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'''脱獄'''(だつごく)は、[[収監]]されている[[刑事施設]]([[刑務所]]や[[拘置所]]など)から無断で施設外に脱出する行為である。'''牢破り'''とも呼ばれる。 |
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2021年5月23日 (日) 03:12時点における版
脱獄(だつごく)は、収監されている刑事施設(刑務所や拘置所など)から無断で施設外に脱出する行為である。牢破りとも呼ばれる。
概説
刑事施設の中では著しく権利が制限されるため、施設の外に脱出することによる自由を得るために行う。また死刑判決を受けた死刑囚が生命の危険を感じて逃走するケースもある。
脱獄は権力執行を揺るがす事態であるため、政府は逮捕勾留されている者が刑事施設から脱出する行為に対して罰則を設けている。
日本では公権力に対する脱獄は逃走の罪として罰せられる。平成時代に入ってからの日本における脱獄の事例は、1989年10月16日に強盗強姦罪等で熊本刑務所に服役していた受刑者が逃走し1年後に逮捕された例[1][2]や、2012年1月11日に殺人未遂等で広島刑務所に服役していた中国人受刑者が逃走し2日後に逮捕された例(広島刑務所中国人受刑者脱獄事件)などがある。
日本の刑務所(1921年以前は監獄)における脱獄人数推移(1882年以降)
明治・大正時代
年 | 脱獄人数 | 備考 |
---|---|---|
1882 | 1,397 | 西川寅吉 三重監獄に投獄。その後、脱獄。 渡邊魁、前年に脱獄をして、大分始審裁判所竹田治安裁判所詰の雇員に採用される。 |
1883 | 1,410 | 1882年以降最多の刑務所脱獄人数。その内の200人は3月の二日市監獄署(岡山県)で起きた集団脱獄事件であり、脱獄の際に受刑者が放火し、獄舎1棟が全焼している[3]。 |
1884 | 992 | |
1885 | 1,001 | 西川寅吉 2度目の脱獄。その後捕まり、小菅監獄に投獄。また、3月15日に札幌分署(元雨竜通り獄舎)から45人が集団逃走(北海道史上最大の脱獄事件)している。[3] |
1886 | 697 | 西川寅吉 3度目の脱獄。すぐに捕まり、空知集治監に投獄。 |
1887 | 591 | 西川寅吉 4度目の脱獄。その後捕まり、樺戸監獄に投獄。 そして、5度目の脱獄をする。脱獄の際、足の甲に5寸釘が刺さる。 |
1888 | 469 | |
1889 | 373 | |
1890 | 514 | 脱獄後捕まり、樺戸監獄に再び投獄される。その後6度目の脱獄。 渡邊魁、判事に昇任 |
1891 | 324 | 渡邊魁、捕縛される。 |
1892 | 268 | |
1893 | 127 | |
1894 | 128 | |
1895 | 91 | |
1896 | 79 | |
1897 | 68 | 西川寅吉が捕まる。空知集治監へ送られ、さらに道内の標茶集治監に移された。 明治23年(1890年)3月、標茶集治監が網走に引っ越して網走刑務所になるに伴い網走へ移った。 |
1898 | 71 | |
1899 | 39 | |
1900 | 57 | |
1901 | 61 | |
1902 | 101 | |
1903 | 99 | |
1904 | 93 | 2月23日に網走監獄から長期囚17人が集団で脱獄[4]。 |
1905 | 69 | |
1906 | 87 | |
1907 | 79 | 白鳥由栄誕生 |
1908 | 87 | 監獄法制定 |
1909 | 98 | |
1910 | 55 | |
1911 | 86 | |
1912 | 52 | |
1913 | 16 | |
1914 | 18 | |
1915 | 10 | |
1916 | 14 | |
1917 | 12 | |
1918 | 13 | |
1919 | 16 | |
1920 | 14 | |
1921 | 9 | |
1922 | 16 | 渡邊魁死去 |
