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1714年、クンストカメラが、ピョートル大帝によって、[[図書館]]、[[自然科学]]系[[博物学]]コレクションを収蔵するため創設された。クンストカメラの建物は、[[サンクトペテルブルク]]、ワシリエフスキー島の[[ネヴァ川]](ボリシャヤ・ネヴァ川)河畔に建設された。対岸には、[[冬宮]]や[[旧海軍省]]がある。この[[バロック様式]]に属する建物は、[[1727年]]に完成を見た。
1714年、クンストカメラが、ピョートル大帝によって、[[図書館]]、[[自然科学]]系[[博物学]]コレクションを収蔵するため創設された。クンストカメラの建物は、[[サンクトペテルブルク]]、ワシリエフスキー島の[[ネヴァ川]](ボリシャヤ・ネヴァ川)河畔に建設された。対岸には、[[冬宮]]や[[旧海軍省]]がある。この[[バロック様式]]に属する建物は、[[1727年]]に完成を見た。


クンストカメラは、当初、「自然と人間による珍奇かつ稀覯なもの」を収集・所蔵する目的で建てられた。このような経緯から当初、クンストカメラは[[ロシア皇帝|皇帝]]の個人的なコレクションの集積場であり、それらの収蔵品は、[[夏宮]]([[:en:Summer Palace (Saint Petersburg)|Summer Palace]])から移された。クンストカメラの所蔵品の中でもっとも有名なものは、人間や動物の[[胎児]]の標本である。ピョートル大帝は、この各種大きさ取り混ぜた標本を、[[オランダ]]の[[解剖学]]者、[[フレデリック・ルイシュ]]([[:en:Frederick Ruysch|Frederick Ruysch]])と[[薬理学]]者の[[アルベルトゥス・セーバ]]([[:en:Albertus Seba|Albertus Seba]])から購入した。もっともグロテスクな所蔵品は、大帝の妻・[[エカチェリーナ1世]]の愛人であった[[ウィレム・モンス]] ([[:en:Willem Mons|Willem Mons]])と{{要出典|範囲=彼の妹[[アンナ・モンス]]([[:en:Anna Mons|Anna Mons]])の頭部を[[アルコール]]漬けにした標本|date=2020年11月}}である。
クンストカメラは、当初、「自然と人間による珍奇かつ稀覯なもの」を収集・所蔵する目的で建てられた。このような経緯から当初、クンストカメラは[[ロシア皇帝|皇帝]]の個人的なコレクションの集積場であり、それらの収蔵品は、[[夏宮]]([[:en:Summer Palace (Saint Petersburg)|Summer Palace]])から移された。クンストカメラの所蔵品の中でもっとも有名なものは、人間や動物の[[胎児]]の標本である。ピョートル大帝は、この各種大きさ取り混ぜた標本を、[[オランダ]]の[[解剖学]]者、[[フレデリック・ルイシュ]]([[:en:Frederick Ruysch|Frederick Ruysch]])と[[薬理学]]者の[[アルベルトゥス・セーバ]]([[:en:Albertus Seba|Albertus Seba]])から購入した。もっともグロテスクな所蔵品は、大帝の妻・[[エカチェリーナ1世 (ロシア皇帝)|エカチェリーナ1世]]の愛人であった[[ウィレム・モンス]] ([[:en:Willem Mons|Willem Mons]])と{{要出典|範囲=彼の妹[[アンナ・モンス]]([[:en:Anna Mons|Anna Mons]])の頭部を[[アルコール]]漬けにした標本|date=2020年11月}}である。


[[1716年]]ピョートル大帝はクンストカメラに鉱物展示室を作り、[[自由都市ダンツィヒ|ダンチヒ]]の医師ゴットヴァルドから購入した1,195種の鉱石コレクションを展示した。クンストカメラにはロシア産の鉱石も収集されるようになり、コレクションは充実していった。こうして増加したコレクションは、[[1719年]]から一般に公開されるようになった。この意味において[[モスクワ]]に現在ある[[フェルスマン鉱物博物館]]([[:en:Fersman Mineralogical Museum|Fersman Mineralogical Museum]])のさきがけを成したといえよう。
[[1716年]]ピョートル大帝はクンストカメラに鉱物展示室を作り、[[自由都市ダンツィヒ|ダンチヒ]]の医師ゴットヴァルドから購入した1,195種の鉱石コレクションを展示した。クンストカメラにはロシア産の鉱石も収集されるようになり、コレクションは充実していった。こうして増加したコレクションは、[[1719年]]から一般に公開されるようになった。この意味において[[モスクワ]]に現在ある[[フェルスマン鉱物博物館]]([[:en:Fersman Mineralogical Museum|Fersman Mineralogical Museum]])のさきがけを成したといえよう。

