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=== 音楽プロデューサー、ディレクターとして ===
=== 音楽プロデューサー、ディレクターとして ===
化粧品キャンペーン音楽のプロデュースで、多数のヒット曲を生み出す。<br />1978年、音楽アーティストの道を断念し、広告代理店に入社。最初に手掛けた仕事は[[カネボウ化粧品]]の1978年夏のキャンペーン・ソングのプロデュース。パイシス時代のネットワークを活かし、アルファ・レコードの新人グループ、「[[サーカス (歌手)|サーカス]]」を起用した「[[Mr.サマータイム]]」が[[オリコンチャート|オリコン]]・ヒットチャートの1位を獲得。(競合の[[資生堂]]の[[矢沢永吉]]「[[時間よ止まれ (矢沢永吉の曲)|時間よ止まれ]]」の売り上げを上回る)その後、CMクリエイティブ・ディレクターとして数々のCM制作に携わる<ref name="P222"/>。
化粧品キャンペーン音楽のプロデュースで、多数のヒット曲を生み出す。<br />1978年、音楽アーティストの道を断念し、広告代理店に入社。最初に手掛けた仕事は[[カネボウ化粧品]]の1978年夏のキャンペーン・ソングのプロデュース。パイシス時代のネットワークを活かし、アルファ・レコードの新人グループ、「[[サーカス (コーラスグループ)|サーカス]]」を起用した「[[Mr.サマータイム]]」が[[オリコンチャート|オリコン]]・ヒットチャートの1位を獲得。(競合の[[資生堂]]の[[矢沢永吉]]「[[時間よ止まれ (矢沢永吉の曲)|時間よ止まれ]]」の売り上げを上回る)その後、CMクリエイティブ・ディレクターとして数々のCM制作に携わる<ref name="P222"/>。


=== 著書出版 ===
=== 著書出版 ===
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== 広告制作会社時代 ==
== 広告制作会社時代 ==
; CM音楽プロデュース作品
; CM音楽プロデュース作品
* [[サーカス (歌手)|サーカス]]「[[Mr.サマータイム]]」
* [[サーカス (コーラスグループ)|サーカス]]「[[Mr.サマータイム]]」
* [[甲斐バンド]]「[[ビューティフル・エネルギー]]」
* [[甲斐バンド]]「[[ビューティフル・エネルギー]]」
* [[山下久美子]]「[[赤道小町ドキッ]]」(ACC CM音楽部門秀作賞受賞)
* [[山下久美子]]「[[赤道小町ドキッ]]」(ACC CM音楽部門秀作賞受賞)

2021年7月6日 (火) 11:28時点における版

ポール岡田(又は岡田ポール、本名・長岡和彦、1947年8月13日 - )は、日本ボーカリスト

滋賀県大津市出身。1969年5月、GSバンド、ザ・カーナビーツの2代目ボーカリストとして加入するが5ヶ月でグループは解散する。解散後、1969年12月から翌1970年2月末まで渋谷東横劇場で上演された日本初のロック・ミュージカル「HAIR」にウーフ役で出演。その後は再びボーカリストとしてソロ、男女デュオなどで数枚のレコードをリリースした。

1970年代末、アーティスト活動を止め、本名の長岡和彦として広告業界へ転身。広告代理店の社員となり、主にCMクリエイティブ・ディレクターとして音楽業界とも関わりを続けた。

息子は九州朝日放送アナウンサー・長岡大雅である。

経歴

アマチュア時代

1967年春の甲南大学文学部入学後に、滋賀大学教育学部附属中学校滋賀県立膳所高等学校の同窓生で一学年後輩の(後にビーインググループ創業者)の長戸大幸をリーダーにしたアマチュア・バンド「WEEDS」を結成。当時の担当はサイド・ギター&ボーカルだった。

「WEEDS」は大阪のジャズ喫茶(ライブハウス)「パラカ」「ナンバ一番」や京都の「ニューデルタ」などにも出演した。

大学2年時に、東京の音楽プロダクションのスカウトを受け、大学を休学して上京する。

その後、そのプロダクションを辞めて、1968年11月に「ザ・カーナビーツ」と同じ所属事務所の「キャンディーズ」という大阪出身のバンドにボーカリストとして参加。バンドのリーダーは、後に「シーチャン・ブラザーズ」、「上田正樹&サウス・トゥ・サウス」などでドラマーとして活躍する井上茂

「キャンディーズ」は「銀座アシベ」「新宿アシベ」「池袋ドラム」など都内の人気ジャズ喫茶を中心にライブ活動をしていた。

1969年4月に「ザ・カーナビーツ」のボーカル担当の臼井啓吉が脱退したために、その後任の2代目ボーカリストとして抜擢された[1]

ザ・カーナビーツ時代

1969年4月、ザ・カーナビーツに2代目ボーカリストとして加入。
テレビ番組ではフジテレビ「ザ・ヒットパレード」にも出演した。TBSテレビヤング720」ではレッド・ツェッペリンの「Communication Breakdown」をソロで歌唱した。当時のクレジットは<永岡和彦>または<ポール岡田>であった。

             計10枚のシングル・レコードを発売し、1969年9月にザ・カーナビーツは解散する。最後の演奏は銀座ACBの夜の部であった[1][2]