1923 | 390 | この年は、関東大震災時の横浜刑務所において、24時間以内に刑務所または警察署に出頭することを 条件に解放命令を出す[5]。 また、第25回日本帝国司法省行刑統計年報の57ページより逃走人員は374人となっており、 この人員は、24時間以内に出頭できなかった人数と推測され、通常の脱獄と異なることに注意する[6]。 |
1924 | 21 | 西川寅吉仮釈放 |
1925 | 11 | |
1926 | 15 |
出典:
- 大日本帝国内務省統計報告は内務省、司法省監獄局統計年報は司法省監獄局、日本帝国司法省行刑統計年報は司法省行刑局、犯罪白書は法務省が出版している。
- 第2回大日本帝国内務省統計報告>監獄>既決監出入人員:1882~1886年
- 第7回大日本帝国内務省統計報告>監獄>囚人ノ出入:1887年
- 第8回大日本帝国内務省統計報告>監獄>囚人ノ出入:1888~1892年
- 第13回大日本帝国内務省統計報告>監獄>囚人ノ出入:1893~1897年
- 第5回司法省監獄局統計年報>受刑者>第一一 囚人ノ出入:1898~1903年
- 第10回司法省監獄局統計年報>受刑者>第四九 囚人ノ出入:1904~1908年
- 第13回司法省監獄局統計年報>受刑者>第三九 受刑者ノ出入:1909~1911年
- 第18回日本帝国司法省行刑統計年報>受刑者>第五一 受刑者ノ出入:1912~1916年
- 第23回日本帝国司法省行刑統計年報>受刑者>30.受刑者ノ出入:1917~1920年
- 第27回日本帝国司法省行刑統計年報>5.受刑者>18.受刑者ノ出入:1920~1925年
- 平成元年犯罪白書>付表>第14表 受刑者の出所事由別人員(昭和元年~63年):1926年
昭和時代
年 | 脱獄人数 | 備考 |
---|---|---|
1926 | 15 | |
1927 | 19 | |
1928 | 3 | |
1929 | 11 | |
1930 | 15 | |
1931 | 6 | |
1932 | 8 | |
1933 | 8 | 白鳥由栄、仲間と共に強盗殺人をする。 |
1934 | 7 | 行刑累進処遇令(昭和8年司法省令第35号)施行 |
1935 | 20 | 白鳥由栄、拷問によって仲間が殺したにもかかわらず、自分が殺したと自白させられる。 |
1936 | 4 | 白鳥由栄、青森刑務所から脱獄(1回目) |
1937 | 8 | 泉水博(ダッカ日航機ハイジャック事件釈放要求対象メンバーの一人)誕生 |
1938 | 16 | |
1939 | 18 | |
1940 | 31 | |
1941 | 23 | 西川寅吉死去 |
1942 | 30 | 白鳥由栄、秋田刑務所から脱獄(2回目) |
1943 | 62 | |
1944 | 104 | 白鳥由栄、網走刑務所から脱獄(3回目) |
1945 | 541 | |
1946 | 391 | 7月7日の神戸刑務所で刑事被告人49人(日本人31人・朝鮮人18人)が集団で逃走をし、29人を逮捕[7]。極度の過剰拘禁と凶悪収容者の激増が原因[7]。 |
1947 | 505 | 白鳥由栄、札幌刑務所から脱獄(4回目)。特警隊リーダーの即日仮釈放を刑務所所長に拒否されたことをきっかけに発生した静岡刑務所暴動脱獄事件により静岡刑務所から特警隊リーダーを含む9人が 集団脱獄したが、数日のうちに逮捕。また、脱獄前にモチを数時間かけてついている。この事件をきっかけに戦時中に採用された特警隊制度(刑務官の戦地招集による人手不足を補うために模範囚達に 刑務補助[受刑者の見張り等]を行わせる制度)が廃止される[8][9]。 |
1948 | 402 | 白鳥由栄、府中刑務所収監 |
1949 | 251 | |
1950 | 152 | |
1951 | 89 | |
1952 | 74 | |
1953 | 53 | |
1954 | 48 | |
1955 | 32 | |
1956 | 19 | |
1957 | 28 | |
1958 | 17 | |
1959 | 25 | |
1960 | 27 | 泉水博(ダッカ日航機ハイジャック事件釈放要求対象メンバーの一人)、強盗殺人で逮捕。 後に無期懲役の判決を受ける。 |
