「マクシム・ゴーリキー」の版間の差分
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その後、地方新聞の記者となる。[[1892年]]に[[トビリシ]]で、『カフカス』紙に最初の短編『マカル・チュドラ』が掲載され、はじめて筆名としてゴーリキーを名乗った。[[1895年]]、『チェルカシュ』を大衆雑誌『ロシアの富』に発表。[[1898年]]には[[サンクトペテルブルク]]で短編集『記録と物語』を刊行し、一躍人気作家になった。[[1899年]]、散文詩『26と1』、最初の長編物語『フォマ・ゴルデーエフ』を発表。その名声はたちまち[[アントン・チェーホフ]]や[[レフ・トルストイ]]と比されるまでになった。[[1902年]]、代表作である『[[どん底]]』を発表し、同年[[モスクワ]]で[[コンスタンチン・スタニスラフスキー]]の演出で上演され、翌[[1903年]]、[[ベルリン]]でも上演された。 |
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[[1902年]]には科学アカデミーの名誉会員に選ばれるが、その急進的な政治的信条を理由に[[ニコライ2世]]によって取り消された。この事件に対する抗議としてアントン・チェーホフと[[ウラジミール・コロレンコ]]がアカデミーを辞任している<ref>「チェーホフ」(ガリマール新評伝シリーズ 世界の傑物5)p339-340 ヴィリジル・タナズ著 谷口きみ子・清水珠代訳 祥伝社 2010年12月20日初版第1刷発行</ref>。[[1905年]]、[[ボリシェヴィキ]]組織に入り、[[ウラジーミル・レーニン|レーニン]]の知遇を得る。[[1905年]]から[[1907年]]までの革命には、ゴーリキーが巨額の援助をしたとされる。 |
[[1902年]]には科学アカデミーの名誉会員に選ばれるが、その急進的な政治的信条を理由に[[ニコライ2世 (ロシア皇帝)|ニコライ2世]]によって取り消された。この事件に対する抗議としてアントン・チェーホフと[[ウラジミール・コロレンコ]]がアカデミーを辞任している<ref>「チェーホフ」(ガリマール新評伝シリーズ 世界の傑物5)p339-340 ヴィリジル・タナズ著 谷口きみ子・清水珠代訳 祥伝社 2010年12月20日初版第1刷発行</ref>。[[1905年]]、[[ボリシェヴィキ]]組織に入り、[[ウラジーミル・レーニン|レーニン]]の知遇を得る。[[1905年]]から[[1907年]]までの革命には、ゴーリキーが巨額の援助をしたとされる。 |
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[[第一次世界大戦]]の際には、ペトログラードのゴーリキーのアパートはボリシェヴィキの事務室になった。しかし、その後、[[共産主義]]に対するゴーリキーの考えは一変し、[[十月革命]]の2週間後の手紙にはこう書いている。「レーニンも[[レフ・トロツキー|トロツキー]]も自由と人権についていかなる考えも持ち合わせていない。彼らは既に権力の毒に冒されている」。[[1919年]]、レーニンはゴーリキーに宛てて書いた手紙に「君に忠告する。環境とものの見方、行動を変えるべきだ。さもなくば人生は君から遠ざかってしまうだろう」と書いている。[[1921年]]、[[結核]]の療養のため[[イタリア]]の[[ソレント]]に移り住んだ。 |
[[第一次世界大戦]]の際には、ペトログラードのゴーリキーのアパートはボリシェヴィキの事務室になった。しかし、その後、[[共産主義]]に対するゴーリキーの考えは一変し、[[十月革命]]の2週間後の手紙にはこう書いている。「レーニンも[[レフ・トロツキー|トロツキー]]も自由と人権についていかなる考えも持ち合わせていない。彼らは既に権力の毒に冒されている」。[[1919年]]、レーニンはゴーリキーに宛てて書いた手紙に「君に忠告する。環境とものの見方、行動を変えるべきだ。さもなくば人生は君から遠ざかってしまうだろう」と書いている。[[1921年]]、[[結核]]の療養のため[[イタリア]]の[[ソレント]]に移り住んだ。 |
2021年6月13日 (日) 09:54時点における版
マクシム・ゴーリキー Максим Горький | |
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ゴーリキーの署名入り肖像 | |
誕生 |
アレクセイ・マクシーモヴィチ・ペシコフ Алексей Максимович Пешков 1868年3月28日 ロシア帝国 ニジニ・ノヴゴロド |
死没 |
1936年6月18日(68歳没) ソビエト連邦 ロシア社会主義連邦ソビエト共和国 モスクワ |
墓地 | ロシア モスクワ、赤の広場 |
職業 | 作家 |
言語 | ロシア語 |
国籍 | ソビエト連邦 |
活動期間 | 1892年 - 1936年 |
ジャンル |
小説 戯曲 詩 ノンフィクション |
文学活動 |
ロマン主義 社会主義リアリズム |
代表作 |
どん底 海燕の歌 |
主な受賞歴 | レーニン勲章 |
