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「龍角寺」の版間の差分

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*[[重要文化財]](国指定) - 1933年(昭和8年)1月23日指定
*[[重要文化財]](国指定) - 1933年(昭和8年)1月23日指定
**銅造薬師如来坐像 - 頭部のみ[[飛鳥時代|白鳳期]]の作。体部は元禄5年(1692年)の火災後の再鋳である。[[深大寺]]の銅造釈迦如来像とともに、関東地方に残る白鳳期の仏像の稀少な例として注目される。奉安殿と称される収蔵庫に収められており、拝観には栄町役場産業課への事前予約が必要。
**銅造薬師如来坐像 - 頭部のみ[[飛鳥時代|白鳳期]]の作。体部は元禄5年(1692年)の火災後の再鋳である。[[深大寺]]の銅造釈迦如来像とともに、関東地方に残る白鳳期の仏像の稀少な例として注目される。奉安殿と称される収蔵庫に収められており、拝観には栄町役場産業課への事前予約が必要。
*[[史跡]]([[関東の史跡一覧#千葉県|国指定]]) - 1933年(昭和8年)4月13日指定
*[[史跡]]([[関東地方の史跡一覧#千葉県|国指定]]) - 1933年(昭和8年)4月13日指定
**龍角寺境内の塔址 - <!--建立当初は33メートル程の三重の塔が建っていたと推考される。(龍角寺縁起による)。--><!--三重塔で「33メートル」は高すぎるのでは?-->現存する花崗岩は、三重塔の心礎(塔の中心を通る柱の基礎)である。またこの心礎は「不増・不滅の石」といわれ、柱が立っていた穴に溜まった水は、大雨でも日照りでも増減しなかったと言い伝えられている。
**龍角寺境内の塔址 - <!--建立当初は33メートル程の三重の塔が建っていたと推考される。(龍角寺縁起による)。--><!--三重塔で「33メートル」は高すぎるのでは?-->現存する花崗岩は、三重塔の心礎(塔の中心を通る柱の基礎)である。またこの心礎は「不増・不滅の石」といわれ、柱が立っていた穴に溜まった水は、大雨でも日照りでも増減しなかったと言い伝えられている。
*[[千葉県指定文化財一覧#考古資料|千葉県指定有形文化財]] - 1965年(昭和40年)4月27日指定
*[[千葉県指定文化財一覧#考古資料|千葉県指定有形文化財]] - 1965年(昭和40年)4月27日指定

2021年6月20日 (日) 01:35時点における版

龍角寺

境内
所在地 千葉県印旛郡栄町龍角寺239
位置 北緯35度49分59.49秒 東経140度16分11.26秒 / 北緯35.8331917度 東経140.2697944度 / 35.8331917; 140.2697944
山号 天竺山
宗派 天台宗
本尊 薬師如来
創建年 伝・和銅2年(709年
中興年 承久2年(1220年
中興 上総介平常秀
正式名 天竺山 寂光院 龍角寺
文化財 銅造薬師如来坐像(国の重要文化財)
龍角寺境内の塔址(国の史跡)
龍角寺出土遺物(千葉県指定有形文化財)
法人番号 7040005006230 ウィキデータを編集
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龍角寺(りゅうかくじ)は、千葉県印旛郡栄町龍角寺にある天台宗の寺院。天竺山寂光院と号し、本尊は薬師如来

発掘調査の結果、7世紀にさかのぼる伽藍跡が検出されており、創建年代の古さという点では、関東地方でも屈指の古寺である。

歴史

『佐倉風土記』によれば、

伝、和銅二年、龍女化現、奉金像薬師、来建寺、天平二年、釈命上人再興諸堂、三年天下旱魃、命奉勅説法祈雨、一叟長可八尺、進曰、我小龍常居南池、深浴上人法沢、何惜一躯、請以身換雨、後必見我骸而証之、即是為大龍所罰也、忽然而去、雨従至焉。後七日、果有龍身、分裂三段、頭墜于此、及金字写経、併埋堂下、寺始曰龍閣、於是改龍角。腹墜干印西龍腹寺、其尾墜予香取郡、今大寺村龍尾寺是也。(「利根川図志赤松宗旦著)

和銅2年(709年)竜女が現れ、金の薬師如来像を祀ったのが創建と伝わり、天平2年(730年)釈命上人が諸堂宇を再興したとされる。翌天平3年(731年)国中が旱魃となった時、釈命上人はを奉じを説きを祈った。すると身の丈8ばかりの老人が進み出て、わたしは印旛沼にいる小ですが、深く上人の法沢に浴しております。どうしてわが身を惜しんだりいたしましょう。どうか、身を以って雨に換えさせてください。のち、わたしの死骸を目にするでしょうが、それは大龍に罰せられたのです、といって立ち去った。雨がすぐに降り出した。そして、7日後、3つに裂かれた龍の姿が目にはいった。大龍の許しを受けずに雨を降らせたため、小龍は3つに裂かれてしまったのである。その頭の部分はこの地に落ち、金字で経を写し一緒に堂下に埋め、龍角寺と改称したという。また、龍の腹が落ちた地の寺が龍腹寺(千葉県印西市竜腹寺)、尾が落ちた地の寺は龍尾寺(千葉県匝瑳市大寺)という名前になったという[注 1][1]