1961 | 24 | 白鳥由栄仮釈放 |
1962 | 17 | 1962年6月のアルカトラズ脱獄事件発生 |
1963 | 30 | アルカトラズ刑務所閉鎖 |
1964 | 22 | |
1965 | 14 | |
1966 | 12 | |
1967 | 9 | |
1968 | 9 | |
1969 | 17 | |
1970 | 13 | |
1971 | 7 | |
1972 | 9 | |
1973 | 4 | |
1974 | 3 | |
1975 | 6 | クアラルンプール事件発生 |
1976 | 6 | |
1977 | 8 | ダッカ日航機ハイジャック事件発生 |
1978 | 3 | |
1979 | 3 | 白鳥由栄死去 |
1980 | 2 | |
1981 | 4 | |
1982 | - | 1882年以降、初めて刑務所からの脱獄が無かった。 |
1983 | 2 | |
1984 | 5 | |
1985 | 4 | |
1986 | 3 | 泉水博(ダッカ日航機ハイジャック事件釈放要求対象メンバーの一人)、フィリピンにて捕まる。 |
1987 | 3 | |
1988 | - | |
1989 | 3 |
出典
- 犯罪白書は法務省が出版している。
- 平成元年犯罪白書>付表>第14表 受刑者の出所事由別人員(昭和元年~63年):1926~1961年
- 令和2年犯罪白書>第2編 犯罪者の処遇>第4章 成人矯正>第2節 刑事施設の収容状況>4 出所受刑者>2-4-2-8表 受刑者の出所事由別人員:1962~1989年
平成以降
年 | 脱獄人数 | 備考 |
---|---|---|
1989 | 3 | 強盗強姦罪等で熊本刑務所に服役していた受刑者が逃走し、1年後に逮捕。 |
1990 | 4 | |
1991 | 1 | |
1992 | - | |
1993 | - | |
1994 | 1 | 松山刑務所から当時29歳の受刑者が脱走。女子大学生を車で連れ去り重傷を負わせて逮捕監禁致傷容疑などで指名手配され、4カ月後に宮崎県で逮捕された[10][11]。 |
1995 | - | |
1996 | 1 | |
1997 | - | |
1998 | - | |
1999 | - | |
2000 | - | |
2001 | - | |
2002 | 1 | |
2003 | - | |
2004 | - | |
2005 | - | |
2006 | - | |
2007 | 1 | 刑事収容施設法施行。それに伴い、監獄法が廃止される。 |
2008 | - | |
2009 | - | |
2010 | - | |
2011 | - | |
2012 | 1 | 広島刑務所中国人受刑者脱獄事件発生 |
2013 | 1 | |
2014 | - | |
2015 | - | |
2016 | - | |
2017 | - | |
2018 | 1 | 松山刑務所から27歳の男性受刑者が脱走する事件発生 |
2019 | - |
出典
- 犯罪白書は法務省が出している。
脱獄の規模
2010年のメキシコでは、大規模なものだけでも3月にマタモロスの刑務所から40人、同年9月にレイノサの刑務所から85人、同年12月にヌエボラレドの刑務所から141人の脱走が報じられている[12]。
1983年のオーストラリア、ニューサウスウェールズ州内では、1年間の脱獄件数が183件に上っていた。脱獄数は、その後減少傾向にあるが、2017年現在でも10件の脱獄が発生している[13]。
1990年代のアメリカ合衆国では、1万4000人を超える脱獄者を記録した年があった。これは軽犯罪者を収容する警備、拘束レベルが非常に緩い刑務所の存在があるため。脱獄者は年々減少傾向にあり、2016年の脱獄者数は2330人[14]。
被疑者・被告人・受刑者が脱獄した事件
日本
以下に挙げるものは大規模な脱獄事件、大きな事件の被疑者の脱獄事件、マスメディアで大きく取り上げられた脱獄事件などに限られる。
- 1883年(明治16年)3月 - 二日市監獄署(岡山県)で受刑者が放火し、獄舎1棟が全焼、200人が逃走[3]。
