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* [[皇族]]の子。[[皇子]]の幼少期。
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*[[1947年]]([[昭和]]22年)に[[旧皇族|11宮家]]が[[皇籍離脱]]する前までは[[宮家]]の数が多く、[[宮家]]当主の嗣子(通常は当主の長男)のことを「'''○○若宮'''(○○のわかみや)」と呼ぶ慣習があった<ref>1895年5月4日 読売新聞「第5回選書展覧会褒賞授与式 臨席の北白川若宮殿下から幼年者に賜品」</ref><ref>1907年5月25日 朝日新聞「伏見若宮王女子御命名」<br />ここでいう「伏見若宮」とは、伏見宮を継承する前の[[伏見宮博恭王|博恭王]]のことである。博恭王は[[1923年]]に伏見宮を相続した。</ref><ref>1941年12月24日 読売新聞「北白川若宮さま少国民音楽会へ」</ref>。この慣習に従えば、[[三笠宮崇仁親王]]の第一男子:[[仁親王]]は「'''三笠若宮'''」、[[秋篠宮文仁親王]]の第一男子:[[悠仁親王]]は「'''秋篠若宮'''」となる。しかし現在では[[皇室]]制度に詳しい人々の間でもこの呼称はほとんど用いられず、一般的にも宮号を[[名字]]であるかのように使用することが多い。こうした呼称のあり方について、寬仁親王は苦言を呈したことがある。{{main|[[仁親王#宮号の有無と表記]]}}
*[[1947年]]([[昭和]]22年)に[[旧皇族|11宮家]]が[[皇籍離脱]]する前までは[[宮家]]の数が多く、[[宮家]]当主の嗣子(通常は当主の長男)のことを「'''○○若宮'''(○○のわかみや)」と呼ぶ慣習があった<ref>1895年5月4日 読売新聞「第5回選書展覧会褒賞授与式 臨席の北白川若宮殿下から幼年者に賜品」</ref><ref>1907年5月25日 朝日新聞「伏見若宮王女子御命名」<br />ここでいう「伏見若宮」とは、伏見宮を継承する前の[[伏見宮博恭王|博恭王]]のことである。博恭王は[[1923年]]に伏見宮を相続した。</ref><ref>1941年12月24日 読売新聞「北白川若宮さま少国民音楽会へ」</ref>。この慣習に従えば、[[三笠宮崇仁親王]]の第一男子:[[仁親王]]は「'''三笠若宮'''」、[[秋篠宮文仁親王]]の第一男子:[[悠仁親王]]は「'''秋篠若宮'''」となる。しかし現在では[[皇室]]制度に詳しい人々の間でもこの呼称はほとんど用いられず、一般的にも宮号を[[名字]]であるかのように使用することが多い。こうした呼称のあり方について、寬仁親王は苦言を呈したことがある。{{main|[[仁親王#宮号の有無と表記]]}}
* 本宮の[[祭神]]の子([[御子神]])を祀った[[神社]]。各地にある[[若宮神社 (曖昧さ回避)|若宮神社]]、[[若宮八幡宮 (曖昧さ回避)|若宮八幡宮]]などの略。
* 本宮の[[祭神]]の子([[御子神]])を祀った[[神社]]。各地にある[[若宮神社 (曖昧さ回避)|若宮神社]]、[[若宮八幡宮 (曖昧さ回避)|若宮八幡宮]]などの略。
* 地名等
* 地名等

2021年4月27日 (火) 14:43時点における版

若宮(わかみや)

一覧

脚注

  1. ^ 1895年5月4日 読売新聞「第5回選書展覧会褒賞授与式 臨席の北白川若宮殿下から幼年者に賜品」
  2. ^ 1907年5月25日 朝日新聞「伏見若宮王女子御命名」
    ここでいう「伏見若宮」とは、伏見宮を継承する前の博恭王のことである。博恭王は1923年に伏見宮を相続した。
  3. ^ 1941年12月24日 読売新聞「北白川若宮さま少国民音楽会へ」
  4. ^ 2代目の若宮。択捉型海防艦の8番艦。

関連項目