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「赤色テロ」の版間の差分

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レーニンは、早くから革命には[[テロリズム]]は必要であると考えていた。彼は[[フランス革命]]や自らの兄[[アレクサンドル・ウリヤノフ]]も信奉した[[19世紀後半のロシアの革命組織#ロシアのニヒリズム|ロシアの虚無主義]]、[[セルゲイ・ネチャーエフ]]を研究し、熱心にテロを奨励したと言われている。
レーニンは、早くから革命には[[テロリズム]]は必要であると考えていた。彼は[[フランス革命]]や自らの兄[[アレクサンドル・ウリヤノフ]]も信奉した[[19世紀後半のロシアの革命組織#ロシアのニヒリズム|ロシアの虚無主義]]、[[セルゲイ・ネチャーエフ]]を研究し、熱心にテロを奨励したと言われている。


1918年8月30日、[[社会革命党|左翼社会革命党]]の党員{{仮リンク|ファニヤ・カプラン|en|Fanny Kaplan}}がレーニンを狙撃した暗殺未遂事件が発生すると、同年[[9月]]にレーニンは「赤色テロ」政令を発して、「白色テロには赤色テロで応じる」ことを宣言した。しかし既にボルシェビキによるテロはいたる所で行われており、この宣言はそれを正当化した形であった。レーニンは、[[秘密警察]][[チェーカー]](後の[[ソ連国家保安委員会|KGB]])を動員して反対派を徹底的に抹殺。国民に[[密告]]を奨励して「[[反革命]]」とみなされた人物を次々と逮捕・処刑した。[[ロマノフ朝]]最後の皇帝であった[[ニコライ2世]]一家も[[エカテリンブルク]]で全員虐殺された。この他の皇族や、資産家、[[クラーク (農家)|クラーク]]なども、[[亡命]]できた者を除いて「[[人民の敵]]」というレッテルを張られて裁判もなしに殺害された。これらの事実は欧米に衝撃を与え、[[ナチズム]]などの[[反共主義]]が広がる要因となった。
1918年8月30日、[[社会革命党|左翼社会革命党]]の党員{{仮リンク|ファニヤ・カプラン|en|Fanny Kaplan}}がレーニンを狙撃した暗殺未遂事件が発生すると、同年[[9月]]にレーニンは「赤色テロ」政令を発して、「白色テロには赤色テロで応じる」ことを宣言した。しかし既にボルシェビキによるテロはいたる所で行われており、この宣言はそれを正当化した形であった。レーニンは、[[秘密警察]][[チェーカー]](後の[[ソ連国家保安委員会|KGB]])を動員して反対派を徹底的に抹殺。国民に[[密告]]を奨励して「[[反革命]]」とみなされた人物を次々と逮捕・処刑した。[[ロマノフ朝]]最後の皇帝であった[[ニコライ2世 (ロシア皇帝)|ニコライ2世]]一家も[[エカテリンブルク]]で全員虐殺された。この他の皇族や、資産家、[[クラーク (農家)|クラーク]]なども、[[亡命]]できた者を除いて「[[人民の敵]]」というレッテルを張られて裁判もなしに殺害された。これらの事実は欧米に衝撃を与え、[[ナチズム]]などの[[反共主義]]が広がる要因となった。


===カンボジア===
===カンボジア===

2021年6月13日 (日) 10:14時点における版

赤色テロ(せきしょくテロ)とは、革命勢力や反政府勢力、共産主義政府が起こすテロである。対義語で、復古勢力や政府が起こすテロは白色テロと呼ばれる。

語源

「白色テロ」「赤色テロ」という用語はカール・マルクスの文献においても見られるが、本格的に行われるようになったのは、ロシア革命ウラジーミル・レーニンが樹立したボリシェヴィキ政権からである。

事件例

ロシア

レーニンは、早くから革命にはテロリズムは必要であると考えていた。彼はフランス革命や自らの兄アレクサンドル・ウリヤノフも信奉したロシアの虚無主義セルゲイ・ネチャーエフを研究し、熱心にテロを奨励したと言われている。

1918年8月30日、左翼社会革命党の党員ファニヤ・カプラン英語版がレーニンを狙撃した暗殺未遂事件が発生すると、同年9月にレーニンは「赤色テロ」政令を発して、「白色テロには赤色テロで応じる」ことを宣言した。しかし既にボルシェビキによるテロはいたる所で行われており、この宣言はそれを正当化した形であった。レーニンは、秘密警察チェーカー(後のKGB)を動員して反対派を徹底的に抹殺。国民に密告を奨励して「反革命」とみなされた人物を次々と逮捕・処刑した。ロマノフ朝最後の皇帝であったニコライ2世一家もエカテリンブルクで全員虐殺された。この他の皇族や、資産家、クラークなども、亡命できた者を除いて「人民の敵」というレッテルを張られて裁判もなしに殺害された。これらの事実は欧米に衝撃を与え、ナチズムなどの反共主義が広がる要因となった。

カンボジア

1976年に親米政権を打倒して政権を掌握したクメール・ルージュは、農村部から都市部に至るまで、反対派を大量に殺戮した。クメール・ルージュによる大量殺戮は、1979年ベトナム軍が介入するまで続いた。

関連項目