- 1885年(明治18年)3月15日 - 札幌分署(元雨竜通り獄舎)から45人が集団逃走(北海道史上最大の脱獄事件)[3]。
- 1897年(明治30年)6月19日 - 広島護送死刑囚脱獄事件
- 1904年(明治37年)2月23日 - 網走監獄から長期囚17人が集団で脱獄[4]。
- 1945年(昭和20年)9月27日 - 名古屋少年匕首殺害事件の被告人が名古屋拘置所から脱獄[15]。同事件は旧刑事訴訟法(公判が開かれないと公訴時効が停止しない)適用事件で、1986年(昭和61年)7月3日を最後に公判期日が指定されず、2001年(平成13年)7月3日に公訴時効が成立[16]。同年より数年前に被告人が韓国に帰国し、日本に再入国する可能性も低いとされたため[16]、旧刑事訴訟法第363条4号に基づき、同年8月14日に名古屋地裁刑事第3部(片山俊雄裁判長)が免訴の判決を言い渡した[15]。
- 1946年(昭和21年)
- 1947年(昭和22年)9月10日 - 静岡刑務所暴動脱獄事件により、静岡刑務所から特警隊リーダーを含む9人が集団脱獄[19]。脱獄した全員が、数日のうちに逮捕。この事件をきっかけに、戦時中に採用された特警隊制度(刑務官の戦地招集による人手不足を補うために模範囚達に刑務補助を行わせる制度)が廃止される[20]。
- 1952年(昭和27年)
- 1953年(昭和28年)2月19日 - 東京拘置所で死刑囚2人が脱獄したが、京都で逮捕された[17]。
- 1954年(昭和29年)11月17日 - 沖縄刑務所(951人収容)で、奄美大島出身の服役者が中心となって851人が暴動を起こし、45人が逃走[21]。5日間にわたり舎房が占拠され、警察官ら600人の応援を得て鎮圧[21]。
- 1955年(昭和30年)5月12日 - 栃木雑貨商一家殺害事件の死刑囚Kが東京拘置所から脱獄、同月21日に栃木県真岡の実家で逮捕[18]。
- 1958年(昭和33年)5月5日 - 新光学院(少年刑務所)[注 2]で少年の対立から乱闘が起き、28人が集団で逃走[21]。
- 1961年(昭和36年)1月21日 - 刑務共済組合学生寮(中野刑務所敷地内)で受刑者2人が、営繕作業中に看守を殺害し、東京都北区王子まで逃走[21]。1人が死刑、1人が無期懲役に処された[21]。
- 1965年(昭和40年)
- 4月10日 - 広島拘置所尾道拘置支所脱獄事件
- 9月23日 - 八王子拘置支所[注 3]で死刑を求刑されていた被告人ら3人が脱走、翌朝に全員逮捕[23]。3人は5階雑居房を破り、シーツで作ったロープを用いて降下したが、日本史上最も高所からの逃走記録である[21]。
- 1970年(昭和45年)10月19日 - 岡山刑務所から受刑者が脱走し、元岡山大学法文学部長の娘を人質にして自動車で逃走したが、翌日に逮捕[24]。
- 1971年(昭和46年)8月17日 - 発足直後の喜連川刑務支所(塀・鍵のない開放処遇施設)から模範囚1人が逃走[24]。
- 1980年(昭和55年)7月1日 - 岐阜刑務所から無期懲役刑で服役していた男[注 4]が脱獄[28]。同月3日(脱獄から約40時間後)に静岡県島田市内で逮捕され[29]、同年11月15日に岐阜地裁刑事部(笹本忠男裁判官)で懲役2年(求刑:懲役3年)の実刑判決を言い渡された[30]。
- 1996年(平成8年)2月12日 - 東京拘置所からイラン人7人が集団脱獄。
- 2004年(平成16年)11月13日 - 大牟田4人殺害事件により、強盗殺人罪などで起訴されていた被告人の1人(加害者一家4人のうち長男)が福岡地検久留米支部の仮庁舎から脱走し、3時間後に熊本県荒尾市内で身柄確保[31]。この被告人は2011年10月17日に最高裁第一小法廷(白木勇裁判長)で父親とともに上告棄却(一・二審の死刑判決を支持)を受け、先に上告棄却判決を受けた母親・弟(次男)とともに死刑が確定している[32]。
- 2012年(平成24年)1月11日 - 広島刑務所中国人受刑者脱獄事件
- 2018年(平成30年)
- 4月8日 - 松山刑務所大井造船作業場から受刑者1人が脱獄(広島県で逮捕)。→詳細は「松山刑務所大井造船作業場脱獄事件 (2018年)」を参照
