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[[1779年]]8月20日、[[スウェーデン]]の[[リンシェーピング]]近くの教会区で生まれる。父は[[イェータランド]]の高等学校長、牧師であり、4歳のときに死別した。その後母と再婚した養父も牧師であったが、継子たちにも分け隔てなく接し、幼い息子に対して[[スウェーデン|同国]]の博物学者[[カール・フォン・リンネ]]の足跡をたどれる力をつけるように諭したといわれる<ref>ベルセリウス、p.3。訳者によるベルセリウス小伝。</ref>。[[1793年]]、リンシェーピングの[[ギムナジウム]]に入学したが、昆虫や植物の採集に熱中し、自然の観察に興味をもつようになった。[[1797年]]3月、[[ウプサラ大学]]医学部に入学したが、化学実験に勤しみ、[[1800年]]にメデヴィの温泉水の分析<ref>以前に[[ウプサラ大学|同大学]]の[[トルビョルン・ベリマン]]が行った分析結果を参考にしたものであった。</ref>で卒業論文を提出した。[[1802年]]に[[ガルヴァーニ]]装置の電気に関する研究で医学の学位をとり、[[1804年]]に[[ストックホルム]]で開業した。医業の傍ら化学の研究をするうちに、[[カロリンスカ研究所|カロリンスカ医学外科学院]]で医学と薬学の無給助手に採用され、[[1807年]]教授に昇格した。[[1808年]]に[[スウェーデン王立科学アカデミー]]の会員となり、[[1810年]]は会長をつとめ、[[1818年]]に終身会員に任命された。1837年には[[スウェーデン・アカデミー]]の終身会員となった。
[[1779年]]8月20日、[[スウェーデン]]の[[リンシェーピング]]近くの教会区で生まれる。父は[[イェータランド]]の高等学校長、牧師であり、4歳のときに死別した。その後母と再婚した養父も牧師であったが、継子たちにも分け隔てなく接し、幼い息子に対して[[スウェーデン|同国]]の博物学者[[カール・フォン・リンネ]]の足跡をたどれる力をつけるように諭したといわれる<ref>ベルセリウス、p.3。訳者によるベルセリウス小伝。</ref>。[[1793年]]、リンシェーピングの[[ギムナジウム]]に入学したが、昆虫や植物の採集に熱中し、自然の観察に興味をもつようになった。[[1797年]]3月、[[ウプサラ大学]]医学部に入学したが、化学実験に勤しみ、[[1800年]]にメデヴィの温泉水の分析<ref>以前に[[ウプサラ大学|同大学]]の[[トルビョルン・ベリマン]]が行った分析結果を参考にしたものであった。</ref>で卒業論文を提出した。[[1802年]]に[[ガルヴァーニ]]装置の電気に関する研究で医学の学位をとり、[[1804年]]に[[ストックホルム]]で開業した。医業の傍ら化学の研究をするうちに、[[カロリンスカ研究所|カロリンスカ医学外科学院]]で医学と薬学の無給助手に採用され、[[1807年]]教授に昇格した。[[1808年]]に[[スウェーデン王立科学アカデミー]]の会員となり、[[1810年]]は会長をつとめ、[[1818年]]に終身会員に任命された。1837年には[[スウェーデン・アカデミー]]の終身会員となった。


プロイセン皇太子[[フリードリヒ・ヴィルヘルム4世|フリードリヒ・ヴィルヘルム]]、ロシア皇太子[[アレクサンドル2世|アレクサンドル]]、フランス国王[[ルイ・フィリップ]]に進講した。研究に余念がなく[[1835年]]まで独身を通していたが、友人の妹との結婚に際し、[[カール14世ヨハン (スウェーデン王)|国王]]より[[男爵]]に叙せられた。[[1848年]]に[[ストックホルム]]で死去。
プロイセン皇太子[[フリードリヒ・ヴィルヘルム4世|フリードリヒ・ヴィルヘルム]]、ロシア皇太子[[アレクサンドル2世 (ロシア皇帝)|アレクサンドル]]、フランス国王[[ルイ・フィリップ]]に進講した。研究に余念がなく[[1835年]]まで独身を通していたが、友人の妹との結婚に際し、[[カール14世ヨハン (スウェーデン王)|国王]]より[[男爵]]に叙せられた。[[1848年]]に[[ストックホルム]]で死去。


== 業績 ==
== 業績 ==

2021年6月13日 (日) 08:44時点における版

イェンス・ヤコブ・ベルセリウス
イェンス・ベルセリウス(1873年)
生誕 (1779-08-20) 1779年8月20日
 スウェーデンエステルイェートランド地方リンシェーピング
死没 (1848-08-07) 1848年8月7日(68歳没)
 スウェーデンストックホルム
国籍  スウェーデン
研究分野 化学電気化学
研究機関 カロリンスカ研究所
出身校 ウプサラ大学
博士課程
指導教員
ユーハン・アフセリウス英語版
博士課程
指導学生
ジェームズ・フィンレー・ウェアー・ジョンストン英語版
ハインリヒ・ローゼ
主な業績 アルファベット元素記号を考案
セリウムセレントリウムの発見
有機物」、「異性体」、「触媒」、「タンパク質」を命名
ハロゲンを纏める
影響を
受けた人物
アントワーヌ・ラヴォアジエ
ジョン・ドルトン
ジョセフ・ルイ・ゲイ=リュサック
ハンフリー・デービー
影響を
与えた人物
クロード・ルイ・ベルトレー
アメデオ・アヴォガドロ
ユストゥス・フォン・リービッヒ
ジャン=バティスト・デュマ
フリードリヒ・ヴェーラー
ジェルマン・アンリ・ヘス
主な受賞歴 コプリ・メダル(1836年)
プロジェクト:人物伝
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イェンス・ヤコブ・ベルセリウススウェーデン語:Jöns Jacob Berzelius1779年8月20日 - 1848年8月7日)は、スウェーデンリンシェーピング出身の化学者医師

