る!勝ったのは、ジャングルポケット〜!!勝ったのはジャングルポケット、2着にダンツフレーム!マル外開放元年、新時代の扉をこじ開けたのは、内国産馬・ジャングルポケット!角田晃一ダービー初制覇!!」(2001年日本ダービー)
  • 「今、最強の大王が降臨した!!キングカメハメハ強し!今、最強の大王が府中のターフに舞い降りました!勝ったのはキングカメハメハ!安藤勝己、悲願のダービー初制覇!勝ちタイムはなんと、2分23秒3!驚異的なダービーレコードです!!」(2004年日本ダービー)
  • 「外からディープ(インパクト)!外からディープインパクト!ディープインパクトが捉える捉える!ハーツクライが来ている!ハーツクライ!ディープインパクト!ハーツクライか!ハーツクライか!ハーツクライ先頭だ!ハーツクライ!ディープインパクト!なんと!ハーツクライだ~!!ディープインパクト敗れる!ディープインパクト敗れる!勝ったのはハーツクライ!悲願のG1初制覇!早めにレースを進めたハーツクライ、クリストフ・ルメール!この瞬間、史上初の無敗の4冠はなくなった!ディープインパクト、武豊敗れる!」(2005年有馬記念)
  • 「さぁ、あなたから貰う最後の夢、あなたから貰う最後の勇気、そしてあなたに送る最後の祈り。ディープインパクト、ラストラン!そしてディープ、あなたは伝説になる!」(2006年有馬記念)
  • 「さあ、ディープインパクトがここで、翼を広げるか?ディープが今、翼を広げた!外目を突いて上がってくる!メイショウサムソンをあっという間に置き去りにした!ディープインパクト先頭、ディープインパクト先頭!間違いなく飛んだ!間違いなく飛んだ!ディープインパクト先頭だ!ダイワメジャー、そして、ポップロックが飛んできている!最後の衝撃だ!これが最後の、ディープインパクト〜!!ラストランを見事に飾りました、ディープインパクト!これが、これが、私たちにくれる最後の衝撃!強い!ディープインパクト強し!」(同上)
  • 「先頭はダイワスカーレットか、インコースからマツリダゴッホ、経済コースを取った!マツリダゴッホがインコースから伸びてきている!残り200(m)を切りました!マツリダゴッホ先頭だ、マツリダゴッホ先頭だ!そして、ダイワメジャー、ダイワスカーレット、ダイワメジャーも来た!マツリダゴッホだ、マツリダゴッホだ!ダイワスカーレット届かない!経済コースをスルスルと、なんとマツリダゴッホだーっ!なんとマツリダゴッホ、経済コースをするすると、蛯名正義のマジック炸裂!2001年マンハッタンカフェ以来2度目のグランプリ制覇!蛯名がやってのけました!」(同上)
  • 「内ラチ沿い、さあしごいてしごいて安藤勝己、ダイワスカーレット先頭だ!ダイワスカーレット先頭!そして早めスクリーンヒーロー2番手に上がって来た!さらに外目を突いて、あるいは14番のアドマイヤモナーク!そして黄色い帽子アルナスラインか!先頭はダイワスカーレットだ!ダイワスカーレット先頭だ!そしてスクリーンヒーロー!外からなんとアドマイヤモナークが2番手に上がった!勝ったのは13番、ダイワスカーレット~!!37年ぶり!夢の扉が今開かれた!37年ぶりに牝馬の有馬記念制覇!ダイワスカーレット、安藤勝己!文句なし!ダイワスカーレット、見事な逃げ切り!影を踏ますことはありませんでした!」(2008年有馬記念)
  • 「先頭はしかし、ゆったりとしたペース、佐藤哲三がペースを落として、依然として、依然としてトップをキープ、ヴィクトワールピサ、さらにはトーセンジョーダン手が動いた。外からは武豊、レッドデイヴィスもやってきてる、オルフェーヴルが外に持ち出した!そして、ブエナビスタはインコース、ブエナビスタは、最後の直線、最後の有馬記念、インコースに取った!さあ、さあ、先頭は依然としてアーネストリー先頭だ!ヴィクトワールピサがやって来ている。さらに外からはエイシンフラッシュ、さらに外から来たあーっ!オルフェーヴルが来た!オルフェーヴル先頭だ!完全と、オルフェーヴル先頭!エイシンだ、エイシンフラッシュ、さらに外からトゥザグローリー突っ込んできた!勝ったのはしかし、オルフェーヴル〜!!強い!間違いなく強い!3歳4冠達成、オルフェーヴルです!古馬の壁はありません!この馬の目はもう、世界に向いているのかもしれません!日本に敵なし!オルフェーヴル完勝です!」(同上・これが自身にとって最後の実況となった)