- 8月12日 - 大阪府警富田林警察署から被疑者1人が逃走。
- 4月8日 - 松山刑務所大井造船作業場から受刑者1人が脱獄(広島県で逮捕)。
- テロリストによる釈放要求に政府が応じた事件
- クアラルンプール事件(1975年)[23]
- ダッカ日航機ハイジャック事件(1977年)[23]
脱獄で有名な人物
- ヴィトルト・ピレツキ(アウシュヴィッツ収容所に自ら収容され脱出したエージェント)
- ヘルベルト・カプラー
- ジャック・シェパード
- ジャコモ・カサノヴァ
- ジョン・デリンジャー
- フランク・モリス(脱獄不可能とされたアルカトラズ連邦刑務所から脱出したとされる)
- ジョージ・ブレイク
- フランク・アバグネイル(映画『キャッチ・ミー・イフ・ユー・キャン』の主人公のモデル)
- テッド・バンディ
- スティーヴン・ラッセル(映画『フィリップ、きみを愛してる!』の主人公のモデル)
- 高野長英
- 西川寅吉
- 白鳥由栄
- 渡邊魁
脱獄をテーマにした主な作品
映画
- 穴(1960年) - 史実。パリ・サンテ刑務所で1947年に実際に起きた脱獄事件を描いている。脚本と主演に、実際の脱獄犯がそのまま参加している。
- 大脱走(1963年) - 史実。捕虜収容所から76名が脱獄に成功。うち3名が帰国の途につく事ができたと言われている。
- 暴力脱獄(1967年)
- 大脱獄(1970年)
- パピヨン(1973年) - 史実。
- 脱走遊戯(1976年) - 千葉真一主演、東映の製作による日本映画。
- ミッドナイト・エクスプレス(1978年) - 史実。
- アルカトラズからの脱出(1979年) - 史実とされている。
- ショーシャンクの空に(1994年)
- ザ・ロック(1996年)
- エグゼクティブ・エクスプレス プリズンブレイク(1998年)
- フィリップ、きみを愛してる!(2009年) - 4度の脱獄に成功したスティーヴン・ラッセルの実話を基にした作品。
テレビドラマ
- プリズン・ブレイク(2005年 - 2009年)
小説
漫画・アニメ
- ジョジョの奇妙な冒険第六部ストーンオーシャン(1999年 - 2003年)
- ルパン三世 アルカトラズコネクション(2001年)
- 囚人リク(2011年 - 2018年)
- 監獄学園(2011年 - 2018年)
コンピュータゲーム
- ボンバーマンII(1991年)
- 新・熱血硬派くにおたちの挽歌(1994年)
- 龍が如く4 伝説を継ぐもの(2010年)
- 龍が如く5 夢、叶えし者(2012年)
脚注
注釈
- ^ 当時、定員の3倍の人数が収容されていた[17]。
- ^ 山口県熊毛郡平生町にあったが、1978年(昭和53年)に業務停止[22]。
- ^ 当時、八王子拘置支所は八王子医療刑務所の所轄だったが、1968年(昭和43年)6月に府中刑務所の所轄になった[23]。
- ^ この男は1968年6月29日に静岡県清水市(現:静岡市清水区)内で女性(当時18歳)を刺殺する事件を起こしたとして、1969年(昭和44年)4月18日に殺人・婦女暴行・窃盗および同未遂の罪で静岡地裁(石見勝四裁判長)から無期懲役刑(求刑:同)を宣告された[25]。東京高裁で刑が確定し、1970年(昭和45年)4月から千葉刑務所に服役していたが、1974年(昭和49年)7月3日に同所内で、囚人仲間の男性受刑者(懲役11年で服役中)を刺殺する事件を起こした[26]。同事件により、1975年(昭和50年)6月3日に千葉地裁刑事第1部(鍬田日出夫裁判長)で再び無期懲役を言い渡され[26](同月18日に確定)、同年8月19日に千葉刑務所から岐阜刑務所に移監されていた[27]。
出典
- ^ http://www.tku.co.jp/pc/news/view_news.php?id=25213&mod=3000
- ^ 法務省幹部「ほっとした、では済まぬ」 脱走容疑者逮捕朝日新聞、2012年1月16日時点のオリジナルよりアーカイブ、2016年9月25日閲覧。
- ^ a b c d 重松一義 1985, p. 470.
- ^ a b 重松一義 1985, p. 471.
