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「ボリス・スチュルメル」の版間の差分

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== 人物・略歴 ==
== 人物・略歴 ==
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[[ニコライ2世 (ロシア皇帝)|ニコライ2世]]時代の首相(在任:[[1916年]][[2月2日]] - [[11月23日]])。[[グリゴリー・ラスプーチン|ラスプーチン]]のシンパの1人であったことから、[[イワン・ゴレムイキン]]の後任として、[[アレクサンドラ・フョードロヴナ (ニコライ2世皇后)|アレクサンドラ皇后]]とラスプーチンの推挙により、首相の地位に就いた。同年3月に内相、5月に外相を兼摂した。


11月国会([[ドゥーマ]])から総辞職を求められ同意、退陣した。1917年2月[[ロシア革命]]後、[[臨時政府]]によって逮捕されて[[ペトロパヴロフスク要塞]]に収監され、同年9月9日に持病の[[尿毒症]]が悪化して{{仮リンク|クレスティ監獄|en|Kresty Prison}}で獄死した。
11月国会([[ドゥーマ]])から総辞職を求められ同意、退陣した。1917年2月[[ロシア革命]]後、[[臨時政府]]によって逮捕されて[[ペトロパヴロフスク要塞]]に収監され、同年9月9日に持病の[[尿毒症]]が悪化して{{仮リンク|クレスティ監獄|en|Kresty Prison}}で獄死した。

2021年6月13日 (日) 09:55時点における版

男爵
ボリス・ウラジーミロヴィチ・スチュルメル
ロシア帝国首相
任期
1916年2月2日 – 1916年11月23日
君主ニコライ2世
前任者イヴァン・ゴレムイキン
後任者アレクサンドル・トレポフ
ロシア帝国外務大臣
任期
1916年7月7日 – 1916年11月10日
前任者セルゲイ・サゾーノフ
後任者ニコライ・ポクロフスキー
ロシア帝国内務大臣
任期
1916年3月3日 – 1916年7月7日
前任者アレクセイ・フヴォストフ
後任者アレクセイ・フヴォストフ
ヤロスラヴリ県知事
任期
1896年7月30日 – 1902年8月10日
前任者en:Alexey Fride
後任者en:Alexey Rogovich
ノヴゴロド県知事
任期
1894年4月14日 – 1896年7月30日
前任者en:Alexander Molosolov
後任者en:Otton Medem
個人情報
生誕 (1848-07-27) 1848年7月27日
ロシア帝国の旗 ロシア帝国 トヴェリ州 Baykovo
死没1917年9月2日(1917-09-02)(69歳没)
ロシア帝国の旗 ロシア帝国 ペトログラード(サンクトペテルブルク)
国籍ロシア帝国
出身校サンクトペテルブルク州立大学


ボリス・ウラジーミロヴィチ・スチュルメルロシア語: Борис Владимирович Штюрмер, Boris Vladimirovič Štjurmer (Stürmer), 1848年7月27日 - 1917年9月9日)は、帝政ロシア政治家シテュルメルシチュルメルとも。

人物・略歴

ボリス・スチュルメル

ニコライ2世時代の首相(在任:1916年2月2日 - 11月23日)。ラスプーチンのシンパの1人であったことから、イワン・ゴレムイキンの後任として、アレクサンドラ皇后とラスプーチンの推挙により、首相の地位に就いた。同年3月に内相、5月に外相を兼摂した。

11月国会(ドゥーマ)から総辞職を求められ同意、退陣した。1917年2月ロシア革命後、臨時政府によって逮捕されてペトロパヴロフスク要塞に収監され、同年9月9日に持病の尿毒症が悪化してクレスティ監獄英語版で獄死した。

先代
イワン・ゴレムイキン
ロシアの首相
1916年2月2日 - 1916年11月23日
次代
アレクサンドル・トレポフ
先代
セルゲイ・サゾーノフ
ロシア外務大臣
1916年
次代
ニコライ・ポクロフスキー