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== 死後 ==
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ミクルーホ=マクライの[[未亡人]]は子どもと共にシドニーへ戻り、[[1917年]]までロシアより[[年金]]が支給されていた。年金は最初[[アレクサンドル3世 (ロシア皇帝)|アレクサンドル3世]]により、その後[[ニコライ2世]]により割り当てられた。なお、息子の1人アレキサンダーは[[リチャード・オコナー]]の娘と結婚した。
ミクルーホ=マクライの[[未亡人]]は子どもと共にシドニーへ戻り、[[1917年]]までロシアより[[年金]]が支給されていた。年金は最初[[アレクサンドル3世 (ロシア皇帝)|アレクサンドル3世]]により、その後[[ニコライ2世 (ロシア皇帝)|ニコライ2世]]により割り当てられた。なお、息子の1人アレキサンダーは[[リチャード・オコナー]]の娘と結婚した。


ミクルーホ=マクライの名は[[世界]]各地で記念されている。オーストラリアでは[[1899年]]、海洋生物学局の建物が[[士官]]向け[[バラック]]として防衛省により徴発された。しかし、ミクルーホ=マクライ協会はセンターに対し、彼の功績を称えて歴史的建造物に指定するよう掛け合った<ref>[http://www.gnb.nsw.gov.au/name_search/extract?id=KWwGvqsyuj Miklouho-Maclay Park]</ref> なお、ミクルーホ=マクライの没後100周年を記念して、マクライ博物館側の[[シドニー大学]]で[[胸像]]の除幕式が行われた<ref>[http://www.nswtitration.com/Awards.html Competition Awards] The ''de Miklouho-Maclay Prize for Excellence in Chemistry''</ref>。
ミクルーホ=マクライの名は[[世界]]各地で記念されている。オーストラリアでは[[1899年]]、海洋生物学局の建物が[[士官]]向け[[バラック]]として防衛省により徴発された。しかし、ミクルーホ=マクライ協会はセンターに対し、彼の功績を称えて歴史的建造物に指定するよう掛け合った<ref>[http://www.gnb.nsw.gov.au/name_search/extract?id=KWwGvqsyuj Miklouho-Maclay Park]</ref> なお、ミクルーホ=マクライの没後100周年を記念して、マクライ博物館側の[[シドニー大学]]で[[胸像]]の除幕式が行われた<ref>[http://www.nswtitration.com/Awards.html Competition Awards] The ''de Miklouho-Maclay Prize for Excellence in Chemistry''</ref>。

2021年6月13日 (日) 10:19時点における版

ニコラス・ミクルーホ=マクライ

ニコライ・ミクルーホ=マクライNicholay Miklouho-Maclayロシア語: Никола́й Никола́евич Миклу́хо-Макла́йウクライナ語: Мико́ла Микола́йович Миклу́хо-Макла́йNicolai Nicolaevich de Miklouho-Maclayとも[1][2]1846年 - 1888年)はウクライナ[3]ドイツ及びポーランドロシア人民族学者、人類学者、生物学者。

家系及び幼年時代

ロシア帝国ノヴゴロド付近の飯場Языково)にて、モスクワ・サンクトペテルブルク鉄道建設現場で働く土木技術者の子として生まれる。ウクライナ人[4]は、オカキフ要塞攻略など露土戦争中の武勲により帝国貴族の称号を授けられた、ツァポロツィアン・コサックステパン・ミクルーハの末裔であった[3]のエカチェリーナ・セメノヴナはドイツ系ポーランド人(彼女の3人の兄弟は1863年1月蜂起に参加)。

ニコラスはサンクトペテルブルク初等中学校に学んだ後、サンクトペテルブルク大学へ進学。しかし、学生運動参加により大学を放校処分となったため、ヨーロッパへ遊学し、イェーナ大学にて動物学者エルンスト・ヘッケルの門下生となった[5]。生物学者のアントン・ドーンとも親交を深め、後の研究所設立のアイディアを着想することとなる。

ニューギニア

1871年以降、ニューギニア北東部アストロラーブ湾岸へ単身乗り込み調査を開始。3年程度現地で過ごしながら、人類学的に貴重なフィールドワークを数多く残すと共に、資料収集に当たった[5]。ドイツがニューギニアに侵攻した際にも、当時の宰相オットー・フォン・ビスマルクに向け抗議の電報を打ったことでも知られる[5]