2021年6月13日 (日) 05:15時点における版

クンストカメラ
Кунсткамера
地図
施設情報
正式名称 ピョートル大帝名称(記念)人類学・民族学博物館
専門分野 人類学民俗学
所在地 ロシアの旗 ロシア サンクトペテルブルク
外部リンク http://www.kunstkamera.ru/english/
プロジェクト:GLAM
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クンストカメラ: КунсткамераKunstkamera、希少なものの陳列所)は、ロシアサンクトペテルブルクにある博物館[1]。ロシア史上、最初に創設された博物館とみられる[1]1714年にロシア帝国の皇帝ピョートル1世(ピョートル大帝)によりつくられ、鉱物医療用の薬剤古銭コレクションが保存され、動物学資料館や地球儀天体儀が置かれた[1]。現在は、国立の人類学・民族学博物館となっている。なお、「クンストカメラ」という名称は、ドイツ語Kunstkammer驚異の部屋)が由来である[注釈 1]

概要

1714年、クンストカメラが、ピョートル大帝によって、図書館自然科学博物学コレクションを収蔵するため創設された。クンストカメラの建物は、サンクトペテルブルク、ワシリエフスキー島のネヴァ川(ボリシャヤ・ネヴァ川)河畔に建設された。対岸には、冬宮旧海軍省がある。このバロック様式に属する建物は、1727年に完成を見た。

クンストカメラは、当初、「自然と人間による珍奇かつ稀覯なもの」を収集・所蔵する目的で建てられた。このような経緯から当初、クンストカメラは皇帝の個人的なコレクションの集積場であり、それらの収蔵品は、夏宮Summer Palace)から移された。クンストカメラの所蔵品の中でもっとも有名なものは、人間や動物の胎児の標本である。ピョートル大帝は、この各種大きさ取り混ぜた標本を、オランダ解剖学者、フレデリック・ルイシュFrederick Ruysch)と薬理学者のアルベルトゥス・セーバAlbertus Seba)から購入した。もっともグロテスクな所蔵品は、大帝の妻・エカチェリーナ1世の愛人であったウィレム・モンスWillem Mons)と彼の妹アンナ・モンスAnna Mons)の頭部をアルコール漬けにした標本[要出典]である。

1716年ピョートル大帝はクンストカメラに鉱物展示室を作り、ダンチヒの医師ゴットヴァルドから購入した1,195種の鉱石コレクションを展示した。クンストカメラにはロシア産の鉱石も収集されるようになり、コレクションは充実していった。こうして増加したコレクションは、1719年から一般に公開されるようになった。この意味においてモスクワに現在あるフェルスマン鉱物博物館Fersman Mineralogical Museum)のさきがけを成したといえよう。

1830年代になってクンストカメラ本館にあった収蔵品が増加したため、各地に帝国博物館が設立され、これに分散・所蔵された。現在、クンストカメラは正式名称を人類学・民族学博物館として所蔵品200万種類を誇る。また、1903年から「ピョートル大帝クンストカメラ」と、大帝の名称を冠している

脚注

注釈

  1. ^ 1714年には、ペテルブルクでロシア最初の学術的な図書館が開かれた。

参照

参考文献

  • A・A ダニロフ、L・G コスリナ 著、長屋房夫・佐藤賢明・土岐康子・寒河江光徳・佐藤裕子・山口恭子ほか 訳「ロシアの歴史 16世紀末から18世紀まで」、アンドレイ・クラフツェヴィチ、吉田衆一(監修) 編『ロシアの歴史 上 (古代から19世紀前半まで) ―ロシア中学校・高校歴史教科書―』明石書店〈世界の教科書シリーズ31〉、2011年7月。ISBN 4750334154 

外部リンク