- ^ “磯子区 --- 旧横浜刑務所跡地と当時の出来事 ---”. テーマ:地形地質、地震防災、災害など (2015年9月). 2020年8月23日閲覧。
- ^ 司法省行刑局 (31 March 1925). 第25回日本帝国司法省行刑統計年報>受刑者>18.受刑者ノ出入 (Report). doi:10.11501/985294. 2020年8月23日閲覧。
- ^ a b c d 重松一義 1985, p. 476.
- ^ “静岡刑務所暴動脱獄事件”. あかん珈琲SPARK (2019年4月20日). 2021年1月2日閲覧。
- ^ 里見 建. “徳州 里ごころ水心その8「”団塊”の親が読んだ記事」”. ゴルフやまなし. 2021年1月2日閲覧。
- ^ 「塀のない刑務所」、開設以来20人脱走 - 愛媛新聞、2018年4月11日
- ^ “脱獄囚”発生の「松山刑務所大井造船作業場」 実は「恐怖の刑務所」 - デイリー新潮、2018年4月11日
- ^ メキシコの刑務所で141人脱走(AFP.BB.NEWS.2010年12月18日)
- ^ “脱獄企てるも見つかる、歯みがき粉とトイレットペーパーを駆使 ”. CNN (2018年7月20日). 2018年8月1日閲覧。
- ^ ““塀のない刑務所”はアメリカにもあった!脱走者ゼロの理由は「ショック」療法”. FNN PRIME (2018年4月17日). 2019年7月20日閲覧。
- ^ a b 「旧刑事訴訟法の適用される事件につき、公訴時効の成立を理由に免訴判決を言い渡した事例 名古屋地裁昭22(刑)第75号(昭和20年(予)第9号)、恐喝、殺人未遂、殺人被告事件、平13.8.14刑事第三部判決、免訴・確定」『判例タイムズ』第53巻第26号、判例タイムズ社、2002年10月15日、232-233頁。 - 通号1098
- ^ a b 『中日新聞』2001年8月14日夕刊第二社会面10頁「拘置中逃走の韓国人被告 56年前の殺人免訴 名地裁」(中日新聞社)
- ^ a b c d 重松一義 1985, p. 477.
- ^ a b c d e 重松一義 1985, p. 486.
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- ^ “阿多田交流館”. 平生町ホームページ. 平生町. 2021年4月19日時点のオリジナルよりアーカイブ。2021年4月19日閲覧。
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- ^ 『静岡新聞』1969年4月19日朝刊B版11頁「清水の女子工員殺し Kに無期懲役判決 静岡地裁 冷酷無惨な犯行」(静岡新聞社)
- ^ a b 『静岡新聞』1975年6月4日朝刊C版15頁「【千葉】清水生まれの無期囚に再び無期判決 千葉刑務所内の殺人」(静岡新聞社)
- ^ 『朝日新聞』1980年7月2日東京夕刊第3版第一社会面15頁「岐阜 殺人犯が刑務所脱走 ハシゴでヘイ乗り越え」(朝日新聞東京本社)
- ^ 『静岡新聞』1980年7月2日夕刊D版7頁「【岐阜】清水の女性殺し無期懲役囚 「K」足取りつかめず 千葉でも受刑者仲間を刺殺 作業中に脱走道具入手 はしご使いへい越える 岐阜刑務所」(静岡新聞社)
- ^ 『静岡新聞』1980年7月4日朝刊C版一面1頁「脱獄囚・Kを島田で逮捕 脱走以来40時間ぶり 車の荷台に潜む」(静岡新聞社)
- ^ 『静岡新聞』1980年11月15日朝刊C版19頁「【岐阜】脱走殺人犯のK 懲役2年の判決」(静岡新聞社)
- ^ 『西日本新聞』2004年11月14日朝刊第19版1面1頁「大牟田4人殺害 KT容疑者が一時逃走 地検で警官監視中 久留米から熊本・荒尾へ 3時間後に確保」(西日本新聞社)
- ^ 『読売新聞』2011年10月18日西部朝刊第二社会面38頁「大牟田4人殺害 親子4人 死刑確定へ 元組長と長男も上告棄却」(読売新聞西部本社)
参考文献
- 重松一義『図鑑 日本の監獄史』雄山閣出版、1985年4月20日。ISBN 978-4639004738。 NCID BN00779573。