などの名実況を残した。

以下はGI実況歴の詳細だが、ダートGI(フェブラリーステークス及び2000年から2007年までのジャパンカップダート(現・チャンピオンズカップ))については実況経験がない。

出演

報道・情報番組

期間 番組名 役職 担当日 備考
1986年4月5日 1987年3月29日 FNNスーパータイム スポーツキャスター 休日
1991年4月10日 1992年3月26日 FNN World Uplink 水・木曜日
2000年4月3日 2001年3月30日 プロ野球ニュース キャスター 平日
2001年4月2日
および
2008年3月31日
2005年4月1日
および
2010年3月26日
すぽると!
2005年4月5日 2006年9月29日 火~金曜日
2007年10月1日
および
2010年3月29日
2008年3月27日
および
2011年3月24日
月~木曜日
2007年10月6日 2008年3月29日 ニュース&すぽると! 『すぽると! WEEKEND SPECIAL』キャスター 土曜日
2012年4月2日 2024年9月27日 めざましテレビ メーンキャスター 平日 2017年11月16日から同年12月8日の間は病気療養に伴い休養、2019年4月1日から放送されている『めざましテレビ全部見せ』の担当時期の詳細は同番組のページを参照、2020年4月10日から同年6月25日および同年8月21日から同年9月25日までの間は新型コロナウイルス緊急事態宣言を受け金曜日の出演を見合わせ

バラエティ・中継実況・ドラマ(主にゲスト)・特別番組

テレビドラマ

映画

劇場アニメ

著書

この本はスポーツアナ仲間で同郷(広島県出身)の川﨑聡が勤める系列のテレビ西日本において、アナウンサーたちの勉強会でテキストとして用いられた。やはりスポーツアナ仲間であり、現在はテレビ西日本アナウンス部長を務める田久保尚英のブログを参照。

楽曲

その他

レポーターとして同行していたが、レーシングスーツ着用状態でヘルメットを渡され、特設の助手席に着席し、座った感想と室内のレポートを行い、後にタレント2人に同乗体験をさせるはずであった。しかし、実際には三宅に同乗をさせるというドッキリ企画であったため無言でドアは閉められた。
当時の鈴鹿サーキットピットレーンの制限速度もなかったことから、片山は猛然とアクセル全開。三宅は車内ではまともに実況も行えずに絶叫し、バックストレッチでは326km/hに到達。周回を終えて戻ってきた際には放心状態であった。

脚注

注釈

  1. ^ フジサンケイグループ共通新CI導入前のフジテレビ8マーク最後の世代でもあり新CIの目玉マーク導入された時の最初のアナウンサーでもある。
  2. ^ フジテレビは有馬記念を競馬中継の中で最高のレースに位置付けており、それに相応しいアナウンサーが実況するという観点から部長級の管理職のアナウンサーが代々実況を務めている。また有馬記念を実況するアナウンサーはその他のGIレースは実況しないという慣例があり三宅も初めて担当した2005年こそジャパンカップの実況を担当したが、翌2006年からは慣例にならいその他のGIレースの実況からは退いている(GII・GIIIレースは年に数回担当したことはあった)。なお、この慣例は2019年より撤廃され、同年から2021年の有馬記念を実況した青嶋達也は他に皐月賞の実況も行っている。
  3. ^ カシマドリームが出走を取り消したため 。

出典

関連項目

外部リンク