オーストラリア

ミクルーホ=マクライ(1880年オーストラリアクイーンズランド州にて)。「探険家」の格好をした当時としては典型的な写真である。背景に見えるユーカリに注目

ミクルーホ=マクライはサンクトペテルブルクを離れ、蒸気船ビチャス号でオーストラリアへ向かった。1878年7月18日シドニーに到着。到着から数日後にリニアン協会と接触し動物学センター設立を申し出、同年9月には提案が承認された。海洋生物学局として知られる同センターは、シドニーの著名な建築家であるジョン・カークパトリックが建設を行った。グレーター・シドニーの西側ワトソンズ湾に位置するこの施設は、オーストラリア初の海洋生物学研究所であった[1]。この間、ジョン・ロバートソンニューサウスウェールズ州首相マーガレット=エンマ・ロバートソンと結婚する。この間フィリピンインドネシアへ折に触れて訪れており、現地の原住民と共に暮らしては、生活様式なり習慣論文にまとめた。

奴隷貿易への抵抗

チャールズ・ダーウィンの最初期の信奉者の1人であったミクルーホ=マクライは、様々な人種が様々なに属するという当時流行の見方(人種主義)を、比較解剖学研究に基づきロシア人類学で初めて論駁した学者として、今日では最も記憶されるところである[6]。また、奴隷貿易にも異を唱えた。1879年以降は西太平洋高等弁務官のアーサー・ゴードン卿手紙を書き送り、マクライ海岸の友人土地所有権を保護し、南太平洋で武器の不正売買を辞めるよう訴えた[7]

晩年

1887年家族と共にオーストラリアを離れサンクトペテルブルクへ帰国、ロシア地理学協会に著書を寄贈した。当時体調不良であったため二度と戻らぬ旅であった。セルゲイ・ボトキンの処置にも関わらず、脳腫瘍のためサンクトペテルブルクにて42歳で死去。ヴォルコヴォ墓地に埋葬され、頭蓋骨はサンクトペテルブルク軍事医学アカデミーへ送られた。

死後

ミクルーホ=マクライの未亡人は子どもと共にシドニーへ戻り、1917年までロシアより年金が支給されていた。年金は最初アレクサンドル3世により、その後ニコライ2世により割り当てられた。なお、息子の1人アレキサンダーはリチャード・オコナーの娘と結婚した。

ミクルーホ=マクライの名は世界各地で記念されている。オーストラリアでは1899年、海洋生物学局の建物が士官向けバラックとして防衛省により徴発された。しかし、ミクルーホ=マクライ協会はセンターに対し、彼の功績を称えて歴史的建造物に指定するよう掛け合った[8] なお、ミクルーホ=マクライの没後100周年を記念して、マクライ博物館側のシドニー大学胸像の除幕式が行われた[9]

ミクルーホ=マクライに因んで名付けられた「マクライ海岸」は、現在もパプアニューギニア北西部の海岸の名に用いられている[10]1870年代にミクルーホ=マクライが滞在した場所からそれほど離れていない、同国のマダンには、彼の名を冠した通りがある[11]

また、故国ロシアには彼の功績を称えて、その名を冠した民族学・人類学研究所やモスクワ南西部の通り(パトリス・ルムンバ名称民族友好大学が立地[12])がある。

著書

脚注

  1. ^ a b Marine Biological Station (former) Archived 2008年7月27日, at the Wayback Machine.
  2. ^ Marine Biological Station — Camp Cove
  3. ^ a b Thomassen, E. S. (1882), A Biographical Sketch of Nicholas de Miklouho Maclay the Explorer, Brisbane. Document held in the State Library of New South Wales
  4. ^ uk:Миклуха
  5. ^ a b c 小林泉加藤めぐみ石川栄吉越智道雄百々佑利子監修『新版 オセアニアを知る事典』平凡社、2010年5月、p.306
  6. ^ Shnukal, A. (1998), 'N. N. Miklouho-Maclay in Torres Strait', Australian Aboriginal Studies, Vol. 1998, 1998)
  7. ^ 'Baron Maclay and the New Guinea Natives', The Brisbane Courier, Tuesday 27 November 1883]
  8. ^ Miklouho-Maclay Park
  9. ^ Competition Awards The de Miklouho-Maclay Prize for Excellence in Chemistry
  10. ^ Maclay Coast, Papua New Guinea on Google Maps.
  11. ^ Ogloblin (1998), p. 487.
  12. ^ Miklouho-Maclay street, Moscow on Google Maps

参考文献

  • Ogloblin, A. K. (1998) 'Commemorating N.N. Miklukho-Maclay (Recent Russian publications)', in Perspectives on the Bird's Head of Irian Jaya, Indonesia: Proceedings of the Conference, pages.487–502. 1998. ISBN 9042006447. Partial view on Google Books.
  • Webster, E. M. (1984). The Moon Man: A Biography of Nikolai Miklouho-Maclay. University of California Press, Berkeley. 421 pages. ISBN 0-520-05435-0.

外部リンク

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