『佐倉風土記』の伝える上記の草創伝承の当否とは別に、当地には古代から仏教寺院が存在したことは間違いない。発掘調査によって、南大門から入り、中門を抜け、左手に金堂、右手に、そしてその奥に講堂が配されるという、いわゆる「法起寺式伽藍配置」の遺構が検出され、創建瓦は周縁に三重園文のある単弁八葉蓮華文の山田寺式の系譜を持つ軒丸瓦である。関東でもいくつかの寺院跡で山田寺式の軒丸瓦が出土しているが、その中でも最も古い様式をもっており、おそらくその年代は7世紀後半でも古い段階に位置づけることができよう[2]

寺の南には、最後の前方後円墳といわれる浅間山古墳や、畿内大王を凌駕する終末期最大の方墳龍角寺岩屋古墳などがあり[3]馬来田の上総大寺廃寺(千葉県木更津市)、武社の真行寺廃寺(同山武市)、上毛野の山王廃寺(群馬県前橋市)などとともに[注 2]国造制から律令制への移行段階に建立された印波国造の領域の初期寺院とされ、畿内以外では最古にあたる寺院と考えられている[2]

龍角寺岩屋古墳は典型的な畿内型の終末期古墳であり、畿内中枢との密接的な関係なしに理解できないという。方墳は用明天皇陵の春日向山古墳や、推古天皇陵である山田高塚古墳をはじめ、蘇我馬子の墓の可能性の高い石舞台古墳といったように、蘇我氏関係の墳墓に採用されていること、さらに規模においてはそれらを凌駕しており、蘇我氏がその造営に深く係っていたと推測される。そして龍角寺の創建瓦も蘇我一族の蘇我倉山田石川麻呂によって創建された山田寺式の瓦を採用していることから、龍角寺の造立者は龍角寺岩屋古墳の被葬者の系譜下にあり、蘇我氏系の氏族であったとする見解もある[2]

寺は中世には衰微していたらしく、承久2年(1220年)上総介平常秀が再建、文明年間(1469年-1486年)、永正年間(1504年-1520年)などに焼失を繰り返し、千葉勝胤が再興したという[4]

戦国時代には千葉氏外護を受け、天正年間(1573年-1593年)には千葉邦胤が修造したと伝える。天正19年(1591年)には徳川家康より20石を与えられている[4]

度重なる火災により古い建物は残っておらず、金堂跡、仁王門跡、塔跡などにより、在りし日の姿をしのぶことができるのみとなっている。

文化財

  • 重要文化財(国指定) - 1933年(昭和8年)1月23日指定
    • 銅造薬師如来坐像 - 頭部のみ白鳳期の作。体部は元禄5年(1692年)の火災後の再鋳である。深大寺の銅造釈迦如来像とともに、関東地方に残る白鳳期の仏像の稀少な例として注目される。奉安殿と称される収蔵庫に収められており、拝観には栄町役場産業課への事前予約が必要。
  • 史跡国指定) - 1933年(昭和8年)4月13日指定
    • 龍角寺境内の塔址 - 現存する花崗岩は、三重塔の心礎(塔の中心を通る柱の基礎)である。またこの心礎は「不増・不滅の石」といわれ、柱が立っていた穴に溜まった水は、大雨でも日照りでも増減しなかったと言い伝えられている。
  • 千葉県指定有形文化財 - 1965年(昭和40年)4月27日指定
    • 龍角寺出土遺物 - 1934年(昭和9年)の塔跡保存工事により発掘された。瓦は奈良時代前期のものといわれている。
  • その他
    • 校倉作り資料庫 - 明治初期の建造で、当初、宮内庁下総御料牧場にあったが、空港建設に伴い境内に移築された。

脚注

注釈

  1. ^ 印西市の木下廃寺と匝瑳市の大寺廃寺も、発掘調査の結果、7世紀後半の創建であることが明らかになっている(高橋一夫「東国の古代豪族と仏教」『東国と大和王権』 227-258頁)。
  2. ^ 龍角寺岩屋古墳と同時期に、馬来田、武社、上毛野では、それぞれ、松面古墳駄ノ塚古墳総社愛宕山古墳などの終末期の大方墳が営まれている(白石太一郎「西国と東国の後期古墳」『王権をめぐる戦い』 240-254頁)。

出典

参考文献

  • 高橋莞爾「印旛沼の龍伝説に学ぶ」『環境情報研究』第15巻、敬愛大学千葉敬愛短期大学、2007年11月、103-109頁、NAID 1100070563062016年9月24日閲覧 
  • 原島礼二金井塚良一編 編『東国と大和王権』吉川弘文館、1994年1月。ISBN 4-642-02186-8 
  • 白石太一郎『東国の古墳と古代史』学生社、2007年7月。ISBN 978-4-311-20298-8 
  • 平凡社地方資料センター編集 編『日本歴史地名大系 12 千葉県の地名』平凡社、1996年7月。ISBN 978-4-582-49012-1 
  • 岸俊男編 編『王権をめぐる戦い』中央公論社、1986年11月。ISBN 4-12-402539-4 

関連資料

関連項目

外部リンク