デビュー作 | マカル・チュドラ |
マクシム・ゴーリキー(Макси́м Го́рький, 旧綴: Горькій, 1868年3月28日(ユリウス暦3月16日) - 1936年6月18日)は、ロシアの作家。本名はアレクセイ・マクシーモヴィチ・ペシコフ(Алексе́й Макси́мович Пешко́в)。ペンネームのゴーリキーとはロシア語で「苦い」の意味。社会主義リアリズムの手法の創始者であり、社会活動家でもあった。
生涯
ニジニ・ノヴゴロドに、家具職人の子として生まれる。母ワルワラを肺結核で亡くして10歳で孤児となった後、話が上手であった祖母に育てられる。祖母の死は彼を深く動揺させた。1887年の自殺未遂事件の後、ロシアの各地を職を転々としながら放浪する。
その後、地方新聞の記者となる。1892年にトビリシで、『カフカス』紙に最初の短編『マカル・チュドラ』が掲載され、はじめて筆名としてゴーリキーを名乗った。1895年、『チェルカシュ』を大衆雑誌『ロシアの富』に発表。1898年にはサンクトペテルブルクで短編集『記録と物語』を刊行し、一躍人気作家になった。1899年、散文詩『26と1』、最初の長編物語『フォマ・ゴルデーエフ』を発表。その名声はたちまちアントン・チェーホフやレフ・トルストイと比されるまでになった。1902年、代表作である『どん底』を発表し、同年モスクワでコンスタンチン・スタニスラフスキーの演出で上演され、翌1903年、ベルリンでも上演された。
1902年には科学アカデミーの名誉会員に選ばれるが、その急進的な政治的信条を理由にニコライ2世によって取り消された。この事件に対する抗議としてアントン・チェーホフとウラジミール・コロレンコがアカデミーを辞任している[1]。1905年、ボリシェヴィキ組織に入り、レーニンの知遇を得る。1905年から1907年までの革命には、ゴーリキーが巨額の援助をしたとされる。
第一次世界大戦の際には、ペトログラードのゴーリキーのアパートはボリシェヴィキの事務室になった。しかし、その後、共産主義に対するゴーリキーの考えは一変し、十月革命の2週間後の手紙にはこう書いている。「レーニンもトロツキーも自由と人権についていかなる考えも持ち合わせていない。彼らは既に権力の毒に冒されている」。1919年、レーニンはゴーリキーに宛てて書いた手紙に「君に忠告する。環境とものの見方、行動を変えるべきだ。さもなくば人生は君から遠ざかってしまうだろう」と書いている。1921年、結核の療養のためイタリアのソレントに移り住んだ。
アレクサンドル・ソルジェニーツィンによれば、ゴーリキーのロシアへの帰還は、イタリアでの暮らしに困ってのことだった。ソレントで、ゴーリキーは貧しくみじめな暮らしを余儀なくされた。1928年以降、何度かソビエト連邦を訪れるようになり、1932年にはスターリンの個人的な求めに応じてロシアに帰った。
ファシスト政権のイタリアからゴーリキーが戻ったのは、ソビエト政府にとっては格好の宣伝材料となった。彼はレーニン勲章を受け、モスクワの邸宅(現在はゴーリキー博物館となっている)と郊外の別荘を贈られる。このとき、モスクワのトゥヴェルスカヤ通りがゴーリキー通りと改められ、生地のニジニ・ノヴゴロド市もゴーリキー市と改称された(1990年まで)。ゴーリキーはソビエト作家同盟を設立し、その議長に就任する。白海・バルト海運河の工事を視察し、他の作家たちと共に『スターリン記念白海・バルト運河―1931-1934年の建設の歴史』を1934年に編纂した。ここでは、運河工事を全面的に称賛し、工事従事者を完全に犯罪者扱いするなど、完全にスターリンの盲従者としての姿勢を披露している[2]。
1934年、セルゲイ・キーロフが死に、スターリンによる粛清が始まると、ゴーリキーは自宅に軟禁されるようになった。1935年、息子マクシム・ペシコフを亡くした翌年、1936年にモスクワで没する。両者とも毒殺された疑いがあるが、確実なことは分かっていない。
ソ連崩壊後は、上記の運河建設礼賛などスターリンへ盲従した点を厳しく批判されている[2]。
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スターリンと共に
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臨終の床でのゴーリキー
作品
- マカル・チュドラ(1892年)
- チェルカシュ(1895年)
- フォマ・ゴルデーエフ(1899年)
- 母(1907年)… 1926年にフセヴォロド・プドフキン監督により映画化される[3]。
- どん底(1902年)
- 海燕の歌(1901年)
脚注
- ^ 「チェーホフ」(ガリマール新評伝シリーズ 世界の傑物5)p339-340 ヴィリジル・タナズ著 谷口きみ子・清水珠代訳 祥伝社 2010年12月20日初版第1刷発行
- ^ a b 勝野金政のゴーリキー批判、藤井一行
- ^ J・アンネンコフ『同時代人の肖像 上』現代思潮社、1971年、P.38頁。
関連項目
- ニジニ・ノヴゴロド
- ゴーリキイ公園
- 社会主義リアリズム
- マリヤ・ザクレフスカヤ - ゴーリキーの最後の愛人。ゴーリキー暗殺説の1つはザクレフスカヤによるもの。