イギリスの化学者ジョン・ドルトンによる複雑な元素記法に代わり、現在でも広く用いられている元素記号をラテン名やギリシャ名に則ってアルファベットによる記法を提唱し、原子量を精密に決定したことで知られる。また、セリウムセレントリウムといった新しい元素発見。「タンパク質」や「触媒」といった化学用語を考案。近代化学の理論体系を組織化し、集大成した人物である[1]クロード・ルイ・ベルトレーハンフリー・デービーら当代の科学者だけでなく、政治家クレメンス・フォン・メッテルニヒや文豪ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテとも親交があった。弟子にフリードリヒ・ヴェーラージェルマン・アンリ・ヘスがいる。

生涯

1779年8月20日、スウェーデンリンシェーピング近くの教会区で生まれる。父はイェータランドの高等学校長、牧師であり、4歳のときに死別した。その後母と再婚した養父も牧師であったが、継子たちにも分け隔てなく接し、幼い息子に対して同国の博物学者カール・フォン・リンネの足跡をたどれる力をつけるように諭したといわれる[2]1793年、リンシェーピングのギムナジウムに入学したが、昆虫や植物の採集に熱中し、自然の観察に興味をもつようになった。1797年3月、ウプサラ大学医学部に入学したが、化学実験に勤しみ、1800年にメデヴィの温泉水の分析[3]で卒業論文を提出した。1802年ガルヴァーニ装置の電気に関する研究で医学の学位をとり、1804年ストックホルムで開業した。医業の傍ら化学の研究をするうちに、カロリンスカ医学外科学院で医学と薬学の無給助手に採用され、1807年教授に昇格した。1808年スウェーデン王立科学アカデミーの会員となり、1810年は会長をつとめ、1818年に終身会員に任命された。1837年にはスウェーデン・アカデミーの終身会員となった。

プロイセン皇太子フリードリヒ・ヴィルヘルム、ロシア皇太子アレクサンドル、フランス国王ルイ・フィリップに進講した。研究に余念がなく1835年まで独身を通していたが、友人の妹との結婚に際し、国王より男爵に叙せられた。1848年ストックホルムで死去。

業績

ベルセリウスは元素を電気的に陰性な元素と陽性な元素とに分類して、原子は反対電荷間の電気的引力により結合して分子を形成するという電気化学的二元論を考えた。さらに、ゲイ・リュサック気体反応の法則を根拠として化合物中の元素の構成比を推定し、1828年までにそれまで知られていた43の元素の原子量を、2,000以上の化合物を精製・分析することによって決定した[4]。これはジョン・ドルトンの求めた値よりも飛躍的に精度を高めたものである[5]。新元素としてセレントリウムセリウムを発見した。そして、タンタルケイ素ジルコニウム単体として分離し、リチウムを命名した。また、元素記号ラテン語またはギリシャ語の名称のアルファベット頭文字で表す現在の方法を1813年頃に提唱したが、すぐに普及した。化学を有機化学無機化学の2つに分け、ハロゲン同素体異性体有機物触媒非結晶(Amorphie)などの化学上重要な用語や概念を創案した。

カロリンスカ医学外科学院の助手の頃から、スウェーデン語の教科書の著作を計画した。大学で化学を教えるために著した『化学における教科書(Lärbok i Kemien)』全6巻(1808年〜1830年)は、後に弟子のフリードリヒ・ヴェーラーにより『化学の教科書(Lehrbuch der Chemie)』全5巻としてドイツ語に翻訳された[6]が、当時の最高水準の化学の教科書であった。

脚注

  1. ^ 久保、p.85。アントワーヌ・ラヴォアジエが建設した化学体系の拡張と完成を一生の仕事として意識して行った。
  2. ^ ベルセリウス、p.3。訳者によるベルセリウス小伝。
  3. ^ 以前に同大学トルビョルン・ベリマンが行った分析結果を参考にしたものであった。
  4. ^ ベルセリウス、p.200-203の図表。但し酸素原子量の基準(100)としたのは、大部分の元素に酸素との化合物が存在したからである。
  5. ^ 久保、p.87。ベルセリウスは、正確な定量分析が理論体系の確立に不可欠と考えていた。
  6. ^ フランス語英語イタリア語にも訳され、化学の普及に貢献した。

参考文献

  • ベルセリウス( 田中豊助原田紀子訳)『化学の教科書』内田老鶴圃 ISBN 4-7536-3108-7
  • 久保昌二『化学史―化学理論発展の歴史的背景―』白水社 1959年 NCID BN03202856

外部リンク

関連項目