ヘアーへの出演

1969年12月、日本初のロック・ミュージカル「ヘアー」に出演。同年11月からの長期リハーサルに、寺田稔加橋かつみ深水龍作小坂忠堀内麻九大野真澄、萩かづこ(安藤和津)、シー・ユー・チェンなどと共に参加する。

1969年12月5日、渋谷東横劇場で「HAIR」は開幕する。主催は大手映画会社の松竹であった。公演途中から主役級のひとり「ウーフ」役を大野真澄とダブルキャストで演じるが、1970年2月、大麻事件の為に当初予定されていた「HAIR」大阪朝日座公演が中止され、延べ11万人の観客を動員した革命的ロック・ミュージカル「HAIR」の日本公演は3ヶ月で終わった[1]

ソロデビュー

  • 1970年11月、東宝レコードから第1期アーティストとして「聖少女」でソロデビュー。
その頃、作曲家小林亜星からのオファーで多数のTVCMソングを歌唱する。代表作品:ハウス食品「ミルク・シャービック」、ライオン油脂「エメロン・シャンプー」。

パイシスのデビュー

ファースト・シングルは「悲しみのティ・パーティ/アニマ・ミア」。カップリングの「アニマ・ミア」は、イタリアのソフトロック・グループ「Cugini di Campagna」のANIMA MIAのカバー曲。当初はA面を予定されていたので、アレンジ&キーボードに深町純、ギターに高中正義、ドラムスは原田祐臣という顔ぶれ。
この時のクレジットは本名の長岡和彦になっている。
A面の作詞作曲は荒井由実、アレンジは松任谷正隆。コーラスにはハイ・ファイ・セットが参加[1]

音楽プロデューサー、ディレクターとして

化粧品キャンペーン音楽のプロデュースで、多数のヒット曲を生み出す。
1978年、音楽アーティストの道を断念し、広告代理店に入社。最初に手掛けた仕事はカネボウ化粧品の1978年夏のキャンペーン・ソングのプロデュース。パイシス時代のネットワークを活かし、アルファ・レコードの新人グループ、「サーカス」を起用した「Mr.サマータイム」がオリコン・ヒットチャートの1位を獲得。(競合の資生堂矢沢永吉時間よ止まれ」の売り上げを上回る)その後、CMクリエイティブ・ディレクターとして数々のCM制作に携わる[1]

著書出版

音楽活動再開

著書の出版後、2010年1月から40年振りに音楽ライブ活動を再開。渋谷クロコダイルでの「1969という名のLIVE」シリーズを1969スペシャル・バンドのサポートで開催中(年4回)。

2010年6月には、本の出版がきっかっけとなって実現したHAIR日本公演のトライブの音楽LIVE「HAIR1969LIVE」を開催し、その後も2010年12月、2011年6月とLIVEを開催している。

約40年の封印を解いて結集した「HAIR」1969年東横劇場公演出演トライブは、ポール岡田の他、「加橋かつみ大野真澄深水龍作堀内マーク寺田稔安藤和津坂本めぐみ増田光子。バックバンドも当時のメンバーも柳田ヒロ水谷公生江藤勲などが参加している。

2011年7月からは、ブライアン片山(ギター、シタール、ダルシマー、ハープ、リコーダーetc)、TOBY(ベース)、MIHO(ギター)、TAKA(ドラムス)の誘いで、ブライアン・ジョーンズが在籍していた時期のザ・ローリング・ストーンズの楽曲だけをカバーするバンド東京Jajouka(ジャジューカ)の結成にも参加し、リード・ボーカルを担当している。

広告制作会社時代

CM音楽プロデュース作品

CMプランナーとしても、セルジオ・メンデス&ブラジル77(オーディコロン)、シルヴィ・ヴァルタンコカ・コーラ・ライト)などの海外の音楽アーティスト出演CMも制作[1]

ディスコグラフィー[1]

※ ザ・カーナビーツは、ザ・カーナビーツ#ディスコグラフィを参照。

岡田ポール名義

シングル

発売日 規格 規格品番 タイトル 作詞 作曲 編曲
東宝レコード
1970年10月 EP AS-1006 A 聖少女 ゆう・ゆたか 森田公一
B 終わった恋の色は

パイシス名義

シングル

発売日 規格 規格品番 タイトル 作詞 作曲 編曲
東芝EMI/アルファ&アシシエイツ
1975年3月5日 EP ETP-20105 A 悲しみのティ・パーティ なかにし礼 有馬すすむ
B アニマ・ミア
1976年4月 EP ETP-20254 A 恋人と来ないで 荒井由実 松任谷正隆
B 陽だまり なかにし礼 村井邦彦 有馬すすむ

オムニバス

サウンドトラック・アルバム

発売日 規格 規格品番 タイトル
RCAビクター
1969年12月 LP SRA-5168 HAIR<日本版オリジナルキャスト盤>
1999年9月22日 CD BVCK-38043
東宝レコード
1971年 LP BR-1001 愛ふたたび

脚注

  1. ^ a b c d e f g h <飛鳥新社刊 ポール岡田著「HAIR1969 輝きの瞬間」著者略歴 P222~ 参照>
  2. ^ 徳間書店刊 黒沢進著「GS図鑑」カーナビーツの項 P78~ 参照>
  3. ^ <飛鳥新社刊 ポール岡田著「HAIR1969 輝きの瞬間」参照>